2010年8月31日火曜日

●おんつぼ33 真心ブラザーズ 山田露結


おんつぼ33
真心ブラザーズ

山田露結


おんつ ぼ=音楽のツボ





「オマエ、就職どうするんだ?」

「就職はしないよ。バンド組んで、メジャーデビューしたいんだ。」

「バカモンっ!何考えとるかっ!」

1980年代後半から90年代にかけて、若者達の間で起こった一大バンドブーム
新宿、渋谷、下北沢...、どこのライブハウスも熱狂に満ち、原宿のホコ天では毎週毎週おびただしい数のアマチュアバンドが競って演奏していた。
テレビの人気番組「いかすバンド天国」(通称イカ天) からは続々と人気バンドが生まれ、昨日まで無名だったバンドが次々とスターになって、華々しい活躍をしていた。

東京で学生生活を送っていたギター少年山田くんもまた、自分のバンドで人気者になることを夢見ている一人だった。

しかし、いくらブームとはいえ誰でも手軽に人気者になれるはずはない。
山田くんのバンドは新宿と下北沢にあるライブハウスに定期的に出演していたが、人気バンドどころか毎月のチケットのノルマ分を捌くのがやっとでメジャーデビューなど夢のまた夢だった。

それでも山田くんは自分達のバンドが一番だというまったく根拠のないプライドだけは持っていた。

「イカ天に出るのってさあ、なんかダサいよね。」

「うん、ちょっと違うよね。」

バンド仲間とそんな風に話しながらイキがっているつもりでいた山田くんだったが、内心はただ怖かっただけだった。番組に出演したらきっと審査員からボロクソに言われる。そして、自分には才能も実力もないということを思い知らされるんじゃないだろうか。そんなこを考えると、とても番組に出演してみようという気にはなれなかったのである。

そんなとき、いわゆる一連のバンドブームの流れとは少し違うところから登場した二人組がいた。
「真心ブラザーズ」である。

「真心ブラザーズ」はフジテレビの「パラダイスGoGo!!」 というバラエティ番組の「勝ち抜きフォーク合戦」というコーナーで勝ち抜いたことがきっかけでデビューしたフォーク・デュオである。
彼らの登場を見て、バンド活動がいまいちパッとしなかった山田くんはピンときた。

「この手があったか。フォークなら手軽だし、遊びで出てみようかな。そんでうまくすればデビューの話なんか来たりして。そしたら、第二の真心ブラザーズだ。ひひひっ。」

軽薄というか身軽というか、山田くんはすぐに友人の吉田くんを誘ってフォーク・ユニットを結成し、番組出演のオーディションを受けることになった。
ユニット名はズバリ、「吉田と山田」。

しかしながら、現実はそう甘くはない。
一応、オーディションは通過し、番組一週目では何とかチャンピオンと引き分けたものの、二週目であえなく敗退。

「なかなか難しいもんだなぁ、おい。」

相方の吉田くんにそう言うと、彼は山田くんの選曲に敗因があると言い出した。
もっといい曲があるのに、妙に身構えすぎて凝った曲を選んだのがいけなかったと山田くんを責めたのである。

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。もう終わったんだから。」

ほんの遊びのつもりではじめたフォーク・ユニットなのに何だか二人の関係は妙にギクシャクしたものになってしまった。その後、「吉田と山田」は二度と活動することはなかった。
それどころか、山田くんがバンドに戻ると勝手に別ユニットを作ってテレビのオーディション番組にに出たことをバンドのメンバーにとがめられ、バンド内の雰囲気までギクシャクし始めてしまったのである。
やがて、バンドは自然消滅。
山田くんの軽薄な行動は山田くんから音楽活動そのものを奪うことになってしまったのであった。

 

さて、そんな学生時代から二十年あまり。
「就職はしない」と親に噛み付いていた山田くんも家業を継ぐために田舎へ帰り、結婚し、今では二人の子供のお父さんである。
一方、フォーク・ユニットの相方の吉田くんはというと大学卒業後「ドミンゴス」 というバンドを結成して吉田一休の芸名でメジャーデビューを果たし、今も音楽活動を続けている。

山田くんが大学を卒業してしばらくしてからのこと、ある日コンビニで流れていたある曲にふと耳を傾けていた。

♪ああ あの頃のぼくより~ 今のほうがずっと若いさ~

ボブ・ディランの名曲「My Back Page」を真心ブラザースが日本語で歌っていたのだった。
山田くんにっとって、真心ブラザースは手が届きそうに思えて、しかし決して手の届くことのなかった遠い存在。

♪白か黒しかこの世にはないと思っていたよ~
 誰よりも早くいい席でいい景色がみたかったんだ~

ストレートな歌詞が山田くんの心をグッと捉えた。
音楽に夢中だったあの頃への複雑な思いがよみがえってきたのである。


  秋麗やエレキギターを草に置き 露結


いつしか大人になってしまった山田くんだが、今も時々この曲を聴きながら当時を思い出すことがある。
それは、山田くんにとっていつでも青春の頃の甘酸っぱい気持ちに戻ることの出来る大切なひとときなのである。


「あの頃」度      ★★★★★
青春のバカヤロー度   ★★★★★


オススメアルバム



2010年8月30日月曜日

●太陽

太陽



太陽はいつもまんまる秋暑し  三橋敏雄

2010年8月29日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔32〕踊

ホトトギス雑詠選抄〔32〕
秋の部(八月)

猫髭


づかづかと来て踊子にさゝやける 新潟 高野素十 昭和11年
(「づかづか」は繰り返しの「くの字点」表記)

俳句を始めた頃に初めてこの句を読んだとき、これは海外のレヴューで踊っている踊子の一人に、観客席から男が傍若無人にもいきなり舞台に上がって割り込み、何事か腕を取って耳打ちする、フランスのフィルム・ノワールの一シーンのような緊迫したイメージを持った。

連想したのは、1954年のフランス映画「フレンチ・カンカン」のジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールのコンビと(言わずと知れた哀愁を極める「ヘッド・ライト」のコンビである)、1960年のアメリカ映画「カンカン」のフランク・シナトラとシャーリー・マクレーンのコンビ(シナトラが劇中で歌う「It’s all right with me」のバラードはシナトラの最高傑作であると共にバラードの白眉)だった。黒澤明の『野良犬』の木村功と淡路恵子のコンビのイメージもあったかもしれない。

ずっと、そう思い込んでいた。

ところが、清水哲男の「増殖する俳句歳時記」の鑑賞を読んで驚いた。
俳句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。 女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)(註1)
しかし、どう考えても、掲出句は盆踊りの景とは合点が行かなかった。非常にバタ臭い句に思えたからだ。だが、『ホトトギス雑詠選集』には「新潟」と投句地が載っていたので、新潟の盆踊りを詠んだ句かという事実は動かしがたかった。

ところが、昭和58年の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)の机上版を見たら、山本健吉の解説に掲出句に触れて、
素十は、ヨーロッパ留学中の作品だから、盆踊であるはずはないが、句中に踊子の季語があり、擬制としての有季俳句と取り、盆踊の一情景と見なすことが許される。
と、またまた驚くことが書いてあった。「擬制としての有季俳句」というものがあったとは。

で、『素十全集 第一巻 俳句編』(明治書院)を見ると、昭和11年10月にホトトギス雑詠入選句としてこの句が載っているが、前詞はなく、「ヨーロッパ留学中の作品」とはわからない。本人が明かさなければ句の出自はわからない。多分、俳人協会からは『自註現代俳句シリーズ』が二百冊以上出ているし、『自選自解句集』というのも白凰社から出ているから、これらのどこかで作者が自解しているのだろう。わたくしは自句自解は自句自壊であると思うので、これ以上出自には立ち入らないが、おそらく掲出句は社交ダンスの場面だろう。ダンスのパートナーを素十は「踊子」と詠み替えたという気がする。その意味での「擬制としての海外咏俳句」というならわかる気がする。

だが、「づかづかと来て」という措辞には、やはり「盆踊」は似合わない。盆踊は普通は浴衣を着て下駄か草履か踊足袋で踊るものである。「づかづかと来て」には靴の響きがある。



(註1)『増殖する俳句歳時記』1999年8月14日掲載。

写真 前1点:猫髭/後2点:田村行穂 高円寺東京阿波おどり 2010年8月28日

2010年8月28日土曜日

●主体は変容するのか 2/2 橋本直

主体は変容するのか 2/2

橋本 直

ところで以前、高柳克弘さんも週ハイで触れていた(→参照)けれども、文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。つまり、いままでなんとなく指導書通りにすましたり、時間数がきつくなってささっととばすこともあったような俳句の授業を、読むだけでなく作る教科としてとりあげないわけにはいかなくなろうとしている。

ちょっと大上段な物言いの仕方になるのだが、学校社会において教員は、生徒にとって絶大な権限を持つし、生徒のためのあらゆるお手本を示せる立派な大人の代表(よき統率者)としてちゃんとつとめなければならないものだ。教科ならば何を問われても頭の中に正解があって、見解をだせることが日々要求される。しかし、俳句はそれがなかなか困難な表現分野であるだろう。

今回の俳句甲子園ムックに紹介されている優れた指導者達はかなり例外の側で、多くの国語教師は詠み方も読み方も確固たる自信を持って提示することができないと推定する(そのふりはできるだろうが)。もちろん指導書通りにやるのなら何も難しくはないし、作句そのものは五七五にするだけならお手軽ではあるので授業で詠ませることはできるだろう。が、新しく生まれたその作品群の「正しい」評価のモノサシはどこにあるだろう?今、ほとんどの場合教員自身の判断はなされないまま大量の「俳句」が伊藤園や神奈川大などの学生俳句賞に投稿されているのが現状であろう。しかし、教員が判断を丸投げするなどということは、制度にそれをとりこむ立場からすれば、あってはならないことだ。石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。歴史的に「国文学」と「国語」はそのような経緯をもつしろものだったりするけれども、その中にあって俳句は、これまで例外的な位相にあったと思う。モノサシがないゆえに。

俳句甲子園が俳句にディベートの形式をもちこみ、詠み方/読み方を提示していくことや、その出身者が大活躍して詠み方/読み方を自信を持って書いていくことは、実は当の本人達には無関係に、世の教員や文科省にとっては非常なる福音なのである。それをふまえた俳句のディベート法とか読み方の本が今後企画されるかもしれない。先の関氏の時評を併せて考えてみると、結果的にそれはまさに権力側の引いた補助線の上でその意図にかなう動きが展開しているという視点が提示される。善悪の判断はその主体に任されないままに状況はどんどん俳人の外で動いている、とでもいえようか。

冒頭の話にもどる。俳句甲子園が今ほど世に知られてなかった頃、あれは松山のある商店会が中心になって立ち上げたもので、地元の俳人は基本的に非協力的だったと噂に聞いたことがあった。今回商売の神様を祀った神社に句碑が建ったというのは、そういう中で長く頑張って盛り上げてきたけれども自分たちは何か遺すわけでもない商人たちの、裏方としての「生きた証」としての象徴的交換価値としてではないだろうか。

これは「新しくて古い」作家と「パトロン」とサロンの関係の話とも考えられる。俳句実作に関わらない商人から見れば今も俳句は一種の「芸」ということ。そうだとすればこの立場からみれば明治の宗匠俳諧と平成の俳句甲子園はある種イーブンである。明治の宗匠俳諧のころは大旦那がいて、さまざまな芸達者が周りに集まった例があるが、もはやかつてのような趣味人の「大旦那」は出てこないだろう。今はどのような価値が俳句に求められているのか。今回の句碑建立が悪趣味としても、それ以上の交換価値のあるものを俳句の主体にいる者が外に対して生み出してこなかったのは、果たしていけないことなのか、素敵なことなのか。

(了)

2010年8月27日金曜日

●主体は変容するのか 1/2 橋本直

主体は変容するのか 1/2

橋本 直


俳句甲子園の句碑ができたそうで。 →参照

なんというか、終わりの始まり?神社仏閣にある碑といえばだいたい戦没者慰霊碑とか歌碑句碑の類であるが、前者は文字通り流された血の浄化のためでわかりやすい。後者は調べると本当に色々経緯があって、場合によってはちょっとあやしいものもある。件の場合はどうなんだろうかと思いつつ俳句甲子園ググっていたら、実行委員長が地元の同期と同姓同名だ。あれ、本人かもしれん。世間は狭い。

それはそうと、「俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園」(角川学芸出版)も出た。こういう本を出すことをどうこういう立場にはないが、このやり方をするのなら、まだまだ俳句甲子園を良く知らないであろう多くの読者層を考慮し、岩波新書『琵琶法師―〈異界〉を語る人びと」みたいにミニDVDとかで実際の映像つけて出すべきだったと思うのだがどうだろうか。傍目で見ていて、俳句甲子園には活字では絶対に伝わらない熱さがあると感じるのだが。

俳句甲子園については、先の句碑もそうだが、大人の思惑や反応はいろいろあるもよう。が、そのいろいろはあるにせよ、平成の俳句史において良い俳人を生み出したことはもはや動かないと信じたい。ただ、世の認識がそうなったときにできあがる序列階層化を、元祖の甲子園のように時折は意外性が打ち消して行けるかどうか。そしてかの本に載ることのなかった無名の高校生たちがもつ負け組意識を、まったくかえりみないで勝ち残った優れた若者やイベントの成功にのみ飛びついてわあわあはしゃいでいるだけの大人がいるのなら、状況として相当に気持ちが悪い。教育の一環として参加する高校生がそれ故に真剣に取り組むことになった俳句でリアルにおちこぼれ意識を持つのみで終わるのってまことに卦体な話である。これを少し考えてみたい。

ここのところ週ハイでも俳句甲子園に関わる記事がでている。

山口優夢さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

関悦史さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/6-21.html

俳句甲子園特集
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/174-2010822.html

山口氏のはきれいに纏めすぎで、学問的にはだいたい自己神話化を疑われる体のものだが、非常に貴重で面白い証言である。関氏の時評はさすがの切れ味。最後のはいろいろバラエティに富む内容。

さて、関氏が例の角川のムックの夏井いつき氏の記事を引用し「俳句甲子園というプラットフォームの設計がうまく行ったからこそ参加者はそれを楽しみ、イベントが公共性を持つことにもなり得たのだ。権力といえば即ち悪と発想が短絡しかねないのだが権力装置自体は科学技術と同じで使いようによるという面もあるのかもしれない。」と書かれている部分と、先の記事で山口氏が如何に「俳人」になっていったのかをあわせて読むと、なかなか味わい深い。

例によって、この手の権力装置の問題は、フーコーのパノプティコンを引用しいろいろ論じられるが、俳句甲子園と高校生の間をつなぐ学校教育の諸制度内部にももちろんこれと同様の問題は指摘できるのであり、俳句甲子園に参加する「高校生」をひとくくりにしてできあがった一作家の習作期レベルのようにあつかって、物語(神話)化した語りの視点で見てはいけないだろう。例えば振る舞いとしてプラットフォームの内部にいることを楽しみはじめたものの、はみ出た/出された者は、ゲーム会場から退場するしかないのか。あるいは、その周縁に潜み権力の反転の機会を伺うことになる運命なのか。

立ち読みですませてしまった(関係者の方ごめんなさい)ので、関氏の記事中引用された夏井いつき氏の記事そのものは読んでいないから、どのくらい書いてあるのかしらないけれども、夏井氏は俳句甲子園のはるか以前にそのころ流行っていた「詩のボクシング」をまねて学校で俳句の実践授業を行っており(『夏井いつきの俳句の授業・子供たちはいかにして俳句と出会ったか』参照)、夏井氏のこの実践のフィードバックが今の俳句甲子園に行き着いたものと私は理解している。俳句甲子園の胎動が氏が俳句で食う決意を持って教職を離れたことと、もともと授業の方法の模索の中からはじまったことは気にしておく必要があるだろう。

(明日につづく)

2010年8月26日木曜日

●残暑

残暑

草の戸の残暑といふもきのふけふ  高浜虚子

芋の葉の大きく裂けし残暑かな  細川加賀

肉食うてなにを耐へゐる残暑かな  橋本榮治

口紅の玉虫いろに残暑かな  飯田蛇笏

大阪の水の上なる残暑かな  小川軽舟


2010年8月25日水曜日

●熊本電停めぐり02 県立体育館前 中山宙虫

熊本電停めぐり 第2回 県立体育館前

中山宙虫


3号線を上熊本駅前~健軍町へ移動中。
今回は、2番目の電停「県立体育館前」

8月20日(金)


18時。
電車は、上熊本駅前の電車基地を始発として出発すると、そのまま、道路へ出ていく。
道路中央を走るおなじみの路面電車となる。
この電停は、県立体育館が移転オープンするときにあわせて設置されたもので、もともとはこの路線にはなかったもの。
「上熊本駅前」と次の「本妙寺前」との間に設置されたため、お互いの電停との距離が異常に短い。
この3号線は、1時間に4本程度走っている。
つまり、電車が行ってしまうと20分程度は待たないと次の電車は来ない。
一緒に電停に立っていたおじさんが迷っている。
そんな時間があるんなら、次まで歩いてもいいな。
歩くなら、電停三つでも四つでも先に行ける。
でも、先に歩いて行っても乗る電車は同じ電車。
しかも、料金は同じ150円。
おじさんは、結局、ここで電車を待った。
さて、周辺を見てみる。
「県立体育館」。
電停の目の前にはない。
スパーマーケットの裏にもうひとつ大通りがあって、それを渡った先にある。
しかたないので、反対側を見てみる。
写真に撮ってみる。
また逆光になってしまう。
「熊本製粉」の工場がどんと建っている。
随分きれいな工場になった。
そして、その工場の前に高架の線路が建設された。
ここを九州新幹線が走る。
来春だ。

そんなことを考えながら、あることに気付いた。
日暮が早くなった。
仕事帰りに電停をめぐっていくつもりだが。
これからどんどん暗くなってくる。
写真が撮れるだろうか。
迷っていたら、電車がやってきた。
帰らなきゃならない。






番外編。


夏の間、週末に走る「ビアガー電」。
その名のとおり市電がビアガーデンになって、飲み客を乗せて走る。
この日も満杯の客を乗せて走っていた。

次の電停は「本妙寺前」。

2010年8月24日火曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕芭蕉・下

ホトトギス雑詠選抄〔31〕
秋の部(八月)芭蕉・下

猫髭 (文・写真)


川端茅舎には、茅舎の「如」と言われる比喩の修辞法がある。

比喩は古来より詩の主要な修辞法であり、『万葉集』の歌の分類にも雑歌・相聞歌・挽歌の他に譬喩歌があり、本意を歌の表面に表さず、物に託して述べた歌のことだが、これは中国の『詩経』の「比」に倣ったものだ。例えば、巻七の「草に寄する」の中の一首(1352)、

わが情(こころ)ゆたにたゆたに浮ぬなは辺(へ)にも沖にも依りかつましじ

は、ゆらゆらと岸辺と沖の間をどちらにも寄らずたゆたう蓴菜(じゅんさい)に、ままにならない揺れる恋心を託している。「浮ぬなは」の直喩がずば抜けている詠み人知らずの名歌と言える。

芭蕉の時代になっても『去来抄』の二十五節「いひおほせて何かある」には、当時の漢詩作法書『詩法俚諺抄』の「景情かねたる詩はただ含蓄不尽の体を好めり。含蓄とは外の句はすらりと聞こゆれども、内の情は多く籠るを云ふ。不尽とは言(こと)はよみて尽れども、余情はなを尽ぬを云ふ」を踏まえているから、直喩(シミリー)ばかりではなく、暗喩(メタファ)、諷喩(アレゴリー)、声喩(オノマトペ)、活喩(パーソニフィケーション)はじめ、擬態語(ミメティック)などの修辞法が発達した。

茅舎は、この比喩の修辞法が際立つ俳人と言われる。特に、掲出句の「舷のごとくに濡れし」という「ごとく」の直喩の卓抜さで知られる。わたくしが茅舎の比喩に目を澄ませる切っ掛けになったのは、野見山朱鳥の『忘れ得ぬ俳句』に、「螢火に象牙の如き杭ぜかな」を引いたあとで、「ここではじめて茅舎の「如」を知ることになった」と書いてあったからで、あらためて茅舎の「如」を見てみると、確かに多く、枚挙に暇が無いほどだ。

茅舎は中学生の時から句作を初め、大正4年に19歳で「ホトトギス」に初入選、大正13年11月号の「ホトトギス」で巻頭句を得る。

しぐるゝや僧も嗜む実母散

が初期秀句としてアンソロジーに残るが、この巻頭6句の内の2句が既にして「如」句である。

閻王や菎蒻(こんにゃく)そなふ山のごと

侍者恵信糞土の如く昼寝たり

「実母散(じつぼさん)」とは江戸中期の随筆『耳嚢(みみぶくろ)』にも出て来る悪阻などに効く婦人薬なので、冷え性の坊さんかという可笑しさがあるように、閻魔と蒟蒻の山の対比、仏に侍る侍者恵信の昼寝の樣を糞土に見立てる諧謔(「囀や拳固くひたき侍者恵信」という句もある)は、病弱で知られる茅舎の句柄とも思えないが、体調を崩すのは昭和3年頃からというから、当時は俳句に絵に精勤していた頃である。

直喩の茅舎句で、わたくしが好きな句を挙げると、

一枚の餅のごとくに雪残る 昭和6年

生身魂ちゝはゝいますごときかな 「ホトトギス」昭和8年9月巻頭句

良寛の手鞠の如く鶲(ひたき)来し

などだが、直喩ばかりではなく、暗喩も優れていて、例えば、

滝行者蓑のごとくに打ち震ひ

という直喩の句は、

滝打つて行者三面六臂なす 「ホトトギス」昭和11年1月巻頭句

と、暗喩で三つの顔と六つの腕を持つ興福寺の阿修羅雑のような行者のイメージを詠んだ句の方が、滝行者の印象は清冽である。

暗喩と言えば、茅舎の最も有名な暗喩の句には、

金剛の露ひとつぶや石の上 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

がある。儚いものの譬えの「露」を仏教用語である「金剛」(梵Vajraの訳。最剛、堅固の意)をメタファとする真逆の暗喩は強烈である。

また、直喩や暗喩ばかりではなく、

暖かや飴の中から桃太郎 「ホトトギス」昭和4年8月号巻頭句

と、諷喩で遠い昔の早春の日差しを引き寄せる柔かな詠みぶりも茅舎の特徴で、このしなやかさは、

明日は花立てますよ寒月の父よ

という諷喩と暗喩をないまぜにしたような独特の茅舎浄土の世界を形作ってゆく。

擬態語も、

ひらひらと月光降りぬ貝割菜 (註1)

など、貝割菜の小さな葉が見えるような見事な擬態語である。

一連の露りんりんと糸芒 (註2) 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

の「りんりん」という擬態語も、茅舎の句はまさしく「りんりんと」した姿で立っていると思わせる。

こうして見ると、茅舎の句は、豊饒な喩の世界に打ち立てられた浄土のように思えて来る。比喩の修辞法は、説明になりがちなところを比喩の飛躍によって新しいイメージにスパークさせるので、詩には欠かせないが、詩は構造的に「虚」の言葉なので俳句の「実」に根ざす構造とは根本的に異なるため、比喩に頼り過ぎる、一行詩になってしまうし、また比喩のイメージが陳腐だと月並句になってしまう。殊に活喩(擬人化がメイン)は成功が難しい修辞法とされ、初心の内は「写生」に徹することを教えられる。わたくしもそう「きっこのハイヒール」で横山希美子さんに教わった。確かに、

やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房 平成2年(『瀬頭』)

といった見事な直喩と活蝓の修辞法は誰にでも詠めるものではない。では、茅舎が初めからこれほど比喩を多用して優れているのは、なぜなのか。天才だから、と言えば身も蓋も無いが、比喩の対象が擬人法ではなく、物であることが具体的な印象を鮮明にさせていたのではないかと思われる。

一枚の餅のごとくに雪残る

などは実にシンプルに早春に残る雪を表している。

雪国の雪もちよぼちよぼ残りけり 小林一茶

という見渡すような江戸俳諧の諧謔味溢れる一句とはまた違うシャープな単純化が茅舎の魅力だが、「虚」から「実」に還る俳句の構造を見事に活かした、

良寛の手鞠の如く鶲来し

になると、実に自由闊達な茅舎の「如」句の世界だと言える。

やがて、病篤くなり、

咳き込めば我火の玉のごとくなり

龍の如く咳飛び去りて我悲し

と茅舎の「如」句は死に添うようになり、昭和16年8月号の「ホトトギス」巻頭三句の絶唱が現われる。茅舎はその年の7月17日に亡くなっているから、その号を見られたかどうか。

父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり

朴の花眺めて名菓淡雪たり

朴散華即ちしれぬ行方かな

翌、9月号の巻頭三句もまた茅舎だった。これが生前最後の投句となった。

洞然と雷聞きて未だ生きて

夏痩せて腕は鉄棒より重し

石枕してわれ蝉か泣き時雨

投句者の署名には「故川端茅舎」とある。


註1:「ひらひら」は繰り返しの「くの字点」表記。
註2:「りんりん」は繰り返しの「くの字点」表記。

2010年8月23日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕芭蕉・上

ホトトギス雑詠選抄〔31〕
秋の部(八月)芭蕉・上

猫髭 (文・写真)


(ふなべり)のごとくに濡れし芭蕉かな 川端茅舎 昭和7年

川端茅舎は昭和9年の『川端茅舎句集』の冒頭を、

金剛の露ひとつぶや石の上 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

を含む露の句26句を冒頭に飾ったので「露の茅舎」と呼ばれた。昭和16年と昭和37年の「ホトトギス雑詠選集」を通して、「露」では最終的に14句が選ばれているから断トツと言える。

ちなみに、掲出句の「芭蕉」の句でも有名で、7句選ばれている。他の6句は以下の通り。

ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな 「ホトトギス」昭和5年11月巻頭句

水霜にまつたき芭蕉広葉かな 「ホトトギス」昭和6年1月巻頭句

明暗を重ねて月の芭蕉かな 昭和7年

芭蕉葉や破船のごとく草の中 昭和9年

芭蕉葉に夕稲妻の火色かな 昭和11年

月光の露打のべし芭蕉かな 昭和12年

「芭蕉葉に夕稲妻の火色かな」は、波多野爽波抜萃「ホトトギス雑詠選集」中「八月の句」20句の一句である。

掲出句以外の「芭蕉」が出て来る句を『ホトトギス巻頭句集』(小学館)から選べば、

土砂降に一枚飛びし芭蕉かな 昭和6年1月

一張羅破れそめたる芭蕉かな 同上

破芭蕉猶数行をのこしけり 同上

老鶯の谺明るし芭蕉かげ 昭和9年10月

銀翼も芭蕉も露に輝きぬ 昭和14年11月

がある。虚子編『新歳時記』の「芭蕉巻葉」には、

真白な風に玉解く芭蕉かな

があり、稲畑汀子編著『ホトトギス 虚子と一〇〇人の名句集』(三省堂)には、

玉解いて芭蕉は天下たひらかに

を収める。「芭蕉の茅舎」と呼んでもいい詠みっぷりではある。

野見山朱鳥は『続忘れ得ぬ俳句』(朝日選書342)で、茅舎の「菜殻火(ながらび)」の句、

燎原の火か筑紫野の菜殻火か 「ホトトギス」昭和14年9月号巻頭句

筑紫野の菜殻の聖火見に来たり 同上

菜殻火は観世音寺を焼かざるや 同上

都府楼址菜殻焼く灰降ることよ 同上

を引いたあと、
茅舎以前にも菜殻火を詠った人たちはいたがその多くは景を詠ったに過ぎなかったのに、茅舎によってその荘厳な火の祭典のような感じのものが詠われたので、真の菜殻火の句は茅舎によって始まったと言ってよく、私の俳誌「菜殻火」もこれによって生れたものである。
と述べているから、「露の茅舎」「芭蕉の茅舎」「菜殻火の茅舎」というように、いや「土筆」を詠ませたら茅舎の右に出る者はいないとか、

約束の寒の土筆を煮て下さい 昭和16年

いや「河骨」を詠ませたら茅舎の右に出る者はいないとか、

河骨の金鈴ふるふ流れかな 「ホトトギス」昭和10年7月号巻頭句

いや、「月光」の茅舎だろうとか、

ひらひらと月光降りぬ貝割菜

枯木立月光棒のごときかな

いや、甘い物を詠ませたら、これがまたお茶が恐くなるとか、

暖かや飴の中から桃太郎 「ホトトギス」昭和4年8月号巻頭句

麗かや砂糖を掬くふ散蓮華 同上

春宵や光り輝く菓子の塔 同上

いや何と言っても「朴の花」の絶唱に止めを刺すとか、

朴散華(ほほさんげ)即ちしれぬ行方かな 「ホトトギス」昭和16年8月号巻頭句

茅舎浄土に立ち現れる数々の秀句が挙がり、昭和14年の茅舎の句集『華厳』の虚子のたった一行の序「花鳥諷詠真骨頂漢」が思い出されるである。

茅舎は、松本たかしと並んで、4S以後の「ホトトギス」の代表的な俳人として、昭和9年に創刊された改造社の「俳句研究」でも活躍したので、肺患のため昭和16年7月17日、44歳で亡くなると、多くの俳人から悼まれた。『俳句技法入門』(飯塚書店)には「挨拶句の作り方」の項目に、川端茅舎の追悼句の例句が挙げられているほどである。

元寂すといふ言葉あり朴散華 高浜虚子
正午の露消え行進曲鳴り響く 中村草田男
寂光の葎(むぐら)にかへる夏露一顆 加藤楸邨
蟹二つ食うて茅舎を哭しけり 松本たかし

虚子の句は茅舎の「朴散華」の句を踏まえている。「元寂(げんじゃく)」とは大きな死を意味する仏教用語と思われる。草田男と楸邨の句は、「露の茅舎」と戒名の「青露院」にちなみ、楸邨は更に茅舎の句、

ぜんまいののの字ばかりの寂光土

露の玉百千万も葎かな 「ホトトギス」昭和5年11月号巻頭句

を踏まえている。たかしの句は、茅舎の訃音が大森の旗亭で会食の席上到ったためである。

(つづく)

2010年8月22日日曜日

●御寄稿ください「森澄雄の一句」

御寄稿ください「森澄雄の一句」

俳人の森澄雄さん死去 91歳
朝日新聞 2010年8月18日‎
http://www.asahi.com/obituaries/update/0818/TKY201008180138.html

週刊俳句(本誌)では、8月29日号に、森澄雄・追悼として一句鑑賞の特集を組みます。
森澄雄の一句を取り上げ、鑑賞をしてください。

●締切:8月28日(土)正午
●入稿先
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/04/blog-post_6811.html
●長短はご随意。
●週刊俳句に初めて御寄稿の方は、簡単なプロフィールを添えてください。
●署名はハンドルネーム等を避け、いわゆるリアルの俳句活動のお名前(俳号)でお願いいたします。
●蛇足ですが、掲句の引用は字句に間違いなきようご注意ください。

2010年8月21日土曜日

●アサネサカバ 中嶋憲武

アサネサカバ 中嶋憲武


16日、盆休み最終日。

8時起床。「ゲゲゲの女房」観る。向井理のアフリカかぶれの演出、ちょっこし引く。

昼頃まで高校野球観て、のっそつとする。

小島町のジョナサンズで昼食。

夕方まで高校野球観て、のっそつとする。

夕方になったので、歩いて鈴本演芸場へ行く。納涼名演会 鈴本夏まつりと銘打って、権太楼とさん喬の交代主任。今夜は権太楼の主任。

番組は、

落語  柳家喬之助
曲独楽 三増紋之助
落語  入船亭扇遊
漫才  ロケット団
落語  柳家甚語楼
落語  柳家喬太郎
音曲  柳家紫文
落語  橘家文左衛門
太神楽曲芸 仙三郎社中
落語  柳家さん喬
紙切り 林家正楽
落語  柳家権太楼

てえラインナップ。大笑いさせてもらったのは、ロケット団と柳家喬太郎。

紙切りの正楽さんの時、スイカ割りとか夏休みとかいろいろなリクエストの声が飛ぶ中、「アサネサカバ」と叫んだご婦人がいて、正楽さんこれに向かって耳を澄ますも、無視して「スイカ割り」に応えて紙切り。二回目のリクエストで、最前のご婦人がまたもや「アサネサカバ」とリクエスト。正楽さん、「何です?」と問うと、「朝寝酒場です。日暮里にあるんです」との返答に場内爆笑。正楽さん、「知らないんですよねえ」と言いながら切り始める。体をぐるぐる回しながら、「日暮里にあるんです」と言う。場内爆笑。知らないんですよねえと言いながら、出来上がった作品はテーブルを囲む二人の酔った紳士、テーブルの上にはお銚子が何本か。左手からお銚子を運んで来る和服の女性という構図。場内大喝采。

さん喬さんの「こわいろや」、権太楼の「唐茄子屋政談」に爆笑しつつ、ほろりとさせられる。ほろりとしながら、帰路へ。

落語、一回行くとまた行きたくなるんすよね。

2010年8月20日金曜日

〔link〕おっぱい

〔link〕おっぱい

≫〔討議〕ある夜のおっぱいとそのまわり

おっぱい句投句祭り 2010年8月16日:遡行(下が過去)


裸男の子おっぱいぽつちりしゃぼん吹く  古沢太穂 ≫citation

おっぱいがいっぱい地下鉄に蝿が飛び  笠井亞子(※)

人類の旬の土偶のおっぱいよ  池田澄子


俳句例句データベース

(※)『東京猫柳』(西田書店2008年4月)所収

2010年8月19日木曜日

●熊本電停めぐり01 上熊本駅前 中山宙虫

熊本電停めぐり 第1回 上熊本駅前

中山宙虫


今回は、3号線の始発となっている「上熊本駅前」。
JR鹿児島本線と熊本電鉄北熊本線への乗り換え。
なお、電車は全線一律150円。



2010年8月16日。
午後6時。
今年の暑さはたまらない。
いつまで経っても気温がさがらず辟易としている毎日。
通勤の帰りに少し足をのばして、熊本の市電の電停をすべてめぐろうと思い立った。
ただ、これがまた。
電停はほんとに近い。
目と鼻の先に次の電停がある。
それはわかっているが。
何か電停の目の前にあるものを探してみよう。
首にタオルを巻いて、汗をふきながら。
上熊本駅前までやってきた。


九州新幹線の開通が来春。
駅の高架などで、日々様変わりしている。
ひょっとしてこの企画を続けていて。
紹介した翌月にはまた全然違う景色が展開しているかもしれない。
そういえば、電停の名前もわかりやすい変えようと交通局では考えているようだ。
その後はそうなったときに考えよう。
この電停は、交通局の電車基地。

その前の道路は「わが輩通り」と名付けられていて、夏目漱石のゆかりの地の案内板がたくさんある。
そのひとつがこの黄金の案内板。
記念撮影になってしまった。
そしてその「わが輩通り」を挟んで地蔵と夏目漱石の銅像「若き日の・・・」とある。



逆光の時間だ。
夏目漱石は、いったい何年熊本にいたのだろうか?
あちこちに旧居がある。
調べて記事にする余裕はない。
若者数人がどうやら漱石ゆかりの地を巡っているようだ。
時間がないから銅像だけ見ていこう。
などと言いながら「わが輩通り」を横断した。
こちらは帰宅する。
市電に乗り込んだ。

2010年8月18日水曜日

●あれを好く コミケ想望句群 藤幹子

あれを好く コミケ想望句群  藤幹子


私とコミックマーケット

1991年夏、13歳。同好の士二人と満を持して参加。
(すでにこの頃、同人誌を通信販売で手に入れるなどは
マスター済みだった)

その後、夏・冬のコミックマーケットほぼ参加。
それ以外の小中規模の即売会にも足を運ぶ。(~1995年頃まで)

しばしの休眠期

1997年、19歳。中学生時代の友人に10代最後の思い出に
コスプレに誘われる。
冬、参加。
一回で止めるはずがその後二回、夏・冬のコスプレ参加。
(無論同人誌も買った)
高校時代の友人が新撰組コスプレしているのに遭遇したり、
中学時代の別の友人が立派に同人誌作家になっているのを発見して
コスプレで襲撃したりする。
類は友を呼ぶを体現。

1999年、21才。就職。あまりの忙しさにコスプレ、そしてコミケから遠ざかる。

2010年夏。最後にコミケに足を運んでから、12年が経った。



松本てふこ コミケに行ってきました


google画像検索画面より作成

2010年8月17日火曜日

●コミケに行ってきました 松本てふこ

コミケに行ってきました 松本てふこ


私とコミックマーケット

1995年夏、14歳。マンガ好きの同級生2人に連れられて初参加。
1997年冬、16歳。前述の同級生2人に高校の友人1人を加え、
ふたたび参加。
コスプレイヤーだった演劇部の先輩と会場で遭遇
(数人の参加者から握手攻めに遭っていた)。
「こんなところでなにやってるの!?」と言われる。
2004年夏~、仕事で参加。
主な目的は、挨拶など。
サークル参加の経験なし。


2010年8月16日月曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕二の腕

〔俳句に似たもの〕
二の腕

上田信治



「ゲゲゲの女房」というNHKの朝のドラマの、漫画家夫婦の貧しい新婚時代。夏の場面が多かったように思うのだが、主役の女優さんが、二の腕に、いつもうっすら汗をかいていらっしゃる。

ほんとうの汗なわけはないので、カットのたびに、女優担当のメイクさんが、しゅっしゅと霧吹きで水をかけていたのだろう。

しかし、そうと知りつつ、その二の腕の汗は、がっつりと私の心に「夏」にともなう記憶と感情を惹起し──ことほど左様に、人の心は、記号と感情がオートマティックに結びついた「パブロフの犬」のようなものだ、と知れるのだ。

2010年8月15日日曜日

●8.15

8.15

終戦日妻子入れむと風呂洗ふ  秋元不死男

八月十五日春画上半の映画ビラ  中村草田男

敗戦の前後の綺羅の米恋し  三橋敏雄

敗戦の國うるはしき尾花かな  佐藤春夫

八月十五日海老ふかぶかと腰をまげ  大木あまり

夜も干す敗戦の日の布一枚  宇多喜代子

敗戦記念日の蝙蝠のどれがどれやら  池田澄子

終戦忌頭が禿げてしまひけり  藤田湘子

2010年8月14日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】音と意味

【裏・真説温泉あんま芸者】
音と意味

さいばら天気



この美しい句、

  物干しに美しき知事垂れてをり  摂津幸彦

すでにみな了解済みの話なのか、私が言っているだけなのか、わからないが、また、前にもどこかで書いたと思うが、

  物干しに美しき生地垂れてをり

という元も子もない「見たまんま」から、音の類似を経て、意味が飛躍したパターンだと信じている。

この手法、使えそうだと安易に考え、ちょっと試してみたが、なかなか難しい。まずもって、「物干しに美しき生地垂れてをり」などといった、例えば山口東人さんばりの、すっとそのままのフレーズがなかなか出てこない(これには吟行がよさそう)。さらには、何に置き換えればサマになるかもむずかしい。生地→知事は、つくづく素晴らしい転換だと思う。攝津幸彦はやっぱりエクセレント。

それでも、あれこれ物色していると、

   卵抱く渚、兄に職なし兄走る  坪内稔典

これも、もとは

  卵抱く渚、に職なし走る

だったにちがいないと確信している次第。

2010年8月12日木曜日

●引力

引力

マンハッタン万有引力見え晩夏  下村まさる

引力の匂ひなるべし蓬原  正木ゆう子

引力のやさしき日なり犬ふぐり  下村志津子

2010年8月11日水曜日

●夜店

夜店

モナリザの大小を地に夜店の灯  殿村菟絲子

売られゆくうさぎ匂へる夜店かな  五所平之助

池に灯の映りて夜店らしくなる  岡本 眸

遡るやうに夜店の点りけり  小林苑を


画像

2010年8月10日火曜日

2010年8月9日月曜日

●西瓜

西瓜


から井戸は西瓜に逢ず月のみか  上島鬼貫

風呂敷の薄くて西瓜まんまるし  右城暮石

両断の西瓜たふるる東西に  日野草城

西瓜抱き産まざる乳房潰すなよ  鷹羽狩行

モンロー忌今日と知らずに西瓜食ふ  皆吉司

目隠しの中も眼つむる西瓜割  中原道夫

仏壇に西瓜一個は多すぎる  雪我狂流


2010年8月8日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕立秋・下

ホトトギス雑詠選抄〔30〕
秋の部(八月)立秋・下

猫髭 (文・写真)


大正3年に石鼎の風土記的な一句以外にも、いかにも「立秋」という句があるので、おまけにもう一句。これは説明の必要はあるまい。

洟かんで耳鼻相通ず今朝の秋 飯田蛇笏 大正3年

ところで、暦の上では今日八月七日(土)が「二十四節気」の「立秋」であるが、お天気の上では各地で真夏日(30℃以上)、猛暑日(35℃以上)、熱帯夜(25℃以上)が続く。この落差はどうしてだろう、というのがこれからする余談である。

こう暑いと、母が飼っている老犬も、早く秋風が吹かないものかとわたくしを見上げては舌を出してあえぐ。ロバート・A・ハインラインのSF小説『夏への扉』には、護民官ペトロニウス(ピート)という猫が出て来て、冬ではなく夏へつながるドアがあると信じているのだが、さすがにここまで高温多湿の夏は望むまい。我が家のチイちゃんは、さしずめ「秋への扉」を探していることになる。おまえは猛暑日でも毛皮着て我慢大会してるようなもんだからねえ。暑かっぺよ。

虚子の『新歳時記』の「立秋」の解説には「大概八月八日に当る。土用の後をうけてまだ中々暑いけれども、夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」といふ歌などはよくその心持を現してゐる。秋立つ秋来る今朝の秋今日の秋」とあるが、「夏も漸く衰へて」どころではない、盛夏も盛夏真っ盛り、我が家の前から入道雲もくもくの那珂湊で、阿字ヶ浦の海浜公園では16万人が押し寄せるロック・イン・ジャパン・フェス2010だぜ、イェイ!水戸市では水戸黄門祭50回記念パレードで由美かおりが山車に乗って30万人の人出に御座候。八朔祭(天満宮御祭禮)も今日が神幸祭、明日が還幸祭と、各町の風流物(元町の「でぼ弥勒」と六丁目の「獅子(ささら)」が見もの)や屋台が「好きなら好きとおっしゃいなあ」と芸者衆を乗せて練り歩き、一年で一番暑い日と言えるのが今年の「立秋」である。

この暦の上と実際のお天気上のずれは、旧暦と新暦のずれによるものではない。立春・立夏・立秋・立冬の「四立(しりゅう)」は、太陽暦によるもので新暦である。したがって、虚子の解説にも辞書にも立秋は旧暦とはどこにも書いていない。つまり、テレビのアナウンサーが「暦の上では今日から秋ですが」というのは、文字通り新暦の上ではという意味である。太陽が黄道と呼ばれる太陽の天球上の通り道のある太陽視黄経 135°を通過する日のことを言い、今年は23:49に通過する。で、なぜかくもずれるのかというと・・・。

かわうそ@暦さんの「こよみのページ」(註1)によれば、暦上と気候上のずれは、【暑さの衰えは最も暑い時期、つまり暑さの極まったときの直後から始まると考えることが出来る。「立秋」はこの最も暑い時期の直後にあって条件を満たしている。正に秋の始めと呼ぶにふさわしい。】と考えるに至ったのではないかということだ。春分・夏至・秋分・冬至の「二至二分」も、気候ではなく、あくまでも太陽の位置(日差しの強さ、昼の長さ)で求められたもので、その「二至二分」から導き出された「四立」もまた気候を示すものではなく、準天文学的に生み出された後で季節を示す印として利用されるようになった、という論は説得力がある。

もうひとつ、かわうそ@暦さんの季節とのずれの考察で面白いと思ったのは、「二十四節気が遠く中国の殷の時代(完成はもっと後)に黄河の中流域で生まれたものだということにその原因が求められる」という目の付け所である。氏は、殷の都の跡である殷墟にほど近い中国の太原市と東京・京都の月別平均気温を比較する(CD-ROM版理科年表から、1961-1990年の30年間のデータを使用)。
すると、「太原市の気温変化は、日本の東京・京都の気温変化より一月ほど早い方向にずれている」ことがわかる。「立春・立秋などをみても、日本ではその後に最も寒い、あるいは最も暑い時期が来るのでおかしな感じがします。一方、太原市の気温を見ると立春・立秋に先立って暖かくなり始めるあるいは、涼しくなり始めることが判る」。これならば、立秋の日に「夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。」と感じるのもむべなるかな。
二十四節気は中国古代に生まれました。そのころの文化の中心は現在の太原市が位置する黄河中流域でしたから、二十四節気の「節気の名称」にその地の気候が反映されたのは当然のことです。そしてそれが遠く離れ、気象条件の異なる日本に伝えられてきても、そのままの形で使い続けられているのですから、我々の感じる季節と二十四節気の間にずれがあるように感じられるのは仕方のないことでしょう。(「なぜずれる?二十四節気と季節感」より)。
という氏の見解はとても説得力がある。日本人は、特に俳人は、四季の季感が日本固有のものだという固定観念を持っているが、実は中国から輸入したものなのだ。高橋睦郎が『私自身のための俳句入門』で言っていて面白いと記憶に残っているのも、日本のように季節のつながりがなだらかな国は季節を意識することに鈍感であり、むしろ、大陸性の中国のように季節の移り変わりが激しい風土の方が季節に敏感であるという説だった。言われてみると、『万葉集』も中国最古の詩集『詩経』の「六義(りくぎ)」の分類、風・雅・頌(しょう)・賦・比・興に影響を受けて、「正述心緒」と「寄物陳思」の歌ぶりが生まれ、俳句は「寄物陳思」や漢詩作法に影響を受けているから、こうなると日本独自の文芸とされている俳句も、中国の借り物を島国根性で練り上げた民芸品の一種のようなものである。

さしずめ、暦の上の秋とお天気の猛暑のずれを乗り切るのも島国根性のなせるわざで、芭蕉はそれを「風狂」と呼んだのかも知れない。虚子は『新歳時記』の「序」で「春夏秋冬は観念上のもの」と割り切っているが、それにしても、今年の「風狂」も「観念」も実に暑い。

(註1)http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0701.htm

2010年8月7日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕立秋・上

ホトトギス雑詠選抄〔30〕
秋の部(八月)立秋・上

猫髭 (文・写真)


けさ秋の一帆(いつぱん)生みぬ中の海 原石鼎(はら・せきてい) 大正3年

貸し本漫画で育ったので、NHKの朝8:00の連続テレビ小説、『墓場の鬼太郎』の漫画家水木しげるの夫人を主人公にした『ゲゲゲの女房』を楽しみに見ている。「中の海」とは、島根県松江市、安来市、八束郡東出雲町と鳥取県境港市、米子市にまたがる汽水湖で、水木しげるは境港出身、夫人の武良布枝は安来出身である。テレビが面白いので武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)を買って来て読んだのだが、その中に「中の海」が載っていた。「中の海」は「中海」と呼ばれ、日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた潟湖(せきこ)で、東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。面積86.2平方キロで、日本第5位の大きさの湖である。

秋の海に船が行く景を詠んだ句で名高い句には、

秋の航一大紺円盤の中 中村草田男 昭和9年

があり、阿波野青畝が『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(朝日文庫)の序で、「澄みきった秋の航海をしてみた実感が強い。一大紺円盤という新奇な熟語に読者はおどろいた。この句を頭に印しながら船旅をしていると、さすがに広い海原の中にポツンと甲板上の私の存在は孤独そのものであった。」という鑑賞を寄せているが、わたくしにはこの草田男の句は大袈裟過ぎて好きになれない。

掲出句の「一帆生みぬ」も、勢いのある断定だが、それほど新鮮な擬人化ではないし、どちらかというと陳腐な見立てだろう。しかし、「立秋の」ではなく「けさ秋の」とゆったりと出て、「一帆生みぬ」と破裂音で加速させ、「中の海」と中七の「生み」と下五の「海」をリフレインさせるリズムは、秋立つ日に風をはらんだ帆が海から生まれたような調べを生む。石鼎が数え歌を意識していたかどうか、ひい(日)、ふう(風)、みい(海)という天地創造の調べが隠されているような一句となっている。

そして「中の海」。『出雲風土記』にある「飫宇の入海(おうのいりうみ)」と名づけられているのがそうである。この入海がその帆を生んだのであれば、ここには石鼎がこの舟を神話の舟として詠んだのかもしれないとふと思う。『出雲風土記』には巨人神による雄大な国引きの神話があるからだ。新羅から北陸から土地を手繰り寄せて島根半島を作るという国引きの綱に使われたのが、稲佐の浜の南につながる長浜海岸と夜見ヶ浜であるといったスケールが大きい神話は、現存する五つの風土記の中でも比類が無い。「中の海」もこの国引きで出来た湖なのだろうか。

(つづく)

2010年8月6日金曜日

●some sunny day



We'll meet again, don't know where, don't know when
But I'm sure we'll meet again some sunny day
Keep smiling through, just the way you used to do
Till the blue skies chase the dark clouds far away

Now, won't you please say "Hello" to the folks that I know
Tell 'em it won't be long
'cause they'd be happy to know that when you saw me go
I was singing this song

We'll meet again, don't know where, don't know when
But I'm sure we'll meet again some sunny day

2010年8月5日木曜日

●噴水

噴水

噴水にはらわたの無き明るさよ  橋 閒石

噴水の噴きあがらんとひこひこと  京極杞陽

噴水の穂をはなれゆく水の玉  後藤夜半

噴水の穂さきもう行きどころなく  山口誓子

噴水の高ささだめられし高さ  木下夕爾

噴水のためらふ高さありにけり  行方克己

噴水の頂の水落ちてこず  長谷川櫂

レマン湖を水盤として大噴水  鷹羽狩行

小一時間噴水見たり見なかったり  池田澄子

がんばつてゐる噴水の機械かな  岸本尚毅


2010年8月4日水曜日

●花火

花火



世につれて花火の玉も大きいぞ  一茶

花火待つ花火の闇に脚突き挿し  三橋鷹女

暗く暑く大群集と花火待つ  西東三鬼

小屋涼し花火の筒の割るる音  其角

花火上るはじめの音は静かなり  星野立子

大輪の花火の中の遠花火  野澤節子

遠花火はじけし闇をはなれざる  仙田洋子

花火見るよこがほつひに我を見ず  行方克己

空に月のこして花火了りけり  久保田万太郎

2010年8月3日火曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句碑はいま注目の新しいメディア

【裏・真説温泉あんま芸者】
句碑はいま注目の新しいメディア
(ってウソです、ごめんなさい)


さいばら天気


歴史的遺物は別として、いま句碑を建てること。

これを「通俗」と思う人、そう思わない人。この両方がいます。この2種類は、俳人と限定してもいいし、俳人以外に広げてもかまいません。

(「どうでもいい」という大多数は、ひとまず置く)

「通俗」とは、俗物のすること、ダサい、垢抜けない、陳腐、なんでもいいのですが、そういった、まあ否定的な見解です。いまよく使われる語でいえば「痛い」というのも、それに類する。

そう思う、そう思わない。この2種類の考え方は、互いに相容れません。というか、通俗と思う人は、なぜ通俗なのか、なかなか説明が難しい。説明できたとしても、理解・了解は得られそうにない。人それぞれに考え方があると言うしかないのかもしれません。

思う人は、思わない人がいることを知っています。だって、いるからこそ句碑が建つわけですから。ところが、思わない人のなかには、そう思う人がいることに思いが到らない人がいます。「え? 句碑のどこが?」というわけです。

でも、両方の人間がいることを、両方が知っておいたほうがいい

こんな話をするのは、「俳句甲子園の歴代最優秀句の句碑が完成」というニュースを聞いたからです。
俳句甲子園:歴代最優秀句、句碑が完成 本人直筆--椿神社 /愛媛 :毎日jp
「俳句甲子園」の歴代最優秀句の句碑が、松山市居相2の伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)神社(椿神社)に完成した。98年の第1回から昨年の第12回までの12基で、高さ約1.5メートル。本人直筆の字で刻まれている。神社が無償提供を実行委に申し出て実現した。今後の最優秀句も碑にする予定。/29日にあった除幕式には作者のうち2人が参加。第1回の「秋立ちて加藤登紀子が愛歌う」を詠んだ松山中央高出身、末原ちひろさん(29)は「少し気恥ずかしいが名誉なこと」、第5回の「夕立の一粒源氏物語」を詠んだ松山東高出身、佐藤文香さん(25)は現在は俳人として活躍中で「これ以上の作品をどんどん生み出したい」と話した。【中村敦茂】
どんな事情でこうしたことになったのか、詳しいことは知りません。歴代最優秀句の作者、つまり当事者の何人かを存じ上げていますから、事情を訊こうと思えば聞けます。でも、めんどうです。細かいことは置いておいて、大筋の話だけ。

このニュースを聞いて驚き、否定的な反応をする人がいるとしたら、それは句碑建立ということ自体に、というより、句碑と、俳句甲子園出身=若者とが、頭のなかで結び付かない、その違和感に対する驚きや否定なのだと思います。

俳句甲子園の人たちって、みんな馬鹿なんじゃないだろうか。句碑建立という発想。そして、それを何の抵抗もなく受け入れてしまう体質...。」(句碑建立っ?)といった反応にも、その「若者」という要素が含まれていると思います。

私もまた「若い身空で?」と思いました。≫http://twitter.com/10_key/status/19780437795

つまり「生前句碑」ですね。これ、年寄りが、名誉欲か自己顕示欲か何かの欲に駆られて、自分の句碑を建てる、あるいはどこかの結社の主宰が会員からオカネをかき集めて、というなら理解できますが、若い人がとなると、「え?」となるわけです。

(じつは、この手のことって年齢には関係がないのですが、どうしても「句碑=年寄り」というイメージがあります)

(余談ですが、「本人直筆」という部分にもちょっと驚きました)

(ツイッター上、「句碑」で検索すると、いまなら、関連ツイートがいくつかヒットします)
≫こちら http://twitter.com/#search?q=%E5%8F%A5%E7%A2%91

さて、そこで、くだんの句碑は建っちまったわけです。そこに名を連ねる20歳代の俳人たちは(いま俳句を続けている人もいれば、いない人もいるのでしょう)、通俗を行使してしまったことになります(句碑を通俗と思う人にとっては、という話です)。

で、ここから、私の言いたいことをすこしずつ書いていくわけですが、句碑が建っちゃった若者を、例えば非難したり、軽んじたりという気は、じつはあまりないのです。

「通俗は通俗だけど、それも込みだろう」と考えるからです。つまり、そういうことも込みになっちゃう遊び方をしているのだから、通俗もまた引き受けるしかないということです

句碑が建っちゃうと、表現の可能性がどうの、ポストモダンがどうの、ゼロ年代がどうの、いくらカッコいいことを言っても、「だって句碑(笑)でしょ?」という反応がくっついてしまう。この手の不利を携えていくことになるかもしれない。颯爽とプレゼンするビジネスマンをよく見ると、ズボンからシャツがはみ出ている。そんな感じです。

でもね、カッコいいことばかり言っていてもしかたない。カッコいいことばかり言うのがエラいわけでもない。愛嬌は必要です。

愛嬌とは、しばしば、「自己戯画化」という「余裕」がもたらすものであります。

当事者のなかには、私が親しくさせてもらっている人もいます。機会があれば、「あはは、恥ずかしいね」「なんと垢抜けないことを!」と笑ってからかいはしますが、それだけです。俳人としての、作家としての姿勢なんてものを問い質す気など、さらさらありません。

こんなことになった諸事情について知らないと言いましたが、諸事情があったことは想像がつきます。「誰も好き好んで」ではないでしょう。事情があったことは理解する。だから、仮に、私が彼らの父親で相談を受けたとしたら、「自分で判断しなさい。付き合いもあって、断れないというなら、『たいへん名誉なことです』と返答しなさい。ただし、オカネは鐚一文出すな」と助言します(いま、エアー父親をやって、かなり気分いいです)。

ただ、ここが肝腎なのですが、当事者の皆さんは、この今回の句碑、「通俗ではない」「ダサくない」などと思っちゃいけません

これは、もうダサいことなんです。おもいっきり通俗だし、垢抜けない。でも、それもまた良し。そういう部分、ありますよ、世の中には、人生には。

当事者のひとりである佐藤文香さんが「俳句甲子園という十字架」という言い方をされています。句碑も、そうかも(石だから、そうとう重い?)。



なお、新しく建てる句碑の問題点のひとつに、景観の破壊ということがありますが、今回の句碑はその手の神社の中のようなので、その点は問題なし、です。

句碑建立が通俗かそうでないかといった人々の印象、感受性は時代とともに変化するという見方もありましょう。つまり、いまは通俗と揶揄されても、何十年か経てば、そんなことはなくなり、フツーのこととみなされるのではないか、という見方です。しかし、これは違います。この手のセンスは、百年単位、千年単位でも、そう大きく変化しない。例えば「枕草子」がいまでも愛読されているのは、その証拠です。

付け加えるに、今回の句碑がこうだからと言って、俳句甲子園というイヴェントがどうということではありません。問題を拡散させてはいけない。句碑は句碑、俳句甲子園は俳句甲子園。句碑が嗤われるからといって、俳句甲子園が嗤われているわけではありません。ここははっきり区別しないと。



  句碑ばかりおろかに群るる寒さかな  久保田万太郎   ≪citation

  句碑の句の少し愚かに秋日和  岸本尚毅  ≪citation



最後に、為念のまとめ。

通俗、垢抜けないこと、痛いこと。それはそれでしかたなく受け入れるしかないこともある。セ・ラ・ヴィ。たいせつなのは、そうとわかっていること。

え? そうとわからずやっているとしたら? それはもう、「まあ、がんばってください」という感じでしょうか。

2010年8月1日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔29〕滝・下

ホトトギス雑詠選抄〔29〕
夏の部(七月)・下

猫髭 (文・写真)

承前

写真は、武蔵五日市駅からバスで20分ほどの檜原村(ひのはらむら)仏沢(ほっさわ)の滝で、バス停から歩いて15分ほどだろうか、こんな近くにと驚くほど東京都唯一の「日本の滝百選」のひとつが掛かっている。華厳の滝ほどの水量はないが、そこそこの「滝の上に水現はれて」の景ではある。

清水哲男『増殖する俳句歳時記』は、俳句のスタンダード鑑賞として愛読しているが、氏によれば夜半の掲出句は「昔から毀誉褒貶がある」そうな。名句として定まっていると思っていたので、どんな臍曲がりが言っているかと思えば、
作家・高橋治は「さして感動もしなければ、後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」と言い、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」(「並々ならぬ捨象」ふらんす堂文庫『破れ傘』栞)と酷評している。
ということである。高橋治の出自は「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた映画人の一人で、小津安二郎の『東京物語』の新人助監督を務めている。28年前に読んだ、小津安二郎の生涯を描いたノンフィクション・ノベル『絢爛たる影絵』が素晴らしかったので、わたくしは氏の著作は歳時記風随筆も含めてかなり付き合ったので、蕪村武闘派の高橋治なら、さもありなんとは思う。特に、「後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」というところは、氏が夜半の他の句にも目配りをしている上での発言である。後藤夜半は、実にはんなりとした句を詠む洒脱な俳人なのだ。例えば、「木槿(むくげ)」を花の底の紅色から「底紅」と言うが、「底紅」を新季題として定着させたのは、

底紅の咲く隣にもまなむすめ 後藤夜半(遺句集『底紅』)

の一句によると云われる(稲畑汀子編・著『よみものホトトギス百年史』)。滝の一句だけで覚えられる俳人ではない。しかし、それは清水哲男も承知の上で、
名句もいいけれど、技巧的に優れた作品ばかり読んでいると、だんだん疲れてくる。飽きてしまう。そのようなときに、夜半はいい。ホッとさせられる。夜半は、生涯「都会の人」ではなく「町の人」(日野草城)だったから、一時期をのぞいて、ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを嫌った。芸術家ではなく、芸人だった。生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した。
と述べているのは、夜半の句を楽しむ者には我が意を得たりと膝を打つだろう。清水哲男の俳句鑑賞がわたくしにはスタンダードであると思えるのは、こういう名句一流主義の弊から免れている目にある。

高橋治の小説『風の盆恋歌』や歳時記随筆を読めば氏の俳句の嗜好に奥行きがあるのはわかるが、「虚子の流した客観写生の説の弊」という『ホトトギス雑詠選集』読まずの「虚子嫌い」の弊に、高橋治が陥っているようにも思える。西村睦子『「正月」のない歳時記』によれば、「滝殿」は江戸期からあるが「滝」を新季語として提示したのは、虚子だと云う。であれば、それを定着させたのは夜半の一句なのだ。この「滝」の一句を越えようと、また別の視座から開拓しようと、後世は列を成している観があるほどの一句であるのは事実である。

『よみものホトトギス百年史』によれば、夜半は、半ば伝説になるほど、大正12年から昭和6年まで、「ホトトギス」の選に入らなかったそうだが、虚子は昭和4年に夜半を「ホトトギス」の課題句選者に抜擢している。夜半は、「滝」一句で『懸賞募集 日本新名勝俳句』の「帝国風景院賞」を受賞し、「ホトトギス」昭和6年9月号の巻頭を飾る。高橋治が映画界で反発し、しかし、その愛憎を越えて見事に描いた監督小津安二郎に匹敵するのが、俳句界では監督虚子なのだ。『ホトトギス雑詠選集』は虚子の作った最高傑作なのである。

ところで、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」という見解は、酷評といえども、夜半の句を「客観写生」の典型として見ている評価だが、逆に、これは写生句ではないという見解もある。

『俳句界8月号』連載の坂口昌弘氏の「平成の好敵手」第二回「岸本尚毅VS小川軽舟」の孫引きだが、
軽舟は、夜半の句については『現代俳句最前線』の中で、箕面の滝をいくら眺めても句の景色は見えてこず、「落ちにけり」と言えるものではないと言い、実際の滝を見た写生句ではないと実景で確認している。
とある。はあ?

朝桜妻の乳房の充実す 小川軽舟

という句がある。わたくしが軽舟さんちに出かけて、奥さんの乳房をいくら眺めても句の景色が見えてこず、「充実す」と言えるものではないと言うようなもんだっぺ。

夜半の詠んだ滝が、大阪府箕面市の「箕面(みのお)大滝」であることは、久しく絶版の『日本新名勝俳句』を読まないとわからないので、歳時記にもアンソロジーにも前詞として「箕面」とは書いていないから、普通はこの句から「滝」のイメージを受け取るのに、「箕面」という地名は意識しない。各自の滝の体験と、この句のもたらす「水現はれて」に、滝だから水が上から下へ落ちるのは当り前だが、それを「現はれて」と言いとめられたことで、あらためて水を意識する、その落差がこの句の滝口に水がゆっくりと盛り上がってもんどり打って落ちて来る落差の力学を生み出す。「落ちにけり」で滝壺に轟音が蘇る。このとき、「水現はれて」は夜半が創造したオリジナリティ以外の何物でもない。虚子の言葉で言うなら「此作者が創造した世界が即ち現実の世界になつてゐると云ふことになる」。眼前の滝は作者の想像力を飛躍させる触媒と化す。

虚子は鍛錬会で、当季雑詠と同時に必ず兼題を出して想像力を鍛えた。そこにあるものと、そこにないもの。目で見えることと、想像力を働かせなければ見えないことの振幅運動は、虚子の場合、常にワンセットになっている。

虚子の「客観写生」というのは自在な句を得るための「方便」であって、「方便」であることは虚子選の「ホトトギス雑詠」の多士済々の句を読めばわかる。夜半に限ってランダムに拾えば、

国栖人(くずびと)の面(おもて)をこがす夜振かな
合邦(がっぽう)ヶ辻の閻魔や宵詣
狐火に河内の国の暗さかな
夜桜のぼんぼりの字の粟おこし
からたちの花のほそみち金魚売
金魚玉天神祭映りそむ
桜炭ほのぼのとあり夕霧忌
傀儡の厨子王安寿ものがたり
傘さして都おどりの篝守
人形の宿禰(すくね)はいづこ祭舟
羽子板の写楽うつしやわれも欲し
そはそはとしてをりし日の桜草
見おぼえのある顔をして袋角
水べりに嵐山きて眠りたる
揚りたる千鳥に波の置きにけり
暗がりをともなひ上る居待月
香水やまぬがれがたく老けたまひ
蕗の薹紫を解き緑解き
双の手をひろげて相違なき案山子
大阪はこのへん柳散るところ
睡るとはやさしきしぐさ萩若葉
鰻の日なりし見知らぬ出前持
麦の穂を描きて白き団扇かな
涼しやとおもひ涼しとおもひけり
懸崖に菊見るといふ遠さあり
或日あり或日ありつつ春を待つ

というように、その詠みっぷりは、諷詠という趣きのはんなりとした句柄である。夜半は、間違いなく京極杞陽と同じように虚子から「はじめは物を浅く写すことからはじめる」と教わり、それを終生守り続けた俳人である。