2022年8月31日水曜日

西鶴ざんまい #32 浅沼璞


西鶴ざんまい #32
 
浅沼璞
 

 宮古の絵馬きのふ見残す   打越(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味すると――打越・前句では病人のおめかしだった「髪剃りて」を、前句・付句では出家のための剃髪と取り成しての転じと思われます。

これを「眼差し」の観点からみると――絵馬見たさに無断外出しようとする病人をあばく暴露本作家の「眼差し」から、剃髪して寄進しようとする病人を諫める隠居老人の眼差しへの転換とでもいえばよいでしょうか。浮世草子の町人物の世界です。



さて今回の若殿(若之氏)からのメールは、前句「髪剃りて」も付句「先づ待て」も同じ「て留」やろ、という前回の西鶴さん(?)の暴言に関するものでした(暴言を吐かせているのは愚生ですが)。

曰く
この短句、末尾「先づ待て」が命令形ですから、付句としてはけっこう強い切れが生じているようにも感じます。
 
いわゆる切れ字十八字にも命令形の語尾にあたるものがいくつか含まれていますが、このころはまだ、「命令形で切れる」という基準が文法的に明確に共有されておらず、実践における切れの判断は仮名そのものによるところが大きかったということでしょうか。たしかに、その見方でいくと、文中の西鶴さんが言っているようにこの句は「て留」ということになりますね。
 
あるいは、発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか。



答えになるかどうか心もとないですが、命令形の付句というと同時代では――
 
  くれ縁に銀土器(かはらけ)をうちくだき
    身細き太刀の反ることをみよ 
(『去来抄』「修行」1702~4年)

命令形の「よ留」は連歌にも多くて、有名な水無瀬三吟(1488年)だと――

   身のうき宿も名残こそあれ    宗長
  たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

文法書を繙くと、命令形語尾の「よ」はもともと間投助詞だったとのよし。範囲を間投助詞まで広げれば、「よ留」いろいろありそうですよ。



「なんや、『て留』の話はどないしたんよ」

はい、鶴翁は矢数俳諧の頃、とっくに命令形の「て留」、やってまして。

  分別も又は出さうな所也
   是一番は負けにして打て 
(『西鶴大矢数』「第一」1680~1年)

「命令形だか体重計だかしらんけど、『て留』は『て留』やって」

あーっ、話がもどりますって。


 
[註]命令形のほか、や・かな・けり等の付句使用に関しても順次ふれていきます。
 

2022年8月29日月曜日

●月曜日の一句〔越智友亮〕相子智恵



相子智恵







街路樹に秋のひかりよ夏ではない  越智友亮

句集『ふつうの未来』(2022.6 左右社)所収

季節の移り変わりの中でも、「光」に変化を感じるのが晩夏から秋への移り変わりではないだろうか。きっと立秋を過ぎた八月後半の街路樹だろう。〈街路樹に秋のひかりよ〉までは普通の句なのに〈夏ではない〉とダメ押しされることで生まれる可笑しさがある。しかし、それがただの笑いや屁理屈に陥っているわけではなくて、このダメ押しに「切なさ」を感じてしまうのが掲句のグッとくるところだ。

〈夏ではない〉は「夏の光ではない」ということではない。「夏という季節が含む全て、ではない」ということである。夏の弾けるような楽しさの全てが失われてしまったことを街路樹の秋の光に突きつけられているのだ。

街路樹という「平日の街」を感じるところからもそれが分かる。休みや祭りはもう終わり。初秋の光には、「もう、夏ではない」と嘆くしかない切なさがある。

2022年8月28日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】 お天気 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
お天気

宮﨑莉々香

チュッパチャプスあ、と、うん、溶けてゐる花火
君の眼鏡の中の世界に蟻や嗚呼
指にさきざき泉のなかのさびしさは
太陽は壊れながらにすべりひゆ
シャツリネンお天気の横ぎつた萩 
噛むことのつまらなくなる百合の花粉
鵠沼海岸思ひだせない菊に風
蔦をこぼれたそれが愛だつたのだらう
むかし武蔵野お別れの青い桃
ひぐらしや小さな部屋で足を掻く


2022年8月26日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕樋口由紀子



樋口由紀子






流し台にあるいい銃悪い銃

榊陽子 (さかき・ようこ) 1968~

最初はアメリカの家庭風景を詠んだものかと思ったが、どこかへんである。それに銃に「いい」「悪い」と区別をするのもおかしい。家庭の流し台に銃があるという「アブナサ」と、「いい」「悪い」と区分する「アブナサ」が乱反射する。線引きを施こすことであぶりだされてくるものがある。日常生活に虚構性を無理やり押し込んで、無理やりが一句に厚みを出す。あたかもそんな日常がすぐ目の前にあるかのように、底の知れない恐ろしさを漂わす。

ためらいも力みもなく、言葉で常識の範囲を軽々とはぐらかしていく。あっさりと表現しているようなふりをしながら、さりげなく大きなものに立ち向かっている。よく見える目で冷静に鋭く、そしてしたたかに世界を見ている。深い批判精神がある。

2022年8月22日月曜日

●月曜日の一句〔三輪初子〕相子智恵



相子智恵







水旨き国に生まれて墓洗ふ  三輪初子

句集『檸檬のかたち』(2022.7 朔出版)所収

墓参りの際に墓石に水をかけ、雑巾などでゴシゴシと水洗いする〈墓洗ふ〉のことを、特段考えてみたことがなかった。〈水旨き国〉が出てきて、そういえば他国では墓掃除はどんなふうにするのだろう、と思った。もちろん宗教によるので、国内外問わず様々だろうが、考えてみたら水で墓石を丸ごと洗い清めるのは、傍から見たら新鮮に見える行為なのかも、とも。

〈水旨き国〉の「国」は日本だろうし、日本の中の、さらに故郷の土地の意味で使われているのだろう。水がおいしい国は、墓を洗う水もおいしいわけで、それは墓に眠る先祖への何よりのごちそうなのである。

2022年8月19日金曜日

●金曜日の川柳〔西澤葉火〕樋口由紀子



樋口由紀子






二人乗りしても結婚しなかった

西澤葉火 (よしざわ・ぱぴ) 1964~

誰の後ろに乗っていたのか、どこを走っていたのかはもう忘れたけれど、「二人乗り」という言葉で遠い昔にそんな初々しい青春が私にもあったことを思い出す。自転車の荷台から落ちないように、しっかりと前の人の背中につかまっている姿は相手への信頼も愛情もマックスである。

しかし、二人乗りしただけでは結婚はしない。二人乗りしたぐらいで結婚するなら、世の中はもっと単純で簡単になる。一方、二人乗りしたから、この人と結婚するかもしかもしれないとちょっと思ってしまうところもある。人のおかしみ、かわいさ、ヘンさ、滑稽さ。そこをうまく突く。なんともばかばかしいことをわかって書いている。『「らくだ忌」第一回川柳大会作品集』(2022年刊)収録。

2022年8月15日月曜日

●月曜日の一句〔半澤登喜惠〕相子智恵



相子智恵







芋蔓を食べしが長寿の先頭に  半澤登喜惠

句集『耳寄せて』(2022.5 金雀枝舎)所収

芋の蔓まで食べていたというのは、戦中のことなのだろう。重い内容だが〈長寿の先頭〉に俳味があり、精神の強さを感じさせる。きっとたくましく、ひたむきに生きてきた作者なのだ。本書の中には他にも〈戦中の少女は傘寿豆の花〉〈軍馬飼料の草刈りし日よ黒き手よ〉という句もあった。奥付によれば作者は1931年生まれの91歳だから、傘寿の句は10年ほど前に詠まれたものかもしれない。

そういえば角川「俳句」2022年7月号の三村純也氏の句の中に、〈春愁や戦後生まれも喜寿となり〉という句があった。三村氏の句には〈戦後生まれの会、「野分会」を立ち上げしより幾年ぞ〉の前書きがある。「野分会」は俳誌「ホトトギス」の、戦後生まれの若手を育てる研鑽句会で、1977年に故・稲畑汀子氏と三村純也氏が始め、今も続いている。こちらは汀子氏追悼の一句である。

戦後生まれは77歳になり、戦中の少女は91歳になった。終戦の日が終戦の日であり続けるためには、想像力をもつことがますます大切になるのだと、ひしひしと感じる。

2022年8月14日日曜日

◆週俳の記事募集

◆週俳の記事募集


小誌「週刊俳句がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載 刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2022年8月12日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕樋口由紀子



樋口由紀子






第一感ではサントメ・プリンシペの蓋

湊圭伍 (みなと・けいご) 1973~

「第一感」から「サントメ・プリンシペ」そして「蓋」へと言葉の表情が違うものが並ぶ。「第一感」とは何か。「サントメ・プリンシペ」は「サントメ・プリンシペ民主共和国」で大西洋の一部にあるギニア湾に浮かぶ火山島である。そんな国があるのを初めて知った。ウィキペディアを読むと激動の歴史が書かれていた。

ここではないどこかで起こっている出来事を第一感がとらえた。「蓋」は微妙な雰囲気と重さの役割を果たす。言いおおせない何か、恐れなければならないものが姿を現わす。世界の、社会が抱える暗やみを、人の自由とか尊厳とかを誰かに向かって語っているのかもしれない。「らくだ忌」第一回川柳大会作品集(2022年刊)収録。

2022年8月10日水曜日

西鶴ざんまい #31 浅沼璞


西鶴ざんまい #31
 
浅沼璞
 

心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
付句は雑。「高野」は高野山の意で、釈教となります。「銀」は上方使いの銀貨のことで「かね」と読みます。

句意は「高野山へ寄進する銀は一先ず見合わせろ」といった感じです。前句の「髪剃りて」を剃髪と取り成しての付でしょう。



以下、付句の自註です。

「万事は是までと病中に覚悟して、日ごろ親しきかたへそれぞれの形見分け。程なう分別(ふんべつ)替りて皆我物(わがもの)になしける。是、世の常なり。いづれか欲といふ事、捨てがたし。ありがたき長老顔(ちやうらうがほ)にも爰(こゝ)ははなれず。いはんや、民百姓の心入れ、あさまし」

意訳すると、「人生もここまでと病中に覚り、日頃親しい人に形見分けを。と思ったもののすぐに考えが替わって全て自分のものにしてしまう。これは世の中に、ありありのパターンである。どのみち欲というものは捨て難い。あり難い住職面をしていても欲心は離れない。まして一般人の本心はあさましい限りだ」



では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

形見分けなど一時のこと   〔第1形態〕
  ↓
仏ごころも一時のこと    〔第2形態〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て  〔最終形態〕

〔第2形態〕で釈教に転じ、〔最終形態〕でそれを具体化してるわけです。医者にも問わず剃髪し、高野山へ寄進を思いついた病人に、「いや、ちと待て」と諫める隠居老人のせりふのようで、さながら浮世草子のオチを思わせます。



「そや、オチがきいてるやろ。それに『て留』の連発やで」

えーと「て」は「て」なんですが、文法的にいうとですね、「髪剃りて」の「て」は接続助詞で確かに『て留』ですけど、「先づ待て」の「て」は「待つ」という四段動詞の命令形の活用語尾でして、そのー、つまり……。

「なんやよう分けのわからんこと連ねおって。『て留』は『て留』やろ」

あ、いや……たしかに。
 

2022年8月8日月曜日

●月曜日の一句〔森賀まり〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




白桃に夕のぬくみのありにけり  森賀まり

句集『しみづあたたかをふくむ』(2022年4月・ふらんす堂)所収

桃を冷やして食べるのか、冷やさない常温で食べるのか。

むかし、雑談で桃の話になり、そこに一人いた米国人が、桃を冷やすと聞いて、「ありえない」と大きく眼を剝いたことをよく憶えている。「桃は窓辺に置いておくものだ」と。

冷やす流派・主義・文化、冷やさない流派・主義・文化、どっちもあるんだけど、掲句は、冷やしていない。私は「冷やさない」クチなので、一日の熱量を溜め込んだその桃を、たいそうおいしそうに思う。

「夕」がいいですよね。

もいで家にある桃にしても、果樹としてまだ木にある桃にしても、どちらにしても「夕」がこの句を美しく仕上げているように思います。

ちなみに、いままさにわが家では桃が数個、冷蔵庫の野菜室に入っている。妻とはこの点、意見を異にする。思いどおりにならないのが人生。ケレセラセラというわけです。

2022年8月5日金曜日

●金曜日の川柳〔丸田洋渡〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




おふたりは百階の放送委員

丸田洋渡 (まるた・よっと)1998-

「放送委員」というからには、これは学校、それも小学校、中学校、高校での出来事だから、ふつう校舎は2階か3階、多くてもそれを数階上回る程度。だから、「百階」はずいぶんと多い。めまいするくらいの高階で、一般生徒がいる場所からははるかな距離がある。それでも、声は、機械というものがあるおかげで、一般生徒たちに届く。いや、まあ、それは届くことには届くのだが、もともとの発声の場所はあくまで「百階」、というはるかな場所なのだ。

一方、こんな意見もあろう。「百」とは多いことの比喩であって、ほら、議論百出ってったって、百まで数えたわけじゃないし、百人力は人の百倍の力があるわけじゃない。そういう(私からすれば無理筋な)読みもあっていいけど、比喩なら比喩で、比喩じゃない部分をきちんとイメージすることがだいじと、私などは強く思っているので、百階(かそれ以上を備えた)高層の建築物を、まずは頭に描く(比喩にしたいなら、まずは描いてから)。

それにですよ、掲句を引いた「川に柳」川柳50句には、《比喩とかじゃない血祭だった》という句もあって、「ひどい目に合わせる」という比喩の元をたどって、ある種具体的な暴力をもってして血だらけ・傷だらけにする、もしかしたら殺しちゃうというシーン、あるいは血のしたたる心臓をピラミッドの頂上に掲げるような供犠のシーンをイメージしないといけない。

イメージです。きちんと像を結ばないといけない。そのうえで、「百階」のマイクの前に行儀よく並んで坐る「ふたり」。比喩ではなく孤高のふたりである。

こんなシーンを見てしまうと、なんともいえぬ感慨を味わうわけで、どんな感慨かは、「なんともいえぬ」から、それ以上に伝えることはない。読んだ人それぞれが「なんともいえぬ」かんじに陥るのだと思う。

なお、この50句には、《百階で知る爆弾の作り方》という句もある。「百階」には、全校生徒へのお知らせやら安っぽい背景音楽(BGM)やら託宣だけでなく、叡智や悪意まで存するというわけなのです。

2022年8月1日月曜日

●月曜日の一句〔赤野四羽〕相子智恵



相子智恵







雨よ永い永い昼寝ということか  赤野四羽

句集『ホフリ』(2021.9 RANGAI文庫)所収

「長い」ではなく「永い」が使われているから、永遠に覚めない昼寝なのだろう。

例えば私は、こんな場面を想像する。草原で気持ちよく昼寝をしているうちに、夏の雨がきらきらと降ってきて、全身がしっとりと濡れていく。夢の中では自分が濡れていることに気づきながらも、しかし目覚めることはない。目覚めないその状況を特段焦ることもなく、「ああそうか、永い永い昼寝ということか……」と、当然のごとくに受け入れ、そのまま草に埋もれて、すやすやと何百年も眠り続けるのである。生きているのか死んでいるのかすら分からず、いつしか草原の草と自分との区別もなくなっている。

冒頭の〈雨よ〉の唐突に引き込まれる呼びかけのリズムが、覚めない昼寝を印象的なものにしている。うっとりするような幻想的な昼寝である。