2025年4月16日水曜日

西鶴ざんまい #78 浅沼璞


西鶴ざんまい #77
 
浅沼璞
 
 
 鹿に連泣きすかす抱守    打越
面影や位牌に残る夜半の月   前句
 廻国にみる芦の屋の里    付句(通算60句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表10句目。 雑(旅)。 廻国(くわいこく)=諸国をめぐり歩くこと。 芦の屋=摂津国、芦屋(現、兵庫県)。

【句意】諸国をめぐって検分する(その一つの)芦屋の里で。
 
【付け・転じ】前句の位牌から、西明寺時頼の故事を連想した転じ。
 
【自註】鎌倉の*西明寺(さいみやうじ)時頼、諸国をめぐり給ふ時、津の国難波なるあしの屋の里に一夜を明し給ふに、**あるじの尼公、身の上のむかしを語りて、「今はたよりなき」となげきしを、哀れにおぼしめして、位牌のうらに一首書付(かきつけ)残させ給ふ。「なには潟汐干に遠き月影を又元の江にすみ(すま)ざらめやは」。其後めし出されて、***本知(ほんち)をくだし給ふと也。当流には、古事など嫌ふといへども、よく付合候事はくるしからず。
*西明寺=鎌倉幕府5代の執権・北条時頼の号、最明寺。 **あるじの尼公……=『太平記』、謡曲「藤栄」等にみえる故事。 ***本知=もともとの領地

【意訳】鎌倉の西明寺入道・北条時頼が諸国めぐりをなさったとき、摂津の国難波の芦屋という里で一夜をお明しなされたところ、宿の主の尼君が身の上の昔を語って、「今は何の頼りもない」と嘆いたのを、哀れにお思いになり、その宿の位牌の裏に一首書き付け、お残しなされた。「難波潟の潮干に遠い月光とて、また元の江に澄まない(住まない)ことがあろうか」。その後、この尼をお呼びになって、もとの領地を再び下されたということである。最近の俳風(元禄疎句体)では故事付などを避けるというけれども、よく付け合う場合には問題ない。
 
【三工程】
(前句)面影や位牌に残る夜半の月
 
時頼入道一首書き付け  〔見込〕
 ↓
芦屋の尼へ一首書き付け 〔趣向〕 
 ↓
廻国にみる芦の屋の里  〔句作〕

前句の位牌から、その裏に和歌をしたためた西明寺時頼の故事を連想し〔見込〕、〈どこの誰に向けてしたためたのか〉と問うて、芦屋の尼君と具体化し〔趣向〕、時頼や尼君の「抜け」によって句を仕立てた〔句作〕。


自註で〈当流には、古事など嫌ふ〉とありますが、この〈当流〉を元禄よりひと時代前の談林と見なし、*談林では故事を嫌う、と解釈する場合があるようです。

「? この〈当流〉いうんは、元禄の〈当流〉いう意味やで」
 
ですよね、談林の付合は故事だらけでしたよね、謡曲取りとか。
 
「ま、ひと時代前は談林を〈当流〉いうとったから、勘違いしたんやろ」
 
あゝ、いつになく肝要ですね……。

*談林では故事を嫌う=『譯註 西鶴全集』第二(藤村作編、至文堂、一九四七年)。

2025年4月14日月曜日

●月曜日の一句〔河内文雄〕相子智恵



相子智恵






花莚立つも座るもこゑ出して  河内文雄

句集『加計比幾』(2025.2 ふらんす堂)所収

〈立つも座るもこゑ出して〉は、「よいしょ」「どっこらしょ」のような掛け声なのだろう。無言でスマートにスッと立ったり座ったりすることが少しずつ億劫になってきた、老いを感じる掛け声である。きっと〈花莚〉だけに限らず、いつも床に腰を下ろしたり立ち上がったりする時には、そのような声が出ているのだと思う。

しかし〈花莚〉の場面であるのが明るくていい。仲間と楽しく酒を酌み交わし、酔っぱらって足元が少しおぼつかなくなってきた様子も想像されてくるし、花見だからこそ、老いを感じる掛け声の中に、長寿へと向かう「めでたさ」が滲むのである。季語が違えば、老いの寂しさに焦点が当たる内容が、明るい俳味に転換された。

 

2025年4月11日金曜日

●金曜日の川柳〔いなだ豆乃助〕樋口由紀子



樋口由紀子





1000人の妖精たちにからまれる

いなだ豆乃助(いなだ・まめのすけ)1976~

これほど嘘っぽい川柳は久しぶりである。本当に1000人なのかとまずつっこみを入れたくなる。妖精を想像するなら、せいぜい、2,3人である。(妖精は数えるのは「人」なんだとここは妙に納得した)。すさまじい光景で緊急事態であるはずなのに冷静でたじろいでいない。「からまれる」と困惑して、被害者意識を出しているものの、こんなハプニングは滅多にないと心躍りしているようである。

「1000人の妖精たち」で景を決め、「からまれる」で意味を決め、時間を止める。からまれた後はどうなったのかと想像も膨らむが、そもそもこの世ではない不思議な出来事である。日常を解体されていくような舞台設定に飛躍と驚きがあり、言葉で創りあげていく世界を魅力的に愉しく立ち上げた。「晴」(8号 2025年刊)収録。

2025年4月10日木曜日

●甲板

甲板

甲板の風がくすぐったい春だ  福田若之

花冷の甲板踏んで女の子  田中裕明

甲板と水平線とのあらきシーソー  篠原鳳作

甲板の豚は望郷の涙でぬれる  藤後左右

航終る甲板の雪陸の雪  鷹羽狩行

2025年4月8日火曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

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同人誌・結社誌からの転載

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俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2025年4月4日金曜日

●金曜日の川柳〔岡林裕子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



一本のネジは余るし雨は降る  岡林裕子

ぴったりに越したことはないが、足りないよりも余るほうがいい。機能的には。というのは、用を足すに困らないという意味。

しかしながら、気持ちとしては、おおいに問題。揺さぶられる。

足りないのは、おそらく自分の過失だ。足りないことがないように、はずしたネジは管理する。ところが、余るとは、いったいどういうことだ?

つまり不思議さ加減は、足りないよりも余るほうがはるかに大きい。

問題・疑問を眼前にして、まあ、いいかと、うっちゃって外に散歩にでも出かけようにも、雨。雨に閉じ込められるように、不思議と一体になって過ごすしかない。

掲句は『川柳木馬』第182号(2025年4月)より。

2025年4月2日水曜日

西鶴ざんまい #77 浅沼璞


西鶴ざんまい #77
 
浅沼璞
 
 
吉野帋さくら細工に栬させ   打越
 鹿に連泣きすかす抱守    前句
面影や位牌に残る夜半の月   付句(通算59句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表9句目。 月=ここまでの秋の付合を受け、月の定座(三オ13句目)が四句引き上げられる。 や=ここでは軽い間投助詞として扱う(ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞)。 位牌=無常(死葬に関する詞)。

【句意】亡き人の俤が位牌に浮かぶ(そんな)夜半の月。

【付け・転じ】前句で子どもが泣くのは亡くなった親を慕うためとして無常へ転じた。

【自註】さなきだに秋は物がなしきに、鹿の鳴く音より哀れなるは、世の*無常にぞ有ける。いまだ物のわきまへもなき少年の母に**おくれて、夕々にたづねなげきしに、なきあとの位牌ををしへて、「かゝさまはあれにまします」とおの/\袖の露ひる事なし。
*無常=俳諧では主に死葬をさす。  **おくれ=先立たれ。

【意訳】そうでなくても秋は物悲しい季節なのに、鹿の鳴く声より哀れなのは、人の死にほかならない。いまだ物心のつかない少年の、母に先立たれて、毎夕尋ね泣くのに、仏壇の位牌をさして、「お母さまはあそこにおいでになります」とみんな涙の乾く暇もない。

【三工程】
(前句)鹿に連泣きすかす抱守

少年の母におくるゝ世の無常  〔見込〕
 ↓
かの母の位牌ををしへ袖の露  〔趣向〕
 ↓
面影や位牌に残る夜半の月   〔句作〕

前句「連泣き」の所以を母の死とみて〔見込〕、〈尋ね泣く子に、周囲はどう対応したか〉と問うて、位牌を指さしてみんな涙したとして〔趣向〕、月の定座を引き上げ、具体化した〔句作〕。


鶴翁の年譜をたどると、亡妻の十七回忌の翌春、盲目の一女に先立たれ、その直後に紀州熊野への旅に出、それがキッカケでこの「百韻自註絵巻」が巻かれたってことになりますかね。
 
「そやな、熊野行脚は供養の旅と言ってもえゝし、百韻自註は追善の一巻と言ってもえゝな」
そうすると今回の付合と自註はこの巻のハイライトですね。
 
「なんやその俳諧糸いうんは」
 
いや、最近の横文字でして。

「はゝ、阿蘭陀の文字か横たふ天つ雁、梅翁先師の影響は後世まで続いとるんやな」

2025年3月31日月曜日

●月曜日の一句〔桐山太志〕相子智恵



相子智恵






山焼の匂ふ華厳の闇深し  桐山太志

句集『耳梨』(2023.12 ふらんす堂)所収

序文で師の小川軽舟は〈奈良仏教を代表する華厳宗の総本山が東大寺。ならば山焼は若草山か〉と読む。

もちろん〈華厳〉を、一瞬の中に永遠を含む「一即一切」の世界観で精神的に読んでもいいし、あるいは滝を思ってもよい。どのように読むかは読者に委ねられているのだが、句集名の『耳梨』は大和三山の「耳成山」の古代名であるというところからも、東大寺、若草山焼であると読むと、ひとつ世界が印象的になる。

一句単独ではなく、句集で俳句を読む醍醐味のひとつが、こうした読みができることかもしれない。まさしく「句集の顔」となる一句といえよう。それでいて、分かり過ぎない、漠として掴みがたい。そういうところもまた、美しい。

 

2025年3月21日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子





今年から喉につかえぬ餅を売る

水本石華(みずもと・せっか)1949~

正月には雑煮の餅を喉につめるニュースが流れる。他人事とはもう言えなくなってしまった。「喉につかえぬ餅」はどんなものなのだろうか。

「今年から」と、本人にとっての一大決意表明みたいだ。いままでは自分の美学やこだわりで、他意はなかったが、どうも「喉につかえる餅」を売っていた。そのために立ち止まってしまい、ひっかかり、寄り道ばかりして、先に進めなくなって、コトがスムーズに運ばないことも多々あった。

独自の比喩を駆使して、気張って言うほどのものでもないことを自在な言葉運びで表現の形におさめ、おもしろさを醸し出している。思ってもいなかった方向からボールが飛んできたような、柔軟な考え方の一句である。「晴」(8号 2025年刊)収録。

2025年3月19日水曜日

西鶴ざんまい #76 浅沼璞


西鶴ざんまい #76
 
浅沼璞
 
 
 願ひに秋の氷取り行く    打越
吉野帋さくら細工に栬させ   前句
 鹿に連泣きすかす抱守    付句(通算58句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表8句目。 鹿=秋。 連泣き(つれなき)=ともに鳴く(泣く)謂。 すかす=宥めすかす。機嫌をとる。 抱守(だきもり)=子守をする抱き乳母。乳を与える乳乳母と区別。

【句意】鹿につられて泣く(乳児を)宥めすかす抱き乳母。

【付け・転じ】前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て、それで乳児をあやす抱き乳母を付けた。

【自註】「*紅葉に鹿」は正風の付合ながら、栬(もみぢ)に**付寄せのうとき物を付るよりは、是(これ)いつとてもよし。「花に蝶」「水に蛙」、***付よせ物也。前句の「作り花」を子どものもてあそびに付なし、「鹿とつれ泣き」と句作り、機嫌直しの花、紅葉にいたせし、抱き乳母が****才覚心なり。
*紅葉に鹿=〈付かたは梅に鶯、紅葉に鹿〉(本作・序)。  **付寄せのうとき物=縁語に寄らない付合。このへんの二律背反については今榮蔵氏の指摘あり(後述)。 ***付よせ物=付物と略す場合あり。 ****才覚心(さいかくしん)=9句目の自註に〈母親の才覚〉という用例あり。

【意訳】「紅葉に鹿」は連歌以来の伝統的な付合であって、わざわざ紅葉に縁の薄い言葉を付けるより、これは何時でもよく付く。「花に蝶」「水に蛙」、これらも縁語である。前句の「作り花」を子どもの玩具として見込み、「鹿とつれ泣き」と句作りし、機嫌直しの「作り花」を紅葉させたのは、抱き乳母の知恵・才覚である。

【三工程】
(前句)吉野帋さくら細工に栬させ

子どもらのもてあそびにぞよし 〔見込〕
 ↓
才覚心を見する抱き乳母    〔趣向〕
 ↓
鹿に連泣きすかす抱守     〔句作〕

前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て〔見込〕、〈誰の才覚か〉と問うて、抱き乳母の知恵・才覚と見なし〔趣向〕、「紅葉に鹿」の伝統的な縁語によって具体化した〔句作〕。


今榮蔵さんの*研究によると、この『百韻自註絵巻』の四割が詞付けによる親句で、残り六割が元禄疎句体らしいです。
 
「そりゃ塩梅よう巻けとるいうことやろ」
 
でも今さん、けっこう辛口で、旧派の大物として親句に固執した面と、現俳壇の宗匠として新しい疎句体に妥協した面と、晩年の鶴翁は二律背反をおかしていた、って。
 
「ずいぶん意地のわるい見かたやな。元禄の新しい句作りを得たから『世間胸算用』が書けたんやで」
 
なるほど。『胸算用』は縁語の少ない新しい文体で書かれているってのが通説ですけど、それって俳風ともつながってたんですね。
 
「おなじ人間が創ってるんやから当たり前の話や。それを俳諧では〈妥協〉いうて難じるんは御門違いも甚だしいわ」
 
*『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院(2002年)

2025年3月14日金曜日

●金曜日の川柳〔小野五郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





老人が持ち歩いている紙の束

小野五郎

「紙の束」はなにか。札束かもしれない。ただのゴミの、無駄な紙屑かもしれない。老人が懐に札束を入れて徘徊している姿、あるいは町中のゴミを集め回っている姿を想像した。誰もが等しく「老人」になる。「老人」の確かな存在感を伴って、鈍角に描写している。「持ち歩いている」に心の裡が見えて、哀しさと切なさが倍増する。

豊かな消費社会への警告だろう。消費社会であるがゆえの喪失感が際立つ。この姿は私たち自身である。この句の底には根源的寂しさがある。言葉の意味を立ち上げながら、リアリティのある景を想像させ、川柳に仕上げている。「おかじょうき」(2025年刊)収録。

2025年3月10日月曜日

●月曜日の一句〔橋本小たか〕相子智恵



相子智恵






涅槃図の下半分を廊下より  橋本小たか

句集『鋏』(2024.8 青磁社)所収

想像力がうまく活かされた句である。

涅槃図の下半分が、廊下から見えている……ということは、上半分が見えていないということだから、廊下と部屋を隔てているのは雪見障子なのではないかと想像されてくる。そこから、寺院の様子が目に浮かんでくるのである。

下半分ということは、きっと泣いている人々や動物たちは見えているものの、お釈迦さまは見えてはいないだろう。そこにどこか俳味も感じられてくる。

桃の日のふつくら閉まる海苔の缶

春の句からもう一句。この句も好きな句だ。円筒形の海苔の缶を想像した。茶筒もそうだが、海苔の缶は湿気を防ぐためにきっちりふたが閉まるように作られているから、締める時、中の空気の抵抗を感じる。確かに〈ふつくら閉まる〉だなあ、と思う。

取り合わせの〈桃の日〉がめでたくて、春の息吹が〈ふっくら〉感じられてくる季節でもあり、よく響き合う。雛祭りにお寿司を作ったのかな、という想像もされてくる。こちらも想像力をよく活かした句だ。

 

2025年3月7日金曜日

●金曜日の川柳〔芳賀博子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ハイヒールマラソン ライバルは何処へ  芳賀博子

走りにくくて、記録も出ないし、転倒する選手も続出するだろう。と思うそれ以前に、ずいぶんとうるさいはず。何十足かのハイヒールがものすごい音とともに大通りを通り過ぎるのは、壮観であると同時に騒音だ(しょうもなく音韻を揃えてみました)。

この《ライバル》は競技上のみならず、広く生き方の好敵手っぽい。なにせ《ハイヒールマラソン》などというケッタイなものに参加するほどの人なのだから。

と、ここまで妄想を綴ったところで、ひょっとして実際に存在するのではないか、と思い立ち、インターネット検索(安易)してみると、2024年10月13日のシカゴマラソンにハイヒールを履いて走った男性(35歳)の記事が見つかった。ただし、これは、ハイヒールマラソン、ハイヒールマラソンとは違う。

ハイヒールが象徴するジェンダーその他の社会的概念、はたまたフェティシズムにはあえて触れないが、なんだか、強烈に20世紀的な事物だとは思っているのです。

 銀座明るし針の踵で歩かねば 八木三日女(1963年)

2025年3月3日月曜日

●月曜日の一句〔中村和弘〕相子智恵



相子智恵






パイプ椅子耀く下に蝶死せり  中村和弘

句集『荊棘』(2024.11 ふらんす堂)所収

〈耀く〉とあるので、一脚というよりは複数のパイプ椅子の脚が重ねられているところを想像した。体育館の倉庫などにパイプ椅子が畳まれ、重ねられているような場面だ。高い窓から差し込む光。輝く椅子。その下には死んだ蝶。蝶はパイプ椅子を片づける時に圧されて死んだのか、それともパイプ椅子の陰に紛れ込んで、その命を終えたのかもしれない。

蝶を美しい季語、耀くものとして描くのではなく、美しいのは人工物のパイプ椅子が跳ね返す光であって、蝶は無残にも死んでいる。羽も粉々になっているかもしれない。その対比が何とも切なくぞっとする。

『荊棘』は、生物の生死が濃く描かれた句集だ。特に魚類の句が多いように思った。そのどれもが力強く、悲しい。

ごみ鯰濡らしておけば生きておる

鱶吊られどどと夏潮垂らしけり

海底に白き蟹群れ良夜かな

人間もまた、生物として。

人間の影こそ荊棘夜の秋

大寒のモダンバレエの肋かな

汚さ、寒々しさ、悲しみを、まっすぐに描き切る。

 

2025年2月28日金曜日

●金曜日の川柳〔兵頭全郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





白騎士でよかった引っ越しが終わる

兵頭全郎(ひょうどう・ぜんろう)1969~

そもそも「白騎士」でなにがよかったのかさっぱりわからない。「で」がやっかいで、意識的にいたずらに読み手を路頭に迷わす。引っ越しが終わるという一つの成果を謳歌しているようでもある。タイプの異なる空間と時間の流れを独自の定義で一度に見せる。

兵頭全郎の川柳はいつも少し変わっていて、さまざまな意匠を凝らす。難しい言葉を使っているわけでもなく、内容もさっぱりしているのだが、文脈の組み合わせがヘンで、違和感をあえて残す。川柳は説明しすぎるとよく言われているが、彼の川柳は説明することで余計にわけがわからなくなるというからくりを見せる。書かれていないことをいかに読むかではなく、書かれていないことは無理して探さないでほしいと言われているような気がする。『白騎士』(2025年刊 私家本工房)所収。

2025年2月26日水曜日

西鶴ざんまい #75 浅沼璞


西鶴ざんまい #75
 
浅沼璞
 

師恩しる枕に替る薬鍋     打越
 願ひに秋の氷取り行く    前句
吉野帋さくら細工に栬させ   付句(通算57句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表7句目。 栬(もみぢ)=秋。 吉野帋(よしのがみ)=奈良吉野産の和紙(楮)。  さくら細工=「作り花」と記せば雑の正花だが、次の定座は三ノ折・裏なので、「さくら細工」と記して非正花にしたか。また「細工」と「魔法」(53句目)は同趣向だが、三句去りで許容範囲か。

【句意】吉野紙の桜の作り花(造花)を、紅葉させる。

【付け・転じ】前句の世にもまれな秋の願望を受け、さくら細工を紅葉させた。

【自註】此の付けかたは、前句に世にまれなる物を爰に請けて、作り花にして、春を秋に見せし也。近年は物の名人細工(めいじんざいく)出来て、*銀魚を金魚に照らし、鯉に紋所を付け、両頭の亀、**山の芋のうなぎになる事も其のまゝに、作り物ぞかし。
*銀魚=色の白い金魚。  **山の芋のうなぎになる=あり得ないことも名人の細工では可能だという諺。

【意訳】ここでの付け方は、前句の世に珍しい物(秋の氷)を受けて、手作りの造花によって春を秋にしてみせたのである。近ごろは細工の名人が現れ出て、白い金魚を紅くして照り輝かし、鯉に紋所のような模様を浮きだたせ、頭が二つある亀、「山の芋のうなぎになる」という諺もそのままに、作り物とする。

【三工程】
(前句)願ひに秋の氷取り行く

  世にもまれなる造花とて細工して 〔見込〕
     ↓
  名人の作り花とて秋にみせ    〔趣向〕
     ↓
  吉野帋さくら細工に栬させ    〔句作〕

前句の世にもまれな物への願望を名人細工の造花に託し〔見込〕、〈どのような名人芸なのか〉と問うて、春の作り花を秋に変化させてみせるとし〔趣向〕、「吉野紙の桜細工」を紅葉させると具体化した〔句作〕。

【先行研究】=*疎句の認識
①    付け方は自註に明らかで、「氷取行」の部分は無視して、「願ひ」と「秋」に対応、具体化した疎句付。(加藤定彦『連歌集 俳諧集』小学館、2001年)
②    前句(56句目)では「世にまれ」であった物が、付句(57)では「作り物」として世に出回っているという対比のなされている点が注目される。(中略)故事を背景にしたいわば人の〈実〉に近い行為を示す前句(56)と、当代の人々のさかしい俗なる行為を映した付句(57)とは、それぞれうまく照応し、この疎の付合を成立させている。(中略)「雪の笋」が現実にあるなしにかかわらず、それを古典の〈実〉の心で探すのも、細工で作り出す当代人のさかしい営為も、同じく「**世の人心」なのである。(水谷隆之『西鶴と団水の研究』和泉書院、2013年)
*疎句(そく)=付合語に頼らない内容主義的な心付。
**世の人心(ひとごゝろ)=西鶴晩年の浮世草子のテーマ。遺稿集『西鶴織留』巻三以降は、「世の人心」のタイトルのもとに執筆されていた。

2025年2月24日月曜日

●月曜日の一句〔佐山哲郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




亀五匹鳴かず動かず梅日和  佐山哲郎

梅と亀をセットのように思うのは、きっと天満宮(あの「東風吹かば」の菅原道真が祭神)で亀を見ることが多いせいだ。天満宮と亀の関係は、浅学にして知るを得ないが、「見ることが多い」のは気のせいばかりではない気がする。東京の三大天満宮とされる、湯島、亀戸、谷保の社内には、たしかに亀がいる。

たいした信心のない私が神社に立ち寄るのは、正月、それに梅の頃なので、この句の《梅日和》にはよくよく得心する。日和なので、池のまんなかあたりの岩の上に《五匹》が集まって甲羅干しすることにも納得。得心/納得ばかりでは、俳句として味が足りないぶん、《鳴かず》として、季語「亀鳴く」へと手を伸ばす。読者サービスが行き届いている点、この作者、この句集の大きな美点、と、私などは思うが、その過剰さに鼻白む人もいるかもしれない。

なお、同句集の5ページうしろには、こんな句もある。

再度亀鳴いて麻酔の醒めにけり  佐山哲郎

実際には鳴かないらしい亀の鳴き声が聞こえるのは、藤原為家の時代なら川越の夕闇、現代なら例えば病院のベッドなのかもしれない。

掲句は佐山哲郎句集『和南』(2024年12月/西田書店)より。

2025年2月21日金曜日

●金曜日の川柳〔久保田紺〕樋口由紀子



樋口由紀子





グリーンの全身タイツ着て逃げる

久保田紺(くぼた・こん)1959~2015

「グリーンの全身タイツ」で「逃げる」は非常口の標識に描かれている「ピクトさん」を思い浮かべる。しかし、掲句は作者自身を戯画化している。そんな目立つ格好をして、本気で逃げる気はあるのかとツッコミを入れたくなるが、「グリーンの全身タイツ」の突飛さがかえって作者の切実さを意識させる。今居る場から抜け出す唯一無二の手段で、エネルギーなのだろう。

奇行で奇抜であればあるほど人物が鮮やかに浮かびあがる。その姿はしたたかであるが、脆さが見えて、痛々しく、ナイーブさを際立たせる。それが本当の「私」なのだと言っているようで、おかしみとかなしみが同時にやってくる。『大阪のかたち』(川柳カード叢書)所収。

2025年2月17日月曜日

●月曜日の一句〔青木ともじ〕相子智恵



相子智恵






一応は在る花貝の蝶番  青木ともじ

句集『南のうを座』(2024.11 東京四季出版)所収

〈花貝〉は桜貝のこと。小さく薄い桜貝に、これまたちぎれそうに儚い蝶番がある。そう、〈一応は在る〉のだ。桜貝の貝殻を拾う時、蝶番が残っているもののほうが少ない。

掲句、〈蝶番〉を見つけたのが発見である。もちろん写生的な〈一応は在る〉という発見が優れているというだけではない。「花」と「蝶」という言葉のつながりの発見でもあるのだ。そう考えてみると掲句は「桜」ではなく、やはり「花」であるべきなのだな、と思う。

掲句の前の句は、次の一句だ。

 干す漁具の中に花貝残りけり

この句の実直さがあるから、掲句の発見が上滑りしない、という句集の妙味もあった。

 

2025年2月14日金曜日

●金曜日の川柳〔森中恵美子〕樋口由紀子



樋口由紀子





白菜をたっぷりと切る冬のおと

森中恵美子(もりなか・えみこ)1930~2025

1月4日に森中恵美子が亡くなった。女性川柳人の先駆者で、明るく、可愛く、逞しく、私たちを引っ張った。川柳を勢いづけてくれた功労者である。

冬野菜を刻む音はいろいろあるけれど、白菜をざくざく切る音は大根や葱とは一味違う。今夜は鍋なのだろう。それも「たっぷり」だから、いつもの一人鍋ではない。誰かがやってくる。冷たい、寂しい「冬の音」ではなく、楽しく、わくわくする、この音が森中恵美子にとっての「冬のおと」なのだろう。『仁王の口』(1996年刊 葉文館出版)所収。

2025年2月12日水曜日

西鶴ざんまい #74 浅沼璞


西鶴ざんまい #74
 
浅沼璞
 

 眠る人なき十七夜待      打越
師恩しる枕に替る薬鍋
      前句
 願ひに秋の氷取り行く
     付句(通算56句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表6句目。 秋の氷(秋)=季節外れの氷。三ノ折・表の月の座(秋)を意識したか。なお二オ一句目(23句目)に氷の音(春)があるが、同字は三~五句去り。

【句意】(病人の)願いに従い、秋の氷を取りにゆく。

【付け・転じ】前句の看病する人たちが、病人の求めに従い、季節外れの氷を探しに行くと想定した。

【自註】*長病の人、かならず食物に時ならぬを好む事也。**唐土の親仁も雪中の竹の子このまれし。是、***八十三の三つ子のごとし。前句、病人も口中のねつにして、「秋の氷もがな」といはれしを、思ひ/\に手分けにして、名山・高山にたづね入り、願ひをまゐらせたる****心行也。人、まことあれば、天、是をめぐみ給ひ、たとへば****二月の松茸にても世にないといふ事なし。
*長病(ちやうびやう)の人=長期療養の患者。  **唐土(もろこし)の親仁も~=『二十四孝』「孟宗」の故事。老母のために雪中の筍を求めた。親仁は誤り。  ***八十三の三つ子=子供のように耄碌した態の諺。  ****心行(こゝろゆき)=内容主義の心付(今栄蔵著『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、2002年)。  *****二月の松茸=季節外れの食べ物の例。

【意訳】長患いの人はたいてい季候外れの食べ物をほしがるものである。支那の『二十四孝』のおやじ(正しくは老婆)も雪中の筍を所望した。これは耄碌して三歳児になったようなものだ。前句の病人も、口中の高熱によって「秋の氷があれば」と言ったのを、みな思い思いに手分して、名山や高山に訪ねて行き、願いの氷を進呈した(そんなことを想定した心行の)付け方である。人に誠意があると、天はこれをお恵みくださり、たとえば二月の松茸でも浮世に得られないということはない。

【三工程】
(前句)師恩しる枕に替る薬鍋

  時ならぬもの好む病人  〔見込〕
   ↓
  口中さます秋の氷を   〔趣向〕
   ↓
  願ひに秋の氷取り行く  〔句作〕

前句の病人が季候外れの食べ物を欲しがると見なし〔見込〕、〈どのようなものを欲しがるのか〉と問うて、口中の熱をさます秋の氷とし〔趣向〕、その季節外れの氷を看病する人たちが探しに行くと想定した〔句作〕。

 
鶴翁は浮世草子『本朝二十不孝』で「雪中の筍」は八百屋にあると書いたり、独吟『大句数』で〈どこにあらうぞ雪の筍〉と口語で詠んだりしてますね。そういえば近代でも〈約束の寒の土筆を煮て下さい〉という口語の名句がありますよ。
 
「なるほど、えー句やな。わしやったら、〈約束の二月の松茸手にもがな〉、〈約束の秋の氷を口元へ〉とかやろ」

やはり上五を使いたくなりますか。
 
「そやな、むかし女房が病で亡うなった折、約束を果たせんかったよってな……」

2025年2月8日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


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2025年2月7日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



なお父はテレビの裏のかわいそうです  榊陽子

「裏で」ではなく《裏の》。《父》はテレビの裏にいてかわいそう、なのではなく(それもじゅうぶん悲惨だが。だってテレビの裏は、すくなくとも我が家のテレビの裏は、ホコリだらけで、配線はこんがらがっているわ、いつの虫だかわからない虫が死んで乾いていたりで、居心地のいい場所ではないので)、この《父》は、《テレビの裏のかわいそう》そのものなの。です。

なんて、かわいそうな存在!

上五は「父さんは」とでもすれば、《なお》という切り込み方はしなくていいのだけれど、「父さん」ではいい意味でも悪い意味でも緩いし、《なお》という導入の変則具合は、「変」を愛する人たち(私も含む)に愛される導入。それに、この言い方のほうが、あらたまって告げるっぽい。つまり、「父さんは」が醸す口語的空気から遠のく。

下五は、どうだろう。「かわいそう」で終われば、ぴったり五七五。《かわいそうです》の5音からはみ出た《です》は、例えば、言い終えてから、「あ、この人とは、そんな間柄じゃなかった、あまり知らない人だ。目上だ」といったぐあいに、あわてて《です》を言い足して、ていねいにしたのかもしれません。それにまた、《なお》とあらたまって始まった以上、《です》と締めるのが自然だし、礼儀にかなっている。です。

2025年2月3日月曜日

●月曜日の一句〔草子洗〕相子智恵



相子智恵






うにやうにやとしやべりだす猫明日は春  草子洗

句集『由布久住』(2024.5 飯塚書店)所収

今年は昨日の2月2日が節分、3日の今日が立春となった。

掲句、節分である。明日は立春だな……と思っていたところに猫が〈うにやうにや〉と、まるで喋り出したかのように鳴いた。

〈しやべりだす〉は擬人化で、俳句の技法としてはあまり好まれないところだが、猫の鳴き声が人間のように聞こえるというのはよく経験することで、実感があった。猫の鳴き声が、赤ちゃんの泣き声に似ていてドキッとしたことが、筆者にも何度もある。

〈うにやうにやとしやべりだす猫〉の語呂や平仮名表記もよく考えられており、〈明日は春〉の下五も相まって「ア」の母音が多くて全体が明るい。猫も浮かれているように感じられてくる。そういえば、春は猫の恋の季節でもあるのだ。

 

2025年1月31日金曜日

●金曜日の川柳〔中村冨二〕樋口由紀子



樋口由紀子





私の影よ そんなに夢中で鰯を喰ふなよ

中村冨二(なかむら・とみじ)1912~1980)

それはまさしく自分の姿である。影を通して、自分を見ている。鰯を夢中で食べるのは生きていくためである。その姿は可笑しいような哀しいようなで、ちょっといびつで壊れた格好はいままで以上により愛おしく見えたのだろう。一体、私はどんな格好で生存しているのだろうか。

七八八の川柳で、冨二独自の文体を作り上げている。五七五で作り直したら、たぶん台無しになると思わせられる技である。言葉は文脈のなかで意味が生じる。それがごく自然に感じるのは、言葉の配置の上手さによるのだろう。この文脈の中で生み出されないものがある。『中村冨二・千句集』(1981年刊 ナカトミ書房)所収。

2025年1月29日水曜日

西鶴ざんまい #73 浅沼璞


西鶴ざんまい #73
 
浅沼璞
 

魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑  打越
 眠る人なき十七夜待      前句
師恩しる枕に替る薬鍋      付句(通算55句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏5句目。 雑。 薬鍋(くすりなべ)=煎薬を煎じる鍋。

【句意】師恩を知る(門人たちが、病床の師匠の)枕辺で代わる代わる薬鍋の薬を煎じている。

【付け・転じ】前句の「十七夜待」に師の平癒祈願を、「眠る人なき」に徹夜の看病をあしらった。

【自註】何の先達によらず、爰(こゝ)は*病家にして付けよせたり。「師恩」と出だしけるは、其の弟子、年月の恩をわすれず、跡や枕に付添ひて昼夜心をつくし、壱人も眠る事なく、諸仏諸神をいのりて、心ざしの**影待、又は立願(りふぐわん)の***七日まゐり。替り/”\に薬をせんじ、今一たびの命を願ふまことある所を付けける。
*病家(びやうか)=病室。  **影待(かげまち)=「月待」に同じ。  ***七日まゐり=社寺へ一日に七度、七日間お参りし、祈願すること。

【意訳】どのジャンルの師匠に限らず、ここは(師匠の)病室を其の場として付けよせた。「師恩」と上五においたのは、その弟子たちが年来の恩を忘れず、病床のその周囲に侍って昼夜心をつくし、誰も眠ることなく、諸々の神仏に祈って、厚意による月待・日待、または平癒祈願の七日参り。皆で代わる代わる薬を煎じ、今一たびの延命を願う誠意ある場面を付けたのである。

【三工程】
(前句)眠る人なき十七夜待

  先達の病家に弟子の祈りをり 〔見込〕
   ↓
  年月の恩に病の師を囲み   〔趣向〕
   ↓
  師恩しる枕に替る薬鍋    〔句作〕

前句の「眠る人なき」を*徹夜の看病と見て、「十七夜待」に師の平癒祈願を思いなし〔見込〕、〈弟子達はどのような心情か〉と問うて、日ごろの恩を忘れていないとし〔趣向〕、代わる代わるに煎じる「薬鍋」という素材を詠みこんだ〔句作〕。

*檜谷昭彦氏は〈西鶴の死に後れること一年の元禄七年十月十一日の晩、翌日の死を前に松尾芭蕉は弟子丈艸の詠んだ、「うづくまる薬の下(もと)の寒さかな」なる句を「出来(でかし)たり」と賞めた〉と記したうえで、この〈師恩しる枕に替る薬鍋〉に言及し、〈そういう状景を連想させる句作りであり、同趣旨の句柄でもある〉と評した(慶應義塾大学藝文学会「藝文研究」50号所収「西鶴晩年の動向」1986年)

 
そういえば鶴翁逝去の翌年、蕉翁も弟子たちに囲まれて……。

「確かわしより二つほど若かったはずやけど、わしが死んだ翌年、もう亡うなったんかい」
 
はい。まさに同時代人でしたね、お二人は。
 
「時代は同じでもな、いき方が真逆やったな」
 
たしかに。

2025年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔五島高資〕相子智恵



相子智恵






冬の星また埋め戻す遺跡かな  五島高資

句集『星辰』(2024.5 角川文化振興財団)所収

遺跡の発掘調査では、全ての記録作業が終わると、掘った遺跡は埋め戻されることが多い。その上に道路が敷かれたり、建物が立ったりすることもあるだろう。

かつてあった暮らしの痕跡。縄文時代から近代まで、そこに暮らした人たちも見上げていたであろう冬の星空。埋め戻しによって、また星空が見えない地中に戻るのだ。そして、埋め戻された同じ場所から星空を見上げている私たち。その遥かな巡り合わせに思いを馳せる。

日本の遺跡数は約46万箇所を越えるというから、今日もどこかで遺跡の埋め戻しが行われているかもしれない。決してめずらしくはない作業を描きながらも、〈冬の星〉によって非常にスケールの大きな一句となっている。

 

2025年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔暮田真名〕樋口由紀子



樋口由紀子





花束を腐らせてこそ女の子

暮田真名(くれだ・まな)1997~

男性から花束をもらったのだろうか。花束をもらえば、だれだって喜ぶというのは単なる刷り込みに過ぎない。究極の憎しみだろう。「腐らせてこそ」は圧巻である。「捨てる」「枯らす」とは比べものにならないくらいのインパクトであり、悪意がある。動詞の威力が衝撃度MAXに発揮されている。

「腐らせる」というのはずっと手元に置いておくということである。じわじわと首が絞まるように、萎れていく様子を、時間をかけて、自らは手をくださないで、だまってながめている。それでこそ「女の子」であると気持ちいいくらいに高々と宣言している。「What’s」7号(2024年刊)所収。

2025年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔佐々木紺〕相子智恵



相子智恵






寒禽のとほき光点窓に頬  佐々木紺

句集『平面と立体』(2024.1 文學の森)所収

冬の鳥が1羽、空高く飛んでいる。その姿は発光する1つの小さな点のように見えている。抜けるような冬青空なのだろう。

下五で場面は突如、〈窓に頬〉と切り替わる。これで、作中主体は窓に頬をくっつけて、室内から空高く飛ぶ鳥を眺めているのだということが分かる。作中主体が室内にいると規定されたことで、何か空や自由への憧れのような気持ちまで立ち現れてくるようだ。

窓からも入ってくる冬の日差しの眩しさ。しかし頬をくっつけた窓ガラスはひやりと冷たく、それが、暖房で火照った頬に気持ちよく感じられてくることだろう。

過不足ない言葉で、句の中に描かれていない冬の空の様子や頬の温度、そこから伝わる気持ちの機微など、句の背景をたっぷりと想像させる。

花冷やフルーツサンドやすませて

ブラウスのボタン薄くて蓬摘む

をさなごの白目の青く冬に入る

押し花のさいごの呼吸しぐれゆく

掲句を始めとして、書かれた言葉の外側(書かれていない想像の部分)に、光や湿度や温度などをしっかりイメージさせる句が多く、繊細で透明感のある句集であった。

 

2025年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔柳本々々〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



象 忘れ物をしてまた出会うこと  柳本々々

五七五17音の定型(ぞうわすれ/ものをしてまた/であうこと)のもつ韻律の心地よさを、あまずは言っておいて、《象》の直後の全角1字アキが、俳句における切字に見えてくる。

川柳を俳句に引き寄せて語ると叱られそうだが、俳句の近くに身を置く者としては、どうしても、ここに断絶・切れ・裂け目を見てしまう。2音の直後とという切れの位置の変則具合も含め、切字の快楽が、ここのはたしかに、ある。

《象》は、《忘れ物をしてまた出会うこと》という中盤以降を包む込みながら離れて有る。この句の《象》は、事物であり、《象》的な空気であり、《象》的な感触。言い過ぎの誹りを覚悟すれば、《象》を初めて目にした日のことすべて、かもしれない。

そうした《象》的なものが照らす/響くなか、中盤以降は、どうだろう? 《忘れ物をしてまた出会うこと》の中にも、軽い断絶・微かなよじれがある。《忘れ物》と再会とは、因果を離れつつ、一種ロマンチックな気分ではつながっている。

〈切れ〉をはさんで、モノとコトが偶発的な、また一度きりの同居・照応を果たす。これは俳句やら川柳やらのジャンルに拠らない。まずまず短い(おおよそ17音の)テキストがもたらす愉楽なのだなあ、と。

掲句は『川柳スパイラル』第2号(2018年3月)より。

2025年1月15日水曜日

西鶴ざんまい #72 浅沼璞


西鶴ざんまい #72
 
浅沼璞
 

 鰤には羽子がはえて飛ぶ年   打越
魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑  前句
 眠る人なき十七夜待      付句(通算54句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏4句目。 雑。 十七夜待(まち)=1・5・9・11月の十七夜に月の出を待って祈願する行事。夜を徹し、講仲間で飲食・遊興に興じる。

【句意】誰も眠る人のない十七夜待である。

【付け・転じ】前句の魔法を月待の余興と見立て、十七夜待に特定した。

【自註】月待*日待の夜を明しける慰みとて、其あたり友とせし人々を集めて、御鏡餅**三寸徳利をそなへ、***旦那山伏は錫杖を振りならし、夜のふけゆく目覚しにとて、浄溜利(浄瑠璃)こうたに物まね、あるひはひとり狂言、又は****品玉、さま/”\の事して、いづれも大笑ひに心よく一夜を明しける。
*日待(ひまち)=月待に同じく特定の日に不眠のまま日の出を拝する行事。  **三寸徳利(みきどくり)=お神酒徳利。  ***旦那山伏(だんなやまぶし)=ふだん祈祷してもらう山伏。  ****品玉(しなだま)=曲芸や手品。

【意訳】月待・日待の夜を徹する余興として、近隣の友とする人たちを集めて、御鏡餅・お神酒徳利を供え、いつもの山伏は錫杖を振りならし、夜のふけていく眠気覚ましとして、浄瑠璃・小唄に物真似、あるいは一人芝居、または曲芸や手品、いろいろな事をして、誰もみな大笑いして気分よく一夜をあかした。

【三工程】
(前句)魔法にもせよ不思議成る隠れ蓑

 日待月待さま/”\の芸 〔見込〕
   ↓
 日待月待目覚しの芸   〔趣向〕
   ↓
 眠る人なき十七夜待   〔句作〕

前句の魔法を月待でのいろいろな遊興のひとつと見なし〔見込〕、〈なぜあれこれ遊興するのか〉と問うて、夜更けの眠気覚ましとし〔趣向〕、不眠の十七夜待に特定した〔句作〕。
 
*このように趣向・句作の距離が短いため、小学館・新編日本古典文学全集61では遣句体(やりくたい)と評してある。

 
『好色五人女』に十七夜代待(だいまち)という職業が記されていますね。
 
「あー、代待いうんは米銭もろうて人様の代わりに月の出を待ってな、そん人に託された所願を祈るんやで」
 
あー、現代でいう代行業ですね。
 
「なんやそのダイコンいうんは」
 
いや、代行サービスといって、外出先で飲酒した人の代わりにマイカーを自宅まで運転したり、就職してすぐ退職する人の代わりに面倒な事務手続きをとったり、いろいろです。

「なんや時代は移っても浮世の身過ぎ・世過ぎはさして変わらんいうことやな」

2025年1月13日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




遅刻して

原因はさまざま。寝坊したか電車が遅れたか。

遅刻して正座の

バツが悪かろう、謝罪の意味もあり、かしこまっている。

遅刻して正座の神

遅刻したのは作者/作中主体と思っていたら、そうではなく《神》。若干、寓意も帯び始める。

遅刻して正座の神も

助詞《も》が付いた。他にも誰か、何かが、この場所にはいるらしい。

遅刻して正座の神も蜜柑剝く  生駒大祐

《神》その他、正座のまま、蜜柑を剝きはじめた。さきほどの〈寓意〉含みの景色・事象から軽やかに、あるいはヘナヘナと、別の様相へと翻る。

掲句は『ねじまわし』第9号(2024年12月1日)より。アタマから順に字句をあけていく趣向は同誌同号の記事「時間のかかる俳句」に倣った。

2025年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



植木屋が来て電線を切っている  佐藤みさ子

たいへん困った事態だが、家に来て、高いところに登る人は、限られている。植木屋、それに通信業者から委託されて回線開設の工事に来る業者。後者は、1985年の通信自由化以降、NTTなんたらやらauなんたらやらひかりなんたらやら、契約を乗り換えるたびに新しい電線が家の周りに張られ、古い電線はほったらかしで、そのうち鳥の巣のように、は、なるわけないが、ともかくややこしく、電線の工事業者が枝の一本や二本まちがって断ち切ってしまっても不思議はないのだから、植木屋が電線を切ってしまうこともあるだろう。

「あっ、それ、ちがいますよ!」と下から叫んでも遅い。樹の上で「ありゃま!」とバツの悪そうな顔をするなら、かわいく、委細構わず切り続けたら、怖い。生きていれば、暮らしていれば、いろいろなことが起きる。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2025年1月8日水曜日

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2025年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ざらざらとして初富士の光りけり  岸本尚毅

《ざらざら》は視覚からもたらされるのですが、たぶんに触覚的でもあります。つまり、触ってみたかのようなおもむき。遠景の富士山は小さくて(《ざらざら》が見えるくらいには大きいにせよ、小さくて)、手のひらに触れることもかないそうです。

稚気にも等しい《ざらざら》の描写ですが、それだからこそ初(うぶ)な富士の様子が、とてもかわいい。

句集の同じページに《東宝はゴジラの会社初御空》というポップ味に溢れる句がありますが、それにも負けず、ポップでキュートです、この、ざらざら光るお正月の富士山は。

掲句は岸本尚毅句集『雲は友』(2022年8月/ふらんす堂)より。

2025年1月1日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇25 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇25
 
浅沼璞
 
 
先ごろ、この年末年始に相応しく、大晦日を舞台とした『世間胸算用』の、その新しい現代語訳が刊行されました。

近世文学研究者にして時代小説家の中嶋隆氏によるものです。
 
すでに氏には光文社・古典新訳文庫『好色一代男』があり、今回は西鶴訳の第二弾となります。
 
その一代男訳に関しては*番外篇14でもふれましたが、通時的かつ共時的な巻末解説に目から鱗でした。
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇14 浅沼璞

 
むろん今回も目から鱗の解説文で、例をあげると――
〈大晦日は、商人すべてが体験する収支決算日であり、一年間の商業活動が集約される日でもあった。全短編の時間設定を大晦日に統一するという仕掛けは、前例のない西鶴の独創的趣向である。/この趣向は重要な意味をもった。なぜなら、貧乏人がどうして落ちぶれたか、また年が明けてからどう生活するのか、ということを書く必要がないからである。つまり大晦日一日の時間だけが切り取られていて、その前後が書かれていない。したがって、読者はその部分を想像力で補わなければならない。〉

中島氏は〈書かれていることより、書かれていないことのほうが読者の想像力をかき立てる場合が多い〉とも述べており、この省略技法を「空白のコンテクスト」と呼んでいます。

たぶんこの「空白のコンテクスト」のルーツをたどると、俳諧の「抜け」に行き着くのではないでしょうか。
 
これは*番外編17でも述べたことですが、談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、芭蕉の『炭俵』や西鶴の『胸算用』の世界がひらかれた、というのが愚生の見立てです。 
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇17 浅沼璞

 
ところで中嶋氏は、全短編の時間を大晦日に統一するという「省略」の世界は読者の「共感」を呼びやすかった、とも指摘しています。
 
〈大晦日は商人すべてに関わる「一日千金」の重要な日なので、読者は作品に描かれた状況に共感しやすいという面もあった。〉
 
この「省略」と「共感」の関係性は、やはり芭蕉の「軽み」にも通底するように思われてなりません。
 
  大晦日定めなき世のさだめ哉    鶴翁
 
定めなき無常の浮世にあって、人間がさだめた大晦日の総決算、その悲喜こもごもの話に共感を覚えない読者は少なかったことでしょう。