2025年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



植木屋が来て電線を切っている  佐藤みさ子

たいへん困った事態だが、家に来て、高いところに登る人は、限られている。植木屋、それに通信業者から委託されて回線開設の工事に来る業者。後者は、1985年の通信自由化以降、NTTなんたらやらauなんたらやらひかりなんたらやら、契約を乗り換えるたびに新しい電線が家の周りに張られ、古い電線はほったらかしで、そのうち鳥の巣のように、は、なるわけないが、ともかくややこしく、電線の工事業者が枝の一本や二本まちがって断ち切ってしまっても不思議はないのだから、植木屋が電線を切ってしまうこともあるだろう。

「あっ、それ、ちがいますよ!」と下から叫んでも遅い。樹の上で「ありゃま!」とバツの悪そうな顔をするなら、かわいく、委細構わず切り続けたら、怖い。生きていれば、暮らしていれば、いろいろなことが起きる。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2025年1月8日水曜日

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2025年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ざらざらとして初富士の光りけり  岸本尚毅

《ざらざら》は視覚からもたらされるのですが、たぶんに触覚的でもあります。つまり、触ってみたかのようなおもむき。遠景の富士山は小さくて(《ざらざら》が見えるくらいには大きいにせよ、小さくて)、手のひらに触れることもかないそうです。

稚気にも等しい《ざらざら》の描写ですが、それだからこそ初(うぶ)な富士の様子が、とてもかわいい。

句集の同じページに《東宝はゴジラの会社初御空》というポップ味に溢れる句がありますが、それにも負けず、ポップでキュートです、この、ざらざら光るお正月の富士山は。

掲句は岸本尚毅句集『雲は友』(2022年8月/ふらんす堂)より。

2025年1月1日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇25 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇25
 
浅沼璞
 
 
先ごろ、この年末年始に相応しく、大晦日を舞台とした『世間胸算用』の、その新しい現代語訳が刊行されました。

近世文学研究者にして時代小説家の中嶋隆氏によるものです。
 
すでに氏には光文社・古典新訳文庫『好色一代男』があり、今回は西鶴訳の第二弾となります。
 
その一代男訳に関しては*番外篇14でもふれましたが、通時的かつ共時的な巻末解説に目から鱗でした。
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇14 浅沼璞

 
むろん今回も目から鱗の解説文で、例をあげると――
〈大晦日は、商人すべてが体験する収支決算日であり、一年間の商業活動が集約される日でもあった。全短編の時間設定を大晦日に統一するという仕掛けは、前例のない西鶴の独創的趣向である。/この趣向は重要な意味をもった。なぜなら、貧乏人がどうして落ちぶれたか、また年が明けてからどう生活するのか、ということを書く必要がないからである。つまり大晦日一日の時間だけが切り取られていて、その前後が書かれていない。したがって、読者はその部分を想像力で補わなければならない。〉

中島氏は〈書かれていることより、書かれていないことのほうが読者の想像力をかき立てる場合が多い〉とも述べており、この省略技法を「空白のコンテクスト」と呼んでいます。

たぶんこの「空白のコンテクスト」のルーツをたどると、俳諧の「抜け」に行き着くのではないでしょうか。
 
これは*番外編17でも述べたことですが、談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、芭蕉の『炭俵』や西鶴の『胸算用』の世界がひらかれた、というのが愚生の見立てです。 
*ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外篇17 浅沼璞

 
ところで中嶋氏は、全短編の時間を大晦日に統一するという「省略」の世界は読者の「共感」を呼びやすかった、とも指摘しています。
 
〈大晦日は商人すべてに関わる「一日千金」の重要な日なので、読者は作品に描かれた状況に共感しやすいという面もあった。〉
 
この「省略」と「共感」の関係性は、やはり芭蕉の「軽み」にも通底するように思われてなりません。
 
  大晦日定めなき世のさだめ哉    鶴翁
 
定めなき無常の浮世にあって、人間がさだめた大晦日の総決算、その悲喜こもごもの話に共感を覚えない読者は少なかったことでしょう。