これは視点を変えれば、いわゆる「軽み」への接近と換言できるでしょう。
談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、あの『炭俵』や『世間胸算用』が生まれたと取りあえず言っておきます。
さて、会期は過ぎてしまったのですが、出光美術館『江戸時代の美術――「軽み」の誕生』(9/16~10/22)というタイムリーな企画展に行ってまいりました。
図録によると、江戸画壇の雄・狩野探幽は、絵画の心得をめぐり、「絵はつまりたるがわろき」*という印象的な言葉を残しているそうです。 *『麓木抄』(1673年頃)。
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つまり、絵の要素のすべてを画面に描きつくし、「つまる」のは好ましくなく、ゆとりや隙を感じさせ、「つまらない」ようにすべきだ、というのです。それを聞いた後水尾(ごみずのお)天皇は賛意をしめされただけではなく、和歌をはじめ、あらゆる芸術ジャンルに普遍的なものと指摘されたそうです。
そこから芭蕉の「軽み」へと図録は言及していきます。
というわけで芭蕉の発句自画賛も六点ほど展示されていましたが、ここでは西鶴との関連が深い浮世絵画家の作品を二点ピックアップします。
まずは『好色一代男』江戸版(1684年)の挿絵を描いたことで知られる菱川師宣の、古様の肉筆画「遊里風俗図」(1672年)。
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遊郭の奥座敷での歌舞や酒宴が享楽的に描かれています。
火鉢の横で抱き合う男女の姿はややかすれているのですが、図録によれば、「制作後に屏風が描き加えられ、二人が塗り消されていた時期があったようだ」との由。
明治以来、禁書だった西鶴の好色物が、大正期に復刻される段になっても、あちこち伏字にされていたことが思い合わされますが、師宣のこの描写、男女の下半身は引き戸(?)で隠されており、「抜け」が効いていないわけではありません。わざわざ塗りつぶす必要はなかったのではないでしょうか。似たことは西鶴の伏字についてもいえましょうが。
さて師宣と並んで浮世絵の祖と称される岩佐又兵衛の「源氏物語 野々宮図」(17世紀)も展示されていました。
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これは源氏・賢木巻の一場面を、水墨を主体にして描いたものです。
かつての恋人・六畳御息所を嵯峨野に訪ね、変わらぬ恋情を伝えようとするシーンですが、図録によれば「これから会うはずの御息所の姿を省略し、源氏のみを接近してとらえるという大胆な試みをしている」との由。
まさに「抜け」「軽み」に通底する「つまらない」筆法でしょう。
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「あのな、一代男の挿絵の件やけどな、上方の原本はワシが描いてんねんで」
あっ、抜かしてしまいました。
「抜け抜けとよう言うな」
はい、軽々しくて申し訳ありません。
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