2008年7月30日水曜日
神輿のミコちゃん
御輿のミコちゃん ● 中嶋憲武
職場の町内会の例大祭なので、仕事が早めに終る。仕事場の清掃を済ませて、流しで湯のみを洗っていると、帰り仕度をしていたスズキさんが、「神輿、担ぐんだって? ナカジマくんの真価が問われるね」と言うので、「シンカーですか? 勝負に行くなら、シンカーよりシュートを使います」と答えると、スズキさんは「いや、真価でも廊下でもいいけど」と言って笑ったので、俺も笑った。
祭衣(すなわちダボシャツ、半タコ、足袋、半纏、これに帯を巻く。帯は自分では巻けないので、社長が巻いてくれた。帯を巻くと心なしか、気分が引き締まり、背筋もぴんと伸びたような心持ちがした)に着替えて、18時に所定の場所へ行くと、すでにそこには、江戸の男女が祭衣で集っていた。いやがうえにも高まる江戸気分。三社の神輿を担ぐのではなくて、松が谷三丁目町会の神輿を担ぐのであるが、「三」で繋がっているし、三丁目の夕日とも連想出来るのでオッケー。
三丁目の夕日を浴びて、神輿が威勢よく挙がる。神輿を担ぐのは天保六年以来のことなので、担ぎ方はあらかた忘れていたが、担いでいるうちにだんだん思い出してきた。社長の言う通り、若い女性が俺の前の寸分の隙間もないようなところへ割って入ってくるので、自然に密着。とてもいい。
\(^0^)/
その時の心持ちを表すとすると、上のような顔文字に落ち着くであろうか。心持ちは、拍手喝采のような感じなのだが、顔つきは威勢のいい江戸の人を装っている。それにしても、女の人の祭髪といいますか、きりっと後ろで束ねた髪はいいですね。どんな女性でも美人になってしまう。今度生まれ変わったら、絶対女の人に生れてみたいと思う瞬間でした。
彼女らを見ていると、ワンクールの連続ドラマ「神輿のミコちゃん」という番組があってもいいような気がしてくる。舞台は下町、16歳の少女がいて、食事もすれば、散歩もする、恋もするといったような態のドラマで、最後はかならず神輿をかつぐショット。神輿をかつぐ群衆の俯瞰のショットから少女のバストショット。笑顔で神輿かつぐアップへ。そして字幕。「苦しくたって 悲しくたって 神輿をかつぐ 神輿は世界 世界はわたし それがわたしであることなのだから それでいいじゃない」というような。
ところどころで休むたびに、居酒屋さんの前ではその店の提供の焼き鳥や焼酎やウーロン茶、牛乳屋さんの前ではヨーグルト、コンビニエンスストアーの前ではクロワッサンや缶ビールと、なにやら供されるので、これもまた神輿を担ぐ楽しみのひとつかと合点。
掛け声はさまざまで、「えっさーえっさー」やら「えいえい」やら「さー」やら神輿初心者の自分としては単純に「わっしょい」と思っていたのであるが、誰も「わっしょい」なんて言ってる人は無く、その時の気分で廻りの人になんとなく合わせてみた。休憩地点では馬を置いて、その上に神輿を置くのであるが、このとき、みんなでいっせいに拳をつきだして振るというような仕草は、なんだか江戸っぽくなく、むしろラテン的と言ってもいいような仕草なので、正しい神輿の掛け声と振る舞いについて調べてみたくなった次第。そんなもの無いのであろうか。
祭は明日もつづく。
●
職場の町内会の例大祭なので、仕事が早めに終る。仕事場の清掃を済ませて、流しで湯のみを洗っていると、帰り仕度をしていたスズキさんが、「神輿、担ぐんだって? ナカジマくんの真価が問われるね」と言うので、「シンカーですか? 勝負に行くなら、シンカーよりシュートを使います」と答えると、スズキさんは「いや、真価でも廊下でもいいけど」と言って笑ったので、俺も笑った。
祭衣(すなわちダボシャツ、半タコ、足袋、半纏、これに帯を巻く。帯は自分では巻けないので、社長が巻いてくれた。帯を巻くと心なしか、気分が引き締まり、背筋もぴんと伸びたような心持ちがした)に着替えて、18時に所定の場所へ行くと、すでにそこには、江戸の男女が祭衣で集っていた。いやがうえにも高まる江戸気分。三社の神輿を担ぐのではなくて、松が谷三丁目町会の神輿を担ぐのであるが、「三」で繋がっているし、三丁目の夕日とも連想出来るのでオッケー。
三丁目の夕日を浴びて、神輿が威勢よく挙がる。神輿を担ぐのは天保六年以来のことなので、担ぎ方はあらかた忘れていたが、担いでいるうちにだんだん思い出してきた。社長の言う通り、若い女性が俺の前の寸分の隙間もないようなところへ割って入ってくるので、自然に密着。とてもいい。
\(^0^)/
その時の心持ちを表すとすると、上のような顔文字に落ち着くであろうか。心持ちは、拍手喝采のような感じなのだが、顔つきは威勢のいい江戸の人を装っている。それにしても、女の人の祭髪といいますか、きりっと後ろで束ねた髪はいいですね。どんな女性でも美人になってしまう。今度生まれ変わったら、絶対女の人に生れてみたいと思う瞬間でした。
彼女らを見ていると、ワンクールの連続ドラマ「神輿のミコちゃん」という番組があってもいいような気がしてくる。舞台は下町、16歳の少女がいて、食事もすれば、散歩もする、恋もするといったような態のドラマで、最後はかならず神輿をかつぐショット。神輿をかつぐ群衆の俯瞰のショットから少女のバストショット。笑顔で神輿かつぐアップへ。そして字幕。「苦しくたって 悲しくたって 神輿をかつぐ 神輿は世界 世界はわたし それがわたしであることなのだから それでいいじゃない」というような。
ところどころで休むたびに、居酒屋さんの前ではその店の提供の焼き鳥や焼酎やウーロン茶、牛乳屋さんの前ではヨーグルト、コンビニエンスストアーの前ではクロワッサンや缶ビールと、なにやら供されるので、これもまた神輿を担ぐ楽しみのひとつかと合点。
掛け声はさまざまで、「えっさーえっさー」やら「えいえい」やら「さー」やら神輿初心者の自分としては単純に「わっしょい」と思っていたのであるが、誰も「わっしょい」なんて言ってる人は無く、その時の気分で廻りの人になんとなく合わせてみた。休憩地点では馬を置いて、その上に神輿を置くのであるが、このとき、みんなでいっせいに拳をつきだして振るというような仕草は、なんだか江戸っぽくなく、むしろラテン的と言ってもいいような仕草なので、正しい神輿の掛け声と振る舞いについて調べてみたくなった次第。そんなもの無いのであろうか。
祭は明日もつづく。
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2008年7月29日火曜日
俳句に似たもの
俳句に似たもの ● 上田信治
野球で、外野に、いい当りが飛んだとする。
たとえばフェンスに当ったボールを、外野手がうまくさばいて返球。
打ったランナーは自重、一塁にとどまる。
このときプロ野球なら、外野から、二塁ベース上の内野手にぴたりとボールが返ってくる。
内野手は、ボールを受けたら、バッターランナーが走り込んできた場合のために、必ず「タッチ」の動作をする。
(すでに、野球を見ない方には、まったく何の話か分からないと思いますが)その「タッチ」の動作が、内野手にとって「自動化」されていることの「美」。その「美」には、「季語」に通じるものがある。
「ああ、あれあれ」という喜び。
そして、野球を見ているとき「あれ」を見られないかな、と楽しみにしているということが、ちょっと俳句に似ているような気がする。
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野球で、外野に、いい当りが飛んだとする。
たとえばフェンスに当ったボールを、外野手がうまくさばいて返球。
打ったランナーは自重、一塁にとどまる。
このときプロ野球なら、外野から、二塁ベース上の内野手にぴたりとボールが返ってくる。
内野手は、ボールを受けたら、バッターランナーが走り込んできた場合のために、必ず「タッチ」の動作をする。
(すでに、野球を見ない方には、まったく何の話か分からないと思いますが)その「タッチ」の動作が、内野手にとって「自動化」されていることの「美」。その「美」には、「季語」に通じるものがある。
「ああ、あれあれ」という喜び。
そして、野球を見ているとき「あれ」を見られないかな、と楽しみにしているということが、ちょっと俳句に似ているような気がする。
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2008年7月28日月曜日
あねはあねもね
あねはあねもね ● さいばら天気
ことばには「音」がある〔*1〕。このことがどれだけ愉しいことか。
「ジョイマン」というお笑いコンビを観て、愉快になった。いわゆるラップ風に発せられる語が、脚韻を踏む。一部書き抜いてみた。
友達以上 恋人未満 モーガン・フリーマン
七転び 八起き 生わさび 歯茎
I need you 墨汁 I Want you 蟯虫
http://jp.youtube.com/watch?v=7_PUp8y7P-M
ガタンゴトン ヴィトン
バーバリー マーガリン
ムーミン 永眠
ダルビッシュ ティッシュ
リンスイン 本みりん
http://jp.youtube.com/watch?v=cl-LHJgvT_M (1分20秒あたりから)
音を遊び、音の遊びを聞く。といっても、そこから意味がすっぽり抜け落ちるわけではない。音が先行することで、意味がとっちらかる。正座から足を崩して、魅力的な姿態を見せることがある。
●
踏韻は、駄洒落の様相も帯びる。
(誤) 姉はアネモネ一行一句の毛は成りぬ 攝津幸彦
訂正 08/07/28 10:38 コメント欄参照
(正) 姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ 攝津幸彦
攝津幸彦の成分のうち約8パーセントは駄洒落である。これはまことにすばらしいことだ。
〔*1〕この言い方では、事の次第が逆であることは承知している。「ことば」よりも先に「音」があったのであり、ことばに存する音をことさら有り難がるのは奇異ともいえる。だが、こうして「無音の文字」を書き連ねながら、あえて、「音」や「声」を言祝ぎたい。
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ことばには「音」がある〔*1〕。このことがどれだけ愉しいことか。
「ジョイマン」というお笑いコンビを観て、愉快になった。いわゆるラップ風に発せられる語が、脚韻を踏む。一部書き抜いてみた。
友達以上 恋人未満 モーガン・フリーマン
七転び 八起き 生わさび 歯茎
I need you 墨汁 I Want you 蟯虫
http://jp.youtube.com/watch?v=7_PUp8y7P-M
ガタンゴトン ヴィトン
バーバリー マーガリン
ムーミン 永眠
ダルビッシュ ティッシュ
リンスイン 本みりん
http://jp.youtube.com/watch?v=cl-LHJgvT_M (1分20秒あたりから)
音を遊び、音の遊びを聞く。といっても、そこから意味がすっぽり抜け落ちるわけではない。音が先行することで、意味がとっちらかる。正座から足を崩して、魅力的な姿態を見せることがある。
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踏韻は、駄洒落の様相も帯びる。
(誤) 姉はアネモネ一行一句の毛は成りぬ 攝津幸彦
訂正 08/07/28 10:38 コメント欄参照
(正) 姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ 攝津幸彦
攝津幸彦の成分のうち約8パーセントは駄洒落である。これはまことにすばらしいことだ。
〔*1〕この言い方では、事の次第が逆であることは承知している。「ことば」よりも先に「音」があったのであり、ことばに存する音をことさら有り難がるのは奇異ともいえる。だが、こうして「無音の文字」を書き連ねながら、あえて、「音」や「声」を言祝ぎたい。
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2008年7月27日日曜日
日曜定休 04
万華鏡 川の手歳時記
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美しいケータイ万華鏡画像が。
二日連続早稲田へ Tedious Lecture
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「文法学者は体系を整理したもので、文法体系を作ったのではない。それではドグマで…」
田中裕明の「古典」ふう 胃のかたち
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「大学も葵祭のきのふけふ」の「大学」をめぐるあれこれ。
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●(tenki)
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2008年7月26日土曜日
ひゃつひゃつひゃつ
ひゃつひゃつひゃつ ● 笠井亞子
洞窟探検にでかけることになった。
千葉の団地から「東京」へ引っ越すことが決まった時、友人たちは「東京の学校って勉強とかもスゴイし、いじわるだってされるかもよ」と口々に言ってくれたが、私が編入した小学校は天文台の山を越えて通わねばならぬ、まわりにちらほら住宅があるとはいえ、どうみても「山の分校」のようなところだった。
通学路は湧水を利用したワサビ田や、「かかわってはいけないひとたち」が住んでいるらしいオンボロアパート、夕方見ると今にも飛び立ちそうな気がした、ヘンテコリンな形の観測器のようなものが突っ立っていたりしていて、なかなかにスリリングだった。
いきさつは覚えていない。崖にいくつも穴があいているのは知っていた。そこへ「探検」にでかけることになったのだ。
オンボロアパートの裏手から上り、意外に近かったそのほら穴は、想像していたのと違って恐くもなく「焚き火」をした跡や吸い殻が散らかっていたりして、いっぱしの探検隊気分だった我々をがっかりさせた。
持って来たお菓子を食べたりしてしばらく遊んでいたが、大分陽が傾いたころになって「もっと奥へ行ってみようぜ」という声が上がった。このままじゃせっかくの「探検」がただの「遠足」になってしまうのを、全員が感じていたからだろう。
あらためて奥へと目を向けたら、そこには昼間見ていたものとはまったく違う、漆黒の闇の口が広がっていた。
どこをどう通って帰ってきたかまるで覚えていない。ただただ、濡れて汚れてしまったズロースを家族に知られずにどう始末しようかと、そのことばかりを狂おしく思いながら、住宅地に入ってからも一心不乱に走った。
何とかたどりつき、家の扉を開けたとたん、「ひゃつひゃつひゃつひゃつひゃつ」と円鏡の笑い声が響きわたった。『お笑い頭の体操』が始まっていたのだ。
●
月の家円鏡 (現・橘家圓蔵)
お笑い頭の体操 →Wikipedia
洞窟探検にでかけることになった。
千葉の団地から「東京」へ引っ越すことが決まった時、友人たちは「東京の学校って勉強とかもスゴイし、いじわるだってされるかもよ」と口々に言ってくれたが、私が編入した小学校は天文台の山を越えて通わねばならぬ、まわりにちらほら住宅があるとはいえ、どうみても「山の分校」のようなところだった。
通学路は湧水を利用したワサビ田や、「かかわってはいけないひとたち」が住んでいるらしいオンボロアパート、夕方見ると今にも飛び立ちそうな気がした、ヘンテコリンな形の観測器のようなものが突っ立っていたりしていて、なかなかにスリリングだった。
いきさつは覚えていない。崖にいくつも穴があいているのは知っていた。そこへ「探検」にでかけることになったのだ。
オンボロアパートの裏手から上り、意外に近かったそのほら穴は、想像していたのと違って恐くもなく「焚き火」をした跡や吸い殻が散らかっていたりして、いっぱしの探検隊気分だった我々をがっかりさせた。
持って来たお菓子を食べたりしてしばらく遊んでいたが、大分陽が傾いたころになって「もっと奥へ行ってみようぜ」という声が上がった。このままじゃせっかくの「探検」がただの「遠足」になってしまうのを、全員が感じていたからだろう。
あらためて奥へと目を向けたら、そこには昼間見ていたものとはまったく違う、漆黒の闇の口が広がっていた。
どこをどう通って帰ってきたかまるで覚えていない。ただただ、濡れて汚れてしまったズロースを家族に知られずにどう始末しようかと、そのことばかりを狂おしく思いながら、住宅地に入ってからも一心不乱に走った。
何とかたどりつき、家の扉を開けたとたん、「ひゃつひゃつひゃつひゃつひゃつ」と円鏡の笑い声が響きわたった。『お笑い頭の体操』が始まっていたのだ。
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月の家円鏡 (現・橘家圓蔵)
お笑い頭の体操 →Wikipedia
さいばら天気人名句集『チャーリーさん』(2005年)より転載
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2008年7月25日金曜日
ポエミーとハイミー
ポエミーとハイミー ● 中村安伸
いわゆる「カタカナ語」のなかには、ほぼ同じ意味の日本語が存在しているにもかかわらず、少し異なるニュアンスを帯びたニューモデルとして輸入されてくるものがある。それらのうちには、時間の経過とともに原義がうすれてしまい、副次的だったはずのニュアンスの部分が主要な意味となってしまうものもある。
たとえば、新奇な傾向や嗜好といった意味をもつ語がつぎつぎに生み出されては、その時代独自のニュアンスを背負わされてゆくのは実に面白い光景である。
「モダン」という語は、本来の意味と矛盾して大正時代や戦前の情緒をあらわす用語として使われたりすることがあるし「プログレッシブ」「アバンギャルド」といった語は、それぞれにある時代の芸術運動に重ね合わせられている。また「ナウい」「トレンディー」といった語にいたっては、それが盛んに使われた頃の意味に使用することは不可能である。
このような傾向はカタカナ語に限られたものではなく、古くは「今様」「当世風」などといった語があったし、現在用いられている「今風」という語もいずれそのような運命をたどることになるかもしれない。
「ポエム」という語も--もとの意味を失ったわけではないが--やはり特別なニュアンスを背負っている。
端的に言うと「ぽえむ」とひらがなで書いたり、あるいは「帆絵夢」などという漢字をあてたりするような感覚がそれである。また、近年では「自分」中心的な作風の詩歌を蔑視するようなニュアンスで用いられることも多いようである。
●
先日ある句会の選評にて「ポエミー」という語が使用されたとき、私は一瞬前述のような「ポエム」のもつ特定のニュアンスを想起したのであった。しかしそのとき「ポエミーである」と評された作品をあらためて検討してみると「詩的」あるいは「ポエティック」という従来の語におきかえたとしても、さほど不都合はないと感じられるのだった。
ひらがなの「ぽえみー」ではなくアルファベットもしくはカタカナの「ポエミー」なのである。
つまり「詩的」「ポエティック」という語が句の選評の場で使いにくいことから、それらにかわるものとして咄嗟に開発されたのだと考えるのが妥当だと思われた。
もちろん英語としてpoemyは誤りで、poeticという語を使うべきであるのは言うまでもない。
ただ、最初にこの語を使った人の名誉のために付け加えると、この新奇な語をだれかが聞きとがめたとき、彼女は「ポエティック」と訂正する素振りを見せもしたのである。
句会における選評は、批評であると同時に、より即時性のもとめられるコミュニケーションの場でもあり、本格的な批評の用語を持ち込むことが不自然に感じられる局面があるのは確かだ。
実用性の問題としても「詩的」という語には同音異義語が多いし「ポエティック」という語は発音しにくい。何よりそれらの語の生硬でさかしらな感じは、句会の選評という場には似合わない感じがするのである。
「ポエミー」という語は、とりまわしのよいツールとしてその夜の句会において見事に機能したのだった。
さて、数日後の別の句会--メンバーのうち数人が共通していた--において、ふたたび「ポエミー」という語が話題にのぼることになった。「ポエミー」の反対語は何か?という話になり、私はなんとなく「ハイミー」という語を思いついたのだ。
それは俳句の批評において「詩」と「俳」がしばしば対立項として取りあげられることをふまえたダジャレとしては、まずまずウケたようにも思うが、この語が先の「ポエミー」と同様に、句会でうまく機能するかどうかについては、やや心もとなく思う。
「ハイミー」のもとになった「俳味」という語は、もともと句会における批評用語として安定して使われてきたのであり、その意味するものの曖昧さによって、かえって重宝されてきた面がある。
この、化学調味料を思わせる代替品へのニーズがあるかどうか。せいぜい「ポエミー」との抱き合わせで使用される程度であろうか。
いまのところ代替物でしかない「ポエミー」「ハイミー」という語も、今後使用されてゆくうちに、それぞれに独特のニュアンスを纏ってゆくことは避けがたい。
それにより、従来の語では掬いとれなかった新しい詩情や俳味を開拓してゆくことになるかどうか。いまだに味の素とハイミーの区別もつかないのではあるが。
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いわゆる「カタカナ語」のなかには、ほぼ同じ意味の日本語が存在しているにもかかわらず、少し異なるニュアンスを帯びたニューモデルとして輸入されてくるものがある。それらのうちには、時間の経過とともに原義がうすれてしまい、副次的だったはずのニュアンスの部分が主要な意味となってしまうものもある。
たとえば、新奇な傾向や嗜好といった意味をもつ語がつぎつぎに生み出されては、その時代独自のニュアンスを背負わされてゆくのは実に面白い光景である。
「モダン」という語は、本来の意味と矛盾して大正時代や戦前の情緒をあらわす用語として使われたりすることがあるし「プログレッシブ」「アバンギャルド」といった語は、それぞれにある時代の芸術運動に重ね合わせられている。また「ナウい」「トレンディー」といった語にいたっては、それが盛んに使われた頃の意味に使用することは不可能である。
このような傾向はカタカナ語に限られたものではなく、古くは「今様」「当世風」などといった語があったし、現在用いられている「今風」という語もいずれそのような運命をたどることになるかもしれない。
「ポエム」という語も--もとの意味を失ったわけではないが--やはり特別なニュアンスを背負っている。
端的に言うと「ぽえむ」とひらがなで書いたり、あるいは「帆絵夢」などという漢字をあてたりするような感覚がそれである。また、近年では「自分」中心的な作風の詩歌を蔑視するようなニュアンスで用いられることも多いようである。
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先日ある句会の選評にて「ポエミー」という語が使用されたとき、私は一瞬前述のような「ポエム」のもつ特定のニュアンスを想起したのであった。しかしそのとき「ポエミーである」と評された作品をあらためて検討してみると「詩的」あるいは「ポエティック」という従来の語におきかえたとしても、さほど不都合はないと感じられるのだった。
ひらがなの「ぽえみー」ではなくアルファベットもしくはカタカナの「ポエミー」なのである。
つまり「詩的」「ポエティック」という語が句の選評の場で使いにくいことから、それらにかわるものとして咄嗟に開発されたのだと考えるのが妥当だと思われた。
もちろん英語としてpoemyは誤りで、poeticという語を使うべきであるのは言うまでもない。
ただ、最初にこの語を使った人の名誉のために付け加えると、この新奇な語をだれかが聞きとがめたとき、彼女は「ポエティック」と訂正する素振りを見せもしたのである。
句会における選評は、批評であると同時に、より即時性のもとめられるコミュニケーションの場でもあり、本格的な批評の用語を持ち込むことが不自然に感じられる局面があるのは確かだ。
実用性の問題としても「詩的」という語には同音異義語が多いし「ポエティック」という語は発音しにくい。何よりそれらの語の生硬でさかしらな感じは、句会の選評という場には似合わない感じがするのである。
「ポエミー」という語は、とりまわしのよいツールとしてその夜の句会において見事に機能したのだった。
さて、数日後の別の句会--メンバーのうち数人が共通していた--において、ふたたび「ポエミー」という語が話題にのぼることになった。「ポエミー」の反対語は何か?という話になり、私はなんとなく「ハイミー」という語を思いついたのだ。
それは俳句の批評において「詩」と「俳」がしばしば対立項として取りあげられることをふまえたダジャレとしては、まずまずウケたようにも思うが、この語が先の「ポエミー」と同様に、句会でうまく機能するかどうかについては、やや心もとなく思う。
「ハイミー」のもとになった「俳味」という語は、もともと句会における批評用語として安定して使われてきたのであり、その意味するものの曖昧さによって、かえって重宝されてきた面がある。
この、化学調味料を思わせる代替品へのニーズがあるかどうか。せいぜい「ポエミー」との抱き合わせで使用される程度であろうか。
いまのところ代替物でしかない「ポエミー」「ハイミー」という語も、今後使用されてゆくうちに、それぞれに独特のニュアンスを纏ってゆくことは避けがたい。
それにより、従来の語では掬いとれなかった新しい詩情や俳味を開拓してゆくことになるかどうか。いまだに味の素とハイミーの区別もつかないのではあるが。
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2008年7月24日木曜日
暮らしの歳時記「鯰」
暮らしの歳時記 「鯰」 ● 山本勝之
ヴェトナムの乳母・ヤエちゃんが、ナマズの干物を送ってくる。
産まれたばかりの僕に、乳首を含ませてくれた大切な人だ。ダンナさんは、いまだにそのことを根に持っていて、会うたびに、「アンタ、ワタシより先に乳首吸ったね!」と文句を言う。 もう80歳なのに。
熱帯の音楽が聴きたくなって、サリフ・ケイタ、フェラ・クティ等をでたらめに、次々とかける。ナマズを焼いて、缶ビールを開ける。ウマイ!
鯰【なまず/なまづ】晩夏
ナマズ科に属する淡水魚である。体長は50センチぐらいにまで成 長する。灰黒色で頭部と口が特に大きく、4本の口ヒゲを持つ。体の表面は粘液でおおわれているので、ぬらぬらしていて素手ではつかまえにくい。従って、語 源には「ナメラカ」(滑らか)あるいは「ハタウオ」(滑肌魚)などの説もある。5、6月頃、水草に卵を産みつけて繁殖するので夏の季に入れる。琵琶湖特産 のビワコオオナマズはよく知られている。食用にするが、「味はやや佳なりとするも、ただ膾(なます)および蒲鉾(かまぼこ)のみ、その余は食ふべからず」 (『本朝食鑑』)ともある。〔広瀬直人〕 講談社『日本大歳時記』より
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ヴェトナムの乳母・ヤエちゃんが、ナマズの干物を送ってくる。
産まれたばかりの僕に、乳首を含ませてくれた大切な人だ。ダンナさんは、いまだにそのことを根に持っていて、会うたびに、「アンタ、ワタシより先に乳首吸ったね!」と文句を言う。 もう80歳なのに。
熱帯の音楽が聴きたくなって、サリフ・ケイタ、フェラ・クティ等をでたらめに、次々とかける。ナマズを焼いて、缶ビールを開ける。ウマイ!
鯰【なまず/なまづ】晩夏
ナマズ科に属する淡水魚である。体長は50センチぐらいにまで成 長する。灰黒色で頭部と口が特に大きく、4本の口ヒゲを持つ。体の表面は粘液でおおわれているので、ぬらぬらしていて素手ではつかまえにくい。従って、語 源には「ナメラカ」(滑らか)あるいは「ハタウオ」(滑肌魚)などの説もある。5、6月頃、水草に卵を産みつけて繁殖するので夏の季に入れる。琵琶湖特産 のビワコオオナマズはよく知られている。食用にするが、「味はやや佳なりとするも、ただ膾(なます)および蒲鉾(かまぼこ)のみ、その余は食ふべからず」 (『本朝食鑑』)ともある。〔広瀬直人〕 講談社『日本大歳時記』より
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2008年7月23日水曜日
彼はことばがわからない
彼はことばがわからない ● さいばら天気
むかしファクス句会で、こんな句が出てきた。
ある限り朝日がころんだにわとり朝日ありがとう
なにがなんだか、わけがわからない。前衛・シュールというにも、わけがわからなさすぎる。こういう事件か事故のような句は貴重だ。迷わず選にいただき、選評には「作者は日本語がわからないとしか思えない」と書いた(日本語を知らない外国人にも、こんな句はできないだろうが)。
披講となって作者が5歳の男の子とわかった。ファクス句会だから、誰が参加するかわからないが、5歳児が参加するとはゆめにも思わない。意表。5歳児が口にした「俳句」を親御さんが書き留めて投句したのだろうが、それにしても意表。
私やこれを読んでいる人は、日本語が使える。どのように使うか、どの程度に達者かはそれぞれだが、日本語の語彙やいちおうのルールを知っていて、俳句を作るときは、その効果のようなものも狙っていたりする。
ことばというのは、創造的なものでなはなくて、いわば因習的なものだ(まるっきり創造的だと何を言っているのか誰にもわからない)。因習(というシガラミ)の中から、創造的とまでは行かなくても「新鮮」な俳句を作ろうとするとき、〔ことばがわかる〕ことは、邪魔になったりもする。〔わかる〕ことが、ことばにとって大きな束縛にもなる。
ことばがわからないかのように、ことばを発することができないか。
単純に言ってしまえば、そんな野望のための試行が、鴇田智哉「俳句と何か~俳句における時間」(「雲」2007年に12回連載。週刊俳句・第47号~第59号に転載)で繰り広げられている。いわば、俳句の冒険、ことばの冒険。
マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)を、「宇宙人から見た地球上の恋愛」と解した人がいた(出典失念)。地球人に了解された「恋愛」の意味や脈絡を、宇宙人は知らない。この解釈を読んでから、大ガラスの不思議な形を見るときの不思議さがさらに増した。
最初に挙げた「朝日・にわとり」の句は、宇宙人が地球の朝を〈ことば〉にしたら、こうなる、という句なのかもしれない。
それについて何も知らずに、何もわからずに、何かを見ることは、限りなく困難なことだ。ことばの決まりを何も知らずに、〈言語という因習〉から自由に、言葉を発することもまた、じつに困難なことだ。俳句においてそんなことが(5歳児ではなくオトナに)可能なのか。
あきらめたら、そこでゲームが終わってしまうから、やはり、それは可能と、ふわっと曖昧にでもいいから信じておくことにする。
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むかしファクス句会で、こんな句が出てきた。
ある限り朝日がころんだにわとり朝日ありがとう
なにがなんだか、わけがわからない。前衛・シュールというにも、わけがわからなさすぎる。こういう事件か事故のような句は貴重だ。迷わず選にいただき、選評には「作者は日本語がわからないとしか思えない」と書いた(日本語を知らない外国人にも、こんな句はできないだろうが)。
披講となって作者が5歳の男の子とわかった。ファクス句会だから、誰が参加するかわからないが、5歳児が参加するとはゆめにも思わない。意表。5歳児が口にした「俳句」を親御さんが書き留めて投句したのだろうが、それにしても意表。
私やこれを読んでいる人は、日本語が使える。どのように使うか、どの程度に達者かはそれぞれだが、日本語の語彙やいちおうのルールを知っていて、俳句を作るときは、その効果のようなものも狙っていたりする。
ことばというのは、創造的なものでなはなくて、いわば因習的なものだ(まるっきり創造的だと何を言っているのか誰にもわからない)。因習(というシガラミ)の中から、創造的とまでは行かなくても「新鮮」な俳句を作ろうとするとき、〔ことばがわかる〕ことは、邪魔になったりもする。〔わかる〕ことが、ことばにとって大きな束縛にもなる。
ことばがわからないかのように、ことばを発することができないか。
単純に言ってしまえば、そんな野望のための試行が、鴇田智哉「俳句と何か~俳句における時間」(「雲」2007年に12回連載。週刊俳句・第47号~第59号に転載)で繰り広げられている。いわば、俳句の冒険、ことばの冒険。
私は言葉を知りませんから。(…)だいたい、あまり意味を踏まえていないんです。それに、あなたが言うように、「言葉を使っている」という意識はありません。あえていうなら「言葉を話している」という感じです。いや、むしろ「言葉が言っている」と言ったほうがいいかも知れません。(鴇田智哉「俳句と何か~俳句における時間」第12回より)●
マルセル・デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」)を、「宇宙人から見た地球上の恋愛」と解した人がいた(出典失念)。地球人に了解された「恋愛」の意味や脈絡を、宇宙人は知らない。この解釈を読んでから、大ガラスの不思議な形を見るときの不思議さがさらに増した。
最初に挙げた「朝日・にわとり」の句は、宇宙人が地球の朝を〈ことば〉にしたら、こうなる、という句なのかもしれない。
それについて何も知らずに、何もわからずに、何かを見ることは、限りなく困難なことだ。ことばの決まりを何も知らずに、〈言語という因習〉から自由に、言葉を発することもまた、じつに困難なことだ。俳句においてそんなことが(5歳児ではなくオトナに)可能なのか。
あきらめたら、そこでゲームが終わってしまうから、やはり、それは可能と、ふわっと曖昧にでもいいから信じておくことにする。
●
2008年7月22日火曜日
「新歳時記通信」考
「新歳時記通信」考 ● 野口 裕
前田霧人氏から「新歳時記通信」の第二号が送られてきた。同じものはWEBにもアップされている。
PDF: http://mae.moo.jp/key/pdf/02.pdf
季語としての「西瓜」の季節が秋になった経緯をさぐる論考だが、非常に面白く、季語の季節分類のケーススタディとして今後無視できない存在となるだろう。
かつて何かの文章で、「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という歌の「きさらぎの望月のころ」にいくら旧暦とは言えども花が咲くことがあるだろうかと、その文章の作者が疑問を呈した。そうすると、閏月の「きさらぎ」なら可能かもしれないと答られた、というのを目にした。
これ以来、旧暦の季節感覚は最大誤差一月を呑み込むおおらかなものという気分を持っている。江戸時代には、日中の時刻を等分するために、夏と冬では一刻といってもその時間は異なっている。そうしたこともおおらかな気分の延長線上にあるように感じる。
季語の季節区分の論議はともすると窮屈なものになりがちで、霧人氏の論議もその弊を免れているとは言い難いが、鬱屈した気分を打ち破り季節区分の論議をおおらかなものにするためのやむを得ぬ論調とも受け取れる。「新歳時記通信」が今後続いて行けば、この種の議論は伸びやかで闊達な方向に向かうと期待できる。注目したい。
●
前田霧人氏から「新歳時記通信」の第二号が送られてきた。同じものはWEBにもアップされている。
PDF: http://mae.moo.jp/key/pdf/02.pdf
季語としての「西瓜」の季節が秋になった経緯をさぐる論考だが、非常に面白く、季語の季節分類のケーススタディとして今後無視できない存在となるだろう。
かつて何かの文章で、「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という歌の「きさらぎの望月のころ」にいくら旧暦とは言えども花が咲くことがあるだろうかと、その文章の作者が疑問を呈した。そうすると、閏月の「きさらぎ」なら可能かもしれないと答られた、というのを目にした。
これ以来、旧暦の季節感覚は最大誤差一月を呑み込むおおらかなものという気分を持っている。江戸時代には、日中の時刻を等分するために、夏と冬では一刻といってもその時間は異なっている。そうしたこともおおらかな気分の延長線上にあるように感じる。
季語の季節区分の論議はともすると窮屈なものになりがちで、霧人氏の論議もその弊を免れているとは言い難いが、鬱屈した気分を打ち破り季節区分の論議をおおらかなものにするためのやむを得ぬ論調とも受け取れる。「新歳時記通信」が今後続いて行けば、この種の議論は伸びやかで闊達な方向に向かうと期待できる。注目したい。
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2008年7月21日月曜日
俳人スットコドッコイ度チェック
俳人スットコドッコイ度チェック
俳人度チェックはお済みでしょうか?(まだの方はこちらへどうぞ)
それでは、スットコドッコイ度チェックです。
01□ 吟行のとき句碑があると近寄っていく。…が、読めない。
02□ 句碑の字が読めないとみると、何もなかったようにその場を離れる。
03□ 初対面の俳人に会ったら、まず所属結社と師系を訊く。
04□ 句誌を手にしたら、なにはさておき自分の句を見る。
05□ 句会での投句と選句。他人にきびしく自分に甘い。
06□ 自分の句に点数が入らないとき、「高点句は秀句にあらず」の格言を思う。
07□ その格言、点数が入ったときは忘れる。
08□ 受賞の言葉は、もうだいたい考えてある。
09□ 中八は、早口で読めば、なんとかなる。
10□ 初心者や後進の指導は、自分の仕事のひとつだと思う。
11□ 自分の句が載った俳句総合誌は2冊以上買う。
12□ 歳時記に自分の句が載ったとき、胸がじいんとした。
13□ このごろちょっとスランプだ。
14□ 俳句をつくらない人に、句の良し悪しはわからないと思う。
15□ 自分は俳句の天才だと思うことがある。
16□ 名の通った俳人に会うと、句を読んだことがなくても緊張する。
17□ 名の通った俳人と知り合いだと、ちょっと嬉しい。
18□ 俳句を通して自分を表現していきたい。
19□ いつか「先生」と呼ばれるようになりたい。
20□ 俳句はわが国の誇るべき文化だと思う。
チェックは終わりましたか。それでは診断です。
20個 前代未聞のスットコドッコイ俳人です
15~19個 ばりばりのスットコドッコイです
10~14個 いっぱしのスットコドッコイです
7~ 9個 あとひといきでスットコドッコイです
3~ 6個 微妙です
2個以下 嘘つきです
●
今回の自己診断は「俳句的日常 別室」で2006年12月3日に実施された「俳人スノッブ度チェック」の改訂版です。
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俳人度チェックはお済みでしょうか?(まだの方はこちらへどうぞ)
それでは、スットコドッコイ度チェックです。
01□ 吟行のとき句碑があると近寄っていく。…が、読めない。
02□ 句碑の字が読めないとみると、何もなかったようにその場を離れる。
03□ 初対面の俳人に会ったら、まず所属結社と師系を訊く。
04□ 句誌を手にしたら、なにはさておき自分の句を見る。
05□ 句会での投句と選句。他人にきびしく自分に甘い。
06□ 自分の句に点数が入らないとき、「高点句は秀句にあらず」の格言を思う。
07□ その格言、点数が入ったときは忘れる。
08□ 受賞の言葉は、もうだいたい考えてある。
09□ 中八は、早口で読めば、なんとかなる。
10□ 初心者や後進の指導は、自分の仕事のひとつだと思う。
11□ 自分の句が載った俳句総合誌は2冊以上買う。
12□ 歳時記に自分の句が載ったとき、胸がじいんとした。
13□ このごろちょっとスランプだ。
14□ 俳句をつくらない人に、句の良し悪しはわからないと思う。
15□ 自分は俳句の天才だと思うことがある。
16□ 名の通った俳人に会うと、句を読んだことがなくても緊張する。
17□ 名の通った俳人と知り合いだと、ちょっと嬉しい。
18□ 俳句を通して自分を表現していきたい。
19□ いつか「先生」と呼ばれるようになりたい。
20□ 俳句はわが国の誇るべき文化だと思う。
チェックは終わりましたか。それでは診断です。
20個 前代未聞のスットコドッコイ俳人です
15~19個 ばりばりのスットコドッコイです
10~14個 いっぱしのスットコドッコイです
7~ 9個 あとひといきでスットコドッコイです
3~ 6個 微妙です
2個以下 嘘つきです
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今回の自己診断は「俳句的日常 別室」で2006年12月3日に実施された「俳人スノッブ度チェック」の改訂版です。
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2008年7月20日日曜日
日曜定休 03
見つめることば、呼ばれる私 たじま屋のぶろぐ
●
「俳句のうえのことばとことばは、関与し合うのではない。(…)見つめ合うのである」
観光地の石碑に書いてある俳句、のようなもん 鯨と海星
●
「そんなさびしいこと…」
書くというゲーム 僕が線を引いて読んだ所
●
「表現することによって何者かであろうとしている自分なのです」
お祭の薄荷パイプにバナナ味 俳句deしりとり2
●
話題の句集『風天 渥美清のうた』読後。
●
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「俳句のうえのことばとことばは、関与し合うのではない。(…)見つめ合うのである」
観光地の石碑に書いてある俳句、のようなもん 鯨と海星
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「そんなさびしいこと…」
書くというゲーム 僕が線を引いて読んだ所
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「表現することによって何者かであろうとしている自分なのです」
お祭の薄荷パイプにバナナ味 俳句deしりとり2
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話題の句集『風天 渥美清のうた』読後。
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●(tenki)
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2008年7月19日土曜日
耳とコンテクスト
耳とコンテクスト ● さいばら天気
「タモリ倶楽部」という老舗TV番組に「空耳アワー」という人気コーナーがある。外国語の歌詞が「日本語」に聞こえる箇所を映像付きで紹介する。名作集は、こんな↓感じ。
●
ことばを聞くとき、私たちは、ひとつひとつの音を聞き分けているのではないらしい。
例えば、「きのう高円寺からの帰りにね」と他人が言うのを聞いたとき、ことばのすべてが聞き取れるし、意味もわかる。ところが、この文句をテープを録り、一音だけ取り出して、人に聞かせる。「高円寺」の「え」という音、あるいは「からの」の「ら」という音。それがどう聞こえるかを答えてもらうと、正答率はかなり低いという。
話者のロレツがとくだん悪いのでも、聞く人の耳が悪いのでもない。ふつうに交わされる会話での話。
一音一音が正確に伝わるわけではないのに、なぜ、文言がすべて聞き取れるのか、といえば、「コンテクスト(文脈)」が理解されているから、だそうだ。
●
TVの「空耳アワー」は、「絵」でコンテクストをつくりあげ、おまけに「字」による誘導がある。外国語の歌詞の意味がわからなければ、そう聞こえて当然。外国語に堪能な人だって、絵と字によって(なかば強制的に)与えられたコンテクストに沿って聞いてしまうかもしれない。
●
コンテクストって大事だな、という話。
言っているはずのこととは違って聞こえるケースは、ほかにもある。これ↓などは、かなり身近。
「タモリ倶楽部」という老舗TV番組に「空耳アワー」という人気コーナーがある。外国語の歌詞が「日本語」に聞こえる箇所を映像付きで紹介する。名作集は、こんな↓感じ。
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ことばを聞くとき、私たちは、ひとつひとつの音を聞き分けているのではないらしい。
例えば、「きのう高円寺からの帰りにね」と他人が言うのを聞いたとき、ことばのすべてが聞き取れるし、意味もわかる。ところが、この文句をテープを録り、一音だけ取り出して、人に聞かせる。「高円寺」の「え」という音、あるいは「からの」の「ら」という音。それがどう聞こえるかを答えてもらうと、正答率はかなり低いという。
話者のロレツがとくだん悪いのでも、聞く人の耳が悪いのでもない。ふつうに交わされる会話での話。
一音一音が正確に伝わるわけではないのに、なぜ、文言がすべて聞き取れるのか、といえば、「コンテクスト(文脈)」が理解されているから、だそうだ。
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TVの「空耳アワー」は、「絵」でコンテクストをつくりあげ、おまけに「字」による誘導がある。外国語の歌詞の意味がわからなければ、そう聞こえて当然。外国語に堪能な人だって、絵と字によって(なかば強制的に)与えられたコンテクストに沿って聞いてしまうかもしれない。
●
コンテクストって大事だな、という話。
言っているはずのこととは違って聞こえるケースは、ほかにもある。これ↓などは、かなり身近。
2008年7月18日金曜日
さすがに句集ばかりは
さすがに句集ばかりは ● 上野葉月
数年前から決まっていたことなのだが、ついに実家を処分することになった。あ~、もったいない(つい本音が…)。
築35年、いろんなものが溜まっているのだけど、特に書籍とCDの処分には頭を悩ましている。LPは40枚ほどでまあどうにでもなるといえばどうにでもなる数だ(実は20年ぐらい前に空巣にあってLPはそのときすでに多数散逸してしまっている)。
数えてみると書籍はハードカバー300冊以上、文庫本にいたっては500冊以上。あきれたことにほとんど全部読んでいる。いったい私はこれまでの人生で何をやっていたのか? ってなものだ。こんなに本を読む暇があったら何かもっと楽しそうなことがありそうではないか。せめて料理の練習しておいしいものを作って食べたりとか。
しかも、見ていると、どれもこれも最寄の公立図書館で借りることが可能なタイプの本ばかり。正確に調べたわけではないが、任意に抽出してちょっと図書館HPで調べた感触だと優に90%以上は図書館で借り出し可能なものだ。現在入手不可能な珍しいタイプの本もさすがにあるけど、ほんの数冊程度である。賢明なる読者諸氏は結論を先読みしているだろうけど、まあほとんど全て捨ててしまうか"ブクオクして"しまうという展開か。
マンガ本は200冊ぐらいある。これはけっこう現在手に入らないものが多い。そういうのはマンガ喫茶にも図書館にも置いていない。なんかマンガの場合捨ててしまったり売ってしまったりするための選択が難しそうだ。たとえば十年後に『スラムダンク』をマンガ喫茶で閲覧不可能だとはとても思えないけど、『ヒカルの碁』あたりだとちょっと予想が難しいような気がする(ともに週刊少年ジャンプのヒット作であるけど)。その点『百合星人ナオコさん』あたりだと十年後ほとんど入手不可である可能性が(非常に)高いのでかえって判断に苦しまない。
CDは200枚くらいあって、そんなに珍しいものは持っていない。でも買い物嫌いの私が迷いに迷ったあげく買ったものばかりなのでそれなりにけっこう質の高いものが多いような気がして手放すのは忍びない。今後、音楽産業はデータ配信が中心になってきているので音楽CD自体今後珍しくなるかもしれないし。将来に渡って引越しの予定がない人がまとめて預かってくれたりしたらありがたいのだけど。
そういえば、俳句に造詣が深くないこと定評ある葉月ではありますが、句集も十冊程度持っています。これはみな頂き物。さすがに句集ばかりは捨ててくわけには行きませんねえ。
ここまで書いてきて大事なことを忘れていたのに気づいた。私自身の引き取り先が決まっていない。同居人募集中の方いらっしゃいませんか? 家賃半分持ちます。一応英語と日本語とフランス語が話せます。一応IT企業社長でPC修理とか各種設定もできます。一応吉祥寺句会代表ですが、SF小説やポルノ小説も書きます。掃除好きお風呂好きで清潔です、料理は下手だけど。
●
数年前から決まっていたことなのだが、ついに実家を処分することになった。あ~、もったいない(つい本音が…)。
築35年、いろんなものが溜まっているのだけど、特に書籍とCDの処分には頭を悩ましている。LPは40枚ほどでまあどうにでもなるといえばどうにでもなる数だ(実は20年ぐらい前に空巣にあってLPはそのときすでに多数散逸してしまっている)。
数えてみると書籍はハードカバー300冊以上、文庫本にいたっては500冊以上。あきれたことにほとんど全部読んでいる。いったい私はこれまでの人生で何をやっていたのか? ってなものだ。こんなに本を読む暇があったら何かもっと楽しそうなことがありそうではないか。せめて料理の練習しておいしいものを作って食べたりとか。
しかも、見ていると、どれもこれも最寄の公立図書館で借りることが可能なタイプの本ばかり。正確に調べたわけではないが、任意に抽出してちょっと図書館HPで調べた感触だと優に90%以上は図書館で借り出し可能なものだ。現在入手不可能な珍しいタイプの本もさすがにあるけど、ほんの数冊程度である。賢明なる読者諸氏は結論を先読みしているだろうけど、まあほとんど全て捨ててしまうか"ブクオクして"しまうという展開か。
マンガ本は200冊ぐらいある。これはけっこう現在手に入らないものが多い。そういうのはマンガ喫茶にも図書館にも置いていない。なんかマンガの場合捨ててしまったり売ってしまったりするための選択が難しそうだ。たとえば十年後に『スラムダンク』をマンガ喫茶で閲覧不可能だとはとても思えないけど、『ヒカルの碁』あたりだとちょっと予想が難しいような気がする(ともに週刊少年ジャンプのヒット作であるけど)。その点『百合星人ナオコさん』あたりだと十年後ほとんど入手不可である可能性が(非常に)高いのでかえって判断に苦しまない。
CDは200枚くらいあって、そんなに珍しいものは持っていない。でも買い物嫌いの私が迷いに迷ったあげく買ったものばかりなのでそれなりにけっこう質の高いものが多いような気がして手放すのは忍びない。今後、音楽産業はデータ配信が中心になってきているので音楽CD自体今後珍しくなるかもしれないし。将来に渡って引越しの予定がない人がまとめて預かってくれたりしたらありがたいのだけど。
そういえば、俳句に造詣が深くないこと定評ある葉月ではありますが、句集も十冊程度持っています。これはみな頂き物。さすがに句集ばかりは捨ててくわけには行きませんねえ。
ここまで書いてきて大事なことを忘れていたのに気づいた。私自身の引き取り先が決まっていない。同居人募集中の方いらっしゃいませんか? 家賃半分持ちます。一応英語と日本語とフランス語が話せます。一応IT企業社長でPC修理とか各種設定もできます。一応吉祥寺句会代表ですが、SF小説やポルノ小説も書きます。掃除好きお風呂好きで清潔です、料理は下手だけど。
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2008年7月17日木曜日
茅舎、秋櫻子、ビリイ、コルトレーン
茅舎、秋櫻子、ビリイ、コルトレーン ● 星力馬
俳句とジャズは対比されることが多いですが、今日7月17日は両界に二人ずつ―すなわち四人が同じ忌日という日です。
前者に川端茅舎(1897-1941)と水原秋櫻子(1892-1981)、後者にビリー・ホリデイ(Billie Holiday 1915-1959)とジョン・コルトレーン(John Coltrane 1926-1967)の四人です。
ジャック・モノーに拠らなくとも、偶然は必然であり、なにも面白がって取り上げるほどのことでもないかもしれません。余談ですが、この四人の生存が重なる期間(1926-1941)が、昭和の戦前期であることは興味深い事象だと思います。
さて、やや長い引用をします。
この特にはじめの一文に象徴されるようなことは、俳句のことを言っているようでもあり、またジャズのことを言っているようでもあります。後半部のメジャー言語とマイナー言語の対比は俳句における二物衝撃を言っているようでもあり、ジャズにおけるブルーノート形式を言っているようでもあります。しかし、この著書は哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス・ガタリによる、いわば哲学書であることは面白い偶然ですね。
【引き算し、変化に導くこと、切断し、変化に導くこと】余分なものを切り落とし、切れを活用して、俳句もジャズ(音楽)も成り立つと言えるのでしょう。難しく考えるとどんどんわからなくなってきますが、音楽のなかでちょっとズラすと快適な旋律に聴こえたり、俳句のなかでちょっとした飛躍があったりすることが快適な句となりえたりしませんか。
茅舎と秋櫻子、コルトレーンとビリイの忌日の一致を必然と楽しみながら、忌日句でも作りましょう。
茅舎の忌丸太ななめに切られけり
植込の青ゴムボール喜雨亭忌
ジョン・コルトレーンの忌なり守宮鳴く
青鬼灯多くてビリイ・ホリデイ忌 力馬
●
俳句とジャズは対比されることが多いですが、今日7月17日は両界に二人ずつ―すなわち四人が同じ忌日という日です。
前者に川端茅舎(1897-1941)と水原秋櫻子(1892-1981)、後者にビリー・ホリデイ(Billie Holiday 1915-1959)とジョン・コルトレーン(John Coltrane 1926-1967)の四人です。
ジャック・モノーに拠らなくとも、偶然は必然であり、なにも面白がって取り上げるほどのことでもないかもしれません。余談ですが、この四人の生存が重なる期間(1926-1941)が、昭和の戦前期であることは興味深い事象だと思います。
さて、やや長い引用をします。
引き算し、変化に導くこと、切断し、変化に導くこと、それは唯一の同じ実践である。メジャーなあるいはスタンダードな言語に対して、マイナー言語を特徴づける貧困さや過剰が存在するのではない。スタンダードな言語のマイナーな処理や、メジャーな言語のマイナー生成変化としての簡潔さと変化があるのだ。問題はメジャー言語とマイナー言語の区別ではなく、生成変化である。問題は方言や地方語のうえに再領土化してしまうことではなく、メジャー言語を脱領土化することである。アメリカの黒人たちは英語に黒人語を対立させるのではなく、彼ら自身の言語である米語でブラック・イングリッシュを産み出すのだ。マイナー言語はそれ自体で存在するものではない。メジャー言語との関連でしか存在しないから、それはまたメジャー言語がマイナーになるように、メジャー言語を役立てることでもある。
( 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ・宇野邦一他訳・河出書房新社)
この特にはじめの一文に象徴されるようなことは、俳句のことを言っているようでもあり、またジャズのことを言っているようでもあります。後半部のメジャー言語とマイナー言語の対比は俳句における二物衝撃を言っているようでもあり、ジャズにおけるブルーノート形式を言っているようでもあります。しかし、この著書は哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス・ガタリによる、いわば哲学書であることは面白い偶然ですね。
【引き算し、変化に導くこと、切断し、変化に導くこと】余分なものを切り落とし、切れを活用して、俳句もジャズ(音楽)も成り立つと言えるのでしょう。難しく考えるとどんどんわからなくなってきますが、音楽のなかでちょっとズラすと快適な旋律に聴こえたり、俳句のなかでちょっとした飛躍があったりすることが快適な句となりえたりしませんか。
茅舎と秋櫻子、コルトレーンとビリイの忌日の一致を必然と楽しみながら、忌日句でも作りましょう。
茅舎の忌丸太ななめに切られけり
植込の青ゴムボール喜雨亭忌
ジョン・コルトレーンの忌なり守宮鳴く
青鬼灯多くてビリイ・ホリデイ忌 力馬
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2008年7月16日水曜日
俳人度チェック
俳人度チェック
メモと鉛筆をお持ちください。
01□ 短冊(分厚いの)もしくは色紙に句を書いたことがある
02□ 有名俳人の短冊もしくは色紙を手に入れると嬉しい
03□ いつか奥の細道を歩いてみたいと思う
04□ 結社に入っている
05□ 俳人協会・現俳協・日伝俳協のいずれかの会員である
06□ 俳句総合誌を年間5冊以上買う
07□ 年賀状に自分の句を書いたことがある
08□ 指を折らなくても575音がすらすらまとまる
09□ 二月を春だと思う
10□ 二十四節気がそらで言える
11□ 40代は「若い」と思う
12□ 大きな石を見たら句碑かと思う
13□ 梅の花を見たら一句浮かぶ
14□ 芒と蝌蚪は単語登録している
15□ 新年句会などに和装で行ったことがある
16□ かばんには歳時記を入れている
17□ 4月1日が万愚節かつ三鬼の命日だと知っている
18□ 毀誉褒貶あれど虚子は「凄い」と思う
19□ 新聞はやっぱ産経より朝日である
20□ 趣味は?と聞かれて即座に「俳句」と答える
21□ NHK-BS『俳句王国』に出たことがある
22□ 俳号を刷った名刺をもっている
23□ 句集出版の勧誘電話がかかってきたことがある
24□ お年寄りの集団を見ると「吟行?」と思う
25□ 仮名遣いの間違いを見つけると小鼻がふくらむ
26□ 松山はメッカだと思う
27□ かばんに短冊(袋回し用)が入れてある
28□ 家族に嘘をついて句会に出かけたことがある
29□ 夫/妻とは句会で知り合った
30□ こんなチェック、バカバカしい、腹が立った
チェックは終わりましたでしょうか。さて診断です。
0~5個 俳人ではありません、健常です
6~12個 俳人予備軍です
13~20個 軽度の俳人です
21~25個 重度の俳人です
26~30個 手遅れです
●
今回の自己診断は「俳句的日常 別室」で2005年3月8日に実施された診断に項目を追加しました。
●
メモと鉛筆をお持ちください。
01□ 短冊(分厚いの)もしくは色紙に句を書いたことがある
02□ 有名俳人の短冊もしくは色紙を手に入れると嬉しい
03□ いつか奥の細道を歩いてみたいと思う
04□ 結社に入っている
05□ 俳人協会・現俳協・日伝俳協のいずれかの会員である
06□ 俳句総合誌を年間5冊以上買う
07□ 年賀状に自分の句を書いたことがある
08□ 指を折らなくても575音がすらすらまとまる
09□ 二月を春だと思う
10□ 二十四節気がそらで言える
11□ 40代は「若い」と思う
12□ 大きな石を見たら句碑かと思う
13□ 梅の花を見たら一句浮かぶ
14□ 芒と蝌蚪は単語登録している
15□ 新年句会などに和装で行ったことがある
16□ かばんには歳時記を入れている
17□ 4月1日が万愚節かつ三鬼の命日だと知っている
18□ 毀誉褒貶あれど虚子は「凄い」と思う
19□ 新聞はやっぱ産経より朝日である
20□ 趣味は?と聞かれて即座に「俳句」と答える
21□ NHK-BS『俳句王国』に出たことがある
22□ 俳号を刷った名刺をもっている
23□ 句集出版の勧誘電話がかかってきたことがある
24□ お年寄りの集団を見ると「吟行?」と思う
25□ 仮名遣いの間違いを見つけると小鼻がふくらむ
26□ 松山はメッカだと思う
27□ かばんに短冊(袋回し用)が入れてある
28□ 家族に嘘をついて句会に出かけたことがある
29□ 夫/妻とは句会で知り合った
30□ こんなチェック、バカバカしい、腹が立った
チェックは終わりましたでしょうか。さて診断です。
0~5個 俳人ではありません、健常です
6~12個 俳人予備軍です
13~20個 軽度の俳人です
21~25個 重度の俳人です
26~30個 手遅れです
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今回の自己診断は「俳句的日常 別室」で2005年3月8日に実施された診断に項目を追加しました。
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2008年7月15日火曜日
流れゆくものと流れ寄るもの
〔週俳6月の俳句を読む〕
流れゆくものと流れ寄るもの ● 馬場龍吉
あなたは川岸に立っている。すると上流からいま刈り取られたとおぼしき一群の草が芳香を放ちながら眼前に流れ来る。そのなかに、あなたに寄りくる草がある。それはほんの偶然の出合いに過ぎない。俳句との出会いもこういうものではないだろうか。なにかのきっかけで目にできる俳句と、目にできない俳句がある。幸いなことに週刊俳句に掲載される作品は月刊の俳句誌よりもいち早く旬の作家の旬の作品が読める。つまり、より身近に俳句が流れ寄ってくるということなのだ。あとはあなたの鑑賞眼に任されている。
●
「華」
ぼうたんは崩れ太虚にかこまるる 八田木枯
八田氏の作品にはタイトル通りそれぞれの花に華がある。掲句は牡丹が散ったあとの、牡丹の周りのその虚無感、空気感を詠むことによって牡丹の花の質感を感じさせてくれた。
白き薔薇ものに溺るるこそよけれ
白き薔薇剪られ鏡のなかに痴れ
白薔薇の花言葉は「純潔、あなたを尊敬する、私はあなたにふさわしい」なのだそうだが、氏の描く薔薇はいささかナルシスティックでもある。いや花はみなそういうふうにも見えるのだが。まるで花との交信を愉しむように詠まれている。
花に囲まれた生活ができることを裕福と言うのではないだろうか。花を育てる余裕、観賞するゆとりがいまの殺伐とした現代にこそ必要であろう。俳人は世の中にプラスになることは何もしない。だが、マイナスになることはもっとしないはずである。それでいいのだ。と、バカぼんのパパならきっと言うはずだ。
●
「標本空間」
明易や吊れば滴るネガフィルム 佐藤文香
デジカメがこれほど普及するとは思わなかったのだが、そんななかでも、いやそんな時だからこそ、フィルムを現像して印画紙に焼き付けをするアナログ的な写真の魅力に取りつかれている人も少なくはないはずである。焼き付けにもさまざまなテクニックがあって1枚のネガから多種多用な写真ができそうだ。と、写真は一度もやったことはないのだがそう思う。掲句はデジカメでは成り立たない世界である。夢中で作業していて朝になってもまだ暗室にいるのかもしれない。その時間のギャップが「明易」で見事に表現されている。
ひた並ぶ昼の街灯あげはてふ
単なる写生俳句と思ってはつまらない。巨匠小津安二郎監督なら昼の定位置のカメラに夜の風景を撮影しているであろう。光源の街灯に集まる虫や蛾を写しているであろう。平句の良さはこういうところにあるのではないだろうか。「昼の街灯」は「夜の街灯」でもあるのだ。
●
「縫目」
敵味方入り乱れたるシャワーかな 齋藤朝比古
齋藤氏の俳句は読者を裏切って頼もしい。そういう意味で氏の作句姿勢は読者を裏切らない。運動音痴のぼくには善戦していたスポーツがラグビーなのか、サッカーなのかわからないし、試合後に同じシャワールームでシャワーを浴びるのかもわからない。だが、とてもわかるのだ。「入り乱れたる」が下五のどんでん返しを誘う。これこそ職人芸と言ってもいいだろう。
ががんぼの吹かれて自由とは違ふ
ががんぼのあの何にでもすがるような頼りなさはたしかに風来坊とは違うなー。ががんぼの気持ちがふっとわかるような気持ちにさせてくれた一句。
●
「草」
瑠璃蜥蜴草葉の蔭を出入りする 望月哲土
「草葉の蔭」の引用が効いている。あの世とこの世の出入りが自由なのでは。と思わせてくれる。瑠璃蜥蜴ならさもあらん。乱暴な言い方だが、蜥蜴の生態は猫に似ているところがある。もの陰にいそいそ逃げ込んだかと思うと向きを換えてこちらを窺っていることがある。とすると半身はあの世に行っているのかもしれない。この作品「蔭」がとても気になる。望月氏はここで草の織り成す翠の影を言いたかったのだろうが、言いたいのは「草葉の陰」であって「蔭」ではなかったのではなかろうか。と、個人的見解。
心身の親に似ない子竹煮草
「とんびが鷹を生む」とまでは言ってはいないのだが、親類縁者のどこを見回しても誰にも似ていない子というところだろうか。そういうことも世の中にあって不思議はないかもしれない。季語「竹煮草」にノスタルジーを感じさせて唐突感がなく丁寧な作品だと思う。
●
「来し方」
来し方の暮るるや小屋の夏燈 大野朱香
この夏燈は身体には涼しく心にあたたかくて沁み沁みいい。「来し方」は歩いてきた道のりであり、人生の長い道のりでもあるだろう。久しぶりに大野氏の作品を拝見できた。今回の連作では全体にそつのない仕上がりになっているが、反面物足りなさを感じるのはぼくだけではないだろう。現代俳句データベースには〈一枚の落葉にふるへ沼の水〉〈登高や小石は崖を転げおち〉などの作品が見られる。
すれちがふ青野の人の手に御数珠
こういう見方、感じかたは氏の独壇場である。と言ってこういう方向だけではなく、多面的な視角を持つ作家であることには違いない。
●
「犬がゐる」
帰る道きらきらとして宵祭 榊 倫代
「宵祭」の良さがここにある。本祭はひたすら終わりに向かって進行していくのだが、宵祭は祭に参加している側も、それをとりまく見物の側にもまだまだ本祭のたのしみを控えた時間が残されている。そういう期待の「きらきら」ではないだろうか。
形代の回覧板で回りけり
厄除けを回覧板で募るとはあまりにも現代的。面白いが、これは作った面白さではなく。事実は小説よりも~だろう。そしてその発見の面白さがある。回覧板は各戸へ回すものだが、こうして俳句になってみると。形代が回覧板に乗って空を飛んでいるようにも思える。そこがまた面白い。
●八田木枯「華」10句 →読む
●佐藤文香 「標本空間」10句 →読む
●齋藤朝比古 「縫 目」10句 →読む
●望月哲土 「草」10句 →読む
●大野朱香 「来し方」 10句 →読む
●榊 倫代 「犬がゐる」 10句 →読む
●
流れゆくものと流れ寄るもの ● 馬場龍吉
あなたは川岸に立っている。すると上流からいま刈り取られたとおぼしき一群の草が芳香を放ちながら眼前に流れ来る。そのなかに、あなたに寄りくる草がある。それはほんの偶然の出合いに過ぎない。俳句との出会いもこういうものではないだろうか。なにかのきっかけで目にできる俳句と、目にできない俳句がある。幸いなことに週刊俳句に掲載される作品は月刊の俳句誌よりもいち早く旬の作家の旬の作品が読める。つまり、より身近に俳句が流れ寄ってくるということなのだ。あとはあなたの鑑賞眼に任されている。
●
「華」
ぼうたんは崩れ太虚にかこまるる 八田木枯
八田氏の作品にはタイトル通りそれぞれの花に華がある。掲句は牡丹が散ったあとの、牡丹の周りのその虚無感、空気感を詠むことによって牡丹の花の質感を感じさせてくれた。
白き薔薇ものに溺るるこそよけれ
白き薔薇剪られ鏡のなかに痴れ
白薔薇の花言葉は「純潔、あなたを尊敬する、私はあなたにふさわしい」なのだそうだが、氏の描く薔薇はいささかナルシスティックでもある。いや花はみなそういうふうにも見えるのだが。まるで花との交信を愉しむように詠まれている。
花に囲まれた生活ができることを裕福と言うのではないだろうか。花を育てる余裕、観賞するゆとりがいまの殺伐とした現代にこそ必要であろう。俳人は世の中にプラスになることは何もしない。だが、マイナスになることはもっとしないはずである。それでいいのだ。と、バカぼんのパパならきっと言うはずだ。
●
「標本空間」
明易や吊れば滴るネガフィルム 佐藤文香
デジカメがこれほど普及するとは思わなかったのだが、そんななかでも、いやそんな時だからこそ、フィルムを現像して印画紙に焼き付けをするアナログ的な写真の魅力に取りつかれている人も少なくはないはずである。焼き付けにもさまざまなテクニックがあって1枚のネガから多種多用な写真ができそうだ。と、写真は一度もやったことはないのだがそう思う。掲句はデジカメでは成り立たない世界である。夢中で作業していて朝になってもまだ暗室にいるのかもしれない。その時間のギャップが「明易」で見事に表現されている。
ひた並ぶ昼の街灯あげはてふ
単なる写生俳句と思ってはつまらない。巨匠小津安二郎監督なら昼の定位置のカメラに夜の風景を撮影しているであろう。光源の街灯に集まる虫や蛾を写しているであろう。平句の良さはこういうところにあるのではないだろうか。「昼の街灯」は「夜の街灯」でもあるのだ。
●
「縫目」
敵味方入り乱れたるシャワーかな 齋藤朝比古
齋藤氏の俳句は読者を裏切って頼もしい。そういう意味で氏の作句姿勢は読者を裏切らない。運動音痴のぼくには善戦していたスポーツがラグビーなのか、サッカーなのかわからないし、試合後に同じシャワールームでシャワーを浴びるのかもわからない。だが、とてもわかるのだ。「入り乱れたる」が下五のどんでん返しを誘う。これこそ職人芸と言ってもいいだろう。
ががんぼの吹かれて自由とは違ふ
ががんぼのあの何にでもすがるような頼りなさはたしかに風来坊とは違うなー。ががんぼの気持ちがふっとわかるような気持ちにさせてくれた一句。
●
「草」
瑠璃蜥蜴草葉の蔭を出入りする 望月哲土
「草葉の蔭」の引用が効いている。あの世とこの世の出入りが自由なのでは。と思わせてくれる。瑠璃蜥蜴ならさもあらん。乱暴な言い方だが、蜥蜴の生態は猫に似ているところがある。もの陰にいそいそ逃げ込んだかと思うと向きを換えてこちらを窺っていることがある。とすると半身はあの世に行っているのかもしれない。この作品「蔭」がとても気になる。望月氏はここで草の織り成す翠の影を言いたかったのだろうが、言いたいのは「草葉の陰」であって「蔭」ではなかったのではなかろうか。と、個人的見解。
心身の親に似ない子竹煮草
「とんびが鷹を生む」とまでは言ってはいないのだが、親類縁者のどこを見回しても誰にも似ていない子というところだろうか。そういうことも世の中にあって不思議はないかもしれない。季語「竹煮草」にノスタルジーを感じさせて唐突感がなく丁寧な作品だと思う。
●
「来し方」
来し方の暮るるや小屋の夏燈 大野朱香
この夏燈は身体には涼しく心にあたたかくて沁み沁みいい。「来し方」は歩いてきた道のりであり、人生の長い道のりでもあるだろう。久しぶりに大野氏の作品を拝見できた。今回の連作では全体にそつのない仕上がりになっているが、反面物足りなさを感じるのはぼくだけではないだろう。現代俳句データベースには〈一枚の落葉にふるへ沼の水〉〈登高や小石は崖を転げおち〉などの作品が見られる。
すれちがふ青野の人の手に御数珠
こういう見方、感じかたは氏の独壇場である。と言ってこういう方向だけではなく、多面的な視角を持つ作家であることには違いない。
●
「犬がゐる」
帰る道きらきらとして宵祭 榊 倫代
「宵祭」の良さがここにある。本祭はひたすら終わりに向かって進行していくのだが、宵祭は祭に参加している側も、それをとりまく見物の側にもまだまだ本祭のたのしみを控えた時間が残されている。そういう期待の「きらきら」ではないだろうか。
形代の回覧板で回りけり
厄除けを回覧板で募るとはあまりにも現代的。面白いが、これは作った面白さではなく。事実は小説よりも~だろう。そしてその発見の面白さがある。回覧板は各戸へ回すものだが、こうして俳句になってみると。形代が回覧板に乗って空を飛んでいるようにも思える。そこがまた面白い。
●八田木枯「華」10句 →読む
●佐藤文香 「標本空間」10句 →読む
●齋藤朝比古 「縫 目」10句 →読む
●望月哲土 「草」10句 →読む
●大野朱香 「来し方」 10句 →読む
●榊 倫代 「犬がゐる」 10句 →読む
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2008年7月14日月曜日
連句について聞きました
連句について聞きました
四童さんに連句について聞きました。
四童(以下略):1977年か1978年くらいに青土社から出た『大岡信著作集』の何巻かの月報です。一部で語り草になっている「どさりと落ちる軒の残雪」にしびれました。
その頃はまだ俳句実作者ではありませんでした。俳句実作者になったのは1994年。連句はもっと遅く、参加した『恒信風』という俳句同人誌に、東直子さんの捌きで毎号同人の誰かと両吟歌仙を巻くというコーナーがあり、2000年4月に発行された号でご一緒させて頂いたのが最初です。
Q BBS時代の四童珈琲店で歌仙をスタートさせたのですね。
2001年のほとんど同じ時期にホームページを立ち上げた浦川聡子さんが「リレー俳句」という今でも続いている人気コーナーを始めたので、じゃあ、こっちはオーソドックスに連句でも巻こうか、という程度の動機ではじめました。
Q 連句と俳句はやはり違いますか?
これは、セックスとオナニーくらい違います。付け合いというのは、コミュニケーションであり、人間と人間との快楽です。
Q 連句をはじめてから、つくる俳句に変化はありましたか?
二物衝撃という技法に非常に敏感になり、また逆に、一物で十七音という長さを大切にすることにも敏感になりました。
Q 歌仙を取り仕切るホスト役ともいうべき「捌き」、客人たる「連衆」、やるならどっち?
連衆のほうが好きです。人さまの句を捌くのは、ほんとうはそんなに好きではないのですが、自分が巻きたいときに、人を集めて捌きをさせていただくくらいです。
Q こんな歌仙はイヤだ!(鉄拳という芸人さんのネタです)
ネットでやっていると、付句が数か月くらい平気で途切れることがあります。忍耐強く待つしかないのですが、さびしいです。
Q 連句のおもしろさとは?
付句を得て自分の句がぜんぜん別の光を帯びるような新しい発見を、連衆が相互に体験する訳です。また三句の渡りという局所性の中でそれが起こり、全体はほとんど意味がないという、刹那的な「いま、ここ」の醍醐味は参加した人でないと分からないと思います。
近代芸術だか第二芸術だか知りませんが、参加した人でないと分からない快楽というのは、連句の場合ぜったいあります。俳句とか連句とかを芸術だと思うから、前近代的とかの話になるので、他者とのコミュニケーションだと思えばいいのです。
Q オススメの参考書を教えてください。
浅沼璞『「超」連句入門』をお勧めします。現代人の我々は芭蕉の時代の式目に縛られたってしょうがないわけで、精神だけを受け継いで応用していけばいいと思うのですが、浅沼璞さんの本にはいろいろヒントがあるように思われます。
ありがとうございました。
●
四童さんに連句について聞きました。
連句【れんく】
俳諧体の連歌、すなわち俳諧のこと。俳諧の発句(第一句目の長句)が独立して俳句と呼ばれるようになった明治以降、特に連歌や俳句と区別してこの呼称を用いる。原則として複数で五七五の長句と七七の短句とを交互に付け連ねるもの。歌仙(三六句)・世吉(よよし)(四四句)・百韻(一〇〇句)などの形式がある。(三省堂「大辞林 第二版」)
歌仙【かせん】Q 連句を知ったのはいつ頃ですか?
連歌・俳諧で、長句と短句を交互に三六句連ねたもの。懐紙二枚を折って用い、一折目(初折)の表に六句、裏に一二句、二折目(名残の折)の表に一二句、裏に六句書く。芭蕉以降盛んに行われた。(同)
四童(以下略):1977年か1978年くらいに青土社から出た『大岡信著作集』の何巻かの月報です。一部で語り草になっている「どさりと落ちる軒の残雪」にしびれました。
その頃はまだ俳句実作者ではありませんでした。俳句実作者になったのは1994年。連句はもっと遅く、参加した『恒信風』という俳句同人誌に、東直子さんの捌きで毎号同人の誰かと両吟歌仙を巻くというコーナーがあり、2000年4月に発行された号でご一緒させて頂いたのが最初です。
Q BBS時代の四童珈琲店で歌仙をスタートさせたのですね。
2001年のほとんど同じ時期にホームページを立ち上げた浦川聡子さんが「リレー俳句」という今でも続いている人気コーナーを始めたので、じゃあ、こっちはオーソドックスに連句でも巻こうか、という程度の動機ではじめました。
Q 連句と俳句はやはり違いますか?
これは、セックスとオナニーくらい違います。付け合いというのは、コミュニケーションであり、人間と人間との快楽です。
Q 連句をはじめてから、つくる俳句に変化はありましたか?
二物衝撃という技法に非常に敏感になり、また逆に、一物で十七音という長さを大切にすることにも敏感になりました。
Q 歌仙を取り仕切るホスト役ともいうべき「捌き」、客人たる「連衆」、やるならどっち?
連衆のほうが好きです。人さまの句を捌くのは、ほんとうはそんなに好きではないのですが、自分が巻きたいときに、人を集めて捌きをさせていただくくらいです。
Q こんな歌仙はイヤだ!(鉄拳という芸人さんのネタです)
ネットでやっていると、付句が数か月くらい平気で途切れることがあります。忍耐強く待つしかないのですが、さびしいです。
Q 連句のおもしろさとは?
付句を得て自分の句がぜんぜん別の光を帯びるような新しい発見を、連衆が相互に体験する訳です。また三句の渡りという局所性の中でそれが起こり、全体はほとんど意味がないという、刹那的な「いま、ここ」の醍醐味は参加した人でないと分からないと思います。
近代芸術だか第二芸術だか知りませんが、参加した人でないと分からない快楽というのは、連句の場合ぜったいあります。俳句とか連句とかを芸術だと思うから、前近代的とかの話になるので、他者とのコミュニケーションだと思えばいいのです。
Q オススメの参考書を教えてください。
浅沼璞『「超」連句入門』をお勧めします。現代人の我々は芭蕉の時代の式目に縛られたってしょうがないわけで、精神だけを受け継いで応用していけばいいと思うのですが、浅沼璞さんの本にはいろいろヒントがあるように思われます。
ありがとうございました。
●
2008年7月13日日曜日
日曜定休 02
日曜定休
そこで
俳句関連ブログ記事散策
●
ハエか、セミか… 僕が線を引いて読んだ所そこで
俳句関連ブログ記事散策
●
●
「五月蝉い」?
俳句入門書 そして俳句の振れ幅
●
「2回目 俳句に必要なものはと聞かれ、即
歳時記と答えたときの恥ずかしさ」
パンナム航空のギブアウェイ 東人雑記
●
古い記事(2005年4月)も例外的にピックアップ。
週俳の先週の動画 haiku mp A Tribute To Pan Am 関連ということで。
●
●
●(tenki)
2008年7月12日土曜日
歳時記いろいろ
歳時記いろいろ ● 猫髭
歳時記や季寄せはそれぞれ特色があって、読物としても面白いので(『角川俳句大歳時記』だけは見識の無い解説と例句が散見するので、薦められない)、江戸時代のものから最新のものまで取り揃えている。三島ゆかりさんが馬鹿なら、わたくしなどは七回生れ変わっても大馬鹿野郎だろう。
古典は、曲亭馬琴編藍亭青藍補『増補俳諧歳時記栞草』(上下、岩波文庫)が俳諧季寄せの最高峰という評価通りで、これに松井重頼撰『毛吹草』(岩波文庫。回文俳句などの事例も豊富)を揃えておけば、古俳諧の手引きには十分だろう。さらに和綴の鳥飼洞斎編『詩歌連俳季寄註解改正月令博物筌』(全四冊、交盛館蔵版)があれば、古句により親しめる。
現代歳時記では、一番解説と例句のバランスがいいのが、山本健吉編『最新俳句歳時記』(全五巻、文藝春秋)と『季寄せ』(上下、文藝春秋)。「青時雨」という美しい季題の発見も後世への良き賜と言えるだろう。
『ホトトギス雑詠選集』の骨太の秀句が並び、月別なので使いやすい虚子編『新歳時記』(三省堂、革装がお薦め)。
季題の由来と勘所だけに解説を絞り込み、例句も一句のみという潔さが売りの平井照敏編『季寄せ』(NHK出版。この編集には境野大波と石田郷子が心血を注いで協力している)。
解説者が豪華絢爛でほれぼれする『カラー図説日本大歳時記』(講談社、机上版がお薦め)。
これまたカラー図版が美しい『カラー版新日本大歳時記』(講談社、全五巻)。
いろいろな詩的季語に出会える、写真も美しい高橋順子編『まほろば歳時記』(小学館。「雨の名前」「風の名前」「花の名前」)。
成美堂出版の『俳句の花図鑑』、『俳句の鳥・虫図鑑』、柏書房の『俳句の魚菜図鑑』も便利。
辞典では齋藤慎爾・阿久根末忠編『必携季語秀句用字用例辞典』が夏目雅子の俳句まで載っていて周到。
領袖版なのに傍題の多さに驚く『新版季寄せ』(角川学芸出版)。
また、初めて若者が持ち歩いても爺婆むさく見られない小洒落た装丁と例句が瑞々しい『俳句歳時記第四版』(全五冊、角川文庫)。
しかし、何と言っても、面白さでは『改訂増補富安風生編歳時記』(東京美術)が群を抜いている。
何が面白いかというと、風生老人の愚痴というかぼやきが落語を聞いているようで面白いの何の、また出た!とぼやきが出るたびに小躍りしてしまうほどだ。
例えば、「新年」を開いて読んでいると「初凪」が出て来る。
【初凪の「凪」という名詞に「す」という語尾をつけて、動詞化した例も見かけるが、好もしくない。戦時中、時の文相が「科学する」と言った、ふつつかな造語をしたために、「風花す」とか「俳句する」などと言う奇怪な語が生れたのは、慨嘆にたえない。また初凪の「凪」を動詞に使った「初凪げる」の類も、日本語の虐待で、面白くない。】
…といった調子である。
また、例句も独特の若々しさで選ばれており、
性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽
蝿とんで来るや箪笥の角よけて 京極杞陽
を読んで、わたくしは一発で杞陽のファンになってしまった。
勿論、風生も
白桃をよよとすすれば山青き 富安風生
狐火を信じ男を信ぜざる 富安風生
といった破顔一笑するような句を詠んでいる。
実に飄々とした歳時記である。
『改訂増補富安風生編歳時記』
歳時記や季寄せはそれぞれ特色があって、読物としても面白いので(『角川俳句大歳時記』だけは見識の無い解説と例句が散見するので、薦められない)、江戸時代のものから最新のものまで取り揃えている。三島ゆかりさんが馬鹿なら、わたくしなどは七回生れ変わっても大馬鹿野郎だろう。
古典は、曲亭馬琴編藍亭青藍補『増補俳諧歳時記栞草』(上下、岩波文庫)が俳諧季寄せの最高峰という評価通りで、これに松井重頼撰『毛吹草』(岩波文庫。回文俳句などの事例も豊富)を揃えておけば、古俳諧の手引きには十分だろう。さらに和綴の鳥飼洞斎編『詩歌連俳季寄註解改正月令博物筌』(全四冊、交盛館蔵版)があれば、古句により親しめる。
現代歳時記では、一番解説と例句のバランスがいいのが、山本健吉編『最新俳句歳時記』(全五巻、文藝春秋)と『季寄せ』(上下、文藝春秋)。「青時雨」という美しい季題の発見も後世への良き賜と言えるだろう。
『ホトトギス雑詠選集』の骨太の秀句が並び、月別なので使いやすい虚子編『新歳時記』(三省堂、革装がお薦め)。
季題の由来と勘所だけに解説を絞り込み、例句も一句のみという潔さが売りの平井照敏編『季寄せ』(NHK出版。この編集には境野大波と石田郷子が心血を注いで協力している)。
解説者が豪華絢爛でほれぼれする『カラー図説日本大歳時記』(講談社、机上版がお薦め)。
これまたカラー図版が美しい『カラー版新日本大歳時記』(講談社、全五巻)。
いろいろな詩的季語に出会える、写真も美しい高橋順子編『まほろば歳時記』(小学館。「雨の名前」「風の名前」「花の名前」)。
成美堂出版の『俳句の花図鑑』、『俳句の鳥・虫図鑑』、柏書房の『俳句の魚菜図鑑』も便利。
辞典では齋藤慎爾・阿久根末忠編『必携季語秀句用字用例辞典』が夏目雅子の俳句まで載っていて周到。
領袖版なのに傍題の多さに驚く『新版季寄せ』(角川学芸出版)。
また、初めて若者が持ち歩いても爺婆むさく見られない小洒落た装丁と例句が瑞々しい『俳句歳時記第四版』(全五冊、角川文庫)。
しかし、何と言っても、面白さでは『改訂増補富安風生編歳時記』(東京美術)が群を抜いている。
何が面白いかというと、風生老人の愚痴というかぼやきが落語を聞いているようで面白いの何の、また出た!とぼやきが出るたびに小躍りしてしまうほどだ。
例えば、「新年」を開いて読んでいると「初凪」が出て来る。
【初凪の「凪」という名詞に「す」という語尾をつけて、動詞化した例も見かけるが、好もしくない。戦時中、時の文相が「科学する」と言った、ふつつかな造語をしたために、「風花す」とか「俳句する」などと言う奇怪な語が生れたのは、慨嘆にたえない。また初凪の「凪」を動詞に使った「初凪げる」の類も、日本語の虐待で、面白くない。】
…といった調子である。
また、例句も独特の若々しさで選ばれており、
性格が八百屋お七でシクラメン 京極杞陽
蝿とんで来るや箪笥の角よけて 京極杞陽
を読んで、わたくしは一発で杞陽のファンになってしまった。
勿論、風生も
白桃をよよとすすれば山青き 富安風生
狐火を信じ男を信ぜざる 富安風生
といった破顔一笑するような句を詠んでいる。
実に飄々とした歳時記である。
『改訂増補富安風生編歳時記』
2008年7月11日金曜日
光と色
光と色 ● 野口 裕
少々汚い紙の箱がある。
なかを覗くと、
のぞき穴に仕掛けがあって、右側に虹の七色が浮かび上がる。分光器という。箱の向こう側に光の取り入れ口がある。上の写真では、左側。
そこから、取り入れる光を変えると…
これは、ナトリウムランプの光。高速道路のトンネルの中でよくお目にかかる。ご覧のように虹の七色ではなく、オレンジ系統ただ一色の光となっている。同種の光は、台所でもちょくちょくお目にかかる。塩分を含んだ汁などがガス火に吹きこぼれると、ガス火は異様に黄色い炎を上げるが、ナトリウム元素を含んだ物質が熱せられるとこのような光を放つことで起こる。
元素が変われば、熱せられたときに発する光の色も異なる。色鮮やかな花火の様々な色は火薬の中に仕込まれた諸々の元素が熱せられることで生まれる。
花火 → http://www.yumenara.com/hanabidb/
蛍光灯は水銀蒸気から発せられる光を用いるが、なるべく自然の光に近くなるように蛍光灯の管内部に蛍光物質を塗ってある。
少々取り入れる光が強すぎて、写真の出来の悪いのは勘弁して欲しいが、紫のあたりにぴかりと光る部分が水銀蒸気から発せられるもので、連続的に広がる虹の七色は蛍光物質から発せられている。
ちょっと不思議なのは、紫の部分に肉眼では一本の線しか見えないのにカメラでは二本の線が見えていることだ。一番左側の部分は肉眼では紫外線の領域に入って見えていないのかも知れない。カメラは携帯電話のものなのでそれほど高級でもないのだが。また、写真が悪いので見えにくいが、緑の部分にも、ぴかりと光るところがある。
ナイター照明に使うカクテル光線は、蛍光物質抜きの水銀灯とナトリウムランプを混合して使う。
いつも不思議に思うのは、光の色とは光の波長の違い(この写真では光の取り入れ口から近いか遠いかの距離)に過ぎず、波長という単なる数字で一元的に表されることだ。赤いとか、緑とか、青だとかに質的な相違はない。にもかかわらず我々の感覚では歴然と違う。光の波長という数的で一元的なものを、質的な違いとなぜ感じるのだろうか?
植物の光合成では、虹の七色のうち主に、中央部分を除いた赤い部分と紫の部分が利用される。利用されない光は、植物に吸収されず反射される。植物が緑色に見えるのは、そうしたことが反映している。
我々の色覚は、植物の跳ね返す光の色を基準として、生まれてきたのではないか。というのが、私の妄想だが、あまり当てになる話ではない。
●
少々汚い紙の箱がある。
なかを覗くと、
のぞき穴に仕掛けがあって、右側に虹の七色が浮かび上がる。分光器という。箱の向こう側に光の取り入れ口がある。上の写真では、左側。
そこから、取り入れる光を変えると…
これは、ナトリウムランプの光。高速道路のトンネルの中でよくお目にかかる。ご覧のように虹の七色ではなく、オレンジ系統ただ一色の光となっている。同種の光は、台所でもちょくちょくお目にかかる。塩分を含んだ汁などがガス火に吹きこぼれると、ガス火は異様に黄色い炎を上げるが、ナトリウム元素を含んだ物質が熱せられるとこのような光を放つことで起こる。
元素が変われば、熱せられたときに発する光の色も異なる。色鮮やかな花火の様々な色は火薬の中に仕込まれた諸々の元素が熱せられることで生まれる。
花火 → http://www.yumenara.com/hanabidb/
蛍光灯は水銀蒸気から発せられる光を用いるが、なるべく自然の光に近くなるように蛍光灯の管内部に蛍光物質を塗ってある。
少々取り入れる光が強すぎて、写真の出来の悪いのは勘弁して欲しいが、紫のあたりにぴかりと光る部分が水銀蒸気から発せられるもので、連続的に広がる虹の七色は蛍光物質から発せられている。
ちょっと不思議なのは、紫の部分に肉眼では一本の線しか見えないのにカメラでは二本の線が見えていることだ。一番左側の部分は肉眼では紫外線の領域に入って見えていないのかも知れない。カメラは携帯電話のものなのでそれほど高級でもないのだが。また、写真が悪いので見えにくいが、緑の部分にも、ぴかりと光るところがある。
ナイター照明に使うカクテル光線は、蛍光物質抜きの水銀灯とナトリウムランプを混合して使う。
いつも不思議に思うのは、光の色とは光の波長の違い(この写真では光の取り入れ口から近いか遠いかの距離)に過ぎず、波長という単なる数字で一元的に表されることだ。赤いとか、緑とか、青だとかに質的な相違はない。にもかかわらず我々の感覚では歴然と違う。光の波長という数的で一元的なものを、質的な違いとなぜ感じるのだろうか?
植物の光合成では、虹の七色のうち主に、中央部分を除いた赤い部分と紫の部分が利用される。利用されない光は、植物に吸収されず反射される。植物が緑色に見えるのは、そうしたことが反映している。
我々の色覚は、植物の跳ね返す光の色を基準として、生まれてきたのではないか。というのが、私の妄想だが、あまり当てになる話ではない。
●
2008年7月10日木曜日
ベンキョー?
ベンキョー? ● 太田うさぎ
句会が終っての歓談のとき、ある方が、無意識に類句を作ってしまいそうなので人の句は読まない、とおっしゃった。そのときは、ふうん、と否定も肯定もなく聞いていたのだけど、あとからふつふつとハテナマークが湧いてきた。
私は俳句に出会ったばっかりの頃、ひとの句を読むのが楽しかった。これまでの読書ジャンルにないものだったから目新しくて面白かった。単純に、そうだった。
日野草城の『昨日の花』とか、わー、こんな昔にこんなモダンに今でもすっごく通じる会社員の一風景だー! なんて感激したし。茨木和生の『倭』ではきらめくフォークロアに嬉しくなったし。
ひょんなきっかけで係わった世界の先達と出会うのがとにかくエキサイティングだった。私としてはまったく読書の延長で、その出会いの嬉しさを共有したかったのに、話せば、たいがいは「うさぎさんは勉強してるから」と答えが返ってきたものだ。
は?と驚いた。驚きましたよー。ベンキョー?
野球を始めた小僧が、例えば王のフラミンゴ打法ってすげーな!とか沢村ってピッチャーがいたらしいな、とか、そんなことを話したがるのとおんなしレベルだったんだけど。なぜそれがベンキョーになるんだか。
自分の俳句を作るために、よその俳句はあるんだろうか。
●
句会が終っての歓談のとき、ある方が、無意識に類句を作ってしまいそうなので人の句は読まない、とおっしゃった。そのときは、ふうん、と否定も肯定もなく聞いていたのだけど、あとからふつふつとハテナマークが湧いてきた。
私は俳句に出会ったばっかりの頃、ひとの句を読むのが楽しかった。これまでの読書ジャンルにないものだったから目新しくて面白かった。単純に、そうだった。
日野草城の『昨日の花』とか、わー、こんな昔にこんなモダンに今でもすっごく通じる会社員の一風景だー! なんて感激したし。茨木和生の『倭』ではきらめくフォークロアに嬉しくなったし。
ひょんなきっかけで係わった世界の先達と出会うのがとにかくエキサイティングだった。私としてはまったく読書の延長で、その出会いの嬉しさを共有したかったのに、話せば、たいがいは「うさぎさんは勉強してるから」と答えが返ってきたものだ。
は?と驚いた。驚きましたよー。ベンキョー?
野球を始めた小僧が、例えば王のフラミンゴ打法ってすげーな!とか沢村ってピッチャーがいたらしいな、とか、そんなことを話したがるのとおんなしレベルだったんだけど。なぜそれがベンキョーになるんだか。
自分の俳句を作るために、よその俳句はあるんだろうか。
●
2008年7月9日水曜日
妙正寺川
妙正寺川 ● 中嶋憲武
日曜にタナカ君から買ったiPod。通勤時に、おもにシャッフルで聴いている。信号待ちをしているとき、不意に「金色の髪の少女」が掛かった。好きな曲なの で、内心盛り上がる。あるきながら、“I ain' t ready for the alter…”という部分が、口をついて出てしまい、廻りにひとがいっぱいいたので、かなり恥ずかしい思いをする。
日曜日、iPod Classicを1万円で購入するために、池袋で12時半にタナカ君と待ち合わせする。昼飯を食ったあと、夕方までの約束で、ちょっと散歩でもするかということになり、妙正寺川に沿って歩くことにする。
タナカ君とあるくときは、このように突発的に決まることが多い。妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園を水源とし、東へ流れ、鷺宮、野方を通り、哲学堂、江古田を経て、下落合で暗渠へ入るという、小さな川。
google map
池袋から目白へ向かって歩き出す。大ガードを越えると、この付近にフランク・ロイド・ライト設計の自由学園があることを思い出し、寄ってみようかということになる。普段なら、外見だけみて通り過ぎるのが通例であるが、この日は違った。入場料を払って、中へ。
外観は、三角屋根の中央棟と左右の棟のシンメトリーが印象的な、クリーム色の壁と緑色の屋根。庭の芝生はよく手入れされてあり、この庭で結婚式が開かれてい る場面に遭遇したこともある。白いウエディングドレスが、緑の芝生によく映えていた。現在では、様々な使われ方をしているようだ。中の教室で、歌会が行わ れているのを見たこともある。かつての帝国ホテルで有名な大谷石がふんだんに使われている。
この建物は、大正10年に女学校として建てられたそうで、自由学園という命名から察するに、自由・博愛・平等へ連想が広がり、キリスト教に関係していると思われる。そう思って内部を見てみると、寄宿 舎といった風情を醸し出している。中央棟に食堂があるというのも面白い。学校の中央棟に食堂を置くという発想が、なんか自由。この食堂の灯しが、美しい幾 何学的なデザイン。窓が六角形で、椅子の背凭れも六角形。内部は美しい幾何学的デザインに溢れている。
なかを歩いているとき、ぼくの頭のなかでは、サイモンとガーファンクルの“So long, Frank Lloid Wright, I can't believe your song is gone so soon.” というところばかり、リフレインしている。椅子が、とても小さい。ミニチュアのようでもあり、おとぎの国のようでもあり。また来てみたいと思った。今度は喫茶室で座って、内部をゆっくり拝見しながらのんびりしてみたい。
満足して表に出る。下落合で、暗渠に吸い込まれる妙正寺川に出会う。暗渠の口に、黒いラバーの幕が何枚も垂れ下がっていて、奥を隠している。タナカ君が、「なんだ、あの幕。エロホテルみたいなことしやがって」 といったので、笑う。五月晴暗渠の口の黒き幕という句が浮かぶが、黙っている。
日曜の昼下がり、都会をこっそり流れる川に沿ってあるく。タナカ君のiPodのスピーカーからは、ボブ・ディラン。のんびりした歌声が、現状と妙にマッチして来る。過去と現在が出逢う瞬間。活き活きとボブ・ディラン。
林芙美子記念館が見えてきたので、ちょっと寄ってみようかということになる。これも例外の行動である。最前の自由学園といい、建築つながりで興味が湧いたのかもしれぬ。4月に一度来ていて、今回二回目となるが、何回来てもいいところはいい。
林 芙美子は詩集しか読んだことがなく、母がいいといっていた「放浪記」でも読んでみようかと。ボランティアによるガイドをゆっくり聴けたので、とてもよく判った。今回初めて知ったけれど、茶の間の広縁の壁は、バウハウスの建築家によるアイデアで細工されていて、「へえ、なるほどね」と思った。徒然草の「何 事にも先達はあらまほしきことなり」という文章を思い出す。ここで、30分ばかり時間を食ってしまい、すでに16時過ぎている。あと1時間で帰れるかなと 思いつつあるく。
哲学堂をめざしてあるき、哲学堂に着いてみれば、別に立ち寄ることもなく、哲学堂に添う川のよこをあるいてたちまち、哲学堂をあとにする。
江古田公園のちかくのコンビニエンスストアーで、前来たときと同じようにトイレを借りて、食い物と飲み物を買う。この辺でぼくの家が近いので、里心がすこしだけ起きるが、タナカ君がすたすたあるくので、お茶を飲みながらあるく。
環状七号線を越える。この環七を北上してゆけば、ぼくの家だと、またまた里心が起きるが日暮れが近いので旅を急ぐ。鷺宮の駅前のドトールですこし休憩。もう7時近い。妙正寺公園までは、あと二駅だ。
水源地の妙正寺公園に着いたときは、真っ暗。この前はいつだったか忘れたが、たしか暗くなってから着いたような気がする。この公園は夜の印象しかない。
公園から、荻窪へ出て、夕食をどこかで済まそうと店を探す。荻窪といえば「ぶたや」と相場は決まっているのであるが、日曜定休なので、止むなく駅のほうへ歩 く。流行っていそうな駅前の中華屋のカウンターに座って食事。隣席の冷し中華が美味しそう。古新聞のにおいとラジオから野球中継。厨房にお年寄り。
店を出て、吉祥寺まであるき、ここで別れる。家へ着くと22時。一日あるいてしまったと思う。
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日曜にタナカ君から買ったiPod。通勤時に、おもにシャッフルで聴いている。信号待ちをしているとき、不意に「金色の髪の少女」が掛かった。好きな曲なの で、内心盛り上がる。あるきながら、“I ain' t ready for the alter…”という部分が、口をついて出てしまい、廻りにひとがいっぱいいたので、かなり恥ずかしい思いをする。
日曜日、iPod Classicを1万円で購入するために、池袋で12時半にタナカ君と待ち合わせする。昼飯を食ったあと、夕方までの約束で、ちょっと散歩でもするかということになり、妙正寺川に沿って歩くことにする。
タナカ君とあるくときは、このように突発的に決まることが多い。妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園を水源とし、東へ流れ、鷺宮、野方を通り、哲学堂、江古田を経て、下落合で暗渠へ入るという、小さな川。
google map
池袋から目白へ向かって歩き出す。大ガードを越えると、この付近にフランク・ロイド・ライト設計の自由学園があることを思い出し、寄ってみようかということになる。普段なら、外見だけみて通り過ぎるのが通例であるが、この日は違った。入場料を払って、中へ。
外観は、三角屋根の中央棟と左右の棟のシンメトリーが印象的な、クリーム色の壁と緑色の屋根。庭の芝生はよく手入れされてあり、この庭で結婚式が開かれてい る場面に遭遇したこともある。白いウエディングドレスが、緑の芝生によく映えていた。現在では、様々な使われ方をしているようだ。中の教室で、歌会が行わ れているのを見たこともある。かつての帝国ホテルで有名な大谷石がふんだんに使われている。
この建物は、大正10年に女学校として建てられたそうで、自由学園という命名から察するに、自由・博愛・平等へ連想が広がり、キリスト教に関係していると思われる。そう思って内部を見てみると、寄宿 舎といった風情を醸し出している。中央棟に食堂があるというのも面白い。学校の中央棟に食堂を置くという発想が、なんか自由。この食堂の灯しが、美しい幾 何学的なデザイン。窓が六角形で、椅子の背凭れも六角形。内部は美しい幾何学的デザインに溢れている。
なかを歩いているとき、ぼくの頭のなかでは、サイモンとガーファンクルの“So long, Frank Lloid Wright, I can't believe your song is gone so soon.” というところばかり、リフレインしている。椅子が、とても小さい。ミニチュアのようでもあり、おとぎの国のようでもあり。また来てみたいと思った。今度は喫茶室で座って、内部をゆっくり拝見しながらのんびりしてみたい。
満足して表に出る。下落合で、暗渠に吸い込まれる妙正寺川に出会う。暗渠の口に、黒いラバーの幕が何枚も垂れ下がっていて、奥を隠している。タナカ君が、「なんだ、あの幕。エロホテルみたいなことしやがって」 といったので、笑う。五月晴暗渠の口の黒き幕という句が浮かぶが、黙っている。
日曜の昼下がり、都会をこっそり流れる川に沿ってあるく。タナカ君のiPodのスピーカーからは、ボブ・ディラン。のんびりした歌声が、現状と妙にマッチして来る。過去と現在が出逢う瞬間。活き活きとボブ・ディラン。
林芙美子記念館が見えてきたので、ちょっと寄ってみようかということになる。これも例外の行動である。最前の自由学園といい、建築つながりで興味が湧いたのかもしれぬ。4月に一度来ていて、今回二回目となるが、何回来てもいいところはいい。
林 芙美子は詩集しか読んだことがなく、母がいいといっていた「放浪記」でも読んでみようかと。ボランティアによるガイドをゆっくり聴けたので、とてもよく判った。今回初めて知ったけれど、茶の間の広縁の壁は、バウハウスの建築家によるアイデアで細工されていて、「へえ、なるほどね」と思った。徒然草の「何 事にも先達はあらまほしきことなり」という文章を思い出す。ここで、30分ばかり時間を食ってしまい、すでに16時過ぎている。あと1時間で帰れるかなと 思いつつあるく。
哲学堂をめざしてあるき、哲学堂に着いてみれば、別に立ち寄ることもなく、哲学堂に添う川のよこをあるいてたちまち、哲学堂をあとにする。
江古田公園のちかくのコンビニエンスストアーで、前来たときと同じようにトイレを借りて、食い物と飲み物を買う。この辺でぼくの家が近いので、里心がすこしだけ起きるが、タナカ君がすたすたあるくので、お茶を飲みながらあるく。
環状七号線を越える。この環七を北上してゆけば、ぼくの家だと、またまた里心が起きるが日暮れが近いので旅を急ぐ。鷺宮の駅前のドトールですこし休憩。もう7時近い。妙正寺公園までは、あと二駅だ。
水源地の妙正寺公園に着いたときは、真っ暗。この前はいつだったか忘れたが、たしか暗くなってから着いたような気がする。この公園は夜の印象しかない。
公園から、荻窪へ出て、夕食をどこかで済まそうと店を探す。荻窪といえば「ぶたや」と相場は決まっているのであるが、日曜定休なので、止むなく駅のほうへ歩 く。流行っていそうな駅前の中華屋のカウンターに座って食事。隣席の冷し中華が美味しそう。古新聞のにおいとラジオから野球中継。厨房にお年寄り。
店を出て、吉祥寺まであるき、ここで別れる。家へ着くと22時。一日あるいてしまったと思う。
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2008年7月8日火曜日
「女性が担う俳句の未来」をめぐって
「女性が担う俳句の未来」をめぐって
〔これまでの流れ〕
『俳句』2008年7月号掲載の特別座談会「女性が担う俳句の未来」を、週刊俳句第62号および第63号の「俳誌を読む」が取り上げる(A、B)。その後、反論(C)、反論への反論(D:今回「あかるい俳句」に掲載の記事)。
A 天気;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第62号 2008-6-29
▼
B 猫髭;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第63号 2008-7-6
▼
C 天気;ブログ「俳句的日常」に「B」への反論を書く 2008-7-6
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」
▼
D 猫髭;「C」へ反論 =以下に掲載 2008-7-8
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」への反論
●
猫髭
1. 高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているという点について
>これを読むと、司会の高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているように思う人がいるかもしれないが、「技術」うんぬんはもっぱら、星野立子にまつわる箇所。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
いや、高柳氏は最初からそういうシナリオを用意しています。司会がシナリオを用意しないなどありえないし、でないと司会の意味は無い。最初の章は『私が影響を受けた女性俳人』というテーマだから、高柳氏は聞き役に徹しています。しかし、第二章『「台所」=「その人の居る場」』では、p68で…
台所俳句は俳句の敷居を低くしたという意味で大きな功績もあると思うのですが、一方で、女性俳句と言えば身辺詠だというふうにどうしても固定化してしまった。言葉の技術や修辞ということがおきざりにされて、素材として身辺を詠めばそれですむという風潮が生じてしまったような印象があります。
…と語っています。つまり、最初から高柳氏はそういうテクニカルな話題へ水を向けようというシナリオを持って座談会の場へ最初から臨んでいます。その場で思いついた事ではないでしょう。彼なりに調べた結果が、そういう俳句史的に何ならかの毀誉褒貶を明らかにしようという意図に辿り着いた上での発言です。ただ、ろくに調べていないから「ような印象があります」という歯切れの悪い言い方になる。
高柳氏が駄目だなと思うのは、こういう印象に過ぎない事を、テクニカルな話題で反らす事で、司会者だったら、こういった話題に対して裁量を持った人物、というか渦中にいた生き証人も呼んだ方がいいと編集部を説得しなければ。
今井千鶴子さん。彼女は星野立子の『玉藻』の編集人で、虚子から、寝ても覚めても『玉藻』の企画を考えなさいと言われて、虚子を囲む「研究座談会」を企画した張本人。虚子と立子の側近にいた生き証人で、今回の『鑑賞女性俳句の世界』では娘の肖子さんが鑑賞に参加していますが、今井千鶴子さんを囲めば、今回のような遠巻きな話ではなく、もっとリアルな話が聞けたでしょう。
わたくしは虚子の文章は苦手で、読んでいると頭が痛くなるのですが、唯一、「玉藻」に関係した文章だけは普通に読めるし、また虚子も、「研究座談会」を含めて、率直に答えていると思うので、その企画と速記を担当していた千鶴子さんをなぜ呼ばないのか、編集部も司会も工夫が足りないとしか思えません。
個人的に「言葉の技術や修辞」についても、明治俳壇の羅針盤と言われた正岡子規の『俳諧大要』で…
万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。 俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。しかし知りたき人は漸次(ぜんじ)に知り置くべし。
…と述べられていますが、今でもこの本はわたくしのバイブルなので、「言葉の技術や修辞」がおきざりにされたから云々は、高柳氏の先入観としか思えませんでした。
2. 立子の「技術」について
>高柳氏は、立子に、いわば「技術を感じさせない高度な技術」を見て取るが、宇多氏・西村氏は、それを技術とは見ず、議論は噛み合わないまま終わる。両氏は、技術ではなく資質・天与のものと捉え、それゆえ立子の「技術」という視点に賛同できぬように見える。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
虚子の女流俳句観が披露されている「立子等によつて拓かれた」という序が付いた『立子句集』を読めば、高柳氏が言った「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだふうに見えますけれど、実は周到な配慮の下に付けられている」という詠み方ではなくて、まさしく「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだ」だけだというのがわかるはずです。
立子が自分の句について色々言われた時に、しかも虚子に、「わたし、あんまり頭の中で作らないのだけど」と素っ気なく答えたのが面白くて記憶に残っているのがアリゾナで詠んだ次の句。
広野行く幾春時雨幾夕立 星野立子
わたくしもアリゾナへは仕事で何度か行ったので、これ、そのまんま詠んだというのがわかります。確かに、頭では詠めない。季重ねがどうこう頭でぐるぐるするから。見て、そう感じたので、そう詠んだだけ。
どちらかというと、素十の句の作り方に似ていると思います。
見たまんま感じたまんまを詠むだけ。ただしずうっと見続ける、馬鹿みたいに、季節まで越えて。
春の月ありしところに梅雨の月 高野素十
ただ、どう読むかは、読者それぞれの世界で読めばいいので、「言葉の技術や修辞」から表現の妙を分析的に読む事も読者の自由で、それで作者の意図とは離れて作品が飛翔すれば良い読者を得たということになり、作品も幸せ者ということになりますが、高柳氏のように「巧まずに作っているのかもしれませんが」と言っておいて「巧みです」と落とすのは、わたくしは愚だと思います。
3. テクニカルVSスピリチュアル
>(すべてを井戸端会議化してしまう「オバチャン性」を、猫髭さんは「スピリチュアル」と呼んだのだろうか?)(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
高柳克弘が「言葉の技術や修辞」と言ったテクニカルなことに対して、宇多喜代子が…
台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所だから、そこに足を据えて、男であれ女であれ句を作るという意味での「台所俳句」はまことにいい言葉です。
…と言った発言をスピリチュアルと呼びました。
男流はんはソトメシが多いのですが、女流はんは台所というウチメシが多いので、金出せば食えるものはソトメシでと、テクニカルに選択できますが、ウチメシは、いかに素早く安く美味しい物を作るかが原則で、言い換えると、毎日の繰り返しに堪える物だけしかウチメシでは生き残れないので、全世界共通な「おふくろの味」といった普遍性を持ったスピリチュアルな物が台所にはあるということです。
吉本隆明が、「私が料理を作るとき」という話を料理雑誌で書いているのを昔々見た時に、吉本隆明の奥さん(句集を二冊出してる俳人)が体が弱いので、彼が何十年も台所にずっと立って、世の中のウーマンリブの連中を全員打ち殺したいとか思いながら炊事する話で、また、彼の得意料理が、じゃがいものソース炒めとか、キャベツ丸ごとベーコン挟み茹でとか、ネギオカカ御飯とか、手早く出来て質素だけれども美味しかったので、覚えているのですが、そのとき、「料理の味で家族をリードしていたら、その家族はどんな危機があっても最後には乗り越えられる。しかし、どんなに性格が一致しようが性的に一致しようが、料理の味で家族をリード出来なかったら危機のときに破綻は避けられない」といった趣旨を述べていた事を、この宇多氏の発言で思い出しました。台所はそれだけ重要な場所なのだと。
吉本曰く、手のかかる料理、ママゴト料理もダメである、なぜならそれらは日常の繰り返しに堪えないから。
最近はコンビニもあるし、自炊は、若い男流はんも女流はんもしなくなったので、外食中心になると「台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所」というのはわからなくなりつつあると思いますが、わたくしも台所に立つことが多かったので、ウチメシはかなり重くとらえています。
4. 実年齢と俳句年齢
>何かについてモノを言う、とりわけ「意見」などではなく批評・分析的なモノを言うとき、実年齢など、関係があるのか? 誰が言うのか、ではなく、何を言っているのかが問題なのだ。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
その通りです。高柳氏は、まだ若いし、これからだというエールを込めて書きました。反論は「シンデレラにはもう戻れない」方から来ると思いましたが、天気さんからとは!
この人生時間の例えは、熟女のくどき文句に使う明治の粋本で読んだと思うのですが(特に三十台で独身の女性に効果的だそうです)、わたくしの周りは野郎ばかりなので、若いエンジニアが上司に叱られて落ち込んでいる時に使います。だってお前の人生時間始まったばかりだよ、上司なんか、もう定時過ぎて寝る時間だ、人間もナマモノだ、消費期限はどんなに向こうがエラクてもお前より先に切れる、というように使います。
>この手の座談は、人がまじわるのではない。批評的言語が交叉するのだ。そうでなくてはおもしろくない。(同上)
批評的言語が話せる俳人というのは余りいないのではないかと思います。
高柳克弘は『凛然たる青春』は面白かったけれども、今回は彼の守備範囲を外れた分野としか言い様がないと思いました。
>ちなみに、実年齢28歳の高柳氏は、俳句年齢82歳くらいだと、私は思っている。その意味でも、猫髭さんのおっしゃる「まだ9時台」という設定にはまったく首肯できない。 (同上)
御覧の通りです。
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〔これまでの流れ〕
『俳句』2008年7月号掲載の特別座談会「女性が担う俳句の未来」を、週刊俳句第62号および第63号の「俳誌を読む」が取り上げる(A、B)。その後、反論(C)、反論への反論(D:今回「あかるい俳句」に掲載の記事)。
A 天気;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第62号 2008-6-29
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B 猫髭;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第63号 2008-7-6
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C 天気;ブログ「俳句的日常」に「B」への反論を書く 2008-7-6
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」
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D 猫髭;「C」へ反論 =以下に掲載 2008-7-8
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」への反論
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猫髭
1. 高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているという点について
>これを読むと、司会の高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているように思う人がいるかもしれないが、「技術」うんぬんはもっぱら、星野立子にまつわる箇所。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
いや、高柳氏は最初からそういうシナリオを用意しています。司会がシナリオを用意しないなどありえないし、でないと司会の意味は無い。最初の章は『私が影響を受けた女性俳人』というテーマだから、高柳氏は聞き役に徹しています。しかし、第二章『「台所」=「その人の居る場」』では、p68で…
台所俳句は俳句の敷居を低くしたという意味で大きな功績もあると思うのですが、一方で、女性俳句と言えば身辺詠だというふうにどうしても固定化してしまった。言葉の技術や修辞ということがおきざりにされて、素材として身辺を詠めばそれですむという風潮が生じてしまったような印象があります。
…と語っています。つまり、最初から高柳氏はそういうテクニカルな話題へ水を向けようというシナリオを持って座談会の場へ最初から臨んでいます。その場で思いついた事ではないでしょう。彼なりに調べた結果が、そういう俳句史的に何ならかの毀誉褒貶を明らかにしようという意図に辿り着いた上での発言です。ただ、ろくに調べていないから「ような印象があります」という歯切れの悪い言い方になる。
高柳氏が駄目だなと思うのは、こういう印象に過ぎない事を、テクニカルな話題で反らす事で、司会者だったら、こういった話題に対して裁量を持った人物、というか渦中にいた生き証人も呼んだ方がいいと編集部を説得しなければ。
今井千鶴子さん。彼女は星野立子の『玉藻』の編集人で、虚子から、寝ても覚めても『玉藻』の企画を考えなさいと言われて、虚子を囲む「研究座談会」を企画した張本人。虚子と立子の側近にいた生き証人で、今回の『鑑賞女性俳句の世界』では娘の肖子さんが鑑賞に参加していますが、今井千鶴子さんを囲めば、今回のような遠巻きな話ではなく、もっとリアルな話が聞けたでしょう。
わたくしは虚子の文章は苦手で、読んでいると頭が痛くなるのですが、唯一、「玉藻」に関係した文章だけは普通に読めるし、また虚子も、「研究座談会」を含めて、率直に答えていると思うので、その企画と速記を担当していた千鶴子さんをなぜ呼ばないのか、編集部も司会も工夫が足りないとしか思えません。
個人的に「言葉の技術や修辞」についても、明治俳壇の羅針盤と言われた正岡子規の『俳諧大要』で…
万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。 俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。しかし知りたき人は漸次(ぜんじ)に知り置くべし。
…と述べられていますが、今でもこの本はわたくしのバイブルなので、「言葉の技術や修辞」がおきざりにされたから云々は、高柳氏の先入観としか思えませんでした。
2. 立子の「技術」について
>高柳氏は、立子に、いわば「技術を感じさせない高度な技術」を見て取るが、宇多氏・西村氏は、それを技術とは見ず、議論は噛み合わないまま終わる。両氏は、技術ではなく資質・天与のものと捉え、それゆえ立子の「技術」という視点に賛同できぬように見える。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
虚子の女流俳句観が披露されている「立子等によつて拓かれた」という序が付いた『立子句集』を読めば、高柳氏が言った「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだふうに見えますけれど、実は周到な配慮の下に付けられている」という詠み方ではなくて、まさしく「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだ」だけだというのがわかるはずです。
立子が自分の句について色々言われた時に、しかも虚子に、「わたし、あんまり頭の中で作らないのだけど」と素っ気なく答えたのが面白くて記憶に残っているのがアリゾナで詠んだ次の句。
広野行く幾春時雨幾夕立 星野立子
わたくしもアリゾナへは仕事で何度か行ったので、これ、そのまんま詠んだというのがわかります。確かに、頭では詠めない。季重ねがどうこう頭でぐるぐるするから。見て、そう感じたので、そう詠んだだけ。
どちらかというと、素十の句の作り方に似ていると思います。
見たまんま感じたまんまを詠むだけ。ただしずうっと見続ける、馬鹿みたいに、季節まで越えて。
春の月ありしところに梅雨の月 高野素十
ただ、どう読むかは、読者それぞれの世界で読めばいいので、「言葉の技術や修辞」から表現の妙を分析的に読む事も読者の自由で、それで作者の意図とは離れて作品が飛翔すれば良い読者を得たということになり、作品も幸せ者ということになりますが、高柳氏のように「巧まずに作っているのかもしれませんが」と言っておいて「巧みです」と落とすのは、わたくしは愚だと思います。
3. テクニカルVSスピリチュアル
>(すべてを井戸端会議化してしまう「オバチャン性」を、猫髭さんは「スピリチュアル」と呼んだのだろうか?)(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
高柳克弘が「言葉の技術や修辞」と言ったテクニカルなことに対して、宇多喜代子が…
台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所だから、そこに足を据えて、男であれ女であれ句を作るという意味での「台所俳句」はまことにいい言葉です。
…と言った発言をスピリチュアルと呼びました。
男流はんはソトメシが多いのですが、女流はんは台所というウチメシが多いので、金出せば食えるものはソトメシでと、テクニカルに選択できますが、ウチメシは、いかに素早く安く美味しい物を作るかが原則で、言い換えると、毎日の繰り返しに堪える物だけしかウチメシでは生き残れないので、全世界共通な「おふくろの味」といった普遍性を持ったスピリチュアルな物が台所にはあるということです。
吉本隆明が、「私が料理を作るとき」という話を料理雑誌で書いているのを昔々見た時に、吉本隆明の奥さん(句集を二冊出してる俳人)が体が弱いので、彼が何十年も台所にずっと立って、世の中のウーマンリブの連中を全員打ち殺したいとか思いながら炊事する話で、また、彼の得意料理が、じゃがいものソース炒めとか、キャベツ丸ごとベーコン挟み茹でとか、ネギオカカ御飯とか、手早く出来て質素だけれども美味しかったので、覚えているのですが、そのとき、「料理の味で家族をリードしていたら、その家族はどんな危機があっても最後には乗り越えられる。しかし、どんなに性格が一致しようが性的に一致しようが、料理の味で家族をリード出来なかったら危機のときに破綻は避けられない」といった趣旨を述べていた事を、この宇多氏の発言で思い出しました。台所はそれだけ重要な場所なのだと。
吉本曰く、手のかかる料理、ママゴト料理もダメである、なぜならそれらは日常の繰り返しに堪えないから。
最近はコンビニもあるし、自炊は、若い男流はんも女流はんもしなくなったので、外食中心になると「台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所」というのはわからなくなりつつあると思いますが、わたくしも台所に立つことが多かったので、ウチメシはかなり重くとらえています。
4. 実年齢と俳句年齢
>何かについてモノを言う、とりわけ「意見」などではなく批評・分析的なモノを言うとき、実年齢など、関係があるのか? 誰が言うのか、ではなく、何を言っているのかが問題なのだ。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
その通りです。高柳氏は、まだ若いし、これからだというエールを込めて書きました。反論は「シンデレラにはもう戻れない」方から来ると思いましたが、天気さんからとは!
この人生時間の例えは、熟女のくどき文句に使う明治の粋本で読んだと思うのですが(特に三十台で独身の女性に効果的だそうです)、わたくしの周りは野郎ばかりなので、若いエンジニアが上司に叱られて落ち込んでいる時に使います。だってお前の人生時間始まったばかりだよ、上司なんか、もう定時過ぎて寝る時間だ、人間もナマモノだ、消費期限はどんなに向こうがエラクてもお前より先に切れる、というように使います。
>この手の座談は、人がまじわるのではない。批評的言語が交叉するのだ。そうでなくてはおもしろくない。(同上)
批評的言語が話せる俳人というのは余りいないのではないかと思います。
高柳克弘は『凛然たる青春』は面白かったけれども、今回は彼の守備範囲を外れた分野としか言い様がないと思いました。
>ちなみに、実年齢28歳の高柳氏は、俳句年齢82歳くらいだと、私は思っている。その意味でも、猫髭さんのおっしゃる「まだ9時台」という設定にはまったく首肯できない。 (同上)
御覧の通りです。
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2008年7月7日月曜日
映画『アクロス・ザ・ユニヴァース』を見てきた
映画『アクロス・ザ・ユニヴァース』を見てきた ● 井口吾郎
試写会にしては比較的大勢の入り。さすがビートルズというところか。
映画はミュージカル仕立て。最初は若干の違和感があるが、
だんだん登場人物のキャラや筋立てに曲がはまりはじめると、
物語は一気にテンションをあげて転がっていく。
いいエピソードと、見事にそれをリンクさせ絵柄にしていく手腕はさすが。
舞台の演出家だからこその緊張感、肉体をさりげなく使った画面構成がいい、実にいい。
で、もってもちろんのことなのだが、ビートルズの曲の良さ、
今回は特に「テロップとして読む歌詞」によって、その言葉の鮮度というか
エッジの立ち具合とか、もう煌めくジョンの詩人としての才能に惚れなおしました。
時代背景が67年~69年といったあたりなので、
どちらかというとジョンの曲が多く使われていた。時代へのコミット度合いの差か。
一方でポールは「Let It Be」「Helter Skelter」「Why Don't We Do It In The Road」
が実に効果的に使われている。
「Why~」って、すっげーカッコいい曲なのね。
ジョージは2曲、全員共作が1曲。
でもってラストがこれでもかってくらいマニア心をくすぐりながら、
曲のフレーズがここしかないでしょってジャストなタイミングで絵柄とシンクロする。
あれはなんにしても見事でした。
あ、意外とみんな気がついてなかったようだけど、ボノが怪演してます。
ジョー・コッカーは確信犯的な登場。
監督の選曲&曲使いのタイミング&アレンジのセンスは流石。
『アクロス・ザ・ユニヴァース』は8月9日(土)より全国ロードショー
試写会にしては比較的大勢の入り。さすがビートルズというところか。
映画はミュージカル仕立て。最初は若干の違和感があるが、
だんだん登場人物のキャラや筋立てに曲がはまりはじめると、
物語は一気にテンションをあげて転がっていく。
いいエピソードと、見事にそれをリンクさせ絵柄にしていく手腕はさすが。
舞台の演出家だからこその緊張感、肉体をさりげなく使った画面構成がいい、実にいい。
で、もってもちろんのことなのだが、ビートルズの曲の良さ、
今回は特に「テロップとして読む歌詞」によって、その言葉の鮮度というか
エッジの立ち具合とか、もう煌めくジョンの詩人としての才能に惚れなおしました。
時代背景が67年~69年といったあたりなので、
どちらかというとジョンの曲が多く使われていた。時代へのコミット度合いの差か。
一方でポールは「Let It Be」「Helter Skelter」「Why Don't We Do It In The Road」
が実に効果的に使われている。
「Why~」って、すっげーカッコいい曲なのね。
ジョージは2曲、全員共作が1曲。
でもってラストがこれでもかってくらいマニア心をくすぐりながら、
曲のフレーズがここしかないでしょってジャストなタイミングで絵柄とシンクロする。
あれはなんにしても見事でした。
あ、意外とみんな気がついてなかったようだけど、ボノが怪演してます。
ジョー・コッカーは確信犯的な登場。
監督の選曲&曲使いのタイミング&アレンジのセンスは流石。
『アクロス・ザ・ユニヴァース』は8月9日(土)より全国ロードショー
2008年7月6日日曜日
2008年7月5日土曜日
金子敦さんに聞きました
金子敦さんに聞きました
句集『冬夕焼』(2008年6月刊)を上梓された金子敦さんに、今回の句集制作について聞きました。
●
Q 句集『冬夕焼』上梓、おめでとうございます。第一句集『猫』が1996年、第2句集『砂糖壺』が2004年、そして今回の第3句集が2008年。今回、句集をまとめるにあたっての「きっかけ」のようなものはあったのですか?
きっかけは「母の死」です。
句集として纏める事によって、母が生きていたということを
永遠に残しておきたいと思いました。
Q 2006年に逝去された御母様に捧げられたのが『冬夕焼』ということですね。生前の御母様とは俳句の話はされましたか?
「私が生きているうちに、第三句集を出しておくれ」と
いつも言われていました…。
残念ながら、その夢は果たせませんでしたが
この句集が母への供養になれば、本望です。
Q 俳句を始めた頃、「自分の句集」についてイメージはありましたか?
俳句を始めた当初から、いつかは句集を出したいと思っていました。
イメージとしては、猫の句ばかりになるのではと…(笑)
第一句集を出したのは、俳句を始めて10年目という節目の年です。
Q 『冬夕焼』は、5章立て。蜜柑(2003年)、端居(2004年)、風花(2005年)、豆飯(2006年)、送火(2007年)と、編年で季語が章タイトル、それぞれぴったり70句ずつ。端正な構成ですね。
70句ずつで5章というのは、最初から決めていました。
その方が、美しく仕上がると思いましたので。
各章のタイトルは、それぞれ母を詠んだ句の季語にしました。
全部、二文字になったのは偶然です(笑)
Q 最終的に350句を残すのに、どのくらいの数の句から絞っていったのですか?
抜き書きしたのは、800句ぐらいだったと思います。
Q 句集に収める最後の最後で推敲し、元と違ったかたちになった句はありますか?
数え切れないほど、いっぱいあります(笑)
最後の最後に推敲した句は
「金色の折鶴吊るす聖樹かな」→「金色の鶴を聖樹に吊るしけり」です。
Q ふだん御自分の句は、どのように整理されているのですか?
ノートを使って、一行おきにボールペンで書いています。
Q 今回、「ここをこうしたらよかった」といった後悔のようなものはありますか?
全くありません。
装丁については、ふらんす堂さんに依頼しましたが
自分のイメージしていた以上の、素晴らしい出来栄えでした!
表紙デザインは、何パターンか考えていただいたのですが
母への献花という気持ちをこめて、「石蕗の花」を選びました。
句については、巧拙はともかくとして
「自分らしさ」を表出できたと思っています。
Q 次の句集は、いつ頃ですか?
第三句集で、ピリオドにしようと思っていましたが
何年か経ったら、また出したくなるかもしれません(笑)
Q 近作で、自信作を一句、教えてください。
梅林に金平糖が降つてゐる 金子敦
ありがとうございました。
●
金子敦句集『冬夕焼』(ふらんす堂)
●
2008年7月4日金曜日
はなぢ
はなぢ ● 近 恵
空は青く、いい天気。やっと夏っぽい晴れの朝。いつものように顔を美しくするべく鏡に向かって美容液などをぬりぬりしていたら…。
久しぶりにやっちゃいました。
爪の伸びた右手の人差し指がザックリと右鼻の穴に!
あ゛あ゛———っ い゛た゛い゛———っ!
はなぢ
最近、ペットが心肺停止状態の時には119番して救急車を呼んでもいい!などと国民の約12%ぐらいは思っているかもしれないということに驚いています。
ちょっと考えたらわかることでは? いろんなことが便利になると、ヒトはちょっとしたことも考えなくなってゆくのやも知れません。
ゴキブリが恐くって110番に電話した人がいたのにも驚きです。蛍狩りにゆけば懐中電灯で蛍を照らしてみようとする人がいるということにも驚いています。
死蛍に照らしをかける蛍かな 永田耕衣
●
参考画像 A B C
空は青く、いい天気。やっと夏っぽい晴れの朝。いつものように顔を美しくするべく鏡に向かって美容液などをぬりぬりしていたら…。
久しぶりにやっちゃいました。
爪の伸びた右手の人差し指がザックリと右鼻の穴に!
あ゛あ゛———っ い゛た゛い゛———っ!
はなぢ
最近、ペットが心肺停止状態の時には119番して救急車を呼んでもいい!などと国民の約12%ぐらいは思っているかもしれないということに驚いています。
ちょっと考えたらわかることでは? いろんなことが便利になると、ヒトはちょっとしたことも考えなくなってゆくのやも知れません。
ゴキブリが恐くって110番に電話した人がいたのにも驚きです。蛍狩りにゆけば懐中電灯で蛍を照らしてみようとする人がいるということにも驚いています。
死蛍に照らしをかける蛍かな 永田耕衣
●
参考画像 A B C
2008年7月3日木曜日
角川歳時記のあゆみ
角川歳時記のあゆみ ● 三島ゆかり
というわけで、角川の俳句歳時記が初版から第四版まで手許に揃ってしまった。馬鹿である。適当に見てみよう。
髪洗ふ かみあらふ 洗ひ髪
【初版】
夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭氣を發するので、たびたび洗はなければならない。
山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る 高濱虚子
洗ひ髪夜空のごとく美しや 上野 泰
洗髪月に乾きしうなじかな 中村汀女
洗ひ髪かわく夕雲金色に 柴田白葉女
洗ひ髪いまだ濡れゐる疲れかな 野澤節子
洗ひ髪他に欲なくなりにけり 小坂順子
【新版】
夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭気を発するので、たびたび洗わなければならない。
山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る 高浜虚子
うつむくは堪へる姿ぞ髪洗ふ 橋本多佳子
泣きくづるごとくに髪を洗ふなり 石原八束
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
ゆたかなる肉出しきつて髪洗ふ 天野莫秋子
洗ひ髪かわく間もなく結はせけり 下田実花
ねんごろに恋のいのちの髪洗ふ 上村占魚
洗ひ髪恋や未練の紅刷いて 小坂順子
【第三版】
夏は汗と埃で頭髪が汚れ、不快な臭気を発するので、たびたび洗うことになる。女性が髪を洗った後、解き下げたままにした髪、または洗った髪そのものを「洗い髪」という。
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
いとほしむほどの丈なき髪洗ふ 檜 紀代
関所越ゆ洗ひざらしの髪束ね 川島千枝
鯛曼陀羅の海をはるかに髪洗ふ 小枝秀穂女
【第四版】
髪を洗ったあとの心地よさは夏は格別である。洗ったあと乾くまでの髪を「洗い髪」という。
髪洗ひたる日の妻のよそ/\し 高野素十
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
髪洗うまでの優柔不断かな 宇多喜代子
ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ 坂本宮尾
洗ひ髪身におぼえなき光ばかり 八田木枯
洗ひ髪素顔でゐてもよき夕べ 嶋田摩耶子
すぐ乾くことのさびしき洗ひ髪 八染藍子
落日のあたりに船や洗髪 中西夕紀
ちなみに初版はちゃんと編者の名を明らかにしている。秋元不死男、原田種芽、志摩芳次郎の三氏である。
※『俳句歳時記・第四版』は、こちらでお買い求めいただけます。
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というわけで、角川の俳句歳時記が初版から第四版まで手許に揃ってしまった。馬鹿である。適当に見てみよう。
髪洗ふ かみあらふ 洗ひ髪
【初版】
夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭氣を發するので、たびたび洗はなければならない。
山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る 高濱虚子
洗ひ髪夜空のごとく美しや 上野 泰
洗髪月に乾きしうなじかな 中村汀女
洗ひ髪かわく夕雲金色に 柴田白葉女
洗ひ髪いまだ濡れゐる疲れかな 野澤節子
洗ひ髪他に欲なくなりにけり 小坂順子
【新版】
夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭気を発するので、たびたび洗わなければならない。
山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る 高浜虚子
うつむくは堪へる姿ぞ髪洗ふ 橋本多佳子
泣きくづるごとくに髪を洗ふなり 石原八束
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
ゆたかなる肉出しきつて髪洗ふ 天野莫秋子
洗ひ髪かわく間もなく結はせけり 下田実花
ねんごろに恋のいのちの髪洗ふ 上村占魚
洗ひ髪恋や未練の紅刷いて 小坂順子
【第三版】
夏は汗と埃で頭髪が汚れ、不快な臭気を発するので、たびたび洗うことになる。女性が髪を洗った後、解き下げたままにした髪、または洗った髪そのものを「洗い髪」という。
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
いとほしむほどの丈なき髪洗ふ 檜 紀代
関所越ゆ洗ひざらしの髪束ね 川島千枝
鯛曼陀羅の海をはるかに髪洗ふ 小枝秀穂女
【第四版】
髪を洗ったあとの心地よさは夏は格別である。洗ったあと乾くまでの髪を「洗い髪」という。
髪洗ひたる日の妻のよそ/\し 高野素十
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
髪洗うまでの優柔不断かな 宇多喜代子
ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ 坂本宮尾
洗ひ髪身におぼえなき光ばかり 八田木枯
洗ひ髪素顔でゐてもよき夕べ 嶋田摩耶子
すぐ乾くことのさびしき洗ひ髪 八染藍子
落日のあたりに船や洗髪 中西夕紀
ちなみに初版はちゃんと編者の名を明らかにしている。秋元不死男、原田種芽、志摩芳次郎の三氏である。
※『俳句歳時記・第四版』は、こちらでお買い求めいただけます。
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2008年7月2日水曜日
牛乳、パン、トマト、コンビーフ
牛乳、パン、トマト、コンビーフ ● 中嶋憲武
帰ってきて、すぐに寝てしまってふたたび起きて、眠れない。温かい牛乳を飲んでも眠れないったら眠れない。
昨夜、ジュンク堂へふらりと入って、昭和モダニズムのデザインをチェック。それで何気なく他の棚も見ていたら、たちまち目に留まったこの一冊。
講談社 小説現代特別編集 不良読本 March 2008 vol.1 ¥1200
萩原健一がポケットに手を突っ込んで立っている表紙写真。矢作俊彦の「傷だらけの天使リターンズ 魔都に天使のハンマーを」という冒頭の小説に惹かれ、即買い。上下二段組でほぼ300ページのこの小説、まだ100ページほど読んでいるところだけど、なかなか読ませますね。
主人公木暮修は50を越し、公園でホームレス暮しをしていて、賭けゲートボールなどして糊口をしのいでいる。或る日、仲間のホームレスが殺されたという情報が入る。それは、修と間違われて身代わりに殺されたのだった。海津刑事の部下だった藤山田刑事が、修の身辺を洗い始める。30数年前の乾享の夢の島での死体遺棄事件なども絡んできて、木暮修はふたたび新宿へ現れるというような展開ですが、「傷だらけの天使」関係者には、ニヤニヤとさせる台詞や描写などふんだんに出て来て、楽しんでます。
冒頭の段ボールハウス内での朝食が、牛乳、パン、トマト、缶詰のコンビーフ(どれも腐っていたり、黴が生えていたりして、ろくなものじゃないのですが)というのも、あの有名なタイトルバックを彷彿とさせてくれます。
近頃、単行本も出たようです。
傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを
著者 : 矢作俊彦
発行年月日:2008/06/19 サイズ:四六変型 ページ数:398
ISBN:978-4-06-214394-3
定価(税込):1,785円 講談社
帰ってきて、すぐに寝てしまってふたたび起きて、眠れない。温かい牛乳を飲んでも眠れないったら眠れない。
昨夜、ジュンク堂へふらりと入って、昭和モダニズムのデザインをチェック。それで何気なく他の棚も見ていたら、たちまち目に留まったこの一冊。
講談社 小説現代特別編集 不良読本 March 2008 vol.1 ¥1200
萩原健一がポケットに手を突っ込んで立っている表紙写真。矢作俊彦の「傷だらけの天使リターンズ 魔都に天使のハンマーを」という冒頭の小説に惹かれ、即買い。上下二段組でほぼ300ページのこの小説、まだ100ページほど読んでいるところだけど、なかなか読ませますね。
主人公木暮修は50を越し、公園でホームレス暮しをしていて、賭けゲートボールなどして糊口をしのいでいる。或る日、仲間のホームレスが殺されたという情報が入る。それは、修と間違われて身代わりに殺されたのだった。海津刑事の部下だった藤山田刑事が、修の身辺を洗い始める。30数年前の乾享の夢の島での死体遺棄事件なども絡んできて、木暮修はふたたび新宿へ現れるというような展開ですが、「傷だらけの天使」関係者には、ニヤニヤとさせる台詞や描写などふんだんに出て来て、楽しんでます。
冒頭の段ボールハウス内での朝食が、牛乳、パン、トマト、缶詰のコンビーフ(どれも腐っていたり、黴が生えていたりして、ろくなものじゃないのですが)というのも、あの有名なタイトルバックを彷彿とさせてくれます。
近頃、単行本も出たようです。
傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを
著者 : 矢作俊彦
発行年月日:2008/06/19 サイズ:四六変型 ページ数:398
ISBN:978-4-06-214394-3
定価(税込):1,785円 講談社