芝不器男賞1次通過作品
芝不器男賞1次通過作品が発表となりました。≫こちら
2010年3月31日水曜日
2010年3月30日火曜日
2010年3月29日月曜日
2010年3月28日日曜日
2010年3月27日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔11〕鮊子・下
ホトトギス雑詠選抄〔11〕
春の部(三月)鮊子・下
猫髭 (文・写真)
内田慕情(うちだ・ぼじょう)は石川県摂津の俳人。明治14年~昭和21年。 京大医学部出身。当初「ホトトギス」に拠つたが、新興俳句勃興とともに「天の川」に依拠、「ホトトギス」から新興俳句に移った吉岡禅寺洞を師とする。終戦後、赴任先の中国で病死。
掲出句の「魳子(かますご)」は鮊子の異称。大阪での呼び名という。成魚が魳に似ているため。焼いて食うというのは新子ではなく、もう少し大きくなった1年物の「古せ」(5センチ~12センチ)かも知れない。3年以上の20センチを越えるサイズは「めろうど」と呼ばれ、刺身も美味だそうである。仙台の「炉端」では能く「目光(めひかり)」を食べたが、それに勝るとも劣らない味と「市場魚介類図鑑」にある。
慕情の句でインターネット検索により調べえた句は以下の4句。「ラガー」の句が印象に残る。
うそうそとうつろの音の白穂かな
腔のおとカオと仆れしラガー起つ
太陽と正し鼻梁と陰(ほと)隆く
還馬の毛深き脛の黄土あはれ
飛板を蹠かむとき風満ちぬ
安宅信一(あたか・しんいち)は田辺の俳人とのみしかわからない。鮊子の掲出句の中では一番侘び寂びが効いている。1句検索できた句を挙げる。
燈下親しわがためにのみ老ひし父母
阿波野青畝(あわの・せいほ)は、山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに『ホトトギス』の四Sの一人。
明治32年~平成4年。本名は敏雄。奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。幼少時に耳を患い、以後、難聴となる。大正6年、原田浜人(ひんじん)宅で催された句会で高浜虚子と出会い、師事。大正11年、野村泊月の『山茶花』に参加。大正12年、阿波野貞と結婚し婿養子となり改名。大正13年、25歳にして『ホトトギス』選者。昭和4年、橿原市の俳人多田桜朶らの起こした俳誌『かつらぎ』主宰。同年『ホトトギス』同人。昭和26年、虚子が年尾に「ホトトギス」主宰を譲ると同時に「ホトトギス」への投句を止める。弟子に加藤三七子あり。
句集は『万雨』『万両』『国原』『春の鳶』『紅葉の賀』『万華鏡』『花下微笑』『旅塵を払ふ』『あなたこなた』『こぞことし』『青蜥蜴』『不勝簪』『一九九三年』『甲子園』『除夜』『西湖』『宇宙』他多数。
青畝の「鉄枴(てっかい)」の句の出自は昭和37年9月に新樹社から出された虚子最後の『ホトトギス雑詠選集』(全2巻)から鮊子の題で一句載ったものだが、「昭和1」となっていて、この選集は昭和12年から昭和20年までなので、昭和17年の句集『国原』前後かと思われるが、欠落であり、現時点では出自不明。後日検証。
青畝は句集も数多だが秀句も数多。ここでは人口に膾炙した句を挙げておく。
さみだれのあまだればかり浮御堂 『万両』(昭和6年)
秋の谷とうんと銃(つつ)の谺かな 同上
案山子翁あち見こち見や芋嵐 同上
葛城の山懐に寝釈迦かな 同上
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 『春の鳶』(昭和27年)
牡丹百二百三百門一つ 『紅葉の賀』(昭和37年)
山又山山桜又山桜 『甲子園』(昭和47年)
春の部(三月)鮊子・下
猫髭 (文・写真)
内田慕情(うちだ・ぼじょう)は石川県摂津の俳人。明治14年~昭和21年。 京大医学部出身。当初「ホトトギス」に拠つたが、新興俳句勃興とともに「天の川」に依拠、「ホトトギス」から新興俳句に移った吉岡禅寺洞を師とする。終戦後、赴任先の中国で病死。
掲出句の「魳子(かますご)」は鮊子の異称。大阪での呼び名という。成魚が魳に似ているため。焼いて食うというのは新子ではなく、もう少し大きくなった1年物の「古せ」(5センチ~12センチ)かも知れない。3年以上の20センチを越えるサイズは「めろうど」と呼ばれ、刺身も美味だそうである。仙台の「炉端」では能く「目光(めひかり)」を食べたが、それに勝るとも劣らない味と「市場魚介類図鑑」にある。
慕情の句でインターネット検索により調べえた句は以下の4句。「ラガー」の句が印象に残る。
うそうそとうつろの音の白穂かな
腔のおとカオと仆れしラガー起つ
太陽と正し鼻梁と陰(ほと)隆く
還馬の毛深き脛の黄土あはれ
飛板を蹠かむとき風満ちぬ
安宅信一(あたか・しんいち)は田辺の俳人とのみしかわからない。鮊子の掲出句の中では一番侘び寂びが効いている。1句検索できた句を挙げる。
燈下親しわがためにのみ老ひし父母
阿波野青畝(あわの・せいほ)は、山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに『ホトトギス』の四Sの一人。
明治32年~平成4年。本名は敏雄。奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。幼少時に耳を患い、以後、難聴となる。大正6年、原田浜人(ひんじん)宅で催された句会で高浜虚子と出会い、師事。大正11年、野村泊月の『山茶花』に参加。大正12年、阿波野貞と結婚し婿養子となり改名。大正13年、25歳にして『ホトトギス』選者。昭和4年、橿原市の俳人多田桜朶らの起こした俳誌『かつらぎ』主宰。同年『ホトトギス』同人。昭和26年、虚子が年尾に「ホトトギス」主宰を譲ると同時に「ホトトギス」への投句を止める。弟子に加藤三七子あり。
句集は『万雨』『万両』『国原』『春の鳶』『紅葉の賀』『万華鏡』『花下微笑』『旅塵を払ふ』『あなたこなた』『こぞことし』『青蜥蜴』『不勝簪』『一九九三年』『甲子園』『除夜』『西湖』『宇宙』他多数。
青畝の「鉄枴(てっかい)」の句の出自は昭和37年9月に新樹社から出された虚子最後の『ホトトギス雑詠選集』(全2巻)から鮊子の題で一句載ったものだが、「昭和1」となっていて、この選集は昭和12年から昭和20年までなので、昭和17年の句集『国原』前後かと思われるが、欠落であり、現時点では出自不明。後日検証。
青畝は句集も数多だが秀句も数多。ここでは人口に膾炙した句を挙げておく。
さみだれのあまだればかり浮御堂 『万両』(昭和6年)
秋の谷とうんと銃(つつ)の谺かな 同上
案山子翁あち見こち見や芋嵐 同上
葛城の山懐に寝釈迦かな 同上
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 『春の鳶』(昭和27年)
牡丹百二百三百門一つ 『紅葉の賀』(昭和37年)
山又山山桜又山桜 『甲子園』(昭和47年)
2010年3月26日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔11〕鮊子・上
ホトトギス雑詠選抄〔11〕
春の部(三月)鮊子・上
猫髭 (文・写真)
魳子のしの字に焼けつくの字にも 内田慕情 昭和7年
ときなしのいかなご舟に市もなく 安宅信一 昭和11年
鉄枴の下にいかなごすなどれり 阿波野青畝 昭和1?年
いかなごにまづ箸おろし母恋し 高浜虚子 昭和19年
先週今週と立て続けに兵庫の句友たちから鮊子の釘煮が届いた。以前、明石の魚の棚(うおんたな)を関西の句友たちと吟行したときに、魚の棚近くに住まうMさんが手作りの鮊子の釘煮を持参してくれて、これが虚子命名の丹波の銘酒「小鼓」と相俟って、舌鼓がぽんぽんたんたん、耳を聾するほどおいしかったので、今年も送ってくれたのだが、我が家のも御賞味遊ばせと、神戸にお住いのKさんも「春光の母の伝授の釘煮かな」という句を添えて、送ってくれたのだ。
Mさんの釘煮は山椒味で、Kさんちのは生姜味が効いている。どちらもおいしい。噛み噛みしていると、甘辛い味がじわあっと広がったあとから、明石海峡から播磨灘に広がる鹿之瀬の海が口中を満たす。掲出句の虚子の句ではないが、春になると明石や神戸は鮊子が春の風物詩で、各家庭の「おふくろの味」を伝えているのはKさんの句でもわかる。
わたくしは東男なので、鮊子を小女子(こうなご)と呼んで塩茹でしてから干してジャコにして食べる。鰯のシラスよりも野趣にあふれた味で、色もくすんで硬いので、大根卸しで食べるよりも、大根の茎と葉っぱをざくざく切って、胡麻油で一緒に炒めたりすると、これは第一級の酒の友飯の友になる。妻は京女なので釘煮ではなく、もっと小さいシンコを使った縮緬山椒を食べる。しかし、鮊子と言えば兵庫で、鮮度が命と、獲れたという一報が入るやいなや、奥さん連中が自転車に大鍋を括りつけて大挙して魚屋へ駆けつけ、取って返して釘煮にするそうな。
今はわたくしが生まれた大洗の母の実家の前は、磯が埋め立てられて魚市場になってしまったが、春の風物詩と言うと、子どもの頃のシラス漁を思い出す。真鰯の子どもを皆で網を引いて掬うのである。今住んでいる逗子の小坪から腰越にかけてもシラスが名産で、獲れたては殊においしく、生姜を摩り下ろして醤油をぶっかけて食うと、これがたまらない。口中モキュ♪モキュ♪である。真っ白で柔かい釜揚げシラスもまたよろし。昔は、どこの浜でもその浜の春の風物詩があったが、開発が進んだのと漁の生業自体が廃れて、思い出の中でしか味わえなくなった。
鮊子という魚の習性も面白い。水温が15℃から18℃になると6月から11月頃まで夏眠をするのである。鹿之瀬の砂地に棲息し、夏眠しながら育ち、水温の低くなった11月下旬頃に夏眠から覚め、産卵する。稚魚は2月下旬から3月には体長3㎝位に成長し、これが釘煮になるというわけだ。
佃煮と違うのは、煮付けるときに、煮くずれしやすいので途中箸などで混ぜては絶対にいけないということである。江戸前の佃煮は、浅草橋の「鮒佐」の「海老」に代表されるように余り甘くない醤油味の濃い、どちらかと言うと塩っぱい味で、昔の人に聞くと、京都でも、昔の味は辛かったと言うので、これが佃煮本来の味なのだろう。海老の頭と尻尾とどちらが好きかで侃侃諤諤、辛口の酒を呑みながら時間がゆるゆると流れる逸品であるが、飯に乗せるとこれがまた居候でも堂々と三杯目のお替りが許されるほどの飯の友でもある。今では「鮒佐」と霞ヶ浦の北浦の鮒の雀焼ぐらいしか、佃煮の昔の味を伝える味が思い出せないほど甘い世の中になってしまった。鮊子も酒の友飯の友で、これは甘辛いが、佃煮ほど煮詰めていないので、子どもにも喜ばれる。
わたくしはMさんちとKさんちの釘煮しか知らないが、多分神戸・明石界隈には五万と釘煮自慢の家があり、それは各家庭の「おふくろの味」を伝えておいしいはずである。ちょびちょびつまむのではなく、がばりとつまんで口に放り投げて食う。うまい。
(つづく)
春の部(三月)鮊子・上
猫髭 (文・写真)
魳子のしの字に焼けつくの字にも 内田慕情 昭和7年
ときなしのいかなご舟に市もなく 安宅信一 昭和11年
鉄枴の下にいかなごすなどれり 阿波野青畝 昭和1?年
いかなごにまづ箸おろし母恋し 高浜虚子 昭和19年
先週今週と立て続けに兵庫の句友たちから鮊子の釘煮が届いた。以前、明石の魚の棚(うおんたな)を関西の句友たちと吟行したときに、魚の棚近くに住まうMさんが手作りの鮊子の釘煮を持参してくれて、これが虚子命名の丹波の銘酒「小鼓」と相俟って、舌鼓がぽんぽんたんたん、耳を聾するほどおいしかったので、今年も送ってくれたのだが、我が家のも御賞味遊ばせと、神戸にお住いのKさんも「春光の母の伝授の釘煮かな」という句を添えて、送ってくれたのだ。
Mさんの釘煮は山椒味で、Kさんちのは生姜味が効いている。どちらもおいしい。噛み噛みしていると、甘辛い味がじわあっと広がったあとから、明石海峡から播磨灘に広がる鹿之瀬の海が口中を満たす。掲出句の虚子の句ではないが、春になると明石や神戸は鮊子が春の風物詩で、各家庭の「おふくろの味」を伝えているのはKさんの句でもわかる。
わたくしは東男なので、鮊子を小女子(こうなご)と呼んで塩茹でしてから干してジャコにして食べる。鰯のシラスよりも野趣にあふれた味で、色もくすんで硬いので、大根卸しで食べるよりも、大根の茎と葉っぱをざくざく切って、胡麻油で一緒に炒めたりすると、これは第一級の酒の友飯の友になる。妻は京女なので釘煮ではなく、もっと小さいシンコを使った縮緬山椒を食べる。しかし、鮊子と言えば兵庫で、鮮度が命と、獲れたという一報が入るやいなや、奥さん連中が自転車に大鍋を括りつけて大挙して魚屋へ駆けつけ、取って返して釘煮にするそうな。
今はわたくしが生まれた大洗の母の実家の前は、磯が埋め立てられて魚市場になってしまったが、春の風物詩と言うと、子どもの頃のシラス漁を思い出す。真鰯の子どもを皆で網を引いて掬うのである。今住んでいる逗子の小坪から腰越にかけてもシラスが名産で、獲れたては殊においしく、生姜を摩り下ろして醤油をぶっかけて食うと、これがたまらない。口中モキュ♪モキュ♪である。真っ白で柔かい釜揚げシラスもまたよろし。昔は、どこの浜でもその浜の春の風物詩があったが、開発が進んだのと漁の生業自体が廃れて、思い出の中でしか味わえなくなった。
鮊子という魚の習性も面白い。水温が15℃から18℃になると6月から11月頃まで夏眠をするのである。鹿之瀬の砂地に棲息し、夏眠しながら育ち、水温の低くなった11月下旬頃に夏眠から覚め、産卵する。稚魚は2月下旬から3月には体長3㎝位に成長し、これが釘煮になるというわけだ。
佃煮と違うのは、煮付けるときに、煮くずれしやすいので途中箸などで混ぜては絶対にいけないということである。江戸前の佃煮は、浅草橋の「鮒佐」の「海老」に代表されるように余り甘くない醤油味の濃い、どちらかと言うと塩っぱい味で、昔の人に聞くと、京都でも、昔の味は辛かったと言うので、これが佃煮本来の味なのだろう。海老の頭と尻尾とどちらが好きかで侃侃諤諤、辛口の酒を呑みながら時間がゆるゆると流れる逸品であるが、飯に乗せるとこれがまた居候でも堂々と三杯目のお替りが許されるほどの飯の友でもある。今では「鮒佐」と霞ヶ浦の北浦の鮒の雀焼ぐらいしか、佃煮の昔の味を伝える味が思い出せないほど甘い世の中になってしまった。鮊子も酒の友飯の友で、これは甘辛いが、佃煮ほど煮詰めていないので、子どもにも喜ばれる。
わたくしはMさんちとKさんちの釘煮しか知らないが、多分神戸・明石界隈には五万と釘煮自慢の家があり、それは各家庭の「おふくろの味」を伝えておいしいはずである。ちょびちょびつまむのではなく、がばりとつまんで口に放り投げて食う。うまい。
(つづく)
2010年3月25日木曜日
2010年3月24日水曜日
2010年3月23日火曜日
●コモエスタ三鬼11 微熱中年
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第11回
微熱中年
さいばら天気
熱ひそかなり空中に蠅つるむ 三鬼(1936年)
微熱と蠅の交配の二物については、(今なら特に)いわゆるツキスギとする向きもあろうが、体内と外界が微熱でつながるような趣がある。
微熱の句は同時期(1936年)の作にほか何句かある。
微熱ありきのふの猫と沖を見る 三鬼(1936年)
ダグラス機冬天に消え微熱あり 三鬼(1936年)
身体にまつわること(微熱)と遠景の対照。
猶太教寺院の夕さり閑雅なる微熱 三鬼(1936年)
「猶太教寺院」に「シナゴグ」のルビあり(『空港』再録時は「シナゴーグ」)。猶太教はユダヤ教。「閑雅なる微熱」は、初期三鬼の句全体に備わる感触と言えなくもない。
●
微熱という語は、それだけで詩的なイメージを喚起するので、俳句には収まりにくく、また、個人的な事情を申せば、松本隆という作詞家、「はっぴいえんど」という日本語バンドで作詞キャリアをスタートさせた作詞家の、おそろしく叙情的な歌詞に、当時から居心地の悪さを感じてきた者にとっては、その小説タイトル「微熱少年」がマイナスに作用してくれる側面も大きい。
微熱+少年
ひゃあ、助けて!かんべん!と叫んでしまう強力な抒情セットを被爆したのち、三鬼の句を読まねばならない不幸をいまさら言ってもしかたない。抒情の悪夢を払拭するために、三鬼の句を読めばいいわけだが、いかんせん「ダグラス機」の句は、払拭には逆効果の、拭いがたい抒情が備わり、併せて、やや凡庸な把握にも思える。
遠近、すなわち風景と身体の対照は、俳句において、手堅い仕上がり、もしくは量産可能なシステムにも、今となれば思え、その意味では、冒頭に挙げた「熱ひそかなり空中に蠅つるむ」くらいの空間意識のほうが、俳句の強みを発揮できるのだろう。
●
ついでだから、俳句全般から「微熱」を拾ってみる。
微熱あるかに白梅の花いきれ 上田五千石
花どきの微熱かがよふごときかな 平井照敏
木の花と微熱は相性よく照応する。
微熱もつくちびる青き花菖蒲 高澤晶子
白梅の微熱のそばに兄ありぬ 宇多喜代子
なまめかしい。
湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り 小澤克己
詩的な把握。
また微熱つくつく法師もう黙れ 川端茅舎
こんなふうなら、なかなか即物的。けれども感興という点ではどうなのだろう。
(つづく)
※承前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
第11回
微熱中年
さいばら天気
熱ひそかなり空中に蠅つるむ 三鬼(1936年)
微熱と蠅の交配の二物については、(今なら特に)いわゆるツキスギとする向きもあろうが、体内と外界が微熱でつながるような趣がある。
微熱の句は同時期(1936年)の作にほか何句かある。
微熱ありきのふの猫と沖を見る 三鬼(1936年)
ダグラス機冬天に消え微熱あり 三鬼(1936年)
身体にまつわること(微熱)と遠景の対照。
猶太教寺院の夕さり閑雅なる微熱 三鬼(1936年)
「猶太教寺院」に「シナゴグ」のルビあり(『空港』再録時は「シナゴーグ」)。猶太教はユダヤ教。「閑雅なる微熱」は、初期三鬼の句全体に備わる感触と言えなくもない。
●
微熱という語は、それだけで詩的なイメージを喚起するので、俳句には収まりにくく、また、個人的な事情を申せば、松本隆という作詞家、「はっぴいえんど」という日本語バンドで作詞キャリアをスタートさせた作詞家の、おそろしく叙情的な歌詞に、当時から居心地の悪さを感じてきた者にとっては、その小説タイトル「微熱少年」がマイナスに作用してくれる側面も大きい。
微熱+少年
ひゃあ、助けて!かんべん!と叫んでしまう強力な抒情セットを被爆したのち、三鬼の句を読まねばならない不幸をいまさら言ってもしかたない。抒情の悪夢を払拭するために、三鬼の句を読めばいいわけだが、いかんせん「ダグラス機」の句は、払拭には逆効果の、拭いがたい抒情が備わり、併せて、やや凡庸な把握にも思える。
遠近、すなわち風景と身体の対照は、俳句において、手堅い仕上がり、もしくは量産可能なシステムにも、今となれば思え、その意味では、冒頭に挙げた「熱ひそかなり空中に蠅つるむ」くらいの空間意識のほうが、俳句の強みを発揮できるのだろう。
●
ついでだから、俳句全般から「微熱」を拾ってみる。
微熱あるかに白梅の花いきれ 上田五千石
花どきの微熱かがよふごときかな 平井照敏
木の花と微熱は相性よく照応する。
微熱もつくちびる青き花菖蒲 高澤晶子
白梅の微熱のそばに兄ありぬ 宇多喜代子
なまめかしい。
湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り 小澤克己
詩的な把握。
また微熱つくつく法師もう黙れ 川端茅舎
こんなふうなら、なかなか即物的。けれども感興という点ではどうなのだろう。
(つづく)
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2010年3月22日月曜日
2010年3月21日日曜日
●おんつぼ29 Led Zeppelin 中嶋憲武
おんつぼ29
Led Zeppelin: The Wanton Song
中嶋憲武
おんつ ぼ=音楽のツボ
朝、目が覚めたら急に頭のなかでLED ZEPPELINのTHE WANTON SONGががんがん鳴り響いて、聴きたくて聴きたくてたまらなくなり、急いでコンパクトディスクをセットする。
これは名盤の誉れ高い(と、自分では思っている)「PHYSICAL GRAFFITI」のD面に入っている(コンパクトディスクではDISC TWO)。
ジャケットはイギリスの古いアパートメントで窓のところにタイトルが1文字ずつ入っていて、アナログ盤ではここがスライドして窓の中が覗けたのだが、コンパクトディスクではただの一枚の印刷で味気ない。
朝食を取りながら聴いていると、食事を終えた猫が膝の上に乗ってきた。
この猫は毎度そうしている。朝に晩に食事を終えるたびにぼくの膝の上にOn my knees. で、朝から猫が膝の上で眠るので何も出来ぬことが多い。立てないし。内田先生とこのノラやクルツもそうだったのだろうか。
しかし用事でどうしても出かけなければならぬところがあり、泣く泣く猫を下ろして、外出の仕度をしていると猫は押入に入って寝ている模様。
押入を覗くと寝ていたので、声をかける。声をかけると低く小さな声で「ニャア」(川上弘美風に書くと「ニイ」)と鳴く。この猫はいついかなる場合でも呼びかければ必ず返事を返す。泣く泣く猫に別れを告げ出かける。
あっという間に用事は終り、地球は夜になって家へ帰ってくると、お腹が空いているので、僕の顔を見るなり「ニャアニャア」と鳴く。で、食事の用意をして器を下ろすと、早速食べ始める。
膝の上に来ることは分かり切っているので、椅子に座っていると食べ終えた猫は、小さな声で鳴きながら膝の上に乗ってきた。気持ち良さそうな顔して眠ってしまった。こうなると本を読むくらいしか出来ない。リモートコントロール機でコンパクトディスクを操作し、PHYSICAL GRAFFITIに聴き入り、やっぱりTHE WANTON SONG最高と思うと日記に書いてみたくなり、猫を抱いて、パーソナルコンピュータのところまで来て、いまこうして書いている訳だ。訳です。猫は両手で僕の右手に齧りついていて離さない。目はしっかりとつぶり寝ている。
ああ、立たない。いや立てない。
2010年3月20日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔10〕彼岸・下
ホトトギス雑詠選抄〔10〕
春の部(三月)彼岸・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、静雲も飄々として面白い句を詠むが、「彼岸婆々」百態とでも言えそうな句を、「ホトトギス雑詠選」の厳選にこれだけ選び続ける虚子も相当に変である。せいぜい一句だろう。現にほとんどの歳時記は一句で、盟友の富安風生など一句も載せていない。彼が載せているのは、
うとうとと彼岸の法話ありがたや 昭和5年
で、これは法話をしている坊さんが静雲自身だから、自分の法話でうとうとしている彼岸婆々たちを「ありがたや」と詠んでいるという面白さがある。山本健吉も、他の選者が当り障りの無い彼岸婆々を選んでいるのに、虚子が自分の歳時記で落とした「小水婆々」を選んでいるところも、結構茶目っ気がある。
それにしても、なぜ8句も最終選に残したのか。
多分、虚子のツボに入ったのである。虚子はバナナの句とか変な句を詠むが、それにしても、
川を見るバナヽの皮は手より落つ 昭和10年1月
川を見るバナゝの皮は手より落ち 昭和10年11月
川を見るバナナの皮は手より落ち 『五百句』
と三回、語尾や表記を推敲している。「バナナの皮」がツボに入ったとしか思えない。
無季句もそうである(註4)。
公園の茶屋の主の無愛想 昭和17年4月
16歳の八田木枯少年は、虚子先生や立子さんと句会をする行幸に恵まれ、67歳の虚子先生にこれは無季ではないですかと質問したかったが、引率してくれた市川東子先生に、質問は直接にではなく、「玉藻」の問答欄に活字でしなさいとたしなめられ、意見を書こうと思ったら、既に福田一雨から同じ質問が出ていて、虚子は「無季でした。削除すべきもの」という回答をしたにもかかわらず、今でも『六百句』に堂々と掲載されているので、八田木枯翁は、あの時聞いておくべきだったと悔やむのであるが、余程「無愛想」が虚子のツボに入ったとしか思えない。
稀に、普通の人がくすぐったいところがくすぐったくなく、変なところがくすぐったいというツボの人がいる。虚子もそうだったのではないだろうか。虚子のツボがどこにあるかを知ることが、わたくしには虚子を理解する一番の近道のように思える。
(了)
註4:八田木枯「無季の句」:『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)所収
春の部(三月)彼岸・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、静雲も飄々として面白い句を詠むが、「彼岸婆々」百態とでも言えそうな句を、「ホトトギス雑詠選」の厳選にこれだけ選び続ける虚子も相当に変である。せいぜい一句だろう。現にほとんどの歳時記は一句で、盟友の富安風生など一句も載せていない。彼が載せているのは、
うとうとと彼岸の法話ありがたや 昭和5年
で、これは法話をしている坊さんが静雲自身だから、自分の法話でうとうとしている彼岸婆々たちを「ありがたや」と詠んでいるという面白さがある。山本健吉も、他の選者が当り障りの無い彼岸婆々を選んでいるのに、虚子が自分の歳時記で落とした「小水婆々」を選んでいるところも、結構茶目っ気がある。
それにしても、なぜ8句も最終選に残したのか。
多分、虚子のツボに入ったのである。虚子はバナナの句とか変な句を詠むが、それにしても、
川を見るバナヽの皮は手より落つ 昭和10年1月
川を見るバナゝの皮は手より落ち 昭和10年11月
川を見るバナナの皮は手より落ち 『五百句』
と三回、語尾や表記を推敲している。「バナナの皮」がツボに入ったとしか思えない。
無季句もそうである(註4)。
公園の茶屋の主の無愛想 昭和17年4月
16歳の八田木枯少年は、虚子先生や立子さんと句会をする行幸に恵まれ、67歳の虚子先生にこれは無季ではないですかと質問したかったが、引率してくれた市川東子先生に、質問は直接にではなく、「玉藻」の問答欄に活字でしなさいとたしなめられ、意見を書こうと思ったら、既に福田一雨から同じ質問が出ていて、虚子は「無季でした。削除すべきもの」という回答をしたにもかかわらず、今でも『六百句』に堂々と掲載されているので、八田木枯翁は、あの時聞いておくべきだったと悔やむのであるが、余程「無愛想」が虚子のツボに入ったとしか思えない。
稀に、普通の人がくすぐったいところがくすぐったくなく、変なところがくすぐったいというツボの人がいる。虚子もそうだったのではないだろうか。虚子のツボがどこにあるかを知ることが、わたくしには虚子を理解する一番の近道のように思える。
(了)
註4:八田木枯「無季の句」:『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)所収
2010年3月19日金曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔10〕彼岸・上
ホトトギス雑詠選抄〔10〕
春の部(三月)彼岸・上
猫髭 (文・写真)
腰の手のはだか線香や彼岸婆々 河野静雲 昭和8年
輪を描いてつきゆく杖や彼岸婆々 同上
御院家にちよとものいひに彼岸婆々 同上
みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々 同上
襟巻をふんまへあるき彼岸媼 同 昭和12年
駄々走り来て小水の彼岸婆々 同上
杖をつく顔がぶるぶる彼岸婆々 同 昭和14年
ついて来る杖がそろうて彼岸婆々 同 昭和16年
3月18日(木)、昨日から「彼岸入り」で、21日(日)の「彼岸中日(春分)」を挟み、24日(水)の「彼岸明け」までの一週間が「彼岸」であり、「彼岸会」と称して寺院に「彼岸詣」し、祖先の墓参をする。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるが「彼岸過ぎまで七雪」という諺もある。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規 明治26年
には、「母の詞(ことば)自ら句になりて」という前詞が付いている。
北に縮小してゆく冬の寒気団と、南から広がる春の暖気団が、日本付近で衝突し、温帯低気圧が発達するためで、今年の春の風雪は、本稿第8回「実朝忌」で取り上げた鎌倉八幡宮の大銀杏を倒木した。
実はその時撮影した実朝の大銀杏は、ピサの斜塔のように傾いていたので不思議に思って、鶴岡八幡宮の屋根を水平線として撮ったものがある。冒頭の写真がそれである。倒木した方角へ傾いている。わたくしが撮った上弦の昼の月をいただく大銀杏の写真が真直ぐ立っているように見えるのは、倒れた方角の下から仰いで撮ったためである。
今年の彼岸の入りは、夜になって風が強くなったが、昼間は「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだという陽気で、谷戸歩きの入口で出会う野良猫は「彼岸猫」と呼びたいほど、日向で長々と昼寝をむさぼっていた。
冒頭の掲出句はすべて「彼岸詣」の句である。一句だけ彼岸媼が入るが、彼岸婆々のオンパレードである。
作者は河野静雲(こうの・じょううん)(註1)。明治20年~昭和49年。
足掛け8年も彼岸婆々を詠み続けるというのはかなりの老婆フェチかと勘ぐるには及ばない。時宗の僧侶であり、多分世界にも例が無い俳句寺の住職である。大宰府観世音寺月山に「花鳥山仏念寺」を創建開山し、虚子を祀る「虚子堂」と虚子の愛用した帯を納めた「帯塚」を建立。扁額の「花鳥山」は高浜虚子の揮毫。「念仏のつもりで俳句を作りなっせ」とは、「俳句即仏道」を実践した、静雲の口癖とか(註2)。まるで、虚子の『俳諧スボタ経』(註3)を地で行ったような坊さんである。
ここに出て来る表情豊かな彼岸婆々は、婆々と言っても複数形ではない。白川静『字統』にあるように、「祖母を婆々」と言う。小川環樹・西田太一郎・赤塚忠『新字源』には【「婆婆(ばば)」はよめが夫の母をよぶことば】とある。時代劇に出てくる「婆々様」である。掲出句では「老婆」という意味で使われているが、これが「彼岸会に来る信心深いお婆さん達」と取ると、6句目の「駄々走り来て小水の彼岸婆々」などは、蟹股でばたばた婆々様たちが押し寄せて来て、中腰で腰巻を手繰り上げるやいなや連れションを始めるという、それはそれは大変な景になる。虚子も、そういう誤解を避けるためか、『新歳時記』には、四句目の下五を「ひがんばゝ」とひらがな表記にしている。8句目などは老女たちの景だし、静雲には「僧もする冬木の中の連小便」という句もあるが、間違っても6句目だけは一人で沢山である。
(明日につづく)
註1:本名、裏辻定連(うらつじ・じょうれん)。福岡県福岡市官内町浄土宗一行寺に生まれ、明治25年、土井町時宗称名寺住職河野智眼の養子となる。神奈川県藤沢市時宗総本山遊行寺の時宗宗立学校に学ぶ。このとき「ホトトギス」を知り、投句を始める。遊行寺には、「生きてゐて相逢ふ僧や一遍忌 静雲」の句碑がある。明治38年帰郷し、称名寺に寄寓。宮城県亘野町寿念寺住職をしたあと帰郷し、昭和24年、大宰府の観世音寺月山に、「花鳥山仏念寺」を創建開山。この寺は、多くの俳弟子たちが、浄財を募って創建した俳句寺である。
俳句は、大正16年1月号にて、
閼伽桶に飛び来て風のいぼむしり
花芒はらりととけて二た穂三穂
落葉掃くや担架係の二た小法師
所化衆や落葉掃き終へぞろぞろと
お十夜や一人欠げたる世話ばん婆
五句にて初巻頭。「十夜婆」が虚子のツボに入ったのかもしれないが、「花芒」の句も、蛇笏の名句に先行する佳句。以後、昭和9年4月、昭和12年2月に虚子選の巻頭。虚子歿後は、昭和41年12月に年尾選の巻頭。
時宗僧侶のかたわら、昭和5年、「木犀」を、清原拐童(きよはら・かいどう)より継承主宰。拐童門下の俳人には杉田久女もいる。昭和9年、「ホトトギス」同人となり、昭和16年、戦時下の県下五俳誌合併による俳誌の「冬野」を主宰。句集は『閻魔』『閻魔以後』『脚注名句シリーズ 河野静雲集』。
註2:椛島弘道俳句コーナー。
(http://homepage2.nifty.com/gozenkai/kabashima.htm)
註3:『定本高濱虚子全集』第十巻「俳論・俳話集一」所収(毎日新聞社)。
碧悟桐が千人中の一人の天才を相手に俳句を説くなら、自分は九百九十九人に受け入れられる俳句を説くという俳諧スボタ経を、戯作調で書いたもの。これも虚子のツボかもしれないが、漱石のユーモア、子規の格調のかけらすらない悪文。
春の部(三月)彼岸・上
猫髭 (文・写真)
腰の手のはだか線香や彼岸婆々 河野静雲 昭和8年
輪を描いてつきゆく杖や彼岸婆々 同上
御院家にちよとものいひに彼岸婆々 同上
みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々 同上
襟巻をふんまへあるき彼岸媼 同 昭和12年
駄々走り来て小水の彼岸婆々 同上
杖をつく顔がぶるぶる彼岸婆々 同 昭和14年
ついて来る杖がそろうて彼岸婆々 同 昭和16年
3月18日(木)、昨日から「彼岸入り」で、21日(日)の「彼岸中日(春分)」を挟み、24日(水)の「彼岸明け」までの一週間が「彼岸」であり、「彼岸会」と称して寺院に「彼岸詣」し、祖先の墓参をする。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるが「彼岸過ぎまで七雪」という諺もある。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規 明治26年
には、「母の詞(ことば)自ら句になりて」という前詞が付いている。
北に縮小してゆく冬の寒気団と、南から広がる春の暖気団が、日本付近で衝突し、温帯低気圧が発達するためで、今年の春の風雪は、本稿第8回「実朝忌」で取り上げた鎌倉八幡宮の大銀杏を倒木した。
実はその時撮影した実朝の大銀杏は、ピサの斜塔のように傾いていたので不思議に思って、鶴岡八幡宮の屋根を水平線として撮ったものがある。冒頭の写真がそれである。倒木した方角へ傾いている。わたくしが撮った上弦の昼の月をいただく大銀杏の写真が真直ぐ立っているように見えるのは、倒れた方角の下から仰いで撮ったためである。
今年の彼岸の入りは、夜になって風が強くなったが、昼間は「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだという陽気で、谷戸歩きの入口で出会う野良猫は「彼岸猫」と呼びたいほど、日向で長々と昼寝をむさぼっていた。
冒頭の掲出句はすべて「彼岸詣」の句である。一句だけ彼岸媼が入るが、彼岸婆々のオンパレードである。
作者は河野静雲(こうの・じょううん)(註1)。明治20年~昭和49年。
足掛け8年も彼岸婆々を詠み続けるというのはかなりの老婆フェチかと勘ぐるには及ばない。時宗の僧侶であり、多分世界にも例が無い俳句寺の住職である。大宰府観世音寺月山に「花鳥山仏念寺」を創建開山し、虚子を祀る「虚子堂」と虚子の愛用した帯を納めた「帯塚」を建立。扁額の「花鳥山」は高浜虚子の揮毫。「念仏のつもりで俳句を作りなっせ」とは、「俳句即仏道」を実践した、静雲の口癖とか(註2)。まるで、虚子の『俳諧スボタ経』(註3)を地で行ったような坊さんである。
ここに出て来る表情豊かな彼岸婆々は、婆々と言っても複数形ではない。白川静『字統』にあるように、「祖母を婆々」と言う。小川環樹・西田太一郎・赤塚忠『新字源』には【「婆婆(ばば)」はよめが夫の母をよぶことば】とある。時代劇に出てくる「婆々様」である。掲出句では「老婆」という意味で使われているが、これが「彼岸会に来る信心深いお婆さん達」と取ると、6句目の「駄々走り来て小水の彼岸婆々」などは、蟹股でばたばた婆々様たちが押し寄せて来て、中腰で腰巻を手繰り上げるやいなや連れションを始めるという、それはそれは大変な景になる。虚子も、そういう誤解を避けるためか、『新歳時記』には、四句目の下五を「ひがんばゝ」とひらがな表記にしている。8句目などは老女たちの景だし、静雲には「僧もする冬木の中の連小便」という句もあるが、間違っても6句目だけは一人で沢山である。
(明日につづく)
註1:本名、裏辻定連(うらつじ・じょうれん)。福岡県福岡市官内町浄土宗一行寺に生まれ、明治25年、土井町時宗称名寺住職河野智眼の養子となる。神奈川県藤沢市時宗総本山遊行寺の時宗宗立学校に学ぶ。このとき「ホトトギス」を知り、投句を始める。遊行寺には、「生きてゐて相逢ふ僧や一遍忌 静雲」の句碑がある。明治38年帰郷し、称名寺に寄寓。宮城県亘野町寿念寺住職をしたあと帰郷し、昭和24年、大宰府の観世音寺月山に、「花鳥山仏念寺」を創建開山。この寺は、多くの俳弟子たちが、浄財を募って創建した俳句寺である。
俳句は、大正16年1月号にて、
閼伽桶に飛び来て風のいぼむしり
花芒はらりととけて二た穂三穂
落葉掃くや担架係の二た小法師
所化衆や落葉掃き終へぞろぞろと
お十夜や一人欠げたる世話ばん婆
五句にて初巻頭。「十夜婆」が虚子のツボに入ったのかもしれないが、「花芒」の句も、蛇笏の名句に先行する佳句。以後、昭和9年4月、昭和12年2月に虚子選の巻頭。虚子歿後は、昭和41年12月に年尾選の巻頭。
時宗僧侶のかたわら、昭和5年、「木犀」を、清原拐童(きよはら・かいどう)より継承主宰。拐童門下の俳人には杉田久女もいる。昭和9年、「ホトトギス」同人となり、昭和16年、戦時下の県下五俳誌合併による俳誌の「冬野」を主宰。句集は『閻魔』『閻魔以後』『脚注名句シリーズ 河野静雲集』。
註2:椛島弘道俳句コーナー。
(http://homepage2.nifty.com/gozenkai/kabashima.htm)
註3:『定本高濱虚子全集』第十巻「俳論・俳話集一」所収(毎日新聞社)。
碧悟桐が千人中の一人の天才を相手に俳句を説くなら、自分は九百九十九人に受け入れられる俳句を説くという俳諧スボタ経を、戯作調で書いたもの。これも虚子のツボかもしれないが、漱石のユーモア、子規の格調のかけらすらない悪文。
2010年3月17日水曜日
●名前がふたつ 田島健一
【週俳第150号を読む】
名前がふたつ
田島健一
うしろ頭のうつろの中にお賽銭 広瀬ちえみ
この句、すき。うつろな空間把握のなかに、ひゅーんとお賽銭がとんでゆく。なにか感覚をつーんと引っ張られるような感じがある。
ところで、こんなことを書くと怒られるかも知れないけれど、実は、俳句と川柳は同じものなのではないか、と思っている。
同じものを違う名前で呼んでいる、というのはよくあることで。
だから私たちにとって、俳句が俳句であることや、川柳が川柳であることは、じつは「結果」ではなくて「始まり」なのではないか、と。
名前の違うものがふたつあるから、それがそこにあるのは何か理由があるのではないか、と多くの人が俳句と川柳の違いについて説明しようとするけれど、実は、違いがあるから違う名前があるのではなく、違う名前で読んでしまったために、その違いを説明せずにはいられない、ということなのではないかな、と。
ミモフタモナイ、と言われてしまうかも。
でも、大事なことは、俳句とは何か、川柳とは何か、俳句と川柳は何が違うか、と問うことではなく、私たちが川柳のなかに俳句の姿を見ており、俳句のなかに川柳の姿を見ている、という事実にあるのではないだろうか。
俳句とか、川柳とかになるまえの、混沌としたことばの世界があって、そこに「主体」が立ち上がることでその混沌が「俳句」になったり「川柳」になったりする。でも実は「主体」にとって、それが「俳句」であるか「川柳」であるか、ということはあまり問題ではないのかも。
そのことばの混沌が常にかかえている困難な核があって、それを人々は経験的な「俳句」の言語セットで捉えてみたり、「川柳」の言語セットで捉えてみたりしている。
そう考えてみると、いわゆる「いい俳句」と「いい川柳」のパフォーマンスは変わらない。
それが「俳句」と呼ばれていても、「川柳」と呼ばれていても、その作品のなかにはその作品以上のものが含まれていて、それが「俳句」であることや、「川柳」であることを常に脅かしているのではないだろうか。
≫週刊俳句・第 150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
名前がふたつ
田島健一
うしろ頭のうつろの中にお賽銭 広瀬ちえみ
この句、すき。うつろな空間把握のなかに、ひゅーんとお賽銭がとんでゆく。なにか感覚をつーんと引っ張られるような感じがある。
ところで、こんなことを書くと怒られるかも知れないけれど、実は、俳句と川柳は同じものなのではないか、と思っている。
同じものを違う名前で呼んでいる、というのはよくあることで。
だから私たちにとって、俳句が俳句であることや、川柳が川柳であることは、じつは「結果」ではなくて「始まり」なのではないか、と。
名前の違うものがふたつあるから、それがそこにあるのは何か理由があるのではないか、と多くの人が俳句と川柳の違いについて説明しようとするけれど、実は、違いがあるから違う名前があるのではなく、違う名前で読んでしまったために、その違いを説明せずにはいられない、ということなのではないかな、と。
ミモフタモナイ、と言われてしまうかも。
でも、大事なことは、俳句とは何か、川柳とは何か、俳句と川柳は何が違うか、と問うことではなく、私たちが川柳のなかに俳句の姿を見ており、俳句のなかに川柳の姿を見ている、という事実にあるのではないだろうか。
俳句とか、川柳とかになるまえの、混沌としたことばの世界があって、そこに「主体」が立ち上がることでその混沌が「俳句」になったり「川柳」になったりする。でも実は「主体」にとって、それが「俳句」であるか「川柳」であるか、ということはあまり問題ではないのかも。
そのことばの混沌が常にかかえている困難な核があって、それを人々は経験的な「俳句」の言語セットで捉えてみたり、「川柳」の言語セットで捉えてみたりしている。
そう考えてみると、いわゆる「いい俳句」と「いい川柳」のパフォーマンスは変わらない。
それが「俳句」と呼ばれていても、「川柳」と呼ばれていても、その作品のなかにはその作品以上のものが含まれていて、それが「俳句」であることや、「川柳」であることを常に脅かしているのではないだろうか。
≫週刊俳句・第 150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
2010年3月16日火曜日
●コモエスタ三鬼10 君よ頓服をもて眠れ
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第10回
君よ頓服をもて眠れ
さいばら天気
「カタカナは使っちゃいけない」「固有名詞はダメ」と、2010年現在の俳句世間にも、いろいろと「べからず」集を並べ立てる人がいらっしゃるようです。人が好きで遊んでいる俳句に、ごじゃごじゃと、世話を焼きたがるのは、いったいなぜ?と、私などは思ってしまいますが。
アダリンが白き軍艦を白うせり 三鬼(1936年)
アダリンは、ブロムジエチルアセチル尿素の商標名。催眠・鎮静薬の一種。白色。粉末やシロップで服用したようですが、白いアダリンで白い軍艦を白くする。念の押し方がおもしろい句です。「水枕ガバリと寒い海がある」をもたらした熱病と同じ熱病の時期に、この「アダリン」と句も生まれたと思しく、「病気と軍艦」5句中の一句(『旗』収録)。
戦前、アダリンは、日常的に使われていたらしく、芥川龍之介「病中雜記」(『文藝春秋』1926年所収)にも、その名が見えます。
ま、それはともかく、俳句にアダリンの語を使うことが、当時、どの程度ユニークだったか。推し量るのは難しいけれど、挑戦的(いわゆるチャンレンジング)だったことは察しがつきます。
通りのいい薬品名といえば、昭和ならヒロポン、時代を下って、ケロリン、キャベジン(どんどんポエジーから遠のきますね)。今なら何でしょう。一方、漢字表記は俳句との相性がよく、仁丹、龍角散、正露丸あたりは、俳句でよく見かけます。
ところが、いま「アダリン」と言われても、ピンと来ない人が多い(私は知らなくて調べました)。このへんが「べからず」の根拠のひとつでしょうか。やがて賞味期限がやってくる、という。
けれども、みながみな「100年経っても愛誦される句」を野望するわけでもない。それどころか、その日、目の前の読者にさえ、なかなか届かない。
●
さて、この句、詩的成分がやや過多にも思いますが、奇妙に気持ちに引っかかる句です。白、白、白。
句集では数句うしろに登場する、この句…
松林の卓おむれつとわがひとり 三鬼(1936年)
この「おむれつ」の黄色と、アダリンの白い句が響き合い、奇妙な作用を起こすのです。
おむれつの句は「恢復期」5句の冒頭句。白から黄へ、三鬼は恢復に向かった。黄色って、ちょっと元気の出る色だと思いませんか。たまごに滋養があることを置くとしても。
(つづく)
※承 前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
第10回
君よ頓服をもて眠れ
さいばら天気
「カタカナは使っちゃいけない」「固有名詞はダメ」と、2010年現在の俳句世間にも、いろいろと「べからず」集を並べ立てる人がいらっしゃるようです。人が好きで遊んでいる俳句に、ごじゃごじゃと、世話を焼きたがるのは、いったいなぜ?と、私などは思ってしまいますが。
アダリンが白き軍艦を白うせり 三鬼(1936年)
アダリンは、ブロムジエチルアセチル尿素の商標名。催眠・鎮静薬の一種。白色。粉末やシロップで服用したようですが、白いアダリンで白い軍艦を白くする。念の押し方がおもしろい句です。「水枕ガバリと寒い海がある」をもたらした熱病と同じ熱病の時期に、この「アダリン」と句も生まれたと思しく、「病気と軍艦」5句中の一句(『旗』収録)。
戦前、アダリンは、日常的に使われていたらしく、芥川龍之介「病中雜記」(『文藝春秋』1926年所収)にも、その名が見えます。
月餘の不眠症の爲に〇・七五のアダリンを常用しつつ、枕上子規全集第五卷を讀めば、俳人子規や歌人子規の外に批評家子規にも敬服すること多し。「歌よみに與ふる書」の論鋒破竹の如きは言ふを待たず。小説戲曲等を論ずるも、今なほ僕等に適切なるものあり。こは獨り僕のみならず、佐藤春夫も亦力説する所。アダリンを媒介に三鬼→龍之介→子規と繋がった。
ま、それはともかく、俳句にアダリンの語を使うことが、当時、どの程度ユニークだったか。推し量るのは難しいけれど、挑戦的(いわゆるチャンレンジング)だったことは察しがつきます。
通りのいい薬品名といえば、昭和ならヒロポン、時代を下って、ケロリン、キャベジン(どんどんポエジーから遠のきますね)。今なら何でしょう。一方、漢字表記は俳句との相性がよく、仁丹、龍角散、正露丸あたりは、俳句でよく見かけます。
ところが、いま「アダリン」と言われても、ピンと来ない人が多い(私は知らなくて調べました)。このへんが「べからず」の根拠のひとつでしょうか。やがて賞味期限がやってくる、という。
けれども、みながみな「100年経っても愛誦される句」を野望するわけでもない。それどころか、その日、目の前の読者にさえ、なかなか届かない。
●
さて、この句、詩的成分がやや過多にも思いますが、奇妙に気持ちに引っかかる句です。白、白、白。
句集では数句うしろに登場する、この句…
松林の卓おむれつとわがひとり 三鬼(1936年)
この「おむれつ」の黄色と、アダリンの白い句が響き合い、奇妙な作用を起こすのです。
おむれつの句は「恢復期」5句の冒頭句。白から黄へ、三鬼は恢復に向かった。黄色って、ちょっと元気の出る色だと思いませんか。たまごに滋養があることを置くとしても。
(つづく)
※承 前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
2010年3月15日月曜日
2010年3月14日日曜日
●今日は鈴木真砂女の忌
今日は鈴木真砂女の忌
たべものの句を集めてみました。
軒低く干す小鰈や斑雪 鈴木真砂女(以下同)
ふるさとや東風寒き日の鰯売り
籠いつぱい野蒜を摘みて才女ならず
生栄螺しこしこ噛んで夜の怒濤
白魚のみごもりゐるがあはれかな
蛤を沈めて桶のおぼろかな
恋したや苺一粒口に入れ
金目鯛の赤うとましや春の雨
血抜きして鱸の肌の透きとほり
傘雨忌やおろしたつぷり玉子焼
女将ある日やりきれなさの瓜揉んで
旅一つのがせし鰺を叩きけり
三伏や提げて重たき油鍋
ふるづけに刻む生姜や朝ぐもり
糠みそへ素手ふかぶかと入れて夏
揚物をからりと揚げて大暑なり
真中に鮑が坐る夏料理
白桃に人刺すごとく刃を入れて
美食して戻る台風の目は遥か
東京をふるさととして菊膾
秋刀魚焼いて泣きごとなどは吐くまじよ
支那菓子のくづれやすさよ秋暑く
今生のいまが倖せ衣被
秋鯖の仕入ごころをそそのかす
笑ひ茸食べて笑つてみたきかな
大鍋に蟹ゆで上る時雨かな
牡蠣割つて脛に傷もつ女かな
下仁田の土をこぼして葱届く
熱燗や食ひちぎりたる章魚の足
鍋物に火のまはり来し時雨かな
寒波来る虎河豚は斑を誇りとし
女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも
鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
海鼠買ふ人差指で押してみて
このわたは小樽海鼠は中樽に
冬蜆砂吐いて身を軽ろくせり
鮟鱇鍋はらからといふよき言葉
悪名もいまはむかしの鮟鱇鍋
鮟鱇鍋路地に年月重ねたり
湯豆腐や男の嘆ききくことも
悪相の魚は美味し雪催
金柑の甘さとろりと年迎ふ
村百戸海老を栄螺を初荷とす
俎始ひと杓の水走らせて
割烹着ぬぐとき時雨ききにけり
たべものの句を集めてみました。
軒低く干す小鰈や斑雪 鈴木真砂女(以下同)
ふるさとや東風寒き日の鰯売り
籠いつぱい野蒜を摘みて才女ならず
生栄螺しこしこ噛んで夜の怒濤
白魚のみごもりゐるがあはれかな
蛤を沈めて桶のおぼろかな
恋したや苺一粒口に入れ
金目鯛の赤うとましや春の雨
血抜きして鱸の肌の透きとほり
傘雨忌やおろしたつぷり玉子焼
女将ある日やりきれなさの瓜揉んで
旅一つのがせし鰺を叩きけり
三伏や提げて重たき油鍋
ふるづけに刻む生姜や朝ぐもり
糠みそへ素手ふかぶかと入れて夏
揚物をからりと揚げて大暑なり
真中に鮑が坐る夏料理
白桃に人刺すごとく刃を入れて
美食して戻る台風の目は遥か
東京をふるさととして菊膾
秋刀魚焼いて泣きごとなどは吐くまじよ
支那菓子のくづれやすさよ秋暑く
今生のいまが倖せ衣被
秋鯖の仕入ごころをそそのかす
笑ひ茸食べて笑つてみたきかな
大鍋に蟹ゆで上る時雨かな
牡蠣割つて脛に傷もつ女かな
下仁田の土をこぼして葱届く
熱燗や食ひちぎりたる章魚の足
鍋物に火のまはり来し時雨かな
寒波来る虎河豚は斑を誇りとし
女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも
鯛は美のおこぜは醜の寒さかな
海鼠買ふ人差指で押してみて
このわたは小樽海鼠は中樽に
冬蜆砂吐いて身を軽ろくせり
鮟鱇鍋はらからといふよき言葉
悪名もいまはむかしの鮟鱇鍋
鮟鱇鍋路地に年月重ねたり
湯豆腐や男の嘆ききくことも
悪相の魚は美味し雪催
金柑の甘さとろりと年迎ふ
村百戸海老を栄螺を初荷とす
俎始ひと杓の水走らせて
割烹着ぬぐとき時雨ききにけり
2010年3月13日土曜日
●3D眼鏡を掛けて読む 上田信治
【週俳第150号を読む】
3D眼鏡を掛けて読む
上田信治
ある俳人に、今回の川柳特集の、感想をかいてもらえないかと頼んだところ、自分は川柳はどうしても面白く思えないのだと、言って断られた(そういう人もいるでしょう)。
川柳になくて俳句にあるものといえば「句中の切れ」と「季語」ということになるので、その人は「切れ」と「季語」のない十七音を、物足りなく感じるのだろうと、勝手にそう思った(違うかもしれない)。
いや「切れ」的構造を持った川柳のあることは知っているので、「季語」や「切れ」を意識した複層的な読みを予定していない十七音、と言い換えよう。
逆から言えば、俳句は最初から「季語」「切れ」などのローカルルールの指示に従いつつ、複層化した十七音「として」読まれる、ということだ。今思いついたのだが、それは、3D眼鏡を掛けて3D映画を観ることに、とてもよく似ている。
はっきりと思い出せない猿の足 樋口由紀子
俳句的3D感を感じない、徒手空拳のたたずまいを持つ一行詩(穂村弘のいわゆる「棒立ち」か)。
たとえば、この「猿」を、むりやり冬の「季語」であると仮定する。すると、このはっきりとしない猿の足の踏んでいるのは雪で、背後には、風に飛ぶ雪がある。また、例えばこれが〈はっきりと思い出せない目白の足〉であることを想像すると、季語「目白」の足をわざわざ言ったということが前景化して、句中の話者は存在感を弱める。川柳としての元句が、キッチンかどこかに一人でいる、主人公を思わせるのと対照的で、だから、ここはぜひ目白ではなく猿でなければいけない。
つまり「季語」の指示する読みには、語のもつ情報による複層化(この場合は背景をプラス)と、一句の構造の複層化(季語と季語でない部分は、読者にとって見え方が違う)の、二方向があるということになる。
サフランを摘めば大きな物語 小池正博
歳時記的にはクロッカスは春、サフランは晩秋ですが、それはさておき、吉岡實の「サフラン摘み」の西洋古代的な海辺の光景を漂わせつつ、青い空の下、「サフランを摘めば」(すなわち)「大きな物語」(がそこにある)(を想う)(に包まれているようである)・・・と、この句には、ジャンル分けが、いらなそう。俳句的な切れを手法として取り込んで、複層的です。
生者死者数の合わないカレー皿 石部明
一読〈潜る鳰浮く鳰数は合ってますか 池田澄子〉を思わせる。俳句ルールを外して(川柳的に)読めば「数は合ってますか」と可愛く疑問形でおさめた「潜る鳰」は、切っ先が甘いようだが、「潜る鳰浮く鳰」のあとに、俳句読者は「切れ」を感じてしまうので、これは実景として、鳰が潜りまた浮く、ポチャッ……ポチャッ……という時間経過の中で生じた、どうでもいい疑問と読める。観念が、現実の時間に、ぽかりと浮かぶさまに、妙があるとでもいいますか(それにしても、池田は、川柳的に単層的な句で勝負することが多く、「鳰」の句も例外ではない)。
「カレー皿」は、「鳰」の句よりもシッポがつかみにくく、複雑かもしれない。「カレー」が夏(の季語)だとしたら「広島」ということかもしれず、そのほうが、川柳的な読みかもしれないが、ちょっと単純になる。
ややこしいのは、「数の合わない」が「生者死者」にかかるのか「カレー皿」にかかるのか、作者が決めてくれていないことで、語法的には「カレー皿」にかかるというのが順当だが、この句は「生者死者」の「数が合わない」と読んだほうが、面白いので困ってしまう。
前述の俳人の川柳に対する不満は、川柳がしばしば単層的であることと、語構成に厳密を欠くように見えることにあるのかもしれないと、思い至りました。(「カレー」の句のように、中七がどっちにでもつく形を俳人は「山本山」と言って嫌います)
厳密を欠くと言っても、それは川柳の読みが、俳句的にルール化されていないというだけのことかもしれず、だとしたら、それはほとんど言いがかりですね。取り消し取り消し。
というか、どうなんだろう。川柳の人から見たら、俳句的3D眼鏡というのは。
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
3D眼鏡を掛けて読む
上田信治
ある俳人に、今回の川柳特集の、感想をかいてもらえないかと頼んだところ、自分は川柳はどうしても面白く思えないのだと、言って断られた(そういう人もいるでしょう)。
川柳になくて俳句にあるものといえば「句中の切れ」と「季語」ということになるので、その人は「切れ」と「季語」のない十七音を、物足りなく感じるのだろうと、勝手にそう思った(違うかもしれない)。
いや「切れ」的構造を持った川柳のあることは知っているので、「季語」や「切れ」を意識した複層的な読みを予定していない十七音、と言い換えよう。
逆から言えば、俳句は最初から「季語」「切れ」などのローカルルールの指示に従いつつ、複層化した十七音「として」読まれる、ということだ。今思いついたのだが、それは、3D眼鏡を掛けて3D映画を観ることに、とてもよく似ている。
はっきりと思い出せない猿の足 樋口由紀子
俳句的3D感を感じない、徒手空拳のたたずまいを持つ一行詩(穂村弘のいわゆる「棒立ち」か)。
たとえば、この「猿」を、むりやり冬の「季語」であると仮定する。すると、このはっきりとしない猿の足の踏んでいるのは雪で、背後には、風に飛ぶ雪がある。また、例えばこれが〈はっきりと思い出せない目白の足〉であることを想像すると、季語「目白」の足をわざわざ言ったということが前景化して、句中の話者は存在感を弱める。川柳としての元句が、キッチンかどこかに一人でいる、主人公を思わせるのと対照的で、だから、ここはぜひ目白ではなく猿でなければいけない。
つまり「季語」の指示する読みには、語のもつ情報による複層化(この場合は背景をプラス)と、一句の構造の複層化(季語と季語でない部分は、読者にとって見え方が違う)の、二方向があるということになる。
サフランを摘めば大きな物語 小池正博
歳時記的にはクロッカスは春、サフランは晩秋ですが、それはさておき、吉岡實の「サフラン摘み」の西洋古代的な海辺の光景を漂わせつつ、青い空の下、「サフランを摘めば」(すなわち)「大きな物語」(がそこにある)(を想う)(に包まれているようである)・・・と、この句には、ジャンル分けが、いらなそう。俳句的な切れを手法として取り込んで、複層的です。
生者死者数の合わないカレー皿 石部明
一読〈潜る鳰浮く鳰数は合ってますか 池田澄子〉を思わせる。俳句ルールを外して(川柳的に)読めば「数は合ってますか」と可愛く疑問形でおさめた「潜る鳰」は、切っ先が甘いようだが、「潜る鳰浮く鳰」のあとに、俳句読者は「切れ」を感じてしまうので、これは実景として、鳰が潜りまた浮く、ポチャッ……ポチャッ……という時間経過の中で生じた、どうでもいい疑問と読める。観念が、現実の時間に、ぽかりと浮かぶさまに、妙があるとでもいいますか(それにしても、池田は、川柳的に単層的な句で勝負することが多く、「鳰」の句も例外ではない)。
「カレー皿」は、「鳰」の句よりもシッポがつかみにくく、複雑かもしれない。「カレー」が夏(の季語)だとしたら「広島」ということかもしれず、そのほうが、川柳的な読みかもしれないが、ちょっと単純になる。
ややこしいのは、「数の合わない」が「生者死者」にかかるのか「カレー皿」にかかるのか、作者が決めてくれていないことで、語法的には「カレー皿」にかかるというのが順当だが、この句は「生者死者」の「数が合わない」と読んだほうが、面白いので困ってしまう。
前述の俳人の川柳に対する不満は、川柳がしばしば単層的であることと、語構成に厳密を欠くように見えることにあるのかもしれないと、思い至りました。(「カレー」の句のように、中七がどっちにでもつく形を俳人は「山本山」と言って嫌います)
厳密を欠くと言っても、それは川柳の読みが、俳句的にルール化されていないというだけのことかもしれず、だとしたら、それはほとんど言いがかりですね。取り消し取り消し。
というか、どうなんだろう。川柳の人から見たら、俳句的3D眼鏡というのは。
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2010年3月12日金曜日
●ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2 山口優夢
【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2
山口優夢
「ないないづくし」 樋口由紀子
縄梯子だらりと垂れて泣いている 樋口由紀子
並べられた七句のほとんどは、彼女を取り囲む現実ではなく、彼女がそれに対してどのような意識を向けているか、ということを忠実に写し取ることに努力がはらわれている。「思い出せない」「牛じゃない」「なかったことにする」「気づかぬままに」「違いない」「無関係」そして、それらが全て否定語を伴っていることは、注目に値する。
否定、とは、他の全ての可能性を取り置きにしておくこと、である。だから、彼女の句の世界はひどくあいまいになる。台所に立っているのは牛じゃないんなら、一体なんなんですか?しかし、彼女は「牛じゃない」ということを力を込めて句にする。
ありきたりな言葉で言えば、それらが志向するのはもちろん存在の不確定さ。不安定さ。どんなにはっきり認識しても最後まで残ってしまうあいまいさ。それは、棘のように体の内部に残る不安。
しかし、そんな「ないないづくし」の中で掲出句だけは、そのような否定の言葉が入っていない。「泣いている」に「ない」をひっかけているのだろうか。おそらくはそうではないであろう。この七句を通して、否、ひょっとしたら、彼女の認識のあいまいな世界全てを通して、全体を閲していったときに唯一最後まではっきりとした存在として残るものが、この泣いている縄梯子、なのではないだろうか。
そう考えると、この縄梯子の戦慄が思われてくる。
●
「起動力」 小池正博
満身に抹茶をまぶし武装する 小池正博
ナンセンスな取り合わせによって形成された句群、という印象を受ける。「梅」と「胎内」、「抹茶」と「武装」、「サフラン」と「大きな物語」など。
彼の句は、取り合わせ自体がナンセンス、というよりも、二つの関連のない要素が登場するとき、俳句と違って「切れ」という構造が用いられず、あたかも意味的なつながりがあるかのように書かれるために、そのつながり方をナンセンスと思うのだ。二つの要素が組み合わされることで詩が生まれるのではなく、どこまでもナンセンスな印象になるのは、組み合わされる二つの要素の間に何か新たな詩的関連性を構築する意図がおそらく存在しないからではないだろうか。
つまり、現実世界に還元されない、言葉の世界の中で閉じた取り合わせ、という印象があるのだ。その最も顕著な例として掲出句を挙げた。
●
「鹿肉を食べた」 広瀬ちえみ
鹿肉を食べた体を出ることば 広瀬ちえみ
何と言ってもこの句が彼女の中では一番面白いであろう。鹿肉がまるでことばに変化してしまったような印象、否、もっと言えば、自分の体というものが、鹿肉をことばに変換するための機械のように捉えられている。
彼女の句にある肉体感覚は、石部のものと比べて、全体として非常に有機的で、安心する。しかし、そうであっても、掲出句では感覚的な単純化が生の実感を希薄化している印象がある。そこに興味を覚える。
●
川柳と俳句の違い、彼らの句と我々の句の違い、それは、僕にははっきりとは分からない。なんとなく違うような気もするけれども、明文化できない、ひょっとしたら大して違わないのではないかと言う気もしないではない。
しかし、そのような差異よりももっと気にかかるのが、彼らの抱えている現実感の希薄さなのだった。これは、川柳だから、なのか。それとも、俳句は、季語がある分、現実を実感していると錯覚しているだけなのだろうか。
(了)
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ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2
山口優夢
「ないないづくし」 樋口由紀子
縄梯子だらりと垂れて泣いている 樋口由紀子
並べられた七句のほとんどは、彼女を取り囲む現実ではなく、彼女がそれに対してどのような意識を向けているか、ということを忠実に写し取ることに努力がはらわれている。「思い出せない」「牛じゃない」「なかったことにする」「気づかぬままに」「違いない」「無関係」そして、それらが全て否定語を伴っていることは、注目に値する。
否定、とは、他の全ての可能性を取り置きにしておくこと、である。だから、彼女の句の世界はひどくあいまいになる。台所に立っているのは牛じゃないんなら、一体なんなんですか?しかし、彼女は「牛じゃない」ということを力を込めて句にする。
ありきたりな言葉で言えば、それらが志向するのはもちろん存在の不確定さ。不安定さ。どんなにはっきり認識しても最後まで残ってしまうあいまいさ。それは、棘のように体の内部に残る不安。
しかし、そんな「ないないづくし」の中で掲出句だけは、そのような否定の言葉が入っていない。「泣いている」に「ない」をひっかけているのだろうか。おそらくはそうではないであろう。この七句を通して、否、ひょっとしたら、彼女の認識のあいまいな世界全てを通して、全体を閲していったときに唯一最後まではっきりとした存在として残るものが、この泣いている縄梯子、なのではないだろうか。
そう考えると、この縄梯子の戦慄が思われてくる。
●
「起動力」 小池正博
満身に抹茶をまぶし武装する 小池正博
ナンセンスな取り合わせによって形成された句群、という印象を受ける。「梅」と「胎内」、「抹茶」と「武装」、「サフラン」と「大きな物語」など。
彼の句は、取り合わせ自体がナンセンス、というよりも、二つの関連のない要素が登場するとき、俳句と違って「切れ」という構造が用いられず、あたかも意味的なつながりがあるかのように書かれるために、そのつながり方をナンセンスと思うのだ。二つの要素が組み合わされることで詩が生まれるのではなく、どこまでもナンセンスな印象になるのは、組み合わされる二つの要素の間に何か新たな詩的関連性を構築する意図がおそらく存在しないからではないだろうか。
つまり、現実世界に還元されない、言葉の世界の中で閉じた取り合わせ、という印象があるのだ。その最も顕著な例として掲出句を挙げた。
●
「鹿肉を食べた」 広瀬ちえみ
鹿肉を食べた体を出ることば 広瀬ちえみ
何と言ってもこの句が彼女の中では一番面白いであろう。鹿肉がまるでことばに変化してしまったような印象、否、もっと言えば、自分の体というものが、鹿肉をことばに変換するための機械のように捉えられている。
彼女の句にある肉体感覚は、石部のものと比べて、全体として非常に有機的で、安心する。しかし、そうであっても、掲出句では感覚的な単純化が生の実感を希薄化している印象がある。そこに興味を覚える。
●
川柳と俳句の違い、彼らの句と我々の句の違い、それは、僕にははっきりとは分からない。なんとなく違うような気もするけれども、明文化できない、ひょっとしたら大して違わないのではないかと言う気もしないではない。
しかし、そのような差異よりももっと気にかかるのが、彼らの抱えている現実感の希薄さなのだった。これは、川柳だから、なのか。それとも、俳句は、季語がある分、現実を実感していると錯覚しているだけなのだろうか。
(了)
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
2010年3月11日木曜日
●ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2 山口優夢
【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2
山口優夢
「格子戸の奥」 石部明
格子戸の奥男根をぶら下げる 石部明
彼の句における肉体は、常に他の部分と切り離されて存在している。「瘤」「胸」「男根」「孔雀の喉の」「青」。これら本体から切り離された肉体の一部は、「蝶番」「カレー皿」「ポリバケツ」などの断片的な物象と同様に生と死の間の中有のような空間をさまよわされている。
だから、彼の句では、肉体的なあるいは生理的な感覚というものは生まれず、全ての肉体は徹底的に無機物と同様に感じ取られている。掲出句で言えば、「男根がぶら下がる」「男根をぶら下げて」などのように、単に裸の男の男根がぶらーんとしているような景を想起させる表現と、「男根をぶら下げる」という表現とは確実に異なっている。後者の表現では、男根はもともとぶら下がっているものではあり得ず、男根をぶら下げる行為を行なった人物がいるのであり、その人物の手によって男根は完全にモノとして扱われている。
つまり、生や死という言葉を入れた句が多いのとはうらはらに、彼の句から立ち上がってくるのは生や死といったものではなくて、逆に生や死が無化された、のっぺらぼうみたいな世界なのだ。なぜ彼はそのような世界を詠むのか。僕に思いつく答えは、彼自身がそういう世界にいるから、ということしか、あり得ない。
●
「キャラ」 石田柊馬
一般的に言えばかわいいくそじじい 石田柊馬
彼の句中に出てくるキャラ「卵焼き的キャラ」「スイカのキャラ」「水菜的キャラ」「蕪的キャラ」どれも具体的に思い浮かべることが容易ではないものばかりだ。このような句群の嵐に出会ったとき、我々のほとんどが、それぞれのキャラはどんなものか想像することを放棄してしまうのではないか。
それぞれのキャラを具体的に想像することとは異なる方向に読みを伸ばすことができる。それは、作者によるキャラの扱い方に言及することだ。「キャラ創れ」「体温で分ける」「キャラの違い」「分化せよ」。キャラとは、もともと人に付随しているものではなく、意図して創られるものなのである。しかし、なんのために?「分ける」ため、「違い」を出すため、「分化」するため、だ。
僕たちは、「卵焼き的キャラ」や「水菜的キャラ」といったまるで意味不明なキャラを無理して創りださなければ、互いの見分けがつかないくらい均質化されている、そういうことだろうか?これらの句群に読みとれる、高度に演出された「イタイ」感じは、均質な我々を無理に差別化しようとしたひずみとも言えるものではないか。
どうせみんな、かわいいくそじじいに過ぎないのに。
●
「ゴテゴテ川柳」 渡辺隆夫
カミのお告げで自爆するヒト 渡辺隆夫
彼の句は、どれも社会に対する悪意のある洒落で成り立っている。
「ANA糞だらけ」とか「全国一律」とか「くたびれ万年」とかいうあたりのフレーズにその悪意が遺憾なく発揮されているが、特に掲出句の「カミ」「ヒト」のカタカナ表記はそれぞれぐっとくるものがある。というか、それぞれのカタカナ表記の意味合いは、僕には少し違っているように思える。
「カミ」は、もちろん「神」を表しているが、「神」と書かないことによって「神」の意味性を剥奪している。それに対して、人のことを「ヒト」とカタカナ表記しても、人の意味性は剥奪されない。なぜなら、我々はこの表記をある場所では見慣れているからだ。それは、生物種としての「ヒト」に言及する際にはカタカナ表記をする、という慣習だ。つまり、「ヒト」のカタカナ表記は、自爆するのは個人としての「人」ではなく、生物種としての「ヒト」であることを示しており、もっと大胆な読みが許されるのならば、その行きつく先にあるものは、自爆するのは特殊な個人ではなく、あなたでもありわたしでもあり他の誰でもあり得る、ということだ。翻ってカタカナ表記された「カミ」を見ると、実は「神」のことを一種の生物種として見ているとも言える。日本語表記を利用した、大変高度な技巧だ。
しかし、それは技巧である。彼は言葉の技巧を磨き、それを誰もが共有できるフィールドの中で皮肉として流通させる。サラリーマン川柳の類の川柳が超絶技巧を施されているような印象を受ける。彼自身の感覚や感情は、おそらくわざと、縮退させられている。それが、彼が社会に対峙する方法論なのだろうか?
(つづく)
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2
山口優夢
「格子戸の奥」 石部明
格子戸の奥男根をぶら下げる 石部明
彼の句における肉体は、常に他の部分と切り離されて存在している。「瘤」「胸」「男根」「孔雀の喉の」「青」。これら本体から切り離された肉体の一部は、「蝶番」「カレー皿」「ポリバケツ」などの断片的な物象と同様に生と死の間の中有のような空間をさまよわされている。
だから、彼の句では、肉体的なあるいは生理的な感覚というものは生まれず、全ての肉体は徹底的に無機物と同様に感じ取られている。掲出句で言えば、「男根がぶら下がる」「男根をぶら下げて」などのように、単に裸の男の男根がぶらーんとしているような景を想起させる表現と、「男根をぶら下げる」という表現とは確実に異なっている。後者の表現では、男根はもともとぶら下がっているものではあり得ず、男根をぶら下げる行為を行なった人物がいるのであり、その人物の手によって男根は完全にモノとして扱われている。
つまり、生や死という言葉を入れた句が多いのとはうらはらに、彼の句から立ち上がってくるのは生や死といったものではなくて、逆に生や死が無化された、のっぺらぼうみたいな世界なのだ。なぜ彼はそのような世界を詠むのか。僕に思いつく答えは、彼自身がそういう世界にいるから、ということしか、あり得ない。
●
「キャラ」 石田柊馬
一般的に言えばかわいいくそじじい 石田柊馬
彼の句中に出てくるキャラ「卵焼き的キャラ」「スイカのキャラ」「水菜的キャラ」「蕪的キャラ」どれも具体的に思い浮かべることが容易ではないものばかりだ。このような句群の嵐に出会ったとき、我々のほとんどが、それぞれのキャラはどんなものか想像することを放棄してしまうのではないか。
それぞれのキャラを具体的に想像することとは異なる方向に読みを伸ばすことができる。それは、作者によるキャラの扱い方に言及することだ。「キャラ創れ」「体温で分ける」「キャラの違い」「分化せよ」。キャラとは、もともと人に付随しているものではなく、意図して創られるものなのである。しかし、なんのために?「分ける」ため、「違い」を出すため、「分化」するため、だ。
僕たちは、「卵焼き的キャラ」や「水菜的キャラ」といったまるで意味不明なキャラを無理して創りださなければ、互いの見分けがつかないくらい均質化されている、そういうことだろうか?これらの句群に読みとれる、高度に演出された「イタイ」感じは、均質な我々を無理に差別化しようとしたひずみとも言えるものではないか。
どうせみんな、かわいいくそじじいに過ぎないのに。
●
「ゴテゴテ川柳」 渡辺隆夫
カミのお告げで自爆するヒト 渡辺隆夫
彼の句は、どれも社会に対する悪意のある洒落で成り立っている。
「ANA糞だらけ」とか「全国一律」とか「くたびれ万年」とかいうあたりのフレーズにその悪意が遺憾なく発揮されているが、特に掲出句の「カミ」「ヒト」のカタカナ表記はそれぞれぐっとくるものがある。というか、それぞれのカタカナ表記の意味合いは、僕には少し違っているように思える。
「カミ」は、もちろん「神」を表しているが、「神」と書かないことによって「神」の意味性を剥奪している。それに対して、人のことを「ヒト」とカタカナ表記しても、人の意味性は剥奪されない。なぜなら、我々はこの表記をある場所では見慣れているからだ。それは、生物種としての「ヒト」に言及する際にはカタカナ表記をする、という慣習だ。つまり、「ヒト」のカタカナ表記は、自爆するのは個人としての「人」ではなく、生物種としての「ヒト」であることを示しており、もっと大胆な読みが許されるのならば、その行きつく先にあるものは、自爆するのは特殊な個人ではなく、あなたでもありわたしでもあり他の誰でもあり得る、ということだ。翻ってカタカナ表記された「カミ」を見ると、実は「神」のことを一種の生物種として見ているとも言える。日本語表記を利用した、大変高度な技巧だ。
しかし、それは技巧である。彼は言葉の技巧を磨き、それを誰もが共有できるフィールドの中で皮肉として流通させる。サラリーマン川柳の類の川柳が超絶技巧を施されているような印象を受ける。彼自身の感覚や感情は、おそらくわざと、縮退させられている。それが、彼が社会に対峙する方法論なのだろうか?
(つづく)
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
2010年3月10日水曜日
●あっぱれな投げ技 三宅やよい
【週俳第150号を読む】
あっぱれな投げ技
三宅やよい
広瀬ちえみの場合「週刊俳句」の読者が俳人であることを十分意識して作品をくりだしているように思う。
俳 人は大仰なことばや身振りは初手から拒否しがちである。ちえみの句は俳句の場ということで、あいさつの意味も込めて季感を揃え、想定される読み手との無用 な軋轢をはずしているのだろう。
が、その内実はしたたかである。言葉の違和や力みを感じさせることなく自分の懐へ相手を巻き込んでしま う。組んだ相手の力をうまく利用して投げをくらわすように、或る時は言葉の思い込みを逆手にとる。
とは言ってもどの句もさっぱりと明るい ので、投げられたことにもしばらくは気づかない。すっかり忘れたと思っていた日常のある瞬間、甘酸っぱい感覚とともに思い出すそんな川柳なのだ。
新玉やボールが飛んできたら打つ
「新玉」は、あらたまの「年」「月」「日」にかかる枕言葉で「あらたまの年」は新年の意。それを十分ふ まえながら、新玉という表記を選んだのは続くボールを引き出すためだろうが、言葉やイメージが「飛んできたら」すかさず「打つ」とも考えられる。言葉を ジャストミートする前に季語にこだわってしまう俳人の窮屈さをかっとばしているようだ。
鹿肉を食べた体を出ることば
鹿 は山間部などでは貴重な農作物を食い荒らす害獣でもある。年に何頭かは狩猟が許され、皮を剥がれた鹿肉が配られる。この肉を「人肉」と置き換えれば意味性 が重くなるし、「牛肉」であればただごとに近づきすぎる。それに比べて幾時か前まで野山を駆け回っていた鹿肉は日常との違和を醸し出す発酵度数が高い。銃 で仕留められた赤い肉を食べた身体から吐き出す言葉は生臭くなりそうだ。
うしろ頭のうつろの中にお賽銭
ちゃりーんと 貯金箱のうしろの細い穴から硬貨を入れた音が聞こえそう。後頭部は自分で見ることは出来ないし、前のめりになった身体の後ろ頭は欠落していてぽっかり空白 かも。うしろから投げられるお賽銭の音が頭の中をちゃりーん、ちゃりーんとこだまして怖い。
三が日過ぎて煙を出している
俳 人なら三が日を過ぎてああ、正月気分もうすれ日常がもどってきたのね。と一直線な解釈になだれ込みそうだけど、この煙は厨房の煙から人を焼く煙まで非常な 幅がありそうだ。インディアンの狼煙みたいに三が日過ぎた、襲撃開始だなんて煙をあげて合図しているのかもしれない。
満月の顔をさ さっと整える
「満月の」で一回切れてささっと顔を整えるのか、満月そのものの顔を整えるのか、いずれにしても「ささっと」呼吸を整えて次 へ流してゆく句のようにも思えるが、どうなのだろう。
雪山をところかまわずくすぐりぬ
白い雪山の下には俳人が想像す る「山笑う」「山眠る」の連想が仕込まれているのだろう。分厚い白い雪に覆われている無表情な山をところかまわずくすぐって笑わすのだ。そうしたら次々呑 みこんだ登山人を吐き出すかもしれない。うっかり笑ったあと、急いでもとの無表情に戻る様子を想像するとつんと取り澄ました雪山も近しくなる。
ポケットに見知らぬ人の手がありぬ
ポケットに恋人の手があるのなら、あったかく嬉しいけど見知らぬ手がポケットの中にあったら痴漢かス リか。冷たくなった自分の手がモノのようにポケットにあるのも怖い。それでもそんな状況をさらっと言ってのけるこの作者ならどんな手でも握り返しそう。こ うやってちえみの川柳はにっこりと見知らぬ人のふところにしのびこんでいくのだ。
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
あっぱれな投げ技
三宅やよい
広瀬ちえみの場合「週刊俳句」の読者が俳人であることを十分意識して作品をくりだしているように思う。
俳 人は大仰なことばや身振りは初手から拒否しがちである。ちえみの句は俳句の場ということで、あいさつの意味も込めて季感を揃え、想定される読み手との無用 な軋轢をはずしているのだろう。
が、その内実はしたたかである。言葉の違和や力みを感じさせることなく自分の懐へ相手を巻き込んでしま う。組んだ相手の力をうまく利用して投げをくらわすように、或る時は言葉の思い込みを逆手にとる。
とは言ってもどの句もさっぱりと明るい ので、投げられたことにもしばらくは気づかない。すっかり忘れたと思っていた日常のある瞬間、甘酸っぱい感覚とともに思い出すそんな川柳なのだ。
新玉やボールが飛んできたら打つ
「新玉」は、あらたまの「年」「月」「日」にかかる枕言葉で「あらたまの年」は新年の意。それを十分ふ まえながら、新玉という表記を選んだのは続くボールを引き出すためだろうが、言葉やイメージが「飛んできたら」すかさず「打つ」とも考えられる。言葉を ジャストミートする前に季語にこだわってしまう俳人の窮屈さをかっとばしているようだ。
鹿肉を食べた体を出ることば
鹿 は山間部などでは貴重な農作物を食い荒らす害獣でもある。年に何頭かは狩猟が許され、皮を剥がれた鹿肉が配られる。この肉を「人肉」と置き換えれば意味性 が重くなるし、「牛肉」であればただごとに近づきすぎる。それに比べて幾時か前まで野山を駆け回っていた鹿肉は日常との違和を醸し出す発酵度数が高い。銃 で仕留められた赤い肉を食べた身体から吐き出す言葉は生臭くなりそうだ。
うしろ頭のうつろの中にお賽銭
ちゃりーんと 貯金箱のうしろの細い穴から硬貨を入れた音が聞こえそう。後頭部は自分で見ることは出来ないし、前のめりになった身体の後ろ頭は欠落していてぽっかり空白 かも。うしろから投げられるお賽銭の音が頭の中をちゃりーん、ちゃりーんとこだまして怖い。
三が日過ぎて煙を出している
俳 人なら三が日を過ぎてああ、正月気分もうすれ日常がもどってきたのね。と一直線な解釈になだれ込みそうだけど、この煙は厨房の煙から人を焼く煙まで非常な 幅がありそうだ。インディアンの狼煙みたいに三が日過ぎた、襲撃開始だなんて煙をあげて合図しているのかもしれない。
満月の顔をさ さっと整える
「満月の」で一回切れてささっと顔を整えるのか、満月そのものの顔を整えるのか、いずれにしても「ささっと」呼吸を整えて次 へ流してゆく句のようにも思えるが、どうなのだろう。
雪山をところかまわずくすぐりぬ
白い雪山の下には俳人が想像す る「山笑う」「山眠る」の連想が仕込まれているのだろう。分厚い白い雪に覆われている無表情な山をところかまわずくすぐって笑わすのだ。そうしたら次々呑 みこんだ登山人を吐き出すかもしれない。うっかり笑ったあと、急いでもとの無表情に戻る様子を想像するとつんと取り澄ました雪山も近しくなる。
ポケットに見知らぬ人の手がありぬ
ポケットに恋人の手があるのなら、あったかく嬉しいけど見知らぬ手がポケットの中にあったら痴漢かス リか。冷たくなった自分の手がモノのようにポケットにあるのも怖い。それでもそんな状況をさらっと言ってのけるこの作者ならどんな手でも握り返しそう。こ うやってちえみの川柳はにっこりと見知らぬ人のふところにしのびこんでいくのだ。
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2010年3月8日月曜日
●俳句キャラ 佐藤文香
【週俳第150号を読む】
俳句キャラ
佐藤文香
体温で分ける猫キャラうさぎキャラ 石田柊馬
猫キャラとうさぎキャラは同一人物が演じわけられそう。「体温で分ける」というのがその道のプロっぽくて好き。
あるキャラを演じなきゃってときに、「カワイイ系全部担当可能」とか、いっそ「オレはライオンだ」ならわかりやすいけど、似ていてもどうしてもできない役っていうのがある。
「キモカワ(気持ち悪い×かわいい)」と「エロカワ(エロい×かわいい)」、「カッコカワ(カッコいい×かわいい)」はできても、単なる「カワイイ」は無理、とか。本人は結構こだわりを持って、演じ分けたり、演じない表明をしたりする。まわりから見てどうであるかは別として。
一般的に言えばかわいいくそじじい 石田柊馬
「なぜ川柳ではなく俳句か」と問われたとき、自分に関してだけ簡潔に答えるなら「私、キャラ的に俳句だからです」というのが、必要十分である気がする。俳句は自分っぽいと思う。
何かを見ていいと思ったそれがすでに、「俳句な自分」の判断で、俳句以外の何かをやっているのも「俳句な自分」。しかもその「俳句な」の部分は、「自分の思う<俳句>な」だから、何が自分で何が俳句かもうわからない。この句の「くそじじい」が可愛くて好きなんだけど、こうは「くそじじい」を使えない、それって「俳句な自分」だと思う、ぼんやり。
で、でも、その自分が思ってた「(川柳でなくて)俳句な」ってのが、「川柳に関する20のアフォリズム(樋口由紀子)」を読んで、クリアになった。やっぱ私、かなり俳句だ。季語の捉え方だけは、俳句っぽくないかもしれないけれど。あれ、この「(みんなにとっての)俳句っぽい」って、どんなんだっけ。くそー、私、評論は無理なんだよなぁ、キャラ的に……(ってことに)。
≫週刊俳 句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
俳句キャラ
佐藤文香
体温で分ける猫キャラうさぎキャラ 石田柊馬
猫キャラとうさぎキャラは同一人物が演じわけられそう。「体温で分ける」というのがその道のプロっぽくて好き。
あるキャラを演じなきゃってときに、「カワイイ系全部担当可能」とか、いっそ「オレはライオンだ」ならわかりやすいけど、似ていてもどうしてもできない役っていうのがある。
「キモカワ(気持ち悪い×かわいい)」と「エロカワ(エロい×かわいい)」、「カッコカワ(カッコいい×かわいい)」はできても、単なる「カワイイ」は無理、とか。本人は結構こだわりを持って、演じ分けたり、演じない表明をしたりする。まわりから見てどうであるかは別として。
一般的に言えばかわいいくそじじい 石田柊馬
「なぜ川柳ではなく俳句か」と問われたとき、自分に関してだけ簡潔に答えるなら「私、キャラ的に俳句だからです」というのが、必要十分である気がする。俳句は自分っぽいと思う。
何かを見ていいと思ったそれがすでに、「俳句な自分」の判断で、俳句以外の何かをやっているのも「俳句な自分」。しかもその「俳句な」の部分は、「自分の思う<俳句>な」だから、何が自分で何が俳句かもうわからない。この句の「くそじじい」が可愛くて好きなんだけど、こうは「くそじじい」を使えない、それって「俳句な自分」だと思う、ぼんやり。
で、でも、その自分が思ってた「(川柳でなくて)俳句な」ってのが、「川柳に関する20のアフォリズム(樋口由紀子)」を読んで、クリアになった。やっぱ私、かなり俳句だ。季語の捉え方だけは、俳句っぽくないかもしれないけれど。あれ、この「(みんなにとっての)俳句っぽい」って、どんなんだっけ。くそー、私、評論は無理なんだよなぁ、キャラ的に……(ってことに)。
≫週刊俳 句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
2010年3月7日日曜日
●俳句に関する20のエッセイ さいばら天気
俳句に関する20のエッセイ
樋口由紀子「川柳に関する20のアフォリズム」へのオード
さいばら天気
1 俳句はことばで作る文芸かもしれない。(すべての前提として)私的には。
2 言葉をできるだけ遠くにいきおいよくとばして、意味を希薄化・無化したとき、天国的な俳句が生まれる。
3 他のなにものも書き得ない、例えば、生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが、俳句へとかかたちを結ぶこと。それは俳句の野望である。
4 俳人の多くは、意味されたもの(シニフィエ)のおもしろさには敏感に反応するけれど、言葉そのもの(シニフィアン)のおもしろさには無関心で、それをおもしろがることに(ある種倫理的な抑制から来る)ためらいがある。
5 俳句はしばしば、書き手と読み手の関係をうまく取り扱えない。書き手が単一のイメージを動員した句が、読み手に多様なイメージを喚起する、あるいは逆に、書き手が多様なイメージを動員した句が、読み手に向かって単層のイメージを明示するといった〝すれ違い〟は、放置されたままだ(その良し悪しはともかくとして)。俳句において批評の貧しさがあるとしたら、その一因は、書き手と読み手が、しばしば直面する意志疎通の事故に対して臆病なこと。結果として〝すれ違い〟の起こりそうにない句(意味伝達性の高い句・共感性の高い句)とその「鑑賞」とが、互酬的に、つまり贈答のように流通し、批評とは遠い儀礼的な空間が広がる。
6 俳句的に読むとは、なにごとをも自分との関係の「外部」に置き換えること。モノやコトが在ることを、そのままに吸い込むこと。言い換えれば、自分が存在する以前にモノやコトが在るのと同様に、自分や人間が消滅して以降もなお価値の損なわれない言葉(俳句)があることに、〔自分〕を超えた希望を見出すことが、俳句を読むこと。付記すれば、偶々「人」「自分」がモノやコトであっても、いっこうにさしつかえない。
7 俳人の多く(あるいは一部)は、それ以前の俳人が築き上げた財産だけで食べていける気がしている。俳人の多く(あるいは一部)は、その逆である。翻って、俳人個人という狭隘な器(貧しい辞書、低性能の言語生成器械)にも、それ以前に築き上げた財産がある。多くの(あるいは一部の)書き手は、それだけ食べていける気がしている。あるいは、その逆。
8 風船にたとえるならば、ある俳句は、中身の空気ばかりを伝えようとする。別の俳句は、つややかなゴムの表面ばかりを伝えようとする。さて、どちらを採るか。
9 俳句は、言葉から意味のネジを一本抜く文芸である。inspired by ogawa keishu≫参照:
10 季語に関する樋口由紀子の把握=「俳人の季語の使い方はメンタル」を卑近に展開すれば、「星月夜」といった見たこともないほど美しい季語に、多大な負荷をかける例がいかに多いことか。言い換えれば、季語にメタフィジカルな作用、ポリフォニックな効果を期待することのいかに多いことか。
11 俳句において「私性」は厄介な問題である。
12 女性俳句人口の増大が俳句の抒情性を開拓していく一方、「私性」をいかに書くかが技術課題となった。男性をも巻き込んだ俳句の大衆化は、「私性」というより「私事」を優先させる傾向におちいり、過度な感傷を生み、「私はこう思った」「私はこういう体験をした」などの現実を報告する句が主流を占め、自分の個人的事情を書くことが「個性」であり自己表現であるといったふるまいを生み出した。
※樋口由紀子のオリジナルにある「川柳」を「俳句」に置換ののち改変。この項とりわけ。
13 何人かの自分を見つけることは楽しいことである。しかし、彼等が残らず自分の理解者・反発者なら、それは「自分」を確固たるものと信じるための使用人に過ぎない。自己という錯覚、自己という物語を、覚醒的に眺め、読むために、何人もの自分が必要なのだ。
14 吊りかごの中から春の足を出す 佐藤みさ子『呼びにゆく』
吊ったのは誰か。足を出しのは誰か。句の行為者のデフォルトについて「それは作者」という慣用に従うなら、この句には齟齬が生まれる(私が吊った籠から私が足を出す)。私はもっぱらもうひとつのデフォルト解釈を用いる。「それは誰でもない」。
15 肉体は片付けられた紅葉狩り 樋口由紀子
肉をもつ獲物から、肉を持たない(しかし血の色をした)紅葉への変換が、句のごく一部(2文字)で起きた。「狩り」という隠喩を端緒とする一点突破。
16 近年になっても「思い」という俳句にとって厄介な成分を盛り込んだ作品が多く生み出される。あなた(書き手)の「思い」に、わたし(読者)は、まったく関心がないのに。
17 言葉を扱う俳人や川柳人が「消費社会」を否定的に扱うのは、とても不思議だ。記号として消費されることは文芸の(消費社会出現の遙か以前からの)宿命であり、「そう読まれてしまうこと」をいかにくぐり抜けるかは、作り手の専任事項。一方、それより歴史の古い大量消費社会という20世紀的枠組においても、俳人や川柳人は、印刷=複写という、きわめて大量消費社会的手段によってしか「作家」たり得ようとしない、この点をどう説明するのだろうか。
18 俳句の一句全体が、比喩としてでなく、つまり言葉そのものとして新たなイコンであるような俳句。
19 俳句の諧謔という問題。バナナの皮で滑って転んでも笑えないが、バナナとの邂逅を、おなじみの笑いの「伝統」を梃子にして、ニッチな諧謔を生み出すことはできる。
20 それはこういうことだ。〔凡庸さ〕と〔それを逃れること=非凡〕とが、遠く離れて対照を成すのではなく、このふたつが紙一重の場所にあること、私たちを貧しくするものと豊かにするものとが相互に干渉し合う近距離にあることを、よく知ること。これこそが「俳句をする」ことなのだ。
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
樋口由紀子「川柳に関する20のアフォリズム」へのオード
さいばら天気
1 俳句はことばで作る文芸かもしれない。(すべての前提として)私的には。
2 言葉をできるだけ遠くにいきおいよくとばして、意味を希薄化・無化したとき、天国的な俳句が生まれる。
3 他のなにものも書き得ない、例えば、生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが、俳句へとかかたちを結ぶこと。それは俳句の野望である。
4 俳人の多くは、意味されたもの(シニフィエ)のおもしろさには敏感に反応するけれど、言葉そのもの(シニフィアン)のおもしろさには無関心で、それをおもしろがることに(ある種倫理的な抑制から来る)ためらいがある。
5 俳句はしばしば、書き手と読み手の関係をうまく取り扱えない。書き手が単一のイメージを動員した句が、読み手に多様なイメージを喚起する、あるいは逆に、書き手が多様なイメージを動員した句が、読み手に向かって単層のイメージを明示するといった〝すれ違い〟は、放置されたままだ(その良し悪しはともかくとして)。俳句において批評の貧しさがあるとしたら、その一因は、書き手と読み手が、しばしば直面する意志疎通の事故に対して臆病なこと。結果として〝すれ違い〟の起こりそうにない句(意味伝達性の高い句・共感性の高い句)とその「鑑賞」とが、互酬的に、つまり贈答のように流通し、批評とは遠い儀礼的な空間が広がる。
6 俳句的に読むとは、なにごとをも自分との関係の「外部」に置き換えること。モノやコトが在ることを、そのままに吸い込むこと。言い換えれば、自分が存在する以前にモノやコトが在るのと同様に、自分や人間が消滅して以降もなお価値の損なわれない言葉(俳句)があることに、〔自分〕を超えた希望を見出すことが、俳句を読むこと。付記すれば、偶々「人」「自分」がモノやコトであっても、いっこうにさしつかえない。
7 俳人の多く(あるいは一部)は、それ以前の俳人が築き上げた財産だけで食べていける気がしている。俳人の多く(あるいは一部)は、その逆である。翻って、俳人個人という狭隘な器(貧しい辞書、低性能の言語生成器械)にも、それ以前に築き上げた財産がある。多くの(あるいは一部の)書き手は、それだけ食べていける気がしている。あるいは、その逆。
8 風船にたとえるならば、ある俳句は、中身の空気ばかりを伝えようとする。別の俳句は、つややかなゴムの表面ばかりを伝えようとする。さて、どちらを採るか。
9 俳句は、言葉から意味のネジを一本抜く文芸である。inspired by ogawa keishu≫参照:
10 季語に関する樋口由紀子の把握=「俳人の季語の使い方はメンタル」を卑近に展開すれば、「星月夜」といった見たこともないほど美しい季語に、多大な負荷をかける例がいかに多いことか。言い換えれば、季語にメタフィジカルな作用、ポリフォニックな効果を期待することのいかに多いことか。
11 俳句において「私性」は厄介な問題である。
12 女性俳句人口の増大が俳句の抒情性を開拓していく一方、「私性」をいかに書くかが技術課題となった。男性をも巻き込んだ俳句の大衆化は、「私性」というより「私事」を優先させる傾向におちいり、過度な感傷を生み、「私はこう思った」「私はこういう体験をした」などの現実を報告する句が主流を占め、自分の個人的事情を書くことが「個性」であり自己表現であるといったふるまいを生み出した。
※樋口由紀子のオリジナルにある「川柳」を「俳句」に置換ののち改変。この項とりわけ。
13 何人かの自分を見つけることは楽しいことである。しかし、彼等が残らず自分の理解者・反発者なら、それは「自分」を確固たるものと信じるための使用人に過ぎない。自己という錯覚、自己という物語を、覚醒的に眺め、読むために、何人もの自分が必要なのだ。
14 吊りかごの中から春の足を出す 佐藤みさ子『呼びにゆく』
吊ったのは誰か。足を出しのは誰か。句の行為者のデフォルトについて「それは作者」という慣用に従うなら、この句には齟齬が生まれる(私が吊った籠から私が足を出す)。私はもっぱらもうひとつのデフォルト解釈を用いる。「それは誰でもない」。
15 肉体は片付けられた紅葉狩り 樋口由紀子
肉をもつ獲物から、肉を持たない(しかし血の色をした)紅葉への変換が、句のごく一部(2文字)で起きた。「狩り」という隠喩を端緒とする一点突破。
16 近年になっても「思い」という俳句にとって厄介な成分を盛り込んだ作品が多く生み出される。あなた(書き手)の「思い」に、わたし(読者)は、まったく関心がないのに。
17 言葉を扱う俳人や川柳人が「消費社会」を否定的に扱うのは、とても不思議だ。記号として消費されることは文芸の(消費社会出現の遙か以前からの)宿命であり、「そう読まれてしまうこと」をいかにくぐり抜けるかは、作り手の専任事項。一方、それより歴史の古い大量消費社会という20世紀的枠組においても、俳人や川柳人は、印刷=複写という、きわめて大量消費社会的手段によってしか「作家」たり得ようとしない、この点をどう説明するのだろうか。
18 俳句の一句全体が、比喩としてでなく、つまり言葉そのものとして新たなイコンであるような俳句。
19 俳句の諧謔という問題。バナナの皮で滑って転んでも笑えないが、バナナとの邂逅を、おなじみの笑いの「伝統」を梃子にして、ニッチな諧謔を生み出すことはできる。
20 それはこういうことだ。〔凡庸さ〕と〔それを逃れること=非凡〕とが、遠く離れて対照を成すのではなく、このふたつが紙一重の場所にあること、私たちを貧しくするものと豊かにするものとが相互に干渉し合う近距離にあることを、よく知ること。これこそが「俳句をする」ことなのだ。
≫週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース
2010年3月6日土曜日
●ホトトギス雑詠選抄〔9〕啓蟄
ホトトギス雑詠選抄〔9〕
春の部(三月)啓蟄
猫髭 (文・写真)
啓蟄の河鹿に水を湛へけり 宮部寸七翁 大正13年
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけり 吉岡禅寺洞 昭和5年
風吹いてあゆみとゞむる地虫かな 俳維摩 昭和4年
「啓蟄」。今年は今日3月6日(土)から「春分」の前の日の3月20日(土)までが、二十四気の「啓蟄」の「気」(15日間)にあたる。「陽気地中にうごき、ちゞまる虫あなをひらき出ればなり」(『暦便覧』)。今やお天気お姉さんと俳人くらいにしか馴染みのない言葉だが、西村睦子の『「正月」のない歳時記』に拠れば、二十四気の「啓蟄」を季題として詠み出し、定着させたのも虚子だという。
この「三月啓蟄の候」の「候」というのは、「気」(15日間)を三つの「候」(5日間)、「初候」「次候」「末候」に分け、その「候」ごとの解説をつけるもので、これは中国(宣明暦)と日本(宝暦暦・寛政暦)とではお国柄で少し違う。例えば「末候」は、中国では「鷹化して鳩と為る」だが、日本では「菜虫蝶と為る」というように。
お天気博士、倉嶋厚の『季節の366日話題事典』(東京堂)から、この二十四気七十二候をおさらいすると、陰暦だと月の満ち欠けで月明りや潮の干潮を知る目安にもなったが、月の満ち欠けの周期を一ヶ月(朔望月)とすると、一朔望月は29日半なので一太陽年に比べて11日短く、そのまま時を刻むと、8年後には正月が秋になるので、陰暦では19年に7回、閏月を置いて一年を13ヶ月とし、季節とのずれを調整していた。つまり、陰暦は日付で季節を判断することが出来ない暦である。
対して陽暦は地球が太陽を一回公転する期間を一年としており、地球が自転軸を公転面に直立せずに約23度30分傾けて公転しているため、太陽の地球に対する照らし方が一年を通じて規則正しく変化することから季節が生じる。つまり、陽暦は季節の変化を判断するのに合理的で便利な暦ということになる。
そこで、陰暦の上に二十四の陽暦の「気」を刻んで季節を判断できるようにした「太陰太陽暦」が、いわゆる旧暦である。「候」はさらに「気」を三等分して細分化したもので、「気候」という言葉は二十四気の「気」と七十二候の「候」を足した呼び方というわけである。
なお、「二十四節気」と呼ぶようになったのは、明治以降で、中国や日本の古い文献は「二十四気」であり、その方が言いやすいので、本稿でも「二十四気」を用いる。
虚子の二十四気の季題の選び方は、西村睦子も書いているが、虚子が詠んだから「ホトトギス」の投句者も従ったので、虚子が興趣を感じること薄い二十四気は、例えば春では、「雨水」「春分」「清明」「穀雨」は『新歳時記』から落とされて、「立春」と「啓蟄」だけが載っている。勿論、「ホトトギス雑詠全集」では詠まれているのだが、「季題」として歳時記に立てるだけの興趣を虚子は感じなかったということだろう。
上田信治「週俳」編集子の書評のタイトル『ひとりのおっさんが好きに決めた部分』(註1)には思わず笑ったが、逆に、この虚子の揺るぎない独断こそが「ホトトギス雑詠選集」の「選」の営為を支え、『新歳時記』の「新」を生み出し、山本健吉編の『季寄せ』に代表されるような、二十四気七十二候や忌日表を付録とし、「ホトトギス」以外の作品も例句に採る後世の歳時記を生んだ膂力と言える。
随分孤独な独断だったことだろう。
●
宮部寸七翁(みやべ・すなおう)(註2)の掲出句の「河鹿」は雄の美声を楽しむ夏の季題だが、ここは「啓蟄の河鹿」なので、冬眠からさめた河鹿である。既に我が家の裏手の巡礼古道にある池は1月の末から禍々しいほどの蝌蚪の紐で埋め尽くされ、今朝覗きに行って見るとぴちぴちと泡を吐く音が立ち上るほどびっしりとお玉じゃくしが蠢いていたが、こんなに早く卵を生むのは河鹿ではなく蟇蛙である。河鹿は渓流の石の下に卵を生むが、掲出句は春の光に満々と水を煌かせる渓流を思わせる。河鹿は声を楽しむために飼育もされるが、飼われると冬眠をしないから「啓蟄の河鹿」とは言えまい。
吉岡禅寺洞(よしおか・ぜんじどう)(註3)の句は、地虫が穴から押し出した土を掃いているかの如く春の陽気が躍動するような一句であり、「啓蟄」の句の中でも惚れ惚れする秀句だが、『新歳時記』では、座五が、
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけれ 禅寺洞
と已然形になっている。『ホトトギス百年史』(花神社、平成8年刊)によれば、禅寺洞が新興俳句運動に傾いて日野草城とともに「ホトトギス同人」から削除されるのは昭和11年10月号からだから、歳時記に掲載された昭和9年にはまだ没交渉ではなかったはずで、禅寺洞の推敲とも取れるが、どう考えても「けり」と終止形で言い切った方がいい句であり、この句を掲載する他の歳時記もすべて座後は「けり」である。これは誤記だろう。虚子は選する場合、添削することが少なからずあると聞いているが、已然形は係り結びで「こそ」の結びとなり、「ば」「ど」「ども」などの助詞を伴って、順接・逆接の確定条件を表すから、
啓蟄のつちくれ(こそ)躍り掃かれけれ(ども・ば・ど)
といった切れを曖昧にする添削を虚子がするとは思えない。
俳維摩(はいゆいま)は大阪の俳人とのみで委細不明。後日調べたい。
「地虫」とは甲虫目コガネムシ科の食菜類の幼虫の俗称だが、ここでは地中にすむ虫の総称。小さな虫の触角までが風に揺れてとまどう様まで見える目線の低い佳句である。
掲出の三句は、「ホトトギス雑詠選集」三月中の「啓蟄」から波多野爽波が抜粋して弟子たちに読んで書き取りをさせ暗誦させた句でもある。山本健吉編の歳時記や大歳時記には載っているが、『角川俳句大歳時記』には載っておらず、『ホトトギス雑詠選集』からは、
己が影を慕うて這へる地虫かな 村上鬼城 大正3年
蟻出るやごうごうと鳴る穴の中 村上鬼城 大正11年(註4)
啓蟄の土洞然と開きけり 阿波野青畝 昭和7年
地虫出て金輪際を忘れけり 阿波野青畝 昭和7年
啓蟄を啣へて雀飛びにけり 川端茅舎 昭和8年(註5)
が引かれている。皆インパクトのある句だが、虚子は歳時記に載せるには雑詠選とは異なる基準を立てており、例えば茅舎の句などは、啓蟄は「時候」だから、雀が嘴で銜えるものではないだろうという「常識」を利かせて落としている。青畝の「洞然と」「金輪際」も然り。大仰過ぎるというところだろう。
鬼城は別格で、
●
最後に七十二候で思い出したエピソードがあるので付け加えておきたい。
昨年の三月、波多野爽波の結社「青」で爽波から薫陶を受けた俳人たちと淡路島吟行の機会があった。わたくしはいつも吟行というと、弁慶が七つ道具を背負うように、明解国語辞典や歳時記(最低三種類)や文法書や図鑑やデジカメやパソコンやらを、引越しのように詰め込んで出かけるのだが、彼らはほとんど手ぶらに近く、歳時記すら開いているのを見たことが無いので不思議だった。たまたま観潮の船着場までタクシーで同席したとき、薄い手帖を見ているので、何ですかそれと聞くと、手書きで一週間毎の季題が書かれた私家版歳時記だった。
初候 素蝶(はくちょう)花を尋ねる
次候 木筆(こぶし)空を尽(きわ)む
末候 李花雪の如し
とあるという。どれ、犬のふぐりや、啓蟄の穴や、鷹が鳩に化けたり、龍が天に昇るのを見に行くか。
註1:http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/02/blog-post_8680.html
註2:宮部寸七翁。明治20年~大正15年。本名は寸七郎。熊本県出身。虚子の「ホトトギス」と吉岡禅寺洞の「天の川」に拠り、歿後吉岡禅寺洞編『寸七郎句集』(昭和4年)が出された。
註3:吉岡禅寺洞。大正7年~昭和36年。福岡県出身。本名は善次郎。福岡で「天の川」を創刊、のち主宰。富安風生、芝不器男等をそだてる。昭和4年「ホトトギス」同人となるが、新興俳句運動にはいり、日野草城とともに昭和11年10月号で除名された(同号で杉田久女も除名になり、禅寺洞と草城は新興俳句で反旗を翻したというので予想されたことだが、久女は師恋の弟子であるため、こちらの方が話題になった)。戦後、口語俳句協会会長。句集に『銀漢』『新墾(にいはり)』。(講談社デジタル版日本人名大辞典+Plusに加筆)
註4:「ごうごう」の表記は、くの字点(濁点)を使った踊り字だが、横書なので表記を平仮名とした。
註5:筑紫磐井選は「銜へて」を「啣へて」に直して挙げている。これは「銜」の字源が馬の口を取る「轡(くつばみ)」の意なので、口で啣えるという意による表記への校正と思われる。
春の部(三月)啓蟄
猫髭 (文・写真)
啓蟄の河鹿に水を湛へけり 宮部寸七翁 大正13年
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけり 吉岡禅寺洞 昭和5年
風吹いてあゆみとゞむる地虫かな 俳維摩 昭和4年
「啓蟄」。今年は今日3月6日(土)から「春分」の前の日の3月20日(土)までが、二十四気の「啓蟄」の「気」(15日間)にあたる。「陽気地中にうごき、ちゞまる虫あなをひらき出ればなり」(『暦便覧』)。今やお天気お姉さんと俳人くらいにしか馴染みのない言葉だが、西村睦子の『「正月」のない歳時記』に拠れば、二十四気の「啓蟄」を季題として詠み出し、定着させたのも虚子だという。
土中に蟄伏して冬眠してゐた蟻や地蟲の類が春暖の候になつて、その穴を出づるのをいひ、又啓蟄といつて直に穴を出る蟲をいふこともある。暦でも二十四気に啓蟄といふのがあつて、丁度三月五日頃、蟲類の穴の出る頃にあたる。地蟲穴を出づ。地蟲出づ。蟻穴を出づ。地蟲。また、関連して「初雷」の季題には「立春後初めて鳴る雷の事で、三月啓蟄の候よく鳴るところから、地方によつては之を蟲出(むしだし)などともいつて居る」とある。冬眠している虫や動物たちに春の目覚めを告げる目覚し時計が「初雷」というわけだ。確かに去年は東京駅の地下街から出た途端「初雷」に見舞われた。
この「三月啓蟄の候」の「候」というのは、「気」(15日間)を三つの「候」(5日間)、「初候」「次候」「末候」に分け、その「候」ごとの解説をつけるもので、これは中国(宣明暦)と日本(宝暦暦・寛政暦)とではお国柄で少し違う。例えば「末候」は、中国では「鷹化して鳩と為る」だが、日本では「菜虫蝶と為る」というように。
お天気博士、倉嶋厚の『季節の366日話題事典』(東京堂)から、この二十四気七十二候をおさらいすると、陰暦だと月の満ち欠けで月明りや潮の干潮を知る目安にもなったが、月の満ち欠けの周期を一ヶ月(朔望月)とすると、一朔望月は29日半なので一太陽年に比べて11日短く、そのまま時を刻むと、8年後には正月が秋になるので、陰暦では19年に7回、閏月を置いて一年を13ヶ月とし、季節とのずれを調整していた。つまり、陰暦は日付で季節を判断することが出来ない暦である。
対して陽暦は地球が太陽を一回公転する期間を一年としており、地球が自転軸を公転面に直立せずに約23度30分傾けて公転しているため、太陽の地球に対する照らし方が一年を通じて規則正しく変化することから季節が生じる。つまり、陽暦は季節の変化を判断するのに合理的で便利な暦ということになる。
そこで、陰暦の上に二十四の陽暦の「気」を刻んで季節を判断できるようにした「太陰太陽暦」が、いわゆる旧暦である。「候」はさらに「気」を三等分して細分化したもので、「気候」という言葉は二十四気の「気」と七十二候の「候」を足した呼び方というわけである。
なお、「二十四節気」と呼ぶようになったのは、明治以降で、中国や日本の古い文献は「二十四気」であり、その方が言いやすいので、本稿でも「二十四気」を用いる。
虚子の二十四気の季題の選び方は、西村睦子も書いているが、虚子が詠んだから「ホトトギス」の投句者も従ったので、虚子が興趣を感じること薄い二十四気は、例えば春では、「雨水」「春分」「清明」「穀雨」は『新歳時記』から落とされて、「立春」と「啓蟄」だけが載っている。勿論、「ホトトギス雑詠全集」では詠まれているのだが、「季題」として歳時記に立てるだけの興趣を虚子は感じなかったということだろう。
上田信治「週俳」編集子の書評のタイトル『ひとりのおっさんが好きに決めた部分』(註1)には思わず笑ったが、逆に、この虚子の揺るぎない独断こそが「ホトトギス雑詠選集」の「選」の営為を支え、『新歳時記』の「新」を生み出し、山本健吉編の『季寄せ』に代表されるような、二十四気七十二候や忌日表を付録とし、「ホトトギス」以外の作品も例句に採る後世の歳時記を生んだ膂力と言える。
随分孤独な独断だったことだろう。
●
宮部寸七翁(みやべ・すなおう)(註2)の掲出句の「河鹿」は雄の美声を楽しむ夏の季題だが、ここは「啓蟄の河鹿」なので、冬眠からさめた河鹿である。既に我が家の裏手の巡礼古道にある池は1月の末から禍々しいほどの蝌蚪の紐で埋め尽くされ、今朝覗きに行って見るとぴちぴちと泡を吐く音が立ち上るほどびっしりとお玉じゃくしが蠢いていたが、こんなに早く卵を生むのは河鹿ではなく蟇蛙である。河鹿は渓流の石の下に卵を生むが、掲出句は春の光に満々と水を煌かせる渓流を思わせる。河鹿は声を楽しむために飼育もされるが、飼われると冬眠をしないから「啓蟄の河鹿」とは言えまい。
吉岡禅寺洞(よしおか・ぜんじどう)(註3)の句は、地虫が穴から押し出した土を掃いているかの如く春の陽気が躍動するような一句であり、「啓蟄」の句の中でも惚れ惚れする秀句だが、『新歳時記』では、座五が、
啓蟄のつちくれ躍り掃かれけれ 禅寺洞
と已然形になっている。『ホトトギス百年史』(花神社、平成8年刊)によれば、禅寺洞が新興俳句運動に傾いて日野草城とともに「ホトトギス同人」から削除されるのは昭和11年10月号からだから、歳時記に掲載された昭和9年にはまだ没交渉ではなかったはずで、禅寺洞の推敲とも取れるが、どう考えても「けり」と終止形で言い切った方がいい句であり、この句を掲載する他の歳時記もすべて座後は「けり」である。これは誤記だろう。虚子は選する場合、添削することが少なからずあると聞いているが、已然形は係り結びで「こそ」の結びとなり、「ば」「ど」「ども」などの助詞を伴って、順接・逆接の確定条件を表すから、
啓蟄のつちくれ(こそ)躍り掃かれけれ(ども・ば・ど)
といった切れを曖昧にする添削を虚子がするとは思えない。
俳維摩(はいゆいま)は大阪の俳人とのみで委細不明。後日調べたい。
「地虫」とは甲虫目コガネムシ科の食菜類の幼虫の俗称だが、ここでは地中にすむ虫の総称。小さな虫の触角までが風に揺れてとまどう様まで見える目線の低い佳句である。
掲出の三句は、「ホトトギス雑詠選集」三月中の「啓蟄」から波多野爽波が抜粋して弟子たちに読んで書き取りをさせ暗誦させた句でもある。山本健吉編の歳時記や大歳時記には載っているが、『角川俳句大歳時記』には載っておらず、『ホトトギス雑詠選集』からは、
己が影を慕うて這へる地虫かな 村上鬼城 大正3年
蟻出るやごうごうと鳴る穴の中 村上鬼城 大正11年(註4)
啓蟄の土洞然と開きけり 阿波野青畝 昭和7年
地虫出て金輪際を忘れけり 阿波野青畝 昭和7年
啓蟄を啣へて雀飛びにけり 川端茅舎 昭和8年(註5)
が引かれている。皆インパクトのある句だが、虚子は歳時記に載せるには雑詠選とは異なる基準を立てており、例えば茅舎の句などは、啓蟄は「時候」だから、雀が嘴で銜えるものではないだろうという「常識」を利かせて落としている。青畝の「洞然と」「金輪際」も然り。大仰過ぎるというところだろう。
鬼城は別格で、
君の句は主觀に根ざしてゐるものが多いにも拘らず、客觀の研究が十分に行屆いてゐて、寫生におろそかでないといふことも是非一言して置く必要がある。と、大正7年の『進むべき俳句の道』で、そのオリジナリティを放任状態だった。鬼城は「ホトトギス」に拠ったが、「ホトトギス」以前に出来上がっていた鬼才と言える。
●
最後に七十二候で思い出したエピソードがあるので付け加えておきたい。
昨年の三月、波多野爽波の結社「青」で爽波から薫陶を受けた俳人たちと淡路島吟行の機会があった。わたくしはいつも吟行というと、弁慶が七つ道具を背負うように、明解国語辞典や歳時記(最低三種類)や文法書や図鑑やデジカメやパソコンやらを、引越しのように詰め込んで出かけるのだが、彼らはほとんど手ぶらに近く、歳時記すら開いているのを見たことが無いので不思議だった。たまたま観潮の船着場までタクシーで同席したとき、薄い手帖を見ているので、何ですかそれと聞くと、手書きで一週間毎の季題が書かれた私家版歳時記だった。
爽波先生は、季節は一週間ごとに変わるんですから、句会ごとに身の回りの季題を抜き出して、その句会用の自分だけの歳時記を作って臨みなさいとおっしゃってました。心の中に身近に見かける自分の好きな季題を置いておくと、景を見るとその中に季題がするすると独りでに出てゆくんです。そういう季題は動かないんですよ。ですからね、俳句を作る時に歳時記なんて見る必要ないんです。これには驚いた。爽波の弟子たちは、句会ごとに七十二候の「候」の歳時記を句会ごとに作って、それを心に置いて吟行や句会に臨むことを何十年も繰り返していたのである。自然をあるがままに詠むということに、ここまで謙虚に礼を尽して臨めば、季節と喧嘩しない句が生まれるのも道理である。
(爽波)先生はよく季題をえらび取るという言葉を使われた。この言葉を取り違えて季題はくっつけるものと思いこんでいる人が随分とある。えらぶということは、結果的にはそうではあっても、句の中へえらびとるのではなく、心にえらびとるということなのだ。そのときそのときの季に応じてえらびとった手応えのある季題を、常時心にあたためていてこそ、時に応じ期に応じ、多彩に、自然に、的確な季題が言葉とともにすべり出てくれるのだ。(西野文代『爽波ノート』より「心をくぐる」)今週は先週とは打って変って10℃以下の寒い雨の日が続き、やっと金曜日、啓蟄前日に谷戸の上に青空が広がった。日本で作られた「啓蟄」の候の季節記事には、
初候 素蝶(はくちょう)花を尋ねる
次候 木筆(こぶし)空を尽(きわ)む
末候 李花雪の如し
とあるという。どれ、犬のふぐりや、啓蟄の穴や、鷹が鳩に化けたり、龍が天に昇るのを見に行くか。
註1:http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/02/blog-post_8680.html
註2:宮部寸七翁。明治20年~大正15年。本名は寸七郎。熊本県出身。虚子の「ホトトギス」と吉岡禅寺洞の「天の川」に拠り、歿後吉岡禅寺洞編『寸七郎句集』(昭和4年)が出された。
註3:吉岡禅寺洞。大正7年~昭和36年。福岡県出身。本名は善次郎。福岡で「天の川」を創刊、のち主宰。富安風生、芝不器男等をそだてる。昭和4年「ホトトギス」同人となるが、新興俳句運動にはいり、日野草城とともに昭和11年10月号で除名された(同号で杉田久女も除名になり、禅寺洞と草城は新興俳句で反旗を翻したというので予想されたことだが、久女は師恋の弟子であるため、こちらの方が話題になった)。戦後、口語俳句協会会長。句集に『銀漢』『新墾(にいはり)』。(講談社デジタル版日本人名大辞典+Plusに加筆)
註4:「ごうごう」の表記は、くの字点(濁点)を使った踊り字だが、横書なので表記を平仮名とした。
註5:筑紫磐井選は「銜へて」を「啣へて」に直して挙げている。これは「銜」の字源が馬の口を取る「轡(くつばみ)」の意なので、口で啣えるという意による表記への校正と思われる。
2010年3月5日金曜日
■『超新撰21』募集
NEWS●『超新撰21』募集
≫http://8548.teacup.com/kyouen/bbs/92
邑書林ホームページでも購入可能。
≫http://8548.teacup.com/kyouen/bbs/92
『新撰21』では、50歳未満俳人による第二弾『超新撰21』を続編として刊行いたします。ついてはその内若干名を公募することといたしました。
邑書林ホームページでも購入可能。
2010年3月4日木曜日
2010年3月3日水曜日
●雛の日 robin d. gill (敬愚)
雛の日
robin d. gill (敬愚)
可愛いも初心の内ぞ、雛祭り
可愛いで生きる権利を今日守る
キュットが悪口になる世にこの日
世の中のデカイモノ禁止、女子の日
桃酒飲む爺婆とちびっ子しかいない日
さんざんに言われて何時からキュット忌
アニメよりいいものあったを、ひなまつり
二、三十年前、クラシック音楽ばかり好きお鼻が高い米保守派コラムニスト George Will が、米カントリ・ミュージックを誉めこけたが。楽観主義一辺倒のアメリカで、絶滅寸前の人権、the right to be unhappy 不幸せに生きる権利を、みごとに守りきっているのは、失恋のみならず、日常の暮らしの辛さをしみじみと歌う涙頂戴カントリーばかりではないか、と。不景気の今では、この人権こそ米にも無事でしょうが、cute で生きる、cute を好き、cute を敬う、cute を崇めることは、ゲイばかりの専権となりがち。可愛いっくていいではないか、と堂々いう大人は少ない。ということを、数年前から、毎年の雛祭り、思う。
こっそりと押入れを出る女子の日
思えば、日本は世界のキュットの御都だ。そのために、日本は好き、又嫌い。大学と企業のウェブサイトを廻れば、線美まったくない無味乾燥の経理学向きなフローチャットか、二、三才の子供しか喜ばないアニメっぽいごちゃごちゃしかない。前者で吐け気になり、後者で悲しくなる。キュットが、あるべきした人形の棚から出歩いては、怪物になってしまった。必然的にそうなったではない。コンピューターのハードとソフト関係の大者に趣味よきの一人だけおられたら、CADは別なものになったはずです。遠くから三月三日を祝うが、同時に、さんざんとやられてきた日本の風味というか、審美眼というか、それを悲しみ、いたむ日である。
無目鼻棚下ば大目鼻なり 敬愚
ないめはな たなおりれば おおめはななり
●
robin d. gill (敬愚)
可愛いも初心の内ぞ、雛祭り
可愛いで生きる権利を今日守る
キュットが悪口になる世にこの日
世の中のデカイモノ禁止、女子の日
桃酒飲む爺婆とちびっ子しかいない日
さんざんに言われて何時からキュット忌
アニメよりいいものあったを、ひなまつり
二、三十年前、クラシック音楽ばかり好きお鼻が高い米保守派コラムニスト George Will が、米カントリ・ミュージックを誉めこけたが。楽観主義一辺倒のアメリカで、絶滅寸前の人権、the right to be unhappy 不幸せに生きる権利を、みごとに守りきっているのは、失恋のみならず、日常の暮らしの辛さをしみじみと歌う涙頂戴カントリーばかりではないか、と。不景気の今では、この人権こそ米にも無事でしょうが、cute で生きる、cute を好き、cute を敬う、cute を崇めることは、ゲイばかりの専権となりがち。可愛いっくていいではないか、と堂々いう大人は少ない。ということを、数年前から、毎年の雛祭り、思う。
こっそりと押入れを出る女子の日
思えば、日本は世界のキュットの御都だ。そのために、日本は好き、又嫌い。大学と企業のウェブサイトを廻れば、線美まったくない無味乾燥の経理学向きなフローチャットか、二、三才の子供しか喜ばないアニメっぽいごちゃごちゃしかない。前者で吐け気になり、後者で悲しくなる。キュットが、あるべきした人形の棚から出歩いては、怪物になってしまった。必然的にそうなったではない。コンピューターのハードとソフト関係の大者に趣味よきの一人だけおられたら、CADは別なものになったはずです。遠くから三月三日を祝うが、同時に、さんざんとやられてきた日本の風味というか、審美眼というか、それを悲しみ、いたむ日である。
無目鼻棚下ば大目鼻なり 敬愚
ないめはな たなおりれば おおめはななり
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2010年3月2日火曜日
●コモエスタ三鬼09 東京スペクタクル
コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第9回
東京スペクタクル
さいばら天気
手品師の指いきいきと地下の街 三鬼(1936年)
自句自解に「日本劇場地下街。手品師がトランプをあやつつてゐた」〔*1〕とあります。
日本劇場(通称・日劇)は1933年12月24日、東京・有楽町に開場した地下3階・地上7階の大規模劇場施設。1981年に解体され、跡地に建っているのが有楽町マリオン(1984年開業)です(西武、今年の暮に閉店しちゃうんですね)。
「陸の龍宮」日劇誕生(本地陽彦)によれば…
戦間期(1918-1941)の東京の娯楽地といえば、古くからの浅草がまずひとつ。そして娯楽地として新興の丸の内、日比谷、有楽町あたりが栄えました(日比谷に映画館が多いのはその名残ですね)。2つの娯楽中心地は〔浅草=伝統・和風=庶民的〕vs〔丸の内付近=ハイカラ=モガモボ的〕の対照をなし、後者のシンボルのひとつが日劇でした。
古川ロッパ(1903 - 1961)は1933年に浅草で劇団「笑の王国」を旗揚げ、1935年からは有楽座(丸の内)に進出。エノケンと人気を二分する大喜劇人となります。ロッパの日記〔*2〕で昭和11年(1936年)、「手品師」が作られた年です、その3月には、日劇での10日間公演のことがいきいきと綴られています。
三鬼が、古川ロッパの演し物を観たかどうかは知りませんが、掲句の「地下の街」は、いま私たちが「地下街」として理解するものとはちょっと違うようです。
いま地下街で「手品師」と聞いたら、手品のネタの実演販売を想像してしまいますが、当時は、小さなショウのようなスタイルで手品を見せていたのでしょう。ひょっとしたら大道芸のようなかたち。客引きのアトラクションだったかもしれません。いずれにしても、「手品師の指」は、東京の娯楽地、すなわち新しさという熱を帯びた娯楽地で遭遇した小さなスペクタクルだったにちがいありません。
自解で、三鬼は次のようにも書いています。
●
さて、ロッパの日劇公演は無事終了。
大辻司郎象の藝當みて笑ふ 三鬼(1936年)
の大辻司郎(1896 - 1952)。漫談家の草分けで、ロッパの一座でも仕事をしたようです。戦後、有名な民間機墜落事故「もく星号墜落事故」で亡くなりました。
この句は「サアカス」3句の第3句目。隣の「道化師や大いに笑ふ馬より落ち」はアンソロジーなどにもよく載りますが、人名句「大辻~」は語られることがあまりありません。
大辻司郎という芸人を、私は(映画やフィルム等を含め)見たことがありませんが、名跡をほぼ継いだ息子、大辻伺郎(1935 - 1973)は知っていて、「大辻」の句を読むと、息子の伺郎の顔を思い出してしまいます。
●
日劇の話やら古川ロッパの話やら、三鬼にも俳句にも繋がらない四方山話ですが、今後もこんな感じで、横道に逸れようと思います。評伝やら俳句論を書こうというのではまったくないのですから。
当時のことも軽く調べつつ、三鬼と遊ぶ。先を急がず、たらたら遊ぶ。実は、これ、当シリーズの主旨に適っているのです。
(つづく)
〔*1〕自句自解:『俳句現代』2001年1月号(角川春樹事務所) 読本 西東三鬼 所収
〔*2〕『古川ロッパ昭和日記・戦前篇』(1987/晶文社)
※承 前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
第9回
東京スペクタクル
さいばら天気
手品師の指いきいきと地下の街 三鬼(1936年)
自句自解に「日本劇場地下街。手品師がトランプをあやつつてゐた」〔*1〕とあります。
日本劇場(通称・日劇)は1933年12月24日、東京・有楽町に開場した地下3階・地上7階の大規模劇場施設。1981年に解体され、跡地に建っているのが有楽町マリオン(1984年開業)です(西武、今年の暮に閉店しちゃうんですね)。
「陸の龍宮」日劇誕生(本地陽彦)によれば…
24日の開場式の後は、「非常時小国民大会」、「国防献金有料試写会」といった、当時の世相を物語る催しが続き、大晦日より川畑文子出演による「踊る1934年」のレビュー、そして「ゴールド・ディガーズ」、「カヴァルケード」の洋画二本で本格的に新春興行をスタートさせた。明けて1月13日には、あのチャップリンの名作「街の灯」も封切られる。…といったぐあい。演目を見ただけで、昭和8年(1933年)当時の東京の活気や喧噪が聞こえてきそうです。
戦間期(1918-1941)の東京の娯楽地といえば、古くからの浅草がまずひとつ。そして娯楽地として新興の丸の内、日比谷、有楽町あたりが栄えました(日比谷に映画館が多いのはその名残ですね)。2つの娯楽中心地は〔浅草=伝統・和風=庶民的〕vs〔丸の内付近=ハイカラ=モガモボ的〕の対照をなし、後者のシンボルのひとつが日劇でした。
古川ロッパ(1903 - 1961)は1933年に浅草で劇団「笑の王国」を旗揚げ、1935年からは有楽座(丸の内)に進出。エノケンと人気を二分する大喜劇人となります。ロッパの日記〔*2〕で昭和11年(1936年)、「手品師」が作られた年です、その3月には、日劇での10日間公演のことがいきいきと綴られています。
三月十一日(水曜)(前日深夜から続くリハーサルは)青い街が段々明るく白くなり切った七時頃、漸く「さらば青春」のフィナレが終った。おつかれさま、おつかれさま、本当に。午前七時半帰宅。三時間眠って十一時起き、日劇の前迄来ると、大分つゝかけてゐる様子だ。安心して楽屋に入る。浅草のおっちゃんおばちゃんにウケたネタが、有楽町のサラリーマンや学生にもウケるのか、不安のまま懸命に舞台を務め、みごと成功を収めた高揚感が伝わります。
(…)
三月十五日(日曜)(…)何といふ男としての幸運が僕の上にふりかかってゐることであろうぞ。日本の東京、そのまん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望--此の上何を望むべきか、といふ気持である。神も仏も護らせたまふ、幸な僕である。
三鬼が、古川ロッパの演し物を観たかどうかは知りませんが、掲句の「地下の街」は、いま私たちが「地下街」として理解するものとはちょっと違うようです。
いま地下街で「手品師」と聞いたら、手品のネタの実演販売を想像してしまいますが、当時は、小さなショウのようなスタイルで手品を見せていたのでしょう。ひょっとしたら大道芸のようなかたち。客引きのアトラクションだったかもしれません。いずれにしても、「手品師の指」は、東京の娯楽地、すなわち新しさという熱を帯びた娯楽地で遭遇した小さなスペクタクルだったにちがいありません。
自解で、三鬼は次のようにも書いています。
その地下街から出て数時間の間は頭の中で手品師の指がヒラヒラして落付かなかつたが、この句が出来てやつと落付いた。「陸の竜宮」と呼ばれた日劇の地下街が「海底」のような不思議な空間であったなどといえば、言葉を弄するにすぎませんが、「東京1936年」というモダニズムの物語のなかで、私個人が三鬼の「手品師」の句を愉しむぶんには、誰にも迷惑がかからないでしょう。
●
さて、ロッパの日劇公演は無事終了。
三月二十日(金曜)日劇十日間昼夜二回、完全に満員で打ち通した。(…)さてハネると幸楽に於て、当り祝ひといふことになった。(…)大辻が酔っ払ってゝ例の通り自分を売りたがる嫌な演説(…)この「大辻」が、
大辻司郎象の藝當みて笑ふ 三鬼(1936年)
の大辻司郎(1896 - 1952)。漫談家の草分けで、ロッパの一座でも仕事をしたようです。戦後、有名な民間機墜落事故「もく星号墜落事故」で亡くなりました。
この句は「サアカス」3句の第3句目。隣の「道化師や大いに笑ふ馬より落ち」はアンソロジーなどにもよく載りますが、人名句「大辻~」は語られることがあまりありません。
大辻司郎という芸人を、私は(映画やフィルム等を含め)見たことがありませんが、名跡をほぼ継いだ息子、大辻伺郎(1935 - 1973)は知っていて、「大辻」の句を読むと、息子の伺郎の顔を思い出してしまいます。
●
日劇の話やら古川ロッパの話やら、三鬼にも俳句にも繋がらない四方山話ですが、今後もこんな感じで、横道に逸れようと思います。評伝やら俳句論を書こうというのではまったくないのですから。
当時のことも軽く調べつつ、三鬼と遊ぶ。先を急がず、たらたら遊ぶ。実は、これ、当シリーズの主旨に適っているのです。
(つづく)
〔*1〕自句自解:『俳句現代』2001年1月号(角川春樹事務所) 読本 西東三鬼 所収
〔*2〕『古川ロッパ昭和日記・戦前篇』(1987/晶文社)
※承 前のリンクは貼りません。既存記事は記事下のラベル(タグ)「コモエスタ三鬼」 をクリックしてご覧くだ さい。
2010年3月1日月曜日
●中嶋憲武 Leave my kitten alone
Leave my kitten alone
中嶋憲武
俺俺今度あいつに言っとくよと、ジューはそこいらへんに唾を吐きながら言った。わたしはなにも答えなかった。ジューのうしろに広がっている真夜中の闇の空。その遠くの空がすこしだけ紫がかっているのを、きれいだと思っていたし。ジューはいつでも威勢のいいところをみせようとしていたけれど、わたしはそんな事どうでもよかった。その時その時が楽しければよかったのだ。
ジューはひとつ年長で、中学を出ると春からタイル屋の見習いになった。わたしも来年卒業だ。美容学校へ進もうと思ってる。
ジューの職場の先輩のノビは、わたしになにかとちょっかいを出す。坊主頭のノビは大きな頭をぐりぐりと振りながら、わたしを誘う。ノビのバイクには、ちょっと乗ってみたい気もする。
「トーコ、ロマン座行くか、今夜」
「嫌いだよう、映画」
そんな時、ジューはいつの間にか傍へ来ていて話に割って入ってくる。猫のような奴だ。ジューとは小さい頃から一緒だったから、今さら好きとか嫌いとかおかしい気がする。好き?そんな事考えた事もなかった。ジューはどうなのだろう。このごろわたしの気まぐれが余りに過ぎるので、鬱陶しいと思ってるだろう。それにしてもさっきはどうして「好き」なんて言葉が浮かびあがってきたのか。ジューとわたしに限って、そんな事がある筈がない。断じてない。なんだか眠くなってきちゃった。お風呂入って寝よ。そうだ家庭科の宿題やってなかった。あの三十過ぎの先生は苦手だ。早く結婚してやめちゃえばいいのに。と考えてるうちに眠った。
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中嶋憲武
俺俺今度あいつに言っとくよと、ジューはそこいらへんに唾を吐きながら言った。わたしはなにも答えなかった。ジューのうしろに広がっている真夜中の闇の空。その遠くの空がすこしだけ紫がかっているのを、きれいだと思っていたし。ジューはいつでも威勢のいいところをみせようとしていたけれど、わたしはそんな事どうでもよかった。その時その時が楽しければよかったのだ。
ジューはひとつ年長で、中学を出ると春からタイル屋の見習いになった。わたしも来年卒業だ。美容学校へ進もうと思ってる。
ジューの職場の先輩のノビは、わたしになにかとちょっかいを出す。坊主頭のノビは大きな頭をぐりぐりと振りながら、わたしを誘う。ノビのバイクには、ちょっと乗ってみたい気もする。
「トーコ、ロマン座行くか、今夜」
「嫌いだよう、映画」
そんな時、ジューはいつの間にか傍へ来ていて話に割って入ってくる。猫のような奴だ。ジューとは小さい頃から一緒だったから、今さら好きとか嫌いとかおかしい気がする。好き?そんな事考えた事もなかった。ジューはどうなのだろう。このごろわたしの気まぐれが余りに過ぎるので、鬱陶しいと思ってるだろう。それにしてもさっきはどうして「好き」なんて言葉が浮かびあがってきたのか。ジューとわたしに限って、そんな事がある筈がない。断じてない。なんだか眠くなってきちゃった。お風呂入って寝よ。そうだ家庭科の宿題やってなかった。あの三十過ぎの先生は苦手だ。早く結婚してやめちゃえばいいのに。と考えてるうちに眠った。
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