2018年9月28日金曜日

●金曜日の川柳〔玉利三重子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ご遺族といわれて遺族かと思い

玉利三重子 (たまり・みえこ) 1935~

「あっ、そうだった」「これはわたしのことだ」とはっとする。斎場に行くと「ご遺族さま控室」がある。係りの人に「ご遺族さま」と案内もされる。言われてみて、そうか「遺族」として参列しているのだと気づく。遺族として参列していても、遺族の実感がない場合がある。身内ならさすがにそうではないが、会ったこともない、顔も知らない遠い親戚の葬儀に出ることもあるからだ。

ふと感じる意識のずれと日常の違和の表明。なおかつ、かすかな問題意識を持って一句を成立させている。乾いた書きぶりで、人の心の微妙な綾を突いている。〈猫といる時間がとてもやわらかい〉〈町内のことに詳しい猫のひげ〉〈狂わずに生きて喜劇の中にいる〉

2018年9月25日火曜日

〔ためしがき〕 浮世絵、そのつや消しの美 福田若之

〔ためしがき〕
浮世絵、そのつや消しの美

福田若之


永井荷風が「浮世絵の鑑賞」という文章にこんなことを書いている。
浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹たる行燈の火影を見るの思ひあり。
「その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」。その質感を「暗澹たる行燈の火影」に喩える荷風の言葉には、『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎と通じ合うところがあり、そしてそれゆえに「夜の形式」の田中裕明とも通じ合うところがあろうと言わねばなるまいが、まずはその「光沢なし」という質感の直接な把握の言葉に着目したい。それは、ロラン・バルトの「つや消しmat」という言葉に通じているように思われる。この語は、たとえば、こんなふうに記される。
これらいくつかのアナムネーズは多かれ少なかれつや消しである(いたずらなもの――意味を免除されているものだ)。それらをつや消しにすることに成功すればするほど、それらは想像界から逃れることになる。
これは『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の一節だ。ここでいうアナムネーズとはどのようなものだろうか。まずは、そこに示されたわかりやすい一例を挙げておく。
帰りは路面電車で、日曜日の夜、祖父母のところから。部屋で夕食をとる、炉辺で、スープとトーストを。
バルトの説明はこうだ。
私がアナムネーズと呼ぶ行動――悦楽と努力のまぜこぜ――は、それを大きくみせることもなければそれをうちふるえさせることもなしに、ある思い出の微妙を主体にとりもどさせようとする、つまり、それは俳句そのものなのである。
だから、バルトにとっては俳句もまたつや消しであるだろう。すでに『記号の国』において、バルトは俳句に意味の免除を見出していた。

さて、すでに引用したとおり、バルトは、意味が免除されている状態としてのつや消しを、想像界からの逃走と結び付けていた。ところで、想像界とはどのようなものか。
想像界、イメージの包括的な想定は、動物たちにも存在する(だが象徴界はすこしもない)、というのは彼らがおとりのほうへと真っすぐに向かっていくからだ、性的なおとりであれ敵のおとりであれ、彼らに対して差し出されたおとりへと。
そして、イメージはバルトにとってはある品詞と本質的に結びついている。
彼は人間関係の極みはイメージの不在によってもたらされるものだと考えている――親しいあいだで、一方から他方への、形容詞を廃することだ、自らを形容詞化する関係はイメージの側に、支配の、死の側にある。
したがって、想像界は形容詞とかかわりがある。エクリチュールの想像界は、形容詞とともに再来するものとして語られる。
昼のうちに書いたばかりのものに、彼は夜な夜なおそれを抱く。夜は、信じがたいほどに、エクリチュールの想像界――生産物のイメージ、批判的な(ないしは友好的な)うわさ話――をまるごと連れ戻すのだ――こんなのはいきすぎだ、あんなのはいきすぎだ、それは不充分だ……。夜は、形容詞が再来するのだ、群れをなして。
荷風が浮世絵のつや消しの美に夜の行燈の火を思っているのに対してバルトが夜をつや消しの美の損なわれる時間とみなしているように思われることは、ひとまず置いておこう。バルトが俳句について言う意味の免除、すなわち、つや消しを、荷風をともに読むことを通じて、浮世絵の質感として把握してみること――それは、バルトにとっての俳句と荷風にとっての浮世絵の双方を、同時に肌で感じることを可能にするのでないか。何にせよ、両者の擦りあわせには、何かめくるめくものがあるように感じられる。

やがては、昼と夜の区別自体がもはや意味をなさなくなるだろう。黄昏は、もはや昼の終わりではなく、昼と夜の区別そのものを終わらせるものとして捉えかえされるに違いない。とすれば、もしかすると、この擦りあわせの果てには裕明のいう「夜の形式」もまた今一度捉えかえされることになるかもしれない。とりあえずここまでにしておこう。このことは、別の機会に考えてみる価値がありそうだ。

2018/8/26

2018年9月23日日曜日

〔週末俳句〕水辺の散歩 西原天気

〔週末俳句〕
水辺の散歩

西原天気



京・鐵砲洲あたり。高橋(たかばし)から南高橋(1932年開通。人道橋の鋼鉄トラス橋としては都内で2番目に古い)を望む。むこうに見えるのは亀島川水門。こちらは1968年竣工。

その前の週末には、神奈川県葉山町で森戸川。このところ、川の近くで過ごす機会が多く、気持ちが潤っています。

2018年9月22日土曜日

【人名さん】林家ペー・パー子

【人名さん】
林家ペー・パー子

天高く林家ペーとパー子かな  津田このみ


津田このみ句集『木星酒場』(2018年8月/邑書林)
邑書林 on line shop


2018年9月21日金曜日

●金曜日の川柳〔森田律子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ミルクキャラメルが痛みになっている

森田律子 (もりた・りつこ) 1950~

ミルクキャラメルが痛み? 甘さが心を癒してくれるのではなく、余計に傷心度が増していくということだろうか。ミルクキャラメルの必要以上に甘くて、あとあとまで口の中にべたべた感が残る、そんな味覚を思い出した。共犯めいた甘さがここにある。

ミルクキャラメルは作者にとっての個人的な思い出として、別の意味合いがあったのかもしれないが、「ミルクキャラメル」と「痛み」の組み合わせは意外だった。なるほどでもなく、解釈もできない。なんでも意味があると思い、なにがしかの意味の通路を見つけようとするのは悪い癖なのだろう。すべてのものに意味があるわけではない。「ミルクキャラメル」がせつなく、小宇宙を作り上げている。

〈ぬかるみは二足歩行がいいみたい〉〈雨が降るから鍵さしたままだから〉〈空き缶を蹴り空想の後始末〉〈水滴が水滴押して水滴〉 『川柳作家ベストコレクション 森田律子』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年9月18日火曜日

〔ためしがき〕 おっしゃることの意味が、むなしい。 福田若之

〔ためしがき〕
おっしゃることの意味が、むなしい。

福田若之


おっしゃることの意味が、むなしい。という七七がふいに浮かぶ。

わかりません、ではなく、むなしい。おっしゃるというのだから本来尊敬するべきはずの他者の言葉について、その意味があからさまにうつろだと指摘する言葉。これは、何がしかの発言に宛てられたぶしつけな批判なのだろうか。けれど、この言葉は、何か特定の個別的な他者の言葉に対して思い浮かんだわけではない。だから、この言葉は、無意識の底のほうから、なにか一般的なことを言わんとして意識のうえに浮かんできたのだろう。

この句に言われているのは、まずもって、他者に対する敬意やそれにともなう他者の言葉に対する敬意と、他者の言葉を無意味なものと感じることとは、決して背反しないということだ。 おっしゃることの意味が、むなしい。思えば、そんなふうに感じたことは、生きてきて、これまでにさえすでに百や二百ではおさまらないのではないか。そして、そうしたむなしさは、必ずしも不愉快なものではなかったのではないか。

あるいは、むなしいのはむしろ自分の言葉のほうではなかったか。誰かの言葉に、おっしゃることの意味がわかりません、と言いかけて、そのように言うことのむなしさを感じたことはなかったか。そんなとき、おっしゃることの意味がわかりません、という言葉を、(そんなふうに相手に伝えること自体が)むなしい、という感情が中断したことがなかったか。

そして、そもそも、意味などというものは、突きつめれば、そのつど、むなしいものにすぎないのではないか。俗に意味といわれているものが、たとえば、切れた言葉の傷口の疼きでしかないのだとしたら。

おっしゃることの意味が、むなしい。この句はおそらく絶望の言葉だけれど、同時に、おそらく希望の言葉でもありうる。

2018/8/22

2018年9月16日日曜日

〔週末俳句〕週末鳥見 岡田由季

〔週末俳句〕
週末鳥見

岡田由季



昨年、小津夜景さんへの海鳥のインタビューを担当したことをきっかけに、野鳥を見ることにはまった。

最初は、散歩の途中で、すこし注意して見るくらいだった。それが徐々に近隣の野鳥スポットに出かけるようになり、今年2月に愛犬を失ってからは、その寂しさもあり、予定のない週末はたいてい、ため池や海辺、すこし遠くの公園へ鳥を見に行く生活になった。

ひとことで鳥を見ると言っても、いろいろな方法がある。小津夜景さんは、いつも手ぶらで見に行かれるそう。そういう詩的アプローチにも憧れるけれど、私にはできず、双眼鏡と、望遠のデジカメを持っていくことになる。そうでないと、まず何の鳥かわからない。


鳥を見つけたら、なるべくその鳥の特徴がわかる写真を撮り、家に帰って調べる。身近な環境にも、思った以上に多種の鳥がいて、それぞれにユニークな生態があることを知ると、面白くてたまらない。



イカルチドリ。石の色と同化して、肉眼だと何かが動いた、くらいしかわからない。

こんなに何かに熱中したのは、俳句を始めたとき以来かもしれない。俳句を始めたころは、世の中にこんなに楽しいものがあったのかと思い、毎週末はもちろん、平日の夜も句会に行っていた。いま振り返ってみれば、俳句に熱中していたのではなく、句会という遊びが楽しかっただけだと思うけれど。

俳句は20年も続けているので、だんだん、ただ楽しい、ではすまない複雑な状況になってきてしまった。(いえ、楽しいことは楽しいのですが。)

鳥を見るのに、知識も増やしたい、本当は写真ももっと上手に撮りたい。でも、あまり欲を出さないように、と考えている。多種の鳥を見たり、知識を得るには、野鳥の会の探鳥会などに参加するのが、きっと近道だと思う。でも、気ままに見たいので、あくまでも、空いた時間に、ひとりで見に行くことにしている。カメラも、機材やテクニックを追求せず気楽に。そんな感じで、ずっと楽しい状態を持続できればいいと思っている。

 
この土曜日も海辺にシギチ(シギ・チドリの略)を探しにいった。もう、秋の渡りのピークは過ぎてしまったみたい。でも、これからは鴨がどんどん渡ってくるし、小鳥も見やすい季節になってくる。季節ごとに楽しみが尽きない。


亜種チュウダイサギ。白鷺にもいろいろ。

2018年9月15日土曜日

●夜景

夜景

夜景とは愁ひの灯かや夏の果て  鈴木真砂女

心頭滅却宝石店の夜景すずし  中村草田男

人影を夜色の追へる冬旱  松澤昭

皿の藍に夜色沈める海雲かな  長谷川春草

いまはむかし夜景とあらば桜咲き  高柳重信

2018年9月14日金曜日

●金曜日の川柳〔堀口塊人〕樋口由紀子



樋口由紀子






道歩いとっても桂春団治

堀口塊人 (ほりぐち・かいじん) 1903~1980

偶然に道頓堀で桂春団治と会ったのだろうか。歩く姿を見ただけで、すれ違っただけで春団治だとわかった。「さすが」だと思ったのだ。秀でている人は道を歩いていても、ごはんを食べていても、何をしているときでも独特の雰囲気が満載である。作者はその姿に惚れ惚れした。その惚れ惚れ感がよく表われていて、至福ように語っている。

「道歩いとっても」のさりげない大阪弁が関西の落語家を描くことの面白さを倍増している。書かれた年がわからないので、二代目か三代目か、どちらの桂春団治だろうかと思った。二代目の豪快さが掲句にぴったりと当てはまりそうだが、三代目の飄々さでも充分に納得できる。どちらにせよ人のオーラの凄さを爽快に言い切っている。

2018年9月13日木曜日

●一面

一面

水晶の一面光り渡り鳥  小川軽舟

一面の落葉に幹の影が乗り  対中いずみ〔*〕

大榾をかへせば裏は一面火  高野素十

恵方なる一面の火の崖椿  井沢正江

星涼し川一面に突刺さり  野見山朱鳥


〔*〕対中いずみ句集『水瓶』(2018年8月/ふらんす堂)

2018年9月11日火曜日

〔ためしがき〕 たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。 福田若之

〔ためしがき〕
たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。

福田若之


たとえば、これまで仮に僕と呼び、また、書き慣わしてきたそれを、ためしに彼女と呼び、書いたとき、何が起こるのだろう。たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、といったふうに。

彼女は、一方では、これがたんなる文法上の置き換えの試みとして理解されることを望んでいるけれど、他方では、それがたんなる文法上の置き換えの試みでは済まないことを予感してもいる。

彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぶことは、彼女にとって、彼女以外の誰かが彼女のことをそう呼ぶこととはまるで違っている。けれど、彼女自身には、いまのところ、その理由がうまく説明できない。それは、彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぼうと試みるうえで最初に思い浮かんだのが、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということだったことの理由を、うまく説明できないのと同じことだ。

たしかに、彼女は、いまや、彼女自身について、たとえば、彼女はゴーヤを口にしない、とか、彼女は考えごとをするときに両手で顔を覆うことがある、とか、彼女はきのう飛行機で松山から東京に帰ってきた、とか、彼女はその機内で飲み物を勧められ、キウイジュースを頼んだ、とか、じつは彼女は黄色の服を着ていたことがあるし、いまでもそれを何着か持っている、とか、それにもかかわらず、彼女はもう長らくそれらの服を着ていなかったし、それらを持っていることさえ失念していたのだ、とか、書くことができる。けれど、そうしたことのすべては、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということのあとにしか書くことができなかったように思う。それだから、彼女はそこになんらかの必然を感じずにはいられない。なぜ黄色なのか、なぜ服のことなのか。ただし、精神分析的な回答を与えられたとしても、彼女はおそらくそれに満足しないだろう。たぶんこのあと、彼女は両手で顔を覆う。

2018/8/22

2018年9月10日月曜日

●月曜日の一句〔対中いずみ〕相子智恵



相子智恵






近々と二百十日の鳶の腹  対中いずみ

句集『水瓶』(ふらんす堂 2018.8)所収

〈二百十日〉は立春から数えて210日で、今年は9月1日だった。稲に甚大な被害を与える台風が相次いで襲来することから、農家の人々は過去の経験からこの日を厄日として警戒した。各地で風を鎮める「風鎮祭」が行われる。

普段は高く飛んでいるであろう鳶の腹を近々と見上げるということは、相当低いところを飛んでいるのだろう。季語によって強い風が感じられてくる。鳶が感知している天気の急変があるのかもしれない。〈二百十日〉という季語と近々と見ている〈鳶の腹〉だけで、その緊張感が見えてくるところが見事だ。

本句集は〈何かよきものを銜へて雀の子〉〈鳥のほか川しづかなる裕明忌〉など、鳥の佳句が多くて(水の佳句も多い)心が広やかに静かになる。

2018年9月8日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年9月7日金曜日

●金曜日の川柳〔德永政二〕樋口由紀子



樋口由紀子






半分のキャベツに夜がやってくる

德永政二(とくなが・せいじ)1946~

料理にもよるが余程の大家族でないかぎりはキャベツ一個を丸ごと夕食に使い切ることはほとんどない。夕方まではもう半分と一緒で一個だったキャベツは今は半分になって一人(?)で夜を迎えなければならない。明るかった外もだんだんと漆黒の闇になる。

掲句を読むまではそんなことは考えたこともなかった。残りのキャベツを何のためらいもなく冷蔵庫にほうり込んでいた。キャベツに限らず、なにもかもに対してそうだったような気がする。俳句で「ものをよく見る」のは既成概念を捨てるためだと聞いたことがあるが、川柳においては「ことをよく見る」のは日常を捉え直すきっかけかもしれない。

〈青い山ときどき通る青いバス〉〈ビニールのひもで結んである真昼〉〈マヨネーズなんかも飛んでくるらしい〉 『川柳作家ベストコレクション 德永政二』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年9月6日木曜日

●木曜日の談林〔西山宗因〕浅沼璞



浅沼璞








いろはにほへの字なりなるすゝき哉  宗因

「真跡」(万治2年・1659)



これは西鶴の師匠である西山宗因の発句。いわば談林・揺籃期の作だ。

いろは歌を「への字」につなげながら、強風になびく薄の描写へといたる。

「への字なり」とは、漢数字の「一」をヘタに書くと「へ」の字にみえることから、「物事をどうにかこうにかする」という意味のことわざ(世話)である。

談林では本歌取りや謡曲取りに同じく世話取りというサンプリング技法が多用された。

強風にもてあそばれながらも、どうにかこうにか耐える薄の、その「なり」を滑稽かつ写実的に詠んだ世話取りと解すのが妥当だ。



ところで『好色一代男』には吉野太夫による筆おろしのシーンがあるが、そこで西鶴は師匠のこの世話取りをパクり、「物事をどうにかこうにかする」という意味はそのままに、半立ちの一物を「へ」の字の表記で活写した。

「への字なりに、埒明(らちあけ)させて」というのが原文の表記だが、吉行淳之介訳『好色一代男』(中央公論社)の訳者覚書をひもとくと、「文章表現の圧巻」と高い評価を得ている。

「への字なり」を「どうやら」とか「なかば萎えたまま」などと換言しては味がなくなると吉行は指摘する。

そういえば吉井勇(創元社版「西鶴好色全集」)や里見弴(河出書房新社版「西鶴名作集」)の訳文も、ほぼ原文のままだ。



かつて国文学者の廣末保は浮世草子の両義性について、〈活写することと、作意の妙を見せること〉が一つであると言いあてた(『西鶴の小説』平凡社)。

その両面的価値のルーツが談林俳諧にあったことは、掲句をみれば明らかだろう。

2018年9月4日火曜日

〔ためしがき〕 『概念』についての覚え書き 福田若之

〔ためしがき〕
『概念』についての覚え書き

福田若之


さんかくやまの『概念』は、《書きたい》を前へと傾かせる。

ごく大雑把に言えば、メタ的な要素が特徴的な4コマ漫画だ。KADOKAWAから単行本も出ているけれど、ひとまず、ニコニコ静画版(『概念』および『概念Ⅱ』)からいくつかの例を挙げることにする。たとえば、隣り合うふたつの4コマ漫画のうち、左のほうに登場する人物が、枠線に紙コップをあてて右のほうの漫画の人物の声を盗聴する。あるいは、オノマトペがうるさいのでスイッチを押してその漫画自体をミュートにするのだが、そのせいで吹き出しのなかまで真っ白になり、人物のコミュニケーションが成立しなくなる。あるいは、4コマ漫画をきりんと一緒にやることの困難――きりんのほうは胴体しかコマに入らないので、顔を並べることができない――を、 遠近法によって解消しようとする(その結果、「くそ遠いな」ということになる)。

作られてある、ということのおもしろみに、《書きたい》がおのずから前へと傾くのだろうか。そういえば、これはとりわけ単行本にまとめられた作品群により顕著だと感じるのだけれど、『概念』の作品群はしばしば、こうしたい、こうなりたい、という望みからはじまる。たとえば、「気持ち良く/なりたい」、「パウダーに/なりたい」、「こんにゃくに/乗りたい」、「ラスボスに/なりたい!」、「暗殺したくて/たまらない…」、あるいは、「仙人の/主食として/知られる/霞を食べたい」といった具合だ。《書きたい》もまた、こうした言葉に引っ張られて生じるのかもしれない。けれど、『概念』を前にしたときに《書きたい》がおのずから前へと傾くことには、ほかにも理由があるように思う。

『概念』は、ときに、漫画としてはあまりにも言語的なおもしろみに傾くことがある。「今まで/やった事がない事に/一緒に挑戦しようぜ」「やった事がない事/何かある?」、「死んだことない」、「それは/やめとこうぜ」。 あるいは、猫「人間って大変だね…」「服を着ないと/いけないなんて…」、花「動物って大変だね…」「動かないと/いけないなんて…」、石「植物って大変だね…」「光合成しないと/いけないなんて…」、無「みんな大変だね…」「存在しないと/いけないなんて…」。最初の印象としては、これらの4コマにおいて、それが絵であることはほとんどおもしろみに奉仕していないように思える。けれど、その場合にも、絵の細部によって、それならではの何かがもたらされている。たとえば、「死んだことない」の4コマでは、2コマ目と4コマ目の構図がほとんど同じなのだけれど、2コマ目では閉じられていた登場人物のひとりの口元が、4コマ目ではわずかに開かれている――違いは極めて微細なものにすぎないけれど、それゆえにこそぐっと惹かれるものがある。「みんな大変だね…」の4コマでは、黒で粗く塗りつぶされた猫の目が、その塗りつぶしの粗さゆえに目を惹きつける。無論、こうした細部は、それぞれの作品の本筋――あきらかに、4コマ漫画においても本筋というものがある――とはさしあたり関係がない。それらは、ロラン・バルトがエイゼンシュテイン映画のフォトグラムを分析しながら語ったあの第三の意味としての「鈍い意味」を思わせるものだ。

ところで、本筋と違うところにあるこうした魅力は、いかにして生じているのだろうか。言語的なおもしろみにせよ、絵画的なおもしろみにせよ、また、それらとは別の漫画的なおもしろみにせよ、『概念』の個々の4コマがその本筋において花開かせているのは、個別に絞り出されたいくつかの形式的な特質にすぎない。たとえば、『概念』においても、枠線がつねに形式的な特質として強く意識されるわけではない(そもそも、『概念』において、つねにメタ的なおもしろみが狙われているというわけではない)。ひとつの4コマで形式の無限の可能性のすべてを汲みつくそうとすれば、おそらく、そのとき作品は失敗するしかないだろう。けれど一方で、本筋によって掬いあげられている以外の形式的な特質もまた、すくなくともいくらかは、個々の4コマにおいてはっきりと表れざるをえない。たとえば、枠線は、それとして意識されない場合にも、むしろあらためて意識されないようにするために、そのつどしっかりと引かれる(枠線が引かれない場合には、かえって枠線の不在が意識されることになる)。『概念』を読むと、そうした余った特質が、本筋とは違うところで働いているのが感じられる。

したがって、『概念』が思い出させてくれることのひとつは、ジャンルによって与えられている形式の特質の全面をあらかじめ意識化しておくことができないとしても、書くことそれ自体が、そのつど、いわばあとからその余剰を救い出すことの可能性だ。近代的な前衛芸術の理論と実践がしばしば形式に対する徹底した意識と引き換えにひとびとの《書きたい》を萎縮させずにはいないのに対し、『概念』は暗闇を動き回るサーチライトのような身ぶりで形式に対する個別的な気づきを誘発し、その結果として、《書きたい》を気楽にする。もちろん、それは決して『概念』がたやすい作品であるということではない。誰かの荷を軽くすることは、その責任感に訴えることよりもはるかにむずかしい。その実践は稀有でさえある。

2018/8/12

2018年9月3日月曜日

●月曜日の一句〔山田耕司〕相子智恵



相子智恵






南瓜切る浅撫でに撫でほめてのち  山田耕司

句集『不純』(左右社 2018.7)所収

いやらしくて、薄情で、南瓜なのにミステリー映画のような仕立てで笑ってしまった。

まず冒頭の〈南瓜切る〉で、この南瓜の運命が、先に読者に提示される。

そして〈浅撫で〉である。これは造語だろうか。立派によく育った南瓜を撫でてほめているのだが、〈浅撫で〉によって南瓜だということを忘れそうになる。〈浅撫で〉は犬の頭をごしごしと撫でてほめるような明るく無邪気なほめ方ではない。肌の上をスーッと撫でる愛撫のような撫で方だろう。〈浅撫でに撫で〉で、執拗に撫でまわす。しかもその育ちぶりをほめながら。

そして、また冒頭に戻る。南瓜は愛から死(?)へ、真っ二つに身を切られる。ゴツリ、と鈍い音を立てながら。立派な南瓜だから、固くて相当な手ごたえがあることだろう。包丁に全体重をかけて切る主人公と、抵抗する南瓜。その手ごたえの重さが容易に想像できる南瓜だから、この句に“バラバラ殺人事件”のような妙な雰囲気が立ち上がる。

南瓜だからこそ笑えるだけでなく、南瓜だからこそ妙なリアリティが生まれていると言えるかもしれない。

2018年9月2日日曜日

〔週末俳句〕移動時間 千野千佳

〔週末俳句〕
移動時間

千野千佳



最近、急に実家に帰ることがあった。

上野駅から新幹線で1時間半。

「トランベール」をひととおり読んだあと、ひまなので、ネット句会に参加してみることにした。

Twitterで見つけた、某ネット句会。お題は「金」「足」「農」「業」。

駅に着くまで、それぞれのお題で1句ずつ、計4句作ってみることにした。

ノートに俳句の断片をランダムに書いていく。移動中に俳句を作るとき、今までは、頭の中で考えて、携帯電話のメモに入力していた。ところが最近、ある句会で、若くて品のよい美人がノートを大切そうにひろげてメモをとっている姿をみた。

その姿がなんとも良くて、ノートを購入し、持ち歩いている。

新幹線は空いていた。俳句を考えることに疲れると、どんどん田舎になっていく外の景色を見たり、トランベールについている路線図を眺めたりした。長野駅に着く。あとは「業」を考えるのみ。スマートフォンで業を含む熟語を探そうとするも、圏外。やっぱり電子辞書を買うべきか。歳時記はアプリのものを愛用している。ものをできるだけ持ちたくないので、本もあまり買わないようにしているが、角川ソフィア文庫の第五版歳時記は表紙がかわいいので買った。

駅に着くまでに、4句作り終えてネット句会の掲示板へ投句した。満足のいく句と、駄句だと思うものとが半々くらい。移動時間内で終了しなければならないので、開き直りができてよい。

帰りの新幹線では、行きに投句したネット句会の一覧が出来上がっていたので、選句と選評の書き込みをした。90句のなかから、17句選ぶ。17句もあるので、選評は1句につき一言ずつ。みなさん、なかなかお洒落な一言をつけていた。真似てやってみる。

移動時間に俳句を作る、俳句を選ぶのは、制限時間が強制的に設けられるので、とてもよい。

わたしは出張のない仕事なので、仕事中の移動には縁がない。

腹六分で仕事をして、移動時間にはひたすら俳句を作るサラリーマンみたいなものになりたいなと思う。この時代、腹六分でやっていける仕事を探すのはとてもとても難しいが。