2019年8月31日土曜日

●土曜日の読書〔セミのブローチ〕小津夜景



小津夜景








セミのブローチ

海岸でもらった風船のおすそわけに、友人のアトリエに寄る。

今日は手に入れたばかりのセミのブローチをワンピースにつけている。セミのブローチをつけるのは、季節の帯をしめるようなものだ。プロヴァンスの昆虫界ではセミの地位が一番高く、街にはセミの小物が年中あふれているけれど、それでもセミが夏の幸福のシンボルであることは変わらない。

扉があいていたので勝手にアトリエに入る。友人の姿はない。ものすごく変わった人なので、壁に隠れているかもと思い、壁にさわりながら、室内をゆっくり回ってみる。が、特に変わったこともない。天井を見上げ、てのひらをひらく。ふわん。風船が天井にくっついた。このまま帰っちゃおうかな。そう思いつつ天井を眺めていたところへ、日本にもセミがいるの?と急に友人の声がした。

「わ。びっくりした。どこにいたの」
「裏庭。いいねそのブローチ」
「でしょ。いるよ。いるけど、基本悲しい生き物だって思われてる。すごい短命だから。で、思うところあって、大声で泣いてるんだろうって」
「あはは。あんな美声なのに。昼寝にいいよね。セミの声って眠くなる」

おいで。セミがいるから。友人は私の肩に手をかけると、そのままアトリエの奥といざなった。裏庭の木陰には2脚のデッキチェアが広げられ、セミの声がしんしんと降っている。

さっきまでここで寝てたの。そう言って友人はデッキチェアに横たわると目をつぶった。
「ああ。生きてるたのしさを、うたってるね」
友人は、そのまま眠ってしまった。
セミの彫刻的契機はその全体のまとまりのいい事にある。部分は複雑であるが、それが二枚の大きな翅によって統一され、しかも頭の両端の複眼の突出と胸部との関係が脆弱でなく、胸部が甲冑のように堅固で、殊に中胸背部の末端にある皺襞(しわひだ)の意匠が面白い彫刻的の形態と肉合いとを持ち、裏の腹部がうまく翅の中に納まり、六本の肢もあまり長くはなく、前肢には強い腕があり、口吻が又実に比例よく体の中央に針を垂れ、総体に単純化し易く、面に無駄が出ない。セミの美しさの最も微妙なところは、横から翅を見た時の翅の山の形をした線にある。頭から胸背部へかけて小さな円味を持つところへ、翅の上縁がずっと上へ立ち上り、一つの頂点を作って再び波をうって下の方へなだれるように低まり、一寸又立ち上って終っている工合が他の何物にも無いセミ特有の線である。(高村光太郎『蟬の美と造型』青空文庫)
帰宅して、セミの資料を漁っていて見つけた随筆。光太郎作の木彫のセミは感動ものだが、随筆の方も傑作である。ありのままのセミをちゃんと見ているのもいい。原文ではこの数倍セミの描写がつづくのだけれど、他人の口から借りてきたようなうんちくは一行も混じっていない。


2019年8月30日金曜日

●金曜日の川柳〔暮田真名〕樋口由紀子



樋口由紀子






カラオケでオクラを茹でるうつくしさ

暮田真名 (くれだ・まな) 1997~

私は素麺を茹でるときに一緒にオクラも茹でて薬味にする。オクラはさっと緑色になり、本当にうつくしい。しかし、「カラオケで」がわからない。「カラオケ」は伴奏のみの音楽に合わせて歌うものだが、どうやって?「空の桶」のなのか。それにしてもへんである。しかし、このわからなさ、やすやすと意味がつながってくれなさが、散文とは異なる立ち位置を確保しているように思う。

〈フロートがいやというほど降るらしい〉〈甘食はすいすい自転車に乗る〉〈ダイヤモンドダストにえさをやらなくちゃ〉などどの句も難しい言葉は使われていないが、感性でつないでいるようで、どう読み解けばいいのかわからない。日常の世界と切れ、一般的な価値体系の外側で存在感を意識的に生みだている。そこで意味を生動させ、日常とは違う概念を発生させている。独自のポエジーである。『補遺』(2019年刊)所収。

2019年8月28日水曜日

●エノケン

エノケン


エノケンも心にありて萩に彳つ  富安風生

エノケンのまなこ地下鐵に忘れ來し  三橋敏雄


2019年8月26日月曜日

●月曜日の一句〔大石久美〕相子智恵



相子智恵







湖に色濃きところ水の秋  大石久美

句集『桐の花』(邑書林 2019.8)所載

湖の色が濃いところとは、深くなっているところだろうか。色の違いが分かることから、この湖がよく澄んでいて、ある程度の大きさや深さのある湖だということがイメージされてくる。

そこにさらに〈水の秋〉という季語が置かれている。取り合わせの句の場合、イメージの近い季語を取り合わせるのは避けるのが定石のように思われているが、掲句は湖に水をあえて重ねているのだ。

〈水の秋〉は「秋の水」の傍題として歳時記に出ているが、秋の水とはベクトルが違う。「秋の水」が澄んだ水そのものを讃えるのに対して、〈水の秋〉は「水が美しい秋という季節」を讃える季語だ。〈湖に色濃きところ〉で脳裏に浮かんだイメージが、「秋の水」であればその湖のみに留まってしまうが、〈水の秋〉であることで、秋という季節そのものへと広がっていく。美しい湖の実景が見えない秋へと繋がって、大きな一句になっているのである。

2019年8月24日土曜日

●土曜日の読書〔100年前のパリジェンヌ〕小津夜景



小津夜景








100年前のパリジェンヌ

この世には好きなものを追いかけて、物理的に無理っぽいことも奇蹟的に達成してしまう変人がいる。

このまえ、山間の古道沿いにあるディーニュ・レ・バンという温泉町へ出かけたら、そんな変人の一人であるアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール(1868-1969)の旧居があった。

アレクサンドラはチベットのラサ入りに成功した初の外国人女性である。その経歴はいたって魅力的で、ロンドンおよびパリで東洋思想・チベット語・サンスクリット語を学んだのち、生活のためにオペラ座の歌手(なんと音大も卒業しているのだ)となってハノイ、アテネ、チュニスの舞台に立っていたが、仏教への思い絶ちがたく学究生活に戻り、43歳にしてインドへ出発、そこからは玄奘三蔵ばりに諸国を冒険、砂漠や山岳でいくども飢えや死の危険に晒されつつチベットを目指すというのだからとんでもない。しかもこの初回の旅がいきなり14年間にも及ぶのである。当時鎖国中だったチベットの国境をどうやって突破したのかというと、
私はアルジョバ(巡礼)の扮装をしようと決めた。それは、目立たずに旅行する最良の方法だろう。ヨンデンは実際に学識あるラマ僧であって、私の息子の役をうまく果たすにちがいなく、信仰心から長い巡礼旅を企てたという彼の老いた母(私)は、人々の心を打ち、好印象を与えるに違いなかった。
このように考えたことが、こう決心した主な理由だったが、正直なところ、召使や馬や荷物で心を煩わすことなく、毎晩戸外で思いのままに眠るアルジョバの完全な自由に、私は大きくひかれたのだった。
この一〇ヵ月間の旅行の間には、風変わりな巡礼の生活の不自由も苦労も、そして喜びも味わいつくした。それは夢見うるかぎりの甘美な生活であり、また私にとってかつてない最も幸せな日々であった。肩に僅かな貧しい荷物を背負い、山を越え谷を越えて素晴らしい「雪の国」を放浪したのだった。A.ダヴィッド=ネール『パリジェンヌのラサ旅行1』)東洋文庫)
と、乞食巡礼の老婆に扮し、外国人とバレないよう何も持たず、のちに彼女の養子となるラマ僧ヨンデンを連れ、中国雲南地方からラサまでの山々を数ヶ月かけて徒歩で渡りきったのだ。このときアレクサンドラは55歳。過去4度捕まり、5回目での成功だった。

で、そんな情熱家の旧居だもの、さぞかし本気の東洋趣味なのだろうと思ったらこれが違った。楽しく、愛らしく、ブリコラージュ精神があって(単に大雑把とも言う)いかにもパリジェンヌらしい。パリジェンヌといえば、『パリジェンヌのラサ旅行』という書名は売るための邦訳ではなく原題も《Voyage d'une parisienne à Lhassa》というのだけれど、ひょっとしてこの本はいわゆる「パリジェンヌもの」の元祖でもあるのだろうか。刊行は1927年である。もしそうなら、いやそうでなくても、100年前の「パリジェンヌもの」は最高にダイナミックだったんだなあ。


2019年8月23日金曜日

●金曜日の川柳〔根岸川柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






茹でたらうまそうな赤ン坊だよ

根岸川柳 (ねぎし・せんりゅう) 1888~1977

久しぶりに赤ん坊を抱いた。赤ん坊は無垢で、まるまる、つやつやしていて、本当に可愛い。こちらまで心が浄化されそうである。今の赤ん坊は生れたときからしっかりした顔つきをしている。環境と栄養のおかげだろうか。

ふと、掲句を思い出した。それにしても「茹でたらうまそうな」などとはよく思いつくものだ。いったいどうしたらこんなことを考えつくのだろうか。もちろん、新米パパ、ママには言わない。口に出したら、そんな目で赤ん坊を見ているのかと度胆を抜かれ、抱いている赤ん坊を急いで取り上げられてしまうだろう。しかし、赤ん坊に対してこれほどの褒め言葉はないのかもしれないとも思う。思いがけないものがぽんと投げられたような一句。自由な豊かな連想力である。根岸川柳のエンタテイメントなのだ。

2019年8月21日水曜日

●ショパン

ショパン

終りに近きショパンや大根さくさく切り  加藤楸邨

草萌えにショパンの雨滴打ち来たる  多田裕計

幻想即興曲的流しそうめん  羽村美和子〔*〕


〔*〕『ペガサス』第5号(2019年8月)

2019年8月19日月曜日

●月曜日の一句〔ふけとしこ〕相子智恵



相子智恵







月の出をもそろもそろと藻屑蟹  ふけとしこ

句集『眠たい羊』(ふらんす堂 2019.7)所載

はさみや脚に藻屑のような毛が生えた「藻屑蟹」。全国の河川に生息する蟹だ。

掲句、「もそもそ」と「そろそろ」を合わせたような〈もそろもそろ〉という造語のオノマトペが見事だと思う。〈もそろもそろ〉は藻屑蟹の歩く姿の描写であり、歩く音も表しているだろう。その上、細かくびっしりと生えた藻屑のような毛の形状まで〈もそろ〉の音からは見えてくる。

さらに〈もそろもそろ〉と〈藻屑蟹〉の「も」の頭韻が、この句のリズムと手触りを決定づけている。〈月の出を〉の上五を「や」のような切字で切らなかったのも、「O(オー)音」の響きを活かしているのだと思う。次のようにローマ字に起こしてみると、目と耳とが一体となって一句の世界ができあがっているのがよくわかる。

TSUKI NO DE WO MOSORO MOSORO TO MOKUZUGANI

月が出て、秋の硬く澄んだ月光が〈もそろもそろ〉とやわらかい藻屑蟹を照らし始めた。びっしりと生えた藻屑のような毛の一本一本がひっそりと白く輝き始める。ただその下を、藻屑蟹は〈もそろもそろ〉と歩いている。なんと静かな秋の夜の風景だろう。

2019年8月17日土曜日

●土曜日の読書〔空気草履〕小津夜景



小津夜景








空気草履

空気が好きで、空気をつかったアイテムについて、日々情報収集している。

その中に、空気草履という名の、よくわからないブツがある。

これは大昔、尾崎翠「空気草履」で知ったのだが、その小説というのが、貧しい女の子が夢で見た空気草履をひょんないきさつから手に入れる話で、甘ったるく感傷的で、エアー感覚が皆無な上に、肝心の草履のしくみが書かれていない。

空気草履は志ん生の自伝にも登場する。志ん生の師匠である馬生(4代目)が空気草履をはいて、目の見えなくなった小せん(初代)を見舞うくだりだ。
そうしたら小せんのおかみさんが、師匠が帰ったあとで小せんに
「いま勝ちゃん(馬生)が空気草履をはいてきましたよ」
「ナニ、空気草履をはいてきたと……」
小せんはそれを聞いて、ちょっと眉をくもらせていたが、口述で弟子に手紙を書かせ、それを師匠のもとへ届けさせた。その手紙には、
「お前も江戸っ子だし、俺も江戸っ子なんだ。お前とはこうして若い自分からつきあってきたが、いま聞いたら、お前はうちへ空気草履をはいてきたという。江戸っ子がそんなものをなぜはくんだ。江戸っ子の面よごしだ。きょう限り絶交するからそう思え……」
と書いてある。これを読んで師匠はびっくりして、なんとかという文士を中へ立てて、小せんのところへおわびに行ったというんですよ。そして中に立った文士が
「師匠、とにかくこの人も、わるい了見で空気草履をはいていったわけじゃない。つい出来ごころではいたんだから、どうかこのたびのことはかんべんしてやってもらいたい」
(古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(ちくま文庫)
空気草履がどんなものか、やはり見当がつかない。大辞林第三版の「かかとの部分をばね仕掛けにして、空気が入っているように見せたもの」との説明からだと、ドクター中松の「スーパーぴょんぴょん」しか思い浮かばないのだが、もしかしてそれでいいのか?

そして月日は流れ、きのう夫と待ち合わせた喫茶店で空気草履のことをふと思い出し、スマートフォンで検索したら、なんと実物写真が一枚だけ見つかった。大辞林の説明とは違い、横からみると、インソールとアウトソールの間が革製アコーディオンになっていて、つま先はミッドソール(すなわちアコーディオン部分)を挟んで上下のソールが固く縫い合わせてある。つまりまるきり鼻緒のついた蛇腹のふいごなのだ。これだと足を上げるたびにかかとの部分がふっと扇型にひらき、ふっ、ふが、ふっ、ふがっとなる。ふいごをふがふがふんで歩くのは、確かにちょっと阿呆っぽい。志ん生の本を読んだときは、江戸っ子の偏屈自慢はお腹いっぱいだよと思ったものだけれど、全くそんな話ではなかった。




2019年8月15日木曜日

●木曜日の談林〔三輪一鉄・杉木正友〕浅沼璞



浅沼璞








 蛍をあつめ千話文をかく 一鉄(前句)
月はまだお町の涼み花筵
  正友(付句)
『談林十百韻』下(延宝3年・1675)

まずは不易&流行の観点からーー

前句は車胤(しやいん)の故事「蛍雪の功」の不易をベースに、千話文(ちわぶみ)つまり痴話文(艶書)の流行を詠みこんでいる。

付句は花月の不易をベースに、お町(ちやう)つまり御町(官許の遊里)の流行を詠みこんでいる。



まだ月の出ない、夕涼みの花茣蓙(花模様の筵)で、蛍の光をたよりに艶書をものする遊女。



夏の恋の付合ながら、花の定座(二ウラ13句目)へと月をこぼしてもいる。

(「花筵」は雑の正花。「涼み」とあわせて夏の花の座となる。)



花の座の月は蕉門歌仙(初ウラ)で知られているけれど、談林百韻でもなされていたのであった。

芭蕉の式目解釈の革新性を云々するのであれば、談林くらいは多少チェックしておくべきだということの、ひとつの証左となろう。

2019年8月10日土曜日

●土曜日の読書〔未来から来た人々〕小津夜景



小津夜景








未来から来た人々

仕事から帰ってきて、共同玄関の郵便受けをのぞきこむと、voyanceと書かれたチラシが入っていた。

フランス語のチラシにvoyanceとあったら、それは間違いなく透視術の宣伝である。透視術のチラシはだいたい月2、3枚ポスティングされている。この種のことに興味のない私には完全に未知の世界だ。

というようなことを、いつだったか知人に話した。するとその知人は占い好きだったようでフランスの占い師事情についてあれこれ教えてくれた。まず彼らのほとんどが女性で、残りの男性はおおむねホモセクシュアルである。新聞や雑誌に広告を出し、事務所を構え、時には秘書も抱えている。料金は50ユーロから100ユーロくらい。うんぬん。

「透視の道具はなんなの。水晶かタロット?」
「そうね。あとは手相とか。そうだ、カフェドマンシーってのもあるよ」
「ん?」
「café・do・mancie。コーヒーの飲み残しから運勢を判断するの」

なんと。それは茶柱的なものなのか。文化人類学的な興味が湧いて、知人と別れてから本屋に寄って調べてみた。
この風変わりな透視のメディアは、現代ではフランスの占い師の間で使われることはまれである。大流行したのはベル・エポックの頃で、今ではほとんどかえりみられない。その起源はおそらく十八世紀の終わりであろう。この占い術に関する最初の文章は、フィレンツェの占い師、トマス・タンポネッリによって書かれている。実際にこのメディアを使う場合には二通りのやり方がある。(ジョゼフ&アニク・デスアール『透視術――予言と占いの歴史』白水社)
 この二通りのやり方というのは、(1)よく水を切ったコーヒーの出しがらをソーサーにあけ、数回ゆすって広げる。あるいは、(2)カップの中のコーヒーを少しだけ残し、ひっくり返してソーサーにかぶせる。こうして生まれた模様の形からメッセージを読み取るのだ。他にも卵の白身占いや、インクの染み占い、水中の気泡占いなど、昔の占い師はありとあらゆる現象から未来を読み取ってきたらしい。ふうむ。

私は郵便受けに入っていたチラシを二つに折ると、共同玄関のゴミ箱に捨てた。そういえばフランス人は、デジャ・ヴェキュ(すでに体験した)とかデジャ・ヴュ(すでに見た)といった表現が好きだ。もしかすると彼らが未来に興味があるのは、実は自分がその未来からやってきた証拠が欲しいからなのかもしれない。


2019年8月9日金曜日

●金曜日の川柳〔星井五郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






いつ使えばいいかわからぬ方程式

星井五郎

方程式と急に言われても、すぐに思い浮かばない。方程式を解きなさいという設問があったことの方が覚えている。さて、どんなものだったのか。勉強したくないとき、定期テストの前日など、なんで、こんなと覚えなければならないのかと腹を立てていた。こんなことを学んでも何の役にもたたないとも思っていた。なのに、今になってもっと勉強しておけばよかったと思うことがたびたびある。

実生活に役に立つことだけに価値があるのではないということをうすうす気づいて、だんだんとわかりだしたのは学校を卒業しただいぶ経ってからである。そういうことを含めて教えてくれたのが、考える訓練してくれたのが、方程式に代表されるものだったのかもわからない。結論だけがすべてではなく、過程を大事にする。星井さんに無意識に使っているのですよと伝えたい。いや、そんなことがわかっているから一句にしたのだろう。「触光」(61号 2019年刊)収録。

2019年8月8日木曜日

●老人・その2

老人・その2


老人がすつぽり入りし日傘かな  細川加賀

わらはぬ老人隙間があれば苔を貼り  三橋鷹女

老人が被つて麦稈帽子かな  今井杏太郎

老人はうすくたなびくように来る  清水かおり〔*〕

蟹と老人詩は毒をもて創るべし  佐藤鬼房

老人やみみず両断され共に跳ね  永田耕衣

朝顔市種無し老人の昼の出店  仁平勝

老人やまた大げさに威銃  草間時彦

湯がちゆんと沸き老人に師走あり  岸田稚魚

野を穴と思ひ跳ぶ春純老人  永田耕衣


〔*〕『川柳木馬』第161号(2019年7月)

≫過去記事:老人
http://hw02.blogspot.com/2010/09/blog-post_15.html

2019年8月5日月曜日

●月曜日の一句〔行方克巳〕相子智恵



相子智恵







立志伝すぐに晩年緑濃き  行方克巳

句集『晩緑』(朔出版 2019.8)所載

立志伝とは「志を立てて、苦労と努力の末に成功した人の伝記」だから、苦労と努力の部分が短くて、すぐに成功した晩年になってしまう立志伝というのはあっけなくて滑稽味があって、一読、面白いと思った。だがじっくり反芻してみると、この句はそういうことを描いているのではないのだろう。

大河ドラマに出てくるような歴史上の偉人でも、市井の一個人の自叙伝でも、たいていの立志伝というのは、苦労や努力の部分が長く詳細に描かれる。そこにこそドラマがあり、面白いからだ。

つまり、立志伝そのものがすぐに晩年になるように書かれているわけではなく、これは立志伝を「読んでいる速さ」を描いているのだろう。「楽しい時間はあっという間に過ぎる」という、あれである。苦労し、困難を乗り越える努力の物語は確かに面白い。

もっと言えば、立志伝を読む立場すら越えて、この句を読むひとり一人のもつ小さな立志伝ともつながってくる句なのだと思う。理想を志して突き進み、挫折したり、乗り越えたりする若い時というのは、渦中では苦しいけれど、あとから考えてみると「苦労しながらも、あの時がいちばん活き活きして楽しかった」とか、「あの時の自分があるから今がある」と懐かしむような気になったり、時には実際よりも美化したくなる気持ちに往々にしてなるものだ。

現代は「長い晩年」に向き合わなければならない時代だ。この句は普遍的だが、現代において〈すぐに晩年〉は妙にリアルな気もする。〈緑濃き〉という季語に充実感があり、まだ枯れていないのも、現代的な「長い晩年」をそこから感じ取ることができる。

2019年8月3日土曜日

●土曜日の読書〔らくがき〕小津夜景



小津夜景








らくがき

チョークをもって、海辺までらくがきに行った。

らくがきすると考えごとがはかどる。身体の中に無意識のテンポが生まれるのだ。逆に手足をうごかさず、じっとしながら考えると全然うまくゆかない。思考の底でまったく別の案件を同時にいくつも思い巡らしてしまい、のうみその動作が重く鈍くなるらしい。

らくがきの癖は母親譲りで、母もまた家中のいたるところにらくがきをする人だった。特に会話をしていると手がとまらない。なんだったのだろうあれは。人と話すのが退屈なのだろうか。
かの有名なポンペイの壁に彫られた落書きもまた、古代の人々の退屈を記録したラテン語碑文であるが、こちらはもっといたずらっぽい感じだ。その壁は一面ラテン語で落書きされていた。古代ローマのどこかのチンピラが、そこに茶化すようにこう彫りつけている。「壁よ! こんなにも大勢の連中の退屈を受け止めて、よく粉々にならないものだな」。(……)今日においてもまさにそうだが、落書きというのはたいてい退屈した若者たちの、暇にまかせた破壊行為の産物なのだ。(ピーター・トゥーヒー『退屈 息もつかせぬその歴史』青土社、168頁)
トゥーヒーによれば、退屈とは世界から疎外された時に感じる空虚であり、セネカが『道徳書簡集』においてそれを「吐き気」と喩えた時代からの長い伝統がある。あの有名なサルトル『嘔吐』もこの系譜だ。もちろんいにしえの素朴な退屈が実存の退屈へと進化をとげるには、近代的知性を通過する必要があるのだけれど。

そう、話をふりだしに戻す。私は海辺に出たのだった。ささやかな、けれども回避しがたい生活上のある難題についてよく考えるため、代謝色をした一世紀前のレンガの壁に、私は波の線を引いた。それからレモンの形をしたクラゲをそのあわいに浮かべた。さらに椰子風の海藻を描いていたら、ストローハットの老人がにこやかに近づいてきて、

「ほら、あそこにたくさん鳥がいる。ぜひあれも描いてください」と空を指さした。

  私は空を見る。鳥は一羽もいない。

「見えないかな。あそこですよ」

  私の肩に手を回すと、老人は空のようすを実況しはじめた。

「よく見える目ですね」

「そうさ。長く生きてきたからとてもよく見えるんだ。あなたのチョーク絵だって、たとえ明日には消えてしまうとしても、いま見えるものをぜんぶ描いておかないとね」

老人は言った。子供に教え伝えるように。その表情から、この老人が、一人で絵を描いている私が孤独にみえて放っておけなかったのだ、とわかった。


2019年8月2日金曜日

●金曜日の川柳〔橘高薫風〕樋口由紀子



樋口由紀子






勲章の欲しい七才七十才

橘高薫風 (きったか・くんぷう) 1925~2005

30年ほど前に作られた川柳である。当時の七十才はもう人生も上がりで、余裕を持って、余生を楽しんでいただろう。一方、今の七才はませていて、おもちゃの勲章なんかには見向きもしないだろう。時代時代の年齢のイメージに多少のギャップはあるが、案外、人間の意識の底には変わらないものが流れつづけている。

我が家にはちょうど七才と七十才がいるが、これといった共通項はない。七繋がり以外、一見無関係と思われる年齢に「勲章が欲しい」という一点でもって関係性を繋いだ。七才が欲しい勲章と七十才が欲しい勲章は全く別のものだということを当然の前提として、そこをユーモアでつないで、共感の器にすっぽりとはめ込んでいる。「勲章」は殆どの人にはほぼ関係ないものなので、ことさらに意識するものではないが、共同幻想を抱くにはもってこいのものかもしれない。あるいは「勲章」を象徴として、お上から褒めていただきたいことを揶揄しているのだろうか。