2020年10月30日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






木は山にさておふくろの隠し場所

菊地良雄 (きくち・よしお) 1944~

「木は山に」は普通のコトである。しかし、「さておふくろの隠し場所」となると、えっと思う。木は何に使ったのか。母親を隠そうとしている。なぜ隠さなくてはならないのか。「おふくろ」はすでに物のように扱われている。それ以上のコトは何も言っていないが、私の中で恐ろしい想像がどんどん膨らんでいく。

川柳はさまざまな人に成り代わって書くことができる。作中主体が作者とは限らない。しかし、殺人者かもしれない人物を、それも母親を殺したかもしれないような人物を作中主体にすることは小説ではよくあるが、川柳ではほとんどない。「木は山に」と「おふくろの隠し場所」の倒置に一癖あり、事態を急変させる。また、「さて」という副詞が不穏なことを考え、緊迫感を与える。ふつうでないことを一句にし、健全であらねばならないというコードを外している。「ふらすこてん」第55号(2018年刊)収録。

2020年10月26日月曜日

●月曜日の一句〔巫依子〕相子智恵



相子智恵







秋灯のひとつは島へ帰る船   巫 依子

句集『青き薔薇』(2020.9 ふらんす堂)所載

秋の日はとっぷりと暮れて、家々の明かりや街灯がともる頃、港から海を眺めている。一艘の船の明かりが静かに遠ざかっていく。それは〈島へ帰る船〉だ。島との間の連絡船だろうか。

〈ひとつは〉だから、作者の眼には船の他にも秋の灯が見えている。それは海の向こうにある、船が帰り着く島の街灯や家々の明かりだろう。島はきっとそれほど遠くはないのだ。

点々と街灯がついて、暗い海に浮かぶ島の輪郭がわかる。秋の夜は更けてゆき、やがて船の秋灯も、島の秋灯の一部となる。星々の中に、ひとつの星が帰っていくように。

 

2020年10月23日金曜日

●金曜日の川柳〔峯裕見子〕樋口由紀子



樋口由紀子






西瓜だと思ってポンと割るがいい

峯裕見子 (みね・ゆみこ) 1951~

「西瓜だと思って」とあるから、「西瓜」ではない。それが何であるか特定していないから、いろいろと想像する。読み手によって思い当たるものはそれぞれ違う。このように誘導してくれるのもこの句の魅力である。

西瓜は割って食べるもので、割ると真っ赤な果肉が絵になる。割るものでなくても、絵にならないものでも、西瓜だと思って割ってみたらどうかと励ましているのか、そそのかしているのか。言い回しは独特で威勢がいいが、心の綾は少し微妙である。楽しくて、やさしく、それでいて繊細。生きていく処方だろう。真っ当に生きている人の匂いがする。結果はどうでるかわからないが、細かいことは気にしないで、丁か半か、ポンと割るだけでも、何かが変化するはずだし、スカッとするに違いない。川柳「びわこ」(第688号)収録。

2020年10月19日月曜日

●月曜日の一句〔如月真菜〕相子智恵



相子智恵







括られし秋明菊や湖へ向き   如月真菜

句集『琵琶行』(2020.9 文學の森)所載

  つかのまを近江住まひや遠砧

という句から始まる章の一句である。掲句の〈湖へ向き〉の湖はきっと琵琶湖、淡海だろう。〈秋明菊〉はもう終わりの頃なのだろうか。それともあちこちに向いてわさわさと咲くから、よく見せるためにまとめて括られてしまったのだろうか。湖の方に花が向いている。琵琶湖と秋明菊は秋の日に照らされて、寂しく静かな光を放ちあっている。もののあわれを感じる句だ。

  淡海より出る川ひとつ水の秋

琵琶湖に流れ込む河川は119本もあるのに、琵琶湖から流れ出る川は唯一、瀬田川(京都府内で宇治川、大阪では淀川と呼ばれ大阪湾に注ぐ)のみである。たっぷりと湛えられた〈淡海〉の水が、たった一本の川となって悠々と出ていく。〈水の秋〉は、水の美しい秋を讃える季語。まさにベストオブ水の秋、といった堂々とした句の姿ではあるのあるが、しかしながら、この句も〈ひとつ〉がどこか寂しい。

  蜻蛉朔日よこたへし琴の胴

  子を置いて出づれば天高しと思ふ

  ねむたげな一夜官女を先頭に

序によれば十年ほどの間に、横浜から尼崎、神戸、大津と転居したという。たっぷりとした諧謔も持ち味の作者だが、この句集には、そこに異郷を転々とするそこはかとない寂しさが加わっている。しかし一方で、この人のゆったりとした句柄は、歴史ある関西の水と風土に本当によく合うとも思った。句が深みを増している。

筆者と同年代ということもあり(句歴は比べるべくもないが)、気づいたら二十年以上読んできた作家だ。今はこういう場所にたどり着いたのだな、としみじみ思った。

不思議と秋が似合う句集だな、とも思った。

 

2020年10月16日金曜日

●金曜日の川柳〔柏原幻四郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






昭和六十年の桜を見ておこう

柏原幻四郎 (かしはら・げんしろう) 1933~2013

昭和六十年はどんな年だったのかなとまず思った。個人的になにかがあったのか、あるいは世の中に特別の何かがあったのかと思った。御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、多くの方が亡くなられたのも昭和六十年だった。しかし、この句は桜の季節だから、それ以前で、その感傷ではない。

昭和六十年に意味を持たせて深読みしたくなるが、そんなものはありませんよと穿っているような気もする。意味を持たせた方が、物語が作れて、容易に感情移入でき、読み解きやすい。一年間には様々な出来事が起こる。何もない一年なんてない。しかし、有ってもなにも無い。今の、その年の、単なる気持ちなのだろう。「見にいこう」ではなく「見ておこう」により意志を感じる。令和二年の紅葉を見ておこうと思った。「川柳瓦版」(通巻313号 昭和60年5月5日刊)収録。

2020年10月12日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐のぞみ〕相子智恵



相子智恵







秋澄みて宣誓のまつすぐな腕   甲斐のぞみ

句集『絵本の山』(2020.7 ふらんす堂)所載

説明の要らない鮮やかな写生句である。運動会や体育祭、あるいは部活動の大会などであろう。秋の澄んだ空気の中で、開会式の選手宣誓が行われている。生徒代表の腕は真っ直ぐに秋の空へと伸びて、高らかに宣誓の言葉を告げている。

〈まつすぐな腕〉は、見えている以上のものを確実に伝える。それは選手の誠実さだったり、緊張感だったりといった内面だ。凛とした〈まつすぐな腕〉は、すべてが美しく見える澄んだ空気の中で、何よりもまぶしい。

 

2020年10月9日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子






太刀魚のひかりするするとしまう

瀧村小奈生(たきむら・こなお)

太刀魚が釣り上げられた瞬間を見たことがある。まばゆいばかりにきらきらとして、この世のものではなかった。陸にあがるとひかりは急速に力を失くした。海に居てこそのひかりで、釣り上げるべきではないと思った。

「するする」というさまが実にいい。素早く、一瞬に、ひかりを外にもらさないようにとの配慮がうかがえ、その動作が目に浮かぶ。さて、どこに仕舞うのだろうか。「太刀魚」は銀色の外観で、「太刀」に似ているところから「太刀魚」と名付けられた。太刀を自分の懐にしまうようにひかりを自分の裡にしまったのだろうか。明と暗、光と影の絶妙のコントラストである。「太刀魚」だけの漢字が「太刀魚」映えしている。「第二回柳俳合同誌上句会」

2020年10月7日水曜日

【水曜日の二句】針と釘 西原天気

【水曜日の二句】
針と釘

西原天気


月光を針千本にかへてやろ  柿本多映

月光が釘ざらざらと吐き出しぬ  八田木枯

月光を鋭利に感じたことはないが、金気(かなけ)のようなものはあるような気がする。形状よりも質感や匂いが(光はさわれないし香りはないという指摘はさておき)、月光を針や釘に結びつけるのかもしれない。

柿本多映(1928-)と八田木枯(1925-2012)はほぼ同世代。掲句。主体が異なり、前者のほうがアクティブ。作者/作中主体が働きかける。


柿本多映『拾遺放光』2020年/深夜叢書社
八田木枯句集『鏡騒』2010年/ふらんす堂

2020年10月5日月曜日

●月曜日の一句〔澤好摩〕相子智恵



相子智恵







落鮎に日照り月射す残んの日   澤 好摩

句集『返照』(2020.7 書肆麒麟)所載

産卵のために川を下る〈落鮎〉を、川の一地点で捉えるのではなく、鮎と共に川を下るように描いている。〈落鮎〉が何日かけて川を下るのかはわからないのだけれど、昼間は秋の日差しに照らされ、夜には見事な月光が射し込み、それを幾度か繰り返すのだろう。〈日照り月射す〉で、昼も夜も秋の静かな光にきらきらと照らされる一本の川と、川浪にきらめきながら下っていく一匹の鮎を夢想する。

下流にたどり着いて無事に卵を産めたなら、そのあとにはすぐに死が待っている。美しい秋の日光と月光に照らされる日々は〈落鮎〉の〈残んの日〉なのだ。〈残ん〉は「残り」の音が変化したもの。古語の響きが柔らかく、鮎の残りの日々に対する作者の慈愛のまなざしを感じる。

それにしても下五でやってくる〈残んの日〉という古語と内容には、ふいに驚き、深く納得する。前衛/伝統では括れないような、この人のもつ俳句の美しさにこうして触れてゆくのである。