先ごろ神奈川県立金沢文庫の特別展「兼好法師と徒然草――いま解き明かす兼好法師の実像」を観てきました。
●
中世の隠者である兼好と近世の俳諧師西鶴――リンクしづらい感は否めないのですが、実は西鶴は『徒然草』の愛読者で、さまざまな引用を自作で試みています。
当然それは西鶴の生き方にも影響していたようで、先師・廣末保氏は〈西鶴については、兼好のなかに萌芽的にみられる市井の隠者の、町人的な展開を予想することができる〉としています(『芭蕉と西鶴』1963年)。
●
その兼好については、鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷に仕えた後、出家して『徒然草』を著した、というのが通説です。
ところがこの出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものであることが、小川剛生氏の『兼好法師――徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017年)により明らかとなりました。
本展でも国宝 称名寺聖教・金沢文庫文書を繙いて、若き兼好が金沢北条氏に仕え、朝廷と鎌倉を行き来していたことなど、知られざる実像を解明しています。
●
一方で本展では、「吉田兼好」と通称されるようになった近世期の版本も多く展示。
わけても『徒然草』ブームを牽引した絵入りの注釈書は、西鶴も享受したと思われますが、皮肉なことにそれらを著したのは貞徳や季吟など、貞門俳諧のリーダーたちでした。
●
そういえば西鶴は、『世間胸算用』のルーツとなる代表句、
大晦日定めなき世のさだめ哉の前書に、〈よし田の法師が書出しも、今もつて同じ年のくれぞかし〉としたためています(「画賛新十二ヶ月」)。
これは『徒然草』十九段で描かれた大晦日の、人の門(かど)をたたく魂祭りの風習を、借金取りのアクションに見立てた(?)俳文です。
つまり『世間胸算用』のルーツのルーツとして『徒然草』は捉えられるわけですが、更にここで改めて注視したいのは〈よし田の法師〉という呼称です。
通説に従って「吉田兼好」と教科書で習った私たち同様に、西鶴もまた〈よし田の法師〉と手習いで学んだのでしょう。
(最近の中高の教科書では、小川説の影響か「兼好法師」で統一されているようです。)
●
会期は7月24日(日)まで。
大晦日はまだまだ先ですが、門をたたいてみては如何でしょうか。
●