2010年7月31日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔29〕滝・上

ホトトギス雑詠選抄〔29〕
夏の部(七月)・上

猫髭 (文・写真)


滝の上人あらはれて去りにけり 原城 昭和2年

滝の上(うへ)に水現はれて落ちにけり 後藤夜半 昭和4年

夜半の句が余りにも有名なので、その2年前に詠まれた原城(筑後の俳人とのみで詳細不明。島原の乱の原城に因んで「はらじょう」という俳号か)の句が夜半の句のパロディのように見えてしまう。虚子編『新歳時記』の例句にも夜半の句が7句目に引かれているのに、原城の句は33句目に出て来るので、『ホトトギス雑詠選集』を読んでいない読者には、例句は年代順に普通は沿うと思うから、原城の句が夜半の句を踏まえて水の代わりに人を出した面白さで虚子は採ったのかと思ってしまうだろう。

実はわたくしも『新歳時記』を先に読んでいたので、パロるなら「滝の上人あらはれて落ちにけり」だな、などと馬鹿なことを考えた。わたくしの郷里茨城県には人気NO.1の袋田の滝があるし、遠足には隣県の栃木県の華厳の滝に行く習いだったから、特に華厳の滝は藤村操の「巖頭之感」という哲学的な遺書で有名な自殺の名所なので、関係妄想症のように、「瀧をのぞく背をはなれゐる命かな 原石鼎」「飛込の途中たましひ遅れけり 中原道夫」「たましひに遅れていのち泳ぎけり 角川春樹」などと、滝壺で泳げて良かったというところまで妄想してしまう。

夜半の句は「ホトトギス」初出の表記を挙げたが、これだけ有名な句なのに、表記に異同があり、訓みにも異同がある。『新歳時記』の表記は、

瀧の上に水現れて落ちにけり

である。また、同時に「雑詠選」に採られた、

滝水の遅るゝごとく落つるあり

も、『新歳時記』の表記は、

瀧水のおくるゝ如く落つるあり

である。「滝」も「瀧」も古くからあった字なので、どちらでもいいようなものだが、垂直に一本ずどんと落ちるのは「滝」で、横に広がる瀑布的な感じが「瀧」のように個人的には勝手なイメージがある。比較的に小さなのが「滝」で日本三名瀑のように大きなのが「瀧」というイメージを持っている人もいるが、ナイアガラやイグアスの規模になると、「瀑布」としか言いようが無いとも思う。

また、「滝の上に」の訓みは、定型に収めて「滝の上(へ)に」と訓むか「滝の上(うへ)に」と字余りで訓むか、意見が分かれるが、「滝の上(うへ)に」と訓むのが正しいようである。字余りの方が水が満々と盛り上がる様が見えるとわたくしは思っていたが、夜半が原城の句を知らなかったはずはない。夜半が原城に敬意を表して、同じく「滝の上(うへ)」と訓んだという気もする。

(つづく)

2010年7月30日金曜日

●酒場

酒場

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋 閒石

酒場には紙の桜の弥生かな  吉屋信子

打水の向ひのバーに及びけり  鈴木真砂女

螻蛄更くる酒場にふふと嗤ひ声  中島斌雄

雪降るとラジオが告げている酒場  清水哲男


2010年7月29日木曜日

●ジュースバー 中嶋憲武

ジュースバー

中嶋憲武

地下街はひかりに満ちて水中花 さいばら天気

ユウジはいつもわたしを待たせる。今日も携帯に15分遅れるって、メールが入った。15分!このうら若き乙女の人生の貴重な時間を、一体全体なんだと思っているのだろう。傲慢無礼とは彼のことだ。

直射日光にこのまま晒されていると、光になって消えてしまうと思われたので地下街に入ることに決めた。本日の最高気温は34度だと予報士の渕岡さんが言ってた通り、猛暑だ。地下街は灼熱の地上よりも、ひんやりとしていい気持ち。予報士の渕岡さんは、毎日センスのいいものをお召しになっている。どこで買っているのだろう。かわいいショップを覗きながら、あれこれと洋服をみた。

喉が乾いたので、ジュース・バーでキウイジュースを飲んだ。よく冷えていて、天国な気分なり。着信。ユウジからだ。ユリ、ごめんな。いま着いた。せっかく天国気分なのに。もうちょっと待たせてやろう。頬をへこませて、キウイジュース飲みながら、そう思った。


2010年7月28日水曜日

●反省会 中嶋憲武

反省会

中嶋憲武

はつなつのコップの跡は水である 笠井亞子

負けた。完膚無きまでに、ものの見事にやられたのだ。1セットも取れなかった。いくら練習試合とは言え、わがチームはこれでいいのだろうか。

反省会をしようと、みんなで「大判屋」へ入った。みんな負けたのに、明るい。くやしがっているのは、わたしだけだ。セッターのリョウコなんて、ひとつもいいトスを上げなかったのに、クリームあんみつが甘過ぎると言って、大笑いしてる。中学最後の市内大会をどう思ってんのだろうか。わたしは内向的な性格なので、そんな建設的な発言は出来ない。
 
キャプテンのヒロミはチェリオのグレープを飲んで、「コックリさん」をしようと言い出した。ちょっと、反省会はどうなってんのよ、と心のなかで言った。

ヒロミ自ら指を10円玉の上に置いて、お伺いを立てている。みんな真剣な顔だ。バカみたいと、わたしは思った。そう思った時、チェリオが半分残っているコップが、すーっと動いた。


2010年7月26日月曜日

●プール

プール

ピストルがプールの硬き面にひびき  山口誓子

夜の辻のにほひてどこかプールあり  能村登四郎

いろいろな泳ぎ方してプールにひとり  波多野爽波

ライターをつけてプールにまだ濡れず  平畑静塔

柩形のプールに母を泳がしむ  齋藤愼爾

プールより上る耳たぶ光らせて  西村和子

夜のプールからだは夜の燈に濡れて  田中裕明

明日ひらくプール細かな波を立て  森田峠




2010年7月25日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】どんどん俳句的じゃなくなっているかもしれない日常

【裏・真説温泉あんま芸者】
どんどん俳句的じゃなくなっているかもしれない日常

さいばら天気


某日。ふだんあまり行かない句会に参加させてもらう。二次会で若者がツイッターでの発言に慎重であることを聞き及び、「あんなもの、誰も読んでないんだから、気にする必要ない」と述べたところ、横から女流俳人が「あんたは無防備すぎ」。「すんません」とあやまる。

同じ二次会で就職先の決まった別の若者が句集を出す算段の話。「句集どころじゃないだろう。運転免許が先だ」と横暴かつ親身に助言。それだけならまだしも、「では、こうしよう」と句集のタイトルを提案。心のなかで「ふざけるのも、いいかげんにしろ」と自分をたしなめる。

日曜日。『豈 Weekly』が終刊。こういうものはふたつあるほうがいいと思っていた。つまり週豈と週俳。この2誌は方向性やら何やら違うところが多い。終刊は残念だが、100号打ち切りというこのスタイルも週俳とは違う週豈の独自性。週俳は「終わらない」ことを独自性にすべく。

某日。猫が残したゴハンに蟻がたかる。どの隙間からやってくるのか、気がつくと、たかっている。いい解決方法が見つからないので、妻に、「良い考えがある。ウチは猫だけではなく蟻も飼っていると思えばいい」と提案したところ、「それは、いやだ」と、にべもなく否認される。

某日。映画「スモーク」(ウェイン・ワン監督・1995年)をDVDで観て、なぜか、最愛の歌詞「銭のない奴ぁ、オレんとこへ来い。オレもないけど、心配すんな」(ハナ肇とクレイジーキャッツ)を思い出す。歌詞の続きは「見ろよ、青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろう」。

某日。同人「豆の木」やオンライン句会でご一緒している月野ぽぽなさんの現代俳句新人賞受賞の報。受賞作「ハミング」より「毛皮より短きいのち毛皮着る」「手紙読む月の樹海をゆくように」「みずうみは凍てて翼の昏さかな」。週俳にも、ぽぽなさんの10句作品「秋天」が。

某日。平山夢明『DINER』(ポプラ社・2009年)に故・山本勝之への献辞があることを知り、購入。めくると、あった。「山本勝之氏の愛とでたらめに捧ぐ」。そうなのだ。週俳に残された彼の文章も、私が知っている彼も、まさしく「愛とでたらめ」そのものなのだ。

ふと「水着」ということばを思いつき(dedicated to 七曜俳句クロニクル)、ウラハイに6句の極小アンソロジー、というのは嘘で、ウラハイは事前の仕込みが毎日正午に自動アップロードされるしくみ。冬のアンソロジーをいま思いつくのもオッケーという、これはbloggerの便利な機能。

グレープフルーツの果肉の色。2010年7月24日夕刻の月はそんな色。晩御飯を済ませてから、近くのシネマコンプレックスへ。「告白」(中島哲也監督)を観る。夜中にクルマで出かけるシネコンは、Tシャツにジャージというアットホームな恰好で観られるのがうれしい。



2010年7月23日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔28〕大暑

ホトトギス雑詠選抄〔28〕
夏の部(七月)大暑

猫髭 (文・写真)


念力のゆるめば死ぬる大暑かな 村上鬼城 大正4年

今日は「大暑(たいしょ)」。【 (1)厳しい暑さ。酷暑。(2)二十四節気の一。太陽の黄経が一二〇度に達した時をいい、現行の太陽暦で七月二三日頃に当たる。一年中で最も暑い時期。六月中気。〔季〕夏。】(大辞林)の通りに、今年は、暦の上からも、お天気の上からも暑さの上に大の付く35℃前後の猛暑が、ここ那珂湊では梅雨明けとなった7月18日(日)から続いた。新聞配達のバイクの音で目覚めれば、今は午前3時を過ぎたところで、夜が明ける前から27℃の熱帯夜である。30℃を越す時間が毎日一時間近く縮まるような猛暑の一日が始まろうとしている。一昨日群馬県館林に仕事で出かけた顔馴染の古物商は熱中症になって帰って来た。赤銅色に日焼けした海育ちとはいえ、体温を越す38.9℃の炎天下で無帽で力仕事をしたそうな。那珂湊も猛暑日だったが、町自体が隙間だらけなので海風が通る。館林は風が死んでいた。まさしく、「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」である。これほど暑い「大暑」の句は無いと言っていいほど暑い。そう言えば鬼城も群馬県高崎の人だった。

掲出句は「ホトトギス」大正4年12月号の巻頭句20句の一句である。他に「麦飯のいつまでも熱き大暑かな」が並ぶ。

歳時記は、基本的には同じ句が二度載ることはない。季重なりの句であっても、両方の季題に載ることはなく、季題の主従関係の主の方の季題に載る。例えば、『新歳時記』では「切株に鶯とまる二月かな 原石鼎」は「二月」の季題の例句として載り、「鶯」には載らないし、季重なりで一番有名な古今の句は「目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹 山口素堂」だが、これは「初鰹」というように、「青葉」や「時鳥」には引かれない。

ところが、虚子の『新歳時記』には、同じ句が二度載っている。それが鬼城の掲出句である。「暑さ」(六月)と「極暑」(七月)の両方に例句として載っている。実に珍しい引用句の重複事例である。

わたくしが持っている『新歳時記』は昭和26年の増訂版で、昭和9年の初版と昭和15年の改訂版は参照していないが、平成22年の今日まで76年経っているのだから、誰かが指摘してもいいはずだが、寡聞にして知らない。昭和14年の『ホトトギス雑詠選集』には「暑さ」(六月)だけで晩夏の「大暑」は立てられてはいない。したがって、掲出句は「暑さ」という三夏であり、『新歳時記』の版のどこかで、「極暑」(七月)の傍題に「大暑」と「三伏」を増補して掲出句を移し、元の「暑さ」の例句を消し忘れたのかもしれない。

虚子が「極暑」の解説で「暦では陰暦六月の中に大暑といふ日を置いた」という前提で鬼城の句を「暑さ」(六月)として入れ、太陽暦では「七月二十三日・四日に当る」という前提で鬼城の句を「極暑」(七月)に入れているのは、陰陽暦それぞれに添えば間違いでは無いが、「俳句ではどうしても何れの季にか一定せねばならぬ」と虚子が言うのであれば「何れの月にか一定せねばならぬ」とも言えるので、「大暑」の次の「二十四気」は、暦の上では「立秋」であるから、ここは「極暑」(七月)ということになるだろう。事実、梅雨が明けて、これから夏休みが始まり、夏本番ということになるので、「季を決定するについてはあくまで文学的見地から季題個々について事実・感じ・伝統等の重きを為すものに従つて決定した」という序の言葉にも沿うと思われる。

ところで、これだけ個性的な「大暑」の句は、例句が一句といった季寄せには、強烈過ぎるから引かれないかもしれないが(『角川書店編季寄せ』や『平井照敏編季寄せ』など)、例句を沢山引く「大」を付けた歳時記にはほとんど引かれるのに、「質・量ともに最高・最大の本格歳時記!!」と腰帯に巻いた『角川俳句大歳時記』の「大暑」には、例句20句中に鬼城の句はなく、字足らずの句として能く引用される「兎も片耳垂るる大暑かな 芥川龍之介」で始まる。『ホトトギス雑詠選集』の「暑さ」の季題には、鬼城の掲出句に続いて、

鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな 我鬼 大正7年

という虚子選の芥川の句もあるが、鬼城の念力の句が「大暑」の項目に載っていない大歳時記というのは、わたくしには解せない。

2010年7月22日木曜日

●ペンギン侍 第32回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第32回 かまちよしろう

前 回

つづく

2010年7月21日水曜日

●水着

水着

水着著て松がちくちくする中に  岸本尚毅

無思想の肉が水着をはみ出せる  長谷川 櫂

ひろげればはじめて水着かと思ふ  田中裕明

水着捨ておかれ広告代理店  櫂未知子

少女みな紺の水着を絞りけり  佐藤文香

雫する水着絞れば小鳥ほど  岩淵喜代子

2010年7月20日火曜日

●コモエスタ三鬼23 暗号解読

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第23回
暗号解読

さいばら天気


1940年(昭和15年)8月31日朝5時30分、京都府警の特別高等警察・警部補ほか4名のが東京・大森の三鬼自宅を家宅捜索。三鬼は京都府警へと連行される。その年の2月に始まった「京大俳句」関係者の検挙の最後が三鬼だった。「京大俳句事件」として知られる言論弾圧事件。容疑は治安維持法違反だった。

新興俳句の多くの作品と「共産主義」を結びつける根拠は乏しいが、三鬼が興味深い例を挙げている。
(…)私を担当した高田警部補が、奇妙きてれつな俳句解釈をするので、私が笑い飛ばすと、彼は憤然として「僕達は専門家に講習をうけたのだ」と口ばしり(…)

  昇降機しづかに雷の夜を昇る

という私の句の意味は「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」というので、つまり新興俳句は暗喩オンリー、暗号で「同志」間の闘争意識を高めていたものだというのである。(西東三鬼「俳愚伝」)
雷の夜=国情不安、エレベーター=共産主義の昂揚とは、そうとうに噴飯物の「読解」だが、これに近いことは、いまも目にするような気がする。

暗喩(メタファー)の働きや象徴作用に着目して、句の「背後」を読み取ろうとする態度はたしかに存在し、それがまるで「深い」読み方であるかのように肯定される傾向さえ(どの程度広汎には定かではないが)存在する。

「自分の読みたいように読む」態度は、俳句=読み手の自由へと開かれたテキストとして句を享受することを目論んだつもりが、むしろさまざまに貧しく不適切な「読解」へと堕する危険も孕んでいる。「作品を自分のレベルまで引きずり落とすような読み方」、言い換えれば、わからない句を自分にわからせるために、「譬え」(暗喩etc)を読み取ろうとする。

あるいは、自分の好悪・目的に合致するよう、語句をメタファーや象徴の笊で濾過する。特高警察が三鬼の句に「共産主義」を読み取りたいがためにする暗号解読と同じことが、いまでも行われている。

もちろん、隠喩や象徴作用が働いてしまうケースがないわけではない。ある語がある脈絡に置かれるとき、隠喩として呼び寄せてしまう「意味」、言外の意味(コノテーション)は、たしかにあるが、それは個人の語句解釈によって召喚されるのではない。集合的(コレクティヴ)な働きとして、どうしても呼び寄せざるを得ないといったたぐいの事象である。

(ええっと、この「集合的」とは、オシム元監督が「コレクティブなサッカー」という言い方をしますね。アレです)

暗喩、象徴作用を用いての「自分レベル」「自分の関心事」への貶めは、意味への病的な固執ともいえる。あるいは、了解不能への恐怖症。雷の夜を昇っていくエレベーターというイメージを享受するだけで終わることができず、それが「なに」を意味しているのかに回答を見出さずにはいられないのだろう。


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2010年7月19日月曜日

2010年7月18日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔27〕夕立・下

ホトトギス雑詠選抄〔27〕
夏の部(七月)夕立・下

猫髭 (文・写真)


和歌には「歌枕」(「和歌を詠むときに必要な歌語・枕詞・名所など(大辞林)」)がある。芭蕉の『奥の細道』は、「序文」に「春立る霞の空に、白川の関こえんと」とあるように、能因法師の和歌「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を踏まえて「歌枕」を辿る旅であり、「草加」で述べる「耳にふれていまだ目に見ぬ境(場所)」とは、ずばり能因法師や西行や宗祇が辿った「歌枕」のことである。

時代が下ると、俳句にも「俳枕」が生まれ、辞書にも「俳句に詠まれた各地の名所・旧跡」(大辞林)と載っている。昭和51年版の「広辞苑」第二版には載っていないので、昭和末期の造語かと思われる。「俳枕」と題した本や連載はこの頃から見かけるから。俳句は和歌の連歌から派生しているから、「歌枕」のままでもいいと思うが、和歌と違って、俳句は歌語や枕詞を詠み込むには土俵が狭くて勇み足になるので、もっぱら「名所・旧跡」になることが多く、それも手近なところで、何らかの四季の見所のある場所に出向く、草枕的詠み方が一般的だから、「歌枕」の古代からの伝統美よりも目線を低くした「俳枕」という言葉を生み出したのだろう。

ところで、「歌枕」と「俳枕」の違いについてだが、名所旧跡選定の目線の高低という以外に、伝統美の世界の違いもある。「秋風ぞ吹く白河の関」という、一躍「白河の関」を「歌枕」にした和歌は、【能因は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながら此の歌をいださむ事無念と思ふて人にもしられず久しく籠居で、色をくろく日にあたりなして後「みちのくのかたへ修業のついでによみたり」とぞ披露し侍ける】 (『古今著聞集』)と評されたように、実は「見たことも来たこともなき白河の関」でも「歌枕」は美学として詠めるのに対して、「俳枕」は実際に「草枕」としてその場に杖を止めて詠むという違いがある。

「週刊俳句」に連載されている広渡敬雄氏の「俳枕」シリーズ(「青垣」からの転載)は、様々な俳人が各地の「俳枕」で詠む俳句が面白く、わたくしは楽しみに詠んでいるが、これらの「俳枕」は現地に実際に立って詠まれたものである。やはり、芭蕉の『奥の細道』に倣って、その土地へ行って授かる句のリアリティが句の味わいを作り、それは土地への挨拶句ともなるので、詠まれる方も「御当地ソング」の乗りで郷土愛を刺激されるのだろう。わたくしも実家の大洗や那珂湊で歌人、俳人、詩人、画家、小説家が作品を残すと、親しみを覚える。森進一が那珂湊の体育館で「港町ブルース」の最後にお愛想で「那珂湊」と入れるとやんやの喝采をするようなものか。

芭蕉の顰に倣ったのか、近松門左衛門の心中物、例えば『心中天の網島』の道行「名残の橋尽し」などは、歌枕のように死出の黄泉の橋を渡る。
頃は十月十五夜の、月にも見へぬ身の上は、心の闇のしるしかや、今置く霜は明日消ゆる、はかなくたとへのそれよりも、先に消え行く閨の内、いとしかはひと締めて寝し、移り香もなんとながれの蜆川、西に見て朝夕渡るこの橋の、天神橋はその昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び梅田橋、あと追ひ松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、後にこがるる桜橋、今に話を聞渡る、一首の歌の御威徳、かかる尊きあら神の、氏子と生れし身をもちて、そなたを殺し我も死ぬ。
それを受けての、上田秋成の『雨月物語』「白峰」は、崇徳院の悪霊が登場するだけに格調高歌枕の流れに西行が足取りを辿るもので、見事な歌枕文と言える。
あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々。むらさき艶ふ武蔵野の原、塩竃(しほがま)の和(なぎ)たる朝げしき、象潟の蜑(あま)が笘(とま)や、佐野の舟梁(ふなばし)、木曽の桟橋(かけはし)、心のとゞまらぬかたぞなきに、なほ西の国の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を経て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の真尾坂の林といふにしばらく笻(つゑ)を植(とゞ)む。草枕はるけき旅路の労(いたはり)にもあらで、観念修行の便りせし庵なりけり。
近松の心中物は実際の心中事件に基づいたものであるから、実にスキャンダラスでリアリティがあり、それを無常の調べに乗せて、見事な美文で語るから、当時の観客の熱狂はさにあらんと思うが、秋成の美文もまた陶然となる調べを持つ。

俳句は十七文字の定数律を持つから、近松や秋成のように嫋々と述べることは出来ないので、祖母山や傾山といった地名が物語を持つような調べを持つ場所を選ぶ事が多い。しかし、「歌枕」は美学として詠めるのに対して、「俳枕」は実際に「草枕」としてその場に杖を止めて詠むという違いがあると述べたが、実はこの調べに入れ上げると、「歌枕」と同じように、「耳にふれていまだ目に見ぬ境」を詠んで、それが名句とされる場合がある。それも、掲出句を詠んだ青邨の句にである。

みちのくの淋代(さびしろ)の浜若布寄す 山口青邨

淋代は青森県三沢市にある海岸で、日本の白砂青松100選に指定されているが、若布は採れない。青邨は「ある句会で若布の題を得て、私は淋代部落を目に彷彿した。私は淋代には行った事がないが、名前の哀れさが私にまざまざと想い描かせた。流れよる若布を拾って生活の資とする、北辺寒村を憧れる私の想像である。淋代には『浜』を添え、若布は『寄す』と表現してほっとした。のちに八戸に行った時、淋代は若布が採れますかと訊いたら、八戸には採れるが淋代はわからないと答えた。私の外遊中ホトトギス社宛に淋代は若布は採れまいと文句をつけてきた人があって、虚子先生が私のために何か弁じて下さったそうである。」と『現代の俳句・自選自解山口青邨集』(白凰社)に書いている。

虚子は何と弁じたのだろう。水原秋櫻子の「山焼く火檜原に来ればまのあたり」という空想句を「立派な主観句と云へば云へないこともない。即ち此の作者の主観によつて構成された一幅の空想画であるからである。然し此れが現実に無いかと云へば無い処ではない立派に存在し得る景色なのである。此処になると主観とか客観とか区別して論議してゐるのが幼稚な議論と云ふことになつて来る。此作者が創造した世界が即ち現実の世界になつてゐると云ふことなる」(『俳句小論』「(ト)客観詩・下」)と言っているから、似た趣旨の弁護をしたのかもしれないが、採れないものを採れると詠まれても無い袖は振れないだろう。秋櫻子が潮来で紫陽花の句を詠んで評判になったので、あわてて地元が紫陽花を植えたという逸話があるが、潮来はあやめが名物である。この「檜原」の句は、
昭和6年、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が虚子が一人で選をした『懸賞募集 日本新名勝俳句』に入選した句だと思った。

この句集は、どうして再刊されないのか不思議なほどの名著で、横綴じB6版436頁には、まさしく全国の「俳枕」のオンパレードと言って良い景勝句が並ぶ。
応募投句数は103207句、入選作は1万句、「帝国風景院賞」が20句で、以下にその20句を引くが、それ以外にも佳句は沢山あり、吟行傑作集の趣である。

    阿蘇山
阿蘇の瞼(けん)此処に沈めり谷の梅  大分 古賀晨生
噴火口近くて霧が霧雨が        京都 藤後左右

    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ     福岡 杉田久女
   赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々     東京 水原秋桜子

  大山
笹鳴や春待ち給ふ仏達 鳥取 安部東水

  那智滝
宿とるや月の大滝まのあたり      和歌山 仲岡楽南

  箕面滝
滝の上に水現れて落ちにけり      兵庫 後藤夜半

  球磨川
前舵が笠飛ばしたり山ざくら      朝鮮 広瀬盆城

  阿賀川
下り鮎一聯過ぎぬ薊かげ        東京 川端茅舎

  琵琶湖
さみだれのあまだればかり浮御堂    大阪 阿波野青畝
蘆の芽や志賀のさゞなみやむときなし  兵庫 伊藤疇坪
銀漢や水の近江はしかと秋        同 脇坂筵人

  霞ケ浦
青蘆に夕波かくれゆきにけり      東京 松藤夏山

  屋島
鳥渡る屋島の端山にぎやかに      香川 村尾公羽
野菊より霧立ちのぼる屋島かな     同 田村寿子

  蒲郡海岸
漂えるものゝかたちや夜光虫      愛知 岡田耿陽

  熱海温泉
山越えて伊豆に釆にけり花杏子    神奈川 松本たかし

  三朝温泉
蚕屋の灯のほつほつ消えぬ山かづら  京都 田中王城

  兎和野原
酒の燗する火色なきつゝじかな    兵庫 西山泊雲

  富士駿州裾野
大岩の釆て秋の山隠れけり      静岡 野呂春眠

おわかりだろうか、虚子の目論見が。以前取り上げた青畝の浮御堂の句は、大正13年の句である。懸賞応募句も勿論あるが、虚子は過去の「ホトトギス雑詠」の秀句を堂々とぶち込んでいるのである。これは我田引水の最たるもので、公平とはほど遠いと思われるが、これほど「ホトトギス」の精鋭の秀句が並ぶと、虚子単独選の凄みと当時の「ホトトギス」の作品の凄さに圧倒されてしまう。

2010年7月17日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔27〕夕立・上

ホトトギス雑詠選抄〔27〕
夏の部(七月)夕立・上

猫髭 (文・写真)


祖母山も傾山(かたむくさん)も夕立かな 山口青邨 昭和8年

初めてこの句を目にしたとき、祖母山がどこにあるかも傾山がどんな山かも知らないが、祖母山は女体山のようになだらかな稜線を持っているようで懐かしく、傾山は祖母山の懐に抱かれるように傾いて夕立にけぶって消え入りそうな風情が感じられ、その名前のゆかしさだけで、白い雨脚が山から山へヴェールをかけるように柔らかく渡って移りゆく様が見えるような句だと思った。

夕立の句と言うと、墨提通りの三囲(みめぐり)神社の雨乞いの句「夕立や田をみめぐりの神ならば 宝井其角」という「豊か」を折り込んだ句が故事来歴的には有名だが、子規以降の一句としてはこの青邨の句が際立つ。

この句を頂点に、他の夕立の句、例えば高野素十の「小夕立大夕立の頃も過ぎ」、などはこの句の解説のように見えてしまうし、野見山朱鳥になると「英彦山(ひこさん)の夕立棒の如きなり」で、杉田久女の英彦山で得た名句「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」から虚子の去年今年まで引き合いに出すどしゃぶりであり、櫨木優子(はぜき・ゆうこ)の「記紀の世の山川現れて夕立あと」というわたくしの好きな句とも、響き合う。名句というものは様々な彩りの句を引き寄せる磁力があるかのようだ。殊に地名が詠まれると否応無く掲出句は浮かび上る。

さつきから夕立の端にゐるらしき 飯島晴子

が、地名や古代の呪縛から離れて屹立する、青邨の句に匹敵する名句と言えようか。

今回掲出句を採り上げるにあたり、ネットで検索して祖母山・傾山縦走の写真を見ると、大分県の山で、祖母山が1757mで傾山が1602mという、ちょっとそこまでハイキングと、のこのこ軽装で出かける山にあらず。雲海を見下ろす雄大な山系である。祖母山も傾山も日本百名山には入らないが、まさしくこの一句によって「歌枕」のように忘れがたい句になった。いわゆる筑波山のように、たちどころに「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院」と口の端に上る「歌枕」ではないが、青邨に詠まれる事によって「歌枕」のように刻み付けられた句で、「白河の関」と言えば「秋風」と連想するように、祖母山、傾山と言えば「夕立」と刷り込まれてしまうほどのインパクトがある。これを「俳枕」と言ってもいいかもしれない。

(つづく)

2010年7月16日金曜日

●鏡




はやぶさにまほらの空の鏡なす  上村占魚

鏡の中黍の嵐となりにけり  加倉井秋を

手鏡を回せば雪の吹きこぼる  中原道夫

乙女椿に鏡のひかり遊ばせる  林桂

死ぬならば夏いちまいの鏡のうへ  八田木枯

2010年7月13日火曜日

●賭博

賭博

甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋  与謝蕪村

絶巓へケーブル賭博者を乗せたり  平畑静塔

冷奴つまらぬ賭に勝ちにけり  中村伸郎

賭場出てプール邊に佇つ月涼し  吉良比呂武

骰子の一の目赤し春の山  波多野爽波

麻雀に過去も未来もなきおのれ  藤木清子


俳句賭博 句会でヒリヒリする方法:週刊俳句・第168号

2010年7月12日月曜日

●星野しずるは電気鰻の蒲焼きを詠むのか 橋本直

星野しずるは電気鰻の蒲焼きを詠むのか

橋本 直


某日。貧乏な私たちとしては珍しく渋谷のホテルのラウンジなぞに集結。シンポシオンⅡの打ち合わせと称し、ゲストの佐々木あららさん藤原安紀子さんをお迎えする。詳細はここでは言えないけど、3時間にわたり様々なことをお話しする。おもしろい話も伺えて、当日が楽しみ。

ちょうど良い具合に週ハイで三島ゆかり氏が「ロボットという愉しみ」 を掲載しているし、最新号「豈」でも倉阪鬼一郎氏が「21世紀末の『芭蕉くん』」を書き、「豈ウイークリー」で富田さんに「割合冷やりとさせられるものがあった」と言わせている

俳句に限らず様々な動きがはかったようにリンクするタイミングがこの数年の動きらしい。

ところで以前、週俳に書いたのだが、昭和6年に「俳句表現辞典」なる本がでている。 この辞典、用は俳句の気の利いたフレーズ集なのであり、ローテクだが辞典中の数ページ内の語を組み合わせるだけで一句できてしまう。すでに人間性を集め人間性を打ち消すような発想の母体は、自動生成プログラムの登場前に人間の中に存在していたことがわかる。ただ技術的に不可能だったものが可能になったに過ぎない。

打ち合わせでは、いろいろな話を聞きながら、創造することの根本について考えることがけっこうあった。期待の地平の此岸と彼岸についても。


〔参考〕 星野しずるの犬猿短歌

2010年7月10日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔26〕金魚・下

ホトトギス雑詠選抄〔26〕
夏の部(七月)金魚・下

猫髭 (文・写真)


「ホトトギス」や俳句にこだわらずに、金魚の詩や童謡、小説、川柳、短歌や絵を逍遥して、すぐ思い浮かぶものに遊べば。

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。(萩原朔太郎『金魚』)

見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に繚乱として白紗よりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよと縺れつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指(おやゆび)と人差指で大幅に一囲みして形容する白牡丹ほどもあらうか。それが一つの金魚であつた。(岡本かの子 『金魚撩乱』)

「あたい、いつ死んだつて構はないけど、あたいが死んだら、をぢさまは別の美しい金魚をまたお買ひになります?とうから気になつてゐて、それをお聞きしやうと思つてゐたんだけれど。」
「もう飼はないね、金魚は一生、君だけにして置かう。」(室生犀星『蜜のあはれ』)

金魚は魚だった歓びだけ残す  時実新子

子が問へる死にし金魚の行末をわれも思ひぬ鉢洗ひゐて  島田修二

薄氷の裏を舐めては金魚沈む 西東三鬼

金魚玉とり落しなば舗道の花 波多野爽波

路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦


絵画では、何と言っても京琳派の神坂雪佳(かみさか・せっか)の「金魚玉図」で、松本たかしはこの絵をモチーフにして詠んだのかと思うほど、画賛のようにぴたりと合う傑作で、京都は左京句岡崎にある日本古美術の細見美術館(http://www.emuseum.or.jp/)で見ることが出来る。『カラー版新日本大歳時記 夏』(講談社)の「金魚」の項も雪佳のこの画である。白黒だが、『図説俳句大歳時記』(角川書店)には、最後の浮世絵師と言われた小林清親の『金魚と植木鉢』が掲載される。傍題に「出目金」も出るが、解説で「目出金」と誤植されているのが笑いを誘う。歌川国芳の「金魚づくし」も有名で、金魚が酔っ払ってカッポレ踊ったり、蛙を露払いに纏を担いだりする。マティスも金魚の絵も名高い。

ジャンルは違えど、金魚はそれぞれのスタイルで表現されていて面白い。
大皿に金魚藻を浮かべて、尾鰭の優雅な和金を一匹遊ばせて眺めるのは、なかなか涼しく癒される眺めである。

もっとも、北原白秋の童謡のように、残酷なものもある。

母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
 
母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
 
まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。
 
なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。
 
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。
 
母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。(北原白秋『金魚』)

金魚が癒しにならない珍しい童謡である。


2010年7月9日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔26〕金魚・上

ホトトギス雑詠選抄〔26〕
夏の部(七月)金魚・上

猫髭 (文・写真)


金魚大鱗(たいりん)夕焼の空の如きあり 松本たかし 昭和10年

大夕焼の空を金魚がゆつくりと尾鰭をたなびかせて泳いでいるような句である。この句と並ぶと、ほかの「ホトトギス」の金魚の句が、

吾もありと金魚の中の目高かな 一転

と、目高に見えてしまうという絢爛たる比喩が成功している一句だろう。井伏鱒二の初期の名短編『鯉』のように、鮒や鮠や目高を引き連れて泳いでいるような秀句である。茅舎がたかしを「生来の芸術上の貴公子」と評しただけのことはある。稲畑汀子はたかしの句を「一度読めば忘れられない震いつきたくなるような魅力がある」と述べているが、この一句など、然なり。夏は更なり。

勿論、掲出句と比べればという、偏愛的分類比較に淫した読みなので、

もらひ来る茶碗の中の金魚かな 内藤鳴雪

金魚飼ふこどもあがりの夫婦かな 森川暁水

も、金魚を飼った者なら誰でも微笑ましく思える佳句である。

写真は、文京区本郷の金魚屋「金魚坂」(二階はレストランで「ビーフ・黒カレー」が名物。http://www.kingyozaka.com/)の和蘭獅子頭(おらんだししがしら)と短尾珍珠鱗(ピンポンパール)。このレストランを兼ねる「金魚坂」は、菊坂の樋口一葉の旧居跡の向かいにあり、吟行にも利用される。葉巻喫茶もあり、コースターからカーテンから硝子窓から、すべて金魚の装飾という凝った「都会の隠れ家」である。

(つづく)

2010年7月8日木曜日

●ペンギン侍 第31回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第31回 かまちよしろう

前 回

つづく

2010年7月7日水曜日

●七夕

七夕

過去記事

七夕や男の髪も漆黒に  中村草田男

まだ書かぬ七夕色紙重ねあり  高浜虚子

石の上七夕の蝶けむりをり  加藤楸邨

女の子七夕竹をうち担ぎ  高野素十

人教へし淋しさ七夕竹くぐる  加倉井秋を

七夕や独り寝さてもなつかしき  小川軽舟


2010年7月6日火曜日

●Cheers System

Cheers System



thanx: tweet by hyakuhachiken(青島玄武)
http://twitter.com/hyakuhachiken/status/17696623739

2010年7月5日月曜日

●カレー

カレー curry

燦々と台風一過カレー煮よ  松澤昭

末枯れやカレー南蛮鴨南蛮  田中裕明

凩や愛の終わりのカツカレー  長谷川 裕

落第も二度目は慣れてカレーそば  小沢信男


2010年7月4日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔25〕七月・下

ホトトギス雑詠選抄〔25〕
夏の部(七月)七月・下

猫髭 (文・写真)


秋櫻子が昭和6年10月号の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を発表して「ホトトギス」を離脱したあと、虚子は「ホトトギス」12月号に、3ページほどの短編小説『厭な顔』(全集第七巻所収)を書いている。栗田左近という信長の家来が、自分の諫言を取り上げなかったことを根に持って厭な顔をして逐電し、越前の門徒一揆に加担したので、生け捕りにした後、厭な顔をしてすぐ逐電したのは愚かだと諭して、許すかと思いきや、斬首を命じる話である。

この短編の眼目は左近の厭な顔で、信長は「其の将士が誰であつたかも今は記憶にないが、唯軽くあしらつて、てんで相手にしなかつた。左近も其れきり口をつぐんだが、信長の眼にとまつたのは、其の時左近の厭な顔をして引き下がつたことであつた。」と書いて、その厭な顔を描写する。
其の厭な顔が、どういふものだか、信長の頭にこびりついて居た。元来左近の相は人に快感を与へる相では無かつたが、少し俯目になつて口をもぐもぐさせてゐた時の顔は全く形容の出来ない不愉快な顔であつた。
これは秋櫻子の脱退の後に書かれたことを鑑みると、間違いなく秋櫻子の顔であり、虚子の人を見抜く目は尋常のものではないから、秋櫻子にとっては看過できない厭な書き方だと思う。この小説の眼目は、もうひとつあって、それは信長の反応である。「信長は其の後左近が失踪したことも格別気にもとめずにゐたが、近頃若林父子(越前門徒一揆の首謀者)のもとにゐて、種々信長に対して悪口をいひ、門徒一揆を扇動してゐるといふことを聞いた時分に、ふと幻のやうに浮み出たのは其の厭な顔であつた。」と書いて、次のように記す。
暫くの間、其の厭な顔の幻をぢつと見詰めてゐた信長は、あまり厭な顔なので、思はずふき出してしまつた。
側近の蘭丸が、何がおかしいのかと尋ねると、信長はこう答える。
「実は、をかしいのではない、気味が悪いのだ。」
さう言つて又笑つた。
この笑う場面は凄い。信長の特異性をよく表現している。この小説の見所はこの二つの眼目に尽きている。虚子は人が一番嫌がることを知っている。プライドを傷つけることである。虚子は、本当は秋櫻子が自分が俳句を教えた素十が自分よりも虚子に重んじられる嫉妬からだだを捏ねたことを見抜いて、離脱に至る経緯を「格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」「其の為めに厭な顔をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」と優しさを装って信長に畳み掛けさせ、左近が口をもぐもぐさせて首を垂れるや「左近を斬つてしまへ」と命令する。秋櫻子に対する死刑執行である。

経緯から、どう見ても信長が虚子で、秋櫻子は左近に見立てられているから、秋櫻子は翌月の「馬酔木」で「織田信長公へ 生きてゐる左近」という一文を草する。わたくしはまだその反論は読んでいないが、信長と自分を重ねるという、そこまで虚子は尊大ではないと思うから、自分の手を汚さずに秋櫻子を切る手段として信長に斬らせたというところだろう。狡猾といえば狡猾だが、虚子にとっては闘志を剥き出しにする相手では秋櫻子はなかったということだ。

虚子のライバルと言えるのは、わたくしの見る限り河東碧悟桐ただ一人である。極端な話、

赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧悟桐

に匹敵する句を詠めるだけの天才は虚子にはない。虚子の代表作として挙げられる句、

去年今年貫く棒の如きもの
遠山に日の当りたる枯野かな
咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり
流れ行く大根の葉の早さかな
桐一葉日当りながら落ちにけり
金亀子擲つ闇の深さかな

が束になっても、この碧悟桐のシンプルで美しい句には敵わない。これは私見であるが、多分、最初にそう感じて、今もそう感じているから、死ぬまでこの見解が変わることはないだろう。
また、碧悟桐の書のオリジナリティな創作力は虚子の書の比ではない。これは書道に親しんだ者ならば誰でもわかる。

碧悟桐の悲運は、子規死後、優秀過ぎて自分以上の天分に二度と出会えなかったことである。虚子の幸運は、子規や碧悟桐ほどの創作力に恵まれなかったがゆえに、自分以上の天分を見抜く目を授かり、多くの天分に恵まれた弟子たちを擁したことである。

中でも山口誓子は、「ホトトギス」の歴史の中でも傑出する新人であり、『ホトトギス巻頭句集』を読んでいて、誓子が出て来た途端、がらっと「ホトトギス」が近代から現代へと舵を切って帆が膨らむような感じがする。「ホトトギス」と「馬酔木」に同時に籍を置くことを虚子はとがめなかった。草城や久女は除名しても誓子を除名することはなかった。斬ることはなかった。斬れば「ホトトギス」の未来を斬り捨てることになる。

誓子は本名の新比古をもじって「ちかいこ」と読むのが本来だった。それを昭和11年に京都で誓子が初めて虚子に会った時、虚子に「君がセイシ君でしたか」と虚子が誤解して言ったので、誓子は以後「せいし」と改めたという(『よみものホトトギス百年史』)。

誓子についてはいずれまたの機会に。

2010年7月3日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔25〕七月・上

ホトトギス雑詠選抄〔25〕
夏の部(七月)七月・上

猫髭 (文・写真)


水無月や青嶺(あをね)つゞける桑のはて 水原秋櫻子 大正14年

七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 山口誓子 昭和2年

那珂湊は、まだ暗い四時ごろから鴉が鳴き始める。それに呼応するかのように時鳥も鳴き始める。雨は降っておらず、空には群雲を縫って梅雨の月がかかる。雀も鳴き出した。鶯は今日は聞こえない。きゅるきゅるという声は椋鳥である。海鳴が聞こえる以外は、谷戸の朝と変わらない。五時ごろ、梅雨の月が明るさに白くなりかけた頃、矢の字に海へと飛ぶ鳥たちがいるので、雁かと思えば、羽ばたきが忙しないので海鵜だった。逗子では鳶である。やがて、日が登り始め海が暖められると、海霧が海から湧くように潮に乗って上陸して来る。

「海霧(うみぎり)」は夏の季語で、梅雨時は、夜明けと共に海霧が海鳴と潮の香を曳き連れて那珂川を遡り、海門橋(かいもんばし)を消し、涸沼川へと平戸橋を越えて、常澄村(つねずみむら)まで霧に沈むのは那珂湊の風物詩である。寒冷地では「じり」と呼ぶが、那珂湊では靄がかかると言う。

那珂湊は六月一杯で底引網漁が二ヶ月禁止され、八月一杯定置網である建網(たてあみ)漁だけになるので、七月一日から魚市場は水揚げも少なくなる。

競りを覗きに行くと、肝の太そうな大きなするめ烏賊が入っていて、顔見知りの魚屋「魚徳」の親爺さんがいたので、烏賊の塩辛を頼んだ。するめ烏賊の肝が太るのは冬なので、烏賊の塩辛は夏は季節外れなのだが、例外のない原則はない。逗子の小坪の鯖は回遊魚の癖に回遊しないで棲み付いているので一回り太く、釣り上げれば背の模様が金色をしているので、我々は金鯖と呼んでいる。するめ烏賊にも夏に肝が太る奴が居てもおかしくはない。「魚徳」の烏賊の塩辛は獲れたての烏賊を塩だけで作る塩梅が絶品で、身がごりごりしていて、飯の肴に、酒の当てに、こたえられないうまさなのだ。お茶漬けがまたいい。普通の塩辛は色が変わった死後硬直後の烏賊だから、お茶漬けにすると身が縮んで溶けてしまうが、ぴかぴかの烏賊で作った烏賊の塩辛はアルデンテの塩辛と言ったらいいだろうか、歯ごたえがあって後を引く。獲りたて作りたての塩辛でなければ味わえないから、目の前に魚市場があればこその海の幸である。

霧で競りが遅れそうなので、家に戻り、昼網で揚った真子鰈を一匹、これも馴染みの魚屋「角屋」の女将から刺身にするために買い付ける。ここも地物をメインに扱う。真子鰈は夏場は平目よりも高い、鮨では白身の代表のネタである。粗も勿論、潮汁(うしおじる)か、味噌汁仕立てにするために貰う。綺麗な脂の、いい出汁が出るのである。

こうして、那珂湊の七月の海は霧とともに始まり、建網に今日は何がかかったのかと相談しながら、七月の日々を海へ繋ぐ。

掲出句は、「ホトトギス雑詠選集」(昭和14年版)の「七月」の最初の「七月」と「水無月」の句である。一読してわかるように、「水無月」と「七月」の違いはあるが「青嶺」と取り合わせるのが「桑畑」か「溶鉱炉」かの違いだけである。秋櫻子も誓子も、秋櫻子が昭和6年に「ホトトギス」を去り、誓子も昭和10年に「ホトトギス」同人のまま秋櫻子の「馬酔木」に参加するまで、虚子選のもと、ふたりとも「連作」に励んで、高野素十や阿波野青畝ら、いわゆる「四S」で「ホトトギス」巻頭を競い合っていたから、誓子が秋櫻子の句を知らなかったわけはない。お互いの持ち味の出た句だと思う。

水無月や青嶺(あをね)つゞける桑のはて 秋櫻子 東京

秋櫻子の句が「七月や」では、「水無月」という陰暦六月の瑞々しさが出ない。「みなづき」の「な」は、連体助詞であり、本来は「の」の意味で、水の無い月という意味ではない。【「水の月」「田に水を引く必要のある月」の意】(『国語大辞典』)である。また、文芸上の美意識にこだわった秋櫻子が「七月」という即物的な詠み方をするはずもない。大正14年の秋櫻子の巻頭句には、

高嶺星蚕飼(こかひ)の村は寝しづまり 6月号
夜の雲に噴煙うつる新樹かな      7月号

といった代表作も含まれる。連作を試みたり、光と色彩を詠み込んで写生を超えようとして苦心していた時期でもある。

七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 誓子 在九州

対して誓子の句が「水無月」では、「や」といった古典的切字を超え、和歌の伝統美の「雅」を超えて、新しい硬質な叙情を求めた誓子の現代性が出ない。定型俳句を遵奉しながらも、昭和10年、「その正統なる発展としての新興俳句を飽くまで守備し、この保塁に最後まで踏みとどまることを誓ふものである」(『黄旗』序)という覚悟を以って誓子は「ホトトギス」を離れており、山口青邨が昭和3年に「四(しい)S」と、ホトトギス社の講演会で命名していた頃、連作によって新しい俳句を模索していた誓子には「水無月」という情緒を採る気は毛頭なかったと言っていいだろう。昭和2年11月号の巻頭もまた連作である。

露の花圃天主(デウス)を祈るもの来たる
釘うてる天主(デウス)の手足露の花圃
露の花圃神父童に語ります
主の前の日焼童に聖寵(ガラス)あれ
旅びとや夏ゆふぐれの主に見(まみ)ゆ

秋櫻子と誓子は後に師弟となり、また離れるが、ともに大正と昭和の違い、というか近代と現代の違いを見るような、写生を経た新興俳句の個性を感じさせる作風が垣間見られる。「四S」と呼ばれた時、秋櫻子37歳、誓子28歳であった。ちなみに、青畝は30歳、素十は36歳であった。

2010年7月2日金曜日

〔news〕『超新撰21』関連〔続〕

〔news〕『超新撰21』関連〔続〕

『超 新撰21』入集2篇が決定した模様。
こちら≫http://8548.teacup.com/kyouen/bbs/119

〔news〕『超新撰21』関連

〔news〕『超新撰21』関連

『超新撰21』の公募分の審査が本日都内某所にて。夜には入集2作が決まる模様。

関連ページ

参照ツイート

2010年7月1日木曜日

●ペンギン侍 第30回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第30回 かまちよしろう

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つづく