2014年6月30日月曜日

●月曜日の一句〔神尾季羊〕相子智恵



相子智恵







虹立てり急に食べたき海のもの  神尾季羊

「鷹の百人 鷹年譜」(2014.7 鷹俳句会・鷹第五一巻第七号付録)より。

唐突に出て短時間で消える美しい虹。その〈虹立てり〉のスピード感と、〈急に食べたき〉という欲望の性急さが響きあい、心に残る。〈海のもの〉だから魚介類だろうが、ひとつの魚なり貝なりの名前を示さずに〈海のもの〉と大づかみにしたことで、心の中には広大な海がきらきらと広がり、それが虹の光と輝きあって、この句の美しさを際立たせる。すると〈急に食べたき海のもの〉が、遥か遠いものを希うような切なさを帯びてくるのである。「食べたい」という日常的で根源的な欲望を真正面から描きながら、こんなに美しく詩に昇華できるのだと印象に残った。

掲句の載った「鷹の百人 鷹年譜」は、結社誌「鷹」50周年記念号の付録として刊行されたもの。選出された百人は、現在の「鷹」を代表する作家ばかりではなく、かつて「鷹」に集い、途中で別の道に巣立った作家も入れた百人を収めている。この人もあの人も、かつてこの結社にいたのかという驚きと歴史を感じさせる、貴重な年譜となっている。

2014年6月28日土曜日

2014年6月27日金曜日

●金曜日の川柳〔山内令南〕樋口由紀子



樋口由紀子






振り乱すためには髪をながながと

山内令南 (やまうち・れいなん) 1958~2011

山内令南は小説『癌だましい』で2011年4月に文学界新人賞の受賞し、直後の2011年5月19日に52歳で病死した。2013年12月に遺稿集『夢の誕生日』が出版された。

私の知っている山内令南は、斧田千晴(おのだ・ちはる)として川柳活動をしていた頃で、彼女の髪は肩まであり、いつも後ろで一つに束ねていた。束ねた髪をほどいたところを見たことがないが、振り乱すことがあるのかもしれないと思わせるものがあった。髪は振り乱すためのものではない。「ためには」が痛々しい。

二人で大阪でうどんを食べているときに、なんて穏やかな顔の人だろうと思った。が、食べ終わるといつものきりりとした表情に戻った。きりりとせずにはおれないものを抱えていた。いや、彼女自身はそれを離せなかったのではないか。それが彼女の生きるということだったような気がする。

私の父が亡くなったときに実家に電話をもらったのが、彼女との最後の会話だった。僧侶であり看護師であった彼女は死に敏感だった。〈魚開いてわたしの胸に深い傷〉〈集まって絶叫せんか鈴虫よ〉 『夢の誕生日』(あざみエージェント刊 2013年)所収。

2014年6月25日水曜日

●水曜日の一句〔竹村翠苑〕関悦史



関悦史








電子レンジ十秒蝗しづもりぬ   竹村翠苑

イナゴを料理しているらしいが、豪快というか何というか、呆気にとられる直接的な句。ただし狙って粗暴にしたようなところはない。無駄のない無造作で即物的なリアリズムが、恐怖や残酷を軽く漂わせた滑稽味へと通じているのである。

イナゴの調理法というものに不案内なのだが、句を見る限り、生きているのを直にレンジにかけたとしか思えない。加熱によってしずまっているのだ。

作者は農家の高齢の女性らしく、句集には、力のぶつかり合う場面を物に即して描いた佳句が多い。

  生ぐさき堆肥すきこむ辛夷かな

  キヤタピラにくひ込む泥や稲を扱く

  団栗の轢き砕かれぬ車道の上

  糸瓜水一升壜に満ちにけり

  間引菜を洗ふや笊に起き上がる

  鏡餅鏡餅もて割りにけり

さてイナゴの句だが、これは素材レベルで面白いというだけではなく、句を読み、胸に沈めてみて、詩性や俳味があるかと問うてみたとき、確かに何かがある気がする。

料理の素材となれば鍋で煮られようと、フランパンで炒られようとさしたる情感もわかないはずだが、その辺の田畑に飛び跳ねていた昆虫と電子レンジの唐突な出会いは、日常にひそむシュルレアルに触れたような衝撃力があり、火の気もない電子の加熱で死ぬイナゴは哀れでもあるが、哺乳動物などと違って人と情意を通わせるのは不可能に近い生き物でもあり、どちらかといえばむしろ電子レンジをはじめとする機械に近い存在とも感じられてくる。電子レンジの方も、こういう形で生命に引き寄せられたことは俳句の中でも滅多にあるまい。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『裸のランチ』ではゴキブリとタイプライターが合体していたが、ああいう物理的な地平での一体化ではなく、精霊的ともいえるレベルで、双方が同時に微妙に異化=同化されているといえようか。

「十秒」の短さ、一見無駄な正確さが、酷薄で不気味な可笑しさを際立たせている。

現代のヒトの暮らしというものが、かなり可笑しいのではないかとも思えてくる。一体ヒトは何をやっているのか。


句集『摘果』(2014.6 ふらんす堂)所収。


2014年6月24日火曜日

●銀行

銀行

鼠棲む百合が社章の銀行に  田川飛旅子

金貸して給料もらふ暑さかな  小川軽舟

銀行の前がさびしき天の川  喜田進次

山中に銀行ありし櫻かな  久保田万太郎

銀行員に早春の馬唾充つ歯  金子兜太

2014年6月23日月曜日

●月曜日の一句〔宮崎斗士〕相子智恵



相子智恵







鮎かがやく運命的って具体的  宮崎斗士

句集『そんな青』(2014.6 六花書林)より。

「運命」といえば重苦しいのに、〈運命的〉と「的」を付けたとたんに一気に軽くなり、女性誌のノリになるのだなあと、この句を読んで改めて気づかされる。たとえば「運命的な出会い」「運命的な恋」……など。〈具体的〉も、これまた実用書のにおいがして、〈運命的って具体的〉の〈って〉も軽く、しかも〈運命的って具体的〉の語呂もたいへんによく、私はなぜかこの句を読んで、本屋の実用書コーナーや女性向け自己啓発本コーナーの、蛍光ピンクの装丁や、題名がどーんと大きく書かれた本たちがひしめく、つるりと光った「平置き棚の明るさ」を思い出した。

そして〈鮎かがやく〉のじつに健康的なこと。わざわざ〈かがやく〉と言ってのけた、この一点の曇りもない健康的な明るさは〈運命的って具体的〉のあっけらかんとした軽さとよく響いている。繰り返される「K」の音も「キラキラ感」を強めているのだ。この光り輝く鮎からは、自然の生命力よりも、サプリメントのように計算された餌を食べて育った養殖魚のような「作られた健康」を感じる。

一句の中には鮎の姿しか「具体的」には見えてこないのだが、じつはその奥に現代の私たちが暮らしている社会の軽さやチープさの中にある、明るく軽い抒情がうまく掬い取られているのが面白い。

2014年6月22日日曜日

●本日はフレッド・アステア忌

本日はフレッド・アステア忌


2014年6月20日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭史〕樋口由紀子



樋口由紀子






ドキドキしながら電池を捨てにゆく

湊圭史 (みなと・けいじ) 1973~

油断するとゴミはすぐに増える。分別がややこしいく、何でもどこにでも気軽には捨てられなくなった。ゴミを捨てるのがこんなに面倒だったかなと思う。電池は規定の電池ボックスに入れて捨てる。ドキドキなんて本来はしないはずである。

しかし、電池は他のものと違って、捨てるときにドキドキするのがなんとなくわかるような気もする。電池は不思議である。あんなに小さいのに大きなものだって動かす。止まっているものを生き返らせる。電池がなければ何の役にも立たないものがわんさとある。

「ドキドキ」のカタカナ表記が電池の心臓の音のように聞こえる。残量が残っているのに捨てられた電池はとんでもないものを動かしてしまうかもしれない。「川柳カード」5号(2014年刊)収録。



2014年6月19日木曜日

●浚渫船

浚渫船


浚渫船見てゐる昼のビールかな  依光陽子〔*

降りさうで寒の日空の浚渫船  長谷川双魚

浚渫の師走雨降る水の上  鈴木六林男

〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より




2014年6月18日水曜日

●水曜日の一句〔筑紫磐井〕関悦史



関悦史








オクラホマの歴史はありやさほどなし   筑紫磐井

同じ作者の《来たことも見たこともなき宇都宮》と双璧を成す句であろう。

地名としては誰でも知っているし、それなりに人が暮らしてきた歴史的蓄積もあるはずなのだが、にもかかわらず、あまり連想は広がらず、明確なイメージが何も浮かばない土地を詠んだ句としての双璧である。

来たことも見たこともない、あるいは歴史がどれだけあるだろうかなどと、思いもかけないことを突如わざわざ問いかけられた上で、さほどないと否定され、虚仮にされることでかえって奇妙な、何やら茫漠とした、去年今年を貫く棒ででもあるかのような実在感だけを漂わせるにいたった「宇都宮」と「オクラホマ」。

大体なぜオクラホマの歴史などというものに思いをはせなければならないのかがさっぱり見当がつかず、単なる思いつきのような、それでいて禅問答でいう「父母未生以前の真面目」を不意につきつけられ、世界の実相とはかくのごときものかもしれないなどとうっかり納得させられてしまうような、ふざけと真面目の奇妙な重ねあわせのみが衝くことのできるリアルの手応えがあって、この辺がこの作者のひとつの持ち味なのであろう。

世界にはこうしたジャンクアート的視線ともトマソン的視線とも重なるようでおそらく外れている筑紫磐井的視線というものによってのみ掬える地名や出来事というものが確かにあり、それは普通意識に上るものではないので、筑紫磐井に詠み取られた分、世界は拡大され豊かになったともいえるのだが、それがあくまでも虚仮にすることによってである辺りが、かつてのサングラス姿の韜晦的な肖像写真を改めて思い起こさせる。

ところでオクラホマの歴史を検索してみると、ウィキペディアに「オクラホマ州の歴史」というのが立項されているくらいで、それなりに紆余曲折があるのだが、印象に残るのはインディアン、移住、黒人、入植、不作といった語彙であって、どうも日本でいえば「みちのく」や「蝦夷地」に相当するような土地柄らしい。

日本人の多くががオクラホマなる地名から最も容易に連想するのはオクラホマミキサーであろう。あのフォークダンスのペア交代の際のぬきさしにも似た「ありや~なし」なる長閑な言い方の背後には、遠い異国の悲惨な歴史が埋もれているのだが、しかしそこに満腔の同情を寄せたりは、この句は一向にしていない。共感とかその反対の悪意とかといったものの持つ直線性とはいささかずれた、薄情という情とちょっかいでもって虚子のいう「ボーっとしたもの」「ヌーっとしたもの」に触れるのがこの作者の句の特徴なのだろうと思えてくる。


句集『我が時代 ―二〇〇四~二〇一三―』(2014.3 実業公報社)所収。

2014年6月17日火曜日

●サラリーマン

サラリーマン

山茶花やサラリーマンのてけてけ歩き  瀧春一

秋鯖や上司罵るために酔ふ  草間時彦

全市臘涙ここに上司に酒さす婦人  大原テルカズ

桜散る個々に無数に社員踊り  村井和一

ちんぎんといふ死語ぶらんこに坐る  小川軽舟


2014年6月15日日曜日

●本日はエラ・フィッツジェラルド忌

本日はエラ・フィッツジェラルド忌


2014年6月14日土曜日

●artificial

artificial

義眼一組アネモネの闇見ておりぬ  金原まさ子

枯木の義手の 穴だらけの時間よ  富澤赤黄男

婚礼の荷に入れる弟の義足  上野千鶴子





2014年6月13日金曜日

●金曜日の川柳〔田口麦彦〕樋口由紀子



樋口由紀子






味噌汁は熱いか二十一世紀

田口麦彦 (たぐち・むぎひこ) 1931~

味噌汁が熱いかって、熱いに決まっている。冷めた味噌汁なんて飲めたものではない。二十一世紀になっても、それは変わるはずがない、はずである。掲句は二十世紀に作られた。

しかし、作者はあたりまえなことがあたりまえでなくなっていく世の中になるのではと思ったのだろう。あるいはそんな食卓はなくなっているかもしれないと言いたかったのか。声高に叫ばれていないが、呼び起こされるものがある。

世紀を跨いで生きるのに複雑なものが確かにあったなと思った。新しい世紀の幕開けの期待と同時にこの先どうなっていくのかという不安もつきまとった。世紀末という言葉も流行った。

どんな社会になり、どんな価値観が台頭するのか。そんな危惧が作者の頭によぎったのだろう。それは味噌汁に限ったことではない。二十一世紀になって価値の変わったものは確かにいろいろとあり、これから先も出てきそうである。『昭和紀』(北羊館 平成元年刊)



2014年6月12日木曜日

●未来

未来


未来とは鍬形虫の背の光  杉山久子〔*1〕

はまなすや今も沖には未来あり  中村草田男

少女らに異なる未来運河の灯  寺井文子

看板の未来図褪せぬ草いきれ  榮猿丸〔*2〕

未来から降りてくるのは蜘蛛の糸  大西泰世

恒星の未来は焦土めじろ鳴く  西原天気〔*3〕

あったかもしれぬ未来に柚子をのせ  岡野泰輔〔*4〕

妻にも未来雪を吸いとる水母の海  金子兜太

寝て涼む月や未来がおそろしき  一茶


〔*1〕『石榴』第15号(2014年6月30日)
〔*2〕榮猿丸句集『点滅』(2013年12月)
〔*3〕西原天気句集『けむり』(2011年10月)
〔*4『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2014年6月11日水曜日

●水曜日の一句〔たちおか帽子〕関悦史



関悦史








見事だったワみんな―海にのっと紙満月   たちおか帽子

「見事だったワみんな」という何ものかの発語から始まっていて、これが学芸会か何かを終えた生徒たちに対する女性教師のねぎらいの言葉のようにも見える。

運動部の試合や吹奏楽部の演奏といったイメージが出てきにくいのは「紙満月」なる模造品が舞台装置を思わせ、演劇的な何かを連想させるからだが、やや異様なのは「海」がどうも書割ではない本物の海であるらしいことだ。省略されているだけで「海」も紙製なのだとの解釈もあり得るかもしれないが、それでは単なる学校行事の報告句じみたことになる。そうではなく実景の「海」に「紙満月」が上がっているという飛躍がこの句の勘所なのである。

もう一ヶ所異様さを引き起こすのは、「のっと」である。「見事だったワ」と過去形になっている以上、この演劇的な何ごとかはすでにそのパフォーマンスを終了しているはずであり、舞台に役割を終えた書割の海と満月が残っているだけならば、それが改めて「のっと」と動きを示す必要はない。

この句の奇妙さは字義通りに読まれなければならない。くり返すが、本物の「海」に「紙満月」が上っているという食い違いが、世界が不意にコラージュと化したような謎と魅惑を生むのである。「紙」のような「満月」というメタファーとして取ってもならない。

これは舞台なのか海辺なのか、虚構なのか現実なのか。「見事だったワ」と女言葉を発しているのは誰なのか、「みんな」とは誰なのか。本物の海や天体までが舞台であるなら、その終演は世界の終わりを示していよう。ところがここに世界滅亡の壮大な悲劇性などなく、あろうことか女性教師じみた何ものかに褒められたりもしており、そして舞台=世界の終演後には、何やらモダニズム的な明快さと軽薄さを持ちつつ「紙満月」という形で虚構が現実へ割り込んでくるのである。

「一期は夢」や、「色即是空」といった認識に通じるところがないでもないが、そうした決まり文句からは遠く離れた気安い天国性が一句に漂っている。あまりに気軽なので「見事だったワ」と言っている当人も含め、みな劇中劇の登場人物のようにも思えてくるが、現実も宇宙もみな劇や虚構に昇華(?)させつつ、その飛躍をごくフラットに言いとめているのがこの句の魅力なのだ。


句集『ユノカニア』(2014.5 霧工房)所収。

2014年6月10日火曜日

●雷




腿高きグレコは女白き雷  三橋敏雄

対岸にタンクの並ぶ雷雨かな  小野あらた〔*

雷連れて白河越ゆる女かな 鍵和田秞子

雷落ちて八十年を顧る  後藤夜半

虫出しの雷や大きな墓ばかり  太田うさぎ〔*

寒雷や針を咥へてふり返り  野見山朱鳥

低くゐる厠を襲ふ日雷  田川飛旅子

下町は雨になりけり春の雷  正岡子規




〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2014年6月9日月曜日

●月曜日の一句〔葛西省子〕相子智恵



相子智恵







瓜盗む河童の皿や乾びつつ  葛西省子

句集『正体』(2014.5 角川学芸出版)より。

上五、中七までは滑稽な味わいなのに、切字の「や」を挟んだ下五の〈乾びつつ〉で一気に哀感に転じる。その転換スピードによって、強く印象に残る句だ。

子どもの姿をした悪戯者の河童が、好物の瓜を畑から盗んでいる。そんな民話のワンシーンにはふと笑ってしまうが、〈乾びつつ〉で一気に切実になる。河童は頭上の皿に少量の水が入っていて、その水がある間は陸上でも力強い。しかしそれが乾くと一気に弱って死んでしまうのだ。〈乾びつつ〉あるということは、河童にとっても生きるか死ぬかの瀬戸際なのである。〈乾びつつ〉で、水を蒸発させる強い夏の日差しと暑さが感じられてきて、瓜を盗む行為が「ちょっと失敬」といった笑いから、「そうせざるを得ない」切実な状況に思えてくるのである。

民話というものは、じつは哀しみとともにあるものが多い。たとえば遠野の河童伝説も、東北を何度も襲った飢饉の際、人減らしのために生まれてきた子どもを川に流して間引きしたという史実から伝説化されたということもある。掲句は瓜を盗む河童の「皿」という一瞬の一部分を描きながら、滑稽の裏側にある大きな哀しみまで包み込んでいる。

2014年6月7日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から同人誌まで。必ずしも内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。


そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2014年6月6日金曜日

●金曜日の川柳〔北村雨垂〕樋口由紀子



樋口由紀子






画家よ 私なら一切を無色で描く

北村雨垂 (きたむら・うすい) 1901~1986

色彩は画家にとって重要であり、大事な見せ場である。その画家に向かって、「無色で描く」と叫ぶ。いや叫ばずにはおられない雨垂なのだろう。不遜な、危険な一句にびっくりすると同時に感心する。

彼の強烈なアイデンティティを感じる。他のだれでもない自分と真剣に向き合っている。他と区別することによって、自分を出していくしかない。だからこそ、画家に対して「無色で描く」と言い切ってしまうのだろう。自意識の強くて、傲慢な、雨垂の存在証明の一句である。人というものの不思議さ、可笑しさを思う。

〈分裂(かくめい)の風景 蝸牛の触覚(ねむり)〉〈頭蓋骨(むなしさ)の私に莞爾たれと責むも〉。独自のルビをうった。「鴉」22号収録。

2014年6月5日木曜日

●ヘリコプター

ヘリコプター


ゆらゆらと金魚のふんやヘリ通過  山下つばさ〔*

執拗なヘリコプター死者の広場があり  林田紀音夫

スリッパの父眠り籐椅子を出るヘリコプター  島津 亮


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2014年6月4日水曜日

●水曜日の一句〔宮崎斗士〕関悦史



関悦史








メールが一通夏雲どっさりの少女   宮崎斗士

例えば攝津幸彦が日本映画全盛期の映像体験を核に据えることによって、あり得ないにもかかわらずノスタルジックな記憶を俳句でつむぎだしているとしたら、宮崎斗士はCMやプロモーション・ビデオ、あるいはアニメや、その原作となるライトノベルが遍満した現在の暮らしに特有の抒情を俳句にしているともいえそうだ。

それはしかし、感覚の変容を通じて「現代」を批評的にえぐりだすことを目的にした営みなであるわけではなく、移りかわっていく生活環境と、「言葉」へのフェティッシュのはざまにのみ立ちあがる清新な抒情性を通じて、自分にとってのリアルを探り当てていくことが制作動機の根底にあるようである。

同じ句集に収められた《天文学っておおむね静かふきのとう》《すもも買う破船のように静かな日》その他の句は、その営みのさなかに撮られたスナップ写真のようにも感じられる。つきつめた求道性の息苦しさとは軽やかに距離を取りつつも、できあいの詩因や、言葉だけの上滑りを回避する点においては至って生真面目なのである。

掲句もいかにも何かのアニメ作品で見たことがあるような気がするモチーフが扱われているが、それを視覚的になぞった句には全く終わっていない。一通の「メール」は「少女」から来たのか、「少女」が受け取ったのか判然とはせず、しかもこの「少女」は口語調の「夏雲どっさり」を背景として持っているだけではなく、属性として帯びているのである。さしあたり直接対面しているわけではなく「メール」によって隔てられた「少女」が呼び起こす(あるいは抱えている)不在と期待の感覚が、句のなかでは、そのまま既に「夏雲どっさり」の明るさと量感をたたえている。一句は統辞的な飛躍/圧縮による不在の領域をしなやかに抱え込むことで、はじめて夏雲=少女の輝かしさをインターネットというインフラともども取り込むことに成功したのだ。

そしてこの句において語り手の視点は「少女」の位置にもなければ、「少女」と出会う少年なり何なりの位置にあるわけでもない。その両者を包摂しつつも、「メール」が飛び交うネット空間のようなはざまの位置に空漠と浮遊しているのである。そこから来る、物欲しげでない開放感が心地よい。


句集『そんな青』(2014.6 六花書林)所収。

2014年6月3日火曜日

●かばん

かばん


うぐひすを出してそれきり布かばん  山田耕司〔*〕

鞄より出してつくづく青き梅雨  田中裕明

鴨渡る鍵も小さき旅カバン  中村草田男

鞄の金具鏡のごとし冬の怒濤  田川飛旅子

あけてみる鞄はくろい冬の海  津沢マサ子


〔*〕『円錐』第61号(2014年4月30日)より。


2014年6月2日月曜日

●月曜日の一句〔今橋眞理子〕相子智恵



相子智恵







緑蔭に引戻しては遊ばせる  今橋眞理子

句集『風薫る』(2014.4 角川学芸出版)より。

青葉が茂る涼しい木陰で、子どもを遊ばせていたのだろう。子どもは夢中で遊んでいるうちに緑蔭の下から飛び出てしまい、いつの間にか炎天下で遊んでしまっている。子どもにとっては日陰も日向もお構いなしで、遊び場は無限大なのだ。

それに気づいた母親が子どもを緑蔭に引戻す。緑蔭の中で遊んでいた子は、またいつしか炎天下に飛び出してしまうのだろう。引戻すことを何度か繰り返しながら、緑蔭は動き、夏の日は暮れてゆく。安らかな母子の時間である。

本句集は自身の結婚の句に始まり、2人の娘を産み育て、長女の結婚の句で終わる。35年の生活とともにあった句を一冊に収めた句集である。掲句には誰が誰を遊ばせるのかは書かれていないが、きっと自身の経験から生まれているのだろう。母のまなざしから生まれた句であると読んだ。

2014年6月1日日曜日

●竹夫人

竹夫人


こそばゆき季語の一つに竹夫人  倉橋羊村

竹夫人欲しや夜の雨通り過ぎ  岸風三樓

冷まじや納戸の奥の竹夫人  佐藤春夫

秋もはや空氣女の戀窄む  閒村俊一