2016年2月29日月曜日
●月曜日の一句〔鈴木多江子〕相子智恵
相子智恵
春満月この世に生まれ臍ひとつ 鈴木多江子
「俳句」3月号「臍ひとつ」(2016.2、角川文化振興財団)より
言われてみれば、この世に生まれた誰もが臍をひとつ持っている。臍は、一本の臍の緒で母とつながっていた痕跡である。連綿と続く人類の「つながり」の痕跡だ。
生命の歴史や進化という言葉は、普段は教科書に載っていることのように遠い。しかし臍を見れば、その痕跡を身近に感じることができるのである。
滴るような春満月の取り合わせによって、一句に大きな時空間が引き入れられている。潮の満ち引きは月と関係しているが、一説によると、満月の日は出産も多くなるらしい。生命が歴史を刻む間ずっと空にありつづけた月と、〈臍ひとつ〉につながりの痕跡をとどめる私たちとが響きあっている。
●
2016年2月27日土曜日
【みみず・ぶっくす 59】エアー病 小津夜景
【みみず・ぶっくす 59】
小津夜景
エアー病
小津夜景
ことばの平衡感覚にささやかならぬ欠陥がある。日頃なにかを伝えようとするとかならず思っていたのとは逆のことを言ってしまうのだ。しかも指摘されるまでそれに気づかない。
まったく自覚がないというのは何かの病気だろうか。
もともとしゃんとするのが怖いというかそれを避けたい性分ではある。目がわるいのでものをよく見ることがなく、好んで聞くのはたわいない物音ばかりで、今日までの来し方を思い出すと飛び降りたくなるため昨日のことすら考えない。さらには生業が無我の境地をめざすことときている。
そんなこんなで年がら年じゅう放心しっぱなしだ。
このまえ浜辺で赤ん坊みたいによつんばいになって貝殻をあつめていたら、ふと近くのガードレール越しにこちらを指差している男の子を母親がむりやり引きずってゆくのがみえた。エアーおばさんだよ、という男の子の声がきこえる。エアーおばさん? 何だそれ。エアー、エアーといえば土方巽の「幽霊になぜ足がないのか。ところが幽霊でもああいう形態を保っているわけですね、何かが支えている。支えなければ浴衣と同じて落ちてしまう。支えているもの、エアーですね」しか思い浮かばないが。
後日、エアーというのは雲の上でふわふわ傾いている感じのことだよ、と知人が教えてくれた。ふうんそうだったのか。もしかしたらじぶんが思っているのと逆のことを言うのも、なにかそういった無重力的なことと関係しているのかなあ。
ところでこの病気、夫婦間ではなんの問題にもならない。「あれどこ」と夫に聞かれて「右の棚」と答えれば、夫はだまって左の棚を見にゆくから。イッツ・ノット・アンユージュアル。
モザイクの風すこしある沈丁花
コマ落としめいて遅日の走り書き
目ぐすりをくすぐる糸の遊びかな
クローバーしこたまつんで心が留守
地の果てや花を見ちがふ言ひちがふ
ストロボのそぼふる春のモアイ像
要約のやうに老ゆらむ桃の坂
いまさらの夜を慈姑と眠りこけ
田楽に死に至らざる病あり
紙芝居かすみの奥に呑み込まる
2016年2月26日金曜日
●金曜日の川柳〔花戦〕樋口由紀子
樋口由紀子
バレエの男ほど妻抱きあげたことがない
花戦
そりゃそうでしょう。あんなに高く抱きあげられたら妻の方だって困る。そりゃ無理でしょう。足腰の鍛え方が違う。いつ落されるのかとひやひやとして、ただ怖いだけである。決してそんなことはしないでください、望んでいませんから、と思いながらも、あんなにスマートにひょいと持ち上げられたらやっぱり嬉しいのかもしれないと思ったりもした。
男の人ってバレエを観て、そんなところに感心して、そんなことを考えているのかと、予想外だった。なんだか微笑ましい。女の人はバレエを観て、夫にあれほど高く抱きあげられたことがないと思うのだろうか。すくなくとも私はなかった。ダンサーのお腹が出てなくて、かっこいいと思うけれど、そこまで止まりだった。
●
2016年2月25日木曜日
2016年2月24日水曜日
●水曜日の一句〔大野すい〕関悦史
関悦史
芋虫や真面目に薬飲みつづけ 大野すい
「芋虫」と服薬という取り合わせ、普通に取れば、他に移動の手段を持たない芋虫が地道に這っていくさまと、「真面目に」欠かさず薬を飲み続けるさまが隠喩的に通じあっているということになるのだろう。
そう取ってしまえば、意味的にも過不足なく理解できてしまう句ではあるのだが、しかし「芋虫」との取り合わせは意外でユーモラスである。
薬を飲んでいる語り手当人はあくまで「真面目」なのだ。作者本人にもおそらく過剰にふざけてみせようという意図はない。そこがかえって妙におかしい。自分が真面目に成し続けている作業の喩えとして「芋虫」を持ちだす人が普通いるであろうか。あの進み方の柔らかい蠕動運動が、真面目さが持つ硬直ぶりをおのずと裏切ってしまうのだ。
さらには真面目に薬を飲み続けた結果として、「芋虫」に変身しそうな奇妙な気配、いやむしろ「芋虫」たることを目指しているような気配も、この句からは感じられる。
「芋虫」がめでたく蝶になれば全快ということにもなろうが、そこまで読むと理に落ちる。
「芋虫」のようにもこもこと薬を飲み続ける日常の営みそのものに、ある種の幸福が宿っているのである。
句集『雪あそび』(2016.2 本阿弥書店)所収。
●
2016年2月23日火曜日
〔ためしがき〕 世界萌え? 福田若之
〔ためしがき〕
世界萌え?
福田若之
けれど、なんということだろう。
世界には、顔がない。
これをどう捉えたらよいのだろう。僕はのっぺらぼうである世界にまさに直面しているのか、それとも、見るふりをして本当は目を背けてしまっているからその顔が見えないだけなのか。僕は結局、困惑している。「テロテロする世界」というフレーズに、繰りかえされるテロリズムのことを思いながら。
世界萌え?
福田若之
泣いたって世界世界のショウタイム僕は、一方では、「わかめ」から「世界」へのこの置き換えには何らかの価値があるように思い、けれど、他方ではそれをおぞましいとも感じた。その理由をずっと説明できなかったのだけれど、ひとつの文章がヒントをくれた。
夢忘れ老いぼれ世界走るよホイ
天皇家ならびにテロテロする世界
暴れるな夜着から世界出てしまう
なんぴとも世界涅槃を想像す
秋雨やふえる世界とコンドーム
テンガロンハットも似合う世界かな
警告にしずまれ世界空っ風
なんでやねんうち新宿の世界やし
泣いたから訊けば世界にゃ顔がない
(榊陽子「ふるえるわかめ(なな子、社長ほか代用可)」、ただし本文中の「わかめ」に「世界」を代用した)
「萌えに郷愁はありません。萌える人々には、その対象が歴史的に担ってきた意味や世界観への関心がないのです。あくまで目前の要素と設定にのみ注目し、自分勝手な感情移入を展開すること。これが萌えです。したがって萌えは郷愁や倒錯と異なり、いくらでもその対象をとっかえひっかえすることができます。正味のところ、萌えが対象愛でなく自己愛の日替わり定食である、と言いうるのはこうした所以です。まとめるとですね、萌えとは世界を構成するデータベースを個別に消費しつつ、そのデータを構成している世界それ自体には無関心をよそおう感性、となります」だから、実験の結果はふたつにひとつだったのだ。世界をまるごと置き換え可能な対象としてしまうことで、世界に萌えながら、それが歴史的に担ってきた意味の全体に背をむけることになるか、それとも、世界に対する関心によって代用可能な無数の対象からなるデータベースを内側から崩壊させ、萌えを克服することになるか。世界と向き合うことができるか、できないか。
(小津夜景「【みみず・ぶっくす 55】萌えと俳味定食」)
けれど、なんということだろう。
世界には、顔がない。
これをどう捉えたらよいのだろう。僕はのっぺらぼうである世界にまさに直面しているのか、それとも、見るふりをして本当は目を背けてしまっているからその顔が見えないだけなのか。僕は結局、困惑している。「テロテロする世界」というフレーズに、繰りかえされるテロリズムのことを思いながら。
2016/1/24
2016年2月22日月曜日
●月曜日の一句〔生駒大祐〕相子智恵
相子智恵
本閉ぢて雪野踏み抜く音したり 生駒大祐
「オルガン」4号「Re:Re:雪」(2016.2、編集 宮本佳世乃、発行 鴇田智哉)より
一面に雪が降り積もった野原。まだ誰も足を踏み入れていない真っ白な世界に、一歩足を踏み入れる。そのまま雪の面を滑らかに走っていけそうな気がするけれど、実際には「ぼふっ」と雪を踏み抜く音とともに、足が沈んだ。案外、雪の深さがあったのだ。
本を閉じた時に、雪を踏み抜く音がしたという。きっと、この本は辞典のような重みと厚みのある本ではないだろうか。確かにそのような本は、閉じるときに「ぼふっ」というような音を立てる。本を閉じる音が雪野を踏み抜く音だとは、言われてみればハッとする相似で、とても美しい。
真っ白な雪原が、本を閉じるまで没頭していたであろう作中主体の頭の中に重なる。そして本を閉じた音と、雪野を踏み抜いた音と足の感覚で、現実世界に帰ってきたという感じがする。
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2016年2月20日土曜日
【みみず・ぶっくす 58】本とエロス 小津夜景(詞書川柳 なかはられいこ)
【みみず・ぶっくす 58】
小津夜景
(詞書川柳 なかはられいこ)
本とエロス
小津夜景
(詞書川柳 なかはられいこ)
中が見えないよう紙が折られ、几帳面に縫われたあげく、しっかりと糊で綴じられた本というもの。読むためにはナイフで紙を裂かねばならない。そして裂いた瞬間あらわになる、植物のようにエロティックな文字列。本とはかくも欲情をそそる装置だ。
それは言葉の束のボンテージであり、また読むことは、その内容を気ままに食い散らかすため、本という体裁を脱ぎ捨てるようふたたび言葉に強いることでもある。
このあまりに幸福で単純な〈隠すことと暴くことの間のロール・プレイ〉の話を耳にしたとき、じぶんはそれをまったく理解できなかった。世界がそんなにも〈わたし〉を中心にまわっているとは到底おもえないから。
本はもっと、ずっと軽い。
たとえばこよなく愛したいのは、いつまでたっても書きかけの本。
構築性を欠くという意味ではない。むしろ構造は練られに練られているのに、最初と最後だけがどこかに行ってしまったような本。我慢しきれずに込み上げたかとおもうと、絶頂へ至る前にすっと収まってしまう、あかるくひなびた公園の噴水みたいな本。読んでいると、見えている文章の奥の方から、別の誰かのつぶやきが聞こえてくる本。紙が固定されておらず、風が吹くたびけむりのように散ってしまう本。無からうまれたあらゆる記号を幾世紀も宙づりのままに漂わせる、はかなき不死としての本。
さまざまな幕間に現れたと思うとすぐ消える、わたしの快楽に応えないことばたちへのふかい快楽。
タンカーをひっそり通し立春す
古き牌ひつそり醸し立春す
開脚の踵にあたるお母さま
謎の死を遂げしママンの風車
こいびととつくる夜の中の夜
うたかたと鷽の古風なかくれんぼ
記録には飛べない鳥として残る
伝書鳩ひつそりかんとひこばゆる
みるみるとお家がゆるむ合歓の花
やどかりや模型飛行の影を出で
足首にさざなみたてて生家かな
春の星すなどる従者は濡れながら
約束を匂いにすればヒヤシンス
風信子なかば開きて租界より
まっすぐに伸びたレールでとてもこわい
かはうその祭の魚の目つきかな
たそがれに触れた指から消えるのね
如月のあるかなきかに触れてしか
神さまはいてもいなくてもサクラ
とある春うららの無人写真館
2016年2月19日金曜日
●金曜日の川柳〔近藤飴ン坊〕樋口由紀子
樋口由紀子
二と二では四だが世間はさうでない
近藤飴ン坊 (こんどう・あめんぼう) 1877~1933
予約の取れないレストランの味がいまいちだったり、ベストセラー本が期待外れだったり、衆議院や参議院の選挙結果がなぜこのようになるのか理解ができなかったり、と「世間はさうでない」を実感することはたびたびある。
「へえ~」とか「うそ~」と思うことが確かにあっても、「二と二では四」とまでは言い切れない。これほど平易でわかりやすい言いまわしに降参する。人の気持ちをくみとって、誰かを励ましている一句かもしれない。
飴ン坊は柳樽寺川柳会機関誌「川柳」の創刊に尽力し、角恋坊とともに編集を担当した。〈をどつてるをどつてるふところはからっぽ〉〈黒船が何だ昭和八年だぞ〉〈探ってする白状は面白い〉〈十二時に腹のへらない怠け者〉
●
2016年2月18日木曜日
2016年2月16日火曜日
〔ためしがき〕 言葉と魚群 福田若之
〔ためしがき〕
言葉と魚群
福田若之
気がつくと、言葉は植物的なものだという前提に立っていた。だが、言葉と魚群についてのあの記述(あらためて書いておく意味がある。なにしろ僕は忘れていたのだから、また忘れるかもしれない)。
あのためしがきが思い出されるとともに、自分が高校生の頃に書いたこんな句が思い出された。
街灯に青葉は魚のごとく群れ
∴僕の認識の中では、言葉は植物的なものだということと、言葉は魚群に似ているということとは、必ずしも矛盾しないのだろう。
それどころか、この句にみられるような認識は、動物的なものが昆虫だけでなく魚類をあらわす言葉にも擬態しうるということを示しているのではないか(いつかやってみよう。成功すれば、それは、動物的なものをまた別の観点から捉え直すことになるはずだ)。
言葉と魚群
福田若之
気がつくと、言葉は植物的なものだという前提に立っていた。だが、言葉と魚群についてのあの記述(あらためて書いておく意味がある。なにしろ僕は忘れていたのだから、また忘れるかもしれない)。
あのためしがきが思い出されるとともに、自分が高校生の頃に書いたこんな句が思い出された。
街灯に青葉は魚のごとく群れ
∴僕の認識の中では、言葉は植物的なものだということと、言葉は魚群に似ているということとは、必ずしも矛盾しないのだろう。
それどころか、この句にみられるような認識は、動物的なものが昆虫だけでなく魚類をあらわす言葉にも擬態しうるということを示しているのではないか(いつかやってみよう。成功すれば、それは、動物的なものをまた別の観点から捉え直すことになるはずだ)。
2016/1/13
2016年2月15日月曜日
●月曜日の一句〔たなか迪子〕相子智恵
相子智恵
沓跡はまつすぐ神へ木の根開く たなか迪子
句集『沓あと』(2016.2 ふらんす堂)より
新たな雪が積もることのなくなった早春、木の根元の雪がドーナツ状にいち早く融けていく。〈木の根開く〉は、雪国の春を告げる、比較的新しい季語である。
そんな残雪の上に、まっすぐに進んだ沓跡がついている。ひとつの沓跡がはっきりと見えるのだから、冬の間は誰も通っていなかったのだということがわかる。きっとこの神は、冬は誰も入山しない山の、神様なのだろう。
沓跡は山の神を守る神官のものだろうか。〈まつすぐ〉は、ただ沓跡の景のみならず、沓跡を付けた人のひたむきさのような内面までも感じさせる。まっすぐ、迷うことなく、神へと向かう足と心。
〈木の根開く〉は、木の不思議な生命力を見せてくれる季語だ。その季語が〈神〉とともに現れることで、山が眠りから覚める春という季節の、人知の及ばない大いなる力が感じられてくる。
●
2016年2月14日日曜日
【俳誌拝読】『星の木』第16号(2016年2月3日)
【俳誌拝読】
『星の木』第16号(2016年2月3日)
A5判、本文20頁。
以下、同人各氏作品より。
鶏頭の風は甍に移りけり 大木あまり
いつまでも怒つてゐたる秋の蜂 石田郷子
幻のちまたよ野分めく橋よ 藺草慶子
さざんくわの一重の花のあけひろげ 山西雅子
(西原天気・記)
『星の木』第16号(2016年2月3日)
A5判、本文20頁。
以下、同人各氏作品より。
鶏頭の風は甍に移りけり 大木あまり
いつまでも怒つてゐたる秋の蜂 石田郷子
幻のちまたよ野分めく橋よ 藺草慶子
さざんくわの一重の花のあけひろげ 山西雅子
(西原天気・記)
2016年2月13日土曜日
【みみず・ぶっくす 番外篇】ニースの暮らし、或いはイスラム国とこどもたち 小津夜景
【みみず・ぶっくす 番外篇】
小津夜景
ニースの暮らし、或いはイスラム国とこどもたち
小津夜景
さいきんとある知り合いを見かけないなあと思っていたら、きのう数ヶ月ぶりにひょっこり姿をあらわした。驚いたことに以前とまるでちがう風貌になっていた。イスラム国に洗脳されてしまったらしい。
●
はじめてイスラム国を肌身に感じたのは数年前、家の裏手に住んでいた一家の息子さんがシリアに出奔してしまったのがきっかけだった。地元紙のインタヴューで息子を取り返してほしいと訴える親御さんを知ったときは気の毒でならなかったが、これが数奇な出来事ではないと気づくのにさほど時間はかからなかった。
●
フランスの日常におけるイスラム国の怖さとは、なにより子供を連れ去られることではないか、とおもう時がある。ここ数年のあいだに、この町からシリアへ向かった19歳未満の子供は、自分のような者が知るだけで30人を超える。ベッドタウンをふくめると7,80人になるそうだが、なにぶん事が失踪事件だけにそこから先の正確な数はわからない。いずれにせよ、この町の人口が35万人であることからして、にわかには信じられない数である。
いや。青年を勘定に入れると、フランス全土で1500人もの人間がジハードへおもむき、地元紙にはコート・ダジュール出身の死者の名がたびたび載っているのだから、いまさら耳を疑うほうがおかしいのかもしれない。
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洗脳の経路は、イスラム国のサイトを見たり書き込んだりしているうちに感化されたり、フェイスブックで友達申請をしてきた人物が実はそうだったりというのがほとんどだ。そして一人とりこまれると周囲にも感染することが多い。三年前、同じ地区に住む20人の子どもたちが相次いで行方不明になったときは、この子たちがシリアで肉弾となっていたことが後日わかった。
肉弾にも仕事はある。彼らの仕事は「テロリズム支援税」の支払いを拒むシリア住民を連行して処刑し、その首をふたたび家族の元にとどけて、金を出すよりほかに生きる方法はない現実を知らしめること。食事のたびにドラッグを処方されつつこの任務をつづける。どうしてこんなことが明るみになったのかというと、シリアにいた少年のひとりが隣町カンヌの警察に逃げ込んだからで、この少年は新たな人材を誘い込むため、ニースにこっそり戻されていたのだった。
また別の話に、友だち数人とシリアに行ってしまった15歳の少年の両親が国を相手どって裁判をしている、というのもある。その両親の主張は「未成年の子が連れ立って空港から出国するのを阻止しないのは国家の失態だ」というものだ。彼らはコーランを読んだことがなく、失踪する前日もみんなでクリスマスパーティーをしていたような環境で育った。
●
ジハードに関わったフランス人の家庭環境については、専門家による実態調査が山のようにある。それによると階級は上流2割弱、中流7割、労働者階級1割強。宗教は無神論が8割弱、ムスリム系1割強、キリスト教が1割。また移民出身者は1割である。
出奔時のようすはカルト教団への入信よろしく、ある日こつぜんとして行方をくらます。たぶんそのせいだろう、イスラム国はオウムと似ているとおもうか、といった質問をなんどかされた。娯楽を断ち、肉親との縁を切り、学業や仕事を捨てて家出するまでの流れを知れば知るほど、ええ、どのカルトにも共通する手法ですよね、としかいいようがない——学生の頃、周囲に悟られることなくオウムへの入信を果たし、あの事件の夜に逮捕されてしまった友人を思い出しながら。
●
ある年齢以上の者にとっては、なんらかのセクトに関わったり、そのせいで警察の世話になったりといった体験や見聞はめずらしくないとおもう。自分自身の頃もまだあったし、フランスもおなじだ。モサドもハマスもいれば、アルカイダもいる。学生寮には国籍年齢不詳の活動家が潜伏しているし、ごくたまにガサ入れもある。
でも、子どもばかりを狙い撃ってかくも大胆に国際空輸するカルト集団など今まで聞いたことがない——少なくともありふれた生活圏では。なかでも女の子は幼いほど狙われやすい。そういえば児童集団への洗脳の疑いで現在警察の監視下にある某宗教家——いっときの麻原彰晃のように脚光をあびている有名人だ——がこことは別の町に住んでいるのだけれど、この宗教家がひとびとに知られるようになったのも「音楽は悪魔のつくったもの。聴いたら豚になる」と教化して10歳の少女を精神障害に追いこんだからだった。
●
これ以上書くと、いただけない政治論やおめでたい文化論が言葉に絡みついてくるだろう。そういうのは本意でも流儀でもない。書きたかったのは、すでにたくさんの子供が死んだということ。そして子供が死ぬ話は聞きたくないということ。それだけ。
しずめかねし瞋(いか)りを祀る斎庭(ゆにわ)あらばゆきて撫でんか獅子のたてがみ / 馬場あき子
2016年2月12日金曜日
●金曜日の川柳〔弘津秋の子〕樋口由紀子
樋口由紀子
お金貸してと言う友もいるこの世
弘津秋の子 (ひろつ・あきのこ)
「お金貸してと言う」ことが想定外の出来事だったのだろう。他の人ならいざ知らず「友」が「お金貸して」と言ってくるなどとは考えもしなかったのだ。それが現実に起こった。その戸惑い、落胆、心配などのさまざまな作者の思いが素直に表われている。
あまりのストレートさに最初はあっけにとられたが、その衒いのなさ、演出的でないところがかえって印象に残った。川柳という場はプライベートな、私事も息をつけることができる。たぶん作者も書くことによって息がつけただろう。
この世は、生きていると、いろいろな出来事に出会う。だから、この世であり、生きていること、なのかもしれない。〈美しい年寄りがいる宇宙船〉〈プチトマト大人になったこと極秘〉 「川柳カード」第10号(2015年刊)収録。
●
2016年2月11日木曜日
◆週俳の記事募集
週俳の記事募集
小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。
長短ご随意、硬軟ご随意。
お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
「句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。
そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。
小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。
長短ご随意、硬軟ご随意。
お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
「句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。
そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。
2016年2月10日水曜日
●水曜日の一句〔市川葉〕関悦史
関悦史
去年今年海星の如きいのち欲し 市川 葉
ヒトデそのものになりたいといっているわけではないから、正確には変身願望とは言い切れないのかもしれないが、やや変わった願いである。
もちろん現実には絶対なれないとわかった上でのことだから、願望そのものよりも、現状に何らかの欠落(健康状態がよろしくない等)があり、その悔しさをヒトデに託していると取れないこともないのだが、心情を託すにはヒトデでは少々生物としての次元が離れすぎ、異形にすぎる。
再生能力は高いらしい。体の一部が欠損してもじきにもとどおり復元するという。
また海生生物ながら泳ぎはしないので、のんびりしているようにも見える。
それが「去年今年」という時間の経過に関わる季語と取り合わせられるとなると、のんびりしたいという願望と関わりがなくはないのかもしれないが、「去年今年」はすでに年が明けてしまったところであり、年末の慌ただしさのなかにはない。どちらかといえば、エアポケットのような時間であろう。めでたい、ハレの時間に移り変わった一瞬である。変な願望がふと現れるには、案外向いた時間なのかもしれない。
頭部がないので余計なことに悩みそうにはないし、放射状の五本脚は水母ほど受動的ではなく、かといって魚類のように一方向に固まった姿でもない。全方位どこへでも動くことができる。
エビのように食べられるわけでも、縁起物になっているわけでもない。ヒトの都合からすれば特に価値はない。無用で自由で丈夫と考えれば、ヒトデというのは案外悪い選択肢ではないのかもしれないが、そうした意味付けに過不足なく抑え込まれることを遁れ、あの五芒星型の異形の「いのち」は不穏に目立つ。
人間社会における時間の移り変わりを示す「去年今年」と、海“星”という字面、そしてこの宇宙生命じみた異形性とが合わさると、天体の運行のような大きな時間の流れを宿した「いのち」を、自分のうちに同居させたいと思っているようにも見え、そうした多重性を生きることができるのであれば、年頭にあたってヒトデをおのがイコンとすることもまた目出度いといえるのだろう。
句集『楪』(1988.9 本阿弥書店)/『市川葉俳句集成』(2016.1 邑書林)所収。
●
2016年2月9日火曜日
〔ためしがき〕 「うらら」についてのメモ 福田若之
〔ためしがき〕
「うらら」についてのメモ
福田若之
「春うらら」という叙述については、否定的な見解を多く聞く(ずいぶん前だけれど、この連載でも、それに関するコメントをいただいたことがある)。個人的には、この言い回しは物心ついた頃にはすでにあったようにさえ思われて(事実としてどうだかは知らない)、いまさら気にもならないのだけれど、違和感を覚えるのも分からなくはない。 ∵俳句では、「うらら」だけで春をあらわしてしまえるというのに、この合成語である。
とはいえ、それでも、「春」と「うらら」を両方とも書きたいということはありうる。
「春うらら」を認めないという人も、「春のうらら」は(少なくとも文法上は)おそらく許容せざるをえないだろう。 ∵この場合は、用例を武島羽衣作詞の『花』に求めることができる。
そもそも、「秋うらら」や「冬うらら」にしても、歳時記をぬきにどこまで通用するか、きわめて怪しいのではないか、という気もする。
余談――実を言うと、個人的には、「夏帽子」とか「冬帽子」という言葉にも、いまだに違和感が拭えない(もちろん、人が使う語としてそれを認めないわけではない。それどころか、以前は形式につられて自分でも使っていたように思う)。これらの言葉は、すでに長く用いられてきたものなのだろうし、どんな帽子を指しているのかも分かる。けれど、僕は、日常において、これらの言葉を俳句以外で目にすることなどないし、そもそも、ある帽子を「夏帽子」や「冬帽子」として認識するということがない(帽子に季節を感じないということではない。たとえば麦藁帽子に夏を感じたり、ニット帽に冬を感じたりはするのだけれど、僕はそれらをあくまで「麦藁帽子」や「ニット帽」として認識するということだ)。 ∴これらはたぶん本当の意味で自分の言葉ではないのだと思う。
「夏うらら」という言い回しが歴史的には存在していないも同然なのはなぜなのだろう(酒の銘柄としてはある。奈良の地酒だそうだ)。日の輝き、おだやかな気候、これらは初夏にも感じうるもののように思えるのだけれど。そのあたりに、「うらら」をめぐるこうした問題に決着をつけるためのヒントがあるのではないか。このことにはおそらく、「うらら」という語の意味のうちで、ほとんど「うらら」という語それ自体によってしか言い表すことのできない何かが関っているように思われる。
「うらら」についてのメモ
福田若之
「春うらら」という叙述については、否定的な見解を多く聞く(ずいぶん前だけれど、この連載でも、それに関するコメントをいただいたことがある)。個人的には、この言い回しは物心ついた頃にはすでにあったようにさえ思われて(事実としてどうだかは知らない)、いまさら気にもならないのだけれど、違和感を覚えるのも分からなくはない。 ∵俳句では、「うらら」だけで春をあらわしてしまえるというのに、この合成語である。
とはいえ、それでも、「春」と「うらら」を両方とも書きたいということはありうる。
「春うらら」を認めないという人も、「春のうらら」は(少なくとも文法上は)おそらく許容せざるをえないだろう。 ∵この場合は、用例を武島羽衣作詞の『花』に求めることができる。
そもそも、「秋うらら」や「冬うらら」にしても、歳時記をぬきにどこまで通用するか、きわめて怪しいのではないか、という気もする。
余談――実を言うと、個人的には、「夏帽子」とか「冬帽子」という言葉にも、いまだに違和感が拭えない(もちろん、人が使う語としてそれを認めないわけではない。それどころか、以前は形式につられて自分でも使っていたように思う)。これらの言葉は、すでに長く用いられてきたものなのだろうし、どんな帽子を指しているのかも分かる。けれど、僕は、日常において、これらの言葉を俳句以外で目にすることなどないし、そもそも、ある帽子を「夏帽子」や「冬帽子」として認識するということがない(帽子に季節を感じないということではない。たとえば麦藁帽子に夏を感じたり、ニット帽に冬を感じたりはするのだけれど、僕はそれらをあくまで「麦藁帽子」や「ニット帽」として認識するということだ)。 ∴これらはたぶん本当の意味で自分の言葉ではないのだと思う。
「夏うらら」という言い回しが歴史的には存在していないも同然なのはなぜなのだろう(酒の銘柄としてはある。奈良の地酒だそうだ)。日の輝き、おだやかな気候、これらは初夏にも感じうるもののように思えるのだけれど。そのあたりに、「うらら」をめぐるこうした問題に決着をつけるためのヒントがあるのではないか。このことにはおそらく、「うらら」という語の意味のうちで、ほとんど「うらら」という語それ自体によってしか言い表すことのできない何かが関っているように思われる。
2016/1/5
2016年2月8日月曜日
●月曜日の一句〔市川葉〕相子智恵
相子智恵
後の世はゆつくりと来よ桃の花 市川 葉
句文集『市川葉俳句集成』(2016.1 邑書林)より
死後はゆっくり来い、という。親しい人を送ったり、死を身近にする体験がなければ、なかなかこのような句はできないだろう。つつがなく生きている、この日常の奇跡を淡々と実感できる年齢や境遇にならなければ。句の背景に年齢を持ち込むことには慎重にならねばならないが、それでもやはり、あるべき時に書かないと説得力がない句というものもある。
その思いを強くするのが「桃の花」である。桃の花は現世の花でありながら、死後の世界にも通じるような気がするし、さらには「桃源郷」も思い出して、全体がふわりと俗世間を離れているような味わいがある。
現実世界も、死後の世界も、詩の世界も、すべてが地続きなのだ。だからこそ「死後はゆっくりと来い」という言葉に悲壮感がなく、微笑みを浮かべながら書けるし、読める。ふうわりと今の時間と向き合う作者の心の自在に、こちらの心もほぐれてくる。
※執筆後に著者のご訃報に接しました。ご冥福をお祈りいたします。(相子)
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2016年2月6日土曜日
【みみず・ぶっくす 57】枡野浩一とピタゴラス 小津夜景
【みみず・ぶっくす 57】
小津夜景
枡野浩一とピタゴラス
小津夜景
大喜利短歌のことをぼんやり考えていたら、ふと枡野浩一の存在が頭に浮かんだ。
枡野の短歌がそうだというのではない。昔、彼が「マスノ短歌教」の教祖として信者を導いていた頃、ひとつ変わったレッスンがあったことをぐうぜん思い出したのだ。
それは「どうぞよろしくお願いします」とか「今日のごはんはカレーにしよう」といった、彼の提示する下の句に対し五七五の前句を附けるといった遊びで、日夜マスノ教信者たちは競いあうように川柳の腕を磨いていた。短歌教、にもかかわらず。
もっとも短歌でなく川柳を書かせることの意味は端から見ても明快だった。まず状況を「発見」するエスプリをもつこと。そしてそのエスプリを文学の象徴作用に頼らずに言葉にしてみること。こうした練習に、なるほど伝統川柳はふさわしい。
初学者というのは技法を身体的痕跡として受け入れる。才能のある者ほど技法を内在化し、たとえそれを使わない時でも可能性としてのそれを無視できなくなる。たとえば子供が作曲を学ぶとき、ふつう現代の音階は勉強しない。しかしたった一度でもそのしくみに身を浸せば、たとえソナタを書いている最中でも、調性音楽以外の音の響きが頭から消え去ることはないだろう。
音楽の例を上げたからというわけでもないけれど、じぶんを教祖と称したり、物事を発見するエスプリを磨いたり、世界を詩的表象ではないやり方で定式化したり、現代の短歌界に計り知れない言語的影響を与えているのにその存在がひっそりとしか業界で扱われなかったりと、枡野浩一ってプラトンとアリストテレスを生んだピタゴラスに似てるかも、なんて思う。
ピタゴラス春の空気を汲みにけり
アルバムに日付のなくて暖かし
てのひらを太古にかざす鳥の恋
うぐひすや私の声が飲茶と言ふ
ふつくらと水気のかよふ春の燭
整数のとなりでシクラメンの咲く
ぶらんこの廃材めきて雨上がり
閂に余寒のゼリーフィッシュかな
人生のどの路地からもしやぼん玉
なにをうつでもなく春の砧かな2016年2月5日金曜日
●金曜日の川柳〔江口ちかる〕樋口由紀子
樋口由紀子
カミサマはヤマダジツコと名乗られた
江口ちかる (えぐち・ちかる)
「ふらすこてん」新年句会での兼題「神」の一句。一読して度胆を抜かれた。「川柳で大嘘を書きたい」と言ったのは石部明だが、掲句も見事な大嘘である。どこで出会ったのか、いつ言ったのか、カミサマは日本人だったのか、女性だったのか。突っ込みどころはいくらでもある。決してそういうことはないとわかっていても、この大嘘にのっかかって、一緒に納得し、一緒におもしろがりたいと思った。
「ヤマダジツコ」が絶妙で曲者。ありそうでなさそうな、リアリティのぎりぎりの巧みな名前設定である。そして、「かみさま」でも「神さま」でも「神様」でもなくカタカナの「カミサマ」。何の根拠もなく、理由もないが、唐突さに、不思議に説得力があった。
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2016年2月4日木曜日
2016年2月3日水曜日
●水曜日の一句〔秋山泰〕関悦史
関悦史
冬銀河どこまで繰っても前掲書 秋山 泰
学術書の巻末にはよく註がついていて、出典が明記してあるのだが、同じ本を何ヶ所も参照している場合「前掲書」が並ぶことになる。それをどこまで遡っても書名にゆきあたらないというのが七五の句意だが、「冬銀河」という助詞のない上五でやや日常から遊離したイメージが広がることになる。
冬銀河のもとで語り手が本を繰っているとするのが一般的な解であろうが、そのほかにも、本のページを遡り続けている間に冬銀河にまで遡ってしまう、冬銀河を本のようにどこまでも繰っている、冬銀河が本をどこまでも繰っているといったイメージが重なりあうことになるのである。
句集は全句、新かな、口語調で書かれているのだが、この句の場合の「繰っても」(「繰れど」ではない)は、中八になることとも相俟って、句を音読(それは黙読の仕方にも影響する)する速度を上げさせ、繰る動作への集中をより強めさせる。あまり銀河の始原にまで遡り、宇宙論に食い込むような深読みには誘わない。
「冬銀河」の透徹のもと、微小きわまる一冊の本にも至極あっさりと迷宮は潜んでいるのだが、それはたとえばボルヘスの「砂の本」のような最初と最後の部分を開くことがどうしてもできない本当の迷宮ではなく、単なる注意力と根気によって克服されるはずの迷宮に過ぎない。「冬銀河」が卑俗さから句を解放する役割を果たしてもいるのだが、同時に「冬銀河」の謎も日常レベルの平板さに引き下ろされ気味となる。それはそれで滑稽ではある。
いや、しかしひょっとしたらこの本には本当に無限が潜み入っているのかもしれない。「本という宇宙」がものの例えとしてではなく、不意にでくわしたただの物件として現前しているとしたらという、軽さのなかの恐怖をこそ掬すべきか。
句集『流星に刺青』(2016.1 ふらんす堂)所収。
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2016年2月2日火曜日
〔ためしがき〕 ビオトープとしての句集 福田若之
〔ためしがき〕
ビオトープとしての句集
福田若之
公準:言葉=植物的なもの。∵なにしろ「葉」である。
この認識に基づくなら、句集は育まれた植物的なものの群れであるということになるだろう。
けれど、それは田畑であってビオトープではない。ビオトープ(「生きる場所」≒すみか)を作り出すには、さらに、何らかの方法で動物的なもの(≠言葉)を導入する必要がある。
ある動物を意味する言葉は、それが単にある動物を意味している限りでは、やはり言葉だ。それは植物的なものだ。それは鷺草のようなものである。
動物的なものは、言葉ではないから、句集という環境に適していないように思われる。動物的なもののうちで、句集という環境に適応できるのは、言葉にうまく擬態するものに限られるだろう(ex.かまきり)。
動物的なもの=意味するとは別の仕方で、書かれてあるもの。言葉であるかにようにそこに書かれ、一見なにかを意味するかのようだけれど、実際には、単にそれ自体として現れているといった風なもの。「かまきり」が、言葉として、「言葉に似て非なるもの」を意味するのではなく、かまきりが、これ自体(「それ自体」ではなく)、言葉に似て非なるものなのである。ただし、こうしたありかたは、あくまでもそれを取り巻く植物的なものの上に成り立つ。
動物的なものが植物的なものの中に棲む、という構図。言葉に棲むという夢。だから、僕は動物的なものを書くことによって、言葉を否定したいのではない。
植物的なものは、生えているのであって棲んでいるのではない。だから、棲むということを表現するためには、動物的なものが不可欠になる。
かまきりは、しかしながら、植物的なものだけでは生きることができない(そうでなければ、かまきりはもはや「かまきり」という言葉に擬態することができなくなってしまう)。かまきりが句集に生息するためには、たとえば、ばったなどの動物もそこに棲んでいる必要があるだろう(象徴種を環境の中で育むためには、ほかの種も育む必要がある。その構造はセミラチスである≠植樹計画。ここで「セミラチス」という表現が「リゾーム」という表現よりも良いように思われるのは、とりわけ前者が都市計画に関する用語として定着しているからだ。問題なのは、居住環境=生息域をどう整えるかである)。
ばった:言葉に混ざり、言葉を脅かすことによって生きるもの。
このようなものを、たとえば「ばった」などの言葉に擬態させて句に書くことが必要になる。そして、そのとき、たとえば「(言葉を)脅かす」とはどういうことなのかを考える必要が生じる(それも、たとえば〈休日は君に遇えないばったの冬〉の「ばった」と矛盾がないように。たとえば、「かまきり」については、〈童話集かまきりがやわらかく踏む〉と矛盾なくできたように思う)。
では、土や水や、その他の非生物にあたるものは? →さしあたり、言葉には余白があればそれで充分に思われる。
バクテリア(分解者。小さいうえに土に隠れていて、目に見えるものではないかもしれないが、要するに忘却を引き起こすもの)、ミドリムシ(動物的であると同時に植物的なもの)、茸(それをどう位置づけたらいいのか、僕にはまだ分からない)についても、それぞれ考える必要があるかもしれない。
けれど、本当にこんな句集を編むつもりなのか? →わからない。想像が勝手にふくらんでいるだけかもしれない。けれど、こんな句集があったら、そこに棲みたいとは思う。
ビオトープとしての句集
福田若之
公準:言葉=植物的なもの。∵なにしろ「葉」である。
この認識に基づくなら、句集は育まれた植物的なものの群れであるということになるだろう。
けれど、それは田畑であってビオトープではない。ビオトープ(「生きる場所」≒すみか)を作り出すには、さらに、何らかの方法で動物的なもの(≠言葉)を導入する必要がある。
ある動物を意味する言葉は、それが単にある動物を意味している限りでは、やはり言葉だ。それは植物的なものだ。それは鷺草のようなものである。
動物的なものは、言葉ではないから、句集という環境に適していないように思われる。動物的なもののうちで、句集という環境に適応できるのは、言葉にうまく擬態するものに限られるだろう(ex.かまきり)。
動物的なもの=意味するとは別の仕方で、書かれてあるもの。言葉であるかにようにそこに書かれ、一見なにかを意味するかのようだけれど、実際には、単にそれ自体として現れているといった風なもの。「かまきり」が、言葉として、「言葉に似て非なるもの」を意味するのではなく、かまきりが、これ自体(「それ自体」ではなく)、言葉に似て非なるものなのである。ただし、こうしたありかたは、あくまでもそれを取り巻く植物的なものの上に成り立つ。
動物的なものが植物的なものの中に棲む、という構図。言葉に棲むという夢。だから、僕は動物的なものを書くことによって、言葉を否定したいのではない。
植物的なものは、生えているのであって棲んでいるのではない。だから、棲むということを表現するためには、動物的なものが不可欠になる。
かまきりは、しかしながら、植物的なものだけでは生きることができない(そうでなければ、かまきりはもはや「かまきり」という言葉に擬態することができなくなってしまう)。かまきりが句集に生息するためには、たとえば、ばったなどの動物もそこに棲んでいる必要があるだろう(象徴種を環境の中で育むためには、ほかの種も育む必要がある。その構造はセミラチスである≠植樹計画。ここで「セミラチス」という表現が「リゾーム」という表現よりも良いように思われるのは、とりわけ前者が都市計画に関する用語として定着しているからだ。問題なのは、居住環境=生息域をどう整えるかである)。
ばった:言葉に混ざり、言葉を脅かすことによって生きるもの。
このようなものを、たとえば「ばった」などの言葉に擬態させて句に書くことが必要になる。そして、そのとき、たとえば「(言葉を)脅かす」とはどういうことなのかを考える必要が生じる(それも、たとえば〈休日は君に遇えないばったの冬〉の「ばった」と矛盾がないように。たとえば、「かまきり」については、〈童話集かまきりがやわらかく踏む〉と矛盾なくできたように思う)。
では、土や水や、その他の非生物にあたるものは? →さしあたり、言葉には余白があればそれで充分に思われる。
バクテリア(分解者。小さいうえに土に隠れていて、目に見えるものではないかもしれないが、要するに忘却を引き起こすもの)、ミドリムシ(動物的であると同時に植物的なもの)、茸(それをどう位置づけたらいいのか、僕にはまだ分からない)についても、それぞれ考える必要があるかもしれない。
けれど、本当にこんな句集を編むつもりなのか? →わからない。想像が勝手にふくらんでいるだけかもしれない。けれど、こんな句集があったら、そこに棲みたいとは思う。
2016/1/3
2016年2月1日月曜日
●月曜日の一句〔藤野武〕相子智恵
相子智恵
白鳥の在り夕ぐれの全重量 藤野 武
句集『火蛾』(2016.1 角川書店)より
不思議な句で、とても美しい。
〈夕ぐれの全重量〉とは、どのくらいの重量だろうか。夜が覆いかぶさってくるから重くも感じるし、逆にその曖昧な光と時間が、昼の終わりにも夜の始めにもスーッと融け出すので、透明な軽さであるようにも思う。
そこに白鳥が「在る」。掲句は「白鳥が夕ぐれの全重量である」とも読める。「白鳥の在り/夕ぐれの全重量」と切れを強調すれば、白鳥と夕暮れの重量は別のものだと読める。どちらとも取れて滲みあうから、この句は美しいのだ。昼とも夜ともつかない夕暮れの光のように。
白鳥は遠目には白くて軽やかそうであるが、近づくと、その大きさと重量に驚く。白鳥の存在感(私は飛んでいる白鳥ではなく、水辺にたたずむ白鳥を思った)が、錨のように夕暮れの重みとなって存在している。しかし、白鳥の白さは逆のベクトルで、全重量を軽くする。
重くて軽い夕暮れに、重くて軽い白鳥が、存在する。
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