〔ためしがき〕
「視聴」することと「写生」すること
福田若之
俳句結社「炎環」の公式サイト上に掲載された
田島健一「見るということ」の末尾には、「タレントの名前に疎い方のための注釈」が付されている。そして、そこには次の文言がある。
(注2)フットボールアワー・・・吉本興業所属のお笑いコンビ。ブサイクな岩尾とツッコミの後藤の二人。
「ブサイクな岩尾とツッコミの後藤」という言葉のちぐはぐさを僕は興味深く思った。ここで、フットボールアワーはボケとツッコミのコンビではなく、ブサイクとツッコミのコンビとして紹介されているのである。
ザブングル松尾については、
(注3)ザブングル松尾・・・ワタナベエンターテイメント所属のお笑いコンビ、ザブングルのツッコミ担当。ちなみにザブングルのボケ担当はブサイクキャラの相方・加藤。
とある。本来、ツッコミに対応するのはボケであって、これら二つが「担当」される役割であるのに対し、ブサイクは「キャラ」だ。そのことは、この文章においてもはっきり意識されているのである。にもかかわらず、「ボケの岩尾とツッコミの後藤」とせずに「ブサイクの岩尾とツッコミの後藤」という形容が選び取られることのうちには、書き手自身の〈フットボールアワー体験〉が関わっているように思う。おそらく、フットボールアワーの漫才を、ボケとツッコミによる漫才としてではなく、ブサイクとツッコミによる漫才として感受する体験があったのだ。あるいは、岩尾をボケとしてではなくブサイクとして感受するという〈岩尾体験〉があったというほうが実態に近いかもしれない。ボケとしてではなくブサイクとして岩尾を「見る」という体験。実際、こうした〈岩尾体験〉は、多くの人に共有されている体験であるように思う。しかし、その体験をこうして言葉にしたとき、その言葉はフットボールアワーについての一般的な認識をなぞる一方で、ボケとツッコミという制度化された枠組みをいとも簡単に崩してしまうのである。
ある思想的な枠組みが崩れると、目の前の対象の、「それ」が「それ」であることは揺らぎ始める。言い換えれば、私たちがものを見るとき、私たちの認識はある種の思想的な何かに支えられている。
ブサイクとツッコミの二人としてフットボールアワーが語られるのを目にするとき、僕のなかで、岩尾は依然として岩尾でありつづけているにもかかわらず、フットボールアワーはもはやふつうの漫才コンビではなくなり、つまりは、揺らぎ始める。僕は、あらためて、テレビに映るフットボールアワーの岩尾の顔をまじまじと「見る」。すると、どうだろう。今度は、フットボールアワーの岩尾はブサイクである、という暗黙の了解が揺らぎ始めるのだ。 そこにはブサイクな顔があるのでもなければ、その顔を心の底からブサイクだと感じる僕がいるわけでさえもなく、単に、その顔をブサイクなものとして提示する彼らの枠組みに僕らがとらわれているだけなのではないか。
俳句で「ものを見る」というとき、私たちはその「対象以上」のものを見るのだ。そして俳句形式はその五七五という短さの中で「それは、それである。本当か、嘘か」という名指しと問いかけを同時行うのだ。そうして名指されたものが、それ以上のものとしてそこに現れるのである。
ブサイクな岩尾は、ブサイクな岩尾である。本当か、嘘か――こうして、結局のところ、「視聴」することと「写生」することの違いは、テレビで見るか生で見るかの違いではなく、「本当か、嘘か」という問いをもたらすほどの思想的な枠組みの崩壊があるかないかの違いだということになるだろう。
このことは、当然、ある種の震災俳句の問題と関わっている。そして、また一方では、「プレバト!!」式の、写真を見て一句を書くということの問題とも関わるだろう。だから、たしかに、「写生」を「ものを見る」こととして語ることには、大きな意味がある。
けれど、僕は、そもそも「写生」を「ものを見る」ということと過剰に結びつけることに疑問を持っている。それは、たとえば聴覚的な「写生」がある、とかいう話とはまた別のことだ。僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。写すということは、なによりもまず、書き写すことではないだろうか。
2016/6/7