〔ためしがき〕
松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて
福田若之
松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」は、『オルガン』4号掲載の座談会「震災と俳句」に対する、BL俳句の担い手の側からの批判だった。
まず、座談会の時点での僕の立ち位置について書いておくことにする。僕はあの座談会の時点では、BL俳句について、ほとんど何も知らなかった。だから、当然、いわゆる震災俳句とそれとがどう関わるのかも分からなかった。僕が「じゃあ、BL読みが先にあって、そのニーズに応えるためにBL俳句が作られるようになってくるってことですか」と問うことしかできなかったのは、そうした理由による。
それでも、かなり切実な批判が行われた以上、それに対して、僕は自分なりに応えたいと考えた。 僕がここでなそうとしているのは、批判に対する反論でもBL俳句に対する非難でもなく、単に、応答である。これまではっきりさせてこなかったBL俳句についての自分の立場を、どうにか書いておこうと思ったのだ。その上で、改めて反論があれば、また、可能なかぎり、考えていきたい。
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立場をはっきりさせるために、まずは僕なりの理解を整理しておかなければならないだろう。最初に考えたのは、BL俳句は、BLと俳句との関係ではなく、BとLと俳句との関係で捉える必要がありそうだということだった。そこで、三者の関係を、ラカン派の精神分析の用語をごく表面的に借り受けて、以下のように定式化してみたい――
B(少年):現実的なもの
L(愛):想像的なもの
俳句:象徴的なもの
つまり、分かりやすくいえば、現実的な存在としての少年をめぐって、愛を想像するために、俳句という言語形式があるように思われるとき、そこにBL俳句と呼びうる何かがあるのではないかということだ。
ただし、ここでひとまず「少年」と書いておいたのは、僕らの漠然とイメージするあの典型的な「少年」ではなく、具体的な骨肉の塊としての実体のことであり、僕らがそれを「少年」と認識する前の、何者かである。それは、要するに、松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」において、「
真の理解にはたどり着けないであろうもの」として言及されている、その実体のことだ。二人の少年という現実、その関係としての「×」の想像、一句という象徴。それら三者の有機的なかかわりにおいてBL俳句というものが立ち上がるのだと言って、ひとまずはさしつかえないだろう。
もちろん、「現実」というのは、この場合、少年がいわゆる架空のキャラクターである場合も含む。実在であれ非実在であれ、彼らの実体を「現実」と呼ぶことはできる。それがインクの染みであろうが骨と肉とのかたまりであろうが、「現実」には違いないのだから。
さて、現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものの三つは、どれかが欠けると、残りの二者の関係もまた失われる(ラカンはそのことをボロメオの輪の隠喩で語った)。 三者がそろったとき、はじめて、これらの結びつきがたしかなものとなる。現実的なものなしには、そこに愛を想像することはできず、俳句は象徴たりえない。想像的なものなしには、象徴たるはずの俳句は少年という現実的なものとの結びつきを失う。そして、象徴的なものなしには、現実的な少年と想像的な愛との関係は示されえない。
これに対して、もちろん、次のように問うことはできるだろう――現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものという三者の関係を成立させることだけが問題であれば、現実的なものは少年でなくともよく、想像的なものは愛でなくともよく、象徴的なものは俳句でなくともよいのではないか。
おそらく、科学的にはその通りだ。現に、BL小説は小説を、BL短歌は短歌を象徴的なものとしてそこにあてがうだろう。現実的なものは、たとえば少女同士でもいいだろうし、にくまん・あんまんでも構わないだろう(ガールズラブ、擬人化などなど)。想像的なものは、闘争や友情でも成立する(少年漫画的なもの)。
だが、個人にとってはどうだろうか。BL俳句には「
自らの切実な苦しみ」が混ぜ込まれているのだと、松本てふこは書いている。彼女にとって、それは「
自分を切り刻んで、煮て焼いて自分で食べているような息苦しさ」と隣り合わせなのだという。さらに、BL俳句誌『庫内灯』をひらけば、「斯くして私は少年だったのだ」(なかやまなな「BL抒情事情」)といった文言も見出される。こうした極度の私性は、おなじ一冊に書かれた、「BL俳句に決まった読み方はありません」(石原ユキオ「BL俳句の釀し方」)ということにも関わっているに違いない。BL俳句の読み書きは明らかに個々の「私」と深く結びついているのだ。
したがって、BL俳句を考える上で重要なことは、BとLと俳句が現実的なものと想像的なものと象徴的なものとにそれぞれ対応しているといった抽象化それ自体に関わるものではない。それは、むしろ、現実的なものとしてなぜ少年なのか、想像的なものとしてなぜ愛なのか、象徴的なものとしてなぜ俳句なのか、と問うときに明らかになる客観的な必然性のなさにこそ関わっているはずだ。その必然性のなさ、説明のつかなさについて、たとえば、佐々木紺は次のとおり書いている――
男性どうしが何故ひかれあうのか、もよく考えますが、なぜこんなに自分(達)はBLにひかれるのかも良く考えてみます。男女と違って完全な対等性が実現できるところなのか、女性とちがって作品中で傷ついても傷つきすぎない感じがするのがいいのか、とか、純粋にうつくしい男性2人が画として快いのか、とか・・・でも結局のところときめく時は理屈じゃないのでこれも本能でしょうか(笑)(あと男性どうしではなく男女でもこれはBLだ・・・!!と感じる時もあります)
(佐々木紺による金原まさ子宛て書簡。2015年6月3日付。『庫内灯』所収)
もちろん、こうした客観的な必然性のなさは、BL俳句の欠陥ではない。むしろ、BL俳句が客観的な必然性を持たずに書かれているということは、BL俳句が、徹頭徹尾、それに理由もなく惹かれてしまう個人のかけがえのなさによるものであることを示している。実際、そうでなければ、松本てふこは「あなたとオルガン」という与えられたテーマに対して、「『オルガン』とBL俳句」というかたちでは応答しえなかったに違いない。
だから、もしBL俳句に欠けているものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、むしろ、「公共性」ではなかろうか。この考えが正しければ、たとえば、BL俳句は同性愛をめぐる社会的な運動に対して、少なくとも直接的に役立つ何かではありえないということになるだろう。だが、そのことは、BL俳句の価値を決して損ないはしないはずだ。BL俳句の価値は、まずもって私的なものにほかならないのだから。
これ以上のことは、具体的な句について語るのでなければ、おそらくは意味をなさないだろう。 だが、そのためには、何よりも僕が、BL俳句に僕自身の切実さを見出しているのでなければならないはずだ。となれば、僕には、少なくとも今のところ、それらについて語る資格がない。結局のところ、BL俳句に応えるために、僕は僕で、僕自身にとっての切実なものについて語っていくよりほかにないのだろう。
2016/8/22