2018年7月31日火曜日

〔ためしがき〕 光景 福田若之

〔ためしがき〕
光景

福田若之


しりとり → りんご → ゴリラ → らっぱ → かぼす → ふくれっ面 → 麻酔銃 → 細胞膜 → シンドラーのリスト → 明鏡止水 → 犬が通る → まさかり担いだ金太郎 → 白いですね → タッカルビ → 今際 → ……

2017/7/13

2018年7月30日月曜日

●月曜日の一句〔河内静魚〕相子智恵



相子智恵






雨上がりのやうなメロンを掬ひけり  河内静魚

句集『夏夕日』(文學の森 2018.6)所収

〈雨上がりのやうなメロン〉とはどんなメロンだろうか。

雨に洗われたような瑞々しい美しさ……はもちろん感じられるのだが、私は雨上がりのムウッと湿った空気の匂いを真っ先に想像した。ウリ科特有の植物の匂いと、夏の雨上がりの湿った匂いとは、言われてみればどこか近い。

〈雨上がりのやうな〉の詩的なたとえを〈掬ひけり〉のスッとした締め方で受けて、繊細な美に傾けてある句だとは思う。しかしながら〈雨上がり〉に内包されるイメージの大きさが、一句の美の振れ幅を大きくし、野太い命を吹き込んでいる。ここに描かれたメロンは単にキラキラと美しいだけではなく、そこに湿った匂いという「生命力」が感じられてくるところが強いと思うのである。

このメロンは、きっと美味い。

2018年7月29日日曜日

〔週末俳句〕四文字ワード 千野千佳

〔週末俳句〕
四文字ワード

千野千佳


先日、テレビ番組で四文字ワードだけでロケを乗り切るという企画を観た。俳句的な企画だと思った。文字制限があるなかで、状況に当てはまる言葉を探すゲームだからだ。

この四文字ワードゲームを実際にやってみた。

ちょうど夫がお風呂から出てきた。

私「あがった?」

夫「うん」寒そうにしている。

私「エアコン」と言ってエアコンを消す。

夫「ありがとう」

私「こちらへ」と言って夫をテーブルへ誘導。

「ビーフン」と言ってコンビニで買ったビーフンのお惣菜のビニールをはがす。

「しずかに」と言って電子レンジの扉を開ける。(先日、電子レンジの扉の開け閉めがうるさいと夫に文句を言われたのであてつけで言っている)

「みそしる」と言って鍋を火にかける。みそ汁が沸騰しはじめたら「いかほど?」と聞く。(先日、みそ汁が熱すぎると夫に文句を言われたのであてつけで言っている)

夫「ごめんねぇ」と笑っている。

私「たこやき?」「まってて」冷凍のたこ焼きをレンジで温める。私「おまたせ」「あおのり」「かけてね」

夫、みそ汁のおかわりを催促。私「もうない」「ごめんね」

テレビで横浜横須賀道路を車が逆走したというニュース。私「よこよこ!」(※横浜横須賀道路の略)

夫、チョコプリンを食べている。私「ひとくち」「ちょうだい」あーん、と口を開ける。「のうこう」「あとひく」「しあわせ」

私「今日の私、なにか変じゃない?気がつかない?」と聞くと、夫「わからない」とのこと。

四文字だけで夫婦の会話は成り立つようだ。

いつもよりジェスチャーや表情が大げさになり、上機嫌にみえたのかもしれない。

このゲーム、単調な毎日に飽きたときにいい。日常生活にちょうどよい課題を与えてくれる。

あるいは苦手なひとと話すときや、気乗りしない飲み会のときにひそかにやってみるといいと思う。「うんうん」「そうだね」「なるほど」などで適当に相づちをうち、四文字ワードを見つけたらテンションが上がって「エイヒレ!」なとど叫んでしまいそうだ。



2018年7月27日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田吹喜〕樋口由紀子



樋口由紀子






ガラガラヘビ海に向かって「バカヤロー」

吉田吹喜 (よしだ・ふぶき)

蛇年生まれのせいか、そんなに蛇が苦手ではない。確かに気持ちいいものではないが、その程度である。夫は大の蛇嫌いで蛇に出会うと普段の10倍ぐらいの速さで逃げる。相性が悪いのかもしれない。

ガラガラヘビが海に向かって「バカヤロー」と叫ぶわけがないから、叫んだのは作者だろう。「バカヤロー」と叫びたいことがあっても、そんな事は微塵も感じさせないで生きていくのが生きていくということだと作者は思っている。だから「ガラガラヘビ」に身代わりをしてもらった。ではなぜ「ガラガラヘビ」なのか。ガラガラヘビは蛇の中では大柄である。そういえばと思い当たる節がある。ガラガラヘビは危険が近づくと尾を急激に振って、「じゃあ」とか「じい」とかの独得の音を発する。その「ガラガラ」の音に自分に重ねているのかもしれない。「おかじょうき」(2017年刊)収録。

2018年7月26日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








わすれ草菜飯につまん年の暮 芭蕉
 

『江戸蛇之鮓』より。延宝六年作。「わすれ草」は甘草のことで、薬性が人の憂いを払うとされる。句意はなんてことはなくて、わすれ草を摘んで菜飯にして、年の憂さを忘れてしまおうということだ。「わすれ」の連想だけど句を捉えると、あまり面白さも見いだせない。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)には、京の千春・信徳を迎えた三吟歌仙の立句とある。気になるのは、角川ソフィア文庫には「菜飯」に「なめし」と振り仮名が振っているのに対し、桜風社のものには「なはん」とあり、注には、『芭蕉盥』に「ナハン」の振り仮名がある。とある。

ナハン、の方があっけらかんとして、一年を忘れられそうな気がする。

2018年7月25日水曜日

【新刊】小津夜景『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』

【新刊】
小津夜景『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』


42篇中、10篇の初出が「ウラハイ」、3篇が「週刊俳句」(いずれも大幅な加筆あり)、ということで、当サイトには縁のある本。

なお、「初出一覧」の記載(p213-214)で「ウラハイ」「週刊俳句」のいずれにも「ブログ」とあるのは謎。

(西原天気・記)



〔評判録・一部〕
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO33209220Q8A720C1MY6000/
https://twitter.com/noe70/status/1021352610337472512
https://twitter.com/yomutokaku/status/1020644535771131904
https://bookmeter.com/books/12905689
https://twitter.com/kazukoan/status/1020261598231851008
https://twitter.com/hitotter16/status/1018775679385473024
https://www.imgrumweb.com/post/BlPdQdTA-_K
https://twitter.com/kurumidoshoten/status/1016980936418705410
http://gatan-goton-shop.com/blog/2018/06/29/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%A4%9C%E6%99%AF%E3%81%95%E3%82%93%E3%80%8E%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%83%A1%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8%e3%80%80%E6%BC%A2%E8%A9%A9%E3%81%A8%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%99/

2018年7月24日火曜日

〔ためしがき〕 砂漠 福田若之

〔ためしがき〕
砂漠

福田若之


タクラマカンでだまくらかされたんか、枕つかまされたんか、貸されたんか、まかりまからんな、まさかりかままかりか、枕かさぶらんか、カサブランカのそばはサハラだ。砂漠ちがい。鯖、食い違い、朝が来る土地がいい。朝来るさ、浅草、シラクサのいらくさ、生えてるか知らんが、エーテルか言い得てるか白髪結いあげていいなりで来つ寝。安倍晴明。Say "bleeeeeeeeeat!" 読まずに食べた。烏賊の嫁は嫁菜か烏賊か、夜目が効くか否か、読めないか?

2017/7/10

2018年7月23日月曜日

●月曜日の一句〔仁平勝〕相子智恵



相子智恵






弟と母相乗りで茄子の馬  仁平 勝

『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 仁平 勝』(ふらんす堂 2018.6)所収

お盆に祖先の霊を迎える精霊馬(しょうりょううま)。祖先が家に帰ってくる時の乗り物として供えるとされる。胡瓜は馬、茄子は牛で、胡瓜の馬で早く駈けて来て、茄子の牛でゆっくり帰ってほしいという意味があるようである。

考え方としては、その家につながる祖先は全員、精霊馬に乗ってくるのだろうが、その中で弟と母に限定しているのは、彼らの新盆であるのだろうと想像される。家族を二人も亡くした(しかも弟は自分より若いのに)辛い年だったのだ。

祖先がどのように精霊馬に乗ってくるのか(ひとり一人別々に?全員で一つの馬に?)など考えたこともなかったが、弟と母が相乗りでやってくるのだと言われるとじんとしてしまう。茄子であることを考えると帰り道かもしれない。相乗りの二人の後ろ姿をじっと見ている作者。また来年一緒に来てくれよ、と。

2018年7月22日日曜日

〔週末俳句〕こう暑いと 西原天気

〔週末俳句〕
こう暑いと

西原天気




こう暑いと、

  幸福だこんなに汗が出るなんて  雪我狂流

なんてことも言ってられない。

外を歩くとき、着替えのシャツを持っておくと、便利ですよ。丸く畳んでキッチン用の小さなポリ袋に入れて鞄へ。カメラなど精密機器の緩衝材にもなります。


週刊俳句の読者からメールがいただくことがあります。先日は、「西原さんが亡くなったあとも週刊俳句をなんとか残す方法」を考えているとか書いてあって、「おい、勝手に殺すな! 長生きさせろ!」と心の中でだけ反応して、返信メールは打ちませんでした。

また先日は、俳句世間への不信感をつのらせて、かなり煮詰まったメールが来たので、「とりあえず、これ、見て ↓↓↓」と返信しました。

goo.gl/YnLQCL

みなさま、この一週間も、健やかにお過ごしください。

2018年7月20日金曜日

●金曜日の川柳〔笹田かなえ〕樋口由紀子



樋口由紀子






熟れていくいちじく じっとりと昨日

笹田かなえ (ささだ・かなえ) 1953~

いちじくが美味しそうに店頭に並んでいる。子どもの頃はいちじくが嫌いだった。田んぼの端に実っていて、母は農作業の途中でもぎ取り、美味しそうに食べていた。一つ食べるかと聞かれても決して食べたいとは思わなかった。そのかたちも白い液が出るのも、なによりもべっちゃとした熟し方が気持ち悪かった。生々しさが苦手だったのだ。

掲句はいちじくのその生々しさをねじ曲げて、情念を引き出している。「熟れていくいちじく」をリセットせずに、「じっとり」で追い打ちをかける。モノと時間を抒情的に捉えて、状況の対する感覚をうまくキャッチしている。「じっとり」が持っている粘着的な言葉の姿を生かし切っている。

〈空き缶を拾う神さま見ていてね〉〈やさしくてどこもかしこシャーベット〉〈そのつもりなくてもちょっとかたつむり〉〈花束で殴るだなんてアルデンテ〉〈この先はきっと無意味にステンレス〉 『川柳作家ベストコレクション 笹田かなえ』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年7月19日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








編笠は牢人かくす小家かな 西鶴
 

『点滴集』(延宝8年・1680)

ほんらい暑さをしのぐ「編笠」だが、用途はさまざま。プライドの高い浪人(当時の用字で牢人)が、その氏素性を隠すためにかぶったり、わけありの遊客が遊里の入口で借りたり。深編笠もイロエロである。

そこで〈編笠は小さな隠れ家だ〉と見立てをきかせたのが掲句。

がしかし、それにしても、もし浪人が遊里の青暖簾をくぐるのだとしたら
〔*〕、〈隠れ家〉を被った男がさらに〈隠れ家〉へしけこむわけで、なんとも癒えぬ……失礼、なんとも言えぬ、滑稽さが目に浮かぶ。

やめられない、泊まれない〈隠れ家〉の連鎖、とでも言おうか。

〔*〕「青暖簾」は端女郎の部屋にかけた紺染の暖簾。


2018年7月18日水曜日

●夜光蟲

夜光蟲

夜光蟲闇をおそれてひかりけり  久保田万太郎

夜光虫古鏡の如く漂へる  杉田久女

夜光蟲闇より径があらはれ来  加藤楸邨

夜光虫枕の下をただよへる  橋本榮治


2018年7月17日火曜日

〔ためしがき〕 どんぶらこ 福田若之

〔ためしがき〕
どんぶらこ

福田若之


思うに、『桃太郎』のハイライトは「どんぶらこ」というあの言葉だ。ほかは別に読まんでもよいという気さえする。てんぷら粉。いやそれこそドンブラ粉というひみつ道具があるわけだけれど、てんどんまんのちりめんどんやのどんぶりととんぶりのまぐわい。くわいはあまり好きではない。はないか。花鳥賊の家内は内科医か仲居か烏賊か。はないかのかがないならはないではないだろうか。歯ないの? ぱないの! 花鳥賊のてんぷら。

2017/7/10

2018年7月15日日曜日

〔週末俳句〕不審者っぽい 村田篠

〔週末俳句〕
不審者っぽい

村田 篠


「庭に河骨の花が一輪咲いたから、見てきたら?」と母が言う。見にゆくと、黄色いつぼみがひとつ。家に入って「可愛いね」と報告したら、母は「お父さんに言っても反応がないから」と言った。私が反応したことがうれしかったらしい。

高齢の両親のようすを見るために、ときどき田舎へ帰る。といっても、一日中仕事があるわけではなく、すぐにすることはなくなってしまう。田園地帯で遊びに行くところもないので、スマホを持って家を出る。

散歩がてら、周辺の写真を撮っていると、すれ違う人々が怪訝な表情でこちらを見る。田んぼや畑で働いている人たちも、ふと手を止めて様子をうかがう。それはそうだ。田んぼの稲や、畑の茄子やトマトの写真を撮る人なんて、この辺りにはひとりもいない。そんなことをする意味が分からない。この人は、どうしてこんなことをしているの?

いささか不審者っぽい自分の姿を自覚して、思わず笑ってしまう。そうだよね。都会ではあらゆる人がスマホ片手に写真を撮っていても、誰も気にかけない。ここはまだ、そういう人たちが来ない場所。もしかしたら、この先もずっと。

でも私は、この風景たちを撮るのが楽しい。知らないものだってたくさんある。例えば、農道の脇で撮った植物の名前。母に訊いても分からなかった。SNSに上げると岡田由季さんが「ニゲラの種かもしれませんね」と教えて下さった。調べてみたら、その通りだった。

母はニゲラを知らなかったらしい。じつは私も最近までよく知らなかった。観賞用に栽培される花だと思っていたので、農道の脇に無造作に生えていることに少し驚いた。母にもそのことがどうやら不満だったらしく、しばらくいろいろな植物の名前を挙げていたが、やがて「そんな花があるんだね」と呟いた。




2018年7月14日土曜日

【人名さん】つげ義春

【人名さん】
つげ義春

尾行せよ炎昼をつげ義春を  大野泰雄


2018年7月13日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田健治〕樋口由紀子



樋口由紀子






横顔が植物園になっている

吉田健治(よしだ・けんじ)1939~

自分の横顔が植物園になっているのを感じたのだろうか。それとも妻か身近な人の横顔が植物園になっているのを気づいたのだろうか。「植物園のように」ではなく、「植物園に」である。独自の把握である。横顔とはそういうものだと語調を落して言っているように思う。

「植物園」は陽の当たり具合や場所で別々の様相になり、華やかであり、種々の寂しさもある。作者が「植物園」をどう捉えたかはわかるようでわからないが、感触が伝わってくる。あとづけでいろいろと想像できる。「横顔」や「植物園」のわけのわからない存在感を出している。

〈ある桜扁桃腺を病んでをる〉〈いちにちというぺらぺらの洗面器〉〈老人は考えながら寝る木です〉〈死はいつもシャボン玉を吹いている〉。「彼は江戸っ子だ。気は優しくて力は無い。」と鑑賞の渡辺隆夫節が冴えている。『青い旗』(2013年刊 抒情文芸刊行会)所収。

2018年7月11日水曜日

●クーラー

クーラー

クーラーのしたで潜水艦つくる  大石雄鬼

クーラーのきいて夜空のやうな服  飯田 晴

クーラーに認識されてゐるらしき  えのもとゆみ〔*〕


〔*〕『なんぢや』第38号(2017年9月10日)

2018年7月10日火曜日

〔ためしがき〕 繁殖 福田若之

〔ためしがき〕
繁殖

福田若之


ためしがきに「文」のふりをさせるのはもうやめよう。主題を抜きに書くこと。ここではいっそ、出鱈目に期待してみよう。ためしがきのポテンシャルはそこにある気がする。

ほら、掲げたタイトルのことを僕はもう忘れている。

2017/7/9

2018年7月9日月曜日

●月曜日の一句〔石寒太〕相子智恵



相子智恵






点滴や梅雨満月の高さより  石 寒太

句集『風韻』(紅書房 2017.11)所収

夜、病院のベッドに仰臥して点滴を受けている。入院しているのだ。吊るしてある薬液のパックの後ろには、窓から満月が見えている。

一滴ずつ落ちる薬液をぼんやり眺めていると、薬液のパックの高さと、梅雨満月が同じ高さであることに気がついた。もちろんその距離は全く違うのだけれど、この病院のベッドの上では、二つは同じ場所にあるのだ。

梅雨の月だから、きっと輪郭は滲んでいるのだろう。滴るような満月を見ているうちに、だんだんと梅雨の満月から降り注ぐ滴が、体内に入っていくような気持ちになってくる。
淡々と写生しながら、読者を静かで幻想的な世界へと連れていってくれる。リアルで、しかも美しい景だ。そしてその奥に、境涯が透けている。

2018年7月8日日曜日

〔週末俳句〕七夕と朝顔市 西原天気

〔週末俳句〕
七夕と朝顔市

西原天気






2018年7月7日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年7月6日金曜日

●金曜日の川柳〔徳田ひろ子 〕樋口由紀子



樋口由紀子






大声で泣けるのかそのポルトガル

徳田ひろ子 (とくだ・ひろこ) 1956~

川柳はたった十七文字だから完成するのは早い。だからの衝撃度も出る。短いので慎重でなければならないこともある。けれども、掲句は瞬発力ですべてをチャラにしている節がある。

「ポルトガル」は比喩なのか、単に語感なのか、虚構を作り上げているのか、実はよくわからない。「ポルトガル」が謎であり、突飛であるが、謎も突飛も日常から身をかわさないで、大声で泣きたい作者と二重写しになる。さらに「その」だから、手の届く触れそうな距離にあり、もどかしさも感じさせる。解釈はできなくても「そのポルトガル」には吸引力があり、怯んでしまいそうになる。

〈片足を上げた高さでポルトガル〉〈とまとならメメント・モリのこの辺り〉〈海抜の高さをシントラと競う〉 「ふらすこてん」(57号 2018年刊)収録。

2018年7月5日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








秋きぬと妻こふ星や鹿の革 芭蕉
 

 『江戸通町』より。『芭蕉全句集』(桜風社)では延宝五年作とあるが、『江戸通町』が延宝六年跋なので、延宝六年の作の可能性もある。「秋きぬと」の出だしには、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる/藤原敏行朝臣」を嫌でも思い出す。「妻こふ星」は牽牛星で、妻は織女星のことである。この句は「妻こふ鹿」と思いきや先に「星」を出してきた。秋になると鹿の外側の毛に斑点が現れる。それを星に見立てた。星合のイメージから派生して、芭蕉が本当に出会わせたかったのは七夕と鹿なのである。この、妻→織女→牽牛→星→革→鹿のイメージの転化プロセスと、「や」の切れによる見立ての強調という2つの技の影響は今の俳句にどれほど残されているのだろうか。

2018年7月3日火曜日

〔ためしがき〕尊敬する敵 福田若之

〔ためしがき〕
尊敬する敵

福田若之


もし、過去の俳人たちのうちで、尊敬する敵の名をただひとり挙げることを求められたなら、そのとき、僕はおそらく富澤赤黃男を挙げることになるだろう。高濱虛子ではない。うまく名付けることができないのだが、僕にとって、虛子は、敵というのとはすこし違っているようなのである。

赤黃男は、僕にとって、いかなる点で尊敬する敵であるのか。よく知られた警句を挙げよう。
蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない。
「クロノスの舌」に記された赤黃男のこの言葉は、おそらく、直接的にであれ間接的にであれ、マラルメの「詩の危機」のある箇所を踏まえたものであろう。訳して引用する。
それにしても、あの驚くべきものがいったい何になるというのか、自然の事象を振動性のほとんど消失に等しいものへとパロールの働きにしたがって移し替えるあの驚くべきものは、もしそれが、卑近なあるいは具体的な喚起によって妨げられることなしに、純粋な観念を放射するためのものではないのだとしたら。

私は言葉にする――一輪の花! すると、私の声がどんな輪郭をも追いやる先である忘却の、その外で、知られているところの萼とは別の何かが、音楽的に立ちあがるのだ、観念そのものにして甘美なるもの、あらゆる花束に不在のものが。
けれど、たとえば、ランプ、すなわち赤黃男が「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾ったよ」と記したあのランプさえもが、もし、まさに〈ランプ〉であるが、〈そのランプ〉ではないのだとしたら、もし、《このランプ小さけれどものを想はすよ》と記されたあのランプさえもが結局のところ純粋な観念でしかないのだとしたら、それがいったい何になるというのか。

なるほど、赤黃男の句で、これほどまでに具体的なものは極めて例外的であるかもしれない。《蝶墜󠄁ちて大音󠄁響󠄁の結氷期》をはじめとして、《ペリカンは秋晴れよりもうつくしい》も、《甲蟲たたかへば 地の焦げくさし》も、《切株はじいんじいんと ひびくなり》も、《草二本だけ生えてゐる 時間》も、さらには《戀びとは土龍のやうにぬれてゐる》といった句でさえ、言葉は純粋な観念を狙っているようにみえる。そして、赤黃男のこれらの句に、僕もまた何かしら甘美なるものを感じずにはいられない。だが、まさしくそれゆえにこそ、赤黃男は、僕にとって、尊敬する敵であるだろう。

ある意味において、赤黃男は「肉󠄁體」を強く意識した作家であるともいえる。だが、『魚の骨』の「まへがき」に「僕は、一・七メートルの肉󠄁體をこの上もなく愛する。この肉󠄁體は、あらゆるものの中で、最小の肉󠄁體だと云はれる」と記すとき、赤黃男が「肉󠄁體」という言葉で暗に言わんとしているものは、要するに、しばしば「一七音の詩形」とか「最小の詩形」とか謳われる、あの観念としての〈俳句〉にすぎない(そうでなければ、「一・七メートル」もある「肉󠄁體」について、どうして「あらゆるものの中で、最小」だなどと語ることができよう)。そして、おそらくはそれゆえに、のちに『蛇の笛』に収められた《肉󠄁體や 弧を畫いてとぶくろい蝶》という一句において、「肉󠄁體」は、蝶――まさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではないもの――と結びつけられることになるのである。

だが、この赤黃男的な「肉󠄁體」は、僕に言わせれば、まったく「肉󠄁體」ではない。「肉󠄁體」ないしは身体という言葉を、僕は、数かぎりない具体的で個別的なもののひとつひとつのために、たとえば一句一句のために、取っておきたいのである。

赤黃男による一連の理論的な言説に逆らって、赤黃男における個別的なもののひとつひとつを、そしてまた、彼自身という個別的なものを、いかにして引き出すことができるのか。いずれ僕が赤黃男という敵に対して正面から本格的に取り組む機会があるとすれば、その戦いは、最終的にはこの点にかかっているのだろう。たとえば「このランプ」をいかにして救うことができるかという点に。

2017/7/1

2018年7月2日月曜日

●月曜日の一句〔柴田多鶴子〕相子智恵



相子智恵






トラックが去り片蔭を持ち去りぬ  柴田多鶴子

『季題別 柴田多鶴子句集』(邑書林 2018.7)所収

関東甲信地方では梅雨明けが宣言され、週末の東京は暑かった。少しでも日陰を選んで歩きたい季節となった。

掲句、明瞭な一瞬である。〈片蔭〉は炎天下に建物や塀などにできるくっきりとした日陰。停車中のトラックが作っていた日陰を歩いていたところ、トラックが走り去り、その〈片蔭〉までもが持ち去られてしまった。

トラックの日陰がなくなってただでさえ暑いのに、さらに去aっていくトラックの排気ガスの熱と匂いまで感じられてきて、ダメ押しな感じで暑い。片蔭がなくなった、ではなく〈持ち去りぬ〉としたところに恨めしさと残念さが出ていて、なんともいえない俳味があり、クスリと笑った。

2018年7月1日日曜日

〔週末俳句〕200円の悪魔 おおさわほてる

〔週末俳句〕
200円の悪魔

おおさわほてる


京都の梅雨も終盤に差し掛かったある日、ホテイアオイが売られていた。200円ならまぁいいかな、とメダカの鉢に放り込んだら、あっという間に水面を覆ってしまった。


いつの間にか花が咲いている。綺麗な薄紫。花弁は六枚。そのうちの一枚は大きく上に向いている。真ん中に黄色の斑紋があり、なんだかエロティック。「へー!こんな綺麗な花が咲くんや!」と嬉しくなった。



翌朝、なんと、花が水中に突っ込んでいる!


調べてみると、ホテイアオイの花は、茎を曲げ水中へ。そのまま水の中で実を結び、炸裂して種をばら撒くらしい。繁殖力が強く、「青い悪魔」と呼ばれているとか!

首を曲げた花が、水の中でにんまり笑っている気がして、思わず覗き込んでしまった。

200円のくせに、恐ろしい生き物だったのだ。