【みみず・ぶっくす 12】
接吻 小津夜景
【みみず・ぶっくす 12】
接吻
ドアノブをあやつり塵と交はりぬ
モビールの影は光のきりぎしへ
まなかひと恋のさかひのセルロイド
フレスコの天井水を飲みほしあふ
欠伸せりロゴスの午后の旅人は
ゆく鳥やここにメッカの粉薬
フイルムは深き眠りに鳴る砂か
何もなき台座のエクリチュールかな
住みわびしわれに幽霊トリオの手
セロファンの陽を剝ぎながら接吻す
2015年1月31日土曜日
2015年1月30日金曜日
●金曜日の川柳〔石曽根民郎〕樋口由紀子
樋口由紀子
うっすらと雪置く墓を撫ぜに来た
石曽根民郎 (いしぞね・たみろう) 1910~2005
しんとした美しい情景が目に浮かぶ。「うっすら」とあるから新雪なのだろうか。まっしろな雪が大切な人が眠っている墓を飾ってくれている。その墓を撫でに来た。たったそれだけのことを言っているのだが、しんとした寒い空気とどれほどまでに亡き人を偲んでいるのかが鮮明に伝わってくる。
「雪置く墓」の措辞がいい。そして、「撫ぜに来た」で川柳になったと思う。「撫ぜる」とは究極の親愛のしぐさのような気がする。「撫ぜる」ために、会いに来た。この世ではもう会うことはできないのだ。ひんやりした感触、静謐で身が引き締まる。
〈でかめろん哀しい唇見せに来た〉〈想い出のひと多くみな月のなか〉〈ほころびに似てこの酔いをたのしむか〉
●
2015年1月27日火曜日
〔ためしがき〕盗まれたい手紙 福田若之
〔ためしがき〕
盗まれたい手紙
福田若之
この手紙は、ためしがきに混ぜて、ひとまず机の上のこの目立つところに置いておくので、もし良かったら、そっと盗んでいってくれたらと思います。表向き――というと、まるで裏向きがあるようですが、ここはすでに週刊俳句の裏ですね――は普通のためしがきのかたちで、宛名も何もなく、忍ばせておきます。そのうち、あとから書き付けていく別のためしがきの下に埋もれてしまうでしょうけれど、それもまた悪くないと思っています。実は、そのこと自体、この手紙の趣旨とも関わっています。「趣旨」といっても、たいしたことではありません。俳句史についてです。
そもそも、歴史はいつ始まるのでしょうか。それは、なにかが忘れられたときなのではないでしょうか。思い出すことは、忘れたから思い出すのであって、いま分かっていることは、忘れられていないからこそ、歴史ではないのでしょう。そして、現代史というのは、いま現にそうであるにもかかわらず僕らがそれをすっかり忘れてしまっていることについて、思い出すことなのでしょう。
だから、俳句史は、俳句がなにかを忘れたときに始まるのではないでしょうか。実際に、俳句はいまでも――あるいは、いままさに、かもしれませんが――多くのことを忘れている気がします。
これは、ついこの間、ためしがきではなく書いたことですが、僕は、たとえばソクラテスなどとは違って、書かなかったことのほとんどは忘れてしまうと、自分で感じています。ここから少し脱線しますが、だから、僕の場合、時評を書くというのは、そのときそのときに見えたことや思ったことや考えたことなどを明日にも忘れてしまうということに対して、予め備えるという意味があります。しいて言えば、この「明日にも」が時評と評論を分けるところのように、僕には思われます。時評が必要なときというのは、書かなかった場合、下手をすると、そのときの自分の好みさえ忘れかねない気がするのです。あるいは、何かを好きだなと思ったのは覚えていても、細かいところでどこをどう好きだと思ったのかは忘れてしまったりするのです。さて、脱線が過ぎたので、ここで、話を軌道修正します。書かなかったことのほとんどを忘れるということは、実際は、個人の記憶よりも社会の記憶に顕著なことです。社会は、個人以上に、書かなかったことを片っ端から忘れていくものでしょう。
そして、俳句は、それが単に形式であるという以上に、文芸の一つのジャンルである限りにおいて、社会的なものだと思うのです。形式というのは、おそらく記憶のかたちであって、何かが内容を持つということ自体が一つの形式によるものである以上、その「かたち」という中に普段僕らが「内容」と呼んでいるものを含めてしまうならば、形式というのはもはや記憶そのものということにもなろうと思うのですが、それに対して、ジャンルというのは対話でもあるのではないでしょうか。ジャンルは、記憶の対話であり、また、対話の記憶であるように思われます。それは、往復した書簡が、記憶の対話であり、対話の記憶であるのと同様です。
俳句史と呼ばれるものは、僕の知る限りでは、形式の歴史であるよりは、ジャンルの歴史であるように思うのです。ジャンルが一つの対話であり、したがって一つの社会である以上、ここでいう俳句も一つの社会であって、俳句史は社会の記憶に関わるといえます。したがって、その記憶は書かれたものになることを志向します。だからそれは歴史というかたちをとるのだと思います。そしてまた、この歴史は、ジャンルの歴史である以上、すなわち、対話の記憶の想起であり、また、記憶の対話の想起であるということになります。
しかし、ここでソクラテスたちに耳を貸す必要があるかもしれません。書くことは、それ自体、覚えるのを文字に任せて、自分は忘れるということでもありうるのです。ここには、平行する二つの忘却が想定できます。ひとつは、ソクラテスが言ったとされているように、書いたことは、書かれたものが覚えているので、人は覚えている必要がないから忘れる、という忘却です。そして、もうひとつは、書くことは、書かれたものを作り出すと同時に、その余白に、書かれなかったことを取り残すので、人はその取り残しを忘れる、という忘却です。もしこの平行する忘却が同時に起こるなら、書かれるもののあることによって、人はほとんどのことを忘れるということになります。
そして、先にもそれとなく述べたとおり、歴史は書かれたものです。書く以外に歴史をどうしたらよいでしょうか。この問いに画期的な答えがあればと思うのですが。もちろん、この場合、口伝えはほとんど書かれた歴史と違いがありません。歴史の口伝えにおいて、聞き手は歴史を頭の中に書き込まれるものだからです。先に、歴史が始まるのは、おそらく、なにかが忘れられたときではないかということを書いておきましたが、そこで、歴史の始まりを思い出すことだと書かなかったのは、こういう理由からです。歴史は、それ自体、書かれたものである以上は、忘れることと不可分なのです。だとすれば、俳句史は、対話の記憶の忘却であり、また、記憶の対話の忘却であるということになります。
ギリシャ哲学に詳しい方が読んだらどう思われるのか、僕には分からないし、話半分に読んで欲しいのですが、想起と忘却がこれまで書いたように一体であるということをはっきり示すものとして、ソクラテスの対話を記述したプラトンの一連の著作があるように僕は思います。おそらく、これも俳句史と同様、対話の記憶かつ記憶の対話の、想起かつ忘却です。
プラトンはある意味で、書くことによってソクラテスの思想を牢獄から救い出したといえます。とすれば、プラトンは弟子として、実際には果たせなかった救出を、象徴的に果たしたのです。個人的には、これこそがプラトンを書くことに駆り立てた衝動だったのではないかと、勝手に思っているのですが、いまはそのことは置いておきましょう。ソクラテスの言葉は、プラトンが書いたからこそ、長い年月を経た今でも読むことができます。しかしながら、この書くことは、ソクラテスその人を完全に殺したとも捉えることができそうです。というのも、もし、書くことが本当にソクラテスの思想を牢獄から救い出したのだとすれば、いまや生きたソクラテスがいなくても、その思想を知ることができるということになるからです。そのとき、人は生きたソクラテスを忘れるでしょう。
そして、もし、逆に、もはや生きたソクラテス本人に確認を取れない以上、いくら書かれたものがあっても彼の思想を正しく知ることができないのであるなら、プラトンはソクラテスを救うことに失敗したことになります。そのとき、プラトンはまだ生きたソクラテスを必要としていて、彼には生きていた頃の彼が可能な限り繰り返し思い出されることになるでしょう。
要するに、プラトンの書くという行為は、ソクラテスを思い出す限りではソクラテスを忘れることであるように思われるし、ソクラテスを忘れる限りではソクラテスを思い出すことであるように思われます。おおよそこんなふうにして、書くことにおける忘却と想起は切り離せないといえるでしょう。
さて、このあたりで白状しなければならないでしょうが、少なくとも、歴史というものについての話は、おおむね、すでにいろいろな人がいろいろなかたちで書いていることを僕なりにまとめなおした、つぎはぎにすぎません。なぜ、すでにいろいろなかたちで書かれているかといえば、歴史それ自体は俳句に関わらず多くの人が興味を持つ事柄だからでしょう。では、とりわけ俳句史はどうか。それを考えるには、俳句がどのような対話のどのような記憶であり、どのような記憶のどのような対話であるのかを、考えなければならないでしょう。さしあたり、このことこそが問題だと思います。というより、むしろ、この問いに答えるということは、俳句史を書くことに等しいのではないでしょうか。
誰かがあなたにとっての俳句史に組み込まれたり、誰かがあなたにとっての俳句史から外れたりするのは、あなたがこの問いに答えるそのときなのではないでしょうか。だから、誰かがあなたにとっての俳句史にあらかじめ組み込まれているからといって、参ってしまうことなどありません。たぶん、もっと参ってしまうことは、むしろ、すべてを書くことはできず、すべてを俳句史に加えることはできないから、あなたも、誰かを、あるいは少なくとも何かを、書くことで忘れざるをえないだろうということです。それを自覚的に引き受けるのは、つらいことでもあると思います。ですが、俳句史を書く、というのは、まさしく、それを引き受けることでもあるのではないかと思います。そのときに何かしら救いとなるのは、歴史は忘れることから始まる以上、あなたが忘れたことから、また誰かが俳句史をはじめるだろうということかもしれません。
さて、これはあくまで、表向きはためしがきであって、しかも、たった一通の手紙にすぎませんから、ひとまず、ここでやめておきます。あとは、そちらで、もし、これを忘れるなり、思い出すなりしていただけたら、幸いです。
盗まれたい手紙
福田若之
この手紙は、ためしがきに混ぜて、ひとまず机の上のこの目立つところに置いておくので、もし良かったら、そっと盗んでいってくれたらと思います。表向き――というと、まるで裏向きがあるようですが、ここはすでに週刊俳句の裏ですね――は普通のためしがきのかたちで、宛名も何もなく、忍ばせておきます。そのうち、あとから書き付けていく別のためしがきの下に埋もれてしまうでしょうけれど、それもまた悪くないと思っています。実は、そのこと自体、この手紙の趣旨とも関わっています。「趣旨」といっても、たいしたことではありません。俳句史についてです。
そもそも、歴史はいつ始まるのでしょうか。それは、なにかが忘れられたときなのではないでしょうか。思い出すことは、忘れたから思い出すのであって、いま分かっていることは、忘れられていないからこそ、歴史ではないのでしょう。そして、現代史というのは、いま現にそうであるにもかかわらず僕らがそれをすっかり忘れてしまっていることについて、思い出すことなのでしょう。
だから、俳句史は、俳句がなにかを忘れたときに始まるのではないでしょうか。実際に、俳句はいまでも――あるいは、いままさに、かもしれませんが――多くのことを忘れている気がします。
これは、ついこの間、ためしがきではなく書いたことですが、僕は、たとえばソクラテスなどとは違って、書かなかったことのほとんどは忘れてしまうと、自分で感じています。ここから少し脱線しますが、だから、僕の場合、時評を書くというのは、そのときそのときに見えたことや思ったことや考えたことなどを明日にも忘れてしまうということに対して、予め備えるという意味があります。しいて言えば、この「明日にも」が時評と評論を分けるところのように、僕には思われます。時評が必要なときというのは、書かなかった場合、下手をすると、そのときの自分の好みさえ忘れかねない気がするのです。あるいは、何かを好きだなと思ったのは覚えていても、細かいところでどこをどう好きだと思ったのかは忘れてしまったりするのです。さて、脱線が過ぎたので、ここで、話を軌道修正します。書かなかったことのほとんどを忘れるということは、実際は、個人の記憶よりも社会の記憶に顕著なことです。社会は、個人以上に、書かなかったことを片っ端から忘れていくものでしょう。
そして、俳句は、それが単に形式であるという以上に、文芸の一つのジャンルである限りにおいて、社会的なものだと思うのです。形式というのは、おそらく記憶のかたちであって、何かが内容を持つということ自体が一つの形式によるものである以上、その「かたち」という中に普段僕らが「内容」と呼んでいるものを含めてしまうならば、形式というのはもはや記憶そのものということにもなろうと思うのですが、それに対して、ジャンルというのは対話でもあるのではないでしょうか。ジャンルは、記憶の対話であり、また、対話の記憶であるように思われます。それは、往復した書簡が、記憶の対話であり、対話の記憶であるのと同様です。
俳句史と呼ばれるものは、僕の知る限りでは、形式の歴史であるよりは、ジャンルの歴史であるように思うのです。ジャンルが一つの対話であり、したがって一つの社会である以上、ここでいう俳句も一つの社会であって、俳句史は社会の記憶に関わるといえます。したがって、その記憶は書かれたものになることを志向します。だからそれは歴史というかたちをとるのだと思います。そしてまた、この歴史は、ジャンルの歴史である以上、すなわち、対話の記憶の想起であり、また、記憶の対話の想起であるということになります。
しかし、ここでソクラテスたちに耳を貸す必要があるかもしれません。書くことは、それ自体、覚えるのを文字に任せて、自分は忘れるということでもありうるのです。ここには、平行する二つの忘却が想定できます。ひとつは、ソクラテスが言ったとされているように、書いたことは、書かれたものが覚えているので、人は覚えている必要がないから忘れる、という忘却です。そして、もうひとつは、書くことは、書かれたものを作り出すと同時に、その余白に、書かれなかったことを取り残すので、人はその取り残しを忘れる、という忘却です。もしこの平行する忘却が同時に起こるなら、書かれるもののあることによって、人はほとんどのことを忘れるということになります。
そして、先にもそれとなく述べたとおり、歴史は書かれたものです。書く以外に歴史をどうしたらよいでしょうか。この問いに画期的な答えがあればと思うのですが。もちろん、この場合、口伝えはほとんど書かれた歴史と違いがありません。歴史の口伝えにおいて、聞き手は歴史を頭の中に書き込まれるものだからです。先に、歴史が始まるのは、おそらく、なにかが忘れられたときではないかということを書いておきましたが、そこで、歴史の始まりを思い出すことだと書かなかったのは、こういう理由からです。歴史は、それ自体、書かれたものである以上は、忘れることと不可分なのです。だとすれば、俳句史は、対話の記憶の忘却であり、また、記憶の対話の忘却であるということになります。
ギリシャ哲学に詳しい方が読んだらどう思われるのか、僕には分からないし、話半分に読んで欲しいのですが、想起と忘却がこれまで書いたように一体であるということをはっきり示すものとして、ソクラテスの対話を記述したプラトンの一連の著作があるように僕は思います。おそらく、これも俳句史と同様、対話の記憶かつ記憶の対話の、想起かつ忘却です。
プラトンはある意味で、書くことによってソクラテスの思想を牢獄から救い出したといえます。とすれば、プラトンは弟子として、実際には果たせなかった救出を、象徴的に果たしたのです。個人的には、これこそがプラトンを書くことに駆り立てた衝動だったのではないかと、勝手に思っているのですが、いまはそのことは置いておきましょう。ソクラテスの言葉は、プラトンが書いたからこそ、長い年月を経た今でも読むことができます。しかしながら、この書くことは、ソクラテスその人を完全に殺したとも捉えることができそうです。というのも、もし、書くことが本当にソクラテスの思想を牢獄から救い出したのだとすれば、いまや生きたソクラテスがいなくても、その思想を知ることができるということになるからです。そのとき、人は生きたソクラテスを忘れるでしょう。
そして、もし、逆に、もはや生きたソクラテス本人に確認を取れない以上、いくら書かれたものがあっても彼の思想を正しく知ることができないのであるなら、プラトンはソクラテスを救うことに失敗したことになります。そのとき、プラトンはまだ生きたソクラテスを必要としていて、彼には生きていた頃の彼が可能な限り繰り返し思い出されることになるでしょう。
要するに、プラトンの書くという行為は、ソクラテスを思い出す限りではソクラテスを忘れることであるように思われるし、ソクラテスを忘れる限りではソクラテスを思い出すことであるように思われます。おおよそこんなふうにして、書くことにおける忘却と想起は切り離せないといえるでしょう。
さて、このあたりで白状しなければならないでしょうが、少なくとも、歴史というものについての話は、おおむね、すでにいろいろな人がいろいろなかたちで書いていることを僕なりにまとめなおした、つぎはぎにすぎません。なぜ、すでにいろいろなかたちで書かれているかといえば、歴史それ自体は俳句に関わらず多くの人が興味を持つ事柄だからでしょう。では、とりわけ俳句史はどうか。それを考えるには、俳句がどのような対話のどのような記憶であり、どのような記憶のどのような対話であるのかを、考えなければならないでしょう。さしあたり、このことこそが問題だと思います。というより、むしろ、この問いに答えるということは、俳句史を書くことに等しいのではないでしょうか。
誰かがあなたにとっての俳句史に組み込まれたり、誰かがあなたにとっての俳句史から外れたりするのは、あなたがこの問いに答えるそのときなのではないでしょうか。だから、誰かがあなたにとっての俳句史にあらかじめ組み込まれているからといって、参ってしまうことなどありません。たぶん、もっと参ってしまうことは、むしろ、すべてを書くことはできず、すべてを俳句史に加えることはできないから、あなたも、誰かを、あるいは少なくとも何かを、書くことで忘れざるをえないだろうということです。それを自覚的に引き受けるのは、つらいことでもあると思います。ですが、俳句史を書く、というのは、まさしく、それを引き受けることでもあるのではないかと思います。そのときに何かしら救いとなるのは、歴史は忘れることから始まる以上、あなたが忘れたことから、また誰かが俳句史をはじめるだろうということかもしれません。
さて、これはあくまで、表向きはためしがきであって、しかも、たった一通の手紙にすぎませんから、ひとまず、ここでやめておきます。あとは、そちらで、もし、これを忘れるなり、思い出すなりしていただけたら、幸いです。
2015年1月26日月曜日
●月曜日の一句〔対馬康子〕相子智恵
相子智恵
白鳥の柵噛む音のして暮れる 対馬康子
句集『竟鳴』(2014.12 角川学芸出版)より
白鳥を見に来た作者が、鳴き声ではない音に気付き、何だろうと思って見渡してみると、それは白鳥が柵を噛んでいる音であった。人工的な公園の池など、柵のあるところに飛来した白鳥なのだろう。もしくは季感はないが動物園で飼育されている白鳥かもしれない。
白鳥は人間から餌を撒いてもらっているのか、池のへりに寄ってくる。柵にぶつかったり、餌を求めて柵を噛むこともあろう。人がまばらな夕暮れは、餌を与える者もいない。白鳥がむなしく柵を噛む音が響くだけだ。現代的な風景の中の生き物にあわれがあり、現代ならではの叙情があると思った。〈音のして暮れる〉とフェードアウトしていく抑制のきいた風景の表現も余韻を残す。
鈍い金属音を響かせる白鳥の白い影を残しながら、水辺は暮れていくのである。
●
2015年1月24日土曜日
【みみず・ぶっくす11】わが部屋をめぐる旅 小津夜景
【みみず・ぶっくす11】
わが部屋をめぐる旅 小津夜景
【みみず・ぶっくす 11】
わが部屋をめぐる旅
花冷えのエスプレッソを飲み残す
逢ふことは告ぐることなる薬缶かな
オリーブの花や句帖のひまつぶし
蟷螂を祀りけむりを掻き暮らす
かささぎの影絵を摑む祖父の手が
ゾッキ本月さす棚のうすずみに
誰が綴ぢむノスタルジアぞ秋の蝶
浅き夢見ずて黒ずむなまこかな
しろながすくぢら最終便となる
眠り猫旅の画帖のおしまひに
わが部屋をめぐる旅 小津夜景
【みみず・ぶっくす 11】
わが部屋をめぐる旅
花冷えのエスプレッソを飲み残す
逢ふことは告ぐることなる薬缶かな
オリーブの花や句帖のひまつぶし
蟷螂を祀りけむりを掻き暮らす
かささぎの影絵を摑む祖父の手が
ゾッキ本月さす棚のうすずみに
誰が綴ぢむノスタルジアぞ秋の蝶
浅き夢見ずて黒ずむなまこかな
しろながすくぢら最終便となる
眠り猫旅の画帖のおしまひに
2015年1月23日金曜日
●金曜日の川柳〔山本浄平〕樋口由紀子
樋口由紀子
矢車草の花が墓を白いピアノにみせる
山本浄平 (やまもと・じょうへい)
一般的で味気ない墓が矢車草の花を供えることによって白いピアノにみえるという。白いピアノへ導く独自の世界。白いピアノは亡き人に奏でる。「白」は純正で無垢。故人への気持ちの表われだろう。
いくら矢車草の花を飾ったからといって、墓が白いピアノにみせるなんてことは思いもよらなかった。矢車草と白いピアノに因果関係もない。しかし、見方のよって、あるいは発想の転換で今居る場、在る物が別のものになる。おおげさに言えば世界が変換する。墓は墓としてしか見ることができないでいた。というよりもそれが真っ当だと思っていたので掲句を読んだときは驚き、感心した。
山本浄平は明治生まれで、「ふあうすと」の発起人で創刊同人。「初めに川柳という枠があるのではなく、各作家の個性が、それぞれの川柳を創りだす」と作者の言葉にある。〈緑の芝生歩く白い靴白い孤独〉〈金平糖二粒落とせばふたつの水中花咲く〉〈ホテルの温室でポインセチアの色が待ってる〉『川柳新書』(昭和32年刊)所収。
●
2015年1月21日水曜日
●水曜日の一句〔谷川すみれ〕関悦史
関悦史
枯れすすむ体の上を鳩の群 谷川すみれ
『ヴェルーシュカ―変容』という写真集が80年代にあった。白人女性モデルが全身に精密なボディペインティングを施し、古びのついた木材や金属にそっくりの質感となって、背景の建物などに溶け込んでしまう作品集である。モデルのヴェルーシュカは、どの写真でも瞑想によって事物に還ろうとするかのように眼を閉じて写っていた。
この句は「枯れすすむ」で一旦切ってしまえば、冬枯れの野外で語り手が鳩にたかられているだけの、どうということもない光景に見える。しかし「枯れすすむ体」まで連体形でつながっていると取ると、途端にヴェルーシュカの写真のように、枯れゆく地面に変容中の語り手の上を鳩たちが歩いている図となるのである(飛んでいるとも一応は取れるが、「体」という即物性を押し出している点、鳩の脚が直に触れていると取った方が句が生きるだろう。飛んでいるならば「われの頭上を」といった形になるはずである)。
鳩たちは自分が何ものの上を歩いているのか知らない。そのことが却って、もはや大地とも人ともつかない、歩かれている者の心身の存在を感じさせる。
「冬枯れの」といった停止状態ではなく「枯れすすむ」という進行状態にあることが、鳩の群れの歩行と、人から冬枯れの地への変容が同時に進んでいくさまを思わせ、眩暈を呼び込む。
しかし句を形づくる言葉は、連体形か終止形かの両義性を別にすれば平板なほどに明確だ。ヴェルーシュカの写真でも人体の存在ははっきり見て取れ、ボディペインティングの完成度の高さとは別に、廃墟様の物件に溶け込まなければならない者の意識や作為もまた画面上であらわになっていた。無化への欲望が逆に個人の輪郭をはっきりさせてしまう辺りも、この句はヴェルーシュカに似ている。
句集『草原の雲―不自由な言葉の自由―』(2014.12 香天叢書)所収。
●
2015年1月20日火曜日
〔ためしがき〕 植樹計画 福田若之
〔ためしがき〕
植樹計画
福田若之
マイナビブックスの詩歌サイト「ことばのかたち」で、『塔は崩れ去った』全16回の連載を終えたところである。それについては何も言うことはないが、この『塔は崩れ去った』よりも前に、僕が秘密裏に企画し、秘密裏に断念した企画があった。それはおそらく、俳文としての『塔は崩れ去った』が、ああしたかたちをとったこととも無関係ではない。だから、いま、そのお蔵入りした企画について書いてみようと思う。この文章は、だから、ついに(あるいは、いまだに)書かれないままになっている作品についての批評的な後記(ないしは序文)として読んでもらうのがふさわしいと思う。
そもそもは、次の疑問からはじまった――句集ではなく句であるようなものを編む(ただ書くのではなく)ことはできないのだろうか?
僕には、句の蒐集が俳句形式にとって本質的であるようにはどうにも思われなかった。だからこそ、一句に重層性を与え、それだけでひとつの書物のような体裁をとらせることで、句集という形態に対して何かしらオルタナティブなものを提示することができるのではないかと考えたのだった。
そこで僕にインスピレーションを与えたのが、マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(青字は原文どおり。本書では「家」という言葉が原則として青字で印刷されている。なお、原題はHouse of Leavesで、「別れの家」の意味にも取れる)の構成だった。
この小説は、設定上は、ザンパノという盲目の老人が、ネイヴィッドソン記録というフィルムについての論文という体裁で書いた本文と注と付録(ただし、ザンパノの没後、本書を出版するにあたって、ジョニー・トルーアントという青年がさらなる注と付録をほどこしている(ただし、本書は、その第二版の刊行にあたって、ランダムハウス編集部がそれにさらなる注と付録をほどこしている))、であるが、実際には、無論、ダニエレブスキーが全部書いているし、初版から内容の変更はない。極めて迷宮的な体裁(とくにIX章)をとった小説で、『紙葉の家』というタイトルにふさわしく、この小説自体がひとつの建築物であるような印象を与える。ほかにもさまざまな仕掛けが施されていて、いわば、西洋文学のさまざまな実験を追試しているような代物である。『紙葉の家』に新しいところがあるとすれば、それらの手法を一冊に集めたキメラ性に他ならないだろう。和訳と原書では視覚的な印象がまるで異なるので、興味のある向きには、ぜひ原書に(も)触れることをお勧めしたい。
さて、この『紙葉の家』に倣って、一句に複数の注釈を、その注釈にまた複数の注釈を、という具合に、限りなく注釈を施していくと、その接ぎ木の枝分かれによって、全体は一本の樹を連想させるものになるだろう。すなわち、まず上五と下五に注釈を付けて、上五の注釈の注釈を上へ上へ、下五の注釈の注釈を下へ下へ、継ぎ足してゆくと、縦書きの一句は、根と枝葉を持った一本の幹として姿を現すことになるだろう。この幹となる一句は、樹について詠んだものにするつもりだった。それによってメタ言語としてのあり方を際立たせることができると踏んだからだ。そこに膨大な注釈を百科全書的なものとして書くことができれば、そのとき、一句は一本のユグドラシルそのものになるだろう。
このように考えて、これはあきらかに紙媒体よりも電子媒体のほうが向いているだろうと思った。企画のためのwebページを開設し、はじめはただ一句がそこに表示されるだけなのだが、読者は日を追うごとにこの樹が根を広げ枝を増やしていく過程を目の当たりにすることになる。これを数十年単位で、限りなく成長させてゆくのである。
以上が、僕の植樹計画だ。ところが、ここで問題が生じる。僕自身が、企画だけで充分に満足してしまったのだ。しかも、おそらく、実行に移した場合に費やされるだろう努力のわりには、企画以上のものにはならない、ということが予感されてしまった。書くなかで新しいことが起きるような気はしなかった。書くために読むなかで、新しいものと出会うことはいくらでも期待できたのだけれど、それなら、書かずに読めばよい、という気がした。
そして、決定的な問題は次のことだった。幹が弱いと、樹は折れてしまう。数十年単位で注釈に没頭できる句を自分で作るためには、相当な準備が必要であって、その句が作られた時点で、注釈になにが書き込まれるのか大体決まっているような状態でなければいけないだろう。要するに、この企画を成功させるには、その最初の一句を書くのに数十年単位の時間が必要になるに違いなかった。
こういうわけで、この計画は、ついに(あるいは、いまだに)計画のまま、そこに、不在で、ある。
植樹計画
福田若之
マイナビブックスの詩歌サイト「ことばのかたち」で、『塔は崩れ去った』全16回の連載を終えたところである。それについては何も言うことはないが、この『塔は崩れ去った』よりも前に、僕が秘密裏に企画し、秘密裏に断念した企画があった。それはおそらく、俳文としての『塔は崩れ去った』が、ああしたかたちをとったこととも無関係ではない。だから、いま、そのお蔵入りした企画について書いてみようと思う。この文章は、だから、ついに(あるいは、いまだに)書かれないままになっている作品についての批評的な後記(ないしは序文)として読んでもらうのがふさわしいと思う。
そもそもは、次の疑問からはじまった――句集ではなく句であるようなものを編む(ただ書くのではなく)ことはできないのだろうか?
僕には、句の蒐集が俳句形式にとって本質的であるようにはどうにも思われなかった。だからこそ、一句に重層性を与え、それだけでひとつの書物のような体裁をとらせることで、句集という形態に対して何かしらオルタナティブなものを提示することができるのではないかと考えたのだった。
そこで僕にインスピレーションを与えたのが、マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(青字は原文どおり。本書では「家」という言葉が原則として青字で印刷されている。なお、原題はHouse of Leavesで、「別れの家」の意味にも取れる)の構成だった。
この小説は、設定上は、ザンパノという盲目の老人が、ネイヴィッドソン記録というフィルムについての論文という体裁で書いた本文と注と付録(ただし、ザンパノの没後、本書を出版するにあたって、ジョニー・トルーアントという青年がさらなる注と付録をほどこしている(ただし、本書は、その第二版の刊行にあたって、ランダムハウス編集部がそれにさらなる注と付録をほどこしている))、であるが、実際には、無論、ダニエレブスキーが全部書いているし、初版から内容の変更はない。極めて迷宮的な体裁(とくにIX章)をとった小説で、『紙葉の家』というタイトルにふさわしく、この小説自体がひとつの建築物であるような印象を与える。ほかにもさまざまな仕掛けが施されていて、いわば、西洋文学のさまざまな実験を追試しているような代物である。『紙葉の家』に新しいところがあるとすれば、それらの手法を一冊に集めたキメラ性に他ならないだろう。和訳と原書では視覚的な印象がまるで異なるので、興味のある向きには、ぜひ原書に(も)触れることをお勧めしたい。
さて、この『紙葉の家』に倣って、一句に複数の注釈を、その注釈にまた複数の注釈を、という具合に、限りなく注釈を施していくと、その接ぎ木の枝分かれによって、全体は一本の樹を連想させるものになるだろう。すなわち、まず上五と下五に注釈を付けて、上五の注釈の注釈を上へ上へ、下五の注釈の注釈を下へ下へ、継ぎ足してゆくと、縦書きの一句は、根と枝葉を持った一本の幹として姿を現すことになるだろう。この幹となる一句は、樹について詠んだものにするつもりだった。それによってメタ言語としてのあり方を際立たせることができると踏んだからだ。そこに膨大な注釈を百科全書的なものとして書くことができれば、そのとき、一句は一本のユグドラシルそのものになるだろう。
このように考えて、これはあきらかに紙媒体よりも電子媒体のほうが向いているだろうと思った。企画のためのwebページを開設し、はじめはただ一句がそこに表示されるだけなのだが、読者は日を追うごとにこの樹が根を広げ枝を増やしていく過程を目の当たりにすることになる。これを数十年単位で、限りなく成長させてゆくのである。
以上が、僕の植樹計画だ。ところが、ここで問題が生じる。僕自身が、企画だけで充分に満足してしまったのだ。しかも、おそらく、実行に移した場合に費やされるだろう努力のわりには、企画以上のものにはならない、ということが予感されてしまった。書くなかで新しいことが起きるような気はしなかった。書くために読むなかで、新しいものと出会うことはいくらでも期待できたのだけれど、それなら、書かずに読めばよい、という気がした。
そして、決定的な問題は次のことだった。幹が弱いと、樹は折れてしまう。数十年単位で注釈に没頭できる句を自分で作るためには、相当な準備が必要であって、その句が作られた時点で、注釈になにが書き込まれるのか大体決まっているような状態でなければいけないだろう。要するに、この企画を成功させるには、その最初の一句を書くのに数十年単位の時間が必要になるに違いなかった。
こういうわけで、この計画は、ついに(あるいは、いまだに)計画のまま、そこに、不在で、ある。
2015年1月19日月曜日
●月曜日の一句〔猪俣千代子〕相子智恵
相子智恵
雪嶺の奥に雪嶺喪に集ふ 猪俣千代子
句集『八十八夜』(2014.11 角川学芸出版)より
喪の句でありながら暗さはなく、風景を描くことで故人がどんな人だったのかが表れてくるように思えて惹かれた句。
〈雪嶺の奥に雪嶺〉は、実際に喪の場面で見た風景であると思うが、その山脈の険しさと奥深さは、故人の理想の高さや、故人が生きてきた道の険しさも思わせる。そして厳しいながらも雪の白さが清々しく、尊敬すべき人物であったように思われてくるのである。
下五〈喪に集ふ〉の「集う」によって、故人を慕った人たちの多さが描かれる。故人は、慕われて尊敬された、先生のような人だったのかもしれない。そういえば加藤楸邨は弟子が多く、門下は「楸邨山脈」と呼ばれたが、そのような歴史が脳裏に浮かんでくる。集った人たちもまた、自分の理想の雪嶺を進むのである。
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2015年1月17日土曜日
【みみず・ぶっくす10】西瓜糖カンフーの日々 小津夜景
【みみず・ぶっくす10】
西瓜糖カンフーの日々 小津夜景
日々のはじめに
いま、わたしが過ぎ去りし日々を思い起こすとき、ぜひあなたに話したいと思うのは、あの日わたしが体験した素晴らしい天地投げのことだ。それは文字どおりヘヴンとアースとを股にかけた事件だった。
相手と揉みあうとき、わたしのからだは天と地との両方にひきのばされ、つきたての餅のように柔らかな肉となる。そのあと、屈葬みたいにまん丸くなる。伸び縮みしあう身体。それはまさにわたしの求めるタイプのファンキーなふれあいだ。
ファンクはファイヤーに似ている。いつも姉弟子たちが火を吐いているのはそのせいにちがいない。
ファンクはジャンクにも似ている。そして姉弟子たちはゴミが大好きで、ゴミのように暮らしている。
わたしはゴミより師の方が好きだった。だが師は、わたしをアイデスへの旅に送り出してしまったのだった。すべてが西瓜糖からなる、あの iDEATH に。
とはいえその旅について書くのはまた次の機会にしたい。わたしが今から書くのは、わたしがあの穏やかなiDEATHを知らない頃の、わたしが旅に出る前の、わたしがこの場所にいた頃の、姉たちの真似をしてゴミをキラキラ燃やしていた頃の、つまりわたしがまだ平凡な人間だった頃の、光景である。
巻物を手に打ち鳴らし乙女かな
体操部拳譜拳譜と暮れにけり
制服やトンファーの影ながくして
ぬつ殺しあつて死合はせ委員会
阿修羅似のむくろや修羅の恋ごころ
キューティクル煌めき龍のごとくなり
向き合うてやがて両手の円運動
仁★義★礼★智★信★厳★勇★怪鳥音
足蹴りを躱すお前の師匠萌え
もぢもぢと師系告りあふ堤防で
*「死合わせ委員会」は無知蒙昧「ヌンチャク少女ミサキ」に登場する語。
西瓜糖カンフーの日々 小津夜景
日々のはじめに
いま、わたしが過ぎ去りし日々を思い起こすとき、ぜひあなたに話したいと思うのは、あの日わたしが体験した素晴らしい天地投げのことだ。それは文字どおりヘヴンとアースとを股にかけた事件だった。
相手と揉みあうとき、わたしのからだは天と地との両方にひきのばされ、つきたての餅のように柔らかな肉となる。そのあと、屈葬みたいにまん丸くなる。伸び縮みしあう身体。それはまさにわたしの求めるタイプのファンキーなふれあいだ。
ファンクはファイヤーに似ている。いつも姉弟子たちが火を吐いているのはそのせいにちがいない。
ファンクはジャンクにも似ている。そして姉弟子たちはゴミが大好きで、ゴミのように暮らしている。
わたしはゴミより師の方が好きだった。だが師は、わたしをアイデスへの旅に送り出してしまったのだった。すべてが西瓜糖からなる、あの iDEATH に。
とはいえその旅について書くのはまた次の機会にしたい。わたしが今から書くのは、わたしがあの穏やかなiDEATHを知らない頃の、わたしが旅に出る前の、わたしがこの場所にいた頃の、姉たちの真似をしてゴミをキラキラ燃やしていた頃の、つまりわたしがまだ平凡な人間だった頃の、光景である。
巻物を手に打ち鳴らし乙女かな
体操部拳譜拳譜と暮れにけり
制服やトンファーの影ながくして
ぬつ殺しあつて死合はせ委員会
阿修羅似のむくろや修羅の恋ごころ
キューティクル煌めき龍のごとくなり
向き合うてやがて両手の円運動
仁★義★礼★智★信★厳★勇★怪鳥音
足蹴りを躱すお前の師匠萌え
もぢもぢと師系告りあふ堤防で
*「死合わせ委員会」は無知蒙昧「ヌンチャク少女ミサキ」に登場する語。
2015年1月16日金曜日
●金曜日の川柳〔田中博造〕樋口由紀子
樋口由紀子
花はやめたとバケツの中でいう
田中博造 (たなか・ひろぞう) 1941~
今年最初の新年句会。「花」という兼題で掲句をみたときにどきっとした。土間のバケツにほったらかしにしている花を思い出したからだ。我が家は寺だから、本堂や玄関・座敷に花をかかさない。買ってきたもの、いただいたものなど、とりあえずそれらをまずバケツに入れている。そこから必要なものを取り出して活ける。その中には使わずに終わってしまうものやバケツの中で萎れるものもある。せっかく花に生まれてきたのに、それだったら花はもうやめたと花は本当に思うだろうと、実ははじめて気づいた。そのような発想はいままでなかった。「バケツの中でいう」が堪えた。
個人的な実感でぴったりと嵌ったのだが、それとは別に一句全体が大きな比喩になって、世界や社会の在りようを鋭い感覚で捉えているようにも感じた。
〈蓮の花からカブトムシ部隊長 一筒〉〈散る時は散るので放っておいてんか 勝彦〉〈ここいらで薔薇と菊とを取り替える ひろこ〉 「ふらすこてん」(2015年新年句会)
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2015年1月14日水曜日
●水曜日の一句〔磯貝碧蹄館〕関悦史
関悦史
海の外れに心霊瓜を二つ持つ 磯貝碧蹄館
一つではなく「二つ」というのが鍵なのだろう。一対となった瓜が心霊の臓器のように見える。
同じ遺句集中に《モナ・リザの心房真似る真桑瓜》なる句もあり、こちらでも「真桑瓜」が「心房」に似かよっている。そして「モナ・リザ」と「心霊」はどちらも生身を持っていない。イメージだけの存在であることも共通している。
ただしこの心霊、イメージのみの存在かと思いきや、自力で瓜を持ち上げている。
臓器や生身の代わりに瓜を介して物質界に還ろうとし、半ばそれに成功しかけているのか。それとも初めから物体に働きかける能力を持った心霊であったのか。
さらに出現する場所も、墓でもなければ生活空間でもなく、この世の外れですらない「海の外れ」である。「海の真中」であれば何の動きもなくなるが、遠い「外れ」において、持ち上げられた二つの瓜という位置エネルギーを帯びた心霊は、その圧力をもってこちらに移動してきそうな気配もある。あるいはこちらが引き寄せられるのかもしれないが、ことさら場所の移動を伴わずとも、心霊はこちら(視点人物とも作者とも読者とも特定しがたい)と既にのっぴきならない関係を持ってしまっているようだ。心霊、二個の瓜の重量、海の外れという三要素だけで、すでに我々は絡め取られ、この世ともあの世ともつかない次元に釣りだされてしまっている。
しかしそれにしても、瓜を二個抱えた心霊という奇妙にはっきりしたイメージの、間抜けといえば間抜けな意味不明さはどうであろうか。これは単なる滑稽と取ってしまっていいものなのか。
死の恐怖に迫られて思わず漏らす笑みというものを形象化すれば、あるいはこのような姿になるのかもしれない。
作者没後に編纂された遺句集中の句という条件に、あまりにも引きずられた読み方であろうか。
ちなみにこの碧蹄館遺句集、魑魅魍魎の類を詠んだ句が奇妙に多い。幾つか引いておく。
亡霊とひばりの卵敷布替ふ
志戸呂壺より弦楽鳴りぬ貝やぐら
水晶玉の霊視へ霧が立ちこめる
蠟人形の蹠に野火の猛り来ぬ
人身御供の娘に生えよ蝶の羽
遠花火河童の皿に映りけり
柿の頃の人肉美味し件(くだん)坐す
野ざらしの髑髏に餅の粉を化粧ふ
製氷皿から飛び立つ乳房秋落日
十二使徒の遺伝子蝉に受け継がる
噴水を受く少年の無の五体
朝吹英和編『磯貝碧蹄館 遺句集』(2014.11 私家版)所収。
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2015年1月13日火曜日
〔ためしがき〕インフルエンザ 福田若之
〔ためしがき〕
インフルエンザ
福田若之
インフルエンザ influenza という語がラテン語で「影響」を意味するということは、普段はほとんど忘れてしまっていることなのだけれど、一度それを思い返すと、すかさずアメリカの文学者ハロルド・ブルームの『影響の不安』のことが連想される。これはどうやら創作者が苛まれる先行者に影響されることへの不安(すなわち「影響の不安」)とその乗り越えについて語った本らしい(「らしい」というのは、パラパラめくったぐらいで、恥ずかしながら熟読したためしがないからだ)。次に、「影響の不安」という概念のこの概観が、今度は、『批評あるいは仮死の祭典』の、蓮實重彦とロラン・バルトの対談で展開されている議論を思い起こさせる。要約すれば、「影響」というのは、例えば言いまわしであるとか、要するに全くのところ言語活動の範疇におさまる出来事であって、思想的な「影響」というものはない(少なくともバルトにとっては)という趣旨の議論だ。
さて、ここで冒頭のインフルエンザに立ち返ることになる。結局のところ、言いまわしの「影響」というのは、病気としてのインフルエンザと同じように、基本的には一過性のものであって、罹っても治ってしまう類のものなのではないだろうか? すなわち、「影響」は、おそらく、それが「影響」に留まっている限りにおいて、書き手にとって決定的なものではないだろう。とはいえ、そうした「影響」は、それが言いまわしのものである以上、書かれたものに確かに刻印される。だから、マクルーハンの議論を想起してメディアを身体の拡張と捉えるなら、その拡張された身体に何かしらの痕跡、いわば後遺症が残るのだということは、事実として、忘れないでおくことにしよう。
ところで、書かれたものが誰かの身体の拡張であるとするならば、それは単に書き手の身体の拡張であるばかりではなく、読み手の身体の拡張でもあるに違いないので、このとき、メディアは、「影響」が人間から人間へ伝染する際の、まさしく媒介なのである。
上に見たような考えから、今度は「コンピュータ・ウィルス」という隠喩が、まぎれもない隠喩として思い出される。コンピュータ・ウィルスもまた、書かれたものとしてのプログラムにほかならない。コンピュータ・ウィルスは一つの身体の拡張から別の身体の拡張へと伝染し、いまや個人の身体の一部である個々の端末のメモリを書き換えることで、それらの端末をウィルスの増殖に貢献させる。しかも、ウィルスは単に感染した端末すなわち拡張された身体にその増殖を手伝わせるだけでなく、しばしば害をなす。コンピュータ・ウィルスのこうした性質は、生物学上のウィルス――それは、感染した生物の身体を構成する細胞を利用して増殖しながら感染を拡大するものであり、しかも、しばしば生物の身体にとって害毒となるものである――と実に似通っている。この通り、「コンピュータ・ウィルス」という隠喩は、単に隠喩として正当であるというばかりでなく、マクルーハンの考えとも通じ合うものだ。
とはいえ、上に述べたような悪影響は、いわゆる「コンピュータ・ウィルス」に限ったことだろうか? ある意味では、言葉というのは、そもそも「ウィルス」のようなものなのではないだろうか? それは伝わり、そのことで患者の語りを染める。そして、このウィルスに侵されることで、患者は言葉のさらなる増殖と感染の拡大に貢献することになる(確かに、一つの見方としては、僕らは誰かに言葉を教えられてしまいさえしなければ、何も語らずに済んでいたはずだ)。
だが、こうした考えは、H2Oの毒性を多面的に考察するという冗談(この冗談において語られるところによれば、この物質は依存性が極めて強く、禁断症状として猛烈な喉の渇きや幻覚などの禁断症状を催す場合があり、それを放置した場合は確実に死亡する)を思い出させる。言葉はウィルスであり僕らは言語中毒に侵されているというのは、結局のところ一種の冗談に他ならないだろう。まあ、どちらかといえば、こうした冗談よりはむしろ、『リング』シリーズの呪いのビデオテープを思い起こさせる話だとも言える。
しかし、それ以上に、「インフルエンザ」という言葉を見るたび、僕には、あるとき目に映った――むしろ「感染った」と表記したほうがよいかもしれない――次の俳句が絶えず思い出され続けていて、もはや頭を離れないのだった。
インフルエンザウィルスを吸ひ込む 寺澤一雄 (『鏡』 第四号 2012.4より)
こうして、もともとは句に対する評など意図していなかったはずの散文が、すっかりそうしたものとして読みうるようになる。
インフルエンザ
福田若之
インフルエンザ influenza という語がラテン語で「影響」を意味するということは、普段はほとんど忘れてしまっていることなのだけれど、一度それを思い返すと、すかさずアメリカの文学者ハロルド・ブルームの『影響の不安』のことが連想される。これはどうやら創作者が苛まれる先行者に影響されることへの不安(すなわち「影響の不安」)とその乗り越えについて語った本らしい(「らしい」というのは、パラパラめくったぐらいで、恥ずかしながら熟読したためしがないからだ)。次に、「影響の不安」という概念のこの概観が、今度は、『批評あるいは仮死の祭典』の、蓮實重彦とロラン・バルトの対談で展開されている議論を思い起こさせる。要約すれば、「影響」というのは、例えば言いまわしであるとか、要するに全くのところ言語活動の範疇におさまる出来事であって、思想的な「影響」というものはない(少なくともバルトにとっては)という趣旨の議論だ。
さて、ここで冒頭のインフルエンザに立ち返ることになる。結局のところ、言いまわしの「影響」というのは、病気としてのインフルエンザと同じように、基本的には一過性のものであって、罹っても治ってしまう類のものなのではないだろうか? すなわち、「影響」は、おそらく、それが「影響」に留まっている限りにおいて、書き手にとって決定的なものではないだろう。とはいえ、そうした「影響」は、それが言いまわしのものである以上、書かれたものに確かに刻印される。だから、マクルーハンの議論を想起してメディアを身体の拡張と捉えるなら、その拡張された身体に何かしらの痕跡、いわば後遺症が残るのだということは、事実として、忘れないでおくことにしよう。
ところで、書かれたものが誰かの身体の拡張であるとするならば、それは単に書き手の身体の拡張であるばかりではなく、読み手の身体の拡張でもあるに違いないので、このとき、メディアは、「影響」が人間から人間へ伝染する際の、まさしく媒介なのである。
上に見たような考えから、今度は「コンピュータ・ウィルス」という隠喩が、まぎれもない隠喩として思い出される。コンピュータ・ウィルスもまた、書かれたものとしてのプログラムにほかならない。コンピュータ・ウィルスは一つの身体の拡張から別の身体の拡張へと伝染し、いまや個人の身体の一部である個々の端末のメモリを書き換えることで、それらの端末をウィルスの増殖に貢献させる。しかも、ウィルスは単に感染した端末すなわち拡張された身体にその増殖を手伝わせるだけでなく、しばしば害をなす。コンピュータ・ウィルスのこうした性質は、生物学上のウィルス――それは、感染した生物の身体を構成する細胞を利用して増殖しながら感染を拡大するものであり、しかも、しばしば生物の身体にとって害毒となるものである――と実に似通っている。この通り、「コンピュータ・ウィルス」という隠喩は、単に隠喩として正当であるというばかりでなく、マクルーハンの考えとも通じ合うものだ。
とはいえ、上に述べたような悪影響は、いわゆる「コンピュータ・ウィルス」に限ったことだろうか? ある意味では、言葉というのは、そもそも「ウィルス」のようなものなのではないだろうか? それは伝わり、そのことで患者の語りを染める。そして、このウィルスに侵されることで、患者は言葉のさらなる増殖と感染の拡大に貢献することになる(確かに、一つの見方としては、僕らは誰かに言葉を教えられてしまいさえしなければ、何も語らずに済んでいたはずだ)。
だが、こうした考えは、H2Oの毒性を多面的に考察するという冗談(この冗談において語られるところによれば、この物質は依存性が極めて強く、禁断症状として猛烈な喉の渇きや幻覚などの禁断症状を催す場合があり、それを放置した場合は確実に死亡する)を思い出させる。言葉はウィルスであり僕らは言語中毒に侵されているというのは、結局のところ一種の冗談に他ならないだろう。まあ、どちらかといえば、こうした冗談よりはむしろ、『リング』シリーズの呪いのビデオテープを思い起こさせる話だとも言える。
しかし、それ以上に、「インフルエンザ」という言葉を見るたび、僕には、あるとき目に映った――むしろ「感染った」と表記したほうがよいかもしれない――次の俳句が絶えず思い出され続けていて、もはや頭を離れないのだった。
インフルエンザウィルスを吸ひ込む 寺澤一雄 (『鏡』 第四号 2012.4より)
こうして、もともとは句に対する評など意図していなかったはずの散文が、すっかりそうしたものとして読みうるようになる。
2015年1月12日月曜日
●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵
相子智恵
双六を三つすすんで絶滅す 岡田一実
句集『境界-Border-』(2014.11 マルコボ.コム)より
長閑な双六の遊び風景が一転、下五で覆される。スーッと読んでいってぎょっとした。
子どもの頃のお正月は、ただただめでたく、楽しみなものだったが、大人になると無邪気に喜べるものでもない。年末には一年の出来事を振り返るニュース番組がたくさん流れ、その問題の多さと暗さに気持ちが重くなったりもするし、新年になったからといって、たとえば環境問題や原発の問題などはすぐに解決するものでもない。努力をしても、それを上回るスピードで進行しているようにも思えて、下りのエスカレーターを上るような努力だが、それをやめて進行が進めば絶滅に近づく。
この〈絶滅〉は、どんな動植物よりも、何より人間のことのような気がする。
●
2015年1月10日土曜日
【みみず・ぶっくす09】 旅の余白に、春の窓辺が。 李賀&小津夜景
2015年1月9日金曜日
●金曜日の川柳〔小野五郎〕樋口由紀子
樋口由紀子
前期高齢スイカの種がよく飛ぶぞ
小野五郎 (おの・ごろう) 1946~
我が家の4歳の孫娘は果物が好きなのに西瓜も葡萄も種があるといやがる。「種がある」言って食べない。種があってあたりまえ、ない方がへんなのだ。もちろん、私は食べなくていいと取りあげて、叱り飛ばす。
「後期高齢者」「前期高齢者」って、いつからこんな言葉が使われるようになったのだろう。そのように一括りにする方が誰かにとって便利で都合がいいのだろう。「前期高齢」は65歳から74歳。作者自身のことだ。スイカをスプーンやフォークでちまちまと食べるのではなく、豪快にがぶっとかぶって、種を遠くまで飛ばす。まだまだ人さまの世話にならなくてもだいじょうぶ。でも、世間では「高齢者」と区分される。「よく飛ぶ」と自己確認するところに愛嬌があって、可笑しい。「おかじょうき」(2014年刊)収録。
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2015年1月7日水曜日
●水曜日の一句〔藤尾州〕関悦史
関悦史
枯蓮田骨の自転車仲間にして 藤尾 州
うちの周りだけのことかもしれないのだが(筆者はレンコン生産量日本一という県に住んでいる)、枯蓮田のまわりにはごちゃごちゃと何かが落ちていることが多いようだ。大体は雑草や、北風に吹き寄せられたらしい何やかやだが、壊れた自転車が落ちている景もいつかどこかで見た気がするし、枯蓮自体にもゴミ感がある。
そういう身近で懐かしい風景なのだが、「骨」と「仲間にして」で単なる風景ではなくなった。妖気というほどのこともないが、ゴムタイヤ等が潰れるか失せるかした自転車を「骨」と呼び、では死んだかと思えば、死後、枯蓮田と仲間になっているという。枯れた蓮と、もともと無生物である自転車との交歓の図だが、こんなことを感知し、見入っている側もただの人間からはやや食み出しかけているのだろう。
単に風景として懐かしいのではなく、やがて自分もその仲間に加わることになりかねないことからくる慕わしさと不気味さがこの句にはひそんでいるのだ。この感知力は、自己憐憫や老人意識といった心理性とはあまり関係がない。自分は何者で、どういう境位にいるのか。それを枯蓮田のへりというどうでもいいような場所が、不意にあらわにしてしまったのである。そして、あらわにされたところで、それもやはり心理的衝撃にはならない。相変わらず枯蓮田のへりのような怪しい場所を行過ぎるだけのことなのである。
句集『木偶坊』(2014.12 私家版)所収。
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2015年1月6日火曜日
新シリーズ〔ためしがき〕読み初め 福田若之
新シリーズ〔ためしがき〕
読み初め
福田若之
去年のうちに、今年の読み初めはこれと決めてあった。ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』の第2巻『エッセイの思想』に冒頭の一篇として収められた、「蔵書の荷解きをする」という文章だ。
たとえば「複製技術時代の芸術作品」におけるベンヤミンは、差し迫ったファシズムの危機に対抗しようとする一人の英雄的な批評家として立ち上がらざるをえないようなところがあるけれど、これはもっと力をぬいた、ともすれば笑ってしまうこと請け合いの、書物への愛に溢れた読み物だと思う。次の一文から始まる。「私はいま蔵書の荷解きをするところです(14頁)」。そして、読者は彼に導かれて文章の中へと入っていく。
このへんで、ちょっとベンヤミンについての認識が改まる感じがある。この人は、さすがにルソーのようにはっきりと盗んだりはしないわけだけれど……。
ところで、三つ目の購入するという段で、ベンヤミンが本屋を探して長いこと街をうろつくことになるかというと、たしかにうろつきはするのだが(「蒐集家は戦術的な本能を具えた人間です。その経験によれば、蒐集家が見知らぬ街を攻略する場合には、最も小さな古本屋が要塞を意味したり、いちばん町はずれの文具店が要衝を意味していたりすることがあります(22頁)」)、これがさほど重要視されないというのがまた面白い。ベンヤミンにとってはむしろ、本は、取り寄せたカタログのなかから選んで注文するものである(「そして、カタログによって注文したその本のことを、買い手がどれほどよく知っている場合でも、その一冊はいつも予期せぬ驚きであり、注文にはいつも何かしら賭事めいたところが付きまといます(22頁)」)。今日で言うところの、Amazonでポチるというやつだ。
とはいえ、こうしたことはベンヤミンの本題ではないだろう。蒐集行為の本質とは何かということを、ベンヤミンは次の一節で言っていて、それこそが重要なことだと思われる。
読み初め
福田若之
去年のうちに、今年の読み初めはこれと決めてあった。ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』の第2巻『エッセイの思想』に冒頭の一篇として収められた、「蔵書の荷解きをする」という文章だ。
たとえば「複製技術時代の芸術作品」におけるベンヤミンは、差し迫ったファシズムの危機に対抗しようとする一人の英雄的な批評家として立ち上がらざるをえないようなところがあるけれど、これはもっと力をぬいた、ともすれば笑ってしまうこと請け合いの、書物への愛に溢れた読み物だと思う。次の一文から始まる。「私はいま蔵書の荷解きをするところです(14頁)」。そして、読者は彼に導かれて文章の中へと入っていく。
私が皆さんにお願いしなければならないのは、蓋を開けた木箱が雑然と置かれているところへ私といっしょに歩を運んでいただきたいということ、木屑混じりの埃が充満した空気のなかへ、紙屑の散らかった床のうえへ、二年間の闇からたったいま再び昼の光のもとに引き出されて積み上げられた書物の山のふもとへと、歩を運んでいただきたいということなのです。そうすれば皆さんにも、それらの書物が真正なる蒐集家のうちに呼び醒ます気分というものを、それは哀調を帯びたものではまったくなくて、むしろ期待に張り詰めたものなのですが、その気分のいくらかなりとも、最初のところから分かちあっていただけようかと思うからです。(14頁)ベンヤミンは、書物の蒐集の手段について、次の順番で四つを示す。
1. 手に入れたい本を自力で書いてしまう。(19頁)一つ目(これは、いうなれば書物に関するDIYだ)もかなり奇矯な策だけれど、なによりも、二つめが三つ目の前に置かれているというのが、おいおい何を言い出すんだヴァルター、という感じだ。
2. 本を借りて、かつ、返さないでおく。(19頁)
3. 購入する。(21頁)
4. 遺産として相続する。(29頁)
私たちがいまここでありありと思い浮かべることのできるような、並はずれた図書借り出し魔は、根っからの書籍蒐集家であることが分かります。それはたとえば、彼が借り集めた宝物を大切に守り、しかも法的生活の日常から発せられる一切の警告に耳を塞ぎ続ける、その熱烈なる心情によって明らかになるばかりではなく、それよりもずっと、彼もまたその借り集めた本を読みはしない、ということによって証明されるのです。(19-20頁)いや、それ、ほんと駄目だからね?
このへんで、ちょっとベンヤミンについての認識が改まる感じがある。この人は、さすがにルソーのようにはっきりと盗んだりはしないわけだけれど……。
ところで、三つ目の購入するという段で、ベンヤミンが本屋を探して長いこと街をうろつくことになるかというと、たしかにうろつきはするのだが(「蒐集家は戦術的な本能を具えた人間です。その経験によれば、蒐集家が見知らぬ街を攻略する場合には、最も小さな古本屋が要塞を意味したり、いちばん町はずれの文具店が要衝を意味していたりすることがあります(22頁)」)、これがさほど重要視されないというのがまた面白い。ベンヤミンにとってはむしろ、本は、取り寄せたカタログのなかから選んで注文するものである(「そして、カタログによって注文したその本のことを、買い手がどれほどよく知っている場合でも、その一冊はいつも予期せぬ驚きであり、注文にはいつも何かしら賭事めいたところが付きまといます(22頁)」)。今日で言うところの、Amazonでポチるというやつだ。
カタログを見て書物を買い求める人は、右に挙げたお金と専門的知識に加えて、いまひとつ、鋭敏な嗅覚を具えていなければなりません。刊行年、刊行地の名、版型、以前の所有者たち、装丁など、こうした事柄すべてが、蒐集家に何かを語りかけるものでなければならないのです。(23-24頁)そして、もうひとつ、ベンヤミンが挙げるのは、オークションで競り落とすという購入方法である。
オークションに割って入ろうという人は、本と競争相手とに等分の注意を払わねばなりませんし、そのほかさらに、充分に冷静な頭を保持していなければなりません。と申しますのは――これは普段でもよくあることですが――競りあいの争いにのめりこんでしまわないため、そしてあげくの果てに、その本を手に入れたいということよりも、自分の面子を立てたいばかりに競争相手と張りあってしまったとき、自分のつけた高値で身動きがとれなくなる、といった事態に陥らないためです(24頁)。ベンヤミンはオークションでのこうした駆け引きについて、より具体的に次のようなことも言っている。
実に単純な話ではありますが、私が値をつけると、それによって私はこの出物を確実に他人に斡旋することとなるにちがいなから、私は値をつけてはならないというわけです。私は自分の気持を抑え、黙ったままでいました。私の期待したことがずばり的中しました。誰も関心を示さず、誰も値をつけずに終わり、この本の競売は流れたのです。私はなお数日間見送るのが賢明だろうと考えました。事実、一週間後に行ってみると、当の本はその古本屋に並べられてありました。つまり、競売の品に対してまったく関心をもってはいないという態度を示してみせたことが、私がその品を手に入れるのに役立った次第です。(28頁)これに似たことは、ネットオークションでもしばしばあり得ることであるように思う(早くから入札すると、値がつりあがってしまう。一方で、競売が繰り返し流れると、出品者は最低落札価格を下げる)。Amazonとヤフオクが重宝される土壌は、ベンヤミンの時代にはすでに培われていたということかもしれない。
とはいえ、こうしたことはベンヤミンの本題ではないだろう。蒐集行為の本質とは何かということを、ベンヤミンは次の一節で言っていて、それこそが重要なことだと思われる。
いま私の頭のなかを満たしているのは、ここまでお話してきたこととは別の考えです。いや、考えといったものではなく、さまざまなイメージ、さまざまな思い出なのです。(31頁)つまり、蒐集家というのは、結局のところ、記憶の蒐集家であって、思い出の蒐集家なのだ。では、蒐集家の死後、それはどうなるだろうか。この問題は、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』にそのままつながっているだろう。というわけで、僕はこれからそれを読み返すことにしたい。
以上で私は皆さんに、本を礎石とする館をひとつ建てて御覧に入れたわけです。さて、これをもって蒐集家は、当然しごく、そのなかに姿を消すと致しましょう。(32頁)
2015年1月4日日曜日
2015年1月1日木曜日
●2015年 新年詠 大募集
2015年 新年詠 大募集
新年詠を募集いたします。
●投句先
上田信治 uedasuedas@gmail.com
西原天気 tenki.saibara@gmail.com
福田若之 kamome819@gmail.com
村田 篠 shino.murata@gmail.com
●おひとりさま 一句 (多行形式ナシ)
●簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。
●投句期間 2015年1月1日(木)~1月3日(土) 20:00
※年内は受け付けておりません。年が明けてからお送りください。
≫過去の新年詠
http://hw02.blogspot.jp/2013/01/blog-post_8.html
新年詠を募集いたします。
●投句先
上田信治 uedasuedas@gmail.com
西原天気 tenki.saibara@gmail.com
福田若之 kamome819@gmail.com
村田 篠 shino.murata@gmail.com
●おひとりさま 一句 (多行形式ナシ)
●簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。
●投句期間 2015年1月1日(木)~1月3日(土) 20:00
※年内は受け付けておりません。年が明けてからお送りください。
≫過去の新年詠
http://hw02.blogspot.jp/2013/01/blog-post_8.html