2016年1月30日土曜日

【みみず・ぶっくす 56】有機生成俳句の庭で 小津夜景

【みみず・ぶっくす 56】
有機生成俳句の庭で

小津夜景


 なぜ俳句に飽きないのか、としょっちゅう思う。
 で、そのたび「俳句は時空の構造(ストラクチャー)でなく質感(テクスチャー)を創る作業だから」との結論に至る。
 断るまでもないが、これは極私的な感想だ。歴史的にみれば、漢詩や和歌に拮抗せんとした芭蕉や蕪村も、近代的遠近法を俳句に導入した子規も、構造をめぐる試行錯誤の中にいた。季語や切れ字がその中で考案された《装置》であるのも疑いない。
 とはいえこういった話は、質感が構造に劣る問題であることを意味しない。型を疑い、素描を避け、モノ以上にそのモノを存在せしめる空気(内的環境)を掴むといった思考法は、構造と同等もしくはそれ以上に古いのだから。
 俳句が時空の質感を創る作業だというとき私が想うのは、器をこしらえては壊す陶工のすがた。感触をたしかめるように、ことばにふれる快楽。或いはまた、ボサノヴァのような無指向性。同じ場所にずっと浮遊しながら、音楽がそれ自体から絶えず湧き出るふしぎに身をまかす官能。告白めいたことを書けば「自分はたえまなく作句することで、完成に至るまでのプロセスそれ自体を引き延ばしているのではないか」とも思う。
 俳句というシステムに、ひとりの作家が、ことばを供給する。すると、ゆったりとした一息の長さのフレーズが、べつだん誰の耳を奪うでもなく繰り返しあふれだす。
 ことばは世界のすがたをなぞり、その多様性に共鳴しながら、なにがしかの意味を部分的に残して、いつしかただの運動の痕跡と化すだろう。興味ぶかいと同時に無視することもできる、そんな愉快な無をふくんだ俳句になるだろう。


ゆくりなき雪の重さの音叉かな
あかぎれの海かと思ひ過ごしたる
咳がはがしてしまふ記憶の絵
人体を虹のもやうに点しをり
探梅を渡る渡らぬエアポート
水仙のたゆたふ機内アナウンス
凍蝶を笑ひあふ日のふるへる眼
うぶごゑがある枯庭のあかるさに
ねざめ打つ風の残せし冬帽子
ふゆのはなわらびを賜ふ欠伸かな

2016年1月29日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井かがり〕樋口由紀子



樋口由紀子






フリスビーのうまい塗装工見習い

酒井かがり (さかい・かがり) 1958~

お昼休みにフリスビーをしているのだろう。塗装工見習いのフリスビーがうまい。身体の動きが機敏でシャープで、目は輝き、楽しそうでいきいきとしている。仕事をしている時とはまるで別人のようである。人はそれぞれ得手不得手があり、誰でもプラス面とマイナス面があり、意外な一面をもっている。

そんな日常のひとこまを川柳にした。フリスビーは予想もつかないスピードや曲り方をする。それを器用に操る彼に作者は感情移入している。しかし、そこを切り取っているだけで、それを見て、どう思ったのか、だからどうだということは一切書かれていない。だからこそ、作者の立ち位置と眼差しを感じる。フリスビーがうまい彼はきっと一人前の塗装工になるだろう。「ふらすこてん」(2016年刊)収録。

2016年1月28日木曜日

【人名さん】アーノルド・シュワルツェネッガー

【人名さん】
アーノルド・シュワルツェネッガー


なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ  大畑等



大畑等句集『ねじ式』(2009年2月/私家版)所収。


2016年1月27日水曜日

●水曜日の一句〔浅井愼平〕関悦史


関悦史









クロッカス海は遥かにサティ聴く  浅井愼平


写真家の浅井愼平は句集も何冊か出していて、これはその最新の一冊から。

俳句プロパーの作者ではありえない種類の三段切れ、字余り、字足らず、無季が句集には少なくなくて、しかしそこを整えると途端につまらなくなってしまう句も多い。一種のヘタウマというべきか。

この句の場合、絶妙なのは「海は」の「は」である。試しに「を」に変えてみると、位置関係は整然とするが、どうということもない自己満足的な報告句に落ちてしまう。一度情景から浮いてまた着地するような「は」の遊離が重要なのだ。

読みようによっては、擬人化された「海」がサティを聴いているとも見えるが、そうしたブレを含みつつ、遥かな海へ飛んだ知覚と、室内に置かれているらしいクロッカスとの間を瞬時に飛びつなぐダイナミズムがサティの流れる静寂の中に組織されているところに開放感がある。作中人物が海に変容しているようでもある。

「クロッカス」は春で、他の夏秋冬ではサティがあまり利きそうにない。句全体に響くk音(及びs音、r音)の明快な基調もここで決まっている。


句集『哀しみを撃て』(2015.12 東京四季出版)所収。

2016年1月26日火曜日

〔ためしがき〕 『パンセ』のようにして 福田若之

〔ためしがき〕
『パンセ』のようにして

福田若之

まずはニーチェ:
――私たちの思想がいかにして私たちの心にうかんだかという事実は、隠蔽したり破損したりしてはならない。最も深い汲みつくしがたい書物は、きっとつねに、パスカルの『パンセ』の箴言風の突発的な性格をなにほどかもったものとなるであろう。
(『権力への意志』、原佑訳、断章424)
そしてバルト:
 〔……〕(『人工天国』はこの世で書かれた最良の書物のひとつだ、パスカルの『パンセ』とともに、そしておそらくモンテーニュもまた然り)〔……〕。
Le Neutre, p.136)
『パンセ』のようにして、句集はありうるだろうか。けれど、そもそも『パンセ』は完成した著作ではない。 ∴数々の異本があり、定本はない。 ∴ある意味で、『パンセ』は今なお書かれつつある。

あるいは、『パンセ』という書物は、そもそも、何かが「書かれつつある」という状態を体現する書物だといえるかもしれない。

書かれつつありつづける句集。

宗教に関係した記述は、どうしてもとっつきにくいので、バルトがサドのサディズムにはほとんど目をつぶったように、パスカルの信仰にほとんど目をつぶることが必要かもしれない。ニーチェとバルトは、おそらく、『パンセ』に自分の著作と通じ合うものを見ていたのではないだろうか(二人とも、短い断片を連ねていくという手法を自分のものとしていた)。

『パンセ』には、こんなくだりがある:
あらゆる作者は、互いに矛盾するすべてのくだりがそれに向けて一致団結するような一つの意味を備えているか、そうでなければ全くのところ意味などないかだ。
Pénsees, 257[Lafuma], 684[Brunschvicg])
それぞれは突発的なものであるがゆえに一見するとばらばらに見える無数の句が、ちょうど赤青緑のスポットライトが一点を白く照らし出すようにして、ひとつの意味を表すような句集。

2015/12/28

2016年1月23日土曜日

【みみず・ぶっくす 55】萌えと俳味定食 小津夜景

【みみず・ぶっくす 55】
萌えと俳味定食

小津夜景



 近所の交差点でぼーっと立っていたら見ず知らずの中年男性がそばに来て、
「あなた日本人?」
と言った。
 おもわず、はい、と答えるとその男性は
「電柱萌え、というのは何ですかね一体」と、こちらの都合も聞かずいきなり質問をはじめた「ノスタルジックな文化趣味かな? 昔からある給水塔愛や、産業遺跡愛みたいな」
 長く外国にいると、突如このような不条理劇的状況に見舞われることがままある。スーパーでマヨネーズを選んでいて「ねえ大学講師にならない?」と勧誘されたこともあった。日本語の先生、足りないの。ここに連絡してくれたらすぐなれるから。あなたなら大丈夫。見知らぬ人からそう断言され、やる気はなかったものの好奇心で電話したところ、本当だったから怖ろしい。
 と、そんな話はいい。それよりもわたしがこの男性に何と答えるべきか、だ。頭の中に萌えの定義がうずまく。わたしに与えられた時間は3分程度。それ以上の説明に耐えるのは、この土地の人には不可能である(口を閉じていられないため)。
 腕時計の針を確かめつつ、わたしは語り出した。
「いいえ。電柱萌えは様式や文化へのノスタルジーとは違います。むしろノスタルジーを欠くのが萌えです。また萌えはフェティシズムのようにも見えますが、両者の心性は正反対です」
 交差点の信号が青になった。周囲が対流となって動きだす。その真ん中で、男性とわたしはドラマの重要なシーンを演じているかの如くその場を離れない。わたしは続ける。
「萌えに郷愁はありません。萌える人々には、その対象が歴史的に担ってきた意味や世界観への関心がないのです。あくまで目前の要素と設定にのみ注目し、自分勝手な感情移入を展開すること。これが萌えです。したがって萌えは郷愁や倒錯と異なり、いくらでもその対象をとっかえひっかえすることができます。正味のところ、萌えが対象愛でなく自己愛の日替わり定食である、と言いうるのはこうした所以です。まとめるとですね、萌えとは世界を構成するデータベースを個別に消費しつつ、そのデータを構成している世界それ自体には無関心をよそおう感性、となります」
 3分経った。わたしは沈黙した。
 たとえ突然の出来事だったにせよ、これでは説明としていささか不十分である。人生は一度きりという台詞がわたしの脳裏をよぎる。ところが中年男性は、ああといった顔をして、
「つまり歳時記とのつきあいみたいなものか。あれも時と場に応じて切る《たまさかの愛の札》を集めたデータベースですよね」
と、萌えを完全に理解したかの表情で、言った。
「さ、さいじきを知ってるんですか」
「ええ」
「なんでまた」
「だって有名でしょう? 皆知っていますよ」
 まさか歳時記が萌えのデータベースだとは。だが俳人が個別の季語にほどよく萌えつつ、俳味の日替わり定食をつくっているのは本当かもしれない。それに、考えてみれば世界に深入りしないからこそ、彼らは十七音で物事を終えられるのだ。とすると俳句とは引用の織物である以上に、データベース型消費の戯れだとみなすべきなのだろうか。俳句、その徒情けへの情熱。嗚呼。
 わたしは茫然とたたずむ。見知らぬ中年男性は、すっきりとした顔で交差点を渡っていった。


靴揃ふ冬の眠りのかたはらに
名づけえぬ物の匂ひと毛糸玉
桃色としての桃あり白息も
襟巻の赤に抱かれし象である
耳当のふちをとんだる針のあり
声が空ひらいて橇をあやつりぬ
冬ざれや画鋲の跡がまなうらに
冬の首みれば通話をしてをりぬ
よく晴れた写真の片手袋かな
ポット置く三六〇度の冬に


2016年1月22日金曜日

●金曜日の川柳〔浪越靖政〕樋口由紀子



樋口由紀子






ローソク百本一息で消され

浪越靖政 (なみこし・やすまさ) 1943~

私なら一息で百本は消せないなとまず思った。実景を詠んでいるのではなく、心象だろう。実際に可能か不可能か、また、そういった場面があるかないかも問題ではなさそうである。けれども、できるかどうかを想像して、ワクワクした。もし、百本のローソクを一息で消せたら、爽快だろうし、たまたまその場面に出えたら、気分は高揚して、楽しくなるだろうと思った。言葉によって実在感をもたらせてくれた。

掲句に対して誕生日のローソクを消すイメージしかを持っていなかった。川柳の友人が昨年に亡くなっていたことがわかった。すると、一気にこの句がとてつもなく悲しい句に激変した。私の中のローソクが一息で消えた。胸に冷たいものが溜まり凍えている。消したのは人間ではどうすることもできない大きな力。川柳の読みはそのときの心情で変った。「おかじょうき」(2016年1月号)収録。

2016年1月21日木曜日

【俳誌拝読】『絵空』第14号

【俳誌拝読】
『絵空』第14号(2016年1月15日)


A5判・本文16頁。以下、同人4氏作品より。

咳ひとつ丸と四角の曼荼羅図  山崎祐子

することのなき手に使ひ捨てカイロ  茅根知子

枯れきつてしまへば人も日の匂ひ  土肥あき子

寒月や全身で押す鉄の門  中田尚子

(西原天気・記)


2016年1月20日水曜日

●水曜日の一句〔藤井冨美子〕関悦史


関悦史









どの木にも幹の静けさ今朝の秋  藤井冨美子


穏やかさと落ち着きのなかから木々の量感が迫ってくる。

その量感をかもしだしているのは、分割の細かさだ。幹はいうまでもなく木の一部である。通常ならば同じ一つのものとしか認識されない。作者の目はそれを丁寧に分割し「静かさ」のよってきたるところをほりさげていく。

「どの木にも」は全景であり「静けさありぬ」などと続けば焦点のぼけた一般論に終わる。「どの木にも」のなかから一本一本の「木」が割り出され、ついでその木々から中心となる「幹」が割り出される。「静けさ」はその幹の質量と、幹が育つまでの時間を背負うことになる。この析出する過程、全景と細部とを行き来する視線の認識の過程が落ち着きと量感を引き出すのである。

自然との対話などといえば空疎なものいいとなるが、ここでは作者と木々との間の相互浸透が俳句化されているといえるだろう。だからこの静かな「幹」は作者に似かよって見える。

「今朝の秋」は爽やかな季節の変わり目だけではなく、通じあう木の幹と作者との境目にも通じている。


『藤井冨美子全句集』(2014.12 文學の森)所収。

2016年1月19日火曜日

〔ためしがき〕 感動について 福田若之

〔ためしがき〕
感動について

福田若之

感動を俳句にする、という発想が不自然に思われるのは、単に僕らが俳句を作りすぎるからというだけかもしれない。芭蕉の紀行文などを見ると、感動を俳句にするという書き方(むしろ「生き方」だろうか)も、限られた期間に一定の数の句を作ることを義務としなければ、少なくとも理論的には可能であるように思われる(紀行文の上での芭蕉はあまりにも感動してばかりいて、確かに不自然に感じられるほどだけれども。そして、その芭蕉にしても、現実には、常にそうした生き方を実現していたわけではないのだろうけれども)。

代表的な切れ字である「や」、「かな」、「けり」はいずれも感動を表すものだ。 ∴感動していないにもかかわらずこれらの切れ字を使うというのは、端的に言って、嘘をついていることになるはずだ。

今日、俳句では真なる命題を述べなければならないなどとは誰も思っていないだろうけれど。

「や」、「かな」、「けり」を人は意味のない語と考えて字数や切れのために便利に扱いがちだけれど、これらの語こそがどんな名詞や動詞よりも強烈な意味を持っているのではないだろうか。

他の部分を俳句にするために「や」と書くのではなく、真正な意味において「や」と書くというただそれだけのために他の部分をものにすること。 ≠文語的な問題。∵口語には、たとえば、「か」がある。

叫ぶように「や」と書くことを僕らは忘れてしまった。すなわち、単に忘れてしまっただけなのかもしれないのだ(おそらくいくらかプラトン的な意味での想起の可能性)。

あら何ともなやきのふは過てふくと汁 芭蕉

河豚を食うのがどれだけ命がけのことだったか、さえも。

2015/12/27

2016年1月18日月曜日

●月曜日の一句〔中山奈々〕相子智恵



相子智恵






いくたびもまぶたの落ちる雪景色  中山奈々

『しばかぶれ 第一集』(2015.11 邑書林)「綿虫呼ぶ」より

雪が日常のすべてを覆い尽くし、一面真っ白な非日常の景色「雪景色」を作り出している。ただの雪ではなく「雪景色」という言葉の中には、雪が冬の日常としてある雪国の者ではなく、雪のほとんどない地域で暮らしている者による、雪の美しさをたたえる気持ちが内に込められているように思う。

そんな眩い雪景色の中で、何度もまぶたが落ちる。眠いのだ。夢の中でも、真っ白な雪景色が続いているのではないかと思わせる。目を閉じれば闇だけれども、その闇は黒くはなく、ぼおっと明るい「白い闇」でありそうに思える。雪の残像の残る浅い眠り。時間は一瞬止まったように思えるが、しかし目覚めるごとに、雪は少しずつ積もっていて、確かに時間は過ぎている。時間が伸び縮みするような不思議な感覚のある句だ。

それにしても、「雪」と「いくたびも」は相性がよいと思う。

〈いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規〉
〈雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし 飯田龍太〉

「いくたびも」が係る言葉は「雪の深さ」「文」「まぶた」とまったく異なり、三句ともまったく別の句であるのに、どれもしっくりきていて美しい。この相性の良さは、雪が音もなくいつの間にか積もっている速さと静けさに関係がありそうな気がする。〈雪はしづかにゆたかにはやし屍室  石田波郷〉という句もあった。真っ白な雪には、浦島太郎の玉手箱の白い煙のように、時間を超越する「何か」があるような気がする。

2016年1月17日日曜日

●卓袱台

卓袱台

綿虫や卓袱台捨てて一家去る  守屋明俊

卓袱台の向うは祖のあとどころ  三橋敏雄

卓袱台にアルミニウムの僧死ねり  大畑等



2016年1月16日土曜日

【みみず・ぶっくす 54】なんといふ薔薇日記 小津夜景

【みみず・ぶっくす 54】
なんといふ薔薇日記

小津夜景



 喫茶店で、お悩み相談を受ける。
 なんでもその人は、その辺の紙にちょこちょこ日記をつけるのが趣味らしいのだが、しばらく書き貯めていると突然飽きる瞬間がきて、書くのをやめる。そのうち部屋の掃除やら、引越しやら、なにやらでその紙の束をなくす、ということをくりかえしているらしい。
 なんとか、なりませんかね、とその人。
 その辺の紙じゃなくて、ちゃんとしたノートに書いたらどうかな、とわたし。
 ちゃんとしたノートには人生の方向性がみえた時点であらためて整理します。それまでは紙切れがいいんです。いきなりノートに書いたりしたら、捏造しかねないし。
 あ、あらためて整理ってそれこそ捏造じゃないの? わたしが驚くと、その人は、いいえ、時を経てからやっと意味がわかる風景ってあるでしょ? いまここからだと死角になっていて見えない風景ってのが。そういった、いわば人生の伏線をね、もれなく日記に盛り込みたいんですよ、と言う。
 僕は人生の意味を散逸させたくないんです。なのに今の状態ときたら、何も書かないよりよほどひどいありさまだ。まるで散ってしまった薔薇みたいに。あーあ人生は「なんという薔薇!」のはずなのになあ。え? なんすか? ああこれ。僕が昔好きだった日記のタイトルですよ。
 ついに答えを得ぬまま、わたしたちは珈琲代を払う。
 交差点で別れる。本人すら気づかない死角が、いまここにみちている。わたしは、おそれおののく。わたしなりに。

 厚いプルースト買っていつ読むのか / 岡田幸生

フーガより冬毛うつくし立体図
即ちをなまこの生になぞらへる
あたかもが夜の寒にふれ帆柱に
いつ終はるともなく笑ふ鯨かな
とでもいふごとく貌あり山眠る
いかにもと藁に六花を包み来し
やうなもの木枯うごく時見えて
空前の鍵は冬木にかけておく
また冬の帽子が旅に出てそして
或る記憶術しはぶきがさざなみが

2016年1月15日金曜日

●金曜日の川柳〔中呂〕樋口由紀子



樋口由紀子






ボクのきらひな角度からのぞかれる

中呂

生きていくなかでコアな部分に触れる川柳である。「きらひな角度」にどきりとした。きらひな角度って、確かに「ある」と思った。どの角度かと聞かれてもうまく答えられないが、そういう角度は人それぞれにあって、その角度からのぞかれると否応なく消耗してしまう。私だって、そういうことを誰かにしているかもしれない。

「ボクの」「きらひな」の表記に工夫がある。〈僕の嫌いな角度から覗かれる〉とは別の様態になる。やわらかい物言いだが痛いところを突いている。格言的にならずに、とぼけた味を出しながら大切なことをさりげなく教えてくれている。経験した身体がそう思ったのだろう。「川柳研究」第74号(1955年刊)収録。

2016年1月14日木曜日

●サーカス

サーカス

サーカス来てわが病む冬の天囃す  小川双々子

麦の芽にサーカスの楽とどきけり  加藤三七子

サーカスに売られてみたし秋の暮  皆吉司

サーカスをとりまく色の悪しき魚  宇多喜代子

海月朱し曲馬の天幕のどこかの色  加倉井秋を

サーカスの子等横浜の雲となる  攝津幸彦

サーカスを見ていた人の眉触る  清水かおり〔*〕


〔*〕『川柳カード』第10号(2015年11月25日)


2016年1月13日水曜日

●水曜日の一句〔豊里友行〕関悦史


関悦史









増税ばかりの鰐の目だけが浮く  豊里友行


俳句では使いにくい「増税」という言葉を受けるのは「鰐の目」。この「鰐の目」、庶民の立場からの憤懣をあらわしているようにも見えるが、必ずしもそこまで直線的な隠喩ではない。逆に「鰐」の方が権力悪をあらわしていて、「増税」というのはいわば水面に浮いている「目」の部分にしか相当せず、もっと獰猛で凶悪な本体が浮かび上がるのはこれからだと捉えているとも取れる。

あるいは、増税は社会保障のためと言いくるめられ、増税された途端にその目的であったはずの社会保障が削られる、そうした詐術を唯々諾々と見逃す大衆の知性の貧弱さと、それゆえに鬱積する不満が「鰐の目」に託されているのかもしれない。

そうした複数の読み筋が打消しあった後に残るのは、曖昧に多義化された、鬱然と静まりかえったなかの不穏さのみである。語り手が特定の立場から語ってはおらず、状況そのものに溶け込んでいるといえる。

静まった中の不穏さを示すのは「増税」「鰐の目」そのものよりも、むしろ「ばかりの」「だけが」による背後の量感の暗示だろう。増税は一回限りではないし、鰐の目の下にはむろん水に沈んだ本体がある。

視覚的イメージとしては「鰐の目」へのクローズアップが中心になっているが、そのまわりには濁った、今のところは静かな水面がある。意味性の強いこの句の詩的価値を支えているのは、じつのところ、この直接には言及されない水面のイメージなのではないか。


句集『地球の音符』(2015.12 沖縄書房)所収。

2016年1月12日火曜日

〔ためしがき〕 首を吊られた象 福田若之

〔ためしがき〕
首を吊られた象

福田若之


この象の名はメアリ、1916年9月13日にテネシー州のアーウィンで公開処刑された。

この写真を僕は痛ましいと思う。けれど、痛ましいと思うのは、単に象の命が奪われたということに対してではない(実際、象を電気ショックで殺す様子を撮影したエジソンの初期映画に対しては、僕はここまでの痛ましさを感じなかった)。

何が痛ましいのだろう。

メアリが人間の側の都合で殺されたことはこの写真からだけでも充分に明らかだ(そうでなければ象がこんなふうに死ぬことはないだろう)。それでも、もし象として命を終えたならば、その死はここまで醜くはなかっただろう。だが、メアリを殺した人間たちは、メアリを象としては殺さなかった。メアリは極めて人間的な(だが断じて人道的ではない)方法で殺されたのだ。死ぬにあたって、メアリは象であることを許されなかった。人間の都合で、人間的に殺されたのだ。写真の上では、象としてはあたりまえであるはずの体の諸々の特徴が、人間的なものとして映し出されることで、どうしようもなく不恰好なものに感じられる。そしてどうやら、僕はそのことを痛ましいと感じているようなのだった。

メアリについて書く人たちは、しばしば、メアリに人間的な自我があるかのように書く――いわば、メアリを人間的な存在として語ることでその「処刑」を糾弾するのだ。それらの記述の言外には、ある共通した考えがある――これがもし人間だったら、こんなことが許されるはずはない。

だけど、メアリは象だった。メアリには人間と同じ名が与えられているけれど、これもやはり人間の都合にすぎない。メアリの感情は人間のそれではなく、象のそれでしかなかっただろう。それによって動物の虐待を肯定するつもりはない。けれど、メアリが悲惨であるのは、もし人間がメアリのように扱われたとしたら悲惨だから、ではないだろう。メアリは、象として悲惨だったはずなのだ。

2015/12/27

2016年1月11日月曜日

●月曜日の一句〔日原正彦〕相子智恵



相子智恵






てんてまりつけばひだまりひろがりぬ  日原正彦

句集『てんてまり』(2015.12 ふたば工房)より

句から「唄」が聴こえてくるようである。それは全体を平仮名にして、内容よりも調べを強調したことと、「り」というなめらかな音や「ひ」という温かみのある音の繰り返しが効いていること。そして手毬という季語を〈てんてまり〉としたことで、「てんてんてんまり てん手まり」で始まる「鞠と殿さま」という曲も思い出すことによる。これは久保田万太郎の〈竹馬やいろはにほへとちりぢりに〉と同じような効果と言えるだろう。正月の子どもの遊びの句として、調べからも懐かしさを感じさせていて心地よい。

次に内容である。「手毬をつけば日溜りが広がる」という感覚があたたかい。子どもが丸い球を落としたところから水の波紋が広がるように、日溜りの輪が広がっていくような気がしたのだろう。実際に穏やかな天気の正月であることもわかる。

調べ・内容ともによく練られた、正月らしさのある一句である。

2016年1月10日日曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2016年1月9日土曜日

【みみず・ぶっくす 53】俳句とトポロジー 小津夜景

【みみず・ぶっくす 53】
俳句とトポロジー

小津夜景



 はじめて妖精のような人と出会った日、私はいきなり俳句の話をした。この人にはなにを話しても大丈夫だ、と出会った瞬間感じてしまったせいだと思う。
 あの日、私たちは昼前のひっそりした鰻屋へ入り、鰻重と肝焼きとビールを注文した。そして鰻重が運ばれてくるまでの間、肝焼きでビールを飲みながら、ガムランの青銅鼓のふたを外したみたいな大きな鉢に、まるで鯉、といった風体の金魚がぼんやり浮かんでいるのを眺めていた。
「朱くて、長くて、太くて」
 妖精のような人が口をひらいた。
「にんじんみたいな金魚ですね」
 なんという大胆な直喩。思わず私は妖精のような人の顔を正視した。その人はたいへんまじめな表情で鉢をのぞいている。きらきらと、ケレンミのない瞳が眼鏡の奥から金魚を見つめやまない。ううむ。ここはまっすぐに返答しよう。私はそう思ったものの、いったいこの場合における直球な返答とは如何なるものであろうか。それで考えなしのまま、
「そうだね。そういえば俳句に『人参を並べておけばわかるなり』っていうのがあるよ。鴇田智哉って人の句なんだけど。私、この句が好きなの。かわいいから」
とふだんどおりの調子で喋ってしまった。
 妖精のような人は目をぱちぱちさせた。どう反応すればよいかわからず困惑したらしい。かわいい、というのは私の口癖である。たまに見る、なんでもかわいいで片づける、かわいいしか感想を言わない女というのはこの私のことだ。
 すかさず私は微笑みでその場をごまかした。そしてどう言葉を継ぐべきか思案した。そのまま一、二分思案していると、ちょうど鰻重が運ばれてきた。お陰で私たちの会話はごく自然に、これまでの人生における鰻重体験へと流れていった。
 食べ終わり、残りのお茶で寛いでいたとき、妖精のような人がふと改まったようにこちらを向いた。そうして少し思い切ったようすで、
「さっきの俳句、もしかして社会派レアリスムですか?」
と言った。
 今度は私が目をぱちぱちさせる番だった。おののく私に気づいた妖精のような人は遠慮がちに、あの、私、その句を聞いたとき、むかしギュスターヴ・クールベが青黴チーズの絵を描いたせいで共産主義者のレッテルを貼られた話を思い出したんです、と自分の想像の出所を説明した。
 うーん。いままで耳にした中で、いちばん説得力のある感想かもしれない。つまりこの句には川柳の素質があったのだ。たしかにその線で眺めなおすと、わかるなり、の断定が身を切るようなマニフェストに思われてくる。
 ものというのは、並べ方によって見え方が変わる。
 もう少しきちんと言えば、現象を一から並べてみようとする態度こそが、新しい文脈をつくりだすのだ。
 俳句とはなにかを問う時、多くの俳人が業火に焼かれるかのように歴史を遡行しだす。だが自己規定が差異においてしかなし得ないものである以上、他ジャンルとの関係をトポロジカルに眺めることこそ本当は欠かせない。
 もしかすると、俳人が歴史を遡行するのは自分語りが大好きだからであってそれゆえ俳句の自己同一性を揺るがしてみる作業には興味が薄いのかもしれない。ただあの日の私は鰻屋を出たあとも、妖精のような人と肩をならべて歩きながら、太く長いにんじんをきゅっと胸に抱いて、並べてわかることはとても素敵だ、と思ったのであった。

かさこそと声の軽さや去年今年
初めての昔が鱶の歯ざはりに
初空は太きハモニカらしくあり
水がめに水つぎこぼす初音かな
初夢のままに生き抜く水のなか
老年のいつしか独楽の明るさに
うすずみを深読みしてや初鼓
嬉しきことを若菜野を見にゆかう
初風のすがやかに我がされるまま
七草や光りだしたらとぶつもり

2016年1月8日金曜日

●金曜日の川柳〔水瀬片貝〕樋口由紀子



樋口由紀子






一月一日ああそうかいと足の裏

水瀬片貝 (みなせ・かたがい) 1923~1993

一年のはじまりである。今年こそはと心身ともに引き締めまり、それなりの心構えになる。なのに、その思いを込めて、今日は一月一日であると全身に告げると、足の裏は「ああそうかい」と素っ気ない返事。昨日となんら変わりないのにとさも言いたそうである。

でも、そうかもしれない。出鼻をくじかれた感はあるが、それくらいに思っている方がちょうどいい。やけに張り切ったり、すぐに調子に乗ってしまう私をそんな心持ちで足の裏が支えてくれている。だから、大きな火傷も怪我もせずに無事にやってこれているのだ。

妙味を知る川柳である。〈評判はいかかでしたか僕の死後〉〈病床記まだ笑えるぞ笑えるぞ〉

2016年1月7日木曜日

●2015年・週俳のオススメ記事 :アーカイヴ案内

2015年・週俳のオススメ記事 :アーカイヴ案内

1月 読み書きの堆積……西原天気 ≫読む
2月 失われた身体を捜さない……青本柚紀 ≫読む
3月 アーカイブ力(りょく)……荻原裕幸 ≫読む
4月 リアル……福田若之 ≫読む
5月 もう一回読んでください……上田信治 ≫読む
6月 リロードしながら……田中惣一郎 ≫読む
7月 太宰治のいる風景……小池正博 ≫読む
8月 ねっとりと……黒岩徳将 ≫読む
9月 お尻ならなおさら……三木基史 ≫読む
10月 「書く」における「こと」性とそのほか……宮﨑莉々香 ≫読む
11月 燕の白……上田信治 ≫読む
12月 ねぼけたはなし。……小津夜景 ≫読む

転載元サイト:週刊俳句 第453号 2015年12月28日

2016年1月6日水曜日

●水曜日の一句〔前北かおる〕関悦史


関悦史









千人の交響曲や文化の日  前北かおる


「千人の交響曲」は、マーラーの交響曲第8番のこと。作曲者が「大宇宙が響き始める様子を想像してください」と語った大規模な声楽つき交響曲で、演奏には実際千人前後の人員が必要となる。

歌詞はラテン語の賛歌とゲーテの『ファウスト』第二部を元にしており、ロマン派後期の作品らしく、形式的には崩れていて、楽章別に切れておらず「第一部」「第二部」しかないが(交響曲は四つの楽章から成るのが基本形)、全体としては統一感があり、壮大な盛り上がりを見せるという曲である。だいぶ前だが、何かのCMで使われていたこともあった(アニメファンには『涼宮ハルヒの憂鬱』の最終話で使われた曲といった方がわかりが早いかもしれない)。

その「千人の交響曲」が文化の日に演奏されているのであろうこの句は、しかし曲の精神的な内容に踏み込んだり、語り手の没入ぶりをうかがわせたりといったことは全然ない詠みぶりである。淡々としたものであり、文化の日に演奏されている文化的プロダクツであるにもかかわらず、大自然の景物と同じ扱いだ。同じ句集にたとえば《枝の下に水平線や大桜》や《ほのぼのと日輪赤き黄沙かな》といった句があるのだが、そのなかの「大桜」や「日輪」と変わらないのである。

大自然の景物だけではなく、人工物を詠んだ句でも、《冬帝を讃へ発電風車群》《ナイターのゆつくり落つるホームラン》《ガスタンクつるりと光る薄暑かな》といったものを見ると扱われ方はほとんど同じであり、ここには芸術作品に限らず、大きいものはそれだけで目出度いといった肯定の感情があることが感じられる。曲の内容や演奏への感想など述べなくとも、あるだけでよいという姿勢が、ほぼ名詞を並べるだけの俳句の作り方と合致しているのだ。他の句に見られる「讃へ」「ゆつくり」「つるりと」といった修飾は、この句においては「千人の」という曲名自体に含み込まれてしまっているのだろう。

音楽芸術への没入と感動を何とか形にしようとする句もときに見かけないわけではないのだが、「文化の日」という、祝日でありながら日常生活の側に振りきれた大味な季語の付け方は、そうした苦心の数々をあっさりなぎはらってしまう。“伝統俳句”的な様式ならではの大づかみさであり、その向こうに富士山か何かのように「千人の交響曲」が朗々と鳴り響く。

だからといって句中に語り手の身が入っていないというわけでは必ずしもない。「文化の日」にふさわしくホールの客席で(あるいはオーディオ装置を使って自室でかもしれないが)この大曲の威容に接する語り手のよろこびもまた、あっけらかんと句中に収まっているのである。


句集『虹の島』(2015.12 角川書店)所収。



2016年1月5日火曜日

〔ためしがき〕 偽オイラーの等式 福田若之

〔ためしがき〕
偽オイラーの等式

福田若之


2015/12/26

2016年1月4日月曜日

●月曜日の一句〔益岡茱萸〕相子智恵



相子智恵






数の子を忘れた頃にぷちと噛む  益岡茱萸

句集『汽水』(2015.11 ふらんす堂)より

数の子は、おせち料理の定番である。ニシンの卵で、卵の数が多いことから「二親(にしん)から多くの子が出る」と子孫繁栄の願いを込めて食べられる。『角川俳句大歳時記』の解説には「多産すなわち一家の繁栄だと考えられていた頃にふさわしい季語である」と書かれているが、たしかに現代では多産が一家の繁栄だと考えることはほとんどない。時代や価値観、生活が変われば、おせち料理の食材に込められた願いが、人々の状況とずれてくるのも当然である。

同様に重詰の中身も現代人の好みに合わせて変化し、洋食メニューが入ることも当たり前になった。そんな現代にあっても数の子は重詰に欠かせないものであるが、箸が伸びる順番は〈忘れた頃に〉くらいになっているのかもしれないなあ、と掲句を読んで思った。

〈忘れた頃に〉と滑稽な語り出しで、数の子の存在を一旦落とした後に、〈ぷちと噛む〉の的確な食感の描写で、その存在を際立たせている。ただ食べ忘れてしまうのではなく、「そういえば、数の子を忘れちゃいけないよね」と食する。〈ぷちと噛む〉は確かにそのものを捉えて肯定する愛らしさがあり、それがめでたさにつながっている。




2016年1月3日日曜日

【新年回文俳句】苦楽極楽 鈴木牛後

【新年回文俳句】
苦楽極楽

鈴木牛後



伊予のそと良き幸先よ屠蘇の酔
護摩の灰元日塵芥場の馬子
去年の琥珀徒荷に近く匣の底
尿の股濡れしも知れぬ玉の年
妻とかの世迷い言恋い真夜の門松
贋札は野郎の虚や初山河
勝つ夫婦力み産みきりふう二日
楽待つは苦楽極楽初枕
双六飽きて異界的悪路越す
気取る絵に若菜柳川煮えるとき