〔ためしがき〕
表記について、思うこと少し
福田若之
このツイートが発端になって、すこし議論が起こっているようだ。
なんて話が出て来たり。
というような反応が返されたりしている。 で、
となれば、新仮名で句を書く僕としては、自分なりにこの問いかけに応答しておきたい、ということになる。
といった応酬もあったりするけれど、僕なりに。――というわけで、以下はその解答。
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僕は、現代仮名遣い、というか、僕のくつろげる表記で俳句を書きたい、と思うのです。
三橋敏雄は、『まぼろしの鱶』の後記に、「なお仮名遣いについては、或る時期、現代かなづかい、に従つた作を発表しているが、俳句表現上、不適であることを実感したので、本集ではすべて、歴史的仮名遣ひ、に改めた。「秋の暮」を「秋の暮れ」と書く事には、耐えられない」と書いています。仮名遣いについて考える時に、僕は、いつも、三橋敏雄のこの言葉を思うのです。三橋敏雄にとって、仮名遣いは、単に語の発音に表記をどう対応させるかの問題ではなかったということです。それは、「秋の暮」を「秋の暮れ」と書くこと、要するに、送り仮名の運用を含めてのことでした。
僕はいま「秋の暮」を「秋の暮れ」と書きます。「秋の暮れ」を「秋の暮」と書くと、なんとなく、それは僕の文字ではないという気がしてしまうのです。この送り仮名の有無がもたらす違和感は、僕にとっても、仮名遣いと切り離すことのできない問題です。
「現仮名はロジカルな表記ではない」、という言葉には、疑問を覚えます。 およそ通用しているあらゆるシステムには、それが通用するに足るだけの論理が備わっているものです。もちろん、旧仮名を成立させている論理を現仮名を成立させている論理よりも好む人のあることは、よく分かります。でも、それをもって、旧仮名のシステムは論理的で、現仮名のシステムは論理的ではないというのは、すこし違うのではないかと思います。
あくまでも推察ですが、「現仮名はロジカルな表記ではない」というのは、おそらく、音声との対応を第一の目的としているにもかかわらず、それが徹底されていないということを指しているのだと思います。たとえば、助詞の「は」や「を」や「へ」が「わ」や「お」や「え」になっていないことや、あるいは、オ列長音の表記に説明のつかないことなどを指して、「ロジカルな表記ではない」といったのではないかと。
けれど、歴史的仮名遣いには、正当な表記さえ不確かな語が存在しています。たとえば、昆虫の「あめんぼう」。 これは、「あめんぼう」と「あめんばう」のどちらが正しいのか、いまのところ定説がありません。新仮名にはなぜそう表記するのか説明がつかない場合がたしかにありますが、他方、旧仮名にはどう表記するのがよいかわからない場合があるということです。
それに、現状正しいとされている歴史的仮名遣いだって、ほんとうに正当といえるのかどうか、分かりません。たとえば、広葉樹の「いちょう」は、江戸期はもちろん、昭和のはじめごろまでは「いてふ」と書いていました。これは、語源をたどると「一葉」ないしは「寝蝶」に行きつくと信じられていたからです。それが、昭和に入ってから、実は中国語「鴨脚」が語源だったという説が出てきて、いまでは「いちやう」と表記するのが正しいということになっています。
僕は、こうした変遷を思うとき、現在の歴史的仮名遣いで、自分ひとりの名において何かを書くことを、あくまでも個人的なこととして、心許ないと感じます。新仮名には新仮名で徹底されていない点があるのはもちろんですけれど、そもそも文字が音声を完全に一対一対応で表記することなんてことは幻想としてしかありえません。それならば、いくつかの例外があるとしても、そうした例外がしっかり定まっている表記の方が、僕は、自分の身を落ち着けやすいと感じます。要するに、くつろげるということです。
いま、「あくまでも個人的なこととして」、と書きました。僕は他のひとの表現にまでこうした思いを押し付けるつもりはありません。私見を述べるまでのことです。
ですから、「現仮名を使ってわざわざ俳句みたいな古いことやる意味がわからない」という意見については、率直に、現仮名で俳句をやることに意味を見いだせず、旧仮名で俳句をやることに意味を見出しているひとが旧仮名で俳句をやるのは、実にまっとうなことだと思います。
見た目の豊かさについては、僕は、どちらの仮名遣いにも豊かさはあって、結局は、どちらの豊かさにより惹かれるかということだと思います。「ゐる」と「いる」だけを比べると、「ゐる」のほうがより豊かだと感じる人のほうが多いのかもしれません。でも、これが「ゐない」と「いない」だったら、「いない」の対称性には、これはこれで別の豊かさがありませんか。「いないいないばあ」ともなれば、二つの「な」が四つの「い」にまぎれてちらつくあたり、いかにも「いないいないばあ」って感じがします。
せっかくなので、これとはすこし違う話も書いておきます。仮名の新旧と文語口語は別のことだとみんな言うし、理屈の上では確かにそのとおりです。けれど、たとえば、「あはれ」と書くのと「あわれ」と書くのとでは、どうしても言葉の印象が変わってきます。それは、他の言葉との結びつきによって、決定的な違いとなってあらわれることさえあります。「あはれ宿無し」と書くのと「あわれ宿無し」と書くのとでは、作中主体が「宿無し」なのか別の誰かが「宿無し」なのか、現代では、きっと、表記につられて読みが違ってくるでしょう。「あはれ」と「あわれ」ほど極端な例ではなくても、たとえば、「さやうなら」と書くのでは伝わらない「さようなら」や、「ゐる」と書くのでは伝わらない「いる」はあると思うのです。もちろん、逆もある。
要するに、新仮名でしか書けないもの、伝わらないものというのは、旧仮名でしか書けないもの、伝わられないものと同じくらい、あるはずだということです。
仮名遣いは、僕にとっては、不易流行ということとどう向き合っていくのかにも関わっています。僕は、移り変わるものとしての言葉に、移り変わるものとしてこの身をゆだねたい。そんなふうにして、言葉において、言葉とともに、言葉を旅し、すなわち、言葉において、言葉とともに、言葉を栖としたい。そのために、僕は、いま、僕自身の生きてくつろげる表記で書きたい。僕は、俳句を書くのでなければ、仮名遣いのことも、不易流行ということも、こんなふうには考えなかったと思います。だから、これは、俳句
も新仮名で書きたい、といったことではありません。僕は、俳句
をこそ新仮名で書きたいと思うのです。繰り返しになりますが、こうしたことは、いずれも、僕ひとりの極私的な欲求にすぎません。
余談ですが、僕には、新仮名で俳句を書いていきたいという欲求がある一方で、いつか、もし文語でなにかを書いて本を作るようなことがあるとしたら、そのときには、できるかぎり講談社版の『子規全集』の用字・仮名遣い・字形に合わせたいという極めてフェティッシュな欲求も持ち合わせています。ここで講談社版の『子規全集』を挙げたのは、別に版元が講談社であることや子規の全集であることに特別な意味があるわけではなく、あくまでも身近な具体例のひとつとしてです。同様の用字・仮名遣い・字形を用いた書物は他にもたくさんあります。
それでは、なぜ『子規全集』などで用いられている用字・仮名遣い・字形なのか、といえば、これは、僕にとって、こうした表記で書かれた文語が手書き・手彫り(もしくは手書き・手彫りのものをもとに復刻した版)の次に生き生きして見えるからです。たとえば「証拠」が「證據」と表記されていたりするのもそうですが、それだけじゃなくて、「
直󠄁󠄁󠄁󠄁」の左下の角のまるみとか、そもそも「
全󠄁集」の「
全󠄁」の字からして、てっぺんから左に細い線が伸びているところとか、とてもそそられます(最近だと、Wordに標準搭載のフォントでも、游明朝と異体字セレクターを駆使すればこんな風にある程度までは再現できるようになっています。完璧にとはいきませんが)。
2016/12/28