2022年5月30日月曜日

●月曜日の一句〔相子智恵〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




緑蔭や団地の壁の数字の5  相子智恵

句集『呼応』(2021年12月/左右社)所収

団地の側壁に設えられた数字には、印刷物ではあまり見ない書体が使われていたりするので、油断がならない。つまり注目すべき。というか、注視しちゃう。

団地/建造物は長く使うし、壁は風雨に晒される箇所なので、塗装だと、数字が剝がれたりかすれたりしてしまうのだろう、金属板などで拵えた数字が取り付けられることが多いようだ。壁から少し浮いた感じになるのも「団地棟の数字」愛を育む要素だ。数字の影がかすかに壁に落ちるのが見える角度だったり、あるいは数字板の全体にサビが出たりしていれば、観察者(=私)の愛は絶頂に達する。

すこし落ち着こう。掲句。なぜ「1」でも「6」でもなく「5」なのか。それにははっきりとした理由がある。「5」は、直線の縦と横、曲線、一画の終点と、他の数字よりも多くの要素を含むので、書体を愛でるのに適している。

初夏、ひろびろとした敷地の棟と棟のあいだには木々が植わり、のびのびと大きく成長し、緑が盛大に茂る。その下から、枝越しに、薫風越しに見上げた団地棟の壁面に「5」。私のように変態的愛情をもってそれを眺める人は多くないかもしれないが、それだからといって、この句の感興が薄れるわけではない。うっすら暑い午後のひとときの、なんでもない景色が、網膜に、脳に、記憶に定着する。これはもうじゅうぶんにラヴ&ピース!な俳句的悦楽と言ってさしつかえない。

2022年5月28日土曜日

〔俳誌拝読〕『九重』第2号

〔俳誌拝読〕
『九重』第2号(2022年5月26日)


B6判変型・本文32頁。佐藤りえ発行の個人誌。毎号ゲストを迎えるスタイル。この号のゲストは岡田幸生、近恵。ゲスト両氏と佐藤りえの作品と短文で構成。

白いレンゲのワンタンのしあわせ  岡田幸生

春の日の遠くでトロンボーン  同

豆雛の真昼ミサイルの着弾  近恵

さくらから大きな雨の落ちてくる  同

このみずはながれてゆくよどこまでもできるだけできるだけおろかなほうへ  佐藤りえ

たんこぶがこたんのいろをみせてゐる  同

(西原天気・記)



2022年5月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋散二〕樋口由紀子



樋口由紀子






十円のちがい金魚の尾がきれい

高橋散二 (たかはし・さんじ) 1909~1971

毎朝、スムージーを飲む。最初は安価なバナナで作っていたが、友人の一言で少し高いバナナに変えた。出来上がったスムージーの味はまったく違う。バナナの値段は正直だった。お金のことを持ち出すと品がないと言われるが、値段は購買の判断基準の大きな決め手である。

すべてに当てはまるとはかぎらないが、金魚もそうであるらしい。可愛いく美しいが、その中でもひときわ尾のきれいな金魚の値段は他の金魚より十円高い。「なるほど」と思ったのだろう。金魚売りはだてに値をつけていなかった。この句が書かれた時代は十円の価値はもっと違っていたはずである。「十円」が絶妙で、金魚の尾のきれいさを想像する。金魚は買ってもらえるように尾をよりひらひらさせ泳ぐのだろう。『花道』(1973年刊)所収。

2022年5月26日木曜日

〔俳誌拝読〕『トイ』第7号

〔俳誌拝読〕
『トイ』第7号(2022年5月15日)


A5判・本文16頁。編集発行人:干場達矢。同人4氏がそれぞれ俳句作品・川柳作品12句と短文を寄稿。

情熱は縦に三つと横三つ  樋口由紀子

夜は朝に死ねば補ふ熱帯魚  干場達矢

玻璃越しの刻一刻やぼたん雪  青木空知

暦の裏はなんでも書けて春の雪  池田澄子

(西原天気・記)



2022年5月25日水曜日

西鶴ざんまい #27 浅沼璞


西鶴ざんまい #27
 
浅沼璞
 

夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  前句(裏五句目)
 宮古の絵馬きのふ見残す   付句(裏六句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
付句は雑。なので前句の夏月は「一句捨て」となります。夏・冬の句数は1~3なので「一句捨て」も許されますが、月の座を包んでの「一句捨て」はいささか大胆かと。
 
 
 
では付句の語句をみましょう。まずは「宮古」――中公版『定本西鶴全集12』の頭注には、「連俳にては京都の場合に限り『宮古』と記す(俳諧無言抄)」とあります。
 
絵馬の読みは「ゑむま」です。

句意は「京の都の寺社の絵馬を、きのう見物し残した」というところでしょう。
 
 
 
以下、自註を抜粋します。

「見わたせば、祇園に、平忠盛にとらへられし火ともしの大男おそろし。清水に、福禄寿のあたまに階子(はしご)をかけ月代(さかやき)を剃る所もをかし。……鬼の琴ひくもありぬべし」

意訳すると「京の道化絵馬を見渡せば、祇園では平忠盛に捕えられた火を灯す大男が怖ろしい。清水寺では福禄寿の頭に梯子をかけ、額髪を剃るのもおかしい。……都のどこかに鬼が琴を弾く絵馬もあるに違いない」といった感じです。

要は前句の「琴引く鬼」を、絵馬の道化絵として見立て替えているわけです。
 
 
 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。
 
  まこと宮古の絵馬のごとし 〔第1形態〕
    ↓
  宮古の絵馬きのふ見残す  〔最終形態〕

〔第1形態〕はたんなる前句の見立てですが、〔最終形態〕は前句の季(夏)を受け、日永でも見尽くせない京の寺社見物を思わせます。

しかも写実的には「琴引く鬼」の道化絵が夏月に照らされて浮かびあがる、といった設定でしょう。

「……そやったか」

はい、それに第三「役者笠秋の夕に見つくして」と別趣向になってますね。

難波では見尽くし、都では見残す、いいですね。

「……そやったか」

あー、もう忘れましたか。けど連句は〈忘却を逆エネルギーとしてすすめられていく〉って名言があります。先師・廣末保先生が『芭蕉と西鶴』(1963年)で述べられています。

「……忘れたいこと仰山あったからな、わては」

……確かに。
 

2022年5月23日月曜日

●月曜日の一句〔松野苑子〕相子智恵



相子智恵







天道虫とまり背中の広くなる  松野苑子

句集『遠き舟』(2022.04 角川文化振興財団)所収

背中や肩、頭などに虫がとまることは、わりと多くの人が経験していることだろう(私が山育ちだからそう思うだけなのだろうか……実はそんなに多くないのかもしれない)。

前を行く人の背中に天道虫がとまった。天道虫がとまったことによって背中が広くなったという把握には一瞬驚き、その後なるほど、と思う。天道虫のあの小ささ、丸っこさ、色と模様の美しさ、ちびちびと歩く姿。その一点を見つめた後に、もう一度背中全体に目を向ければ、確かに天道虫にとって人の背中は丘のように広い。そして、天道虫の視点になることにより、後ろから見つめる人間にとってもまた、人の背中は広いという新たな捉え直しが起きるのである。

〈背中の広くなる〉のパーッと開けていくさまが楽しくて、これは可愛らしい天道虫ならではの味わいだな、と思う。実際には天道虫を払う時には注意しないと臭い黄色い汁を出すし、厄介な虫なのだけれど。

2022年5月20日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地俊太郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






もろこしの粒を数えて頓死する

菊地俊太郎 (きくち・しゅんたろう) 1934~1997

びっしり詰まったとうもろこしの粒を数えていたら、あるいは数え終わったら、頓死するのか。「頓死」という語は決定的な重みを与える。せつなくて哀しい。将棋で使われる言葉らしいが、ここではにわかに死ぬことだろう。

それが自分の生のすがたでもあると認識しているのか。どんな運命も受け入れるということなのか。そのようなに自分自身を感受し、死と向き合っている。そんなことがあるともないともしれないものの間に今生きている。あの小さな黄色の粒々には風変わりな情緒がある。自らの死生観をもろこしの粒で視覚的に語っている。『近・現代川柳アンソロジー』(2021年刊)所収。

2022年5月16日月曜日

●月曜日の一句〔大島雄作〕相子智恵



相子智恵







ネガフィルム透かしては捨て緑の夜  大島雄作

句集『明日』(2022.04 本阿弥書店)所収

写真のネガの整理をしている。〈ネガフィルム〉の懐かしさと〈透かしては捨て〉の繰り返しに、一句は生前整理の様相を帯びている。今ではネガフィルム自体を見たことがない若い人も多いだろう。

季語は〈緑の夜〉で、初夏の若葉が美しい夜。だが、ネガフィルムは室内の電気に照らして透かし見ているのだろうから、緑の夜は窓の外にある。窓からは暗さの中に浮かび上がる緑も見えるのだろうが、窓に反射して室内も同時に見えているだろう。その二重写しの加減が〈ネガフィルム〉というものとどこか響き合っていて、不思議な立体感が生まれている。

2022年5月13日金曜日

●金曜日の川柳〔暮田真名〕樋口由紀子



樋口由紀子






寿司なんだ君には琴に聴こえても

暮田真名 (くれだ・まな) 1997~

「寿司」と「琴」をまったくの別物で、見紛うことはない。まして、寿司は味わうものであって、聴くものではない。そんなことはみんな知っている。しかし、誰も思わないことをヒョイとリズムに乗せて運ぶ。切れはないが意味は切れているのか、意味を書いて無意味に仕立てているのか。ここには起承転結も因果関係もない。

〈寿司ひとつ握らずなにが銅鐸だ〉〈寿司を縫う人は帰ってくれないか〉〈良い寿司は関節がよく曲がるんだ〉〈「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」〉〈もし寿司と虹の彼方へ行けたなら〉。見たことも聞いたこともない寿司たちである。寿司を十七字のアレンジと演出でまったく別のふうに見せる。全く違う感性で、全く違う切り口で、言葉が躊躇なく動き、調子にのる。ルール違反しなければ出てこない世界である。『ふりょの星』(2022年刊 左右社)所収。

2022年5月11日水曜日

西鶴ざんまい #26 浅沼璞


西鶴ざんまい #26
 
浅沼璞
 

胞衣桶の首尾は霞に顕れて   裏三句目(打越)
 奥様国を夢の手まくら    裏四句目(前句)
夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  裏五句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
この三句の渡り、
打越=恋句
前句=恋句
付句=恋離れ
といった典型的な三句放れ。
 
 
 
まずは奥様の夢の対象に焦点を合わせると分かりやすいでしょう。

打越/前句では浮気がちな殿様の夢であったものが、前句/付句では琴ひく鬼の夢に転じられています。
 
二条良基の『連理秘抄』(1349年)では「常に用ゐざる所の鬼風情の物」を「異物」と規定しています。よってここは恋から異物への転じといえます。
 
 
 
他方「眼差し」の観点からみるとどうでしょう。

旦那思いの奥様のソノ夢物語を描く作家の「眼差し」から、ホラー好きな奥様のソノ夢物語を描く作家の「眼差し」へと転じられているってことになります。
 
 
 
ところで若殿(若之氏)からのメール、今回は月をめぐる次のようなものでした。

〈月と生類は脇ですでに合わせているので、ここは、虎か鬼かなら、やはり鬼のほうが良いのでしょうね。ただ、そもそもどうしてここまで月を引きあげたのでしょう。表で月を引きあげなければならなかったので、全体のバランスで、裏でも月を大きく引きあげたということでしょうか〉
 
そうですね。秋の発句に応え、七句目の月を脇句まで五句引き上げていますから、ウラ十句目の月も五句引き上げているのかもしれません。
 
このあとの月の座を見渡すと、二の折では定座を守っていますが、三の折・名残の折では二句乃至四句引きあげています。

「そら独吟やからな、連衆が譲りあうて月の座をこぼすことはないやろ」

言われてみればそうですが、二句や三句ならともかく、四句も五句も引き上げるのはせっかちな気もしますが。

「何いうてんねん。昔から月は定座いうより出所(でどころ)いうてな、同じ面【注】なら何ぼこぼしても引き上げてもえーねん。花はこぼせへんけどな」

なるほど。そういえば百韻の略式である歌仙の話ですが、初裏の月、もとは八句目あたりだったのを各務支考が七句目に定め、やがて一般化したって話、聞いたことがあります。

「それ、我の死んだ後のことやろ」
 
あっ、たしかに。失礼をば致しました。
 
 
 
【注】オモテ/ウラなどの各面のこと。
 

2022年5月9日月曜日

●月曜日の一句〔京極杞陽〕相子智恵



相子智恵







蛍火のかうもりがさをぬけいでし  京極杞陽[1908-1981]

山田佳乃著『京極杞陽の百句』(2022.04 ふらんす堂)所収

鑑賞本『京極杞陽の百句』より引いた。掲句は1975年の作で、元は杞陽の遺句集『さめぬなり』(1982刊)に収録されている。

山田氏の鑑賞には、〈和田山えぼし句会の六月は「蛍を見る句会」であった。この頃すでに蛍が少なくなっていたようで毎夜探してようやく養父の米地谷に決定したという〉と、句作の背景が記されている。

雨の蛍狩りだったのだろう。傘の中に蛍がすうっと入り、そのまま抜け出ていった。入ってきた瞬間の驚きではなく、抜け出ていった別れの儚さの方を描いている。蛍火以外はすべて平仮名なのが印象的だ。漢字の蛍火にまずはギュッと視点を集中させておいて、〈かうもりがさをぬけいでし〉のゆるやかな平仮名の流れにのって、蛍火がゆっくりと遠ざかっていく。言葉の意味からだけではなく、表記からも動きが見えてくるような、杞陽らしいゆったりとした一句である。

2022年5月8日日曜日

●週俳はいつも記事募集

週俳はいつも記事募集


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2022年5月6日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋由美〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




雨の音 確かなレとか君のファとか  高橋由美

「レ」の音は、周波数にして36.708Hzとほぼその倍数。この句の言う〈確かなレ〉が物理的に〈確か〉なものを指すのかどうかは置いておいて、さしあたり、平均律というルール・法則における「レ」はそう。

「ファ」は、上記を基準にすれば、43.654Hzとほぼその倍数。でも、〈君のファ〉が、そうかどうかはわからない。というか、問題ではない。

周波数・ピッチに限定する必要はない。響きとか、音色とか、あるいはちょっと縒れちゃってるかもしれない。けれども、〈君のファ〉は君のもので、きちんと鳴っている「レ」とそうじゃないかもれない〈君のファ〉は、この世に同居する、共生する。

雨の音は、規則正しいようでいて、そうではないリズムも混じる。雨に限らず、この世は、規範と逸脱、整合と不整合、秩序と混沌、規律と自由の両方があって、美しい。

きっと〈確か〉ではない〈君のファ〉も、そんな美しさの一部をかたちづくっている。

なお、私の/自分のファではなく「君」というところ、句が外に向かってひらいていて、気持ちがいい。

さらに追記するに、下の6音(3音+3音)が余韻/残響。この箇所も気持ちがいい。

掲句は『川柳木馬』第172号(2022年4月)所収。

2022年5月2日月曜日

●月曜日の一句〔江藤文子〕相子智恵



相子智恵







まつすぐに春田の見えて梳る  江藤文子

句集『しづかなる森』(2022.03 コールサック社)所収

中七まで読み進めて外の風景なのかと思いきや、〈梳る〉によって室内で髪を梳かす様子に転じる。この予定調和の外し方が快い。きっといつも髪を梳かす時に何気なく見ている窓辺の風景なのだ。

外の風景がしっかり見えることから、夜の入浴後に髪を整えているのではなく、朝の身支度だということが想像される。田は鋤き返されているのか、それとも蓮華草の花の盛りだろうか。いずれにせよ気分は明るい。

部屋から見える田の位置が〈まつすぐに〉なのは、春夏秋冬いつでも変わらないはずなのだが、秋の実りに向けてスタートを切る〈春田〉が選ばれることによって〈まつすぐに〉に清々しい気分が加わっている。