2021年4月14日水曜日

●西鶴ざんまい #6 浅沼璞


西鶴ざんまい #6

浅沼璞
 
 
日本道に山路つもれば千代の菊     西鶴(打越)
 鸚鵡も月に馴れて人まね        仝(前句)
役者笠秋の夕べに見つくして       仝(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

ここまでふれなかったことですが、自註の冒頭には「俳諧、当流といへるは……三句目のはなれを第一に吟味をいたせし」と記されています。
 
「当流」つまり元禄正風体は、疎句といえども、というか疎句だからこそ三句目のはなれ(三句の転じ)を第一に吟味するというのです。
 
当たり前のことですが、この当たり前がむつかしい。
 
「せやから開口一番、そう言うてんねん」

そないな西鶴はんの心意気をくみ、ここまで見てきた打越(発句)・前句(脇)・付句(第三)の最終形態をベースに、「三句目のはなれ」を吟味してみましょう。
 
(「飛ばし形態」のプロセスは文字どおり飛ばします。前回のべたように「飛ばし形態」は自註と最終形態とのギャップを埋めるための仮定の過程。あくまでウラハイ限定公開の“過程”です。 “結果”つまり最終形態のテキストがすべてなのは他の文芸一般に同じと考えます【注】)

 
前句の最終形態は鸚鵡の「日本語トレーニング」という文脈を背景としていました。ですから山路の「日本式計算方法」という文脈を持った打越(発句)への対付として読むことができました。
 
この段階での鸚鵡は日本語(=月)に馴れて口真似するたんなる鸚鵡で、それ以上でもそれ以下でもありません。
 
その無限定な前句の鸚鵡を、見世物小屋の出し物と見立て、芝居町へと転じたのが付句の最終形態でした。逆からいえば、第三の最終形態が付いたとたん、脇の鸚鵡は見世物小屋のそれへと特定されたわけです。
 
このように前句(脇)の鸚鵡を変貌させることによって付句(第三)は「三句目のはなれ」を可能としたわけです。「連句は第三から」といわれるごとく、「転じ」のトップバッターを「見尽しさん」が務めてくれたというわけです。

 
ちなみに付句(第三)の自註では芝居町を「難波堀江」つまり大坂・道頓堀とし、絵巻の絵解きはもちろん、当時の人気役者の評判記的な俳文まで長々と連ねています。
 
連句では表(おもて)のタブーがあって地名や人名の固有名詞が使えませんが、自註にはシバリがないので、おのずと地元志向が爆発したのでしょう。
 
まさに浪速の売れっこ作家の、面目躍如たるノリノリの俳文です。

その自註絵巻の当該部分に関しては下記のリンクを参照してください(説明文中の「蕉風」は「正風」の誤りかと)。

https://www.tcl.gr.jp/wp-content/uploads/meihin044.pdf


次回は四句目(よくめ)へとすすみます。

 
【注】
“結果”がすべてなのになぜ“過程”の穿鑿をするのかといえば、自註と最終テキストとのあいだに潜在する「視点」のようなものを解き明かしたいからにほかなりません。ちかごろ鴇田智哉氏が、俳句にその都度たち現れる眼差しのようなものを「主体感」と規定していますが、それに類したものではないかと考え中です。
 
また、さらに注記すれば、すばやく連句を付けながす呼吸を「拍子」といいますが、その「拍子」にのせて最終形態を提示するためには、飛ばし形態をそれ相応のスピードでこなす必要があったと思われます。そしてそれは独吟だからこそ可能だったはずで、かつて鍛えた矢数俳諧の速吟が、飛ばし形態に活かされたであろうことは容易に想像がつきます。「昔取った杵柄」やのうて「昔巻いた独吟」やねん、とうそぶく老俳諧師のドヤ顔が浮かんでくるようです。談林を制するに談林をもってする鶴翁の、したたかな成長戦略、とでもいえばいいでしょうか。

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