宅配ピザのある暮らし
さいばら天気宅配ピザが日本で始まったのは1985年。米国ドミノ・ピザが東京・恵比寿に開店したのが皮切り。その3年前に封切られた映画『E.T.』の冒頭近くには、子どもたちが宅配ピザをとるシーンがある。このときはまだ、アメリカにはあっても日本にはないサービスだった
(*1)。
そういえば、80年代後半、たしかに宅配ピザを、なにかウキウキした気分で利用した覚えがある。意外に新しい風物なのだ。
受話器冷たしピザの生地うすくせよ 榮 猿丸
週刊俳句第86号「何処まで行く」10句より。
宅配ピザを詠んだ句は少ない。すこし調べると、「ピザ運ぶ車追ひ抜くつばくらめ」(下間ノリ)、「玄関でピザ屋を待っている湯冷め」(石原ユキオ・
週刊俳句第27号「不合格通知」)などがあるものの、ともに、ピザを例えば蕎麦に置き換えても、ある意味、差し支えないともいえる
(*2)。掲句は、宅配ピザを、それでなければ成立しないかたちで詠んだ点、それのみを以てしても、価値は高いが、そればかりでなく、私には妙に心に引っかかる句、言い方を換えると魅力的な句なのだ。
この句、七五五という俳句定型。「せよ」の語尾は、やや変則だろうか。「ピザの生地うすくせよ」とのセリフの(直接話法的)引用は、この句を印象深くしている。そして冒頭から言っているように宅配ピザという句材は稀有。だが、それらいくつかの要素に増して、私が注目したのは「冷たし」という部分だ。
といっても、「冷たし」という季語がこの一句のなかでうまく機能しているというのではない。むしろ、取って付けたかのようであり、受話器に季節を備えさせようとすれば、温度に関する季語、あるいは汗(これにしても温度のヴァリエーション)がまず思いつくことからすれば、苦し紛れのようにも見える。
「冷たし」の語は、つまり、この句がかろうじて俳句の縁に手をかけて、俳句にとどまろうとする、その「よすが」のように、私には思える。
宅配ピザという俳句との親和性が高いとは思えない素材を俳句にするとき、もっと乱暴で奔放な手もある。風俗としての新しさを強調するやり方もあるはず。だが、この作者は、あくまで「俳句」という陣地にこだわる。意地でも、俳句の埒内に収めようとする。
この句のベクトルは、俳句に向いている。「宅配ピザ」という、普通に考えれば俳句の「外」にあったものから、俳句へと手を伸ばしている。ぎりぎりかろうじて俳句の縁に手をかけたと表現したのは、そのことだ。
多くの句が、俳句の内部(従来的な書記法・文体)から、その外にある素材(例えば、宅配ピザという新しい風物)へと手を伸ばすのとは、ベクトルが逆なのだ。この2つのことは同じようでいて、おそらくまるっきり違う。
乱暴な二分法をあえて使えば…
Ⅰ 内(俳句的枠組)から外(eg新しい素材)への拡張
Ⅱ 外(俳句の埒外)から内(俳句そのもの)への漸近…掲句(受話器冷たし~)
では、もうすこし具体的に。「俳句の埒外」とは何か。いちおう素材(宅配ピザ)ではあるが、それだけではない。ここは微妙なところだが、「気分」とでも言おうか。
榮猿丸の俳句を読んで読者がたじろぐとしたら、それは素材の新しさのせいではない。浅さでもない
(*3)。「気分」の(思い切って言ってしまえば)現代性なのだ。
掲句「受話器冷たしピザの生地うすくせよ」の榮猿丸は、1985年以降、暮らしに定着した「宅配ピザ」という風物にまつわる「気分」のなかにいる。そこから、俳句という領野へと手を伸ばす。俳句の内部から素材(句の対象)としてだけの「宅配ピザ」へと手を伸ばしている(Ⅰ)のではない。
新しい風物を詠む俳句の多くは、素材としてのみの新しさに目を奪われ、伝統的手法・伝統的叙情をもって、新奇を取り込もむだけに終わる。言い換えれば、擦り切れた文体によって、擦り切れた叙情の中に取り込もうとする。さらに言い換えれば、使い古された手法と叙情の表出法をもってして、新しげな素材を詠む
(*4)。それとはまったく無縁に遠く、「受話器冷たし~」という句、そして榮猿丸の句の多くは、素材ではなく気分に立脚し、そこから俳句へとにじり寄っていく。
世紀をまたいで近過去から現在へと到る時間(それはまさしく私たちが暮らしている世界)に固有の気分(それがどんなものかはあえて保留するが)は、従来的な俳句の内部に存したものではあるまい。また、俳句よりも先に、「その気分」が私たちの中にある。
「いまここ」にある固有の気分から出発し、俳句へと到達しようとする。その点においてこそ、榮猿丸の俳句は魅力的なのだ。
(*1)現在の日本最大手ピザーラの開業は1987年。創業者は『E.T.』の上記冒頭シーンを観て、宅配ピザ店の開業を思い立ったという。
(*2)ピザを詠んだ句には、佳句「ころころとピザ切る赤穂浪士の日」(斎藤朝比古)があるが、宅配ではない。お店で食べるピザ。
(*3)猿丸俳句と「浅さ」については、週刊俳句第86号・上田信治
「深いとか浅いとか……いや言い出したのは自分だ、すまん」および当記事で紹介された高柳克弘「ドットの詩」(『現代詩手帖』2008年12月号所収)を参照。
(*4)新しい風物・新しい素材を俳句的伝統に凭れかかったままに取り込む、擦り切れた手法については、高柳克弘「ドットの詩」(上記)の次の部分にも関連する。
(黛まどか「旅終へてよりB面の夏休み」を引いて)黛の浅薄さとは、いってみれば従来の俳句の発想法や文体に依拠することで得られたものであり、動く歩道に乗ってすすんで行くような「楽さ」に近い。
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