2009年1月31日土曜日

●おんつぼ14 弘田三枝子 中嶋憲武

おんつぼ14
弘田三枝子 Hirota Mieko


中嶋憲武




おんつぼ=音楽のツボ



つい、この人へ戻ってきてしまう。

あれこれと音楽聴いてますが、原点はこの人だったのかと。

弘田三枝子。

最近の彼女は、ブルーにこんがらがってよく分かりませんが、聴くたびにうまいなあと唸ってしまいます。唸らされる歌手なんて、そうそういるものではありません。

先日も、池袋のHMVふらふらしてたら、このアルバムが目に止まり即買い。

このアルバムこそ、ぼくが弘田三枝子に開眼したアルバムなのです。1964年当時、4歳だったぼくが、従姉の家へ遊びに行くと必ずこのアルバムがかかっていて、多分影響されてしまったのでしょうね。ジャケット写真のポーズを模写しながら、アルバムを聴く日々。特に好きだったのは1曲めの「悲しきハート」と10曲めの「月影のレナート」、12曲めの「寝不足なの」。このアルバムは1963年11月発売ですから、当時高校生だった従姉が買って、ヘビロテの真っ最中のころだったのでしょう。

多分その頃だったと思いますが、新宿厚生年金ホールだかどこだかへ、コンサートに連れて行ってもらった記憶があります。ステージの弘田三枝子、ミコちゃんは、左腕を怪我していて、繃帯で吊っていた痛々しい姿。どんなコンサートだったのかは、まったく忘れてしまいましたが、その繃帯姿だけは妙に目にこびり付いていて、今でも鮮やかに浮かんできます。今でも繃帯姿の女の子を見かけると、なんだか懐かしいような、甘酸っぱい気分になります。


パンチ度 ★★★★★
ポップ度 ★★★★

2009年1月30日金曜日

●最近の受賞句

最近の受賞句


群馬県藤岡市・桜山まつり俳句大会・長谷川零余子賞
冬ざくら見に分身の杖みがく  神久武雄さん

マラソン大分弁俳句・最優秀賞
マラソンにつられち麦踏み速くなる 豊後大野市・佐藤広さん

徳島市・子ども俳句会作品展・県知事賞
あつあつの焼きいも指がドミソミド  城東小六年の中村藍里さん

コニカミノルタ エコ俳句大賞2008
一部屋に集まり笑えば“笑”エネさ  岩手県・シホさん

にいがた文芸・08年年間大賞
だんまりも夫婦の会話春炬燵  長岡市 棚橋嶺風さん

龍谷大青春俳句大賞・中学生部門最優秀賞
プールから出てきた耳が尖ってる  岩手県・安代中学校一年・岡崎祥さん

同・高校生部門最優秀賞
鳥雲に入り黒板の消し忘れ  茨城県・下館一高3年・上形智香さん

同・短大・大学生部門最優秀賞
名月の射し込んでいる楽譜かな  愛媛県・愛媛大学・野間菜津子さん


(新聞各紙より)

2009年1月29日木曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔2〕(下)近恵

毛皮夫人プロファイリング〔2〕
43歳、外大卒、夫は大手製薬会社勤務 (下)

近 恵

承前

大学入学とともに上京した彼女は、フランス語を専攻し、いよいよフランス映画が好きになる。映画同好会のサークル活動で知り合った後に結婚することとなる早稲田の二歳年上の男性は、遊び仲間の一人であった。

当時はバブル真っ只中。田舎の慣習から逃れ開放的となった彼女は、バイトで稼いだ小遣いを持って六本木のディスコで朝まで踊ったりする普通の女子大生であった。離婚した父が白系ロシア人であったため、彼女は日本人離れをしたような容貌。スタイルも良かったため、流行の雑誌の読者モデルなどをしたりもする。

いくつかの映画のような恋をするが、それはどこか嘘めいていて、いつも孤独な気持ちになり破局する。理想は理想のまま現実を受け入れざるを得ないという忸怩たる思いで過ごす日々。いつしかそれも当たり前となった社会人2年目の時、友人の結婚式で現夫と再会。映画の話で盛り上がり、何度か会うようになるうちに恋に落ちる。映画の中のような恋ではなかったが、温かく包みむような夫に、やっと自分の居場所が出来たような思いを得、結婚を決める。

新婚気分も抜けきれぬ頃妊娠し、仕事をやめる。無事に第一子を出産、娘であった。育児に終れる日々。ほどなく第二子を妊娠し、出産。息子であった。

娘、息子とも中学受験をさせ、私立の中学へ進学を決める。これでこの後の受験の心配はさほどでなない。息子の中学進学と同時に夫がアメリカに単身赴任となる。子供の受験が終わり、肩の荷が下りたところに夫の単身赴任。彼女はふっと心に穴があいたような寂しさを覚える。

自分の時間が持てるようになった彼女は、週に三日間、近くのスーパーにレジ打ちのパートへ出かけるようになる。と同時に、すこしふくよかになってきたかと、テニス教室に通いはじめる。子供を置いて夜遊びも時々するようになる。

大学生の頃には入れなかった六本木の落ち着いたピアノのあるバー。そこで、売れないピアニストとまさにフランス映画のような恋に落ちてしまい、阿佐ヶ谷に住むその男の家へ時々通ってみたりもするが、所詮遊びの恋である。ほどなくその恋は終わり、新しく来たテニスのコーチへと乗り換えようとするも、なにしろテニスは初心者。小学生の頃にあこがれたお蝶夫人のようには行かず、筋肉痛となり、コーチに無様な醜態をさらし、その恋は実る前から諦める。

来週は夫が単身赴任先から久しぶりの休暇で帰ってくる。ふと現実に帰り、彼女はなぜか夜中にオカリナなんぞを吹いてみるのであった。

2009年1月28日水曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔2〕(上)近恵

毛皮夫人プロファイリング〔2〕
43歳、外大卒、夫は大手製薬会社勤務 (上)

近 恵

昭和40年11月30日生まれの射手座。血液型B型。
住まいは都内板橋区の一戸建て。
趣味は映画鑑賞。
神奈川県茅ヶ崎市で生まれる。
ほどなく両親が離婚。
母親の実家である愛媛県松山市へ居を移し、以降高校三年生までをその町で過ごす。
小学校2年生の時、母親が再婚。弟が生まれる。
新田高等学校を卒業し、東京外国語大学へ進学、上京。
大学在籍中にサークル活動にて知り合った2歳年上の現夫と26歳で結婚。
大学卒業後中堅の商社に勤務するが、妊娠を機に退職。
夫は大手医薬品メーカー勤務、現在アメリカに単身赴任中。
子供は中学三年生の娘と中学一年生の息子。どちらも私立中学へ通っている。

 ●

両親の離婚は彼女の人生に大きな影を落とす。当時離婚の理由は両親の口から語られることはなかったが、習慣の違いでロシア人である父方の両親とどうにもうまくいかなかったということを後々聞かされる。

離婚後、母の実家へ戻った当初、世間では離婚はまだあまり多くはなかった。しかも国際結婚となると尚更のことである。実家の松山は大きいとは言え地方都市。隣近所に肩身の狭い思いをして過ごしている母親や、母親をなじる祖父母。彼女はそんな中、愛想を良くする事で大人に心配をかけまいと生きる健気な子供であった。

数年後に母親は地元の有力者の分家筋にあたる旧家の息子と結婚し、ほどなく10歳年下の弟が生まれる。新しい父親は弟と分け隔てなく彼女に目をかけてくれたが、自分の居場所がないような思いで過ごす日々。中学生の頃テレビで見たフランス映画がきっかけで、どこか気だるいようなフランス映画に嵌まってゆく。

愛想はよく、友人も多かったが、同年代の中ではどこか浮いたような存在。友人は多いが、一人で過ごすことを好むような性格。自分のいる場所はここにはないというような思いはどんどん強くなり、東京の大学への進学を決める。


(明日に続く)

2009年1月27日火曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔1〕(下)上野葉月

毛皮夫人プロファイリング〔1〕
彼女はルネサンス絵画のマリア様のようなイタリア人である (下)

上野葉月

承前

駅ホームのイタリア人の集団の中、私の乗っている列車に最も近い側に明るい色の毛皮のコートを着た三十代半ばぐらいの女性が立っていた。列車の中からぼんや り彼らを眺めていた私とその毛皮夫人の目が合った。不思議なことに目が合った途端、音もなく列車が動き出した。そう、欧州では合図なしで列車が発車する。

毛皮夫人のマリア様のような顔にほとんど表情の変化はなかったが、黒い大きな瞳だけは「あら私に見惚れてたの、ボーヤ」といたずらっぽく微笑していた。イタリア女性には本当にルネサンス絵画のマリア様のような顔立ちの人が少なくない。

毛皮夫人の右手が口に移動しそれから優雅に海軍式敬礼のような軌跡を描いた。

投げキッス!!

あんまり上品な仕草だったので理解するのに数秒かかった。そもそも私は投げキッスが現実に存在する事象であることを知らなかった。そんなものはマンガのようなフィクションでしかお目にかかれないものだと思っていたのだ。

マ リア様のような毛皮夫人(もちろんあの毛皮夫人の名前が実際にマリアだった可能性は0%ではないが)。投げキッス。フィクション(創作物)経由でプロトタ イプが心象に形成されている場合、現実にそれを目の当たりにするとイマジネーションの現実への逆流現象が発生しフィクションはハイパーリアルに変貌する。 そんな七面倒くさい理屈をこねたところでどうしようもない。

あれは私が欧州に魅了された瞬間だった。魅了されたとしか言いようがない。その後九年間も何の縁もない欧州に住みつづけることになったのだから。

2009年1月26日月曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔1〕 (上)上野葉月

毛皮夫人プロファイリング〔1〕
彼女はルネサンス絵画のマリア様のようなイタリア人である (上)

上野葉月

もちろんそうに決まっている。毛皮夫人はイタリア人。シルビア・クリステルのようなオランダ・ノッポではない。それは明らかである。50句をものにした作者の都合なんかまったく問題にならない。

  亜麻色の髪をかき上げ毛皮夫人  憲武

  毛皮夫人エマニエル夫人ともちがふ  憲武

ヘッセンの小さな町から列車を乗り継いで夜行列車でアルプスを越え生まれて初めてのイタリアに入ったのは随分と昔のことだ。

二等のコンパートメントで目を覚ますともう明るくなっており列車はちょうど終点のジェノバの駅に滑り込んでいるところだった。

駅に降り立つと「チンコチェントクエンター、チンコチェントクエンター」という構内連絡が耳に入る。生まれて初めて聞く生のイタリア語。さすがイタリアは違うと思った。その後イタリアの街角でカフェの従業員や郵便局の窓口係、警官など普通に出会う人たちが日本の芸能人なんかよりよっぽど華やかなのを見るたびに何度もなにしろチンコチェントクエンタなんだから仕方がないと思ったものだった。

ジェノバの記憶はほとんどない。カフェでカフェコンレーチェを頼んだことぐらいしか憶えていない。ジェノバの町を数時間散歩してから今度はバルセロナ行きの特急に乗った。イタリアもフランスも無視。最終目的地はサンチアゴ・デラ・コンポステーラ。ルイ・ブニュエルの映画『銀河』を見て間もなかった私は旅行する以上はサンチアゴ・デラ・コンポステーラを目指すもんだと決めてかかっていた。

フランスに入り、ある駅でどういう事情だか十五分以上停車した。ニースのような大きな駅ではなかった。今にして思うとサントロペ辺りだったのではないか。もしかしたらモントンとかロックブリュンヌのような国境に近い場所だったのかもしれない。周囲は夜。すっかり暗くなっている。

ホームには十人ほどのイタリア人の裕福そうな集団がいて冬の夜中だというのに楽しそうに談笑している。イタリアには金持ちが多い。GDPの半分は地下経済というお国柄。ようするに額面上の数字の倍の金が実際には流通しているわけだ。大雑把に言えば英国人やドイツ人よりイタリア人の方が金持ち。

今にして思うとコートダジュールで休暇を過ごしてイタリアに戻るところだったのだろう。その日は降誕祭の夜(クリスマスイヴニング)だった。


(明日に続く)

2009年1月25日日曜日

●村田篠 歩くことから始まる~高梨豊写真展

歩くことから始まる ~高梨豊写真展

村田 篠


竹橋の東京国立近代美術館へ「高梨豊 光のフィールドノート」という写真展を見に行く。

1960年代から現在までの東京を撮った写真の数々がいい。ことに、『囲市』と題された一連の写真は、さまざまなものを覆う「囲い」ばかりを撮っている。囲うことで内部が生まれる。その内部は、見ることができない。都会には、そういう場所がたくさんある。

すべては、歩くことから始まるんだな、という気がする。なにかを見つけるために歩くのではなく、歩いているうちになにかが目に入って、なにかが始まる。

俳句を始めてから、ずいぶんと歩くようになった。でも、もっともっと歩きたい。写真展を見ているうちに、そんな欲望が湧いてくる。


「高梨豊 光のフィールドノート」は3月8日まで開催。≫公式サイト

2009年1月24日土曜日

●さいばら天気 宅配ピザのある暮らし

宅配ピザのある暮らし

さいばら天気


宅配ピザが日本で始まったのは1985年。米国ドミノ・ピザが東京・恵比寿に開店したのが皮切り。その3年前に封切られた映画『E.T.』の冒頭近くには、子どもたちが宅配ピザをとるシーンがある。このときはまだ、アメリカにはあっても日本にはないサービスだった(*1)

そういえば、80年代後半、たしかに宅配ピザを、なにかウキウキした気分で利用した覚えがある。意外に新しい風物なのだ。

  受話器冷たしピザの生地うすくせよ  榮 猿丸

  週刊俳句第86号「何処まで行く」10句より。

宅配ピザを詠んだ句は少ない。すこし調べると、「ピザ運ぶ車追ひ抜くつばくらめ」(下間ノリ)、「玄関でピザ屋を待っている湯冷め」(石原ユキオ・週刊俳句第27号「不合格通知」)などがあるものの、ともに、ピザを例えば蕎麦に置き換えても、ある意味、差し支えないともいえる(*2)。掲句は、宅配ピザを、それでなければ成立しないかたちで詠んだ点、それのみを以てしても、価値は高いが、そればかりでなく、私には妙に心に引っかかる句、言い方を換えると魅力的な句なのだ。

この句、七五五という俳句定型。「せよ」の語尾は、やや変則だろうか。「ピザの生地うすくせよ」とのセリフの(直接話法的)引用は、この句を印象深くしている。そして冒頭から言っているように宅配ピザという句材は稀有。だが、それらいくつかの要素に増して、私が注目したのは「冷たし」という部分だ。

といっても、「冷たし」という季語がこの一句のなかでうまく機能しているというのではない。むしろ、取って付けたかのようであり、受話器に季節を備えさせようとすれば、温度に関する季語、あるいは汗(これにしても温度のヴァリエーション)がまず思いつくことからすれば、苦し紛れのようにも見える。

「冷たし」の語は、つまり、この句がかろうじて俳句の縁に手をかけて、俳句にとどまろうとする、その「よすが」のように、私には思える。

宅配ピザという俳句との親和性が高いとは思えない素材を俳句にするとき、もっと乱暴で奔放な手もある。風俗としての新しさを強調するやり方もあるはず。だが、この作者は、あくまで「俳句」という陣地にこだわる。意地でも、俳句の埒内に収めようとする。

この句のベクトルは、俳句に向いている。「宅配ピザ」という、普通に考えれば俳句の「外」にあったものから、俳句へと手を伸ばしている。ぎりぎりかろうじて俳句の縁に手をかけたと表現したのは、そのことだ。

多くの句が、俳句の内部(従来的な書記法・文体)から、その外にある素材(例えば、宅配ピザという新しい風物)へと手を伸ばすのとは、ベクトルが逆なのだ。この2つのことは同じようでいて、おそらくまるっきり違う。

乱暴な二分法をあえて使えば…
Ⅰ 内(俳句的枠組)から外(eg新しい素材)への拡張
Ⅱ 外(俳句の埒外)から内(俳句そのもの)への漸近…掲句(受話器冷たし~)

では、もうすこし具体的に。「俳句の埒外」とは何か。いちおう素材(宅配ピザ)ではあるが、それだけではない。ここは微妙なところだが、「気分」とでも言おうか。

榮猿丸の俳句を読んで読者がたじろぐとしたら、それは素材の新しさのせいではない。浅さでもない(*3)。「気分」の(思い切って言ってしまえば)現代性なのだ。

掲句「受話器冷たしピザの生地うすくせよ」の榮猿丸は、1985年以降、暮らしに定着した「宅配ピザ」という風物にまつわる「気分」のなかにいる。そこから、俳句という領野へと手を伸ばす。俳句の内部から素材(句の対象)としてだけの「宅配ピザ」へと手を伸ばしている(Ⅰ)のではない。

新しい風物を詠む俳句の多くは、素材としてのみの新しさに目を奪われ、伝統的手法・伝統的叙情をもって、新奇を取り込もむだけに終わる。言い換えれば、擦り切れた文体によって、擦り切れた叙情の中に取り込もうとする。さらに言い換えれば、使い古された手法と叙情の表出法をもってして、新しげな素材を詠む(*4)。それとはまったく無縁に遠く、「受話器冷たし~」という句、そして榮猿丸の句の多くは、素材ではなく気分に立脚し、そこから俳句へとにじり寄っていく。

世紀をまたいで近過去から現在へと到る時間(それはまさしく私たちが暮らしている世界)に固有の気分(それがどんなものかはあえて保留するが)は、従来的な俳句の内部に存したものではあるまい。また、俳句よりも先に、「その気分」が私たちの中にある。

「いまここ」にある固有の気分から出発し、俳句へと到達しようとする。その点においてこそ、榮猿丸の俳句は魅力的なのだ。




(*1)現在の日本最大手ピザーラの開業は1987年。創業者は『E.T.』の上記冒頭シーンを観て、宅配ピザ店の開業を思い立ったという。

(*2)ピザを詠んだ句には、佳句「ころころとピザ切る赤穂浪士の日」(斎藤朝比古)があるが、宅配ではない。お店で食べるピザ。

(*3)猿丸俳句と「浅さ」については、週刊俳句第86号・上田信治「深いとか浅いとか……いや言い出したのは自分だ、すまん」および当記事で紹介された高柳克弘「ドットの詩」(『現代詩手帖』2008年12月号所収)を参照。

(*4)新しい風物・新しい素材を俳句的伝統に凭れかかったままに取り込む、擦り切れた手法については、高柳克弘「ドットの詩」(上記)の次の部分にも関連する。
(黛まどか「旅終へてよりB面の夏休み」を引いて)黛の浅薄さとは、いってみれば従来の俳句の発想法や文体に依拠することで得られたものであり、動く歩道に乗ってすすんで行くような「楽さ」に近い。

2009年1月23日金曜日

●井口吾郎 人名回文俳句 冬から春10句

人名回文俳句

冬から春
10句


井口吾郎



髪増し哉熊を巻く中島美嘉

気のいい親父かも火事やおい猪木

寛美死して炭屋見捨てし溲瓶か

火事の本親鸞乱心ホの字か

手に蜘蛛勝新温室寡黙にて

余寒あり丸井にいるマリアンかよ

水仙花死んだら談志完成す

倉木麻衣枸杞の芽の濃く今気楽

軽くニクソン笑む遠足に来るか

岸恵子長閑に角の濃い景色



2009年1月22日木曜日

●おんつぼ13 キング・カーティス lugar comum

おんつぼ013
キング・カーティス King Curtis

lugar comum








King Curtis 'Memphis Soul Stew' from the album "Live At Fillmore West" (1971)

しかしまあ、とっぷりと冬ですな、鍋の季節です。今晩は、洋風で行きましょう、ファンキーとグルーヴィーをぐつぐつ煮込んだ「メンフィス・ソウル・シチュー」。

主人公は、60年代の米ショービズ界で、R&B、ソウル、ジャズ、ロックなど汎ジャンルに吹きまくった黒人サクソフォニストのキング・カーティスです。セッションに呼ばれて吹くだけではなく、自己のバックバンド「キングピンズ」を率いて、恰幅のいいバンマスぶりを発揮。そのキングピンズからは、多くの優れたセッション・ミュージシャンが排出されました。

意外と多くのリーダー作を残していますが、十八番と言えばこのナンバー。R&Bインスト部門の最高峰と言い切って、文句は出ないはず。で、そのベストバージョンは、やはりこのフィルモア・ウエスト実況盤でしょう。

MCに導かれ、ベース、ドラム、ギター、オルガンがビルドアップされていくのですが、なんと呼ぶのでしょうか、このスタイル。メンバー紹介を兼ねたりするので、ライブではラストに持ってきたりしますね。実際、このフィルモア・ライブでも、アンコール・ナンバーだったらしいです。レコードでは冒頭に置かれています。

鍋に材料を次々と投げ込んでいく、という趣向のカーティスのMC、キマっていますね。で、呼び込まれる「食材」たちが、凄い。ジェリー・ジェモット(b)、バーナード・パーディ(ds)、コーネル・デュプリー(g)、パンチョ・モラレス(cong)、トルーマン・トーマス(ep)と、ここまでがキングピンズの当時の面子で、これにゲスト・オルガンのビリー・プレストン。どうです、つまらない演奏をやれと言う方がムリでしょう。無論、あらゆる箇所が、後世のサンプリングで拾われることになります。

まだ終わりません。ここから菅が加わりますが、まずは当時、大評判のメンフィス・ホーンズ。分厚いです。きてますね、“つぼ”ですね。で、最後に御大が登場。うねりまくるサックス。何も言うことはありませんね、“チビり初め”ですね。

キング・カーティス、ちょうど脂の乗り切った37歳のプレイでした。残念なことに、このライブの直後、彼は自宅近くの路上で見ず知らずの暴漢に刺され、命を落とします。キングピンズの残党たちは、その後、名セッションバンド「スタッフ」として生まれ変わるなど脚光を浴びたあと、いまも、キング・カーティス時代をリスペクトするかのような演奏マナーを続けています。

ごった煮度 ★★★★
ファットバック度 ★★★★★


▼別バージョン。ビリー・プレストンとメンフィス・ホーンズは不在ですが、貴重な「動くキングピンズ」。

2009年1月21日水曜日

●ペンギン侍 第5回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第5回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年1月20日火曜日

●最近の新聞記事から

最近の新聞記事から


「ぼくゴリラ」の短歌で市長賞
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000000901190003
第57回左千夫短歌大会(同市主催)が18日、開かれ、高校生の部で県立成東高校2年菱木俊輔君の作品が市長賞に輝いた。

「ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ」
こういう受賞は楽しいですねえ。
入賞の知らせを聞いた時は「まさか、と思った。先生は何かの間違いかと思ったそうで、友人からも奇跡だといわれた」。(同記事より)
市長さん、グッジョブ。

〔参考〕椎名千収山武市長
http://www.city.sammu.lg.jp/extramenu/from_mayor/index.html
交際費をディスクローズ。ちなみに12月は80,450円。

ナイスな市長さんです。


『国民的俳句百選』長谷川櫂著
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090118/bks0901180902003-n1.htm
俳句界のプリンスと異名をとる著者が、奔放かつ細心に選んだ百句
俳句界のプリンス。

…。

寡聞にして初耳です。


(tenki)

2009年1月18日日曜日

●中嶋憲武 毛皮夫人50句


haiku workshop

毛 皮 夫 人 50句


中嶋憲武






ルルーシュの映画のやうな毛皮夫人

毛皮夫人アヌーク・エーメ意識して

毛皮夫人なかいたばしで降りにけり

ほほほほと口に手を当て毛皮夫人

土曜日の夜ものすごき毛皮夫人


毛皮夫人中学生の子がふたり

酔うて寝て死んだふりする毛皮夫人

毛皮夫人パール商店街にをり

毛皮夫人夫はどこかへ赴任中

毛皮夫人マルチェロ・マストロヤンニ好き


なにか物言ひたげ毛皮夫人の指

毛皮夫人毛皮をすこし毟らるる

毛皮夫人子のそろばんを掻き鳴らす

チンチラが毛皮夫人の懐に

毛皮夫人むかしJJガールとか


フランシス・レイの曲かけ毛皮夫人

毛皮夫人エマニエル夫人ともちがふ

亜麻色の髪をかき上げ毛皮夫人

毛皮夫人気がつけば鼻いぢつてゐる

魔法使ひサリーを語る毛皮夫人


毛皮夫人パートのレジを打ちにけり

毛皮夫人シュビドゥビダバと口ずさみ

お天気を気にして毛皮夫人の祈り

毛皮夫人動物図鑑小脇にす

毛皮夫人宝塚ガール風にポーズ


子の問に毛皮夫人の頬真つ赤

清く正しき毛皮夫人の素行かな

毛皮夫人朝のバナナを愛でてをり

訳ありの人ねと毛皮夫人の背へ

哲学的思考の果の毛皮夫人


毛皮夫人父は白系ロシア人

毛皮夫人育ちは伊予の国なりけり

次の曲弾いてと毛皮夫人の目

毛皮夫人とかぐろきコーヒーの夜明け

毛皮夫人マジックタイムの空が好き


SEIYUの袋提げをり毛皮夫人

分度器の恋の角度よ毛皮夫人

毛皮夫人不覚にも手を突っ込まれ

毛皮夫人アラン・ドロンの映画観て

停車場の毛皮夫人の訛りかな


毛皮夫人表六玉を連れてをり

毛皮夫人駅の別離をくりかへす

目つむりて煙草くゆらす毛皮夫人

毛皮夫人お蝶夫人を今もなほ

「こむら返りですわ」と毛皮夫人言ひ


コーチなど気にせぬ素振り毛皮夫人

ラケットが顔面直撃毛皮夫人

毛皮夫人テニスコートを振り向かず

太腿の筋肉痛の毛皮夫人

オカリナを吹きをり夜の毛皮夫人


2009年1月17日土曜日

●猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕猫髭

猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕

猫髭


子規の『松蘿玉液』は「暗合剽窃」「不明瞭なる記憶」「俳句における類似」「翻案」において、具体的に古俳諧の例句を並べ丁寧に説明を加えてあるので、とても面白いのだが、まとめると、
暗合なるか剽窃なるかは当人ならでは知るべからず。
句法言語甚だ類似したれども命意は同じからず。二句ともに存すべし。
が子規裁きということになるだろうか。

特に2は、蕉門から虚子以降まで、無意識か意識的かに関わらず、兄句、弟句として花のあるほうが残るだろうという見解になり、結局良いものが残るという淘汰説に落ち着く。其角の『句兄弟』などは、等類を逆手に取った類想類句集の至芸を見せるから、せめてこれぐらいの度量は現代俳人にも垣間見せて欲しいというのは無いものねだりか。

たまたま櫂未知子と恩賀とみ子の不毛な例を挙げたが、奥坂まやも車谷長吉も、そのまま残して後世の判断を仰げばいいだけの話と言えなくもない。

現にそういう事例は枚挙に暇が無い。

例えば、柴田白葉女に限っただけでも、いきなり『現代俳句辞典』の「類句」の解説に、岡田日郎が、

  月光の及ぶ限りの鰯雲   佐々木有風

  月光の及ぶ限りの蕎麦の花 柴田白葉女

を並べて、「類句であるかどうか読者の判断を仰ぎたい」と書いている。この句は、『冬泉』に載っているが、元句は、

  月光のおよぶかぎりの蕎麦の花 柴田白葉女

であり、岡田日郎の引用の不正確さは杜撰だとしても、類似句であるのは間違いない。

白葉女は佐々木有風とは親しい間柄だったが、彼の句を覚えていなかったので暗合ということになるとはいえ、問題は、岡田日郎が(というより当時の俳壇がそういう見解だったのかもしれないが)「無意識の句でも後からの作は取り消す必要があり、意識的な類句は作者にとって恥とすべきである」と書いたことで(ああ、should be は何語で書かれても鬱陶しい)、白葉女は「ただそのときそのときの感懐を、いのちのつぶやきをすなおにうつくしく句の形にしたいと思っている」だけだったから悩んだ。結局、「自分の創作品である」ことに恥ずるものはないという態度で臨んだ。

わたくしも、白葉女の市販された限りの全句集と随筆はすべて読んでいるから、子規が「傍人より見て此人は正直の人なれば剽窃すべきわけなし、必ず暗合ならんと断定するは大方に誤らざるべし」と言っていたような思いは白葉女に対してあるが、句を見る限り、「句法言語甚だ類似したれども命意は同じからず。二句ともに存すべし」でいいと思える。

三年後に出た『現代俳句大辞典』の「類句」の稿も岡田日郎が書いているが、さすがにここには柴田白葉女の例句は省かれている。当然だろう。

また、その後の白葉女の態度も見事だった逸話がある。

第七句集『月の笛』(蛇笏賞受賞作品)の中に、

  春の星ひとつ潤めばみなうるむ 白葉女

という彼女の句ではよく知られた句がある。この句に類句が現れたのである。

  春の星一つ潤みて皆うるむ 青山丈

同じ「雲母」で学び、岡本眸主宰の「朝」に寄っていた俳人青山丈が自分の母の死に際して詠んだ句であり、丈は白葉女の所に釈明に訪れたという。
白葉女は「青山氏は誠実な、そして潔癖な人柄で、他人の句をまねたりする人ではない」と言い、自分の句自体が特別変わった内容でもないから類似句があっても不思議ではないと続け、「俳句は創作である。自分のものであることをつねに忘れないようにすれば、類想・類句はおそるるに足らず」と結んでいる。

青山丈の句は、白葉女の句が「潤めば」という因果を呼んでいるのに対して「潤みて」と軽い切れを入れており、一呼吸置いて満天の星が一斉に潤むような見事な切れの効果が出た句であり、母の死に際して詠まれたという背景を知ると、なおさら星が泣き出すような感銘があり、類句として捨てるには忍びない。「句法言語甚だ類似し」「命意も同じ」なれど「二句ともに存すべし」と言っていいエピソードだと思う。

  妻の遺品ならざるはなし春星も 右城墓石

と並んで、「春の星」と言うと思い出す秀句であり、エピソードである。

もうひとつ、白葉女には忘れがたい句がある。

彼女の処女句集は『冬椿』だが、手に取るたびに擦り切れるような儚い句集であるせいか、第二句集『遠い橋』は堅牢な箱入り装本で、『冬椿』からも百句近く精選されているため、白葉女も処女句集のような気持だと後書に書いている。

  注射針憎し温室花眼に沁みる 柴田白葉女

温室花は「むろばな」と訓む。この句を見たときに、すぐ思い出したのは次の一句である。

  癩にくし花に飼はるる思ひして 須並一衛

須並一衛は岡山県のハンセン病の療養所長島愛生園に少年期より暮らしており、学歴は無く、飯田龍太の「雲母」に寄り、解散後は廣瀬直人の「白露」所属で、『海の石』『天籟』『雪明』という三冊の句集を出している。いわゆる療養俳句という病いにもたれかかった句とは一線を画す眼で詠まれている。

自分を檻に閉じ込めた癩への憎悪と、季節が巡り来れば美しく咲く花に慰めを見出す、その落差を「花に飼はるる思ひ」と表現し得た、死と生の戯れの衝撃は尋常ではない。こういう言い方は誤解されるかもしれないが、この一句は悪魔に魂を売ってでも表現者であれば手に入れたい表現の極北に位置する美を獲得している。

飯田蛇笏の序が付いた「雲母叢書第九篇」に入れられた白葉女の句集を、須並一衛は、偏見を持たずに来園してくれた蛇笏と龍太親子を師と仰いで「雲母」に拠っていたから眼にしていたのかもしれない。余りにも照応しているから。しかし、下敷きにしているとしても、どちらも見事な表現である。

類想類句について、三回ほどだべらせてもらったが、俳人もまた創作者であり、そうであるなら、柴田白葉女と須並一衛が「憎悪」を着火点として見事な火花を散らしたようなオリジナリティが欲しいものだと願う。

2009年1月16日金曜日

●猫も歩けば類句に当たる 第3回〔上〕猫髭

猫も歩けば類句に当たる 第3回〔上〕

猫髭


生まれた途端、四方に七歩ずつ歩み、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」とのたまわる赤ん坊はお釈迦様くらいなもので、人間だけは生まれてから一年間は親にすがる間に親の真似をして色々な事を覚えるなかに言葉もある。したがって、真似る事から言葉を覚えることが始まるから、意識的無意識的に関わらず、発生史的には自分の言葉は親の財産目録の中にあり、それらの中から自分の分に合った言葉を選んで行く。厳密に言えば、三橋敏雄が言うように、「私には、私ひとりの言葉というものはない」。また、そういう自覚があるから、

  戦争と畳の上の団扇かな

  戦争にたかる無数の蝿しづか

  あやまちはくりかへします秋の暮

といった、渡辺白泉の作品や原爆碑の言葉を下敷きにして詠まれてはいるが、三橋敏雄はオリジナリティのある俳句を残したと言える。

多かれ少なかれ、顧みれば誰もが自分の使う言葉の出自は知っていると言える。俳人というのは、言葉のプロだから、当然、言葉の出自については一般人より敏感である。

小説家車谷長吉が、小説だけ書いていればいいものを何を血迷ったか俳句を載せ、その中の二句を「盗作」として、恩賀とみ子が「器の小さい人」とか「泡沫作家の類」とか、言わずもがなのゴロを巻いたために、車谷が切れてしまったことがある。

  青芒女の一生透き通る 車谷長吉

  青蘆原をんなの一生透きとほる 橋本多佳子

  ふところに乳房ある憂さ秋暑し 車谷長吉

  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子

まあ、これだけ見れば、スーパー・エディターの安原顕の「小説に比べたらゴミよ」という発言には全く同感だったが、裁判沙汰にまでなったのは不毛としか言い様が無い。

  売り言葉受けてたつべくマスクとる 亀田虎童子

といった中傷合戦に終始したため、類句の問題については話が逸れてしまったが、車谷長吉の「かつて読んだ句が無意識の記憶となり、他人の言葉がある時自分の言葉として出て来た」と言う弁明は解せなかった。

これは子規が『松蘿玉液』で述べた「不明瞭なる記憶」に近い弁明だが、わたくしは車谷長吉がデビューした時から、この文体の創造が困難な時代に、よくぞここまでオリジナリティ溢れる文体を創造したものだと驚嘆して愛読し続けていたから、彼が骨身を削るようにどれだけ文体にこだわっているかは知っている。異分子を受け付けるような文体ではないのだ。毒の無い文章を彼は書かない。そこまで意識的に文体にこだわる男に「無意識の記憶」という弁明は似合わない。この類句を彼が見過ごしたとしたら、それは彼が奥さんの詩人高橋順子と二人俳句をやって遊ぶ「毒の無い時間」が見過ごさせたものだろう。

子規の蓼太評をもじれば、「長吉といふ人もとより正直の男にはあらねどさりとて古句を剽窃して尻尾をあらはすほどの馬鹿にもあらざるべければ、或は不明瞭なる記憶はこの句を自己の創意と誤認したるにやもあらん」といったところだが、新潮社の編集も校正時に目配りが足りなかったという気もする。

(明日につづく)

2009年1月15日木曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕一瞬の「…」

〔俳句に似たもの〕
一瞬の「…」

上田信治



タレントの木村祐一が、言っていた。

尾崎豊の「15の夜」の、いちばんいいところは、「♪盗んだバイクで走り出す~」の「♪…ぬす」というところ。いっしゅん「…」となるところが、と。

深く納得して、記憶した。

2009年1月14日水曜日

●大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・続〔 5 〕羽田野令

大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む・続 〔 5 〕

羽田野 令


この句集には、硝子同様、薄氷もよく出てきている。後半に多い。

  薄氷の流れのごとき生なりけり
  さようなら薄氷を来る旅の人よ
  明日あらば水の上の薄氷よ
  薄氷を追う癖いつから春浅し
  きらきらきらきらし薄氷を渉る人
  薄氷を踏んでいたると鳥翔てり
  薄氷のなか目をひらくのは蝶だ

硝子も薄氷も透明で割れやすいものであるが、薄氷は硝子よりも一層あやうげである。それは青年の孤独な傷つきやすい心にも似る。そして、光を通す美しさ、透明ゆえの清らかさは憧れの対象ともなり得るだろう。二句目の「薄氷を来る旅の人」、五句目「薄氷を渉る人」、六句目「薄氷を踏んでいたる」は、まさに薄氷を踏むということそのものが書かれている。「生」が薄氷の流れのようだとする一句目もあり、自分の辿っているところを見た時の、確固としたものを持ち得ないという自己に対する意識や、危うさをいつも持ち繊細である生き方を希求している詩人のような眼差しが伝わってくる。

また、この句集のタイトル『硝子器に春の影みち』からして硝子と影という二つの言葉が入っているが、光に透けて輝く硝子や薄氷とは逆のかげりに注目した作品も多い。「かげ」という言葉は、光によって出来る事物の影や光の当たらない部分という意味の他に、光とか形という意味も表すことがあり、タイトルの中や、タイトルの元になった句<硝子器に春の影さすような人>の「春の影」は、後者の意味も含んでいるように思うが、かげりの意味の影、翳の句と、「暮れる」が使われている作品とを挙げてみる。

  ああ、影。外灯のよく伸びる街に入る
  階段の鳩の半身ひぐれている
  真翳こそわが来し方睫毛したたる汗
  肩より暮れる運河われら有尾人
  己が影桜に肖たる冬の花
  冬至かな杉木立のなか影を失う
  星映るほどに影あり厠紙
  鯉の鰓動くとき月光の翳りかな

二句目、四句目、体が「暮れる」ことによって得たであろうかげりがある。夜の町を歩く作者の目の捉えた長い影や、星の映るほどだという厠紙に見た影。真翳という影の中の影のような言葉もあり、それは来し方だという。大本氏は自らの生を「薄氷」と言い「真翳」と言っている。

この句集は物語として仕立てられた第四章「冬至物語」があるのだが、その外伝の方が先にあって、第三章に「当時物語」外伝1、2として入っている。「冬至物語」の中には野口裕さんがここで書かれた文章の第4回目に挙げられていた、「どすこい」という言葉の入った七七の句が四句ある。五七五でもないし、七七の前の部分は全部同じという変わった四句なのだが、ふとそれらに相撲甚句が重なってくるような気もする。相撲甚句とは、「どすこい」を二回重ねて結句とする七五調の歌である。元は力士から発した歌だそうだが、力士ならずとも替え歌としていろいろな場で歌われてきた民謡だから、何かの時に昔聞かれたりしたのかもしれないと、私の勝手な想像もはたらく。どこかで聞いた相撲甚句が、ちらと脳裏を掠めて成った句なのではないかという想像が違っていたとしても、<どすこい>が合の手のように入っていて、かなり土俗的なイメージであることには変わりない。この章題にあるように物語を構成しつつ読むとすれば、この句の場面は土俗的な民の集う場での歌のように呪文のように唱えられる「一夏どすこい」が、繰り返しという原初的音声の感をも呼び起こすような場面として物語にちょっと変わった場面を添えるのではないだろうか。野口さんがあまりも簡単に切り捨てられているので、私はちょっと異論を唱えてみた。

ほかに、映画「灰ととダイヤモンド」の下敷きがあるような句もある。

  青痣のごとしマーチェフ・地下水道

マーチェフは、マチェック、マチェク、マーチェク等と書かれていることもある、暗殺者の名前である。また、アジアの裔、イルボンサラムニカ、ヒロヒト、等という語も出てきて、ここからどういう物語を読んでいけばいいのがまだ私にはよくわからないのだが、何となく物語仕立ての泡がふつふつと湧きあがっているようである。

五回にわたって『硝子器に春の影みち』の中から句を取り上げてきたが、ごく一部に過ぎない。私なりの読みを書いてみて、書き足りないことの方が多いと思いつつ終らねばならない。多くの方にこの句集が読まれることを願っている。


(了)


訂正:前々回に取り上げた句「海百合の朱(しゅ)を蔵(しま)ひおくわれら残党」は第一章からではなく、第二章の句でした。

〔参照〕 高山れおな 少年はいつもそう 大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む ―俳句空間―豈weekly 第11号
〔Amazon〕 『硝子器に春の影みち』

2009年1月13日火曜日

●ペンギン侍 第4回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第4回 かまちよしろう

前回


つづく

2009年1月12日月曜日

●猫も歩けば類句に当る 第2回 猫髭

猫も歩けば類句に当る 第2回

猫髭



わたくしが仏壇に入る前に俳壇に立ち寄った時、侃々諤々百家争鳴の様相だったのが水中花VS兜虫の論争だった。この件に関しては、『きっこ俳話集』の中の「水中花VS兜虫」に、様々な過去の事例を交えて類想類句の顛末について書いてあるので、経緯を知らない読者はそちらを参照していただきたい。
【参照】http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoAN&BookId=1&KBN=2&PageId=63782&PN1=33&TP=233&SPA=210&SSL=

わたくしは当時「歳時記」など手に取ったこともなかったし、当然、類想類句の事も知らなかったので、これはいわば俳壇外からの目で見た感想である。

「水中花」と言えば、わたくしは伊藤静雄の詩「水中花」をすぐ思い出す。この詩を載せないアンソロジーはありえないほど、教科書にも載るほど人口に膾炙していたからで、わたくしも大好きな詩だった。

       水中花  伊藤静雄

   今歳水無月のなどかくは美しき。

   軒端を見れば息吹のごとく

   萌えいでにける釣しのぶ。

   忍ぶべき昔はなくて

   何をか吾の嘆きてあらむ。

   六月の夜と昼のあはひに

   万象のこれは自ら光る明るさの時刻(とき)。

   遂ひ逢はざりし人の面影

   一茎の葵の花の前に立て。

   堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

   金魚の影もそこに閃きつ。

   すべてのものは吾にむかひて

   死ねといふ、

   わが水無月のなどかくはうつくしき。

これほど死と水中花の取合わせを美しく歌ったイメージが、同じ取合わせで「いきいきと死んでゐるなり水中花 櫂未知子」とは、初恋の少女がいきなり菅井きんに化けたようなものだ。

しかも、この「いきいきと死んでゐる」という言い回しが、俳句ではオリジナリティ溢れる表現という論争の眼目になっている事に、ウッソ~!と入歯カタカタ言わせながら女子中学生のように声が裏返っちゃった。それは、俳壇ではいざ知らず、よく使われる陳腐な言い回しだったからだ。

安部公房の小説『方舟さくら丸』のラストシーンがそうだった。

もうふた昔以上前になるが、安部公房は大江健三郎と並んで、当時世界的にも小説に、演劇に、映画に、文字通りのトップ・ランナーだった。大江も負けてはいない。『万延元年のフットボール』の後、書き下ろしで『洪水は我が魂に及び』という見事な上下二巻の大作を書き、次は安部公房の番だとファンは固唾を呑んで見守っていた。満を持して出した長編小説が『方舟さくら丸』だった。

前作の『燃えつきた地図』が良かったし(映画も)、物凄い期待を背負って読んだせいか、安部公房の抜け殻のような、力の落ちた小説だった。話題が先行してベストセラーにはなったが、公房ファンには淋しい作品だった。そのラストシーンがこれである。

   街ぜんたいが生き生きと死んでいた。

肩透かしを食らったような陳腐な終わり方だった。

せめて、唐十郎の『海ほおずき』のように、

流れ者が見た風景は、家並が傾いている。それは彼が斜視であるからではない。町を通り過ぎる彼の時間につり合わせ、その都市、その町をぐらつかせたい。まるで、ビルの下に絨毯があって、それを掴んで引いてみようとするように。

あるいは、堀江敏幸の『郊外へ』の「空のゆるやかな接近」のように、

たまたま住むことになったモンルージュの街に、説明しがたい愛着を感じるようになったのはなぜだろう。料理の匂いや珈琲の香りが鼻先をかすめるのとも、ゴミ収集車が通ったあと鈍い汚臭が流れるのともちがう、いわば街に澱んでいる大気ぜんたいが、いっぺんに数センチ、じぶんを置きざりにして前後左右どちらかに移動するような感覚と言おうか、いままで黙っていた並木が、不意の微風でざわざわと音をたてるときの、物事のはじまりと終わりがいちどきに生起する肌触りがたしかにあって、それはパリ市内のどんな通りや区にもない微妙なものだった。

といった、もっと読んでいると皮膚が泡立つようなスリリングな表現を残して欲しかった。

まさか、俳壇で、またもやこの陳腐さが話題になり、しかもオリジナリティとして騒がれるとは。わたくしも物を知らないにもほどがあると、うちのカミサンに怒られるほうだが、水中花VS兜虫論争に参加した連中は、表現のオリジナリティをおちょくってるとしか思えない。井の中で蛙がゲコゲコ。

エンガチョ!

昨年、偶然池田澄子さんとお話しする機会があって、彼女と吉増剛造の詩集『螺旋歌』の話が出来たのは嬉しかった。池田さんの俳句は出自が現代詩ではないかと思っていたので、師の三橋敏雄とともに、まるで俳壇のマイルス・デイビスのように変貌してゆく過程が実にスリリングである。

その池田澄子さんの第三句集『ゆく船』の中に、こういう句がある。

  新鮮に死んでいるなり桜鯛  池田澄子

shi音で頭韻を踏んでおり、櫂美知子の句よりも先行して発表されている。

どうして誰も「新鮮に死んでいるなり」のオリジナリティを問わなかったのだろう。生物か無生物かで句意が変わるから類句ではないと言うなら、奥坂まやの句も類句ではないことになるからだろうか。

そういうわけで、わたくしがここへ書いて置いてゆく。


P.S.『櫂未知子集』(邑書林)を読んで、「京極杞陽ノート」と飯島晴子論は見事な出来映えだったので、水中花論争は余計不毛に思えた。

2009年1月11日日曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕字で書いた…

〔俳句に似たもの
字で書いた…

上田信治


『がきデカ』で知られる、ギャグマンガの巨匠山上たつひこに、「半田溶助女狩り」という作品がある。

朝になっても店に出てこない電器店主・半田溶助を心配して、従業員たちが居室のほうへ行ってみると、溶助は、半紙に筆で書かれた「娘」という文字を見ながら、オナニーをしていた。

……。

いや、字で書いた「季語」を見て、興奮できるのってすごいな、と。

2009年1月10日土曜日

●おんつぼ12 アナーキー 山田露結


おんつぼ12

アナーキー ANARCHY


山田露結





1980年代、日本全国の不良たちを絶叫させたロックバンド「アナーキー」。

バンド名からしてパンクの影響を受けていることは間違いないのだが、そのスタイルは決して洗練されたものではなく、どこか田舎のチンピラ的雰囲気(メンバー全員が埼玉県浦和市<現さいたま市>出身だと記憶している)があった。デビュー時にはなぜか国鉄の制服がバンドのユニフォームだった。

当時、不良のロックンロールとして一世を風靡していた「横浜銀蠅」が営業的な胡散臭さを漂わせ、ものわかりのいい不良たちの兄貴分というイメージだったのに対して彼らは何をやらかすかわからないたちの悪さを纏ったホンモノの不良という感じだった。

「ノット・サティスファイド」、「東京イズバーニング」、「叫んでやるぜ」などメッセージ性の強い歌詞とストレートなロックンロールは今聴いても痛快である。彼らの曲を久しぶりに聴きながら、そういえばこういうメッセージっぽい曲って今はもう誰も歌わなくなってしまったなあと思った。

ちなみに、私事で恐縮だが筆者が学生だったころ「新宿猩猩蠅」という「横浜銀蠅」のしょーもないパロディーバンドで「新宿ロフト」というライブハウスに出演したとき、たまたま客席で見ていたらしいアナーキーのギターリスト藤沼伸一にステージ後の楽屋で「オマエ、つっぱってんのかよぉ~。」と軽くどつかれたことがある。そのときは脚が震えるほど怖かったが、今となっては「アナーキーのギターリストにどつかれた」という輝かしい青春の思い出となっている。


不良度 ★★★★★
パンク度 ★★★


〔おすすめアルバム〕 アナーキー



2009年1月9日金曜日

●「俳句結社」論議あれこれ〔下〕

「俳句結社」論議あれこれ〔下〕

さいばら天気


このところの結社論議に関して、ふたつめの不思議。結社所属・非所属について、個人的な事情や思想を言明せねばならぬといった空気。

そんなものはない、ということなら、それでいいのだが、ちょっと感じる。

他人の考え方や思いを知ることはいいことだし、おもしろいのだが(「なんでその結社に入ったの?」と訊いてみたくなることがある。察しがつかない場合に限られるが)、聞いてみても、なるほどそれぞれ事情や考えがあるのだなあ、という以上のものはない。

結社を選ぶとき、二通りがあるようで、ひとつは入念に下調べをして、自分に合うであろう結社、自分にとって魅力的な結社を選ぶタイプ。もうひとつは、なりゆきに任せるタイプ。さしずめ前者は、釣書を精査したうえでの見合い結婚、後者は恋愛結婚か。無所属で句会に通ううちに入会するしかなくなる「出来ちゃった入会」(譬えが下品でごめん)もあるだろう。どの入会パターンが幸せを掴むかは、わからない。

私の場合(「おめえの話はいいよ」って? まあまあ、そう言わず)、俳句を始めてからひと月かふた月に1回の句会参加が1年ほど続き、もうすこし句会の回数を増やしたいと思っていたところ、吟行句会の話を聞き、参加。その吟行に田沼文雄さんという「麦」の会長がいた。

句会後の飲み会で熱燗をお注ぎすると、返杯で私にも注いでくだすった。盃をもらった以上、それっきりというのでは、仁義を欠く。会費くらいお支払いいたしやしょう、と入会。このときビールなら入会していなかった。「話、つくってるでしょ?」とおっしゃる向きもわかるが、万事、なりゆきと仁義を重んじるのが信条である。これは本当の話。

さて、そんな行き当たりばったりで結社に入る人間もいれば、用意周到、人の話も聞いたりしてリサーチ抜かりなく、ここと結社を決め、時機をも見定めて入会する人もいるから、世の中、おもしろい。

だが、だから、その人が、あるいは私が、どう、ということはない。

さらには、結社に所属しているから、いないから、その人のつくる俳句がどう、という話は、(少なくとも私にとっては)そうとうに退屈である。所属結社のいかん、所属・無所属のいかんが、「俳人アイデンティティ」の大きな部分を占めるかのような言い方を目にするが、ぴんと来ない。

三鬼を読むのに、略年譜から読む人はいない。まず句を読む。つくる俳句以外が、俳人(俳句作者)のアイデンティを形づくる部分は、本人にとっては大きいかもしれなが、他人にとっては、それほどでもない。ましてや、「結社に入っていない」ことも、ほとんどどうでもいい属性のひとつに過ぎない。「なぜ入らないか」はなおさらだ。

俳人(俳句作者)がどんな俳人(俳句作者)かを知りたければ、句を見ればよい。それだけの話である。さらに言えば、句の背後に作者がいなくても、私にはいっこうにさしつかえない。つまり、誰がつくったかわからなくとも、おもしろい句なら、それで良し(でも、作者を知りたくなるけどね)。

大きな肩書きを背負って、俳句総合誌の巻頭に50句並べても、おもしろくないものはおもしろくない。チラシを切った短冊にヘタな字で書かれた句でも、おもしろいものはおもしろい。読者として、それくらいの矜持、あるいはわがままを抱えたままでもいいだろう。誰に頼まれたわけでもなく、どこからか給金をもらっているわけでもなく、俳句を愛好しているのだから。

 *

俳句(作句)を続けていくうえで、なんらかの環境整備(結社なり同人への所属)が必要とみることは、もちろん理解できるが、それはみずから整備すればよい話。住みやすい町に引っ越すとか、ね。その人がどんな人かを類推できる材料は、住環境にこだわる人なんだな、という以外に見つかるはずはない。住む場所を選ぶことがエラいわけでも、選ばないことがエラいわけでもない。良いこと、良い振る舞いをする人がエラい。

まあ、どこでどういう状況であろうと、ご健吟を、と。

3回シリーズを終えて、何もまとまらないし、何も言っていないような気もするが、それはそれで、自分の本旨からずれているわけではない。繰り返します。

みなさま、ご健吟を。

2009年1月8日木曜日

●「俳句結社」論議あれこれ〔中〕

「俳句結社」論議あれこれ〔中〕

さいばら天気

結社は楽しい。

例えば、ある句集、ある句を読んで、たいそうおもしろく、どんな人がこんな句を作るんだろうと興味を抱いたとする。その作家が、もしどこかの主宰なら、1万円かそこらを払うだけで、その憧れの俳人に自分の句を読んでもらえる。おまけに結社誌に自分の句が何句か載ったりする。

はじめて句会に出かけても、新参者として怠りなく挨拶さえすれば、邪険にはされない。二次会では、話の合う人も見つかるだろう。ふだんなかなか付き合う機会のないような年長者(父母あるいは祖父祖母のような年齢の俳句愛好者)と気さくに話ができる。

結社では、各地で月に十数回かそれ以上、句会が開催されている。暇とオカネさえあれば、週末ぜんぶを句会で埋めることもできる。新年句会や全国大会では、いつもと違う顔ぶれにも会える。

そのうち、主宰に採ってもらえる句数も増え、「そろそろ同人に」などという声もかかり、「それでは謹んで」と同人に(年会費がどーんと増えるが)。向上心(上昇志向)のある人間の満足にも対応した「階層システム」が、どの結社にもある。

以上は、老若男女、句歴の長短にかかわらず味わえる結社の楽しみだ。若い人に話を限定すれば、結社生活はさらに薔薇色である。

20代(あるいは30代)の入会は、どの結社でも大歓迎だ。若者をちやほやしない結社は「ない」と言ってもいい。若いというだけで、これほどの扱いを受ける世界は、俳句以外にないだろう。おまけにちょっと気のきいた俳句がつくれるとなると、半年もしないうちに「わが結社のホープ」と呼ばれたりする。そこで舞い上がるも良し、冷静に客観視するのも良し。

そうこうするうち俳句総合誌の「若者欄」への数句掲載の声もかかるかもしれない。「顔写真をどうしよう?」と俳句よりも深く悩んだりして。

一方、俳句が「いまひとつ」でも存在感を示すことはできる。結社誌の発行のお手伝い、全国大会運営のお手伝い(若いんだから走り回ることくらいはできる)、さらには月例の小規模句会の会場予約。「パソコンできるでしょ?」との問いに「はい」と答えて、句稿の入力を引き受けたり。

月々千円程度の会費で、これだけ楽しめるのだ。若い人で俳句をやっているなら、結社に入らない手はない。

こんなふうに「楽しさ」を訴えるほうがよいのではないか。結社側からは。

…と、ここまで書いて、あまり楽しくないような気もしてきた。まずいです。

 *

以上のような結社の楽しみが、それほど楽しく感じられないとしても、それで「結社は楽しくない」と思うのは早計だ。このような類型的・外形的な「楽しさ」以外の「何か」が結社にはあるのだ。

それを何とは限定できない。主宰に由来する何かであったり、ひとりの先輩会員に由来するものであったり。何が結社の楽しさになるかは、個人によって違う。その人のオリジナルな体験のなかに真の楽しさがある。

だから、結社がいかに楽しいかは、入ってみないとわからない。いくら「この結社はこんな感じ」という事前説明や予備知識があったとしても、そこから洩れることがたくさんある。入る前の予想とぴたり一致するものではない。予想と大きく食い違っていたから、幻滅し、辞めるという人もいれば、予想と違っていたから続けるという人もいる。

おそらく、結社は、恋愛と同じで、概念としてふわっとこんなものという像があったとしても、その体験のなかに入ってしまえば、すべてが個別である。一般論は通用しない。出たとこ勝負ならぬ「入ったとこ勝負」なのだ。

 *

私は俳句を始めて1年ほどで結社「麦」に入会した。主宰(中島斌雄)はすでに物故で、会長制を敷く。会長を「先生」と呼んだことはない。皆が「田沼さん」と呼んでいたので、私のような新参者も「さん」づけで通させていただいた。ふつう結社というのは主宰が厳然と君臨するもので、その意味からすると、「麦」は純然たる結社とは言えないかもしれない。

その「麦」におよそ8年半在籍したが、そこで経験したのは、楽しいことばかりである。ツラい思いは皆無、不愉快な経験もほとんどない。

一方、その間、俳句を学んだかと問われれば、否と答えるしかない(だって、こうですから)。だが、それは「麦」のせいでも、結社という形態に由来するものでもない。学ばなかったのは、自分に原因がある(なにごとについても「教える」ことは不可能である。学ぶか学ばないか、があるだけだ。学ばない人間には何も教えることはできない)。

結社に8年半もいても(そこが変則的結社であるにしても)、何も学ばず、楽しい思いをたくさんして過ごす人間もいるのだ。現に、ここに。

だから、「結社は鍛錬の場所」という文句を鵜呑みにしてはいけない。そうには違いないが、鍛錬の有無・度合いは当然ながら個人によって違う。「楽しいところ」という宣伝文句がなくとも、そこにはたくさん楽しみがある(もちろん、結社に入らず俳句を続けていても、楽しみはたくさんある)。

 *

ついでに言えば、何年か後、結社が滅亡したとしても(そんなことはあり得ないが)、なんでもない。私やあなたが、そのとき、一句捻る、そのことのほうがよほど重大である。

私たちが俳句というものを知って(註*)、ある一句を読む、一句を捻る。そのことが重大であって、結社に入ろうが入るまいが、結社が存在しようが滅亡しようが、どうでもいいことだ。そんなものは屁の突っ張りにもならない(石井慧2008年語録)。


(つづく)

(註*)私たちが俳句に出会ったという事実の背景には、俳句が豊かに存在するという歴史的事実があり、それにはもちろんのこと結社の存在が深く関わっている。だが、これから先もその事情が続いていく、とは言えない。

2009年1月7日水曜日

●「俳句結社」論議あれこれ〔上〕さいばら天気

「俳句結社」論議あれこれ〔上〕

さいばら天気


結社と若者についての話題がこのところさかんだ。

つまるところ、結社にとっては、どんな若者がどのくらい結社に入ってくるのか(くれるのか)、若者にとっては、どの結社に入ればいいのか、あるいは入らずに俳句を続けていくのか。

なんだかリクルートと就職活動の様相だ。「結社に入らない」という選択はさしづめフリーターか。ただし、若者が結社に入ろうが入るまいが、喰うのに困るわけではないから、呑気といえば呑気な話題なのだが、ふたつばかり、不思議に思うことがある。

ひとつめ。年長者が結社について語るなかに、「結社は楽しい」というセリフをついぞ聞かないこと。

ふたつめ。結社に関して、自分の選択や立場についての説明責任があるかのような空気が漂っていること。結社を入る意思をもった若者やすでに結社所属の人たちには「なぜ所属するのか」の表明を迫られるような空気。入らない人には「なぜ所属しないのか」。表明とまで行かなくとも、所属・非所属について、申し開きできるような理由が要るかのような捉え方。

このふたつが、どうにも私には不思議だ。

 *

ひとつめの不思議について。

俳句総合誌の座談会や特集で、結社と若者という話題がたびたびのぼっている。

例えば、『俳句界』2008年10月号 大特集座談会「現代俳界のねじれ現象を突く(1)」(註1)

『俳句年鑑2009年版』合評鼎談(宮坂静男、村上護、山下知津子)では、「結社と超結社、グループのあり方」がテーマのひとつに挙げられ、論議が交わされる。
山下 (…)俳句を学び始める時期は強い作家性を持った一人の作家の主宰する結社で鍛えられる時期が必要だろうと思うのです。結社という存在から、主宰の という存在から、生身の人間ですから、非合理な体験をすることもないわけではない。それも引っくるめて(…)ある程度、痛い思いもしながら学んでいくこと が基本だろう。

宮坂 今、結社でいちばん悩んでいる人は中堅ですよ。トップに立つ人は結社誌でも上のほうに出るから、結社で責任を担っている。けれど中堅の人たちはなかなか浮かび上がれない。しかし、力はある程度あるから、超結社的なグループで活躍するという二面的な行き方があってもいいんじゃないか。
「痛い思い」「なかなか浮かび上がれない」など、ハードな状況を伝える文言が目立つ。

さらに、『俳句界』2009年1月号の特集「このままでは俳句結社は滅亡する!?」(註2)

昨年から今年にかけて、こうした記事を読んできて、「結社は楽しい」との文言を一度も見たことがない。

結社は、入会者を教育し鍛えるところ。そうには違いないし、昔からそう言われている。だが、それだけでもないだろう。

入ったものの、なかなか浮かび上がれない厳しい世界(註3)。きっとそうなのだろうが、「浮かび上がる」ために俳句をやっているわけではない人も多いはずだ。

聞いていると、鍛錬や学びばかりが強調される(註4)。結社は「こわいところ」「耐える場所」。結社経験のない人間が、そう思い込んでもおかしくない。知らない人間のアタマのなかで、結社イメージが歪に膨らんでいきそうだ。

ニコリともしようものなら「俳句をなめるなよ」とたしなめられる。他の流派に関心を示せば「主宰の指導をなんと心得おろう」と諭される。「いっぱしの俳人になるための、今がガマンのときなのだ」と励まされたりして? 

だが、そうだろうか。結社に入っていて楽しいこともたくさんあるのではないか?

苦しいだけで、これだけ多くの人が結社所属を続けているわけがない。

(明日につづく)



(註1)参考
≫上田信治・『俳句界』2008年10月号を読む

(註2)参考
≫山口優夢・「俳句界」2009年1月号 提言シリーズを読む
≫高山れおな・シェーンミズ・カムバーックの声はむなしく凩に紛れ ドゥーグル・リンズィーの句集はまさしく歳晩に至る この前半部分

(註3)浮かび上がれず朽ちていく過程については、筑紫磐井「自叙伝風・評論詩風に(同人論/作品番号19)」の終盤、「若い世代は結社にどう立ち向かうべきか」の項でヴィヴィッドwに描写されている。

(註4結社の、いわばフォーマルな部分ばかりが強調されるのは、ひょっとすると、結社を「そこいらのサークル」といっしょにされたくない(してはならない)という心情が働くせいかもしれない。たしかに結社は、背筋を伸ばして俳句に取り組むところという側面がある(それで、いい俳句ができるかどうかは別にして)。だが、すこし距離を置いて眺めると、結社とは、俳句サークルの一種にも見える。オーセンティックな香りも漂う上等なサークル。

2009年1月6日火曜日

●猫も歩けば類句に当る 第1回 猫髭

猫も歩けば類句に当る
第1回

猫髭


以前「俳誌を読む」でも取り上げたが、和歌・連俳用語で等類(同類とも言い、先人の句と表現の要点が相似している場合を言う)・同巣(同竈とも言い、先人の句と同じ趣向がある場合を言う)は、短詩型では起こりがちな現象なので、多くの歌論書・俳論書で枚挙に暇が無いほど取り上げられている。今の俳句で言うところの類想類句である。

わたくしも一字違いの句を吟行句会で出したことがある。もう何年も経っているのでうろ覚えだが、横浜赤煉瓦倉庫の避雷針と梅雨の前後だったため白南風を取り合わせた句だった。披講時に黒南風の句が読み上げられて、「あれ?オレ黒南風で詠んだっけ、白南風だったはずだが」といった「黒白」違いで首を捻った事があり、こうなると月並句となり、双方喧嘩両成敗で没とあいなった。あとで調べたら、季語だけ違って十二音は全く同じ句が佃煮が出来るほどぞろぞろ出て来た。

吟行では複数の俳人が同じ景を見て詠むわけだから、口は一つなのに目玉も耳も鼻も二つ穴が開いているせいか、似たような句が、見たり聞いたり嗅いだりして二穴から入り込むのは避けがたいと言えるが、ここに吟行に来る俳人たちは、恐らく累々と類想類句を詠み続けるのだろうなと思うと忸怩たるものがある。

まあ、俳歴片手以内の初心者と、俳歴足と手の指足しても足りないベテランがぶつかると、俳歴の短い方は「類想を怖れずに詠みなさい」と励まされるが、長い方は「こんな素人に毛の生えた五浪人(ごろうと)(註)と同じような句を玄人が詠んでるようではまだまだ修行が足りん」と腐されたりする違いはあるが、この前も人の句にオレんだと手を挙げて、え、ほとんど同じじゃんと驚いたから、吟行では、猫も歩けば類句に当る。益々もって月並調である。

波多野爽波は、類想類句を避けるには、「多作多捨」に加えて「多読多憶」にひたすら励むしかないと言ったが、然なり。

だが、同じ場所で同じ景を見て詠む吟行でない場合は、厄介である。

中原道夫という著名俳人がいる。どうも、わたくしはこの人の作品は先人の句を読んで、ええとこばっかパッチワークしているような気がするのだ。

  飛込の途中たましひ遅れけり  中原道夫

が最も有名な句らしいが、大正十年にこういう句が詠まれている。

  瀧をのぞく背をはなれゐる命かな  原石鼎

似てっぺ。

次いで有名なのが、

  白魚のさかなたること略しけり  中原道夫

というものであり、これも、

  白魚の小さき顔をもてりけり  原石鼎

を翻案しているような感じだっぺ。

たまたま、石鼎さんが好きでわたくしが覚えていて引っ掛かるだけの話かも知れないが、例えば、露出度では俳壇ナンバー・ワンワンワンの長谷川櫂の、

  谷底へ木々の折れこむ朧かな  長谷川櫂

なんてえのも、大正二年の、

  風呂の戸にせまりて谷の朧かな  原石鼎

という、朧の句と言えば「谷朧」という季語を作り出したような秀句と、

  谷杉の紺折り畳む霞かな  原石鼎

という中七が秀逸な霞の句を足して、二で割って薄めたようだっぺ。

これらは先人の句に対する本句取りなのだろうか、あるいはオマージュなのだろうか。中原道夫は機知の切れ味のオリジナリティを称賛され、長谷川櫂は伝統的な王道俳句の継承者と言われるが、いかがなもんだっぺ。



(註)素人→四浪人、玄人→九浪人の洒落で素人に毛の生えて五浪人。玄人になるまでには六浪人、七浪人、八浪人(柿人)あるというわけで、素人未満は桃栗三年で桃人・栗人が三浪人。

2009年1月5日月曜日

●おんつぼ11 シスター・ロゼッタ・サープ さいばら天気


おんつぼ11

シスター・ロゼッタ・サープ
Sister Rosetta Tharpe


さいばら天気



Sister Rosetta Tharpe(1915/3/20–1973/10/9)は1930年代から40年代にかけて活躍したゴスペル・シンガー(ゴスペルといってもロック成分をかなり含有)。ギターも弾きます。ほかに似た人が見つかりません。

ま、しかし、そんなことより、とにかく、下の動画を見れば、わかります。

顔がいい。

図体がいい。

声がいい。

歌いっぷりがいい。

弾きっぷりがいい。

ど~んとでっかく響いてきて、なおかつ「泣き」もある。

小さなバンドでの録音がもっぱらですが、最初に聞いた(見た)のはラッキー・ミリンダーのビッグバンドとの共演。40年代のこの手の映像が膨大に残っているのが、アメリカのすごいところです。

顔で圧倒度 ★★★★★
ソウルフル度 ★★★★

Sister Rosetta Tharpe - Up Above My Head
とんでもなくカッコいい歌とギター。


〔おすすめアルバム〕The Gospel of Blues

2009年1月4日日曜日

●村田篠 虹の被害

虹の被害

村田 篠


はつ-ゆめ【初夢】元日の夜に見る夢。また、正月二日の夜に見る夢。古くは、節分の夜から立春の明けがたに見る夢。(広辞苑)


最近、夜中に何度も目が覚めるようになってしまった。眠りが浅い。たぶん、自分で覚えているだけでも、一晩に最低3回は目が覚めている。でも一瞬後には、また浅い眠りに落ちている。それが何度も繰り返されるのが、私の「眠り」だ。

当然、「夢」は、眠りがとぎれるたびに分断される。でも、よくしたもので、最近ではそういう断続的な眠りに合わせて、分断された「夢」の続きを見ることができるようになった。続きなのだけれど、話が少し展開して動いている、というのがおもしろい。人間の脳というのは、すごいものだ。

夢の中で、もてなし下手の私が、パーティを催すことになった。会場は、どこかの古びた旅館の二階。窓枠がサッシではなくて、木の枠なのである……といっても、若い人には想像できないかもしれない。かつてはそういう家がたくさんあった。窓から外を見下ろすと、道を挟んで向かいも旅館で、同じような総二階の建物が、長屋のように道に面して建っている。

部屋の中は、もちろん畳。30畳くらいの大きさだ。昔風の家屋の特徴で、天井が低く少し圧迫感がある。そこに、コの字型に座布団を並べて、みんなでお酒を飲んでいる。なぜか、料理が並んでいるのではなく、いろんな種類のお酒だけがふんだんにある。ビール、ウィスキー、ワイン、ウォッカ……まるで昨年、飲み足りなかったといわんばかり。

そこに―夢の普遍的なパターンではあるが―私が知っているというつながりだけで、同席するはずのない人々が集っている。小学校卒業以来会っていない同級生、最近の友だち、テレビの中でしか見たことのない人……「夢」の中では、みんな知り合いみたいに話している。

さて、不思議なのはここからだ。たぶん一瞬の「目覚め」の後だろう、話が少し展開している。私は、仲のいい女友だちとふたりで、いつのまにか会場を抜け出して道を歩いている。ひなびた田舎だと思っていたが、旅館を出ると、そこは無味乾燥なビル街だ。街路樹は裸ん坊で、寒々としている。あたりが無人なのは、「お正月」だからなのだろうか。なんとなく辻褄が合っている。

歩いているうち、友だちがポツッといった。
「最近、コウガイが問題になってるの、知ってる?」

コウガイ? はて。公害、口蓋、口外、鉱害、梗概……。問題になっているって、なにが?
「今、見せてあげる」
と友だちはいうと、ズンズンと歩き出した。必死についていくと、彼女は突然立ち止まって指さした。
「これのことよ」

無人の寒々としたビル街の片隅。そこに、桜が咲いていた。ただの桜ではない。七色の桜だ。数本の桜に咲いた花が、まるで虹のように、一本一本少しずつ色調を変えながら、咲き誇っている。赤から紫へ。青い桜もある。これはすごい。
「これを、コウガイっていうのよ」
と女友だちはいった。
コウガイって……もしかして、「虹害」?
彼女はうなずくと、じつに不機嫌な顔になった。
「原因不明なんだって」
心の底から感嘆しながらその七色の桜を見つめているうち、目が覚めた。

「虹」を「コウ」とちゃんと読んでいるところが、ずいぶん理屈っぽいなあと思う。起きてからさっそく広辞苑で調べてみたが、「虹害」という言葉はもちろんなかった。

やれやれ、変な夢だった……と思いつつ新聞を広げると、1999年は、フロイトが『夢判断』を出版してからちょうど100年だという。フロイトなら、「七色の桜の夢」をなんと診断するのだろうか。「酒」に「桜」に「虹」。なんだか意味ありげ。なんとなく欲求不満の権化みたいにいわれそうな気もして、かなりいやな心持ちがするのは否めない。

 *

これは、10年前の日記に書き留めていた初夢の記録。今年も初夢をみたのだけれど、これがまた、ヴァンパイアの登場する夢だった。ヴァンパイアが世界中で増殖している。でも、ヴァンパイアになると、物事が高精度、高速度、高密度に見えるようになるという。なんだか、コピー機の性能みたいだ。ヴァンパイアはそのへんにふつうに生息していて、私と会話をしたりするのだけれど、「怖い」という意識は夢の中でもきちんとあって、その「怖さ」が、ちょっといい感じなのであった。

2009年1月3日土曜日

●俳句甲子園2008

俳句甲子園2008


資料映像



2009年1月2日金曜日

●ペンギン侍 第3回 かまちよしろう

連載漫画 ペンギン侍 第3回 かまちよしろう

2009年1月1日木曜日

●富士山

富士山

『法然』(数年前に刊行)より転載

from east 長谷川裕

江戸に暮らした人々はことのほか富士を愛した。いまでも東京のところどころ、神社の境内や企業の敷地となったお屋敷跡などに、富士講の小富士が散見されるのはその名残りだ。北斎の富嶽三十六景が版を重ねたのも、むろんこの富士人気あってのことだ。

富士は江戸の日々の暮しに一種、独特の感情を与えてくれるものであった。周囲を山で包まれ、おのずと安心できる京都や奈良とは違い、江都の置かれた関東平野は広く、茫漠としている。人々は遠く小さく、ときに蒼く霞み、ときに鮮やかに白雪を被った霊峰を確かめては安心し、小さな喜びを感じていたようだ。

その感情は江戸が東京へと移り変わっても続き、明治、大正、昭和と、東京とその近郊に暮らした人々は、富士を望むたびになにやら得をしたような気分になった。いまでも東京っ子はなにかのおりに富士を発見すると、無心に「あ、富士山」と、子供のように声をあげる。

この気分は津軽出身の太宰治には理解しがたかったようで、彼は『富嶽百景』のなかで、富士を「風呂屋のペンキ絵でも見るようだ」とくさし、それでもそこに月見草を配することで、まあ、悪くはないじゃないかと、ちょっぴり救済する。太宰にとっては本家の富士山よりも、津軽富士つまり岩木山のほうが、ずっと親しかったのだろう。

小学校のころ、放課後の夕暮れに校舎の二階から富士を見た。赤い空を背景に三角形の黒い影がはっきりと遠望できた。季節風に乗って飛雪が頂上から南に向かって流れているのまで見えた。茜はしだいに紫に変わり、ついに富士の山影が群青に溶けていくまで、ずっと眺めていた。小学校は東横線の祐天寺駅のすぐ近く。当時はそんなところからでも富士が見えたのだ。

ずいぶん建物が立てこんでしまったが、いまでも中央線の国立、国分寺あたりからなら、冬の朝や夕暮には堂々とした富士山が見える。そんなとき相変わらず、ちょっと得をしたような、いい気分になるのである。


from west さいばら天気

富士山が日本という国の象徴のようになったのは明治期らしい。『小学唱歌』には、「あふぎみよ、ふじのたかねのいやたかく、ひいづるくにのそのすがた」とある。太陽が昇る国、秀でた国で仰ぎ見る高嶺。それが富士山だという。

ところが日本の西方に暮らしていると、実際の富士山を見ることはあまりない。富士山とは、教科書や絵本にある富士山、すなわち三峰になった頂上に白く雪を戴き、なだらかな稜線を持つ左右対称の高峰。富士は「山」ではなく「図像」であった。

明治に誕生した政府が治める日本は、やがて西欧との戦争へ。そして富士山には「フジヤマ」という異国情緒たっぷりの表記が加わる。ジパング観光にはゲイシャとフジヤマが欠かせなくなったということか。だが、フジヤマもゲイシャも、どこか遠い国の話を聞いているようだ。みずからの姿が写っているはずの鏡には、誰のいたずらなのか、色彩の濃い絵はがきが貼られている。そんな感じさえする。

十代の頃、はじめて東京へと向かう新幹線の窓から、富士山が見えた。その後、退屈な海外旅行からの帰途にも一度だけ富士山が見えた。

日本という国に親和と違和の双方を抱いて暮らすとき、富士とは、この一三〇年ほどのあいだ首都である東京という町の西方に立つ襖(ふすま)のような存在である。あるときは優美にも荘厳にも見えるが、あるとき、その存在は凡庸でおしつけがましい。通りすがりにこの山、富士を眺めるときでさえ、私たちは、歴史や社会から自由ではないということだろう。