相子智恵
草餅や縄文土器に調理痕 小滝徹矢
句集『赤道の国から』(雙峰書房 2017.10)所収
縄文土器に調理をした痕があったというのは、数年前に研究で明らかになったことのようである。現在の私たちと同じように煮炊きをしていた遥か昔の祖先のことを思いながら、草餅を食べている。草餅の起原もかなり古いようだが、草を練り込むところに原始的な感じがあり、どこか鄙びた和菓子である。木の実などを主食に食べていた縄文時代と遠く響き合う面白い取り合わせである。
ツイッターには愚痴るか眠い人か具合悪い人しか居なくて— 山田孝之 (@yamadatakauki_) 2018年4月28日
FBだと結婚した人と子どもが生まれた人とサプライズされた人しか居なくて
インスタだとオシャピクした人と夕焼けの写真撮った人とクリームがめっちゃのったすごい飲み物を飲みながら、得体の知れない色のスイーツ食べてる人しか居ない
俳句作品から受ける印象が、必ずしも作家の人物像に一致するものでないことは大方の知るところであろう。(…)俗世間に生きる俗人としての自分が、その世俗的な気分のままで俳句を詠むのではない(…)詩人が詩人の仕事に取りかかるとき、そこには必ず俗気にまみれた日常の「我」から精気ただよう非日常の「われ」へと飛躍するための人格変換が行われるのである。これに首肯する人としない人、両方がいるでしょうが、いずれにせよ、社会的人格と俳人としての人格は別のような気がします。さらには、ネット人格も別。
誰かに献辞を呈す、あるいは誰かに謝辞を捧げるような殊勝な心持ちは、とうになくしているので省略する。関係各位には諒とせられたい。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
(同前、150-151頁)
「僕がいかに学生生活を無駄にしてきたか、気づいたのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生のころに選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」先に引用したのは、この弟子のことをたしなめる樋口師匠の言葉であった。師匠はさらに弟子に問う。
(同前、150頁)
「君はバニーガールになれるか? パイロットになれるか? 大工になれるか? 海を股にかける海賊になれるか? ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか? スーパーコンピューターの開発者になれるか?」「なれません」と弟子が答えると、樋口師匠は葉巻を弟子に勧めて、こう言うのだった。
(同前、151頁)
「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」樋口師匠は、ひとびとの存在は可能性ではなく不可能性によって規定されているという。それは、逆にいえば、あるひとが今ここに存在しているありようこそがそのひとにとっての必然であるということだ。 可能性は当てにならない。不可能性こそが確かなものなのだ。だから、可能性に望みを託すことは悪いことだ。そう樋口師匠は主張する。
(同前、151頁)
物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。つまり、一切の物は今ここにあるようにしかありえなかったというのである。これは、樋口師匠が弟子に対して「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない」と言っていることと重なり合う。
(第1部、定理33。以下、『エチカ』からの引用はすべて畠中尚志訳(上下巻、岩波書店、1951年初版、1975年改版)による)
ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質ないし定義からか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。 次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。ひとが何かを偶然とか可能とか呼ぶのは、たんにその物が必然なのか不可能なのかを判断する材料が欠けているからでしかない。スピノザにとって、一切は必然であるか、そうでなければ不可能なのだ。樋口師匠の言う「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」とは、要するにこのことではなかったか。
(第1部、定理33、備考1)
いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。善については、次のとおりだ。
(第4部、定理30)
物は我々の本性と一致する限り必然的に善である。そして、このことからスピノザはひとつの帰結を導く。
(第4部、定理31)
この帰結として、物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する、ということになる。関連して、スピノザは次のとおり述べてもいた。
(第4部、定理31、系。太字は原文では傍点)。
そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく(なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬ではなくなってしまうから)、単に「彼の活動能力――彼の本性を活動能力と解する限りにおいて――が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。(第4部、序言)馬が人間になってしまったら、それはもはや馬ではないとスピノザは言う。とすれば、人間になることは端的に馬の本性に反したことであろう。同様に、樋口師匠は「いわゆる薔薇色の学生生活」というものは「バニーガール」や「海賊」や「大怪盗」になることと同じくらい彼の弟子の本性を外れたことであると考えているように見える。ところで、「いわゆる薔薇色の学生生活」が、仮に彼の弟子が自らの本性に一致するのを妨げるものであるとすれば、それは彼の弟子にとって悪であるということになりはしないか。
希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな喜びである。これに対して、恐怖は次のとおり定義される。
(第3部、諸感情の定義12。太字は原文では傍点)
恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな悲しみである。そして、「これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる」(第3部、諸感情の定義12および13、説明)。なぜか。
(第3部、諸感情の定義13。太字は原文では傍点)
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