2015年2月28日土曜日

【みみず・ぶっくす 16】 ひとでなしのうた 小津夜景

【みみず・ぶっくす 16】 
ひとでなしのうた 小津夜景





    いかなる起源にも
    いかなる調和にも
    憧れることのない
    ひとでなしが
    天地のみえない霞の中を
    のんきに舟で漂つてゐた
    ひとでなしは
    自由の枷をまとひ
    同じ歌を歌つては
    天地の間を縫つた
    虫のやうに
    鳥のやうに
    踊るやうに
    巡るやうに
    同じ歌ばかりを歌つた
    記憶の沈殿なる宮殿を
    古きよき音色で満たし
    春の粒なすひかりへと
    心のすべてを甦らせた   
    生まれたことが
    いまだないから
    死ぬこともない
    ひとでなしだが


永訣のわれらに春の虎屋かな
惑星儀いまは亡き音を棲ましむる
囀りはゾンビのやうに眩しくて
わが喉を愛しむものを東風といふ
紙魚をただひとつ残せし聲なりき
古草に忘れられたるてのひらか
木蓮の波紋はもはや耳になく
オルガンを漕げば朧は溢れけり
拒まずよあの息を吐く初虹を
ダイヤルす在りし昔の正夢に


2015年2月27日金曜日

●金曜日の川柳〔浮千草〕樋口由紀子



樋口由紀子






酔っぱらう全人類を代表し

浮千草 (うき・ちぐさ) 1950~

今日は○○日だからとか、酒の肴にいいのがあったからとか、誰かが来たからとか、酒好きの人は何かと理由をつけて酒を飲みたがる。飲みながらもなんやかやと理屈をつけては杯を重ねる。

それにしても「全人類を代表し」とはうまく言ったものである。ここまで思ったことはないはずだが、ひょっとしたらあるかもしれない。お酒を飲むと気分が大きくなり、偉くなったような気になる。飲めば飲むほど気分もよくなり、なんでもこいと思ってしまう。私がみんなを代表して盃をうけ、みんなの代わりに飲んでいる。だから、酔っぱらってしまった。

「無きにしも非ず」の感覚の、誇張の仕方、ユーモア、おおげさな言いまわしはまさしく川柳である。酔っぱらいをいきいきと描き出した。

〈数学は簡単だった生きるより〉〈いざとなったらおばさんという免罪符〉 『夢をみるところ』(あざみエージェント 2009年刊)所収。

2015年2月25日水曜日

●水曜日の一句〔林桂〕関悦史



関悦史








十一人ゐる中二階からの万緑  林 桂

※漢字に「じふいちにん」「ちゆうにかい」「ばんりよく」のルビ


大手拓次の詩句を詞書に用いた連作の中の一句で、「呼吸がミモザの花の香のやうにもつれて空にあがる。」という詞書がつく。

『11人いる!』は萩尾望都によるSF漫画の古典名作。本来いるはずのない11人目が混じった、学生ばかりの宇宙船を描いている。

「中二階」からはニコルソン・ベイカーの小説『中二階』も思い出される。これはこの句の初出と同じ1988年に出版されているが、白水社から邦訳が出たのは1994年なのでこちらはさしあたり関係ないだろう。

「十一人ゐる中二階」は、少ないとはいえない半端な人数と、曖昧な位置が、不安定な充実感を示しているばかりだが、萩尾望都の同名マンガを思い起こすと、「中二階」が宇宙船のような特殊な場の雰囲気も帯びてくる。「万緑」は萩尾望都作品と相俟って、「十一人」の若さを連想させる。

「呼吸がミモザの花の香のやうにもつれて空にあがる」という詞書は、静止した眺めを動的なものに変え、「十一人」に呼吸する肉体を与える。「十一人」相互の感情のゆらめきが捉えられることとなるのである。そしてそれはもつれあって蟠ることもなく、空へ上がってかぐわしく解消されていく。

生身の人とも思えない、若々しさ、瑞々しさの精髄のような「十一人」の存在感や幸福感が、詞書と一句の中の単語同士の関係からのみ形作られている句である。座敷わらしのような、奇妙な、あり得ない11人目とは、この句においては特定の誰かひとりではない。全員がそうなのだ。


句集『ことのはひらひら』(2015.1 ふらんす堂)所収。

2015年2月24日火曜日

〔ためしがき〕 世を捨てる 福田若之

〔ためしがき〕
世を捨てる

福田若之


贈与論という哲学の一分野がある。たとえば、デリダは、時間を与えるにしろ死を与えるにしろ、自分の持っていないものを与えることを問題にしている。「自分の持っていないものを与えること」というのは、ラカンによる愛の定義でもある。

このように、贈与についてはすでに多くが語られているのだが、その一方で、これに近いものとして、もっと考えられていいテーマがあるように思う。それは、放棄というテーマ、捨てることの問題である。

人は、自分のもっていないものを捨てることがある。たとえば、世を捨てる、というとき、しかしながら、この「世」はその当人の所有物ではないはずだ。すくなくとも、その当人だけのものではないだろう。

この「世を捨てる」には別の問いも立てられる――「どこに?」という問いだ。人はこの「世」の中でしか、また、この「世」の中にしか、何かを捨てることはできないのではないか。捨てるには、捨て場が、したがって、空間が必要である。

デリダは、死を与えるという行為についての思索を、旧約聖書のなかの、アブラハムがイサクに死を与え、また、そのイサクの死を神に与えようとする(そして、それを止められる)場面についての考察を通じて展開する。では、世を捨てるという行為の具体例として、ここでふさわしいテクストはいったい何だろうか。

直感的にだが、やはり、西行が最もふさわしいのではないかと思う。次の歌は、『西行法師家集』の第137歌で、 西行が出家する前に詠ったものだと伝えられている。

世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

西行は、世を捨てる人は本当に捨てるのだろうか、と問い、捨てない人こそが捨てるのだよ、と答えるのである。この、西行にとっての捨てることの困難は、デリダにとっての与えること の困難に似ている。デリダは、贈与は贈与として意識されてしまうかぎりで、真の贈与ではないと主張している。見返りの可能性がある贈与は、真の贈与ではな く、交換に過ぎない。その場合、贈与は贈与とともに押し付けられた負債によって帳消しにされてしまう。西行においても、捨てることは、捨てることと して意識されてしまう限りにおいて、真に捨てることではないのである。

この歌は、初出の『詞花集』では、〈身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ〉のかたちで、詠み人知らずの歌として収録されている。身は自分のものであって、世は自分のものではないと捉えるなら、捨てることの困難は身と世とで異なるように思われるかもしれない。しかし、実際にはこの困難は同一のものだ。身もまた自分のものではない。僕らは身を持っているのではない。僕らは身を所有していない。僕らが身なのだ。こう考えれば、世を捨てることの困難も、身を捨てることの困難も、本質的にはそれが自分のものではないことに端を発している。

ハイデガーの世界‐内‐存在の概念に照らし合わせれば、 身を捨てることの困難と世を捨てることの困難が実はひとつのものであることが明らかになるだろう。世とは世界であって、身とは存在であると捉えることができるはずだ。そして、世界‐内‐存在という発想に基づくなら、それらは同時にしかありえない。それをそれとして生きるのが人間なのであって、世を捨て、すなわち身を捨てることは、人間をやめることである。だからこそ、「世捨て人」という言葉には人間をやめてしまった人というニュアンスが篭るのだろう。

ところで、『西行物語』には、この歌のさらなる異型がみられる。〈世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ〉というものだ。後の世になって書かれた物語文学である以上、歴史的な正当性は乏しいとされている『西行物語』であるが、こちらのほうが世を捨てることの困難をよりふさわしいやり方で示しているように思われる。捨てない人を「捨てる」とは言うものだ、という答えは、世を捨てることが可能であるということ自体をまだ認められないでいる。とりあえず、どう世に言うものかを答えるにとどめているのである。『西行物語』に載る異型は、したがって、それ自体、世に依存している。その限りで、世をまだ捨てることができないでいるのである。捨てない人こそが捨てるのだ、という言い方には、やはり破綻がある。捨てない人を「捨てる」とは言うものだ、と返すことそれ自体によって捨てられていないことを示しているこの異型のほうに、より洗練された答えがあることは確かだろう。そして、この歌の興味深い点は、それ自体が西行の歌のもとの形への応答になっているという事実である。だれが〈捨つるとはいふ〉のか。西行が言ったのであり、西行の後の世の人々がそう言うのである。そして、そのことによって、この異型は、もとの歌の西行が依然として世を捨てることができず、そこにありつづけていることを語りさえしている。

そして、この歌の西行が世を捨てられないでいるということは、この歌の成立について伝えられていることとも合致する。というのも、先に述べたように、この歌は西行が世を捨てる前に書いたものであって、この西行は、まだ世を捨ててはいない西行だったのだ。では、出家してからはどうなるだろう。続けて挙げるのは、『山家集』の第1415歌から第1417歌までの三首である。

ひときれは都を捨てて出づれどもめぐりてはなほ木曾の懸橋
捨てたれど隠れて住まぬ人になれば猶世にあるに似たる成けり
世中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我身成けり


ひところは都を捨てて出たのだが経巡ってやがてもどって来る木曽のかけ橋だと詠う西行、捨てたのだが隠れては住まない人になるのでまだ世にあるのと似ていると詠う西行、世の中を捨てて捨てることが出来ない心地がして都を離れない身であると詠う西行。これらの西行には、捨てることの困難がほとんど呪いのように付きまとっている。西行は、付きまとわれることによってこそ、捨てることの不可能を知るのである。なおも捨てたはずのもののうちにあり、なおも捨てたはずのものを離れることができない。「世」は、なおもそこにある。

それにしても、「捨てて捨て得ぬ心地して」というのは奇妙な言い回しだ。すでに「捨て」ているにもかかわらず、どうして「捨て得ぬ心地」などと言いうるのか。

だが、ここであえて、すでに捨てたからもはや捨てられない、と読むならどうだろう。世をもはや捨てられないことによって、世はいつまでも付きまとうのである。

そして、実はこのときにこそ、西行は本当に捨てたのではないだろうか。 もはや捨てられないという諦念を持つに至ること、これこそが捨てることなのではないだろうか。人はこの局面において、捨てることを、捨てる。諦念は獲得され、持たれる。だから、この場合、捨てることは一種の獲得なのであり、持っているものを減らすのではなく、増やすことなのである。

続く第1418歌では、西行はこう詠っている。

捨てし折の心をさらにあらためて見る世の人に別はてなん

捨てたときの心をいっそう新しくして、目にする世の人とすっかり別れてしまうつもりだという。こうして移り変わる西行の心が、続く第1419歌に表わされる。

思へ心人のあらばや世にも恥ぢむさりとてやはといさむばかりぞ

人がいたら世にも恥じるのだろうか。人がいるからといってそうではないのだ、と奮い立つばかりだという。 西行が向き合う相手は世から人へとすり替わり、問題は世を捨てることから世を恥じることへとすり替わっている。もはや世を捨てることなどどうでもよい。そして、この無関心に至ることこそが、他でもなく、世を捨てることなのかもしれない。


*上記の歌の引用は、一首を除いて、すべて『西行全歌集』(岩波書店、2013年)による。〈世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ〉のみ、桑原博史『西行物語 全訳注』(講談社学芸文庫、1981年、71頁)から引いた。ところで、この〈世を捨つる〉の一首は、『西行物語絵巻』徳川黎明会蔵本では〈世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人をぞすつるとはみる〉(『西行物語絵巻』、中央公論社、1979年、12-13頁)とされている。「いふ」と「みる」の違いは、言葉だけの物語と絵巻との形式の差異に対応したものだろうか。この異型においても、捨てない人を捨てると見るのは世のまなざしであるだろう。

2015年2月23日月曜日

●月曜日の一句〔林桂〕相子智恵



相子智恵








「ぼくのパスを受けるのはアックンしかいません。アックンのパスを受けるのはぼくしかいません」
如月や霏霏と天球儀の台座  林 桂

『ことのはひらひら』(2015.1 ふらんす堂)より

※原文の俳句は総ルビ

長い詞書を伴った一句である。俳句の漢字にはすべてルビが振られているのだが、テキスト形式というネット媒体の特性上、ルビを振ることができないことをお許しいただきたい。句集の巻末には著者による長い後記があって、本句集における俳句と詞書との関係は以下のように記されている。

歌物語は、詞書の発展形として言葉を増やし、歌を物語の時間と解釈の中に沈めた究極だ。しかし、散文によって物語世界を作るのではなく、あくまで詞書の範疇に止まって、詞書と俳句が響きあう詩的な俳句空間を作ることができるのではないか。(中略)それは何処か俳諧の付句の関係に似ているようにも思える。

まずは俳句を読んでみよう。〈如月や霏霏と〉までで、私の脳裏にはまず春の雪が浮かんだのだが、そこから〈天球儀の台座〉へとつながって、天球儀から星が降るイメージへ、さらには実際の星空から地上に絶え間なく星が降ってくるようなイメージに転化された。如月の冴えた光を放つ星々がまばゆくて、抽象的ながらたいへん美しい句である。

次に詞書。少年の言葉だろう。サッカーやバスケット、ラグビーといった、他者とボールをパスしながら試合を進める球技が想像される。「アックン」と呼ばれる少年と発話者である少年の、思春期らしい濃密な友情が伝わる。部活動だろうか。

この両方を読んだ時、詞書のボールのパスの軌跡が、天球儀の星の軌道と重なって、キラキラした青春性を感じた。天球儀というものも、いかにも学校の理科室の隅にありそうである。「詞書と俳句が響きあう詩的な俳句空間」を一読者として感じた。

さて、ここまで一句だけで読んできたのだが、この句は「竹内暁寿君へのひらひら」と題された一章に収められている十五句のうちの一句で、じつはその十五句の詞書だけを順に読んでいくと、この句が詠まれた経緯がわかる。つまり「歌を物語の時間と解釈の中に沈め」るように詞書同士が結びつき、散文的効果を生んでいるのだ。

物語(散文)というのは強いもので、まとめて読むと詞書の文脈でしか俳句を読めなくなるのだが、そこへきて、ひとつひとつの詞書と俳句が無関係ながら響きあうという荒業で、逆に物語化を阻止し、ひとつの詩世界を広げようとする。本書は「詩的な俳句空間」と「物語世界」が拮抗して引き合い、まるで細胞一個一個と身体全体がともに主張し合うような、不思議な味わいに編集された句集である。それでも破綻せずに案外読みやすいのは、俳句全体のトーンというか作者の作風が抑制された抒情で一貫しているからか。二十八年間の句が収められているので若い頃はゴツゴツと実験的な句もあるが、次第に透明度が増しているような気がする。

2015年2月21日土曜日

【みみず・ぶっくす 15】 軋む光、波の骨。 小津夜景

【みみず・ぶっくす 15】 
軋む光、波の骨。 小津夜景



【みみず・ぶっくす15 】
軋む光、波の骨。  小津夜景

海に出ると
階段があつて
陽の差してゐる窓から
遠くを見晴らす場所に
ピアノの音が聞こえる
巻貝の階段をのぼれば
扉の向かふは海で
波の骨が
音楽をつくる
おびただしい骨に
海原がみしみしと
弦を軋ませるとき
部屋を満たしてゐる
ひかりの正体は海で
陽の差してゐる窓が
私の眸だと知るとき
ピアノの音が聞こえ
巻貝の果てをひらく
そこが夜になるまで
波の骨を
拾ふため

春雨を吸ひこむごとき夜の窪に
ゐるいまいろもみづもみえない


淡雪のうみに染みなす画幅あれ
花媼醒めて狂気を尋ね合ふ
背骨よりはづす鍵とは孤舟なり
貝殻とつぶやく春のつはぶきが
天蓋がピアノの影であつた頃
銀箔を剝ぐたび波は古びしか
音速の耳に希はれたる午後を
鳴る胸に触れたら雲雀なのでした
崑崙のあまねく恋の霞とは
春の雨この音のない夜の窪に

2015年2月20日金曜日

●金曜日の川柳〔早川清生〕樋口由紀子



樋口由紀子






少しなら飲んでもという医者に替え

早川清生 (はやかわ・せいせい) 1929~2008

酒を題材にした川柳は多い。「飲んでも」は「飲んでもまあいいかな」と「飲んでもいいでしょう」の間だろう。

突発性難聴になったときに、さてお酒は飲んでもいいのかと悩んだ。注意書きにお酒の項目はなかった。書いてないということは飲んでもOKなのだと解釈したいのだが、飲んだらだめに決まっているからわざわざ書いてないのであって、悩むことすら理解できないとお酒を飲まない友人にあきれ顔で言われた。しかたないのでおそるおそる担当医に尋ねた。勧めませんが、それでストレスがたまるのなら適量はいいですと言われた。そのときにこの医者でよかったと心底思った。「飲んでも」が実感としてよくわかる。

2010年に早川清生遺稿句集『よしきり』が刊行された。それによると清生は「下戸」であったらしい。掲句は客観的川柳であった。酒飲みの心の動きを見事に突いている。〈病院の横でも医院食ってゆけ〉〈喪服着た時褒められたことがある〉

2015年2月18日水曜日

●水曜日の一句〔高岡修〕関悦史



関悦史








月光の立棺として摩天楼  高岡修


高層ビルから墓を連想した句に、福永耕二の《新宿ははるかなる墓碑鳥渡る》があるが、この句の情趣はそれとはかなり異なる。福永耕二の句では、遠景のビル群と渡り鳥が地上から眺められ、生活に根差した感情が背後にあることが感じ取れる。

ところが高岡の句では、渡り鳥の生気や郷愁も「新宿」の猥雑さもなく、立棺と化した摩天楼が「月光」の静寂のなかに屹立するのみである。

格助詞「の」が両義的で、外から摩天楼を照らしているはずの「月光」が、文法的には棺のなかに納められている当の死者のようにも見える。

棺となった摩天楼に納められる死者とは都市文明や、あるいは人類文明そのものだろう。地球上の文明はいずれは必ず滅ぶ。しかしそれは棺に入っても、横になって休むことを許されない。生きながら既に死に、死にながらまだ生きている、そうした、未来と現在とを見渡した形で、摩天楼は立棺に擬されている。

シャッターを開けっ放しにして撮られた天体写真のように、動く人の姿は消え、月光と摩天楼のみの像となるが、棺と言われたことで却って「摩天楼」に生の気配が残った。

「月光」自身を棺に入る死者のように見せて内外の差を無化してゆく「の」が要請されたのも、未来と現在、死物と生とを併せて視界に収めることをこの句が欲したからにほかならない。その結果、一見静的なこの句は、無限にも通じるひそかな湧出感を持つことができた。

この句はマンションの看板のような、未来の一時点に視座を固定した平板な予想図ではないのである。


現代俳句文庫76『高岡修句集』(2014.12 ふらんす堂)所収。

2015年2月17日火曜日

〔ためしがき〕 指を使うヒント 福田若之

〔ためしがき〕
指を使うヒント

福田若之


学校に置いてあるアップル社製のマウスについていたリーフレット


 「マウスの使い方」ではない(そうであれば書くことは何もなかっただろう)。「指を使うときのヒント」だという。

ここで二つの疑問――
・なぜ、「マウス」ではなく「指」なのか?
・なぜ、「使い方」ではなく「使うときのヒント」なのか?

「マウス」ではなく「指」であるのは、おそらく、二つの思想の露骨な現われなのだろう。

その思想の一つ目は、心身二元論だ。「指を使う」という表現における身体の客体化は、身体が精神と別物であることを前提としているから。

そして、二つ目は、技術が人の行動を規定するという技術決定論の思想だ。道具が自分の使い方を規定するのではなく、使い手の身体の動かし方を規定するのは、この思想においてである。マウスがなければ、人は、ワンボタンクリックすることも、ツーボタンクリックすることもないということが、この思想を支えている。

人が道具を使う、というかつての人間中心主義の神話は、人が道具を作る、というかつての創造の神話に支えられていたのだろうけれど、このように、今日では人はもはやそれを信じることができない――という今日的な神話があって、人はそれを信じている。しかし、だからといって、道具が人を作るというこのロシア的倒置法も、そうたやすく信じられるものではないだろう。おそらく、ことはそう簡単ではない。道具が人を作るのは、人が道具を使うかぎりでのことなのだから。

たとえば、道具を前にして予定された動きを禅問答的にかわしてしまうことはできないだろうか。しかし、ほかならぬ「ヒント」という表現が、その可能性を封じる。つまり、正しい「使い方」が提示されていない以上、どんな動きも厳密には予定されていないのだから、この「指を使うときのヒント」はマウスを使ったマウスを使わないあらゆる行為を許容していることになる。

そして、このマウスには正しい使い方がないので、間違った使い方もないことになる。すなわち、どんな使い方も許されるのであり、正しい使い方である。ここで、いま、このマウスには正しい使い方はないのだから、このマウスにはどんな使い方もないことになる。したがって、とんでもないことに、このマウスは使えないということになる。

いや、もちろん、人は現にマウスを使うことができただろう。ただし、もし、「指を使うときのヒント」が与えられていなかったならの話だ。このマウスは使えない、という帰結は、「指を使うときのヒント」を読むことによって導かれたものだ。だから、逆に言えば、「指を使うときのヒント」を読む限りで、人は、マウスを使うことができなくなる。

「指を使うときのヒント」は、こうして、巧妙にマウスを脱道具化する。 このとき、もはや人はヒントを頼りに指を使うほかない。ユーザーインターフェースのこうした脱道具化は、人に身体の全能感をもたらすだろう。人は身体を使うのに夢中になる。そして、もはや身体以外に道具はなく、ただ指を使ってコンピュータを操る。いずれはコンピュータも脱道具化されるだろう。そのとき、人は身体以外のどんな道具についてのどんな認識ももたずに、脱道具化されたものたちに囲まれて生きることになるのだろう。

ひとつの可能性――それでもあるとき、ついに、脱道具化されたものが寿命を迎え、故障する。そのことによって、人ははじめてそれを道具として認識するだろう。脱道具化された状態が正常なのであれば、それが壊れたものは、道具に違いないのであるから。

2015年2月16日月曜日

●月曜日の一句〔綾部仁喜〕相子智恵



相子智恵







雛壇の奈落に積みて箱の嵩  綾部仁喜

藤本美和子著『綾部仁喜の百句』(2014.10 ふらんす堂)より

雛人形たちの舞台である絢爛豪華な雛壇。その裏側の暗い隙間を、歌舞伎の舞台の下にある〈奈落〉と呼んだ面白さ。そこには雛人形が入っていた箱が、人目につかぬように積み重ねて置かれているのである。〈箱の嵩〉によってその箱の多さがよくわかり、この家の雛人形の立派さが伝わってくる。

掲句は句集『山王』所収であるが、綾部仁喜氏の弟子である著者の藤本美和子氏の解説によれば「発表当時の句は〈雛壇の奈落に積みしものの影〉であった。仁喜は推敲に推敲を重ねる人で、句会で見た俳句が発表時には全く姿を変えていることがよくある」という。

なるほどこの推敲は見事だと思った。描写がクリアーになって景が強くなっている。鑑賞本を読んでこのような鑑賞を書くというのも変な話であるが、こうした普通の人は知りえない作句現場を知ることができるのも、鑑賞本の面白さであろう。

2015年2月15日日曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2015年2月14日土曜日

【みみず・ぶっくす 14】 西瓜糖カンフーの日々⑵ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 14】 
西瓜糖カンフーの日々⑵ 小津夜景




 こんにちは。
 ここはまだ「はじまりのつづき」です。
 私はまだこちらの世界にいて、西瓜糖の世界のことは何も知りません。
 そこはよいところだけど、虎がいるかもしれないから、簡単には行かせてもらえないみたい。
 私が今してるのは、ふつうの勉強と武術の稽古。
 私の武術が無術の域に達した時、私は「逝く」そうです。
 逝ったくらいの達人でないと、あの世界の住人になれないと、教師は言います。
 でも。それってどういうこと?
 ……。
 ほんと言うと私、西瓜糖の世界のこと、結構知ってるんですよね。リチャード・ブローティガン著『西瓜糖の日々』は中学の頃から愛読してたので。
 ただ私の通っている学校はレイ・ブラッドベリ著『華氏451』みたいに読書禁止だから、このことは誰にも言ってないんですけど。
 あの本を読んだ印象では、あそこは全然おだやかな場所なんかじゃなくて、かなり鬱鬱とした灰色世界。
 失語園っぽいんですよ。

〈アイデスではどこか脆いような、微妙な感じの平衡が〉
〈わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから〉
〈そう、なにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるだろう〉

 なにもかも西瓜糖の言葉で話す、ということは、西瓜糖の言葉で語り得ないことは、決して語られないということ。
 自然発火する本みたいに、それに関することばがゆらゆら燃えてしまう世界だということ。
 キナ臭い。
 あと「武術が無術の域に達する」と聞くと一見「天下無敵」のことかと錯覚しそうになるけど、でもこれふつうに読み下せば「術無し」のことだし。
 だから、無術家と成ってそこに出かける、というのはある種の洗脳が仕上がったあとの崩壊プレイなんじゃないか
 って最近思うんです。
 もしくはアイデスとは、かつての工作員(なんのだろう)しか棲んでない廃兵園なんじゃないかなって、
 綴りも iDEATH だしって
 最近思うんです。
 つまり、
 あそこに逝っちゃいけないんじゃないかな、って。


脚千体かがみて春を葬してみろ
総重量かげらふほどの暗器なり
神技はロゴス字
(あざな)は死のロード
死者光る風速うぱにしゃっどかな
天穹やダークホースの乱れ髪
はんなりと怖い華道部の手口は
抱き首で肉投げ合ふやもの狂ひ
教師三十六房僧と化し朧
戈が手を掴むが「我」と梅曰く
戦ぐのですわれ〈我死
(アイデス)〉の草ゆゑに

2015年2月13日金曜日

●金曜日の川柳〔北田惟圭〕樋口由紀子



樋口由紀子






四基みな過去を忘れたふりをする

北田惟圭 (きただ・ただよし)

福島原発事故からもうすぐ四年が経つ。復興は進んでいない。事故処理や除染や健康対策が動いているようには見えない。「アンダーコントロール」されていない。報道も少なくなった。東電や政府は忘れたふりを通り越して、すっかり忘れてしまっているかのようである。御上の人はふりをするのが上手である。

しかし、福島原発の四基は忘れたふりをしているだけで決して忘れてはいない。忘れられるわけがない。置き去りにされていることへの怒り、責任回避と失敗の積み重ねへの痛烈は批判である。「過去」がふたたび起こる可能性も否定できない。地震は頻発におこっている。

〈ゼノンの亀と手を繋ぐアベノミクス〉〈明日は汲む 核の汚れのない水を〉〈幕上がる兵器会社が花道に〉 『点鐘雑唱』(2014年刊)所収。

2015年2月11日水曜日

●水曜日の一句〔対馬康子〕関悦史



関悦史








桜鯛眼のごうごうとして開く  対馬康子


単に一物の写生句というよりも、対象に見入り、見入られ、その向こう側まで目が突き抜けてしまったような句。

魚類のつねとして鯛にも瞼はなく、その眼は普段から開きっぱなしのはずだ。「ごうごうとして」という超現実的なオノマトペの不穏さ、激しさがまず際立つが、じつは「開く」にも現実からの微妙なずれが仕組まれているのである。

その眼はただ付いているのではなく、今初めて開かれたかのような、ただの魚にはふさわしからぬ、広大なものへの通路としてある。シェイクスピアの戯曲を読むと、大方人間同士のやり取りのみが描かれているにもかかわらず、ときに宇宙的なものの立ち騒ぎを感じさせるが、そうしたことを連想させないでもない。

ただし、句そのものは、別段宇宙大の霊的な広がりなどを直接描いたものではない。ごく平らかな鏡面のようなものだ。その鏡面を境目として、桜鯛の眼の向こうに、そして桜鯛と見つめ合うこととなった語り手の眼の内界に、「ごうごうたる」領域が開いていることに気付かされるのである。


句集『竟鳴』(2014.12 角川学芸出版)所収。

2015年2月10日火曜日

〔ためしがき〕〈俳句を絶するもの〉 福田若之

〔ためしがき〕
〈俳句を絶するもの〉

福田若之


より正確には、もしそれがありえたなら、さしあたり〈俳句を絶するもの〉と呼ぶほかなかっただろうもの。もしそれこそが俳句を書くということがもたらす究極的なもの――すなわち、原初的なもの、かつ、最終的なもの――だったとしたら、俳句は自らのうちに死の欲動を抱え込んだだろう。なぜなら、「俳句を絶するもの」というこの言葉は、一方では、単に「俳句を超えるもの」という意味に解釈されるだろうけれど、他方では同時に、「俳句を絶やすもの」という意味に解釈することもできるのだから。
しかしながら、この「俳句を絶やすもの」という含意の通常のニュアンスに反して、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、それがあの「俳句以後」に結びつくことはなかっただろう。なぜかといえば、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、きっと、まさに俳句を絶するというその本性によって、俳句を基準とした時間の概念さえも超え出てしまっただろうし、それによって、俳句を基準にした時間の概念ごと、俳句を絶やしてしまっただろうから。つまり、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、それは俳句の過去・現在・未来のいずれにも、したがって、「俳句以後」にも、属さなかっただろう。したがって、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたとしても、僕らが俳句の側に立つ限り、それはただ仮定法によってしか正確に叙述できなかっただろう。

したがって、もし〈俳句を絶するもの〉と俳句とのあいだに何かしらの関係がありえたとしても、それは、ただ仮定法によってのみ正しく語ることができるにすぎないものだっただろう。(「俳句が〈俳句を絶するもの〉だったらよかったのに!」)

そして、もしそうだったなら、「俳句が〈俳句を絶するもの〉だったらよかったのに!」は、もはや単に「〈俳句を絶するもの〉は俳句である」ことを意味しなかっただろうばかりか、それと同じぐらい、「〈俳句を絶するもの〉は俳句ではない」ことを意味しなかっただろう。これら二つの文は、その構文が仮定法ではないために、もはや翻訳の失敗にすぎないものだからだ。したがって、通常のようには――すなわち、「私が鳥だったらよかったのに!」から「私は鳥ではなく、そのことが残念だ」を読み解くようには――いかなかっただろう。

それどころか、もはや単純に「〈俳句を絶するもの〉は俳句を絶する」ということもできなかっただろうし、「〈俳句を絶するもの〉が俳句を絶するだろう」という予想さえも立たなかっただろう。言えることは「〈俳句を絶するもの〉だったら、きっと俳句を絶しただろうに!」ということだけだっただろう。しかしながら、もちろん、この文に「〈俳句を絶するもの〉が実際に俳句を絶することはないだろう」という含意を認めることはできなかっただろうけれど。ただし一方で、この文には、「〈俳句を絶するもの〉ではないものが俳句を絶することはない」ことが、確かに含意されていることを認めておこう。したがって、俳句と〈俳句を絶するもの〉ではないものの関係は、仮定法によらずとも正しく語ることができることを認めておこう。そして、もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、これこそが〈俳句を絶するもの〉と〈俳句を絶するもの〉ではないものを分かつ差異となっただろうということを、認めておこう。

そして、もし〈俳句を絶するもの〉と〈俳句を絶するもの〉ではないものの差異が上記のようなものだったなら、仮定法が憧れをともなう幻想について語るものである以上は、次に述べることは正しいことになっただろう。もし〈俳句を絶するもの〉がありえたなら、それは俳句にとっての幻想に他ならなかっただろう。ただし、「〈俳句を絶するもの〉がありえない」とは断言できなかっただろうにもかかわらず、そして、それゆえに、ここでも仮定法を使わざるをえなかっただろうという限りにおいて。いまは、このことだけを書いておく――半ば書き捨てておく――ことにしようと思う。これ以上は、「ためしがき」にはそぐわない。

2015年2月9日月曜日

●月曜日の一句〔西村和子〕相子智恵



相子智恵







目に残るとは消ゆること春の雪  西村和子

句集『椅子ひとつ』(2015.1 角川学芸出版)より

たしかに残像とは目に見えていたものが消えて初めて生まれるのだなあ、とあらためて思う。「見ていたものが消えて、目に残った」という時系列の書き方ではなくて、〈目に残るとは消ゆること〉と、消える方に焦点を合わせることで、喪失感が際立つ。

これが降っても融けやすい「春の雪」と結ばれることで、季語の本意にずばりと迫っている。降り続ける(それは融け続け、消え続けることでもある)春の雪を見ながら、消えてゆくからこそ目に残るのだと、消えてゆくということの大きさに気づかせてくれる。春の雪を見ていてこの思いに至ったのであろうが、春の雪が下五に置かれ、思念のほうが先に提示される効果が大きい。それが思念と実景の往還を経て、読者のイメージに深く刻まれるアフォリズムのようになるのだ。

『方丈記』の「ゆく川の流れは絶えずしてしかも、もとの水にあらず」にも通じる、日本人の無常観がこの句にはある。

2015年2月7日土曜日

【みみず・ぶっくす13】またとない日が 小津夜景

【みみず・ぶっくす 13】 
またとない日が 小津夜景





【みみず・ぶっくす 13】
またとない日が

ミモザが咲くと聞いて
わたしはあたまを首にのせ
きれいな壁を伝つていつた。
囀りの内側にもぐりこむと
石で刻まれた台座の上に
これまた巨きなあたまをもつた
ミモザが覆いかぶさつてゐた。
わたしのことばは何語でもなく
むかしの人が腰に手をあてて
器用に足首を交差させてみせた踊りと一緒だから
こんな廃墟をみつけるたび
わたしはあたまをゆるがして
その上にことばを垂らしてみる。
わたしからこぼれることばは
何語でもなく
崩れた壁の内部に香る。
石の台座がさらさら鳴る。
ここがずつと春だと思つてゐるらしい。
知らない季節を知らないままに
岩壁はしづかに陽に晒されてゐる。
終はつたものが永遠をうごかしてゐる。
典型にふちどられたるかなしみが
すべての影を横顔にする。


またとない日がまたの名を語りけり
囀りのだんだん凄うなる廃墟
フランケンシュタイン花月五百年
また終はるための光のくらげかな
虹のないここを路上と名づけたり
さふらんを生んで鏡を彷徨ふの
永遠はうごく剥製 蔦の手を
しはぶきにたなびく旅の雲のこと
われ冬のあるかなきかに触れてしか
しんしんと夜間飛行の薬缶かな

2015年2月6日金曜日

●金曜日の川柳〔山本卓三太〕樋口由紀子



樋口由紀子






ポケットの 底から 雨が降っている

山本卓三太 (やまもと・たくさんだ) 1893~1966

ポケットの外、外界は快晴なのかもしれない。しかし、自分のポケットの中は雨が降っている。私だけに、誰にも気づかれずにしんしんと冷たい雨が降っている。たかが「ポケット」だが、その冷たさはじわじわと身体中に広がり、「底から」の冷たさはじんじんと増してくる。

実際にはポケットの雨は存在しない。心象だろう。精神的なものが肉体に迫ってくる感覚を言葉にしている。一字空けが効果的で、たんたんとリズムを刻み、抒情性を醸し出した。ポケットの中は不可侵の領域になり、手は入れられない。自分自身の存在の不安も感じさせる。

〈真実は帆柱の上 海を殴る〉〈いのち ある日は 切り口をみせて往く〉〈ももいろにこもる倫理は 遠くなる〉 『川柳新書』(昭和32年刊)所収。

2015年2月4日水曜日

●水曜日の一句〔中村遥〕関悦史



関悦史








瓦窯潰えて桜鯛の海  中村遥


瓦を焼くための窯が潰えたことと、桜鯛のいる海とはさしあたり関係がなく、たまたま景色として隣り合っているだけに過ぎない。

ただし「て」で繋がると日常の因果関係とは別種の、緩やかな連続性が生まれる。「瓦窯」が「桜鯛の海」に変生を遂げたように見えてくるのである。

夢の論理では、何かが消えて代わりに別の何かが現れたら、それは姿を変えた等価物だという。そうした夢的論理が句の背後に通っているため、この世の景色しか描いていないにもかかわらず、何やら楽園じみた幸福感が出てくるのである。

瓦窯は古代の遺跡などでも見られるものだが、人為の痕跡が穏やかに消えてゆき、大自然へと移り変わってゆくさまは『天空の城ラピュタ』で描かれたそれにも似る。


作者情報をつけくわえておくと淡路島に実家を持つ女性であり、《時化明けの港に蜂の巣を焼けり》《秋の蜂踏みつぶしたる舟の上》など、陸のもの海のものが出会う現場を掬って独特の旨味を持つ句が多い。


句集『海岳』(2015.1 本阿弥書店)所収。

2015年2月3日火曜日

〔ためしがき〕Stand against the Mirror 福田若之

〔ためしがき〕
Stand against the Mirror

福田若之


要約すれば、「〈鏡〉の前に立つ〔stand against the Mirror〕ことによって、僕は僕になるのだ」ということになるのだろう。鏡に映る像によって自らを認識するという、この鏡像段階論の構図は、さまざまな場で有効であるには違いない。

しかしながら、こうした〈鏡〉の使用法があまりに支配的である以上、それをずらしてみることもまた必要だろう。とりあえず、それをためしてみることはできるはずだ。いくつかのモデルを立てることで、僕らは〈鏡〉に反対の立場をとる〔stand against the Mirror〕ことができるはずだ。

まず、ナルキッソス神話からはじめたい。ここで重要なのは、ナルキッソスはナルシシストではない、ということだ。ナルシシストは、鏡に映っているのが自分であることが分かっている。ナルキッソスは、水面に映っているのは自分ではないと思っている。それどころか、鏡像ですらないと思っている。すなわち、何かが映っているのでさえないと思っている。このとき、鏡には、鏡像段階のはじまり(「何かが映っている」)とおわり(「これは僕だ」)のどちらもない。したがって、この鏡は、〈鏡〉ではない。ナルキッソスは水仙と化し、今でも、それを〈鏡〉とは別のものとして読むことを続けているのだ。このため、ナルキッソスにおいては、何かが――あるいは、何かを絶しただろうものが――、もし、それがありえたならば、宙吊りになってしまったことだろう。もし、それがありえたならば、結論に代わっただろう何かが。ただし、もし、それがありえたとしても、それを偽りなく語ることは仮定法によってしかできなかっただろう何かが。

ナルキッソスへの罰が、エコーへの倦怠、すなわち、声の反響への倦怠によって彼女を傷つけたことに対して与えられたものであることも示唆的だ。ただし、エコーすなわち反響も、この神話の中では、彼ではなく彼女であるということを忘れない限りで。ナルキッソスは彼にとって反響でありえたかもしれないものに退屈して、彼にとって鏡像でありえたかもしれないものに魅惑されたのだった。

鏡像でありえたかもしれないもの。ここから、鏡像を見ることを疑うことがはじまる。鏡に反射という性質をもう一度見出すことにする。ただし、ここで目を向けるのは自らの鏡像ではなく、その背後だ。僕らは、それによってしか、背後を見ることができない。しかし、一方で、僕らは、それによってでは、背後を見ることができない。なぜなら、自らの鏡像が邪魔になって、その後ろを見通すことができないからだ。このとき、鏡像は目的ではなく、目的との間に挟まれた障壁になる。僕らがスクリーンと映写機のあいだに立ってしまっていて、そのために像は不完全になり、このとき、僕らこそが闇になる。鏡に映らない吸血鬼への憧れが生じる。鏡にしか映らない幽霊を見るために。

しかし、こうしたずらしも、結局は〈鏡〉にもたれかかる〔stand against the Mirror〕ことに過ぎないのかもしれない。〈鏡〉の前に立つもの(あるいは、〈鏡〉に反対の立場をとるもの)(あるいは、〈鏡〉にもたれかかるもの)〔A man who stands against the Mirror〕が、現実的にも、想像的にも、象徴的にも、盲目であるという可能性に、盲目でありつづけてしまったことによって、これらのずらしは結局のところ、〈鏡〉にもたれかかり続けてきてしまったのではないだろうか。結局は、ザ・フーの『トミー』(1969年)がそうであったように、誰かに、すなわち、他者に〈鏡〉を壊してもらうことでしか、その盲目を克服することはできないのかもしれない。


2015年2月2日月曜日

●月曜日の一句〔武藤雅治〕相子智恵



相子智恵







消しゴムでけして兎もゐなくなる  武藤雅治

句集『かみうさぎ』(2014.12 六花書林)より

たとえば紙に描いた兎の絵が、消しゴムで消すことでいなくなった……と読むこともできるのだが、絵と限定すると世界が小さくまとまりすぎて、あまり面白くない。兎はあくまで兎であることで、イメージがぐんとふくらんでくる。

それでありながら逆説的に、これが兎の絵だと読めることが頭の中で映像化を補助する。消しゴムで消した後の白い紙が、兎の白さと重なって、消しゴムで鉛筆の線がほどけてゆくように、真っ白な兎が、何からも解き放たれて去ってゆくところが想像できるのだ。

この句は「兎が」ではなくて「兎も」だ。いなくなるものは兎以外にもいたのである。この句には「とうとう兎までもいなくなった」と、自らの手によって消しながらも、取り残されて茫然とする感じがある。消しゴムで消された後の白さと、兎の白さ、茫然と白い頭の中。読後、すべてのものが静かにいなくなり、ただ白さだけが残る。