2017年 新年詠 大募集
『週刊俳句』は新年詠を募集いたします。
●おひとりさま 一句 (多行形式ナシ)
●簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。
●投句期間 2017年1月1日(日)~1月6日(金) 24:00
※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。
〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html
2016年12月31日土曜日
2016年12月30日金曜日
●金曜日の川柳〔敬介〕樋口由紀子
樋口由紀子
寝ころんで猫さし上げて職がなし
敬介
「職がなし」が需要なポイント。寝ころんで猫を高くさし上げているのはのんびりとしてなんともおだやかである。が、無職なのだ。これはたいへんで、直に生活に支障をきたす。なんとかしなくてはならないと思っているが、なかなかうまくいかない。
猫とじゃれている場合ではないこともわかっている。といって、無職なのだから他にやることもない。家族やまわりの人は早く職を探せとなにかとうるさいが、猫はニャーとなくだけで説教なんかしない。さてさてどうしたものかとつぶやきながらまた猫をさし上げる。
今月出版された『猫の国語辞典』はどの猫にも愛情たっぷりなユニークな国語辞典。掲句は「ねこといる」(人は猫から安らぎを、猫は人から食べ物と安全をもらう)の項目より。〈金沢のしぐれをおもふ火鉢かな 室生犀星〉〈火が灰になり行く猫と静けさ 尾崎放哉〉 『猫の国語辞典』(2016年刊 佛渕健悟 小暮正子編 三省堂)所収。
●
2016年12月28日水曜日
●水曜日の一句〔岡村知昭〕関悦史
関悦史
ヒトラーの忌に頼まれて然るべく 岡村知昭
死んでゆく者から何ごとかを託されたら、それを反故にできる者はあまりいない。縁があろうがあるまいが、それは神からの召命にも似た道徳的・超越的強制力を帯びることになるからである。その強制力をもって、当人には何の動機もないまま物語を起動させることができるので、小説などのプロットにもこの依頼・代行のテーマはよく使われる。
この句の場合は、ヒトラー当人から頼まれたわけではない(「ヒトラーの忌」には当人はもういない)。しかし意向としてはヒトラーのそれを受け継いでいる。実質、死者からの依頼と同じこととなる。同じ死者からの依頼であっても「終戦の日」「敗戦の日」であれば戦災犠牲者の意向を継ぐことになるが、この句はそうではない。もちろん実際にはおよそあり得ないことである。
この句は、無自覚にファシズムに呑み込まれる危険を描いているわけではない。相手がヒトラーであることはわかっており、「然るべく」はもはやその着実な積極的遂行への意志を示している。
では道徳的・超越的強制力がかえって悪への一歩を踏み出させてしまう機微を描いているのかといえば、そういうわけでもない。
この句は、その語り手が作者に近い普通の暮らしを営む日本人であればおよそあり得ない、ヒトラーからの召命による選抜という妙な事態のみを描いているのである。ヒトラーがいわば唐突にトーテムとなって寄り添い、語り手はその威光を帯びた自分となるのだ。
この句はそうした、いわゆる中二病的な誇大妄想からその熱狂を差し引いた、妄想の極薄の痕跡だけを言葉で掬い取った句であり、そうなるためには依頼する主体は善良なものであってはならなかったのである。
句集『然るべく』(2016.11 人間社・草原詩社)所収。
●
2016年12月27日火曜日
〔ためしがき〕 カレーの匂い 福田若之
〔ためしがき〕
カレーの匂い
福田若之
カレーというのは、どうやらとても匂うものであるらしいと知ったのは、小学校に入ってからのことだったと思う。僕はそれを知ったのであって、気づいたのではない。僕にとって、それを知ることは、すなわち、僕がひとの嗅ぎうるものを嗅ぎえないということを知ることでもあった。カレーとは匂いのするものだということは、僕にとっては、いまなおひとつの知識でしかない。
給食がカレーライスの日に、クラスメイトが、カレーの匂いがする、と言った。僕らの教室と給食室とは、階も違うし、直線距離でも数十メートルは離れているはずで、それなのに、今日の献立を正確に当てたそのクラスメイトは、きっと並外れた嗅覚の持ち主なのだろう、と思った。べつに、そうではなかった。
べつに、カレーの匂いだけが分からないというわけではない。高校時代は、山手線に乗ったとき、空いている席に座ってふと隣をみたら丸一年は着替えていないのではないかといった風体の人が座っていた、というようなことが少なくとも二回はあった。よく見ると、周りのひとびとがそのひとから距離をとるその仕方は、きれいな同心円を描いていて、ああ、臭いがするんだな、と思った。
僕のからだが、いったいどういう仕組みで匂いを感じないのかは、よくわからない。もちろん、一度、耳鼻科には行ってみた。子どものころのことだ。原因を特定できないまま、もしかすると治るかもしれないというので、ビタミンを注射された。下手な注射のせいで腕は腫れたが、匂いについては相変わらずだった。それ以来、この件で耳鼻科にかかったことはない。
幸い、匂いがわからないからといって、これまで、さほど困ったことはない。理科の実験でつくったアンモニアやら硫化水素やらは、ちゃんと鼻に痛みを催したので、刺激臭やら腐卵臭を感じなくとも、たぶん危険を察知するには困らないだろうと思っている。もちろん、硫化水素は腐卵臭がする、という事項を覚えておけば、腐った卵の臭いを感じなくとも理科のテストで点をとることはできた。それは、つまり、言葉と言葉のつながりを覚えることだ。僕は、自分が感じえないものについて、それを知っていることとして言葉にすることができる。できてしまう。
俳句における客観とは、つまるところ、これだと思う。金木犀は匂うのだ。みんながそう言うときには、ことばのうえで、金木犀は匂うのだ。だから、僕はきっと死ぬまでその匂いを感じることはないだろうけれど、金木犀が匂うことを前提とした句を書くことができる。金木犀を、匂いのする花として語ることができる。硫化水素の臭いについて、答案に「腐卵臭」と書くことができるように。それは、嘘をつくことではなく、客観的なことばに身をゆだねることだ。現に、僕は過去に何度か匂いの句を書いてきたし、それらの句のいくらかは、「共感」を得たように記憶している。たとえば、「カレーの匂い」というとき、その言葉が持つコノテーション(たとえば、庶民性であるとか、カレーという料理がどういう場に似つかわしいかといったことなど)を十全に理解していれば、「共感」を産むことはできるはずだ。そればかりか、僕はたとえば《夕焼やカレーの匂ふ坂帰る》(平井湊)といった句に「共感」することだってできる。この句には、郊外の住宅地の夏の風情がたしかにあり、住む町、帰る家への愛着が感じられる。カレーの匂いを感じることはできないけれども、この句から僕は多くのことを感じることができるし、カレーは遠くまで匂うということを知識としては知っているから、僕は、この句の「カレーの匂ふ坂」ということばを、どこかの家からカレーの匂いが漂ってきているのだろう、と理解することができる。嗅覚の語彙をめぐる僕のこうしたありようは、まわりのひととうまくやっていくうえでも必要なことだった。匂いについての語り口を習得することは、ひとがそれらを嗅ぐしぐさをまねながら、自分には嗅げないものをあたかも嗅げているかのようにとりつくろう仕方を覚えることでもあったように思う。
その一方で、いま、僕は、僕にとってはあくまでも金木犀は匂わない花なのだ、といつでも言うことができる。匂う花があるのではない、花に匂いを感じると言うものがいるだけだ。ならば、僕の書く匂わない金木犀は、みんなの書く匂う金木犀と比べて、すこしも嘘ではないはずだ。そして、僕が匂わない金木犀を眺めながら感じたことの一切は、みんなが金木犀に匂いを感じるということによって否定されはしないはずだ。主観は、けっして、客観に比して劣るものではない。ここには二通りの真実があるのだ。そしてまた、二通りの誠実さがあるのだ。
カレーの匂い
福田若之
カレーというのは、どうやらとても匂うものであるらしいと知ったのは、小学校に入ってからのことだったと思う。僕はそれを知ったのであって、気づいたのではない。僕にとって、それを知ることは、すなわち、僕がひとの嗅ぎうるものを嗅ぎえないということを知ることでもあった。カレーとは匂いのするものだということは、僕にとっては、いまなおひとつの知識でしかない。
給食がカレーライスの日に、クラスメイトが、カレーの匂いがする、と言った。僕らの教室と給食室とは、階も違うし、直線距離でも数十メートルは離れているはずで、それなのに、今日の献立を正確に当てたそのクラスメイトは、きっと並外れた嗅覚の持ち主なのだろう、と思った。べつに、そうではなかった。
べつに、カレーの匂いだけが分からないというわけではない。高校時代は、山手線に乗ったとき、空いている席に座ってふと隣をみたら丸一年は着替えていないのではないかといった風体の人が座っていた、というようなことが少なくとも二回はあった。よく見ると、周りのひとびとがそのひとから距離をとるその仕方は、きれいな同心円を描いていて、ああ、臭いがするんだな、と思った。
僕のからだが、いったいどういう仕組みで匂いを感じないのかは、よくわからない。もちろん、一度、耳鼻科には行ってみた。子どものころのことだ。原因を特定できないまま、もしかすると治るかもしれないというので、ビタミンを注射された。下手な注射のせいで腕は腫れたが、匂いについては相変わらずだった。それ以来、この件で耳鼻科にかかったことはない。
幸い、匂いがわからないからといって、これまで、さほど困ったことはない。理科の実験でつくったアンモニアやら硫化水素やらは、ちゃんと鼻に痛みを催したので、刺激臭やら腐卵臭を感じなくとも、たぶん危険を察知するには困らないだろうと思っている。もちろん、硫化水素は腐卵臭がする、という事項を覚えておけば、腐った卵の臭いを感じなくとも理科のテストで点をとることはできた。それは、つまり、言葉と言葉のつながりを覚えることだ。僕は、自分が感じえないものについて、それを知っていることとして言葉にすることができる。できてしまう。
俳句における客観とは、つまるところ、これだと思う。金木犀は匂うのだ。みんながそう言うときには、ことばのうえで、金木犀は匂うのだ。だから、僕はきっと死ぬまでその匂いを感じることはないだろうけれど、金木犀が匂うことを前提とした句を書くことができる。金木犀を、匂いのする花として語ることができる。硫化水素の臭いについて、答案に「腐卵臭」と書くことができるように。それは、嘘をつくことではなく、客観的なことばに身をゆだねることだ。現に、僕は過去に何度か匂いの句を書いてきたし、それらの句のいくらかは、「共感」を得たように記憶している。たとえば、「カレーの匂い」というとき、その言葉が持つコノテーション(たとえば、庶民性であるとか、カレーという料理がどういう場に似つかわしいかといったことなど)を十全に理解していれば、「共感」を産むことはできるはずだ。そればかりか、僕はたとえば《夕焼やカレーの匂ふ坂帰る》(平井湊)といった句に「共感」することだってできる。この句には、郊外の住宅地の夏の風情がたしかにあり、住む町、帰る家への愛着が感じられる。カレーの匂いを感じることはできないけれども、この句から僕は多くのことを感じることができるし、カレーは遠くまで匂うということを知識としては知っているから、僕は、この句の「カレーの匂ふ坂」ということばを、どこかの家からカレーの匂いが漂ってきているのだろう、と理解することができる。嗅覚の語彙をめぐる僕のこうしたありようは、まわりのひととうまくやっていくうえでも必要なことだった。匂いについての語り口を習得することは、ひとがそれらを嗅ぐしぐさをまねながら、自分には嗅げないものをあたかも嗅げているかのようにとりつくろう仕方を覚えることでもあったように思う。
その一方で、いま、僕は、僕にとってはあくまでも金木犀は匂わない花なのだ、といつでも言うことができる。匂う花があるのではない、花に匂いを感じると言うものがいるだけだ。ならば、僕の書く匂わない金木犀は、みんなの書く匂う金木犀と比べて、すこしも嘘ではないはずだ。そして、僕が匂わない金木犀を眺めながら感じたことの一切は、みんなが金木犀に匂いを感じるということによって否定されはしないはずだ。主観は、けっして、客観に比して劣るものではない。ここには二通りの真実があるのだ。そしてまた、二通りの誠実さがあるのだ。
2016/10/30
2016年12月25日日曜日
★週俳の記事募集
週俳の記事募集
小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。
長短ご随意、硬軟ご随意。
お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。
そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。
●紙媒体からの転載も歓迎です。
※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。
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2016年12月24日土曜日
2016年12月23日金曜日
●金曜日の川柳〔但見石花菜〕樋口由紀子
樋口由紀子
すっぽりと包めば怖いことはない
但見石花菜 (たじみ・せっかさい)1936~
自分に言っているのか、他人に言っているのか。怖いのは世間か、上司か、妻か、失態か。世の中には怖いものがいっぱいある。怖いからつい目を逸らしたり、見ないようにしてしまう。
「怖いことはない」は「怖い事」ではなく、「ことがない」の連語で「する必要がない意」で「怖がる必要なない」を表しているのだろう。しかし、すっぽりと包んだって、そのなかにあるものは変わらない。消えていくわけでもなく、減っていくわけでもない。ただ見えなくなっただけなのにと、作者に忠告したくなってしまうが、それは作者の想定内で、読み手が掌中に嵌ったことになるのだろう。すっとぼけた楽天性を出している川柳である。第28回川柳塔きゃらぼく忘年句会報(平成4年刊)収録。
●
2016年12月22日木曜日
2016年12月20日火曜日
〔ためしがき〕 信号機 福田若之
〔ためしがき〕
信号機
福田若之
信号機というと、「記号」の一例としてとりあげられることが多い。赤が停止を意味する。これが「記号」だ、というわけだ。けれど、おそらく、信号機の本分は、それが「記号」として働くことにあるのではない。
思うに、信号機の本分は、二重の意味で、「接触」をなくすことにある。
まず、信号機は、生身のひとにせよ、乗りものにせよ、とにかく複数のものがふれあいそうなところで、それを防ぐために働く。ひとや乗りものがぶつかったり、同じ線路を取りあったりして事故を起こすことがないように。
では、どうやってそうするのか。「接触」しそうになるものたちのコミュニケーションに割って入ることによってだ。信号機が働いてさえいれば、もはやドライバーに会釈しなくとも、あなたは車道を渡ることができる。あなたは止まった車のドライバーの顔色をうかがう代わりに、信号機の光の色をうかがう。信号機によって、僕らは、互いの進む道が交わるときにも、相手と全く交わることなしにそこを通り過ぎるだろう。信号機が灯るところで、僕たちはもはやふれあわない。すなわち、「接触」しない。これこそ、信号機の第二の効果だ。
信号機は、徹底的に、僕たちの「接触」をなくすために働いている。
信号機
福田若之
信号機というと、「記号」の一例としてとりあげられることが多い。赤が停止を意味する。これが「記号」だ、というわけだ。けれど、おそらく、信号機の本分は、それが「記号」として働くことにあるのではない。
思うに、信号機の本分は、二重の意味で、「接触」をなくすことにある。
まず、信号機は、生身のひとにせよ、乗りものにせよ、とにかく複数のものがふれあいそうなところで、それを防ぐために働く。ひとや乗りものがぶつかったり、同じ線路を取りあったりして事故を起こすことがないように。
では、どうやってそうするのか。「接触」しそうになるものたちのコミュニケーションに割って入ることによってだ。信号機が働いてさえいれば、もはやドライバーに会釈しなくとも、あなたは車道を渡ることができる。あなたは止まった車のドライバーの顔色をうかがう代わりに、信号機の光の色をうかがう。信号機によって、僕らは、互いの進む道が交わるときにも、相手と全く交わることなしにそこを通り過ぎるだろう。信号機が灯るところで、僕たちはもはやふれあわない。すなわち、「接触」しない。これこそ、信号機の第二の効果だ。
信号機は、徹底的に、僕たちの「接触」をなくすために働いている。
2016/10/28
2016年12月19日月曜日
●月曜日の一句〔森山いほこ〕相子智恵
相子智恵
絨毯に置く花嫁のスニーカー 森山いほこ
句集『サラダバー』(2016.10 朔出版)より
一点のみ、一瞬のみを切り取り、背後に大きなドラマを想像させるという、俳句の一つの面白さがある写生句。
ただの嫁ではなく「花嫁」であるから、当然、結婚式当日が思われてきて、この絨毯も結婚式場のそれなのだろうと想像される。
この花嫁は、式場までは普段通りの自分であるカジュアルな服装とスニーカーで来て、控室で上から下まで貸衣裳の花嫁衣裳に着替えたのだ。式場はすべて非日常だから、控室の絨毯だって華やかで上品だろう。そこに場違いなスニーカーがぽつりと置かれている。
非日常なハレの場の、ケの綻び。それがみじめではなく、明るい。花嫁のスニーカーという意外性と、そこから感じられるアクティブな人物像、現代的な軽い空気感が、一句を爽やかなものにしている。
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2016年12月17日土曜日
2016年12月16日金曜日
●金曜日の川柳〔永田帆船〕樋口由紀子
樋口由紀子
独り寝のムードランプがアホらしい
永田帆船 (ながた・はんせん) 1914~1996
就寝時につける小さい灯りを買ってきたのだろう。その商品名が「ムードランプ」だったのだろう。今だったら、こんなベタな名前はそうない。その当時は「ムード」という言葉が流行っていたのかもしれない。「独り寝」にはムードもへったくれもない。「ムードランプ」という命名を茶化している。
「アホらしい」の「らしい」は「の様子である」とか「の風である」とか、感じがするとか推量を表わす助動詞ではないだろう。ムードランプが壊れているとか、アホのように見えることではないと思う。関西弁の「アホらしい」で、あきれてしまっての「ばかばかしい。あほくさい」ということであろう。〈とある日の客が写楽に似ておかし〉〈スタイルにペーソスがあるチャップリン〉 『永田帆船句集』(1990年刊)所収。
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2016年12月15日木曜日
2016年12月14日水曜日
●水曜日の一句〔森山いほこ〕関悦史
関悦史
新社員動く歩道にさざめけり 森山いほこ
動く歩道も大都市では物珍しいものではなくなって久しい。俳句で扱われることは多くはないかもしれないが、必ずしも素材の新奇さに頼った句ではない。
季語「新社員」はその初々しい、不慣れな挙措、行動が直接モチーフにされることが多くて、どちらかというと微笑ましくも野暮ったい句になることが多い気がするのだが、ここでは彼らは真新しいスーツに身を包み、一団となって動く歩道で移動しつつ、気安く談笑しあっているだけである。
だが、そのスマートさがかえって新社員たちの緊張や晴れがましさといった気分全てを、その存在感とひとまとめにして、より際立たせることになる。
この句の「新社員」たちは、都市を舞台とするアクターのようでもあり、水族館の水槽内の魚たちのようでもあり、マネキンじみた美神のようでもある(「さざめき」に秘められた生気と歓喜性……)。動く歩道で一団となってなめらかに水平移動していく新社員たちは、大都市というものが持つ一種の虚実皮膜性を体現しているといえる。「新社員」から、都市部ならではの抒情を清新に引き出した句である。
句集『サラダバー』(2016.10 朔出版)所収。
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2016年12月13日火曜日
〔ためしがき〕 エックス山メモランダム8 福田若之
〔ためしがき〕
エックス山メモランダム8
福田若之
ひめりんご夢の乾電池の味だ
液晶画面の粗いローマ字、悪魔か何かの名みたいに見た
さんすうが算数になったなのはな
校門でおじさんがくれた聖書おしつけあう下校
来る日も来る日もプププランドでなぶりあう
エックス山メモランダム8
福田若之
ひめりんご夢の乾電池の味だ
液晶画面の粗いローマ字、悪魔か何かの名みたいに見た
さんすうが算数になったなのはな
校門でおじさんがくれた聖書おしつけあう下校
来る日も来る日もプププランドでなぶりあう
2016/10/22
2016年12月12日月曜日
●月曜日の一句〔千葉信子〕相子智恵
相子智恵
影はみな主をもてり冬座敷 千葉信子
句集『星籠』(2016.10 深夜叢書社)より
「人や物は、みな影をもっている」というのとは真逆の発想で、ハッとさせられる。初めから作者の心を離れないのは影の方で、主ではなく影が主体なのだ。
主がいなければ影も生まれない。ここに描かれた影たちは、その事実の寂しさと哀しさを内包している。しかし、そうでありながら影が主体として語られた時、そこにわずかな浮遊感というか愉悦というか、そういう不思議な感じが私の中に立ち現れてきた。
「冬座敷」という季語が選ばれていることも大きい。室内の灯火と暖房と人々の気配に、寒さの中にぬくもりが感じられてくる季語である。掲句を読んで、あたたかな冬座敷の中であちこちに動く、寂しくて楽しい「影絵」を見ている気持ちになった。影が主で、主が影なのだ。
もしかしたら、この作者が影と主との間に見出してしまう距離感は、冬座敷に集う人と作者との心理的な距離感でもあるのかもしれない。
〈雪に産みまた一人産み吾子とよぶ〉この句の吾子と母の距離感にも同じような寂しさと美しさがあるのではあるまいか。
吾子は産み落とした最初から吾子なのではなく、呼んで初めて吾子になる。その距離感と、まだ母から呼ばれていない雪の中の吾子の、何物も近づけないような清らかさ。
近いのに遠い、透明な距離感。その寂しくも浮遊する感じが美しいと思った。
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2016年12月10日土曜日
2016年12月9日金曜日
●金曜日の川柳〔富田産詩朗〕樋口由紀子
樋口由紀子
おかめフト真昼の顔を持て余し
富田産詩朗 (とみた・さんしろう) 1926~
「おかめ」とはとりもなおさず愛嬌のある顔。お多福のお面のように低い鼻で赤くふっくらしている頬で、他の人を安心させてくれる顔だろう。そのおかめのそれもお日様が燦々と輝いている真昼の顔。
どうしてこういう顔をしているようになったのだろうか。いままであまり深く考えずに過ごしてきたが、「フト」そう思った。そんなもろもろに嫌気がさしてきたのだ。「フト」のカタカナ表記が核心を突いていて、ぴりりと効いている。
生きていれば、あるいは世の中には持て余すものや持て余したいものがわんさとある。おかめは女性だから、作者はそのような女の人を見てそう思ったのだろう。あるいは自分を投影したのかもしれない。鋭い目線である。〈花終る、花のことばのなかりしまま〉〈たはむれに空の深さへ唾を吐き〉 『川柳新書』(昭和31年刊)所収。
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2016年12月8日木曜日
【俳誌拝読】『靑猫』創刊第一号
【俳誌拝読】
『靑猫』創刊第一号(2016年9月20日)
編集:靑猫句会・大江進、本文24頁、モノクロ(表紙2色)。本文字組を含めデザイン全体に洗練味。同人諸氏は山形県在住。
鷲の巣や暗き谷間の喉開く 大江進
さざ波に揺れのやまずや桜貝 佐藤歌音
初秋の木の間木の間に水の音 大場昭子
コロッセオに猫の影殺すなネロ 相蘇清太郎
夏草にダルマ転んで起きられず 今井富世
手袋のやうな手首を拾ひけり 南悠一
雪解田の遠くに誰か動きけり あべ小萩
(西原天気・記)
『靑猫』創刊第一号(2016年9月20日)
編集:靑猫句会・大江進、本文24頁、モノクロ(表紙2色)。本文字組を含めデザイン全体に洗練味。同人諸氏は山形県在住。
鷲の巣や暗き谷間の喉開く 大江進
さざ波に揺れのやまずや桜貝 佐藤歌音
初秋の木の間木の間に水の音 大場昭子
コロッセオに猫の影殺すなネロ 相蘇清太郎
夏草にダルマ転んで起きられず 今井富世
手袋のやうな手首を拾ひけり 南悠一
雪解田の遠くに誰か動きけり あべ小萩
(西原天気・記)
2016年12月7日水曜日
●水曜日の一句〔大木あまり〕関悦史
関悦史
海鳥の切手を集め生身魂 大木あまり
生身魂と切手収集を取り合わせの句は見た覚えがなく、清新さがある。しかし切手収集の世界も高齢化が進んでいるようで、実際にこうした生身魂もいるのだろう。あまり無駄な元気さのない、大声を出したりはしない男性が思い浮かぶ。マイペースに淡々とそれなりの健康を維持していそうでもある。
切手ならば有用性はあるし換金もできるが、収集癖となれば、関心はいずれ無益さに軸足が移る。生身魂と呼ばれる年になってなおコレクションを処分せず、収集を続ける姿には、そうした虚無に隣り合わせつつ、それを飼いならしてゆく安定とでもいったものが感じられるのだ。
ただし収集の対象となっている切手は「海鳥」である。広大な見果てぬ外部への飛翔という形でここにロマン性がひそむので、虚無や不毛といった要素はうすれる。ひねた辛気臭い老人ではなくなるのだ。際限なく種類が増えていく小さな官製印刷物の意匠を集めつづける老いた身心は、無限とロマン性と明晰な審美的判断力(それは単なる独断や偏愛に過ぎないものかもしれないのだが)を集約しながら、見かけはごく慎ましく平凡に家に居る。
集めた切手に触れる生きた身と、切手の意匠「海鳥」の上を悦びに満たされつつ横滑りし続けていく魂。
見慣れた季語に過ぎない「生身魂」の、「生」「身」「魂」それぞれの文字が洗い直され、リフレッシュされて現物とあらためて結びつきつつ一句に据えられた趣きが、そこから生じてくる。
句集『遊星』(2016.10 ふらんす堂)所収。
●
2016年12月6日火曜日
〔ためしがき〕 昨日(あなたがこのためしがきを読むときには、すでに昨日ではなくなっているだろう) 福田若之
〔ためしがき〕
昨日(あなたがこのためしがきを読むときには、すでに昨日ではなくなっているだろう)
福田若之
「不動産×イノベーション」を「不眠症×イノベーション」と見誤るくらい瞼が重たかった昨日の三時ごろ。僕は夕暮れまで外を歩いていた。足が疲れたころには、もう眠くなくなっていた。
代謝を成長と呼ぶことは、偶然を運命と呼ぶことに似ている。こうしたことばは、横倒しにされたペンキ缶のように、出来事をひとつの意味で塗りこめてしまう。僕は、単に、過去の僕を失い忘れてゆくのでしかない。僕は成長するのではない。ただ変わっていくだけだ。すこしづつ。変わっていってしまうだけだ。
昨日(あなたがこのためしがきを読むときには、すでに昨日ではなくなっているだろう)
福田若之
「不動産×イノベーション」を「不眠症×イノベーション」と見誤るくらい瞼が重たかった昨日の三時ごろ。僕は夕暮れまで外を歩いていた。足が疲れたころには、もう眠くなくなっていた。
代謝を成長と呼ぶことは、偶然を運命と呼ぶことに似ている。こうしたことばは、横倒しにされたペンキ缶のように、出来事をひとつの意味で塗りこめてしまう。僕は、単に、過去の僕を失い忘れてゆくのでしかない。僕は成長するのではない。ただ変わっていくだけだ。すこしづつ。変わっていってしまうだけだ。
2016/10/22
2016年12月5日月曜日
●月曜日の一句〔杉山文子〕相子智恵
相子智恵
運命と片付けられてちやんちやんこ 杉山文子
句集『百年のキリム』(2016.10 金雀枝舎)より
〈運命〉という言葉はずいぶん重いように見えながら、とても都合の良い「思考停止ワード」なのだということに、掲句を読んで気づいた。
運命と片付けられてしまった人は、何か重い話をしたのだろう。〈片付けられて〉という言葉に表れている怒りや諦めは、それを打ち明けるのにとても勇気がいったのだという心情も見せてくれる。
その話を聞いた相手は「仕方ないね、それが運命だったんだよ」と励ましたのだろう。きっと、相手もそうとしか励ましようがない話だったのだ。そういう話、たしかにある。
受け止めきれない大きなことを「運命」という言葉でパッケージして受け流すのは生きていく知恵だろうし、思考を停止しないと生きていけない場面はある。
「ちゃんちゃんこ」という、庶民的な生活を感じさせるアイテムによって、それは誰にでも起こることなのだということが伝わる。この句に見られる「打ち明けた本人と聞いた相手の温度差」というのもよく起こることだ。よくあることだが、俳句にされたことで顕在化したのだ。
〈励まして寂しくなりぬつくしんぼ〉という句もあった。これも他者との関係の中にある温度差をうまく伝えている。
●
2016年12月4日日曜日
【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】ぼさっとしていたら四年も経っていたよ千鳥君 関悦史
【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
ぼさっとしていたら四年も経っていたよ千鳥君
関悦史
さて、週俳500号を迎えての「私の自薦記事」でありますが。
今わざわざ読み返してみようかなと思うのはこれでした。
藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_5.html
どうでもよさにおいて一番というか。
全句集の実況中継みたいなことをやっている。
最近、自分の評論集を作るのに過去の原稿を絞り込まねばならず、ちょっとまとめて見返したのですが、これなどもう本には絶対入らない。雑誌であっても、活字媒体だったらこんなダラダラ長い書き方はできない。ネットならでは。
評論集には入れられないけど、句集を読むのが楽しそうではある。
このところ新しく出る句集を、片端から時間に追われつつ通読するというようなことになっているので、今こんな書き方はちょっとできない。
『藤後左右全句集』を通読したのは、本文にもあるとおり、某所で行われた若手勉強会のためでしたが、場所が都内の西の方で、うちからだとけっこう遠かったもので、だんだん出席率が悪くなり、そのせいでクビになったのか、いつの間にか連絡も来なくなってしまった。
もっとも当時一緒に出ていた人たちは、今それぞれ子育て中だったりして忙しそうで、勉強会自体は同じ場所で、20代の人たちが代わって続けている。
何の変化もないようだが、四年前というのもけっこう前で、四年間経ってしまっているののだよ千鳥君。
●
≫タグ(ラベル):関悦史
ぼさっとしていたら四年も経っていたよ千鳥君
関悦史
さて、週俳500号を迎えての「私の自薦記事」でありますが。
今わざわざ読み返してみようかなと思うのはこれでした。
藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_5.html
どうでもよさにおいて一番というか。
全句集の実況中継みたいなことをやっている。
最近、自分の評論集を作るのに過去の原稿を絞り込まねばならず、ちょっとまとめて見返したのですが、これなどもう本には絶対入らない。雑誌であっても、活字媒体だったらこんなダラダラ長い書き方はできない。ネットならでは。
評論集には入れられないけど、句集を読むのが楽しそうではある。
このところ新しく出る句集を、片端から時間に追われつつ通読するというようなことになっているので、今こんな書き方はちょっとできない。
『藤後左右全句集』を通読したのは、本文にもあるとおり、某所で行われた若手勉強会のためでしたが、場所が都内の西の方で、うちからだとけっこう遠かったもので、だんだん出席率が悪くなり、そのせいでクビになったのか、いつの間にか連絡も来なくなってしまった。
もっとも当時一緒に出ていた人たちは、今それぞれ子育て中だったりして忙しそうで、勉強会自体は同じ場所で、20代の人たちが代わって続けている。
何の変化もないようだが、四年前というのもけっこう前で、四年間経ってしまっているののだよ千鳥君。
●
≫タグ(ラベル):関悦史
2016年12月3日土曜日
★週俳の記事募集
週俳の記事募集
小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。
長短ご随意、硬軟ご随意。
お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。
そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。
●紙媒体からの転載も歓迎です。
※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。
小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。
長短ご随意、硬軟ご随意。
お問い合わせ・寄稿はこちらまで。
※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。
【記事例】
●句集を読む ≫過去記事
最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。
句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。
●俳誌を読む ≫過去記事
俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。
そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。
●紙媒体からの転載も歓迎です。
※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。
2016年12月2日金曜日
●金曜日の川柳〔星井五郎〕樋口由紀子
樋口由紀子
湯たんぽの位置がなかなか決まらない
星井五郎
急に寒くなった。自身の自家発電力がめっきり弱くなってきたので、生活にどんどん暖房モノを投入していかなくてはならない。暖房モノを見繕いに店頭にいくと「湯たんぽ」の品数の多さに驚かされる。オシャレ度も増し、カラフルでひと昔前に一般的だった表面が波型に加工された金属性のものとはまるで別物の様相である。掲句の「湯たんぽ」はひと昔前の温度調節のしにくい、軽量ではないもののような気がする。
「湯たんぽの位置」なんて、すぐに決まるでしょう、他にもっと決まらないことがあるでしょう。よりにもよって「湯たんぽの位置」なんかで悩むのか、とつい言いたくなる。それなのに「なかなか決まらない」といけしゃあしゃあ言われると、眠ることは大事だから、「湯たんぽの位置」は大切なことなのかもしれないと思い直したりする。「触光」(46号 2016年刊)収録。
●
2016年12月1日木曜日
【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】今年もあちらこちらで 近恵
【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
今年もあちらこちらで
近 恵
私の俳句の歴史は週刊俳句準備号より2ヶ月ほど早い2007年2月から始まった。だから週刊俳句が何周年とか言ってくれると「ああ、私も何年目に突入したのね」と解りやすくてよろしい。
ま、そんな事とは全く関係ない自選記事。
初めての文章は2008年3月の第45号で「2月の週俳を読む」を書いている。俳句を始めてほぼ1年しかやっていない、どこの馬の骨かわからないような私によくぞ振ってくれましたという感じだが、週刊俳句も最初の頃は近場の人を頼って書き手を募っていたわけで、まあこれはラッキーなデビューだというべきか。
そもそも論文は読んだことも書いたこともなく、鑑賞ならまだなんとかなるけれど、俳句の知識も乏しいので批評もできない。かと言って何かほかに精通していることもない。けれども俗なことなら書けそう。総合俳句誌は真面目な記事ばっかりで、せいぜい年賀状に添えたい一句なんて特集くらいしかなかったから、ここは思い切って週刊誌的な見出しで書いてみようと思ったのである。それが2008年12月21日第87号の記事「クリスマスは俳句でキメる!」だった。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/blog-post_21.html
この記事を書くにあたり、句会でも協力をしていただいた。そこには現在若手俳人の中核として活躍中の週俳スタッフ、当時はまだ大学生で紅顔の美少年のようだった生駒大祐さんや今年句集『天使の涎』で田中裕明賞を受賞した北大路翼さん、第3回芝不器男俳句新人賞にて対馬康子奨励賞受賞を受賞した中村安伸さん、また翌年2009年12月に邑書林から発行された『新撰21』には北大路翼さん、中村安伸さん、谷雄介さんが入集されるなど、その後活躍を見せることとなる結構な顔ぶれが集ってくれていた。そしてアップされた記事は「業界初・袋綴じ」という、週刊俳句でも後にも先にもない異例の処置がなされた記事となった。
で、今年もあちらこちらでクリスマスイルミネーションの輝く季節がやってきたのです。
最近はテレビ番組を見て俳句を始める若い人も増えてきたらしいし、ちょうど良いタイミングではないかと思いこの記事を引っ張り出してきたという次第。
最期に余談だが、当時この記事を読んで実際に彼女に試してみたという強者がいた。目的を果たせたかという点から言えば結果は玉砕だったらしい(要するに他のスキルが足りていなかったということか)が、現在はその彼女と結婚して一児の父である。よかったよかった。
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≫タグ(ラベル):近恵
今年もあちらこちらで
近 恵
私の俳句の歴史は週刊俳句準備号より2ヶ月ほど早い2007年2月から始まった。だから週刊俳句が何周年とか言ってくれると「ああ、私も何年目に突入したのね」と解りやすくてよろしい。
ま、そんな事とは全く関係ない自選記事。
初めての文章は2008年3月の第45号で「2月の週俳を読む」を書いている。俳句を始めてほぼ1年しかやっていない、どこの馬の骨かわからないような私によくぞ振ってくれましたという感じだが、週刊俳句も最初の頃は近場の人を頼って書き手を募っていたわけで、まあこれはラッキーなデビューだというべきか。
そもそも論文は読んだことも書いたこともなく、鑑賞ならまだなんとかなるけれど、俳句の知識も乏しいので批評もできない。かと言って何かほかに精通していることもない。けれども俗なことなら書けそう。総合俳句誌は真面目な記事ばっかりで、せいぜい年賀状に添えたい一句なんて特集くらいしかなかったから、ここは思い切って週刊誌的な見出しで書いてみようと思ったのである。それが2008年12月21日第87号の記事「クリスマスは俳句でキメる!」だった。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/blog-post_21.html
この記事を書くにあたり、句会でも協力をしていただいた。そこには現在若手俳人の中核として活躍中の週俳スタッフ、当時はまだ大学生で紅顔の美少年のようだった生駒大祐さんや今年句集『天使の涎』で田中裕明賞を受賞した北大路翼さん、第3回芝不器男俳句新人賞にて対馬康子奨励賞受賞を受賞した中村安伸さん、また翌年2009年12月に邑書林から発行された『新撰21』には北大路翼さん、中村安伸さん、谷雄介さんが入集されるなど、その後活躍を見せることとなる結構な顔ぶれが集ってくれていた。そしてアップされた記事は「業界初・袋綴じ」という、週刊俳句でも後にも先にもない異例の処置がなされた記事となった。
で、今年もあちらこちらでクリスマスイルミネーションの輝く季節がやってきたのです。
最近はテレビ番組を見て俳句を始める若い人も増えてきたらしいし、ちょうど良いタイミングではないかと思いこの記事を引っ張り出してきたという次第。
最期に余談だが、当時この記事を読んで実際に彼女に試してみたという強者がいた。目的を果たせたかという点から言えば結果は玉砕だったらしい(要するに他のスキルが足りていなかったということか)が、現在はその彼女と結婚して一児の父である。よかったよかった。
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