2016年6月30日木曜日

【評判録】小池正博『転校生は蟻まみれ』

【評判録】
小池正博『転校生は蟻まみれ』(2016年3月/編集工房ノア


≫榊陽子

≫なかはられいこ:感謝まみれと、蟻まみれ

≫瀧村小奈生

≫柳本々々

≫岡田由季

≫西村麒麟:蟻にまみれているところ

≫大井恒行


〔週刊俳句〕

≫山田ゆみ葉

≫小津夜景:水と仮面のエチカ

≫西原天気:はじめてください、川の話を

2016年6月29日水曜日

●水曜日の一句〔平松彌榮子〕関悦史


関悦史









めがねはづせば蝶の声あり杉並区  平松彌榮子


言葉の繋がり具合が何とも不思議な句である。「めがねはづせば」は、それ自体としては何の変哲もない動作、ところがそれがただちに「蝶の声あり」なる少々異界的な事態の原因となり、最終的には「杉並区」というおよそ詩性のない予想外な行政区分の名へと続いて一句は終わる。

「蝶の声」は蝶の羽音ではない。眼鏡を外し、視界がぼやけ、その分聴力が鋭敏となり、蝶の羽ばたく音までが聴こえそうだという誇張法とは異なるのである。眼鏡を外しただけのことが、世の常のものではない「蝶の声」を容易に呼び込んでしまう、ある危機感をも伴うような局面にこの語り手はおそらくいる。「蝶の声あり」の後にすんなりと異界への憧れや移行を示す文言が続くのであれば、それはそれでよい。ファンタジー的であるとはいえ、それなりに安定した世界と生ではあろう。

ところがこの句では「蝶の声」を聴きとってしまう主体は、いずこへかと旅立つこともなく、そのまま何の変哲もない生活空間「杉並区」に居続けるのである。いわば、二つの領域に引き裂かれた在り方が日常化してしまっているのだ。「蝶の声」を含み込んだ、それでいて定常的な日常とは、生がそのままカタストロフであり続けている状態なのではないか。

蝶の飛び方というのが見ようによってはまさにそうしたもので、ランダムに位置を変え続ける不規則極まりない蝶の飛行は、力学的に解析するのは困難であるらしい。その蝶の飛行は今、眼鏡を外した状態では見えていない。見えなくなった不規則さは、ただちに「声」へと変じ、聴覚を襲う。目は閉じられても、耳を塞ぎきることはできない。そうしたおそるべき身心の変動の舞台として「杉並区」はある。

ところがこのことは、べつに変動と日常とのコントラストを成すわけではない。この主体には何の動揺も見られないのだ。主体はすでに「蝶の声」を受け容れ、その位相に同化しているようにすら見える。怖れを感じるべきは主体の方ではなく、このような主体に介入された「杉並区」の方であるのかもしれない。


句集『雲の小舟』(2016.5 角川書店)所収。

2016年6月28日火曜日

〔ためしがき〕 子規の俳句の数え方 福田若之

〔ためしがき〕
子規の俳句の数え方


福田若之


子規が俳句を数える際の助数詞は、最晩年の『病牀六尺』に至っても、「句」だったり「首」だったり、一貫していない。他の散文でも、しばしば、俳句を一首、二首と数えているのが見受けられる。それも、短い一節のなかで、二種類の数え方が混在していたりする。明確な基準があって書き分けているわけでもなさそうだ。要するに、筆まかせなのだろう。

おそらく、書き損じというわけではない。調べたわけではないので仮説でしかないけれど、当時はまだ、俳句は「首」とも「句」とも数えうるものだったのではないだろうか。たとえば、写真などは、もちろん一枚、二枚と数えることもできるけれど、ほかに、一葉、二葉と数えることもできる。俳句も同様だったのではないだろうか。

僕らが自然なものだと信じている常識は、しばしば、歴史的なものにすぎない。もちろん、今日においては、俳句は一句、二句と数えるものだということになっているし、そのことが子規によって覆されるわけでもないのだけれども。

2016/5/26

2016年6月27日月曜日

●月曜日の一句〔坪内稔典〕相子智恵



相子智恵






合歓咲いて空の渚であるような  坪内稔典

稔典百句製作委員会編『坪内稔典百句』(2016.05 創風社出版)より

夏の夕暮れ、空高く伸びた合歓の樹を見上げる。中央の白から先端に向かって徐々に薄紅色になっていく、刷毛のような合歓の花がたくさん咲いている。夕方になると咲く花だ。細い葉も相まって、まるで空からさざ波が打ち寄せているように見える。言われてみれば〈空の渚〉とは、なるほどと思う。美しい例えである。〈合歓咲いて空の渚〉の、NとSの音が繰り返される囁くような音も、さざ波のように感じられてくる。

短い俳句の言葉の中で暗喩を使わず、〈あるような〉と直喩にするところに、この例えに対する作者のかすかな含羞が感じられる。誰に同意を求めるでもない、夕空にすーっと溶け込むようなつぶやき。

夜になると眠るように閉じる合歓の樹の、その直前の夢と現実のあわいのようなひととき。滲みあう昼と夜の間で、すべてがぼんやりと夢うつつの美しさに包まれている。

2016年6月25日土曜日

〔ネット拾読〕 昼頃めざめて「ここはどこ?」な所在なさ(が懐かしい) 西原天気

〔ネット拾読〕
昼頃めざめて「ここはどこ?」な所在なさ(が懐かしい)

西原天気


さて、先週に再開した〔ネット拾読(ひろいよみ)〕。ぼちぼち、ゆるゆる、行きます。

佐藤りえ:人外句境 32[鴇田智哉]
http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/02/32_11.html
特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。
川柳作家の句を、「読後感」の近縁から併置した点、新鮮。

鴇田智哉俳句における《主格の欠落》との指摘は、ある俳人から(酒席での)談話で聞いたことがあります。その人は、数学の問題が解けたとばかりに悪戯な眼をして、これ、《主格の欠落》を言っていました。散文的・説明的・明示的な設計からどんどんと離れていくという効果はまずあるとして、それ以上の意義もありそう。鴇田句を特徴づけるヒントが含まれているかもしれません。



週刊俳句・第478号でいったんお休みとなった小津夜景【みみず・ぶっくすBOOKS】シリーズ
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取り上げられたフランス(英語の本もありましたが)の俳句関連書は、うっとりするほど綺麗な本(日本の俳句関連書とはエディトリアルデザイン・編集の土台や発想が違いますね)やら、「なんやねん? あはは」なバカ本やら、本好きには愉しいことこのうえないシリーズでした。本好きは、中身・内容の前に、その本のもつ「たたずまい」にまず惚れるのです。

日本、もうちっとがんばれよ。

テンプレートにのっかったままの刊行物ぱっと見おんなじの句集を流れ作業で作るの、多すぎ。



この替え歌(↓)、よく出来ています。

西川火尖:三冊子ひらいても頭振らない
http://syuuu.blog63.fc2.com/blog-entry-1206.html
俺は俳人 有望な若手俳人 口語? 「高校生らしい」手口
ただ、記事タイトルにもなっている「三冊子ひらいても頭振らない」がよくわからない。私の読解力不足。

付け加えますに、このブログ、タイトル「そして俳句の振れ幅」 の下に記されたサブが秀逸。
仮に金で買えない愛があったとしても維持費はかかるよね
じつに、そのとおり。

でも、なんとかなっちゃたりする。維持費の嵩は、人/カップルによって大きな幅はあるにせよ。



で、この(↑)替え歌とすこし関連するのだけれど、俳句甲子園の話題がぼちぼちと。

例えばツイッター検索

そんななか、

外山一機終電を逃した後で ―俳句甲子園雑感
https://note.mu/t0yama_k/n/n0c2d82787f83
俳句を詠むということは多分に羞恥心を伴うようなみっともない行為の謂であり、だから、俳句甲子園に出場することや俳句を詠むことをまるで素晴らしいことであるかのように語る言葉を目にするたびに、その眩しさに対する違和感をどうしても拭えずにいた。
この違和感、思い当たる人がきっと少なくない。

俳句世間においてはイヴェントを超えて、一種の強制力を持ってしまってもいる(端的にいえば「すばらしいと評価しなければいけない」強制力)。たしかに存するはずの価値とは別に、どんよりとしたもの(上記の違和感も含め)が立ち込めた感じがしないでもない。物語的にいえば、ユートピアとディストピアの併存。

さて、記事に戻りましょう。この一文、最後は視界がひらけて終わる。救いのある結末。



それではまたいつかお会いしましょう。

2016年6月24日金曜日

●金曜日の川柳〔草刈蒼之介〕樋口由紀子



樋口由紀子






砂漠恋しや 画廊を抜けてゆく駱駝

草刈蒼之介 (くさかり・そうのすけ) 1913~1992

駱駝の絵を観ていたら、砂漠が恋しくなって駱駝が画廊を抜けていくのが見えたのだ。そう見えたのがまず可笑しく、そして切ない。駱駝が画廊を抜けていく姿が目に浮かぶ。駱駝はその図体の割にはおとなしい顔でかなしそうな目をしている。それは駱駝の決意なのか、勇気なのか。

メルヘンチックだがそれだけにとどまらないものを感じた。絵の中の駱駝に虚しさを見たのだろう。それは彼自身の中にもあるもので。わりきろうとしてもわりきれないものが生きていくなかには否応なくある。駱駝は了解を得たように駆け抜けていったのかもしれない。

時実新子は草刈蒼之介を「ニヒルで豪胆でそのくせ繊細な神経の青鬼」と評した。〈莫迦と違うのか俺と歩きけり〉〈きみは 夢屋か ぼくは ころし屋〉

2016年6月23日木曜日

●宇宙

宇宙

宇宙是れ洗濯板にヒヤシンス  攝津幸彦

銀河系宇宙に春の乳歯かな  石母田星人

ががんぼに宇宙の塵の落ちる音  中田美子

乳房に蚊宇宙は晴れているような  永末恵子

枇杷の実のお尻宇宙の涯は此処  正木ゆう子

しわぶきも父が宇宙へ還すもの  江里昭彦

太刀魚を捌き明日から宇宙戦争  中山宙虫〔*〕


〔*〕中山宙虫句集『虫図鑑』(2016年4月/西田書店)

2016年6月22日水曜日

●水曜日の一句〔山田健太〕関悦史


関悦史









野は曲り街は砕けてつばめ来る  山田健太


高速で飛ぶツバメの視界を、瞬時に、想像的に追体験した句か。

飛ぶ鳥の視野を詠んだ句といえば上田五千石の《渡り鳥みるみるわれの小さくなり》があるが、「われ」の想いを担いつつ遠くへ飛び去る五千石句のロマン性はこの句にはなく、こちらでは未来派絵画じみたスピード感と知覚の変化により、別の景色となった野や街が捉えられている。

もちろん人から見れば何の変哲もない風景である。それと飛ぶツバメの知覚との重なり合いが詠まれているわけで、ユクスキュルの環境世界論をあらわした句ともいえる。

この「つばめ」は擬人化されていない。ただ異なる知覚により、異なる分節化をされた景色が類推されているだけであり、人には見えても見えていない世界が同時に幾つでもあるという事態が、飛んでくるツバメを介して不意に引き出されているのである。そこにこの句の爽快感がある。

別の読解の可能性もあるにはある。

この句が収録された句集は編年体で、この句が置かれた「平成二十七年」の章の四年前、「平成二十三年」には東日本大震災被災の模様を詠んだ連作も収められているからだ(作者は水戸で被災し、避難所暮らしも強いられたらしい)。

それを踏まえると「街は砕けて」は震災後の街のこととも見えかねないのだが、句の配列上、震災という文脈からはかなり離されている上、「野は曲り」は震災による地形の崩れの表現とは読めない。第一これを震災の街と取ると、句の認識がひどく平板な、魅力のないものになってしまう。やはりツバメの視野と取った方がよさそうだ。


句集『二百三十四句』(2016.6 私家版)所収。

2016年6月21日火曜日

〔ためしがき〕 いつか俳句はあとかたもなくなるに決まっている 福田若之

〔ためしがき〕
いつか俳句はあとかたもなくなるに決まっている


福田若之


いつか俳句はあとかたもなくなるに決まっている。僕たちは、俳句を読み、書きつづけるかぎり、あとかたもなくなることを先延ばしにしながら、それでも、つねに、少しずつ、あとかたもなくなろうとしつづけている。

あとかたもなくなるとは、どういうことか。単に、読まれたり書かれたりしなくなるとか、名前だけが残って中身は別のものになってしまうとか、そういったことではない。俳句などというものがかつて一度でも存在したということを示す痕跡が、まるごと無に帰すということだ。草間時彦の言う「伝統の終末」も、宇井十間の言う「俳句以後」も、このことに比べたら、ちっぽけなことにすぎない。

僕たちはいつか死に、葬られ、無縁仏となり、塚は砕け、骨の埋まった場所もわからなくなり、そんなふうにして、いつかはあとかたもなくなるに決まっている。そんなふうに、僕たちの俳句もいつかは消えてなくなる。数々の句も、ジャンルとしての〈俳句〉も、すべて、同じことだ。俳句は、ありとあらゆるものと同様に、不滅ではありえない。

俳句を肯定すること。僕にとって、それは、書くという行為にあらかじめ織り込み済みであるこの消失を肯定することだ。僕はその消失を望むからこそ、俳句を書く。いつかあとかたもなくなるからこそ、俳句は愛おしい。傷んでぼろぼろになっていく書物や、波に掻き消される足跡が愛おしいのと同じように。僕は消える俳句を書きたい。消えてゆく俳句を書きたい。〈俳句を絶するもの〉の彼方。僕たちは、それに宛てては、何一つ書くことなどできない。そのときには、もはや何かが消えてなくなったということさえあとかたもないのだから。そういうものとしての俳句を、僕は書きたい。書くことは、そのとき書かれたものがあとかたもなくなることによって、ようやく果たされるのだから。

僕たちの残したものがあとかたもなく消え去るとして、それでも、きっと、僕たちが始めから何も残しさえしないのとはまるで異なっている。誰にとって? ――僕たちにとってだ。

たしかに、僕たちの残したものがまるごとあとかたもなくなったとしたら、そのときの状況は、もはや僕たちが何も残しさえしなかった場合と同じであるはずだ。けれど、僕たちにとっては、その状況の意味はまるで異なっている。前者の場合には、書くという行為が、その時にいたって、ついに果たされたことになるのに対し、後者の場合には、書くという行為がついに果たされなかったことになるのだから。

2016/5/3

2016年6月20日月曜日

●月曜日の一句〔山﨑百花〕相子智恵



相子智恵






善人の往生したる暑さかな  山﨑百花

句集『五彩』(2016.05 現代俳句協会)より

「善人の往生したる」は、親鸞『歎異抄』の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説をを踏まえていよう。

「往生したる暑さかな」のあっけないほどの書きぶりが、諧謔的で真理を突いている。あっけらかんとした残酷さは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や下村槐太の「死にたれば人来て大根煮きはじむ」の放り出すような死の描き方にも通じる。

前半の「善人の往生したる」までの引用の重さを後半(落ち)の「暑さかな」で一気に軽くすることで、スピード感と諧謔味を生んでいる。暑くてどうでもよくなる感じ、と言ったら語弊があるが、善人であれ悪人であれ、暑さは暴力的にやってくる。時には人を死に至らしめる。スピード感のある、あっけなさの表現によって、暴力的なまでの暑さが感じられた。

2016年6月18日土曜日

〔ネット拾読〕昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮  西原天気

〔ネット拾読〕
昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮

西原天気


ずいぶんと久しぶりです。前回が2012年2月2日ですから、52か月ぶり。

(例によって、記事タイトルと内容は無関係です。あしからず)

間があいてしまった理由は、ひとつには、ネット上で俳句にまつわる記事をとんと見かけなくなったこと。当時は個人のブログに何かの記事があがることも多かったのですが、この数年、めっきり少なくなりました。

これにはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へと俳人が民族移動したことも一因。それなら、SNSも含めて拾い読めばいい。

SNSには、原稿の締め切りに追われていることをやたらと喧伝する「意識高い系俳人」や、句会後のレストラン・割烹の料理写真を並べる「生活レベル高い系俳人」も多い。そうした話題をかいくぐって、セリフや記事を拾うのは、ひょっとしたら骨が折れるかもしれませんが、とりあえず再開してみました。

あ、それと、『週刊俳句』『ウラハイ』からも拾ってみようと思います。過去のこのシリーズは、そこを避けていたのですが、拾う場所は広げておいたほうがよろしいです。



さて。

俳句関連の個人ブログが低調を続けるなか、質量ともに目を見張る展開を続けているのが、柳本々々「あとがき全集。」です。

例えば、2016年6月14日にアップされた記事。
実は世界のそこここに存在しているモノのひとつひとつ、加減のありかたや角度、壊れかたにわたしたちの加減や壊れかたが宿っている。それをみつけるひとつの〈しぐさ〉が短歌なのかなと思うことがあります。(柳本々々)
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1431.html
スタイリッシュな書きぶりで、ほぉと見惚れてしまいますが、ちょっと待て、この把握だと、「わたしたち」に内面があるみたいです。そりゃ「ある」だろうし、「ある」と思うほうが、何かを読むときラクでしょうけれど、さて、俳句は、というと、ちょっと保留がいる。このとき、「わたしたち」を作者に限定せずに、読者まで広げても、事情は同じ。

否、「ある」のはいいのだけれど、それと短歌なり俳句なりを結びつける作業/過程が入ってしまうとなると、乱暴に言えば「投影」ってことで、それが、いかに洗練されて、いかに複雑に、であるにせよ、ちょっと窮屈で暑苦しい関係(もっぱら作品と読者の関係)になってしまう気もします。

投影を、読みに含ませると、事物すべてが含意を持ってしまうことにならないか。読みで、それをやると、隠喩やら象徴作用の読み取り合戦になってしまわないか。杞憂かもしれませんが。



「ただごと」俳句って、よく耳にしますね。(話はどんどん飛びます。あしからず)




①なら、勘違いというだけになってしまいますから、②でしょう。

ただし、《「ただごと」だから面白い。》のではなく、「ただこと」をわざわざ句として書きとめることが面白い。作者にとっても読者にとっても。

それって、倒錯的かも。

分裂というより、偏執?







「消える」というのは、きっと良い意味。



さっきも言いましたが、話はどんどん飛びます。
いつも、これはあざといなあと感じている「採る句採らぬ句、選句の基準」がある。全部とは言わないが、自分の採る句の基準などを得々として述べている選者など見ると正直辟易してしまう。
角川の『俳句』はもう買わない:齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/a5aeb9bcbe01375392a55698199e82dc
句会や句会後の酒席で各自が「採る句採らぬ句」の基準を披瀝しあう、なんてことはありそうです(もっとも、句会では、「得々として述べ」てもらわなくても、実際の選句を見ていれば、その人の基準が伝わったりします)。でも、これを記事に書くとなると、なんらかの慎みや技術が要りそうです。でないと、「こいつ、なにさま?」と拒否反応を示す読者も出てきます。

「選別」にはおのずと、立場の優位性、いわゆる「上から目線」が付いてまわる。全員が選んだり選ばれたりする句会の互選では、そうした傲岸さが前面に出ないような注意、というか気遣いがあったりします、一般に。「いただきました」という謙譲語も、その一例。そんな人付き合いのマナーみたいなものはくだらない、と言ってしまえばそれまでなのですが。

なお、このブログ記事、2007年09月20日付け。『俳句』誌が現在に至るまで変わらないことも驚きです。「採る句採らぬ句」なんて最近の特集かと思って記事を読んでいましたよ。もっとも、実用ノウハウはメニューに限りがある。繰り返しになってしまうのは致し方のないところ。その点が、「批評」、テーマが広汎かつ無数、さらには新しい地平が現れて、新しい広さ・豊かさが生まれる批評と大きく異なる。



少々古い記事も取り上げます(2007年の記事も取り上げたくらいです)。

短歌がわからなくて泣いていた

「わからない」の語句どおり、なかなか解決しそうにない問題満載です。この記事が広範長大すぎるという人(私も、そう)は、「短歌の主体がわからない」の項だけでも。
もしかするとこの「自己同一性」というものについては、むしろ読み手の方に、揺るがされたくないという意識があるのではないかな。
読者心理としてその種の担保を求める。

俳句にも言えることですが、求められて応えられる作者と、そうでない作者がいる。それを含めて、作風で、作者としての「同一性」がある。「同一性」は、作中主体と作者と、二重、というか複数あるのが、ややこしいところで。

暑いし、家に帰ってきたときにアイスクリームがあるとうれしいですよね。:福田若之
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/477_12.html

そのとおりであります。

練乳の味わい白くま


今回は、こんなところで。

それでは、また、いつかお会いしましょう。

2016年6月17日金曜日

●金曜日の川柳〔狂水〕樋口由紀子



樋口由紀子






かちかちと何の未練もない時計

狂水

しんと静まりかえった部屋に時計の音だけがかちかちと鳴っている。それがいかにもまっとうでこれ以上の正解はないかのごとく、一秒一秒、人の事情も感情も無視し、なにもかもを一掃していくように規則正しく時を刻む。

しかし、人の気持ちはそうはいかない。後腐れがあったり、わずらわしい関係を引きずっていたり、そう簡単に片づいてくれない。それどころが増幅されることだってある。かちかちという音が無神経に無慈悲に聞こえるのだろう。時計を詠んで自分の心の内を浮かび上がらせている。

万事に万全で、あまりに規則正しかったり、礼儀正しかったりするといらいらすることがある。それにあまりおもしろくない。多少の未練を抱えているぐらいの方が人生は退屈しないのかもしれない。作者はこの時計をきっと柱から外して箱に仕舞っただろう。

2016年6月16日木曜日

●すててこ

すててこ


すててこや手を打ち寄する錦鯉  小川軽舟〔*1〕

ステテコや彼にも昭和立志伝  小沢昭一

すててこにしては遠出をしてゐたる  石田郷子

すててこや鉄が国家でありしころ  大牧広

さびさびとステテコくはへ昼狐  加藤郁乎

すててこやお城に赤い日が沈む   太田うさぎ〔*2〕


〔*1〕小川軽舟『俳句日記2014 掌をかざす』2015年9月/ふらんす堂

〔*2〕週刊俳句編『俳コレ』2011年12月/邑書林



2016年6月15日水曜日

●水曜日の一句〔森田廣〕関悦史


関悦史









上がり框でとんぼを切りし春の沖  森田 廣


「とんぼを切る」は飛び跳ねて空中で一回転する所作。歌舞伎などで、投げ技をくらったことを表すのによく用いられる。日常いきなりやる動作ではない。そのことがこの「上がり框」を何やら特殊な境界のように見せる。まして下五は「春の沖」という飛びようだ。日本家屋の入口から見えていてもおかしくはないが、生活空間から離れた別の領分である。

家の入口のうす暗さと沖の明るさの対比があざやかで、他界的であるはずの「春の沖」の方が明るい。いや、「春の沖」が元から他界性などを担っているわけではないし、「上がり框」が予めこの世を表しているわけでもない。物が物であるままそうした象徴性を帯びてしまうのは、まじないじみた「とんぼを切る」動作で区切られてしまったことによる。

子供が道を歩きつつ、ドブ板ならドブ板だけを踏み、踏み外したら死ぬなどと、一人決めにした想念に耽る。こういうのも呪術的思考の萌芽であろう。誰にでもありそうな、その手の、強迫神経症一歩手前のような狂おしさを帯びつつ象徴性を日常へ巻き込んでゆく経験への慕わしさ。そうしたものを説得力と共感の土台に持ち、一句は、「とんぼを切る」へと飛躍する。描かれた動作が飛び跳ねているだけではなく、発想としても飛び跳ねる。

上がり框でとんぼを切らねばならないと認識し、実行したのは何ものであろうか。狐じみた物の怪や神異の類のようでもある。普通の人間がとんぼを切り、框を上がった途端に憑物が落ちて、以後は自分がとんぼを切ったことすら覚えていないといった事態も考えられる。記憶も自覚も残っていたとしても、当人にもおそらく説明は不可能であろう。単にそうしたというだけのことだ。日本家屋が身心に引き起こす幻想を描いた作として、一家が皆、何の説明もなく箪笥の上に上がってしまう半村良の短篇小説「箪笥」に通じる味がある気もする。それにしてもこの「春の沖」の何とあっけらかんと謎めいて魅惑的なことか。

句集『樹』(2016.5 霧工房)所収。

2016年6月14日火曜日

〔ためしがき〕 ウォーホルとリキテンスタインの絵画ではどちらが好きか 福田若之

〔ためしがき〕
ウォーホルとリキテンスタインの絵画ではどちらが好きか


福田若之


アンディ・ウォーホルとロイ・リキテンスタイン。すくなくとも日本では、この二つの名前がアメリカン・ポップ・アートの代表とみなされているように思う。そして、比較すると、ウォーホルのほうがより多く、より大きく取り上げられているように思う。

けれど、僕は、少なくとも絵画についていえば、リキテンスタインのほうが好きだ。リキテンスタインは、ウォーホルより深く、絵画について、それ自体の歴史と向き合いながら問いつめているように思う。リキテンスタインには、モネやピカソなどをアレンジした作品がある。アメコミを拡大したシルクスクリーンも、モンドリアンの新造型主義や新印象派の点描画と通いあっている。ただし、そんなふうにしながらも、リキテンスタインはまぎれもなく彼自身の時代における絵画を描いたのであって、歴史を驢馬のように背負ったのではない。リキテンスタインにおいて、歴史は重みをなしてはいない。しかし、それでいて、歴史は憎まれているわけでも、軽んじられているわけでも、否定されているわけでもない。歴史は、かるくなることによって、むしろ救われているように感じる。なんとなく、ほんとうになんとなくだけれど、リキテンスタインの絵画には「かるみ」に近いものがあると僕は思う。

ウォーホルには、僕はそうした「かるみ」を感じることがない。ウォーホルは、そもそも、リキテンスタインのようには歴史と触れ合っていないように感じる。ウォーホルにおいて見いだしうるものは、ほとんど、かけがえのなさだけだと言ってもいい。ウォーホルにおいては、極度の類似によって、個物のかけがえのなさが浮き彫りにされている。それぞれにかけがえのない複数のマリリン。それぞれにかけがえのないキャンベル・スープ缶。彼の愛するものたち。ウォーホルは一見すると大衆的なようでいて、実は極私的だ(彼はそれで『チェルシー・ガールズ』みたいな映画を撮る)。そして、それを見えにくくする圧倒的な数、数、数。だが、数によって見えにくくなりながら、一本のコカ・コーラの壜のかけがえのなさは、それによってこそ、確認されている。なら、僕はどうしてウォーホルをリキテンスタインほどには好きになれないのだろう。その理由を僕はうまく説明できない。

2016/4/25

2016年6月13日月曜日

●月曜日の一句〔大高翔〕相子智恵



相子智恵






洋食のガラスケースの額の花  大高 翔

『俳句四季』6月号「神保町」より(2016.05 東京四季出版)より

「レトロ」という言葉がオシャレな感じを伴って、すっかり定着したのはいつからだったろう。「レトロかわいいファンション」とか「ほっこりできるレトロなカフェ」とか「昭和レトロ」とか。

掲句、何でもない句だが「レトロ(オシャレな意味の)」を感じる。レストランのショーケースの中に、食品模型(あるいは本物のランチ)などが飾ってあるのだろう。そこに切り花の額紫陽花が添えられている。季節を表わすちょっとした演出として。

イタリアンやらフレンチやら、「本場の最先端の味」が手軽に食べられるようになった今、登場した時は最先端であった「洋食」という言葉は、古びつつも、レトロな雰囲気をまとい直して、「町の洋食屋さん」というまったく別ジャンルのイメージを形成して、今の時代に馴染んでいる。

ショーケースではなく「ガラスケース」という言葉の選択もまた、レトロを感じさせている。

そして「額の花」だ。この花の和風にも洋風にも合う、派手すぎず地味過ぎない見かけ。そして、古い歴史がありながら、現在もどんどん新しい品種が作られているという越し方も、この花自体が洋食と同じようなジャンルを形成しているような気がするな、と、掲句を読んでそう思った。

2016年6月11日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 句集の読み方 その3・署名 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その3・署名

西原天気




著者の署名(サイン)。句集だと、表紙のウラとか見返しに、一句といっしょに書いてあったりします。

「サイン、入れときましたよ」「わあ、うれしい」

「ここにサイン、してもらえますか?」「はい。一句、書きましょうか? それとも、あなたのお名前を?」

「これ、サイン入りなんですよ」「わあ。すごい。いいなあ」

こうしたやりとりが句集上梓の際には、あったりなかったり。「サイン会」なんてものもあります。句集に限らず、サイン会は有効な販売促進、ファンサービスです。

署名(サイン)にまつわるこうしたノリに乗っていければ、俳句世間も住みやすいのですが、正直に言いますね、私、この、句集に書かれた著者の署名(サイン)に、まったく興味がない。というか、好きか嫌いかでいえば、嫌い。

(サインは「ダメ」「するなよ」という話ではないですよ。サインをありがたがらない、うれしくない人間も、なかにはいる、ということをお伝えしたい)



自分の句集のとき、どうだったかというと(サインする立場ですね)、何人かの方から、書くよう頼まれましたが、丁重にお断りしました(ひとつかふたつ、立場上、断り切れなかったケースはあります)。

自分のヘナチョコな字がはばかられるというのも、その理由ですが、それよりも、もっと根本的に、サインがないほうが、本として、よほど良い、と思うから。

つまり、本というもの、何百部、何千部、何万部、あるいはさらに数多くの「複製」だから、好きなのです。

大量の複製のうちのひとつを、自分が手にしている。それは、なんだか軽やかです。

その軽さがいい。

サインがほどこされると、「一点もの」っぽくなる。サインを欲しがる人、したがる人、好きな人は、「ほかにない」「一点だけの」という点に価値を置くのでしょう、きっと。ところが、「一点もの」は、「軽さ」がすこし薄れる。ちょっと重くなる。


というわけで、いろいろな趣味嗜好があるんだということをわかっていただけましたでしょうか。




画像・上:「署名本 句集」で検索 ※クリックすると写真が画像が大きくなります
画像・下:「サイン本 句集」で検索

検索結果のラインナップ、並べたときの見た目が、ずいぶん違います。


 
〔追記〕

手で書いた字は、好きです。書くのも、読む/見るのも。

でも、本に書かなくていいよ、ってことです。


ちなみに、ちょっと変わった嗜好・性癖を打ち明ければ、「悪筆」マニアです。「悪筆」ラヴァーです。

じょうずで、味のある字も好きなのですが(残念ながら、その手の字はほんとうに数少ない。滅多に見かけません)、それとは別に、「なんじゃこれは!」と叫んでしまうくらいの悪筆。これが大好き。

中途半端にヘタ、あるいは中途半端に達筆な字に関心がない(数的には、このゾーンが圧倒的多数、というか、ほとんどが、これ)。ちょっとやそっとのヘタではなく、ものすごくヘタな字をマニアックに愛する。

知っている範囲の俳人で、私の「悪筆ラブ」の今のところの一番は、髙柳克弘さんです。しばらく彼の字を見ていないような気がしますが(以前は、何で見たんだろう? 憶えていません)、もう、垂涎ものです。



※次回の「句集の読み方」は、「序文」の話です。

2016年6月10日金曜日

●金曜日の川柳〔葵徳三〕樋口由紀子



樋口由紀子






雲は道化師消化薬をあげよう

葵徳三 (あおい・とくぞう) 1903~1977

窓から空を眺めていると雲がどんどん進んでいくのがよくわかる。こんなに早くと思うくらいに動く。それに伴っていろいろなかたちになる。まさか、見ている人を楽しませるためではないだろう。たぶん無理していると見て、その雲を道化師と捉えた。

道化師は人をおもしろがらせるために滑稽を演ずる。おかしくなくてもおかしい動作をして、みんなを笑わせる。胃腸だってまいっている。たぶん疲れていると感じて、その道化師に消化薬をあげようという。雲→道化師→消化薬の事の運び方が独自で、それぞれが響き合っている。

葵徳三は「ふあうすと」に精力的に評論も書き、川柳に新しい息吹を求め続けた。還暦を機に「雲」をモチーフとした作品を書いた。〈錠剤を掌に置き雲を見ぬ二日〉〈生死観 五分六分なり浄土雲〉〈雲十年雲が摑めず雲にいどみ〉〈砂地獄のくらしの上に雲がある〉。

2016年6月9日木曜日

●誰がために

誰がために


誰がために剃りし陰毛夏来る  北大路翼

誰がために亀鳴くあめりか暗殺史  佐山哲郎

誰がために生くる月日ぞ鉦叩  桂信子


北大路翼『天使の涎』(2015年4月/邑書林)
佐山哲郎『東京ぱれおろがす』(2003年4月/西田書店)
桂信子『月光抄』(1992年6月/東京四季出版


2016年6月8日水曜日

●水曜日の一句〔加藤静夫〕関悦史


関悦史









水着なんだか下着なんだか平和なんだか  加藤静夫


口語調の上に七七七の字余りだが、三回繰り返される「~なんだか」のリフレインによって統一感がもたらされている(反復は統一感をもたらす。俳句でしばしば嫌われる中八でも、四音の語を二度繰り返す形であれば、間延びしにくいという説を聞いたこともある)。

水着にしては露出が多く、下着にしては鮮やかといった、どっちつかずの、おそらくは水着と思われる物件を前にしての《水着なんだか下着なんだか》には、性的な関心を引かれつつ、そのデザインには呆れてみせて距離を置く安全志向ともいうべき心理がうかがわれるが、一句はさらに《平和なんだか》と続く。

日本の場合は特に、戦時であれば《水着なんだか下着なんだか》わからないような物件が衆目にさらされる事態はなさそうだから、さしあたり、この妙に扇情的な物件が人目に触れていること自体、平和をあらわしているとはいえる。

これは重いことをあえて軽く扱うことでかえって重さを際立たせるという手法というわけでもなさそうで、今のところたしかにはっきり戦争状態には至っていないが、本当に平和なのかねと、茶化しつつ高みの見物を決め込んでいるかのような一見余裕のある言葉が、「~なんだか~なんだか~なんだか」というリズムによって、呆れつつもかえってそれ自体踊りだしてしまい、地に足のついていない夢遊性を体現してしまっている点が重要なのだろう。

浮遊性のなかで「水着」「下着」と同一地平に置かれてしまった「平和」の扱いの諧謔的な軽さ。それは語り手のうちにいつのまにか自然に入り込んでしまっているものである。頭で大事なことと思っても、実感はないという乖離が、このカテゴリーの違いを無視して「水着」「下着」と並んでしまう「平和」にあらわれていて、語り手はそれを自覚しているのである。

また考えようによっては「平和」とは《水着なんだか下着なんだか》わからない物件を何の不安もなく愛でたり、茶化したりしていられる状態であるともいえる。この物件は、今のところ声高に指弾されたり、空襲によって炎上したりすることもなく無事に人目にふれている。そうした夢遊性と不安感をはらんだ、危機との距離があるのか、もうさほどないのかもはっきりしないなかでの安定、それを体現しているのが「~なんだか~なんだか~なんだか」の反復なのである。


句集『中略』(2016.5 ふらんす堂)所収。

2016年6月7日火曜日

〔ためしがき〕 「存在価値」という言葉のあやうさ 福田若之

〔ためしがき〕
「存在価値」という言葉のあやうさ

福田若之


計り知れないとは計測可能なはずの量が度を越えているということだ。それは、数直線の彼方にあるということだ。

かけがえのなさは計り知れないのではなく、そもそも計りえない。それはいかなる数直線上にも値として載せることができない。

ここに「存在価値」という言葉のあやうさがあるように思う。この言葉は、かけがえのなさについて言うのに用いられることがある。けれど、この言い方を、かけがえのなさに対して用いる場合、ひとはそれを計り知れなさだと錯覚しかねない(有限にせよ無限にせよ、とにかく「値」ないしはその延長線上であるように思わせてしまう)。だから、僕は「存在価値」という言葉をこの意味では使わないようにしたい。

2016/4/14

2016年6月6日月曜日

●月曜日の一句〔上田貴美子〕相子智恵



相子智恵






真つ赤な牡丹剪る短調の一音  上田貴美子

句集『暦還り』(2016.04 角川文化振興財団)より

大きくよく咲いた真っ赤な牡丹を選び、切り花にする。剪定鋏を入れると短調の音がした。〈短調の一音〉には、牡丹の重さや枝の太さが感じられるのに加え、剪るときの主体の内面や、剪られる牡丹の気持ちまでもが表わされているように思う。

普通に読むと、七、七、四音だろうか。破調の句であるが、すっと入ってくる。〈牡丹〉と〈短調〉の「タン」の音や、〈一音〉の「ン」の音が重なって、調子が整っていることが大きい。

また〈一音〉の前後に、しんとした空白の時間が感じられ、それが余韻になっているので、字足らずが気にならない。コンサートホールで演奏が終わった後の、観客が拍手をするまでの数秒の静寂のようなものが連想されてくる。

2016年6月5日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 句集の読み方 その2・帯〔続〕 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その2・帯〔続〕

西原天気



さて、続きです。

前回(昨日)、自分の句集『けむり』の帯に八田木枯さんのお言葉を配したことを紹介しましたが、これ、名のある人の推薦を帯に刷るパターンです。

北大路翼『天使の涎』(2015年4月/邑書林)の帯A面=会田誠も、そのかたち。俳句業界の外の著名人に依頼した点、この句集のコンセプト〔*1〕とよく合致しています。



金原まさ子『カルナヴァル』(2013年2月/草思社/装幀Malpu Design)は有名俳人の推薦文。



無記名の惹句というパターンもあります。編集がつくりあげたコピライトを配した斉田仁『異熟』(2013年2月/西田書店/装幀間村俊一)。



シリーズ刊行だと、それを伝える文言が入ってきたりもします。下写真は寺澤一雄『虎刈り』(1988年/牧羊社/装幀山崎登)。



一句抜いて大書というかたちも少なくありません(最多かも)。下写真は中村遥『海岳』(2015年1月/本阿弥書店/装幀花山周子)。


帯の形状から、句が横組になるのは致し方のないところでしょうか。それを避け、縦組・改行で処理した帯もあります。下写真の村上鞆彦『遅日の岸』(2015年4月/ふらんす堂/装幀間村俊一)。


久保純夫『日本文化私観』(2015年10月/飯塚書店/装幀片岡忠彦)は著者本人の「あとがき」から抜粋。



主宰の推薦文を入れるかたちはかなりの頻度。下写真は宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』(2012年12月/現代俳句協会/装幀小島真樹)。



上田貴美子『暦還り』(2016年4月/角川書店/装幀大友洋)は、写真+一句+主宰の一文抜粋。



変わったところでは、文言ナシ・写真という堀込学『午後の円盤』(2013年7月/鬣の会)。


ただし、これ、いっけん帯に見えて、じつはカバーへの印刷(帯とは呼べませんね。でも、だって、見た感じは帯なんだもん!)。近年、このかたちも出てきました。

岸本尚毅『感謝』(2009年9月/ふらんす堂/装幀柚子谷七月子)は、帯の部品(惹句やら自選15句やら)を備えながら、カバーへの印刷。最初、指でさわって、びっくりしましたよ。




ほかにもいろいろあるのですが、あとは、読者諸氏が自宅や書店でお楽しみください。


最後に。

帯がないのも、それはそれですっきりして、気持ちがいいね、ってことで。



中山宙虫『虫図鑑』(2016年4月/西田書店/装幀笠井亞子)
佐藤文香『君に目があり見開かれ』(2014年11月/港の人/装幀吉岡秀典)
髙柳克彦『寒林』(2016年5月/ふらんす堂/装幀和兎)



〔*1〕句集のコンセプトとは例えば、北大路翼:2016田中裕明賞受賞の言葉:「一般読者を意識するやうになつたのは、「屍派」を立ち上げてからである。飲み屋で始めた句会は三人になり四人になり十人になつた。いまではSNSでつながつたメンバーも含めると全国で百人以上になる。みな屍派がきつかけで俳句を始めた人たちだ。 」
http://furansudo.com/award/07/jyusyou.html

2016年6月4日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 句集の読み方 その2・帯 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その2・帯

西原天気



「帯」はカバーの下のほうに巻く紙。「腰巻」と呼ばれることもあるようです。

通常は、惹句、販売促進のためのキャッチコピー等が印刷されます。

なぜ、カバーのほかにわざわざ帯が要るのか。例えば「待望の第一句集!」とかデカデカとカバーで謳うわけにも行かない。ちょっと品がない。それに、著者が自分で「待望の~」はおかしい。帯の文言は、きほん、著者ではなく、出版社・編集サイドの発信なのですね。

惹句以外に盛り込む情報として、「著者あとがきより」もあります。著者の文言をかいつまむ。著者のことばではありますが、抜粋という「編集」処理があるので、出版社・編集サイドという原則は崩れていません。

帯には、増刷のときなど、別の帯を掛け替えやすいというメリットもあります。比較的ローコストで刷新できる。例えば、その本が何かの賞を獲った。すると、「△△賞受賞!」と大書する。芸能人が番組で取り上げた。すると「Aさん、絶賛!」と大書。

帯とはつまり、書店で目の引き、本の魅力を端的に伝える目的と換言できそうです。

句集の場合、店頭に並ばないものにも帯がかかっていたりします。販売促進の必要がないのに、なぜ帯が要るのか? じっさい要らないかもしれません。でも、これがないと、見た目がなんだか締まらないという事情もあるようです。



帯に、「自選××句」として句が抜粋されている句集も多い〔*〕。使うスペースはたいてい帯の裏表紙の部分(個人的に帯B面と呼んでいます)。

これ、習わしのようなものでしょうか。あるいは、帯の表(帯A面)を惹句スペースに使うと、裏(帯B面)にはもう載せる文言がない(句集の場合、実用書のように細々とした宣伝文句はそぐわない)ので、「自選××句」を並べておく。内容見本にもなりますし。

一方、この「自選××句」は、句集を読まずに礼状を書く人のためにある、という見方もあります。ページをめくらずとも、「自選××句」から適当に一句あるいは数句引いて、「誠に結構な句集でございます」と礼状が書けるというもの。

(ほんとか? そんな人、いるのか?)

この「自選××句」、私は読みません。なぜかというと、例えば300句を収めた句集があるとして、帯に「自選10句」が印刷されている。

え? じゃあ、あとの290句は、なんなのですか?

そう思ってしまうので。

あとの290句が不憫じゃないですか。

というわけで、帯の「自選××句」には目もくれず、ページをめくり、最初にある句から順番に拝読する、というのが、私の読み方です。



ちなみに、自分のことで恐縮ですが、5年前に出した句集『けむり』は、ちょっと変わった造本をしていて、カバーがない。カバーのない、裸みたいな紙の束を、大きめの帯が包む形です(画像はこちら)。

帯の表(A面)には八田木枯さんからお言葉をいただきました。なんと大それたことを! いま思うと冷や汗が出ます。




と、ここまで、書籍、句集の帯について簡単に説明しましたが、この「帯」という部分、あらためて眺めてみると、いろいろとおもしろいのです。次回(明日)は、そのへん、つまり、帯を楽しむという観点から見ていきましょう。

「その2・帯」の項、つづく


〔*〕聞いた話ですが、ある人が、句集を贈呈され礼状を書いたところ、著者からお叱りを受けた。理由は、礼状に、自選××句から一句も引いていなかったから。「句の選び方がなっとらん!」というわけです。わがままで傲岸不遜な爺ィがいるんですね。それを怒るなら、自選××句だけ、数ページの句集にすればよかったのに。

2016年6月3日金曜日

●金曜日の川柳〔一戸涼子〕樋口由紀子



樋口由紀子






フクロウのふところだろか眠くなる

一戸涼子 (いちのへ・りょうこ) 1941~

私はよく寝る。昼寝も夕方寝も御飯後寝もする。ときどき今は朝なのか昼なのか夜なのか、何寝の後かわからなくなり、目覚めるときに一瞬考える。掲句は「ふところだろか」だから、眠くなってくるここはどこだろうか思ったのだろう。夢を見る一歩手前の出来事だ。

フクロウは賢い鳥であり、守ってくれそうな鋭い眼光をして、それでいて胸のあたりはふわふわしている。温かくって、安心できそうである。フクロウのふところだったら気持よく眠れるだろうと想像する。もちろん、そのような経験はない。作者だって経験はないはずだ。しかし、確かに実感できて、なるほどと納得できる。書かれたことによって、その感触を共有する。「水脈」42号(2016年刊)収録。

2016年6月2日木曜日

●近江

近江

巣へ運ぶ近江の泥や夏燕  須原和男〔*〕

田を植ゑて空も近江の水ぐもり  森澄雄

鍋焼や近江八景靄の中  岸本尚毅

朝刊に雪の匂ひす近江かな  田中裕明

白息のかかりしところより近江  永末恵子

たんぽゝに東近江の日和かな  加舎白雄

行春を近江の人とをしみける  芭蕉


〔*〕須原和男句集『五風十雨』(2016年5月/ふらんす堂)より。

2016年6月1日水曜日

●水曜日の一句〔工藤惠〕関悦史


関悦史









美しき人とくしゃみをする約束  工藤惠


一種のデートの約束というべきか、「くしゃみ」が妙にエロティックなものに見える。「くしゃみ」が「美しき人」「約束」という言葉と組み合わせられているためである。

くしゃみの瞬間、取り澄ました顔は崩れさる。人によっては裸体と同等程度に見られたくないものかもしれない。少なくとも、人の肖像写真を公開する際に、くしゃみしている顔というのは使えない。

実際には人なかで不意にくしゃみをしてもどうということもないので、この句の奇妙さは、それをわざわざ約束して見せ合うという関係性にある。俳句においては、そうした作者が「手柄」と思っている部分が「手柄顔」のくさみにしかなっていないことも少なくなくて、この句も危ういところに近寄ってはいるのだが、「くしゃみをする約束」という、見るからに奇妙な部分もさほどには悪目立ちはしないで済んでいるのではないか。

これは「美しき人」と、軽く崩れたさまを見せ合うという、性交ともキスとも違う、ひめやかでありながらわざわざ隠すほどでもない、より重力の重みから解き放たれた交歓のイメージがメインになっているからで、さらには、その約束がまだ果たされてはおらず、期待の感覚とともに、「美しき人」と自分との特別な繋がりを形作るというものにまで「くしゃみ」が異化されているからだ。

約束はまだ果たされていない。逢瀬の期待感のみが一句を満たしている。情交的なものにまつわる重さや湿りをすりぬけ、天界的な身軽さをもった歓喜への期待を集約したものとしての「くしゃみ」が、この句には捉えられているのである。


句集『雲ぷかり』(2016.6 本阿弥書店)所収。