小池正博『転校生は蟻まみれ』(2016年3月/編集工房ノア)
≫榊陽子
≫なかはられいこ:感謝まみれと、蟻まみれ
≫瀧村小奈生
≫柳本々々
≫岡田由季
≫西村麒麟:蟻にまみれているところ
≫大井恒行
〔週刊俳句〕
≫山田ゆみ葉
≫小津夜景:水と仮面のエチカ
≫西原天気:はじめてください、川の話を
特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。川柳諸作家の句を、「読後感」の近縁から併置した点、新鮮。
俺は俳人 有望な若手俳人 口語? 「高校生らしい」手口ただ、記事タイトルにもなっている「三冊子ひらいても頭振らない」がよくわからない。私の読解力不足。
仮に金で買えない愛があったとしても維持費はかかるよねじつに、そのとおり。
俳句を詠むということは多分に羞恥心を伴うようなみっともない行為の謂であり、だから、俳句甲子園に出場することや俳句を詠むことをまるで素晴らしいことであるかのように語る言葉を目にするたびに、その眩しさに対する違和感をどうしても拭えずにいた。この違和感、思い当たる人がきっと少なくない。
実は世界のそこここに存在しているモノのひとつひとつ、加減のありかたや角度、壊れかたにわたしたちの加減や壊れかたが宿っている。それをみつけるひとつの〈しぐさ〉が短歌なのかなと思うことがあります。(柳本々々)スタイリッシュな書きぶりで、ほぉと見惚れてしまいますが、ちょっと待て、この把握だと、「わたしたち」に内面があるみたいです。そりゃ「ある」だろうし、「ある」と思うほうが、何かを読むときラクでしょうけれど、さて、俳句は、というと、ちょっと保留がいる。このとき、「わたしたち」を作者に限定せずに、読者まで広げても、事情は同じ。
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1431.html
俳句の「ただごと」は内部で分裂していないだろうか。つまり①他人には「ただごと」に見えるけれど、本人には「ただごと」でない、②「ただごと」だから面白い。— たじま (@tajimaken) 2016年6月14日
①については非常に理解できるのだけど、②は倒錯的ではないか。
今日の勉強会で、大方の川柳は「それがどうした」で消える、という話があった。私が選句しながらつぶやく「知らんがな」だな。— 八上桐子 (@kurageabuku) 2016年1月19日
いつも、これはあざといなあと感じている「採る句採らぬ句、選句の基準」がある。全部とは言わないが、自分の採る句の基準などを得々として述べている選者など見ると正直辟易してしまう。句会や句会後の酒席で各自が「採る句採らぬ句」の基準を披瀝しあう、なんてことはありそうです(もっとも、句会では、「得々として述べ」てもらわなくても、実際の選句を見ていれば、その人の基準が伝わったりします)。でも、これを記事に書くとなると、なんらかの慎みや技術が要りそうです。でないと、「こいつ、なにさま?」と拒否反応を示す読者も出てきます。
角川の『俳句』はもう買わない:齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/a5aeb9bcbe01375392a55698199e82dc
もしかするとこの「自己同一性」というものについては、むしろ読み手の方に、揺るがされたくないという意識があるのではないかな。
暑いし、家に帰ってきたときにアイスクリームがあるとうれしいですよね。:福田若之
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/477_12.html