2021年12月31日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




貧困、貧窮、貧苦、貧乏。似たようでいて、それぞれすこし違う。

例えば、社会指標として用いられるのは「貧困」で、「日本の相対的貧困率はG7中でワースト2位」との報道を今年見た気がする。「相対的」というのはつまり、収入がその国の多数の平均(いいかげんな説明ですみません。中央値ってこった)の半分に満たない人の割合で、貧富の格差を反映していると思ってもいいのだろう(ちなみにワースト1位は米国)。貧窮からは「貧窮問答歌」が思い浮かび、貧苦はこのところあまり耳にしない。いずれにしても、社会にとって個人にとって深刻な状況。という書きぶり自体がひじょうに無責任に愚かしく、イヤになるが、まあ、それはともかく、貧乏という語は、どこか明るい。それは「び bi」「ぼ bo」といった音のせいだろうと思う。

正月のビンボーリンボーダンスなり  広瀬ちえみ

正月を迎えるにあたっては、すこしくらいは金子(きんす)の余裕が欲しいが、ままならないこともある。人もいる。状況を直視するなら精神の落ち込むに任せるのもいたしかたないことだが、この句は、なにを思ったか、リンボーダンス。あの、脳天気な打楽器リズムを伴奏に、身体をのけぞらせるダンス。これも、確実に、ひとつの暮らし方だし、生きる態度であると思う。

でも、なんか寒い。リンボーダンスが半裸のイメージだから? だけじゃないと思う。貧乏は寒いのだ。肌感覚として、寒い。そういえば「素寒貧」という類義語もあって、こちらは「ぴ pi」音の効果があってかなくてか、深刻の一歩手前で、いくぶんロマン的でもある。

ここでふと、リンボーダンスの起源に関心が向かう(貧乏暇なし、じゃなくて、貧乏暇だらけ)。手軽なところでウィキペディアによれば、「西インド諸島のトリニダード島に起源を持つダンス」だそうで、英語の limber(体を柔軟にする)が命名の由来。limbo(辺獄)じゃないんですね。魂じゃなくて、あくまで身体のダンスなのです。

で、さらに、この句のことに話を戻せば、貧乏な人もそうじゃない人も、ビンボーダンス、やってみたらいかがでしょうか。正月の畳の上で。

こう言っても、実際にやる人、いないでしょうけどね。

それでは、みなさま、良いお年を!

掲句は広瀬ちえみ『雨曜日』(2020年5月/文學の森)より。



2021年12月29日水曜日

●2022年新年詠 大募集

2022年 新年詠 大募集


新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールを添えてください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2022年11日(土)0:00~18日(土)0:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2021年12月27日月曜日

●月曜日の一句〔青池亘〕相子智恵



相子智恵







畳まれし毛布の上の絵本かな  青池 亘

句集『海峡』(2021.12 東京四季出版)所載

冬の朝、きちんと畳まれた布団。その上に畳まれたふかふかの毛布の上には、昨晩読み聞かせをした絵本が置かれたままになっている。

句の背後に、毛布をきちんと畳む丁寧な人が見えてくるのに、一方の絵本は本棚に戻すことなく毛布の上に置かれたままだということは、子どもが大好きな絵本なのだ。今晩も(そしてきっと明日の晩も、明後日の晩も……)この絵本を読み聞かせてもらいながら子どもは眠りにつくのだろう。寝室の毛布の上につねに置かれたままの、幸せな絵本なのである。

毛布と絵本のぬくもりが、そのまま家族のあたたかさにつながっていく。感情を一切述べなくても、その風景だけで愛おしい日常が伝わってくる。

2021年12月24日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






われわれは絆創膏がよく似合う

樋口由紀子 (ひぐち・ゆきこ) 1953~

歳を取るごとに大きな怪我をしないように慎重に動いているが、その分小さな傷は絶えない。よって絆創膏のお世話になることが多い。若いころは怪我をしても絆創膏を貼るのが嫌だった。割烹着を着たおばさんみたいに思えたからだ。しかし、今はもう十分におばさん。いや、おばあさんになって、血が滲むとあわてて絆創膏を貼る。するとほっとする。絆創膏がよく似合うようになった、そう思いたいのだ。

しかし、「わたしは」ではどうしようもない。個人的な感慨の範疇で終わってしまう。それで大言壮語するごとく「われわれ」とした。複数形にするだけで世界が違ってきて、言葉の世界を作り出せたような気がした。言葉はおもしろいとつくづく思う。「What´s」(創刊号)収録。

2021年12月22日水曜日

西鶴ざんまい #19 浅沼璞


西鶴ざんまい #19
 
浅沼璞
 

 化物の声聞け梅を誰折ると       西鶴(裏一句目)
水紅(くれなゐ)にぬるむ明き寺    仝(裏二句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「梅」に「水温む」で春の付合。

「紅」は自註に「池水を血になし」(後述)とあるので、「化物」つながりで血の池地獄のイメージでしょう。
 
句意は「庭の池の水が血の紅の如く温む、そんな空き寺だ」といった感じ。

自註末尾には、「此の句は、前の作り事を有り事にして付け寄せける」とあります。
 
つまり、梅の枝を折った坊ちゃまの躾のために下女が「化物」に扮するという「作り事」を、現実の「有り事」として見立て替え、化物の出没にふさわしい「其の場」の付けをしているわけです。


では自註をみましょう。

「野寺(のでら)に久しき狐狸のさまざまに形をやつし、亭坊(ていばう)をたぶらかし、柳を逆さまに、池水を血になし、出家心(しゆつけごころ)にもここに住みかね、立ちのけば、後住(ごぢゆう)もなくて、おのづからあれたる地とぞなりぬ」

で、先に引いた末尾の一節が続きます。

語句をたどるとーー「やつし」は変化(へんげ)、「亭坊」は亭主の坊主(住職)、「柳を逆さま」は逆髪(さかがみ)の化物のイメージ、「出家心」は俗心を絶った心もち。
 
されば狐狸の変化がために、世捨て人の住職すら住みつかず、荒れ寺になったという設定です。


では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

亭坊たぶらかしたる野寺 〔第1形態〕
    ↓
 亭坊もなき水ぬるむ寺  〔第2形態〕
    ↓
 水紅にぬるむ明き寺   〔最終形態〕

このように最終形態は「亭坊」の《抜け》で、化物にふさわしい「其の場」を詠んだ疎句なわけです。


「んー、こまい事いうようやけどな、自註の『柳を逆さま』には逆髪のお化けだけやのうて、春の柳の風情もこめとるんやで」

あー、鶴翁ばりに《抜け》てしまったみたいです。

「なんや、わての影響かい」

2021年12月20日月曜日

●月曜日の一句〔成田一子〕相子智恵



相子智恵







聖樹点灯たちまち凛凛と世界  成田一子

句集『トマトの花』(2021.10 朔出版)所載

〈凛凛と世界〉の広がりの大きさによって、これは家の中の小さなクリスマスツリーではなく、街の中の大きなクリスマスツリーであるということが想像されてくる。有名なロックフェラーセンターのクリスマスツリーのような、大きな聖樹。点灯式だろうか。

聖樹が点灯したとたんに、世界中が寒さに引き締まった。「凛凛」には「寒さなどが身にしみるさま」「凛々しい」など、いくつかの意味があるが、どれも含んでいるのだろう。冬の夜の澄んだ空気の中で、硬質な光がパッと瞬いたのである。

それだけではない。〈凛凛〉の「リンリン」という音からは、ジングル・ベルの鈴の音が聴こえてくる。音からもクリスマスの空気が伝わってくる、美しい一句である。

2021年12月17日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






婚約者と会わねばならぬ大津駅

樋口由紀子 (ひぐち・ゆきこ) 1953~

いろいろと想像してもらった私の川柳である。息吐くように口から出た。なぜ、「大津駅」だったのか。実際に大津駅で乗降したことがあるが、特別な印象も、特別な出来事があったわけではなく、どんな駅だったか記憶にもないくらいだ。ただ「大津」という言葉は「大津絵」を観たあとだったからかもしれない。もちろん因果関係はない。

「婚約者」に会うのはあたりまえだから、「会わねばならぬ」とわざわざいうのはなにかへんである。「婚約者と会わねばならぬ」という措辞をよりへんにするために「大津駅」を装飾したのか。もちろんそんな事実はない。空想の世界にいるときがある。なんだかわけのわからない心境をたぶん書きたかったのだろう。『めるくまーる』所収。

2021年12月13日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤智子〕相子智恵



相子智恵







お祈りをしたですホットウイスキー  佐藤智子

句集『ぜんぶ残して湖へ』(2021.11 左右社)所載

〈したです〉に驚く。この舌足らずで、子どもじみた書きぶりをしている人が、ホットウイスキーを飲んでいる。……ということは大人なのだ。ホットウイスキーは、ロックや水割りなどと違い、自宅での飲み方である。ホットワインや卵酒と同様に、温まるため、安眠のために飲むお酒だ。このお酒の飲み方と、〈お祈りをしたです〉によって、明日への小さな祈りを胸に、眠る前の孤独な夜をやり過ごそうとしている一人の大人が見えてくる。

「祈り」に対して「お祈り」だから、中身は小さく、取るに足らないことのように思えるし、そう思わせるように描いている。しかし、〈したです〉という(照れから、あえて自分を茶化しているようにすら思える)幼児のような独り言からは、他者から見て小さいと思えるような祈りが、実は、その人にとっては言葉遣いを退行させないと表出できないほどの、真に深いところにある祈りなのだと、逆に思わせる力がある。軽い描き方をしながら、妙な切迫感があるのだ。

ペリエ真水に戻りて偲ぶだれをだれが

新蕎麦や全部全部嘘じゃないよ南無

ここに描かれている句もそうだ。〈ペリエ真水に戻りて偲ぶ〉で、気の抜けた(ある意味、死んでしまった)目の前の炭酸水を偲びながら、〈偲ぶ〉から呼び出される、「誰かが誰かを偲ぶ」というの関係性の密度が描かれ、しかし同時に、「だれをだれが(?)」という含羞に包まれた軽い孤独となって読み終わる。

〈全部全部嘘じゃないよ〉の過剰さに〈南無〉をつけなければ表現できないほどの、思いの伝わらなさ、通じ合えないことの無念が描かれる。

日常の取るに足らないチープな素材から「ただごと」を描いた、“素材としてのただごと俳句”は見かけるが、素材だけでなく、レトリックまでもがチープな、“文体まるごとの、ただごと俳句”というのはあまり見ない。軽い内容を、あえて定型の予定調和を外し、けれども、人が一生懸命話すときと同じ“畳みかけるリズム”で詠むことから生まれる切実な感覚。

俳句の型や季語、すべての武装を解除した先の日常の、取るに足らない本音。私たちが心の奥底にもっている、決して他者には伝わらない“ただごとの祈り”のような本音の、“たたごとならざる切迫感”が、ぎゅっと胸を打つのである。

2021年12月10日金曜日

●金曜日の川柳〔墨作二郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






伊吹山 青いヨーヨー陽にぬくい

墨作二郎 (すみ・さくじろう) 1926~2016

新幹線で東京に行くときの楽しみの一つは富士山を見ることであるが、その前に、琵琶湖の通り過ぎたあたりから見える伊吹山も好きな山である。富士山と同じように目で追いかける。伊吹山は滋賀と岐阜の県境にあり、修験道の霊地としても有名で、高山植物が多く見られる。

伊吹山を眺めているのか、伊吹山での光景なのか。青いヨーヨーに陽があたって、揺れている。「陽にぬくい」だから、陽がぬくいのではなく、青いヨーヨーがぬくいのだ。ヨーヨーが陽に当たったり当たらなかったり、伊吹山とヨーヨーのダブルイメージが美しく、多様な感覚がよぎる。自我のあいまいさとあやうさを映し出していると読むのは深読みかもしれない。日曜日に東京に行く。伊吹山と富士山に久しぶりに出会える。『尾張一宮在』(1981年刊)所収。

2021年12月8日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#4 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#4
 
浅沼璞
 

岸本尚毅著『文豪と俳句』(集英社新書)の書評を「俳句」12月号に書きました。タイトルどおり「文豪と俳句」の諸相を考察した本ですが、よく読むと所どころで「文豪と連句」の関係にもふれています。

書評では言及しませんでしたが、つらつら考え……なくても、「文豪と連句」のルーツには西鶴がいるわけで、この番外篇にて紹介してみようかと思いいたりました。


まずは森鷗外の発句から――

  百韻の巻全うして鮓なれたり    鷗外

歌仙形式は今も人気ですが、もともとは百韻の略式でした。「西鶴自註絵巻」の形式も百韻ですが、あれは独吟。ふつーは複数の連衆と巻くわけで、歌仙の倍以上の時間がかかります。岸本氏曰く「百韻が仕上がった頃、馴れずしも熟成してきた。変化に富んだ連句の世界と、馴れずしの風味との取り合わせに妙味があります」。風味と妙味、味な解説です。


つぎに西鶴復権の立役者・幸田露伴の発句と脇――

 獅子の児の親を仰げば霞かな    露伴
  巖間の松の花しぶく滝

これは西鶴に同じく独吟の付合。岸本氏曰く「親獅子の厳しさを詠った発句を、岩や松を詠み込んだゴツゴツした脇が受け止めています。滝は垂直方向に句の空間を広げ、親獅子の居所がはるか高みであることを思わせます。いっぽう松の花の生命感と滝の生動感が、この二句を観念だけの句になることから救っています」。生命感と生動感、生き生きした解説ですね。


そして実父の友人の発句に脇を付けた宮沢賢治――

  どゝ一を芸者に書かす団扇かな   無価
   古びし池に河鹿なきつゝ     賢治

「無価」さんは賢治より三十歳ほど年長だったようです。岸本氏曰く「粋人の無価は芸者や遊女で詠みかけますが、賢治は生真面目な付句で応じています」。粋人と真面目人間……、(やば)オチがおもいつかない。


えーと、さて、ほかに芭蕉の連句を評した太宰治の『天狗』の引用なんかもありまして。岸本氏曰く「連句評がそのまま心理描写になってしまうところに太宰の資質を見る思いがします」。

そういえば太宰には西鶴短編の翻案集『新釈諸国噺』もあって、心理描写を駆使した佳作でした。

芭蕉と西鶴……! これこそ粋人と真面目人間! オチがついた。

「そやな、わてが生真面目なんは皆知っとるはずや」

? 順序まちがえたかな……。

「まちごうてない、まちごうてない、蕉翁はわてよりよっぽど粋人やで」

……なんたるオチ。

2021年12月6日月曜日

●月曜日の一句〔佐山哲郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




缶切りが一周ぼくの蓋が開く  佐山哲郎

缶の側面やら底に缶切りを使うことは断じてないので、これはもう、脳が見えてしまうしかない。伝説か伝承か虚構か嘘っぱちか、中国のお金持ちは美食ゲテモノ喰いのはてに、猿の頭蓋をぱかっと割って脳を食したという。ああ、おそろしいおそろしいと怯えていたら、映画『ハンニバル』(2001年/リドリー・スコット)がわざわざ映像化してくれた。ひどいシーンだったなあと回想しているうち、むかし、牛の脳のカツレツを食したことを思い出してしまい、感染症うんぬんよりも、その濃厚すぎる風味と、脳!という事物の衝撃力のせいで、いままさに胃のあたりがムカムカしだした。

とまれ、俳句というジャンルは、知性の蓋がだらしなく開きっぱなしになったようなところがあるので、掲句、絵としてはえらくエグくても、愛嬌がまぶされてどこか呑気で、《ぼくの蓋》が開いたと言われても、それはエマージェンシーなどではなく、「別に、中、見たくないし、すぐ蓋したほうがいいよ」と、あえてのんびりとした口調で、総論、突き放してみたくなる。

掲句は佐山哲郎句集『東京ぱれおろがす』(2003年/西田書店)より。

2021年12月5日日曜日

【俳誌拝読】『トイ』第6号

【俳誌拝読】
『トイ』第6号(2022年12月1日)


A5判、本文16ページ。以下同人諸氏作品より。

次の世も逢ひたし海鼠同士でも  干場達矢

立待の冷えのととのう木のベンチ  池田澄子

栗ご飯仏に生きてゐる者に  青木空知

変顔で東口から西口へ  樋口由紀子

(西原天気・記)




2021年12月4日土曜日

●本日はフランク・ザッパ忌

本日はフランク・ザッパ忌


Frank Zappa(1940年12月21日 - 1993年12月4日)

2021年12月3日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






錆びた空気が出てくる十二月のラッパ

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

もう十二月である。あっという間に過ぎたような気もするが、長かったような気もする。この一年は例年以上にいろいろなことがあった。否応なく一年を振り返ってしまうのが十二月である。

あんなに切れ味のよかった包丁もぴかぴかだったステンレスもところどころに錆が出る。水分で錆びは加速する。この一年には涙したこともあったと、ついセンチメンタルにもなる。思うようにならないのが人生で、ラッパもいつも高らかに鳴るとは限らない。「錆びた空気」とはうまく捉えたものだと感心する。十二月になるとそんな空気と一緒のラッパの音があちこちからも聞こえてきそうであり、私自身もきっと出しているのだろう。

2021年11月29日月曜日

●月曜日の一句〔加藤又三郎〕相子智恵



相子智恵







まんぼうを見て外套の軽くなる  加藤又三郎

句集『森』(2021.8 邑書林)所載

水族館で見た帰りなのだろう。不思議な形をしているまんぼうは、上下の鰭をくねらせながら、空を飛ぶようにゆっくりと進み、じっと見ていると不思議な浮遊感がある。まんぼうの入っている水槽は、たいていガランと殺風景で(いろんなものにぶつかってケガをしないようにしているらしい)寄る辺ない寒々しさがあって、個人的には冬に見たい水槽だ。

掲句〈外套の軽くなる〉には驚きつつ、実感があった。まんぼうの浮遊感が乗り移ったかのように、厚くて重かった外套が軽くなったような気がしたのだろう。それだけではなく、心の中に抱えていた重い鬱屈も、もはやどうでもよくなって、軽くなっているのだ。掲句を読んで、久々に私もまんぼうを見にいきたくなった。

2021年11月28日日曜日

【俳誌拝読】『ユプシロン』第4号(2022年11月1日)

【俳誌拝読】
『ユプシロン』第4号(2022年11月1日)


A5判、本文28ページ。同人4氏の俳句作品を各50句とたっぷり見せ、散文記事は「あとがき」のみ。

衛星に蝕の一日薔薇開く  中田美子

お降りをさつとワイパー拭ひけり  岡田由季

体からぼおと夜汽車が出ていく秋  小林かんな

どちらかを選べと迫る黒葡萄  仲田陽子

(西原天気・記)





2021年11月27日土曜日

●ジミ・ヘンドリックス降誕祭

ジミ・ヘンドリックス降誕祭

本日は藤田嗣治の誕生日であり松下幸之助の誕生日でありブルース・リーの誕生日でありジミ・ヘンドリックスの誕生日であり村田兆治の誕生日であり初代タイガーマスクの誕生日であり小室哲哉の誕生日であり浅野忠信の誕生日なのですね。

2021年11月26日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子






王様になりたい人はハンコください

なかはられいこ(1955~)

王様になりたい人はたくさんいるだろう。しかし、ハンコを持っていけばなれるものではないことは誰でもわかっている。「ハンコください」で王様になれるとは言っていないが、なにかヘン?書いている意味はわかるけど、すんなりと意味が通らない。のびのびと自由で軽妙をよそおいながら、「王様」と「ハンコ」は滑稽なイメージへと横すべりしていく。

「王様」も「ハンコ」もそれなりの威厳があるのに、意外なかたちで茶化されている。どこか人を食っていて、軽いタッチでいけしゃあしゃあと、現実とのズレを生じさせている。そこにはほのかな毒とアイロニカルなまなざしが潜んでいる。言葉の意味の段差を仕掛けている。

2021年11月24日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#3 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#3
 
浅沼璞
 

今年も押しつまってきましたが、平日に仕事の合間をぬい、西鶴に関連する企画展を二つほど訪ねてみました。

いずれも会期終了間近なので、番外編としてお知らせします。


まずは話題の永青文庫「柿衞文庫名品にみる芭蕉―不易と流行―」、後期展は11/3~12/5。

現在、兵庫県伊丹市の柿衞文庫は改修工事のため休館中ですが、西鶴関連の所蔵品も多く、ちょうど10年前には西鶴展があり、愚生もパネリストとして一座した思い出があります。
 
その折も公開されたお宝が芭蕉に紛れて東京でも見られるのですからラッキーです。
 
で、後期・出品リストに目をとめると――

・版本『西鶴織留』(北条団水編)2冊
・「皺箱や」句短冊 1幅
・自画賛「十二ヵ月」より八月(伊丹市指定文化財)1葉

自画賛「十二ヵ月」の横には岡田柿衞翁のノート「俳人遺墨帳1」(1948年)もあり、
西鶴画賛に関する貴重なメモを読むことができました。
 
また西鶴に影響を与えた先達の荒木田守武・句短冊や、先師梅翁・西山宗因の懐紙など貴重な展示もあり、思わず身をのり出してしまいました。

ちなみに隣接する「肥後細川庭園」は雪吊や紅葉がみられ、独り吟行にはよい頃合いかと。


さてお次は愚生の地元・横浜――神奈川近代文学館「樋口一葉展―わが詩は人のいのちとなりぬべき」、会期は11/28まで。もうギリギリです。

一葉は『日本永代蔵』の一章をまるまる暗唱するほどの西鶴フリークで、代表作『大つごもり』はタイトルからして『世間胸算用』の影響大。

その『大つごもり』をはじめ『にごりえ』『たけくらべ』等のナマ原稿が展示されており、流麗な筆致に我知らず見入った次第です。

ちなみにこちらも隣接する「港の見える丘公園」で冬薔薇がみられ、独り吟行も可。


「なんや独り吟行って、令和のご時世も独吟ばやりかいな」
 
はい、ソーシャル・ディスタンスとやらで、吟行もお独り様がトレンドです。
 
「連句の独吟ははやらんのかい」
 
コロナ禍、連句はZoomというので興行してまして……。
 
「……ずーむ? なんや、むーずかしそうやな」
 
はい、では、次回も番外編を続けます。

2021年11月22日月曜日

●月曜日の一句〔堀田季何〕相子智恵



相子智恵







息白く唄ふガス室までの距離  堀田季何

句集『人類の午後』(2021.8 邑書林)所載

この記事を書くにあたって奥付を見て気づいたが、発行日は2021年8月6日であった。あとがきで著者は、〈境涯や私性は、本集が目指すところではない〉と念を押しつつも、堀田家のほとんどが広島の原爆に殺されていることを明かしている。

この奥付にも象徴されるように、本句集は、俳句という詩で、人間の愚かで非道な歴史を、今を生きる我が事として引き受け、粘り強く思考し、痛みを刻み続ける冷静な一書である。と同時に、現代に生きる一人の作家の熱く縦横無尽な俳句に圧倒され、こちらの熱も純粋に反応して、はらわたが冷たくなったり熱くなったりする、稀有な読書体験をくれる句集であった。

各篇には前書きとして先人の言葉や諺が置かれている。掲句の篇に置かれているのは
〈リアリティとは、「ナチは私たち自身のやうに人間である」といふことだ。(ハンナ・アーレント)〉

すべてを奪われ、殺されるまでの身動きの取れない短い距離の中で、最後にできることは、息をすること、話すこと、唄うこと、祈ること。殺されるまでは、生きていること。

この、腹ががねじ切られるような圧倒的な悲しみと悔しさはなんだろう。しかも、殺す方も「ナチは私たち自身のように人間」なのだ。私達はどちらの側にもなりうるのだ。こんなに哀しくて悔しくてしょうがない「白息」の句を、私は初めて読んだ。

冬の句でもう一つ気になった一篇を。

雪女郞冷凍されて保管さる

毆られし痕よりとけて雪女郞

雪女郞融けよ爐心の代(しろ)として

雪女郞融けたる水や犬舐むる

の四句に作者が付した前書きは〈雪女郞、人權なき者。四句〉

『日本国語大辞典』によると、八朔の日に吉原遊郭で白無垢を着た遊女を「雪女郎」と詠んだ例が『柳多留』にはあるが、『図説 俳句大歳時記』の考証(宮本常一)と例句を読むと、意外にも俳諧には「雪女」はあっても「雪女郎」の句はない。「雪女郎」として詠まれたのは近代に入ってからなのだろう。〈人權なき者〉の境遇に置かれているのは女性ばかりではないが、冷凍保管も、〈毆られし〉も〈爐心の代〉も〈犬舐むる〉も、やはり哀しくて、悔しい。

※「雪」は異体字

2021年11月19日金曜日

●金曜日の川柳〔延原句沙弥〕樋口由紀子



樋口由紀子






香典を入れたかいなと透かして見

延原句沙弥(のぶはら・くしゃみ)1897~1959

香典袋にお金を入れたかどうか自信がないことは誰だって一度や二度は経験している。封をしているので、開けるわけにはいかず、明るいところで確かめている。典型的なあるある川柳である。「入れた」「透かし」「見」の具体性で時間と動作を決まり、人物が作り出される。生活の輪郭を色濃くし、人を滑稽に抽出する。

〈知ってゐる名前が喉でひっかかり〉など句沙弥は些細な、見過ごしてしまいそうな行為をうまく川柳のカタチにする。遊び心を以て、人を愉快に映し出している。『延原句沙弥川柳句集』所収。

2021年11月15日月曜日

●月曜日の一句〔櫨木優子〕相子智恵



相子智恵







かいつぶり眼くもれば潜りけり  櫨木優子

句集『忘れ水』(2021.6 ふらんす堂)所載

個人的な感じ方かもしれないが、私はかいつぶりの眼が怖い。丸いのに鋭くて、どこを見ているのか分からない感じが怖い。全身は鴨より小さくてかわいいのに、近づいてみると白目の部分の金色がピカッと光る。一点の曇りもないロボットみたいな眼光がどうも苦手である。黒目の小ささもあるのだろう。鷹や海猫の眼も怖いが、彼らの目にはもっと陰影がある。かいつぶりの眼には陰影がなく、ペタッと光っているので怖い。

さて、掲句。かいつぶりは眼が曇ったら潜るのだという。なるほど、あの鋭い眼光が曇ることもあるのだ。おなかがすいて眼がぼんやりすることもあるのかもしれない。そんな時には潜って魚を獲り、食べてまた眼光を鋭くするのだ。そう思えばかいつぶりも少しは親しみやすく思える。

アメリカ先住民の神話の中のかいつぶりは、水中に潜って陸地を作る材料を探し出す任務に挑み、他の動物や水鳥達が次々と失敗していく中、彼が最後に咥えてきた一握りの泥で、アメリカ大陸が作られたという。勇敢な鳥なのだ。やっぱりちょっと超人(超鳥?)的だ。ロボットみたいに。

2021年11月12日金曜日

●金曜日の川柳〔兵頭全郎〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




バックしますご注意くださいって泣くな

兵頭全郎 (ひょうどう・ぜんろう) 1969~

自動音声のほとんどは、おねえさんの声のようなが気がして(私が利用する自転車置き場では毎回、やはりおねえさんが「料金は100円です」とちょっと訛ったイントネーションで宣う)、これはジェンダー的に非対称の世界に私たちが暮らしているこの証左なのだろうが、その話は置いておこう。よく聴くのはゴミ収集車だろうか。警告音とともに、この「バックしますご注意ください」という声が流れる。バックにギアを入れたら(リバース・ギア)自動的に流れる仕組みらしい。

(これ、欲しい人は、アマゾンでも買えるみたい。簡易版だろうから、きっとギアとの連動はない。知らないけど)

で、なんの話かというと、日頃よく耳にする注意喚起の声を、末尾、《泣くな》の3音で受けたこの句。〈なんだか事情がわからないもの〉好きの私には垂涎の一句。どうわからないかを説明する無粋をあえてやるなら、「泣くな」は、まあまあのっぴきならない局面でここぞとばかりに出てくるものであって、よく泣く子どもに言っているならともかく(ゴミ収集車の隣で、子どもの手を引くオトナのセリフ、という現実へのむりくり引っ張り込むような読みも可能だけど、それでは涎は垂れない)、やはり、まあ、例えば、映画なら後半4分の3以降のだいじな場面。「泣くな」のセリフに俳優のキャリアがにじみ出るような重要なくだりです。映画じゃなくて生身の人間が現実世界においてこの3音を口にするときも、そう迂闊ではいけない。いつもより、なるたけ渋く、低音成分を多めに発したいところです(男性が発する前提で言ってる)。

句の中盤に置かれた《って》が肝で、この用法は近頃日常会話で頻繁ではないが耳にするような気がする。単なる引用(例:もうコメがない《って》、おかあさんが言ってる)ではなく、それ以前の流れをひと括りに参照しつつ発話の層を転換する働き。例えば、この、いま書いている記事のここまでをぜんぶ受けて、「って、なにやってるんだ? ガサゴソと台所で、ウチの猫は」みたいな感じ。

この句の《って》は後者の用法と読みたい。なぜって、前者の単なる引用だと、自動音声のおねえさんに「泣くな」と言っていることになり、それはそれでヘンな人だから、句の価値があるという見方もできるけれど、最初のほうで言った〈事情がわからない度〉は低下する。それに、あの声、泣いていないもの(それはそれで、「泣いてないよ」という返しまで込みで読めば、おもしろいかもしれない)。

とすれば、やはり、《って》の直前は、俳句でいう切れが生じている(層の転換)と読むべきで、最初からの14音(じつに句全体の8割近くが世界の一部をそのまま引用。レディメイド)と《泣くな》とは、同一場面ではあっても、別の層にある。おまけに、片っぽうは機械の声だから、それぞれが、ちがう色のちがう抽斗の中って感じ。

これでこの句の全部品について書いた。なんだかんだと書いてみて、やっぱり、〈なんだか事情がわからない〉句はいいなあ、と。

掲句は『What's』vol 1(202年10月28日)より。

2021年11月10日水曜日

西鶴ざんまい #18 浅沼璞


西鶴ざんまい #18
 
浅沼璞
 

肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(打越)
 子どもに懲らす窓の雪の夜   八句目(前句)
化物の声聞け梅を誰折ると   裏一句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
いつもどおり「三句目のはなれ」の吟味にかかります。

まず前句が付いたことにより、「指南」の対象が我が子に限定され、武士の眼差しに親の目線が重なります。
 
なので、この段階での「懲らす」はスパルタ教育をする親の目線からのもので、「艱難辛苦を与える」といったニュアンスです。
 
しかし付句が付いたことによって「懲らす」はいたずらっ子に「罰を与える」といったニュアンスに転じられます。
 
つまり、貴重な雪中梅を折ってしまった坊ちゃまを、化物の声色で懲らしめる下女の眼差しへと変貌しているわけです。
 
自註によると下女にそうさせているのは母親という設定ですが、付句の眼差しそのものは下女のものといっていいでしょう。

(げんに絵巻を繙くと、ハロウィンよろしく鬼に扮した下女の眼差しは真っすぐ坊ちゃまに向けられています。こわ)

また季語に注目すると、冬(雪)から春(梅)への転じ、つまり季移りも難なくなされています。

 
ところで、いつも本稿を読みやすく編集してくれている若殿(=福田若之氏)は、編者というだけでなく、鋭い第一読者でもあって、今回も――

「冬から春への季移りに鬼の扮装となると、追儺の行事のことなども思われますね。もちろん、句の言葉としてはたんに〈化物の声〉なので、西鶴よりもむしろ絵師の趣向なのでしょうけれども」

との仰せ。

「呵々。さすが若殿や。筆者と編者、入れ変えた方がええんちゃうかい」

いや、やはり政治屋をマネて自分の座にはしがみつきます。

2021年11月8日月曜日

●月曜日の一句〔抜井諒一〕相子智恵



相子智恵







立冬や耳の奥底まで乾く  抜井諒一

句集『金色』(2021.8 角川文化振興財団)所載

昨日は立冬だった。掲句、冬の冷たく乾いた空気の中に佇んでいるのだろうか。耳の奥底にまで乾きを感じている。

湿気が少ない乾燥した空気というのは、手足や顔、唇などの肌、あるいは鼻や口の粘膜では感じることはできるが、耳の奥底で分かるものでもないだろう。耳奥の触覚など、普通は耳かきをする時くらいにしか感じられないものだ。だから、これはもちろん「聴覚の乾き」を鋭敏な感覚で捉えている句なのである。

〈耳の奥底まで乾く〉によって、単に乾燥した空気だけではなく、空を渡る北風の音まで感じられてくる。それも強めの風が吹いていることが分かる。音を言わずに「乾き」とずらしたことによって、想像が広がるのだ。読者の入り込む余地がうまく残された一句である。

2021年11月5日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




さてそこのざっくばらんな化石たち

筒井祥文(つつい・しょうぶん)1952~2018

《ざっくばらん》は、オノマトペ「ざくり」「ばらり」が語源だそうで(諸説あり)、胸をざくりと割って、心の中をばらりと露出する。化石は、石をざくりと割ったら、ばらりとかたちが現れたってなものだから、《ざっくばらんな化石》はとてもよく筋が通る。

この句の不思議さは、この箇所よりもむしろ、《さてそこの》という呼び掛けが醸す擬人法に類する効果、すなわち化石が耳をもっているかのような思いを読者に現ぜしめ、なおかつ《たち》によってその感興が増幅される点。この句の行為、居並ぶ化石を前にしてのこの行為は、かなり可笑しい。このセリフに続いて、いったいなにを言おうというのだろう。という連想の契機を強く与えてくれつつも、連想そのものの内容は見当がつかず(そろそろ昼ごはんにする? だとか、ちょっとだけ話聞いてね、だとか?)、例によって〈世界〉のかすかな、けれども鮮烈な亀裂たる一句、でありながら、当該の〈世界〉は茫としてつかめない。

あ、そうそう、《ざっくばらん》。〔私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。〕。これは谷崎潤一郎「痴人の愛」(1924年)の冒頭。「ざっくばらん」などと言われると、どんなにものすごい夫婦の話が始まるのかと身を乗り出してしまう(のは恥ずかしいけど、乗り出しちゃう)。一方、《化石》の《ざっくばらん》には古生物学者が「どんなすごいことが?」と身を乗り出すかもしれない(こちらは恥ずかしくない)。

なお、掲句を収載する『筒井祥文川柳句集 座る祥文・立つ祥文』(2019年12月)は作者の没後に、樋口由紀子を編者に、富山やよい、くんじろう両氏を発行人に発行された。

2021年11月1日月曜日

●月曜日の一句〔奥坂まや〕相子智恵



相子智恵







冬来たるごとりと嵌めて乾電池  奥坂まや

句集『うつろふ』(2021.7 ふらんす堂)所載

電化製品に電池を入れている。切れた電池を入れ替えているのかもしれない。〈ごとりと嵌めて〉で、この乾電池は単1形の、大きくて重い乾電池だと想像されてくる。「ごとり」のオノマトペが見事だ。そういえば最近では電池の性能がよくなったのか、単3形や単4形の乾電池を使用する電化製品が多くて、単1形の出番は少ない。私がパッと思いつくのは懐中電灯やガスレンジくらいである。

これ以上ないというほどの些末な景なのに、乾電池の重さと冷たさの中に〈冬来たる〉季節感が確かに感じられてくるのだから、俳句というのは面白いものだ。
〈ごとりと嵌めて乾電池〉にはオノマトペと濁音の効果で、腹にくる重さがあって、冬の寒さへ向かう厳しさとよく響きあっている。

2021年10月29日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






対岸のささやきVSつぶやき

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

対岸は無責任になんでも言う。声が小さいほど聞き取りにくくよけいに気になる。しかも「VS」している。それとも対岸の風の音や川のせせらぎが人の発する、意思の伴った「ささやき」と「つぶやき」が聞こえたのだろうか。それは自分の中にあるモヤモヤしたよくわからないへんなものなのかもしれない。かすかにひと撫でされている。

「VS」の表記が目を引く。「ささやき」と「つぶやき」をいままで誰もこの手で語ってこなかった。差異はあるが兄弟分である。「対岸」で身をかわしているようによそおいながら、「VS」でスポットを当てて拡大している。読みは幾通りにも出せそうな気がする。決着はつかないであろうし、決着をつけるつもりもないだろう。『成長痛の月』(2021年刊 素粒社)所収。

2021年10月27日水曜日

西鶴ざんまい #17 浅沼璞


西鶴ざんまい #17
 
浅沼璞
 

 子どもに懲らす窓の雪の夜     西鶴(表八句目)
化物の声聞け梅を誰折ると       仝(裏一句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
雪(冬)から梅(春)への季移りによって雪中梅を詠んでいます。
 
また初裏の折立(一句目)なので表のタブーをいきなり破っています。
 
ごらんのとおり「化物」という物騒な言葉がチョイスされてますね。

これは連歌の時代から「異物の付け」とされてきたもので、たとえば二条良基の『連理秘抄』(1349年)には「常に用ゐざる所の鬼風情の物也」と説明があります。
 
とはいえ(ネタバレ覚悟でいえば)、ここでの「化物」は下女が扮しており、「異物」の度合は低いのですが。

 
句意は「化物の恐ろしい声を聞け、梅は誰が折ったのだぁ、と」といった感じでしょうか。
前句の子どもが貴重な雪中梅を折り、それを懲らしめるため、母親が下女に「化物」役をさせ、おどしているという設定です。

自註を抜粋します。
「雪中の白梅……世にめづらしき折節、知恵のなき童子、心まかせに手折り捨てしを深く惜しみて、下女などおそろしき姿にして色々の作り声させて、母親の才覚にて是をおどしける……」

じっさい絵巻には、母親に抱きつこうとする童子と、それにせまっていく下女の姿が、雪中梅とともに描かれています。染めこみの浴衣をひるがえし、杓子や擂粉木を角のように振りあげ、塗り下駄に赤前垂れの、かなりゆるい「異物」です。

 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

手折られし梅のしつけを下女にさせ〔第1形態〕
    ↓
 梅が香に化けたる下女の声いろいろ〔第2形態〕
    ↓
 化物の声聞け梅を誰折ると    〔最終形態〕

第1形態のままでは「しつけ」が前句「懲らす」に付き過ぎです。
そこで第2形態で「しつけ」を抜き、さらに最終形態で「下女」を抜き、「声いろいろ」を具体化して元禄疎句体に仕上げた、という見立てです。

 
ところで、これら「抜け」の連鎖を、本稿では「飛ばし形態」と呼んできました。
 
そして夫々の付句形態には、さん・くん付けでニックネームもつけてきました。これはシンゴジラを真似たつもりでしたが、そもそも喩的効果を持った付句にニックネームを付けるのは形容過多で、あまり得策ではないと気づきました。
 
なのでウラに入ったのを潮に、ニックネームは取りやめることとします。

「なんや最初の勢いがのうなっとるやないかい。そなたも政治屋、マネとるんちゃうか」

……はい、公約は撤回させて頂きます。

2021年10月25日月曜日

●月曜日の一句〔中村安伸〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




動物園のパンダの近況を伝えるニュースが流れ、街頭インタビューに答える人たちはみな笑顔なのは、この手の報道が、パンダは「かわいらしい」「愛されている」という前提だからであって、しかしながら、パンダについてかわいらしいとも生物種としてとりたたて興味深いとも思わない自分にとっては、画像と音声がただ流れるだけで気に留めることもないのだが、物語にせよ詩句にせよ、そこに登場する事物、まあ、これは話の流れから、生物と限定してもいいでしょう、それはその生き物の、生物学的属性だけでなく、社会学属性もひっくるめ、みながおおむね共有できる内容をともなって読者に伝わる、あるいは、伝わると信じられている。つまり、パンダは、つねに〈パンダ性〉をまとっている。

ところが、そうした〈パンダ性〉、世の中にゆるーく、ふわーっと共有されている〈パンダ性〉という踏み板をずるっと踏み外すように、読者がよろめいてしまう句もあって。

パンダ眠る野球部員に背負はれて  中村安伸

野球部員が背負えるくらいだから、仔パンダ。したがって、パンダ、かわいい! と、むりくり従来的な〈パンダ性〉に直結させる向きもあろうかと存じますが、さすがにちょっと無理筋、眠っている動物はすべてかわいい! という断定も、同様。

つまり、ニュースでよく経験する〈パンダ性〉からは、この句、ずいぶんと遠いところにある。

わざわざこんなことを言うのは、世間に手軽に流通する〈パンダ性〉に(悪く言えば)倚りかかった造作の句も、まあまあ頻繁だから。

それにしても、この句、物語性を強く匂わせながらも事情のわからなさが際立ち、「夕暮なのだろうか」とか「河川敷のグラウンドっぽいな」とか「どこに帰るんだろう?」とか、断片的な思いが気の抜けかけたサイダーの泡沫のようにふつふつ生起するのみで、当初この句の中で存在として突出していたパンダも野球部員も、やがて消え去り、最後は「眠り」だけが残る。

すやすや。

感情の無重力状態の中に放り出された無定形の眠りを提示するためにだけ、パンダや野球部員が駆り出されたのかと思うと、ちょっと愉しくなる。

掲句は『虎の夜食』(2016年12月/邑書林)より。

2021年10月22日金曜日

●金曜日の川柳〔森中恵美子〕樋口由紀子



樋口由紀子






わたくしの顔を占めてる資生堂

森中恵美子(もりなか・えみこ)1930~

化粧水も乳液もファウンデーションも頬紅も口紅もすべて資生堂の化粧品を使っているということを言っているのだろうが、なにやらおかしく、その顔を拝見したくなる。「わたくしの顔を占めてる」という言いまわしの妙である。意味に若干の意外性を含ませながら、一句がスムーズにおおらかに流れている。

それでいて自分の性格を適度に描写している。若い頃から他のメーカーによそ見もせずに、ずっと資生堂なのだろう。たぶん、化粧品だけではなく、美容院も八百屋も人生も。ここと決めたらここにする。融通が利かなくて、律儀、まっとうさが見える。自分の心持ちに寄り添って、川柳にうまくシフトする。

2021年10月18日月曜日

●月曜日の一句〔上田睦子〕相子智恵



相子智恵







老い母のもたぬくらがり実の芙蓉  上田睦子

句文集『時がうねる』(2021.5 ふらんす堂)所載

老いた母は、暗がりをもたない。なんと、美しく哀しい明るさであろうか。

おそらく老いた母は認知症なのだろう。〈もたぬくらがり〉と書けるまでには、介護する側にも、様々な葛藤や苛立ちもあったのではないか。その上澄みの〈もたぬくらがり〉を掬い取るまでの、「暗がり」の時間を思う。

季語〈実の芙蓉〉によって、掲句は神々しいまでの光の中にある。芙蓉の美しく大きな花が咲いたあとの実は、ぽわぽわと白い毛が生えた雪洞のようで、それが〈老い母のもたぬくらがり〉と美しく響きあうのだ。芙蓉の実は目の前の自然であり母の象徴のようでもあり、これほどまでの取り合わせにはなかなか出あえない。Mの音とFの音の繰り返しからも、淡い光に包まれるようだ。

「芙蓉の実」ではなく「実の芙蓉」としたところに、実を見ていながら花へと心が向かう時間の遡りがある。同様に若き頃の母をどうしても思ってしまう、逡巡のようなものも見えてこようか。

掲句は1981年の「寒雷」に載った、第五回寒雷集賞受賞作の一句。散文を中心にまとめられた本書より引いた。

2021年10月15日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






鮎二ひきしばらく焼かず皿の上

前田雀郎(まえだ・じゃくろう)1897~1960

今年の秋刀魚は高騰でなかなか手がでなかった。しかし、一度は食べたい。やっと買ってきて、まな板の上に乗せたとき、ふとこの句を思い出した。まな板であり、二ひきではなく、舞台設定は異なるが、「しばらく焼かず」にいたく納得し、じっと眺めていた。

「敢えて、『二ひき』と数を限ったのは、その美しいという印象を強めるため、余計なものを捨てたのであり、『皿の上』もまた、注意をここに染めるために設けた一つのワナであって、必ずしも眼前のそれをいったものでない。」と雀郎は自句自注でわざわざ書いている。「鮎」であったどうかもあやしい。「鮎」は「秋刀魚」より確かに絵になり、サマになる。しかし、秋刀魚も食べてしまうのはもったいないくらい青く光って、映えている。

2021年10月13日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#2 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#2
 
浅沼璞
 

オモテ序段が終わったところで番外篇の続きを。


番外篇1で「西鶴晩年の連句を老人文学として」読み直したい旨、記しました。
 
その直後、老いに関する文献を漁ろうとしていたところ、Eテレ「100分de名著」でボーヴォワールの『老い』(1970年)が取りあげられるという幸運に出くわしました。

ゲストの上野千鶴子氏はボーヴォワールの『老い』をダシに、説得力ある自説をたんたんと語っていきます。さっそく入手したNHKテキストも平易で、目から鱗。
 
わけても老化を生理的、社会的、文化的、心理的という四つの次元にわけるエリクソン説への言及に蒙を啓かれました。以下、要約します。

まず生理的老いとは、肉体的な衰え。つぎに社会的老いとは、定年退職に代表される社会的な死といっていいようなもの。文化的老いとは、家族カテゴリー上の変化で、江戸時代なら隠居などがそれに該当します。そして最も遅れてあらわれるのが心理的老い。老化した自分を受けいれられないという自己否定感が他の次元とのアンバランスをうみます。で自己同一性の喪失であるアイデンティティの危機が起きる、といった寸法です。


以上を西鶴にあてはめながら考えてみましょう。
 
まず生理的老い――西鶴没(1693年、享年52歳)の前年の春、つまり『独吟自註絵巻』成立の頃、目の不調、筆の衰えを知人あての書簡にしたためています。実はすでにその前年、『俳諧団袋』序では弟子・団水との両吟歌仙二巻について「中々老の浪のよつてもつかぬぞ」と自らの老化による歌仙中断を嘆いてもいました。【注】

社会的老い――やはり『独吟自註絵巻』成立の年、傑作『世間胸算用』をものしていますし、没後続々と刊行された遺稿集を鑑みるに、浮世草子作家としては生涯現役だったかと(俳諧師としての社会的老化に関しては【注】参照)。

文化的老い――自らの眼病を書簡に記した直後(51歳)、盲目の娘を亡くし、独居老人の身となりました。『世間胸算用』で活写した楽隠居とはほど遠い境涯でした。

心理的老い――発句「難波ぶり」前書において「行年五十、口八十、心は十八」と書いています。実年齢は50歳、軽口は80倍、精神年齢は18歳、といったアンバラはまさに「アイデンティティの危機」を感じさせます。老化を自認できない鶴翁の姿がここにあります。

されば最晩年の西鶴が『独吟自註絵巻』において新風の元禄疎句体にトライしたのは、まさにこの「アイデンティティの危機」を克服せんがためだったのではないでしょうか。

「うーん、えらい理詰めやけど、自分のことは自分でもようわからんて」
 
 
【注】
厳密に言いますと、歌仙二巻の中断については、生理的老化つまり体力的劣化だけでなく、社会的な老いをも考慮する必要がありそうです。というのも浮世草子作家としては生涯現役であった西鶴ですが、俳諧師としてはほぼ引退の状態が長く続いていたからです。その間、団水が転居した京では俳風が大きく変化。中断した歌仙は久々の一座だったわけで、すでに元禄疎句体を身につけていた団水に合わせようと「あとより泳ぎつけども、とかく足のおもたく、やうやう歌仙の中ほど、瀬を越す所にして止みぬ」(『団袋』序)といった体たらくでした。このように社会的老化も歌仙中断には少なからず作用していたわけです。これを巨視的にみれば、二万翁西鶴の「アイデンティティの危機」は生理的かつ社会的な、未分化で複合的な老化現象によってもたらされていたと概括できます。よって歌仙中断は重要なターニングポイントで、たとえば野間光辰氏も、「西鶴晩年の俳風の変化推移は、恐らくこの辺(団水との両吟――浅沼註)から始まつてゐるといつてよいであらう」(『補刪西鶴年譜考證』1983年)としています。ふり返れば西鶴の俳壇復帰は、引退という社会的老化を克服するための然るべき一歩だったと思われます。
 

2021年10月11日月曜日

●月曜日の一句〔茅根知子〕相子智恵



相子智恵







本棚の匂ひのしたる茸山  茅根知子

句集『赤い金魚』(2021.9 本阿弥書店)所載

たくさんの本棚がある図書館や古本屋さんのような場所は、独特な匂いがする。日向のような、日陰のような、少しモワッとした甘い匂いだ。

こう言われてみれば確かに、草や枯葉が入り混じり、さらに日向と日陰も混在している茸山もまた、そんな匂いであるような気がしてくる。本棚と茸山とは驚きのあるつながりなのだけれど、同時にすとんと納得できる比喩でもある。どちらも懐かしさを誘う匂いだ。

最初は本棚を思い、そこから茸山へと広がっていく。包み込んでいる世界が大きくて、一読
で不思議な世界に連れて行ってくれる一句である。

2021年10月8日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






しかしもう歯が一本も無いのです

きゅういち1959~

急にこんなことを言われても困ってしまう。作者の哀歓はいっさい書かれていない。さほど気にしていないのかもしれないが、これから歯が一本も無い状態で世界と向き合っていかねばならないのは確かである。

異なった文脈から突然あらわれたような「しかしもう」の間の取り方が巧みで、不意をつかれる。生きている情けなさや逞しさをあっけらかんと極単純なかたちでひょうひょうと表現している。突き抜けてしまった天然性、楽天性があり、シャープでスコンと抜ける。きゅういちの川柳はおもしろくてかなしく、それでいてかわいく、そしてこわい。自己の現在性を鮮やかに浮かび上がらせる。『ほぼむほん』所収。

2021年10月4日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵







ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪  佐藤文香

句集『菊は雪』(2021.6 左右社)所載

不思議な句である。一つずつ読んでいくと「何も無い」のに、残像の切なさが心を締め付けて、心の中にはそれが「在る」。なのに、さらにそれは「消えて」しまうのだ。無いものが消失するという、不思議な句なのである。

こう書いても分かりにくいと思うので、一つずつ見ていきたい。〈ゆめにゆめ〉まず、夢は現実ではない。夢をいくら重ねたところで、実際には何もない。なのにそれを周到に〈かさねうちけし〉で重ねて塗りつぶすように打ち消してしまう。そして菊の句なのかと思いきや、実はそれは雪で、雪は溶けて無くなってしまう。この句からは、折口信夫がすぐれた歌を雪にたとえた「無内容」の論(「俳句と近代詩」)も思い出す。

〈菊は雪〉はぱっと見、ずいぶん乱暴に組み合わせた断定のように思えるのだけれど、雪は古くから「六花」と呼ばれていたし、菊と雪はそれほど遠くない断定だと私には思われた。〈菊は雪〉から、私は古くからある「雪輪」という文様を思い出した。雪輪文は雪を図案化した文様で、円形のような六角形のような不思議な形をしている。顕微鏡がない時代にこの文様を初めて作った人は、雪をじっと観察し、その結晶が六角形であることを薄々と理解したのであろう。結晶という顕微鏡でしか見られない姿と、実際に肉眼で見える雪の丸さ、さらにはそれが溶けた水滴も思われてきて、一つの文様の中に「見えないのに在る」という視点が何重にも隠れていて、不思議であり、好きな文様だ。

だいぶ脱線してしまった。この表題句のように、無いものを言葉で立たせようとする思いと、そして、やはりそれが無いのだと思わせてしまう切なさがこの句集にはある。手数が多い句集で、いかようにも切り取り方があるのだけれど、私はその中でも以下のような、純粋な思いが性急に表れている句こそが、個人的にはこの人の真骨頂だと思っていて、ぎゅっと心をつかまれてしまう。

みづうみの氷るすべてがそのからだ

言へばいいことの氷つてゆくことの

雪降ればいいのに帰るまでに今

今週の今日のいてふの降りかさなる

桜また来るから桜忘れていい

これらは、言葉が立ち上げた景色が、今この瞬間のどうしようもないくらいの切なさと直結していて、破調のリズムがそれを加速させている。あとがき代わりの句集制作日記の中に、〈日本語の姿や音に意味内容が勝つのであれば、定型詩を書く必要はない〉とあって、それがこの作者のステートメントなのだと思うのだけれど、これらの句には、日本語の姿・音と意味内容の勝ち負けではない融合があって、しかもこの作者にしか書けない痛みのようなものが透けて見えている。この作者の句の中では、私はいつも、こういう句に落とされてしまうのである。

2021年10月1日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






散らかったままのAV女優かな

きゅういち(1959~)

「散らかったまま」とあるから「AV女優」はビデオのことだろう。自分の部屋か友人の部屋か、ふと目にとまった。しかし、それは自嘲とか、片づけなくてはとかの類ではなく、たとえば庭の椿が落ちているのを見たときと同質の、一瞬の純度と一抹の猥雑さが交じり合ったものを感じているようである。

写生なので伝達性は確実にある。見たままをただとつとつと書く。それでいて、自分の一部分からすべてに至るまでを提示している。「AV女優」の象徴力と「散らかったまま」という距離の取り方は絶妙で、何気ないはずの光景がクリアに浮かび上がる。『ほぼむほん』所収。

2021年9月29日水曜日

●西鶴ざんまい #16 浅沼璞


西鶴ざんまい #16
 
浅沼璞
 

 秘伝のけぶり篭むる妙薬    六句目(打越)
肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(前句)
 子どもに懲らす窓の雪の夜   八句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
いつもどおり「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句が付いたことにより、「妙薬」は「火薬」へと取り成され、武士の眼差しが確定しました。で付句では「指南」の対象を我が子に限定し、そうすることによって武士の眼差しに親の目線を重ねました。つまり武士の眼差しは残しながら、親の視点を付加したわけです。このような重層的なシフトチェンジもあり、というわけです。
 
しかも表層テキストにおいて打ち越すという轍を踏むことも、今回は免れているようです。安堵、安堵。

 
さてこれで百韻の序段がようやく終わりましたが、前回に引きつづき確認しておきたいことがあります。
 
前回、故事付けに関しては大目に見ましたが、神祇・釈教・恋・無常・固有名詞を代表とする表のタブーには、ほかに病体や闘争などもあります。
 
なので六句目の「妙薬」や七句目の「軍の指南」などは障らないのか、気になるところです。

 
で、蕉門系の俳書ながら『貞享式海印録』(曲斎、1859年)を繙くと、ありました、ありました。「表ニ惜シマ不ル物」つまり表の許容範囲として、「医薬」や「軽軍事」の項目がありました。【注】
 
黒焼きの妙薬や狼煙の兵法などは、「医薬」や「軽軍事」の範疇に十分おさまるでしょう。納得、納得。
 
「談林くずれや思うてナメたらあかん。わてかて宗匠や。俳書も仰山書いとるでぇ。そら老いのせいで、表層ナンチャラの障りくらい偶々あったかもしれへんけどな」
 
はい表層ナンチャラ、裏に続出しそうでビビッてます。

 
【注】表の禁忌に関しては、一般的に「表ニ嫌フ」と言いますが、蕉門系俳書では「表ニ惜シム」と記されています。これは表に出すのを嫌うのではなく、表では出し惜しみ、裏で「派手を尽くさん」の趣旨があるようです(井本農一・今泉準一『連句読本』参照)。

2021年9月20日月曜日

●月曜日の一句〔北山順〕相子智恵



相子智恵







月の客電柱数へつつ帰る  北山順

句集『ふとノイズ』(2021.7 現代俳句協会)所載

この月見の客は自分のことなのだろうと思った。〈月の客〉の”ハレ”に比べて〈電柱数へつつ帰る〉が、あまりにも”ケ”で、その落差に脱力し、妙な虚しさになんだか笑ってしまう。

みんなで月見を楽しんだ後の、ひとりの帰り道。やや見飽きた月を見上げながら、月の宴で友人らと話したことなどをぼんやりと反芻しながら帰っているのだろう。月の前には、電柱。気づけば月からは目が離れ、電柱の数を数えながら帰っていた。

現代のあわれが描かれていて、今の雪月花というのは、案外こんな感じなのかもしれないなと思う。

2021年9月17日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤幸一〕樋口由紀子



樋口由紀子






インパラの跳ねる月夜に出てみぬか

佐藤幸一(さとう・こういち)

月夜はウサギだと思っていた。しかし、掲句は「インパラ」。インパラはウシ科の哺乳類でアフリカの草原に群れを作って生活している。ウサギより大きく、雄はねじれた角を持っている。「インパラ」にしたところに反骨精神を感じる。誰に向かって「出てみぬか」と言っているだろうか。自分自身だろうか。「出てみぬか」に親近感と迫真性がある。

「インパラの跳ねる」、それも「月夜」が現出し、言葉でまぼろしをみる。「跳ねる」「出て」の動きも視野が拡張していくような感覚になる。この二つの事柄の組み合わせが響き合い、そこは別の世界と繋がっているような雰囲気を醸し出している。

2021年9月15日水曜日

●西鶴ざんまい #15 浅沼璞


西鶴ざんまい #15
 
浅沼璞
 

肝心の軍の指南に利をせめて    西鶴(七句目)
 子どもに懲らす窓の雪の夜     仝(八句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
八句目は懐紙でいえば初折の端の句になるので、折端(おりはし)と呼びます。
 
四句目より雑が続きましたが、ここで冬(雪)の句となります。

 
 
句意は「我が子にスパルタ教育する窓の雪明りの夜」といった感じでしょうか。

前句の「指南」の対象を我が子に限定しての付けです。
 
(下七には「蛍雪の功」の故事がかけてあるようです。)

 
自註を引くと――俗言に「いとしき子には旅をさせよ」といへり。若年より其身をかためずしては、自然の時の達者、成(なり)難し。是によつて、かたい親仁が氷をくだきて手水につかはせ、寒夜の薄着をならはせける――。

今でも「かわいい子には旅をさせよ」と言いますね。
 
「自然の時の達者」というのは「不慮の際に発揮する能力」のこと。
 
「かため」「かたい」「氷」はもちろん縁語です。

よって自註を意訳すると、――若い時から心身を整えなければ、万が一の時、能力を発揮できない。だから氷のように厳格な親父は氷を砕いて手や顔を洗わせ、寒夜の薄着を伝授するのである――てな感じです。

 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。
 
いとしき子とて氷の親仁  〔第1形態=氷の親仁くん〕
    ↓
 子どもに懲らす窓の雪の夜 〔最終形態=窓の雪さん〕
 
前句「利をせめて」(≒理詰めで戦法を伝授して)から「氷の親仁」へ。その氷(冬)から「窓の雪」へ、という想定です。

 
さて、ここまでの表(おもて)八句が序破急の序段。
 
俳書によっては「蛍雪の功」のような故事付けを序段に嫌うものもありますが、俗語わけても俚諺好きの鶴翁にそれを言うのは野暮というものでしょう。
 
「そやで、粋(すい)らしき事言うてくれるな」
 
はい、でもほかに二つ、気になる箇所が……。
 
「……」
 
またまた気配消して、あの政治屋、マネてません?

2021年9月12日日曜日

【新刊】『人工知能が俳句を詠む: AI一茶くんの挑戦』

【新刊】
『人工知能が俳句を詠む: AI一茶くんの挑戦』

川村秀憲、山下倫央、横山想一郎著/2021年7月/オーム社

2021年9月11日土曜日

【新刊】谷口智行『窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜 3』

【新刊】
谷口智行『窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜 3』

2021年8月1日/書肆アルス


2021年9月10日金曜日

●金曜日の川柳〔松永千秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






昨日死んだと言い張っている女の子

松永千秋 (まつなが・ちあき) 1949~

ホラーでもオカルトでもなく、そんな面倒くさい「女の子」を実際に見たのだろう。昨日死んだのなら今日はもうこの世に居ないのに、「ほんとに昨日死んだんだから」といつまでも言い張る。理屈もへったくれもなく、決して譲らない。「言い張っている」の必死さが目に浮かんできそうである。

私にも「女の子」のときがあり、辻褄の合わないことを言い張ったときがあった。作者もすでに「女の子」ではない。もうそこには戻れない。きっとなつかしく、眩しかったのだろう。「女の子」という小さな存在が大人の心に波状していく。「男の子」だったらどうなのかとふと思った。

2021年9月6日月曜日

●月曜日の一句〔若井新一〕相子智恵



相子智恵







鮭打ちの往生棒を振り上ぐる  若井新一

句集『風雪』(2021.5 角川文化振興財団)所載

産卵のために川をさかのぼってきた鮭を浅瀬で待ち、棒で叩いて仕留める鮭打ち漁。今まさに棒を振り上げて、鮭を打ち殺そうとする瞬間が描かれている。

鮭を打つ棒は〈往生棒〉というのだ。実に直截的な命名だな、と思う。せめて往生してほしいという思いには、哀れと残酷と滑稽味が入り混じる。素朴な漁と道具の名前は、飽食の時代の私たちに、命を食べねば生きられないという大原則を改めて突きつける。

大口を四角にひらき鮭のぼる

本書には魅力的な鮭の句が他にもある。鮭の口はまさに四角形という感じがして、〈大口〉に必死な様子が伝わる。この必死な鮭を往生棒で叩き殺して、いただくのである。

2021年9月3日金曜日

●金曜日の川柳〔小島祝平〕樋口由紀子



樋口由紀子






全国の皆様ひとり歯を磨き

小島祝平 (こじま・しゅくへい)

「全国の皆様」とまるで呼びかけのようなかたちで一句が始まる。何かと思えば「歯を磨き」である。拍子抜けしてしまう。これが狙いなのだろう。舞台は自宅の洗面所。歯磨きはもともと一人でするものであるから、「ひとり」とわざわざ書いているのは独居なのかもしれない。なにをしても、なにを食べても、あるいは倒れていてもひとり、誰も居ない。だからあえて、今朝も元気にいつも通りに歯を磨いていますよと、呼びかけてアプローチしているのだろう。

「皆様」と「ひとり」の対比が際立ち、「全国の皆様」と「ひとり」の私の関係性や隔たりを感じ取ることができる。道化的な趣きが色濃くあり、侘しさと可笑しさで、歯磨き粉の匂いが鼻につんときて、しんみりする。

2021年8月27日金曜日

●金曜日の川柳〔野沢省悟〕樋口由紀子



樋口由紀子






いちまいのぱんつの他は泡だった

野沢省悟(のざわ・しょうご)1953~

池や川かあるいは排水溝に浮かんでいるパンツを描写したのだろう。このぱんつは下着のパンツで、洗濯水と一緒に流れてきたのか、あるいは物干し竿から飛んできたのか、場違いのように一枚のぱんつが泡のなかで浮いている。ぱんつだって、なぜここにいるのかわからない。泡だって、自分たちの領域に別物が闖入してきて、驚いているだろう。

「ぱんつ」と「泡」の二つのベクトルの異なる儚さを捉えて、俗っぽさとは別の性質を醸し出している。絵になりにくいものをセンチメンタルに描いて、不思議な気分を与えた。現実の景をありのままに限定的に切り取っているようなのに、非限定的な広がりを感じさせる。

2021年8月25日水曜日

●西鶴ざんまい #14 浅沼璞


西鶴ざんまい #14
 
浅沼璞
 

埋れ木に取付く貝の名を尋ね   五句目(打越)
 秘伝のけぶり篭むる妙薬    六句目(前句)
肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
さて打越まで取って返し、「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句が付いたことにより、「貝の名を尋ね」られた人物つまり医者の眼差しが確定しました。

そして黒焼の妙薬の「けぶり」の連想から、「妙薬」は「火薬」へと取り成され、付句の眼差しは、武士のそれへとシフトチェンジしました。

(前句/付句の付合には雨松明・狼煙などの「抜け」つまり「飛ばし形態」がみられます。)

 
 
このように眼差しの転じは難なくなされているのですが、表層テキストに焦点を移すとどうでしょう。
 
打越「尋ね」と付句「指南に利(理)をせめ」とは意味的につながり、いわゆる「観音開き」のタブーをおかしています。

付句の眼差しは転じながら、表層テキストにおいて打ち越すというこのパターン。眼差しが転じている以上、「三句がらみ」ではないけれど、打越と付句が類似する「観音開き」には違いありません。これ、じつは談林の名残ともいえるのです。

 
たとえば談林全盛期、一昼夜、千六百句独吟の矢数俳諧を生玉本覚寺で興行した西鶴は、そのライヴ版『俳諧大句数』(1677年)序文で、つぎのような言葉を吐いていました。

「花の座・月雪の積れば一千六百韵、(中略)即興のうちにさし合もあり。其日、数百人の連衆、耳をつぶして是をきゝ給へり。みな大笑ひの種なるべし」

御承知のように「さし合」(差合い)は「観音開き」や去嫌(さりきらい)などのルール違反のこと。「連衆」はここでは境内に集った数百人のギャラリーをさしています。

そんな見物人は「耳をつぶし」つまり差合いを聞いても聞かないふりをして、大笑いしたというのです。 

 
しかしそれが許されたのは往年のライヴパフォーマンスゆえ。
 
老いての百韻、しかもその自註冒頭に「三句目のはなれを第一に吟味をいたせし」と豪語した以上(#6参照)、オモテの序段から差し合うのは如何なものでしょうか。

「……」

……政治屋じゃあるまいし、気配消してもだめですよ。

2021年8月23日月曜日

●月曜日の一句〔關考一〕相子智恵



相子智恵







空少し広うなりたる盆の明  關 考一

句集『ジントニックをもう一杯』(2021.6 ふらんす堂)所載

立秋の頃にはまだ感じられずにいた秋の空気を、盆明けあたりになると、ふと感じることが多い。〈空少し広うなりたる〉に、そうそう、この感じだと思う。まだ「秋高し」のような広々とした秋の空ではないのだけれど、入道雲ではなく、秋のうっすらとした筋雲が時々現れるようになって、空は確かに少しだけ広くなったような気がする。

盆明けや異界の如き会社へと

という句もあって、こちらの盆明けは軽く笑いを誘いつつも〈異界の如き〉という盆明けの出社の感じはよく分かる。本来なら、お盆の数日間が異界に近いはずなのだが、そちらにいた身としては、会社という現実こそが異界なのだ。それを打ち消すように、膨大な仕事がやってきたりして、あっという間に異界は日常になってしまうのだけれど。

それにしてもコロナ禍の盆明けの出社を思いながら読む掲句は、また妙な感じが加わる。皆さま、どうかご安全に。

送り火はこの世とあの世を隔てる行為で、精霊が帰ってしまう淋しさがあるけれど、掲句の雨は、この世とあの世の間を等しく湿らせている。ということは、送りつつ、つながるのだ。この世の私も、あの世の精霊たちも等しく雨に濡れていて、その何と安らかなることか。

自分に身近な送り火を思うと同時に、掲句には〈五山送火 二句〉と前書きが書かれている。京都の五山の送り火を思うとまた、味わい深い。

2021年8月20日金曜日

●金曜日の川柳〔所ゆきら〕樋口由紀子



樋口由紀子






帰りかけるとふりむけと言う石

所ゆきら (ところ・ゆきら)

京都龍安寺の石庭の連作の一句だと聞いたことがある。それにしては風変わりである。帰ろうとすると、石がもっとよく見ろ、ちゃんと見たのか、もう一度見直せとか言ったのだろうか。命令口調だが、石の顔は笑っているみたいで、だから、さほど気にしているわけではなさそうである。

大昔の日本では石に限らず、草や木がものを言うと信じられていた。しかし、掲句はそんなアニミズム的な思想からのものではないだろう。かといって、寓話性を帯びているというのでもないだろう。そう言いながらも、石は終始変わることなくは超然とそこに存在している。石にかぎりないシンパシーを感じている。不自然さと作為性はコミカルな非現実的な空間を立ち上げている。

2021年8月16日月曜日

●月曜日の一句〔井上弘美〕相子智恵



相子智恵







施火尽きて雨の十万億土かな  井上弘美

句集『夜須礼』(2021.4 角川文化振興財団)所載

〈施火〉は送り火。〈十万億土〉とは、「この世から極楽浄土に至るまでの間に、無数にあるという仏土。転じて、極楽浄土のこと」と辞書にはある。〈雨の十万億土〉とあるから、自分がいま雨に打たれている体感があり、この世とあの世のつながりが感じられてくる。そういう意味では、「この世から極楽浄土に至るまでの間の仏土」という第一の意味がふさわしいように思う。

送り火を焚いている間も、じつは雨は降っていたのではないだろうか。送り火がふっと消えるまでは、火が心を占めていたから雨は気にならなかった。そして、送り火が尽きると、静かな夜の雨に、すべてがひんやりと包まれた。

送り火はこの世とあの世を隔てる行為で、精霊が帰ってしまう淋しさがあるけれど、掲句の雨は、この世とあの世の間を等しく湿らせている。ということは、送りつつ、つながるのだ。この世の私も、あの世の精霊たちも等しく雨に濡れていて、その何と安らかなることか。

自分に身近な送り火を思うと同時に、掲句には〈五山送火 二句〉と前書きが書かれている。京都の五山の送り火を思うとまた、味わい深い。

2021年8月11日水曜日

●西鶴ざんまい #13 浅沼璞


西鶴ざんまい #13
 
浅沼璞
 

 秘伝のけぶり篭むる妙薬     西鶴(六句目)
肝心の軍の指南に利をせめて     仝(七句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
百韻の七句目は月の座ですが、本巻は発句が秋なので脇へ月を引き上げています。よってここは雑を続けます。
 
意味をとれば、「だいじな兵法の指南書に理を詰めて」という武士目線の付けです。(「利」は「理」の誤記)

 
 
自註に曰く「楠家伝の雨松明、あるひは狼煙のならひ、又は玉薬の仕掛、其の外合図の香の類、是を秘書にしるして伝へし」。

「雨松明(あめだいまつ)」とは豪雨でも消えない松明のことですが、兵法書『楠家伝七巻書』(1682年)にその記述はないらしく、西鶴得意の捏造、なのかもしれません。

「玉薬」は鉄砲・大砲の火薬のことです。
 
要は前句「秘伝の妙薬」の「薬」という言葉を「火薬」に読み替える「取り成し」付けですね。【注】

 
さて自註と最終テキストとの落差を埋める過程を想定してみましょう。

狼煙など秘書に記しし事あまた 〔第1形態=秘書くん〕
    ↓
 肝心の軍の指南に利をせめて  〔最終形態=指南さん〕

前句「けぶり」から雨松明や狼煙などの兵法を連想し、「秘書くん」が生まれたわけです。けれど前句「秘伝」に「秘書くん」は付きすぎなので、「指南さん」へと変態させたという想定です。(これで雨松明や狼煙などの「抜け」にもなります。)

 
無論それでも「秘伝」に「指南」の付け寄せは物付(詞付)気味でしょう。
 
かてて加えて加藤定彦氏は、「妙薬」に「肝心」(肝臓・心臓)という付筋をも指摘し、「物付の気味」を強調しています(『連歌集 俳諧集』小学館)。

「なんや学者はんはシツコイな。眼差しの転じ、いうもんを知らんのかい」

? あの、「眼差しの転じ」って、それ……。

「そうや、こなたも先から使うてる論法やろ。それ、言うたってや」

……では次回「三句目のはなれ」で、それ、言うたります。

 
 【注】
「取り成し」は言葉の読み替え、「見立て」は句意の読み替えで、二つは表裏一体。(『俳句連句REMIX』46頁)

2021年8月6日金曜日

●金曜日の川柳〔兵頭全郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






5年前のうちわがはいと言いません

兵頭全郎 (ひょうどう・ぜんろう) 1969~

そもそも「うちわ」には感情がないから、自分の意思を伝えようとはしない。百歩譲って、もし「はい」とか「いいえ」とか言ったとしても、ちょっと風を送るぐらいで、それ以外ふだん大した仕事をしないと心得えているうちわでは大勢に影響を与えないだろう。内容的にはたぶん身も蓋もないことである。もちろん、事実でもない。だから真剣に考える必要もなく、えっと思えば、ただそれだけですむのだが、ちょっと変な日常語の連なりに虚実の間を往還するような不思議な気配が通っている。

切れを使わずにねじれを与え、今ここでないところへ、理屈の通らない環境へ転換を図っている。時間的経過も加味して、現実の手触り感があるうちわをモチーフにして、こんなおかしな、ふつうではない世界を作り上げた。

2021年8月2日月曜日

●月曜日の一句〔岸本葉子〕相子智恵



相子智恵







卵黄に細き血管熱帯夜  岸本葉子

句集『つちふる』(2021.6 角川文化振興財団)所載

暑くて眠れない熱帯夜に、遅くまで書きものでもしていたのだろうか。簡単な夜食でも作ろうと、卵を割ったのかもしれない。何気なく割った卵の黄身の中に、細い血管があるのに気づいた。有精卵なのだろう。

誕生する前に死んでしまった卵の中の、細く小さな血管と、暑さと湿気がべたべたと体にまとわりつくような熱帯夜が、肌感覚で取り合わされている。句の書きぶりは端正な写生なのだが、取り合わせの響きによって、グロテスクな感じが醸し出されており、印象深い一句である。