2020年12月30日水曜日

◆2021年 新年詠 大募集

2021年 新年詠 大募集


新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールを添えてください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2021年11日(金)0:00~18日(金) 12:00 正午

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2020年12月28日月曜日

●月曜日の一句〔マブソン青眼〕相子智恵



相子智恵







僕が僕に道を聞くなり銀河直下   マブソン青眼
Je demande à moi-même / Mon chemin à haute voix / Sous la Voie lactée

句集『遥かなるマルキーズ諸島 L'île-sirène』(2021.1 参月庵)所載

句集に挟んであったエッセイによれば、作者は2019年7月から今年の6月まで、フランス領ポリネシア・マルキーズ諸島ヒバオア島で、一人で暮らしたという。画家のゴーギャンや詩人のブレルが最晩年を過ごし、眠る島だ。そこで作られた俳句と短歌を纏めた一冊より引いた。

〈銀河直下〉の島で、たった一人の僕が僕に、これから進むべき道を問う。頭上には大きな天の川がまるで一本道のようにあって、僕の進むべき道と響きあう。なんと大きく美しく、孤独で、それでいてまったく寂しくない句だろう。

神を信じるしかない島よ崖しかない
Ô île où on est obligé / De croire en Dieu Ô île où il n'y a / Que des falaises

そんなヒバオア島で、作者は新型コロナウイルスに罹患した。病院も酸素ボンベもない島で、肺が開かないまさに絶体絶命の状況の中、仮住まいの小屋に寝たきりで籠りながらこのような句も詠み、帰国を余儀なくされる。

立小便も虹となりけりマルキーズ
Même mon urine / Devient un arc-en-ciel doré / Aux Marquises

自らの体と島が一体となるような句が多い句集だが、中でも掲句は特に好きな句のひとつ。自分の尿に小さな虹が生まれる。その虹もこの島で生まれては消える数多の虹のひとつになるのだ。上記のような極限状態に置かれることもありながら、自らの肉体と島のあれこれが絡み合うような祝祭的な気分が一冊を覆っていて、孤独なのに賑やかな句歌集である。

来年はどのような年になるのか、これほどまでに先が見えないこともめずらしい。〈僕が僕に道を聞くなり〉しかないのだろう。ひとり一人のゆく道は孤独だが、寂しくはない。落ちてきそうなほど見事な銀河の、それこそ星の数ほどの光の下ならば。

2020年12月25日金曜日

●タオル

タオル

春分の湯にすぐ沈む白タオル  飯田龍太

屈強のタオルを運ぶ潜水艦  攝津幸彦

硬きまで乾きしタオル夏日にほふ  篠原梵

あるだけのタオルを積んで夜の底  樋口由紀子〔*〕

〔*〕樋口由紀子『めるくまーる』2018年11月/ふらんす堂 ≫版元 ONLINE SHOP

2020年12月24日木曜日

【人名さん】ルイ・アームストロング

【人名さん】
ルイ・アームストロング

サッチモの鼻の穴から聖夜来る  今井 聖



掲句は今井聖句集『九月の明るい坂』(2020年9月/朔出版)より。




2020年12月23日水曜日

●北斗

北斗

夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに  山口誓子

凍てし夜の松の中なる北斗の尾  田川飛旅子

倒れ来る北斗に春の声あげぬ  山田みづえ

暁や北斗を浸す春の潮  松瀬青々

ふらここを漕ぐに北斗の傾けリ  秦夕美〔*〕


〔*〕秦夕美句集『さよならさんかく』2020年9月/ふらんす堂 ≫版元ONLINE SHOP


2020年12月21日月曜日

●月曜日の一句〔津川絵理子〕相子智恵



相子智恵







断面のやうな貌から梟鳴く   津川絵理子

句集『夜の水平線』(2020.12 ふらんす堂)所載

梟は、全身は丸っこいのに、貌は確かにそこだけがザックリと切り落とされたかのように平面的だ。ただ平面というのではなく、何かを断ち落とした時に生まれる〈断面〉という言葉が選ばれていることにドキリとする。まるで神によって彫刻のように彫り出された梟が、最後に顔の部分をザックリと鑿で切り落とされたかのようだ。梟のまだらな羽根の色が石目のようにすら思われてくる。

〈断面〉という言葉のもつすべらかな感じを思えば、最初、梟は目を閉じていたのではないだろうか。つるんとした断面から、ふいに目と口が開き、鳴いた。断面が動き、命が動いた。

おそらく写生の句であるのだろう。しかしながらこの不思議な趣は、見たものをただそれらしく俳句に刻み付けるだけでは決して生まれない。

柱よりはみ出て蟬の片目かな

日蝕の風吹いてくる蠅叩

近づいてくる秋の蚊のわらひごゑ

濡れ砂を刺す夏蝶の口太し

日短か雀が雀ねぢ伏せて

火の中の釘燃えてゐる追儺かな

水に浮く水鉄砲の日暮かな

写生の筆致の確かさ、それだけではない。このような透徹した目で対象を見て、不思議を摑みだすことは、何よりも心が自由でなければできないのではないか。取り合わせの妙も同じである。

 

2020年12月19日土曜日

●タイプライター

タイプライター

花の雨オリベッティでFを打つ  草野早苗〔*〕

手をとめて春を惜しめりタイピスト  日野草城

洋梨とタイプライター日が昇る  髙柳克弘


〔*〕草野早苗句集『ぱららん』2020年11月/金雀枝舎



2020年12月18日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼をとぢると家鴨が今日も歩いてる

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

家鴨の歩く姿は愛嬌があり、のんびりしている。見ている方もゆったりとした気分になる。しかし、「眼をとぢると」である。ということは、眼をあけているときは家鴨の姿は見えないことになる。家鴨は眼をとじなければ見えない。

眼をあけているときは忙しくて、あるいは雑多なものが邪魔をして見ることができないのだろうか。しかし、眼をとじると今日も無事に家鴨はいつも通りに歩いているのが見える。だから、安心して、また眼をあけることができ、日常をつつがなく遣り過すことができる。眼を開けているときは現実社会、眼を閉じているときは心象風景なのだろうか。どちらも自分であることには違いない。精神の表裏のようである。

2020年12月16日水曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句」は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

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【記事例】

句集を読む ≫過去記事

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句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

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俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。

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紙媒体からの転載も歓迎です。
※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。



2020年12月14日月曜日

●月曜日の一句〔草野早苗〕相子智恵



相子智恵







改札を鬼が抜けゆく師走かな   草野早苗

句集『ぱららん』(2020.11 金雀枝舎)所載

もう師走も半ばとなってしまった。テレワークをする人も多くなった今年の師走は、電車に乗る人は減ってはいるものの、私が普段利用する路線は、時差通勤をしてもまあまあ混んでいる。改札の人の流れも途切れることはない。以前が混み過ぎていたのだ。

掲句、改札を抜けてゆく〈鬼〉とは、そんな忙しい師走の日々を送る人間たちの形相の暗喩のようにも読めるけれども、〈師走かな〉があるために本物の鬼であるとも違和感なく読めて、不思議で面白い句となっている。新暦と旧暦がずれてしまって、今や節分のものとなっている「鬼やらい」はもともと年末の行事だし、最も太陽の力が弱まる冬至もあって、師走はやはり鬼の存在が近いように思われるのだ。

そもそも鬼と人間は、ほぼ同義なのではないか。改札を颯爽と抜けてゆく鬼は、大津絵の「鬼の寒念仏」のようにどこかユーモラスで、人間とも見分けがつかないのである。

 

2020年12月12日土曜日

●絵草紙

絵草紙

絵草紙に鎮おく店や春の風  高井几菫

春雨や傘さして見る絵草子屋  正岡子規

ひらがなの地獄草紙を花の昼  恩田侑布子

絵双紙をぬけでる雷のごときもの  秦夕美


秦夕美『さよならさんかく』2020年9月/ふらんす堂 ≫amazon

2020年12月11日金曜日

●金曜日の川柳〔山村裕〕樋口由紀子



樋口由紀子






胸のアフリカ見知らぬ魚の眼と出会う

山村裕 (やまむら・ゆう) 1911~2007

「胸のアフリカ」という言葉のセンスに惹かれる。そんなアフリカを見知らぬ魚の眼と出会わせている。「胸のアフリカ」で切るのではなく、「が」が省略されて叙述されているのだろう。

未開の、広大で、混沌としていて、どう形容したらいいかわからない「胸のアフリカ」。それが見知らぬ魚の眼と出会った。生まれも育ちも形も大きさもまったく違う二つが出会った。アフリカも魚もいままで実際に知る機会がなかったモノ同士だったに違いない。

偶然出会ったのか。それとも出会うべくしての出会いだったのか。そのとき、胸のアフリカはぞっくとするような生の実感がよみがえってきたはずである。魚の眼はエキゾチックで存在感があり、なんともいえぬ高揚感と緊張感をもたらしてくれたのだろう。

2020年12月10日木曜日

【名前はないけど、いる生き物】 夢の現実 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
夢の現実

宮﨑莉々香

鹿と目がつながる車ガラスの窓
やがて虫だけの手ぶらの夜が来るぞ
かまきりとくちびるかたくながうつる
カンナの赤目覚めればカップヌードル
毛虫手すり手すりがごはごはの手毛虫
秋の日の眼鏡の友とわからん木
秋の眼の夢の植物園の羊歯
今日までの羊歯の向かうのさやうなら
来世なるなら羊歯がいい足首でもいい
木の実降る九時ごろのどつかにも降る
干されての洋服柚の木は黄色
空に頭をひつぱられるコスモス畑


2020年12月9日水曜日

【俳誌拝読】『トイ』第3号

【俳誌拝読】
『トイ』第3号(2020年12月1日)


A5判・本文16頁。以下、同人諸氏作品より。

ハツユキと言葉にだして一人寝る  池田澄子

その日からアリスの横に野茂英雄  樋口由紀子

夕花野風の毀れてゐたるなり  干場達矢

野分立つ朝や遠くに住むひとを  青木空知

(西原天気・記)



2020年12月8日火曜日

●神様

神様


修奈羅峠のお金の神様肩まで雪  小澤實

冷房の神様が居て頭痛かな  瀬戸正洋〔*〕

蟷螂やいぼ神様の腹具合  二村典子

カミサマはヤマダジツコと名乗られた  江口ちかる


〔*〕瀬戸正洋句集『亀の失踪』2020年9月/新潮社 ≫amazon

2020年12月7日月曜日

●月曜日の一句〔神野紗希〕相子智恵



相子智恵







もう泣かない電気毛布は裏切らない   神野紗希

句集『すみれそよぐ』(2020.11 朔出版)所載

作者のエッセイ集の題名にもなっており、口誦性に富んでいて一発で覚えた好きな句。泣きながら過ごす眠れぬ夜、ひとしきりウジウジと悩んで泣いた後、電気毛布の安定した温かさにくるまれると気持ちもほぐれ、〈もう泣かない〉と、きっぱりと決意したのだ。

〈電気毛布は裏切らない〉とは、なるほどなあと思う。寒い夜、普通の毛布は、入った瞬間はまだ冷たい。自分の体温と混ざり合ってようやくぬくぬくと温かくなってくるものだ。ところが電気毛布は、眠る前に温めておけば布団に入った瞬間から温かい。そしてその温かさはいつも一定で、人の体温や環境によって左右されることもない。まさにいつでもどこでも〈裏切らない〉のだ。

〈電気毛布は裏切らない〉の裏側には、裏切ったり裏切られたりする人間関係特有のままならなさがあって、人間相手だから、電気毛布よりも温かい気持ちになる感動的な瞬間もあれば、一方で氷のように冷える瞬間もあるのは当然だ。こうした生の感情や関係の波とは真逆の、予想通りで、いつでも一定で、自分を絶対に裏切らない象徴である〈電気毛布〉。

〈もう泣かない〉のきっぱりとした宣言は、泣くことによるカタルシスを経てスッキリした気分もあるにはあるのだけれど、一方で「泣く」という自然な感情を理性で閉じ込めて、自分が「電気毛布化」することを決意する態度でもあるのだから、究極はやっぱり自分の感情を殺すことになってしまうだろう。これは自己暗示のような強がりであって、それでもなお、泣いてしまうのが人間である。まあ、泣いたらまた電気毛布に癒されればよいのだ。電気毛布とは、なんとまあ偉大な発明であることよ。

 

2020年12月6日日曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


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【俳誌拝読】 『猫街』第2号

【俳誌拝読】
『猫街』第2号(2020年10月)


A5判・本文26頁。発行人・三宅やよい。

以下、同人諸氏作品より。

とみさんのおはぎせきはんわすられず  今泉秀隆

遠泳のうなじばかりが見えている  近江文代

秋の浜アンモナイトの身の部分  沈脱

去年今年袋の中は麿赤兒  ねじめ正一

ががんぼと出会ってからのプロボーラー  藤田俊

蠅が棲むうすくらがりの電子辞書  三宅やよい

風という重さがあって花芒  諸星千綾

死ぬまでに千の歯ブラシ愛鳥日  山崎垂

梅干を見るとうんこのでる法則  芳野ヒロユキ

気絶してチェリーブラッサムひとひら  きゅうこ

かたつむりつむじの渦に囲まれて  静誠司

また明日セロリになってもう寝ます  赤石忍

(西原天気・記)



2020年12月5日土曜日

【俳誌拝読】『滸(ほとり)』第2号

【俳誌拝読】
『滸(ほとり)』第2号(2020年11月23日)


A5判・本文56頁。詩、短歌、俳句の作品と論評を掲載する同人誌。俳句に引き寄せると、特集のひとつで安里琉太『式日』を取り上げる(安里は同誌同人)。西村麒麟による抄出、生駒大祐、酢橘とおる(同誌同人)、福田若之3氏による句集レビューより成る。


(西原天気・記)



2020年12月4日金曜日

●金曜日の川柳〔根岸川柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






窓、しばらく鼻を遊ばせる

根岸川柳 (ねぎし・せんりゅう) 1888~1977

「鼻を遊ばせる」とはまるで犬を原っぱで遊ばせている飼い主のようである。たぶん、同じような心境なのだろう。車窓か、ショウウィンドウか、ぼんやりと映る顔を見ていて、遊び心が湧いてきて、鼻をぴくぴく動かしたのだろう。

鼻は紛れもなく自分の鼻で、自分の意志で動かしているのだが、窓にうっすらと映る顔は自分のものであっても、自分ではないようで、つい気を許して、いろんなポーズをしてしまう。特に鼻は最も油断できる、安心のパーツである。普段決して人には見せないような顔をあれこれとしている。その様子を思い浮かべると可笑しくなる。作者は眼光の鋭い、かなり気難しい人だったらしいが、茶目っ気のある、照れ屋さんだったのだ。「窓、」の表記は当時としはかなり斬新で、窓に敬意を払っているように感じる。『考える葦』(1959年刊)所収。

2020年12月2日水曜日

【評判録】生駒大祐『水界園丁』

【評判録】
生駒大祐『水界園丁』(2019年7月9日/港の人)


≫東郷雄二 枯蓮を手に誰か来る水世界 生駒大祐『水界園丁』

≫西村麒麟 生駒大祐句集『水界園丁』

≫伊舎堂仁 生駒大祐「水界園丁」を読む

≫田中槐 『水界園丁』と連句の話

≫三島ゆかり 『水界園丁』を読む ほか

≫第11回 田中裕明賞 関連

≫上田信治 プレテキストと複雑 生駒大祐『水界園丁』の方法について(前編)

≫上田信治 死と友情 生駒大祐『水界園丁』の方法について(後編)

≫西原天気 生駒大祐の行方 句集『水界園丁』の一句

≫『水界園丁』(生駒大祐)の造本解説:佐藤りえ氏(歌人・俳人・造本作家)による



2020年12月1日火曜日

【俳誌拝読】『鷹』2020年12月号

【俳誌拝読】
『鷹』2020年12月号


A5判・本文118頁。通巻676号。

主宰詠より。

長き夜のメイド喫茶のオムライス  小川軽舟

俳句時評として柏木健介「俳句の新しさ 田中裕明賞を読む」。

主宰インタビューでは、7頁にわたって同人・会員の質問に答える。冒頭、「鷹・馬酔木系以外で好きな俳人は?」の問いに川端茅舎との回答、以降、地名等固有名詞の扱い、口語俳句の未来、句集を出す意味……等々、カジュアルな問答が続く。

(西原天気・記)



2020年11月30日月曜日

●月曜日の一句〔鴇田智哉〕相子智恵



相子智恵







凩にほつそりと傘ひねらるる  鴇田智哉

句集『エレメンツ』(2020.11 素粒社)所載

凩で雨は降っていないから、傘は閉じられて巻かれている、あるいは今巻いているのだろう。凩の前には時雨が来ていたのかもしれない。

傘が、巻かれていないふんわりした状態から、ひねられながら〈ほつそりと〉と巻かれてゆく。あるいは「ほつそりとした傘」と読めば、華奢な女性物の傘の形容のようにも思える。〈傘ひねらるる〉は、傘が今まさにひねられながら巻かれている様子にも、あるいはほっそりとした手首が(巻く傘に添って)ひねられていく様子に着目したようにも思える。

あるいはどこにも「巻かれる」とは書かれていないのだから、傘が〈ひねらるる〉とは、上記の読みとは全く違うことなのかもしれない。例えば凩が吹き込む玄関の傘立てに立てられた、ほっそりとした傘の、ぐりんとひねられた柄の部分に着目したのかもしれない。よく考えてみればこの句にはどこにも人が登場していない。人の気配はあるけれど。

このように想像は幾重にもできて、それらの断片が風景を心の中に構築してゆく。鴇田氏の句を読んでいると、キュビズムみたいだなと思うことがあって、様々な角度、視点から風景を(描かれた対象物から描く自分を見返す視点も含めつつ)描いていくのだけれど、そこからぽっかりと不在なような、あるいは見えない何かがみっちりと充填されているような、不思議な構造物が出来上がる。

それは一人ひとり違う構造物になるはずだから、こうして鑑賞するのはちょっと難しい。けれども、凩とほっそりとひねられた傘からはある種の空気が醸し出されていて、頭の中に明確な風景は浮かばないのに、風景のもつ「手触り」のようなものが感じられてくる。その手触りは確かに風景句の手触りであって、言葉だけで創造された句のもつ手触りではない。それがとても心地よい不思議さなのである。

 

2020年11月27日金曜日

●金曜日の川柳〔蟹口和枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






この世からフッとなくなる京都駅

蟹口和枝 (かにぐち・かずえ) 1959~

アッという間にコロナの世の中になった。何が起こるがわからない。京都駅もフッとなくかもしれない。あり得ないことをさもあり得るように言挙げしている。しかし、ひょっとしたら、そんなことがあるかもしれないとフッと思わせる。

京都駅は建造物だから、「フッとなくなる」の代物ではない。フッとなくなるなんて、まるで人間のようである。かと言って、京都駅に感情移入しているというのでもなさそうである。説明不可能な、何の根拠もない感覚を一句にしている。共感とか伝達とは別バージョンの、放り投げただけのような無責任さがこの句の魅力である。「うみの会」。

2020年11月25日水曜日

【俳誌拝読】『俳誌五七五』第6号(2020年10月20日)

【俳誌拝読】
『俳誌五七五』第6号(2020年10月20日)


B5判変型・本文40頁。編集発行人:高橋修宏。5氏5作品(各15句)と8本のエッセイを収める。

根こそぎの影を背負いてゆく揚羽  三枝桂子

白旗の振られて涼し前線は  佐藤りえ

時計草萎れダリの義眼(いれめ)が曇る  井口時男

鈍いろの日没ありき胡桃割り  増田まさみ

奇魂(くすだま)のはみ出る熊のぬいぐるみ  高橋修宏

エッセイの執筆者は、打田峨者ん、佐藤りえ、増田まさみ、井口時男、松下カロ、今泉康弘、高橋修宏、星野太の各氏(掲載順)。

(西原天気・記)



2020年11月23日月曜日

●月曜日の一句〔竹村翠苑〕相子智恵



相子智恵







虎挟みの狸殺して流したり  竹村翠苑

句集『豊かなる人生』(2020.10 朔出版)所載

〈虎挟み〉は罠。罠にかかった狸を殺して川に流したという、実に即物的な句である。作者は98歳にして、長野県の大町で現役で農事を営む。畑を荒らされないように、狸を殺さなければならないのだ。

南信州の私の祖父も農を営んでいた。家はテレビの「ポツンと一軒家」みたいな山の中にあって、祖父は冬には猟友会として山で猟をした。庭で兎の毛を毟って食べさせてくれた兎汁は、その一部始終が子供心に衝撃的で、ほとんど泣きながら食べた。

祖父の通夜の日、久々に祖父の畑を歩いていたら、隅に鉄屑で檻が作ってあって、中に烏賊の内臓が棒切れに刺して置いてあった。あまりにも唐突なその光景に、家を守る伯父に聞くと、畑を荒らす狸を捕まえるための即席の狸罠だという。狸が烏賊のワタを食べるのかしらと思ったが、祖父を出棺する翌朝、無事にかかったと聞いた。狸は見なかったが、殺したのだろう。

掲句にそんな祖父の畑を思い出した。〈鍬の先はね返したり旱畑〉〈踏み潰す土竜一匹秋暑し〉など土の匂いを感じる句群は、今の時代、もはや貴重なものとなっている。

 

2020年11月22日日曜日

【俳誌拝読】 『ユプシロン』第3号(2020年11月1日)

 【俳誌拝読】
『ユプシロン』第3号(2020年11月1日)


A5判・本文28頁。4氏それぞれ50句を発表。以下に1句ずつ。

蟋蟀や夜空を黒で塗りつぶし  仲田陽子

椅子の背のすらりと伸びる夏燕  中田美子

胡桃から胡桃以外の音がする  岡田由季

白菜の断面ふたつ天へ向く  小林かんな


(西原天気・記)



2020年11月16日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵







見ず聞かず信ず来世の雪の椅子   秦 夕美

句集『さよならさんかく』(2020.9 ふらんす堂)所載

「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がある。そんな調子で掲句をトントントンと読んでいくと、〈見ず聞かず信ず〉は、「見ない、聞かない、信じる」と、〈信ず〉だけが否定ではないところに、深く感じ入る。〈来世〉は見たこともないし、聞いたこともないけれど(そしてそれは、生きている者としては当たり前のことだけれども)、その存在を信じる、というのである。

その信じるものがただ〈来世〉だけでは一句が観念に過ぎなくなるのだが、〈来世の雪の椅子〉という具体的な物が見えてくるところで、一気に心を持っていかれる。真っ白で冷たい雪の椅子に、冷え冷えと座わる。そんな来世はたいそう美しい。
〈来世〉は仏教の言葉でありながら、ここでは(行ったことはないけれど)北欧のアイスホテルが想像されてきたりして、洋の東西を問わない自在な美意識もまた、この作者らしいと思うのである。

 

2020年11月13日金曜日

●金曜日の川柳〔村上てる〕樋口由紀子



樋口由紀子






歩くのがあきて今度は平泳ぎ

村上てる (むらかみ・てる)

健康とダイエットのためにウオーキングをしていたのだろう。しかし、代わり映えしない景色に、退屈で飽き、目線を変えようと、次はスイミングを始めた。ランニングではなく歩くだったから、今度もクロールでなく、平泳ぎ。バランスが取れている。なんとしてもという必死さがなく、がんばろうという意気込みも希薄である。他の泳法でがんばっている人たちを横目に、水に顔をつけないでのんびりと泳いでいる作者の姿が目に見えそうである。

今を生きている感があり、特別なことがなにもない、ごくふつうの生活そのもの、そのままの手触り感がいい。平泳ぎにあきるのも時間の問題のような気がする。〈平泳ぎにあきて歩くのに戻る〉の句を何か月後かに見られるような気がする。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2020年11月9日月曜日

●月曜日の一句〔南うみを〕相子智恵



相子智恵







冬ざくら音なく沖のたかぶれる   南うみを

句集『凡海』(2020.9 ふらんす堂)所載

冬が立った。これから冬の句を楽しもうと思う。

掲句、美しい句だ。〈冬桜〉は冬に咲く種類の桜で、山桜と富士桜の雑種といわれる。海辺の近景に〈冬桜〉、遠く沖に目をやれば白波が立っているのだろう。沖の波が高ぶっているのがわかる。きっとその波は、やがて浜にも寄せることになるのだろうが、沖だから今はその高い波音は聞こえず、〈音なく〉も納得である。

もちろん浜に寄せている波の音の方は、海からの距離にもよるが微かにでも聞こえているはずで、それは沖ほどにはまだ荒れてはいないのだろう。ここでは〈音なく〉と沖の波の無音を選び取ったことで、読者には静寂が訪れる。

冬桜の白色と、沖の高ぶる白波の色が響きあって美しい。平仮名を効果的に使ってゆったりと静かに読ませながら、それでいてK音の繰り返しに静かな緊張感がある。平穏と不穏のあわいに冬の海らしさを感じる見事な風景句だと思う。

句集名の『凡海』は「おおしあま」と読む。作者が住む若狭の海の古名であるということだ。

 

2020年11月8日日曜日

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2020年11月6日金曜日

●金曜日の川柳〔小林康浩〕樋口由紀子



樋口由紀子






バス二回乗り継いでから深緑

小林康浩 (こばやし・やすひろ) 1957~

最初は新緑が美しいと評判のところに行くのにはバスを二回乗り継いで行かねばならないのかと思った。不便で、人も少なく、開発されていないから、山や森の緑は守られている。そこでやっと新緑を愛でることができる。新緑を見るのもごくろうなことである。

しかし、よく見ると「深緑」だった。濃いふかみどりである。そして、「乗り継いでから」とある。「濃いふかみどり」は人生の行きついたところだろうか。「バス」は仕事かもしれない。二回転職をして、バスでガタガタ道を揺られるように、慣れない仕事をどうにかこなしてきた。そして、「深緑」に巡り合えた。そうしなければ出会うことも気づくこともがなかった。深緑に出会えたから、バス二回乗り継いだことを感慨深く、あらためて振り返っているのだろう。『どぎまぎ』(2020年刊)所収。

2020年11月2日月曜日

●月曜日の一句〔小池康生〕相子智恵



相子智恵







林檎嚙む林檎のなかに倦みし音   小池康生

句集『奎星』(2020.10 飯塚書店)所載

例えば林檎と梨では噛んだ時の音が全く違う。梨は「シャリッ」としているけれど、林檎は「タリッ」という感じ。「カリッ」よりももう少し鈍くて実が詰まっている感じだ。梨よりは明らかに鈍い。その音を〈倦みし音〉とは、なるほど感覚の鋭い把握である。

特に少し萎びて弾力がなくなってきた頃の林檎(筆者の出身の長野県では、これを「林檎がぼける」と言った)も、まさに掲句のように〈倦みし音〉だと思う。梨ももちろん萎びると「シャリッ」とはしないのだけれど、それでもこの〈倦みし音〉は林檎特有のもののように思える。

音に対する感覚の鋭さだけではなく、これは作者の心の中とももちろん繋がっているのだろう。林檎を食べている時の物思いも、〈倦みし音〉には含まれているのである。

 

2020年10月30日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






木は山にさておふくろの隠し場所

菊地良雄 (きくち・よしお) 1944~

「木は山に」は普通のコトである。しかし、「さておふくろの隠し場所」となると、えっと思う。木は何に使ったのか。母親を隠そうとしている。なぜ隠さなくてはならないのか。「おふくろ」はすでに物のように扱われている。それ以上のコトは何も言っていないが、私の中で恐ろしい想像がどんどん膨らんでいく。

川柳はさまざまな人に成り代わって書くことができる。作中主体が作者とは限らない。しかし、殺人者かもしれない人物を、それも母親を殺したかもしれないような人物を作中主体にすることは小説ではよくあるが、川柳ではほとんどない。「木は山に」と「おふくろの隠し場所」の倒置に一癖あり、事態を急変させる。また、「さて」という副詞が不穏なことを考え、緊迫感を与える。ふつうでないことを一句にし、健全であらねばならないというコードを外している。「ふらすこてん」第55号(2018年刊)収録。

2020年10月26日月曜日

●月曜日の一句〔巫依子〕相子智恵



相子智恵







秋灯のひとつは島へ帰る船   巫 依子

句集『青き薔薇』(2020.9 ふらんす堂)所載

秋の日はとっぷりと暮れて、家々の明かりや街灯がともる頃、港から海を眺めている。一艘の船の明かりが静かに遠ざかっていく。それは〈島へ帰る船〉だ。島との間の連絡船だろうか。

〈ひとつは〉だから、作者の眼には船の他にも秋の灯が見えている。それは海の向こうにある、船が帰り着く島の街灯や家々の明かりだろう。島はきっとそれほど遠くはないのだ。

点々と街灯がついて、暗い海に浮かぶ島の輪郭がわかる。秋の夜は更けてゆき、やがて船の秋灯も、島の秋灯の一部となる。星々の中に、ひとつの星が帰っていくように。

 

2020年10月23日金曜日

●金曜日の川柳〔峯裕見子〕樋口由紀子



樋口由紀子






西瓜だと思ってポンと割るがいい

峯裕見子 (みね・ゆみこ) 1951~

「西瓜だと思って」とあるから、「西瓜」ではない。それが何であるか特定していないから、いろいろと想像する。読み手によって思い当たるものはそれぞれ違う。このように誘導してくれるのもこの句の魅力である。

西瓜は割って食べるもので、割ると真っ赤な果肉が絵になる。割るものでなくても、絵にならないものでも、西瓜だと思って割ってみたらどうかと励ましているのか、そそのかしているのか。言い回しは独特で威勢がいいが、心の綾は少し微妙である。楽しくて、やさしく、それでいて繊細。生きていく処方だろう。真っ当に生きている人の匂いがする。結果はどうでるかわからないが、細かいことは気にしないで、丁か半か、ポンと割るだけでも、何かが変化するはずだし、スカッとするに違いない。川柳「びわこ」(第688号)収録。

2020年10月19日月曜日

●月曜日の一句〔如月真菜〕相子智恵



相子智恵







括られし秋明菊や湖へ向き   如月真菜

句集『琵琶行』(2020.9 文學の森)所載

  つかのまを近江住まひや遠砧

という句から始まる章の一句である。掲句の〈湖へ向き〉の湖はきっと琵琶湖、淡海だろう。〈秋明菊〉はもう終わりの頃なのだろうか。それともあちこちに向いてわさわさと咲くから、よく見せるためにまとめて括られてしまったのだろうか。湖の方に花が向いている。琵琶湖と秋明菊は秋の日に照らされて、寂しく静かな光を放ちあっている。もののあわれを感じる句だ。

  淡海より出る川ひとつ水の秋

琵琶湖に流れ込む河川は119本もあるのに、琵琶湖から流れ出る川は唯一、瀬田川(京都府内で宇治川、大阪では淀川と呼ばれ大阪湾に注ぐ)のみである。たっぷりと湛えられた〈淡海〉の水が、たった一本の川となって悠々と出ていく。〈水の秋〉は、水の美しい秋を讃える季語。まさにベストオブ水の秋、といった堂々とした句の姿ではあるのあるが、しかしながら、この句も〈ひとつ〉がどこか寂しい。

  蜻蛉朔日よこたへし琴の胴

  子を置いて出づれば天高しと思ふ

  ねむたげな一夜官女を先頭に

序によれば十年ほどの間に、横浜から尼崎、神戸、大津と転居したという。たっぷりとした諧謔も持ち味の作者だが、この句集には、そこに異郷を転々とするそこはかとない寂しさが加わっている。しかし一方で、この人のゆったりとした句柄は、歴史ある関西の水と風土に本当によく合うとも思った。句が深みを増している。

筆者と同年代ということもあり(句歴は比べるべくもないが)、気づいたら二十年以上読んできた作家だ。今はこういう場所にたどり着いたのだな、としみじみ思った。

不思議と秋が似合う句集だな、とも思った。

 

2020年10月16日金曜日

●金曜日の川柳〔柏原幻四郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






昭和六十年の桜を見ておこう

柏原幻四郎 (かしはら・げんしろう) 1933~2013

昭和六十年はどんな年だったのかなとまず思った。個人的になにかがあったのか、あるいは世の中に特別の何かがあったのかと思った。御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、多くの方が亡くなられたのも昭和六十年だった。しかし、この句は桜の季節だから、それ以前で、その感傷ではない。

昭和六十年に意味を持たせて深読みしたくなるが、そんなものはありませんよと穿っているような気もする。意味を持たせた方が、物語が作れて、容易に感情移入でき、読み解きやすい。一年間には様々な出来事が起こる。何もない一年なんてない。しかし、有ってもなにも無い。今の、その年の、単なる気持ちなのだろう。「見にいこう」ではなく「見ておこう」により意志を感じる。令和二年の紅葉を見ておこうと思った。「川柳瓦版」(通巻313号 昭和60年5月5日刊)収録。

2020年10月12日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐のぞみ〕相子智恵



相子智恵







秋澄みて宣誓のまつすぐな腕   甲斐のぞみ

句集『絵本の山』(2020.7 ふらんす堂)所載

説明の要らない鮮やかな写生句である。運動会や体育祭、あるいは部活動の大会などであろう。秋の澄んだ空気の中で、開会式の選手宣誓が行われている。生徒代表の腕は真っ直ぐに秋の空へと伸びて、高らかに宣誓の言葉を告げている。

〈まつすぐな腕〉は、見えている以上のものを確実に伝える。それは選手の誠実さだったり、緊張感だったりといった内面だ。凛とした〈まつすぐな腕〉は、すべてが美しく見える澄んだ空気の中で、何よりもまぶしい。

 

2020年10月9日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子






太刀魚のひかりするするとしまう

瀧村小奈生(たきむら・こなお)

太刀魚が釣り上げられた瞬間を見たことがある。まばゆいばかりにきらきらとして、この世のものではなかった。陸にあがるとひかりは急速に力を失くした。海に居てこそのひかりで、釣り上げるべきではないと思った。

「するする」というさまが実にいい。素早く、一瞬に、ひかりを外にもらさないようにとの配慮がうかがえ、その動作が目に浮かぶ。さて、どこに仕舞うのだろうか。「太刀魚」は銀色の外観で、「太刀」に似ているところから「太刀魚」と名付けられた。太刀を自分の懐にしまうようにひかりを自分の裡にしまったのだろうか。明と暗、光と影の絶妙のコントラストである。「太刀魚」だけの漢字が「太刀魚」映えしている。「第二回柳俳合同誌上句会」

2020年10月7日水曜日

【水曜日の二句】針と釘 西原天気

【水曜日の二句】
針と釘

西原天気


月光を針千本にかへてやろ  柿本多映

月光が釘ざらざらと吐き出しぬ  八田木枯

月光を鋭利に感じたことはないが、金気(かなけ)のようなものはあるような気がする。形状よりも質感や匂いが(光はさわれないし香りはないという指摘はさておき)、月光を針や釘に結びつけるのかもしれない。

柿本多映(1928-)と八田木枯(1925-2012)はほぼ同世代。掲句。主体が異なり、前者のほうがアクティブ。作者/作中主体が働きかける。


柿本多映『拾遺放光』2020年/深夜叢書社
八田木枯句集『鏡騒』2010年/ふらんす堂

2020年10月5日月曜日

●月曜日の一句〔澤好摩〕相子智恵



相子智恵







落鮎に日照り月射す残んの日   澤 好摩

句集『返照』(2020.7 書肆麒麟)所載

産卵のために川を下る〈落鮎〉を、川の一地点で捉えるのではなく、鮎と共に川を下るように描いている。〈落鮎〉が何日かけて川を下るのかはわからないのだけれど、昼間は秋の日差しに照らされ、夜には見事な月光が射し込み、それを幾度か繰り返すのだろう。〈日照り月射す〉で、昼も夜も秋の静かな光にきらきらと照らされる一本の川と、川浪にきらめきながら下っていく一匹の鮎を夢想する。

下流にたどり着いて無事に卵を産めたなら、そのあとにはすぐに死が待っている。美しい秋の日光と月光に照らされる日々は〈落鮎〉の〈残んの日〉なのだ。〈残ん〉は「残り」の音が変化したもの。古語の響きが柔らかく、鮎の残りの日々に対する作者の慈愛のまなざしを感じる。

それにしても下五でやってくる〈残んの日〉という古語と内容には、ふいに驚き、深く納得する。前衛/伝統では括れないような、この人のもつ俳句の美しさにこうして触れてゆくのである。

 

2020年9月28日月曜日

●月曜日の一句〔照屋眞理子〕相子智恵



相子智恵







立ち枯れてあれはひまはりの魂魄   照屋眞理子

句集『猫も天使も』(2020.7 角川書店)所載

〈魂魄(こんぱく)〉とは死者の魂のこと。古来中国では、「魂」は精神を司る気、「魄」は肉体を司る気とされており、人が死ぬと魂は天に帰し、魄は地に帰すと考えられた。
掲句、ひまわりの枯れ方はまさに〈立ち枯れて〉で、太い首をうなだれながらも、首から下はすっくと立ったままである。枯れてもなお気迫があって力強い。精神を司る気だけではなく、しっかりと地に立ち続ける太い茎からは肉体の気も感じる。ただの「たましい」ではなく〈魂魄〉であることに、ひまわりらしさが感じられてくるのだ。「こんぱく」という音の強さも、ひまわりの力強い美しさを際立たせている。

本書は、照屋眞理子の遺句集となってしまった。

わたくしを捨てに銀河のほとりまで  同

 

2020年9月25日金曜日

●金曜日の川柳〔谷じゃこ〕樋口由紀子

 



樋口由紀子






ほら桃を置けばぐらぐらしなくなる

谷じゃこ (たに・じゃこ)

桃の季節が終わった。また来年のお楽しみである。桃は大好きな果物で、自分の中での価格の基準がクリア―すれば、飛びついて買う。果汁いっぱいで、口当たりもやわらかく、本当に美味しい。少しぐらい嫌なことがあっても、桃を食べると胸のもやもやは消える。

掲句は食べるではなく、置くである。「ほら」で「桃」の触感を伝える。ペーパーウェイトのような扱いだ。確かに桃はある程度の重さがあるからペーパーウェイトの代用はできそうだが、長く置くと熟してくるからたいへんである。一体誰に言っているのか。自分自身だろう。では、どこに置くのか。そもそも桃を置くとぐらぐらしなくなるというのはなになのか。モノではなく、ココロだろう。ぐらぐらさせているものが心配になる。いろいろ考えていくとよけいにややこしくなってきた。やっぱり、桃は置くよりは食べた方がいい。作者は歌人である。「うみの会」

2020年9月24日木曜日

★ 週俳の記事募集

 週俳の記事募集


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2020年9月18日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山進〕樋口由紀子



樋口由紀子






折れてくれ折れ線グラフなのだから

丸山進 (まるやま・すすむ) 1943~

ダイエットに励んでいる友人が折れ線グラフがなかなか下がってくれないと嘆いているのを聞いて、思い出した川柳。

「折れ線グラフ」と名前がついているのだから、ずんずん上がっていくばかりではなく、折れるのが折れ線グラフ本来の姿のはずである。もうそろそろ名前通りに折れてくれてもよさそうなのに、折れる気配がまったくない。だから、しびれをきらして切にお願いしている。

折れ線グラフに言ってもしかたがないことを折れ線グラフに言うのがツボで、泣かせどころ、笑わせどころである。上五「折れてくれ」のライブ感があり、下五「なのだから」で必死さが伝わる。まじめにふまじめでなんとも可笑しい。「バックストローク」(19号 2007年刊)収録。

2020年9月16日水曜日

●むかしの記事も

むかしの記事も

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2020年9月14日月曜日

●月曜日の一句〔篠崎央子〕相子智恵



相子智恵







芋刺して死を遠ざくる父の箸   篠崎央子

句集『火の貌』(2020.8 ふらんす堂)所載

俳句で「芋」といえば里芋を指す。里芋は縄文時代後期に伝播し、稲作以前の主食だったと推定されているそうだ。種芋の上に子芋、孫芋がつく形で成長するので子孫繁栄の縁起物とされていたり、別名「芋名月」とも呼ばれる十五夜には、収穫に感謝して供えたりする。古くから生命力を喚起する食べ物である。

掲句、里芋の煮っ転がしか何かを食べているのだろう。いくら食べることは生きることの基本だとはいえ、普通の食卓で〈死を遠ざくる〉というのは出てこない発想なのでドキリとする。そこから逆説的に、父の死が近いことが感じられてくるのだ。

死が近い父の箸が、芋を刺している。里芋はつるつるしているから箸で掴みにくい。もはや箸で挟むこともできなくなっているから〈芋刺して〉なのだろう。それでも芋を食べることで父の命の時間は少し伸び、死は遠ざかる。

里芋の煮物のような平凡な料理、箸の動きだけをとらえた平凡な食卓の風景が、状況の壮絶さを静かに物語る。さらに箸が刺したものが生命力の象徴のような里芋であるからこそ、作者の祈りのようなものが、しかと感じられてくるのである。

2020年9月11日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕樋口由紀子



樋口由紀子






タクシーで少女時代を追い越して

千春 (ちはる)

自転車や自動車で通り過ぎるいつも見慣れている町もタクシーに乗っていると、景色が違って見える。自分の車だと前方しか見ないから、突然まわりが見えだすと別の世界に来たようで落ち着かなくなる。

「少女時代を追い越して」とあるが、今はどの時代にいるのか。時間軸が狂ってしまったのだろう。少女時代の前なのか、後なのか。これからやってくる少女時代を通り過ぎてしまったのか。それとも過って経験した少女時代を追い越したのか。それも、タクシーだから、誰かに、それも、見知らぬ人に運ばれて、今どこにいるのかわからなくなってきた。時空感覚のマヒを体感しているようである。『てとてと』(私家本工房刊 2020年)所収。

2020年9月9日水曜日

●鮫



鮫の歯を目を背を腹を見て触れる  橋本直〔*1〕

思い出のそこだけが夜鮫が来る  なつはづき〔*2〕

本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

秋航へ鮫の真紅の肺を見て  齋藤愼爾

昼過ぎのプラグが鮫の声を出す  坪内稔典


〔*1〕橋本直『符籙』2020年7月/左右社
〔*2〕なつはづき『ぴったりの箱』2020年7月/朔出版

2020年9月7日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤敬子〕相子智恵



相子智恵







いちにちのたちまち遠き千艸かな   伊藤敬子

句集『千艸』(2020.7 角川書店)所載

夏が終わり、今時分の夕暮れになると「もう日が暮れるのか」と切なくなる。もちろん、これからもっと日は短くなるのだが、個人的に日暮れが最も切ないのは秋の初め頃で、もっと外で遊べていたはずなのに……と思ってしまう。これが秋分ぐらいになると、日暮れに対する覚悟ができて、受け入れられるようになるのである。

掲句、〈千艸〉(ちぐさ)は秋草の傍題。秋草の野を歩いているといつの間にか日暮れがきていて、今日の一日を〈たちまち遠き〉と思った。これが「早い」などではだめで、〈遠き〉の一語が素晴らしいと思った。足元の〈千艸〉から、遥かな時間と距離がいきなり立ち現れてきて、秋の夕暮れの切なさが滲みだす。

本書の中に〈千艸〉の句は多い。好きな季語なのだろう。〈徒歩ゆくや千艸の風に裾吹かれ〉という句もある。裾が吹かれる風の音、秋草が触れてゆく足の感触。歩いている時間のすべてがしみじみといとおしい。

本書は伊藤敬子の遺句集となった。

2020年9月4日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕樋口由紀子



樋口由紀子






虫に刺されたところを人は見せたがる

金築雨学 (かねつき・うがく) 1941~2020

夏が嫌いだ。暑いのも苦手だけれど、それよりも虫が困る。私は人一倍虫に好かれている。幾人かでいる時も私だけに虫がぶんぶんと飛び回り、まとわりつく。上高地のかっぱ橋の上では蜂に刺された。たくさんの人が行き交う中で、蜂は私めがけて飛んできて、刺して、また飛んでいった。私の周りから人がぱっと散った。今も身体のあちこちに刺された痕がある。ここもあそこもかまれたと見せたいくらいだ。

どうしてそんな行動を取りたいのだろうか。刺された痕はみっともないものである。関西のおばちゃんたちが安く買ったものを自慢するときに言う「いくらやったと思う?」に似ているような気もする。自慢にはなりそうもないことを自慢したがり、見せられないものを見せたがる。「見せたがる」が言い得て妙。心の機微を言い当てている。人は可笑しい。金築雨学も亡くなってしまった。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年8月28日金曜日

●金曜日の川柳〔時実新子〕樋口由紀子



樋口由紀子






たばこ屋から二軒目に鉈売っている

時実新子 (ときざね・しんこ) 1929~2007

商店街を歩くといろんな店が軒を連ねていて、ここに来れば、なんでも揃った。そんな商店街がめっきり少なくなったが、たばこ屋の先に道具屋があったりするはごくふつうの景で取り立てて言うほどのことではない。しかし、わざわざ言われることによってあらぬ事を想像してしまう。

鉈は子どもの頃に家にあった。薪割りに父が使っていた。鉈を一振りすると薪は気持ちいいほどの音をたてて、まっふたつに割れた。いつものように夫に頼まれてたばこを買いに来た。いままで気づかなかったが、たばこ屋のすぐ近くに鉈が売られている。今は夫のたばこを手に持っているが、この先、鉈を手にしなければならないことが私の人生に起こるかもしれない。サスペンスドラマである。『時実新子全句集』(1999年刊 大巧社)所収。

2020年8月24日月曜日

●月曜日の一句〔橋本石火〕相子智恵



相子智恵







秋風や地より浮き立つ木偶の脚   橋本石火

句集『犬の毛布』(2020.8 ふらんす堂)所載

この木偶は西洋のマリオネットか、人形浄瑠璃の人形だろうか。人間が操る木偶人形たちは、地面から浮いて立ち、歩く。人間の動きのようになめらかに動いて見せながら、木偶人形たちが自分の脚の力で地を蹴ることは決してない。

屋外での人形芝居の上演中、ふっと客席に〈秋風〉が通った。宙ぶらりんに立つ木偶の足元にも、〈秋風〉が吹き抜けてゆく。木偶人形の脚の心もとなさに、秋風がしみじみと寂しく響きあう。

ただ、宙に浮いて立つ脚には風に乗れるような軽やかさもあって、寂しさの中に、不思議とひとすじの爽やかさがあるのである。

2020年8月21日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕樋口由紀子



樋口由紀子






くれぐれもお体紫陽花くださいね

榊陽子 (さかき・ようこ)

「くれぐれもお体ご自愛ください」のパロディだろう。「紫陽花」がヘンだ。「ごじあい」と「あじさい」と似ているから、冗談のふりをして、単にひっかけたのか。紫陽花の七変化とか、移ろいやすさのイメージとか、ことさら意味を詮索して、無理に読み解く必要はないと思う。意味のコードで読まない川柳だろう。

かといって、言葉を異化したのでもない。うっかりして、言い間違えたかのように見せかけて、ちょっと油断するとどこに行ってしまうかわからない、そんな言葉の自在さ快活さを楽しんでいる。言葉の軽さや嘘っぽさをあらわにし、言葉を穿っている。「うみの会」

2020年8月18日火曜日

●鈴



六月に生まれて鈴をよく拾ふ  生駒大祐〔*〕

霰降る大地に鈴の音満つごとく  柴田白葉女

枯園でなくした鈴よ永久に鈴  池田澄子

鈴に入る玉こそよけれ春のくれ  三橋敏雄

春駒の鴎を翔たす鈴の音  皆川盤水

鈴の家の鈴ちろと鳴り暮るゝ春  久米正雄



〔*〕生駒大祐句集『水界園丁』2019年7月/港の人