相子智恵凩にほつそりと傘ひねらるる 鴇田智哉
句集『エレメンツ』(2020.11 素粒社)所載
凩で雨は降っていないから、傘は閉じられて巻かれている、あるいは今巻いているのだろう。凩の前には時雨が来ていたのかもしれない。
傘が、巻かれていないふんわりした状態から、ひねられながら〈ほつそりと〉と巻かれてゆく。あるいは「ほつそりとした傘」と読めば、華奢な女性物の傘の形容のようにも思える。〈傘ひねらるる〉は、傘が今まさにひねられながら巻かれている様子にも、あるいはほっそりとした手首が(巻く傘に添って)ひねられていく様子に着目したようにも思える。
あるいはどこにも「巻かれる」とは書かれていないのだから、傘が〈ひねらるる〉とは、上記の読みとは全く違うことなのかもしれない。例えば凩が吹き込む玄関の傘立てに立てられた、ほっそりとした傘の、ぐりんとひねられた柄の部分に着目したのかもしれない。よく考えてみればこの句にはどこにも人が登場していない。人の気配はあるけれど。
このように想像は幾重にもできて、それらの断片が風景を心の中に構築してゆく。鴇田氏の句を読んでいると、キュビズムみたいだなと思うことがあって、様々な角度、視点から風景を(描かれた対象物から描く自分を見返す視点も含めつつ)描いていくのだけれど、そこからぽっかりと不在なような、あるいは見えない何かがみっちりと充填されているような、不思議な構造物が出来上がる。
それは一人ひとり違う構造物になるはずだから、こうして鑑賞するのはちょっと難しい。けれども、凩とほっそりとひねられた傘からはある種の空気が醸し出されていて、頭の中に明確な風景は浮かばないのに、風景のもつ「手触り」のようなものが感じられてくる。その手触りは確かに風景句の手触りであって、言葉だけで創造された句のもつ手触りではない。それがとても心地よい不思議さなのである。
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