2025年11月14日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子





鯖、鰆、鮭、鯛、鮪、然るべく

なかはられいこ(1955~)

寿司屋の湯飲みに書かれている魚の漢字で寿司が出るまでの時間をつぶした。魚の読み方を覚え、こんなにも魚の種類があるのかを知った。「然るべく」とは、「それにふさわしい」「当然そうなるはず」の意味だが、何が「然るべく」なのか、さっぱりわからない。「読点」で魚の名を列挙したあとの突然の着地は「然るべく」の意味だけを取り残した。

急に話を変えて視点を変えずにアナーキーな世界を形作る。一般の言語期範に収まってくれない。SABA・SAWARA・SAKE・TAI・MAGUROと[A]音がとんとんと連続し、SIKARUBEKUで「I」音になり、別モノになるように音韻に工夫もされている。「川柳ねじまき」(11号 2025年刊)収録。

2025年11月7日金曜日

●金曜日の川柳〔大野美恵〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ひとりだよ ふ どんがばちょをまっている  大野美恵

「どんがばちょ」をご存じない方も多いと思いますが、わたくしは「ひょっこりひょうたん島」世代なので、彼、ドン・ガバチョが、あの、国境や国籍といった土にまつわるものから切り離され/解放され、海をさまよう浮島の大統領であることをよく知っている。いちおう確認のために調べてみると(例によって、安易にウィキペディア)、出身は「デッパソッパヨーロッパの牧之原市ドンドン市ふくら小路1番地」とある(原作の井上ひさし、やりたい放題に遊んでいらっしゃる)。牧之原感は希薄で、欧州的な胡散臭さはふんだん。帽子と髭が記憶に残る。蝶ネクタイは、声を務めた藤村有弘とも重なる。

と、そのことしか言わないのは、《ひとりだよ》も《まっている》も、まるっきり事情がわからにないから。そう言うんだから、そうなんだろうなと。事情のわからなさは、たいていの場合、気持ちがよくて、「お願いだから、そんな事情がわかることばかり言わないで、書かないで」というのが、川柳(ときに俳句)へのお願い。

で、最後になったが(最後になっちゃいけない)、「 ふ 」だ。このわけのわからなさは、別種であります。全角1字アキに挟まれ、浮かんでいるような(「ふ」は「浮」?)、漂うような。

答えは、ないのかもしれないし、あるのかもしれない(あっても、聞きたいような聞きたくないような)。

「ふ」は不思議の「ふ」とでも言わんばかりに(否、ぜんぜんそうでもなく)、わたくしのなかの不思議として、ゆらゆら揺れ続けている。

ドン・ガバチョ氏なら、なんとかしてくれるのか。そういえば、彼には、大人物と詐欺師が合わさったような魅力があったなあ、と、なつかしい気持ちになっている。

掲句は『川柳木馬』第184号(2025年10月)より。

2025年11月5日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #85

西鶴ざんまい #85
 
浅沼璞
 
  蟬に成る虫うごき出し薄衣   打越
野夫振揚げて鍬を持ち替へ  前句
  其道を右が伏見と慟キける    付句(通算67句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏3句目。 雑。 其道=そのみち。 伏見=此里は舟つきにして旅人絶ぬ所也(一目玉鉾・三)。 慟く=どやく(≒どなる)。「どやきけり聞いて里しる八重霞」西鶴(両吟一日千句など)。

【句意】その道を右へ行くと伏見(の近道)だと怒鳴った。

【付け・転じ】前句の虫をみつけた農夫が動作を止めたのを、旅人に道を尋ねられたためと逆付にした。

【自註】旅人はじめての都入(みやこいり)に、野道を行しに、*田夫をまねきて道筋をたづねしに、鍬持ちながら、「右のかたの**溝川越えて、笹原すこし有る所より伏見への近道」と***声をはかりにをしへける****気色に付けよせし句也。
*田夫(でんぶ)=農夫。  **溝川(みぞがは)=小川。  ***声をはかりに=声を張りあげて。  ****気色(けしき)=有様。

【意訳】旅人が初めて京都入りする際に、野中の道を行き、農夫を手招きして道順を尋ねたところ、(農夫は)鍬を持ちながら「右手の小川をこえて、小笹のすこしあるところを行くと、そこから伏見の近道」と声を張りあげて教えた、そんな有様に付け寄せた句である。

【三工程】
(前句)野夫振揚げて鍬を持ち替へ

旅人に都への道尋ねらる   〔見込〕
   ↓
  其道の右の方ぢやと慟キける 〔趣向〕
     ↓
   其道を右が伏見と慟キける  〔句作〕

前句の農夫のストップモーションを旅人に道を問われたためと見なし〔見込〕、〈どのように答えたのか〉と問うて、方角を大声で教えたとし〔趣向〕、「伏見」という具体的な地名を素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】

句末の表記に関し、諸注の異同があるので簡単に考察しておきます。

ふるい『日本古典読本Ⅸ 西鶴』、『譯註 西鶴全集2』では「慟キけり」となっていますが、それより新しい『定本西鶴全集12』、『新編日本古典文学全集61』、『新編西鶴全集5』では「慟キける」となっています。

そこでカラー版影印集『新天理図書館善本叢書33 西鶴自筆本集』に当たり、既出の付句の句末「り」「る」を比較してみました。

大晦日其の暁に成にけり (裏9句目)
  小判拝める時も有けり   (二表8句目)

この二句の句末「り」はほぼ同形で、「慟キけ●」の方は、これらよりやや丸みをおび、
  花夜となる月昼となる  (二裏10句目)

の句末「る」とほぼ同形かと思われます。本稿で「慟キける」とした所以です。


 

2025年10月31日金曜日

●金曜日の川柳〔大山竹二〕樋口由紀子



樋口由紀子





かぶと虫死んだ軽さになっている

大山竹二(おおやま・たけじ)1908~1962

かぶと虫の死骸が道端に転がっていた。死んでから日が経っているのか、干乾びている。腰をかがめて、よく見ると、生きているときのぎらぎら感は抜けて、この世を務め終えた安堵感が漂っている。

生きていくのはしんどいことである。否応なく義務と重荷を背負わされ、肉体的や精神的な負担は半端ではない。「死んだ軽さ」にどきりとする。自分も死ねばかぶと虫のようになれるのだろうか。「やって楽になれたね。もうがんばらなくていいよ」とかぶと虫にささやいているようである。「生き物」から「物」へ、すべてから解放され、吹けば飛ぶように身軽になる。『大山竹二句集』(1964年刊 竹二句集刊行会)所収。

2025年10月24日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕樋口由紀子



樋口由紀子





ゆっくりとひつまぶししてゆきなされ

広瀬ちえみ(ひろせ・ちえみ)1950~

ひらがなのビース玉を糸に通していて、うっかり「ま」と「つ」の順序が前後した。やり直そうかと思ったが、これはこれでまた違った光沢が出たのでそのままにしておく。そんな川柳である。しかし、ビーズ玉のようにはコトはスムーズに運ばない。「ひつまぶし」と「ひまつぶし」は似て非なる、まったくベツモノで、一字違いの大違いで独り立ちしている。

言葉にはどう振り払っても、意味が張り付いている。しかし、伝達、説明、報告だけが役目ではない。川柳は意味をターゲットにする。こだわりながら、揶揄(からか)い、意味そのものを味わい、可笑しさや愉しさにたどり着く。意味は謎であり、この上なく魅惑的である。『雨曜日』(2020年刊 文學の森)所収。