2025年12月19日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子





アフリカの王ならくよくよはしない

樋口由紀子(ひぐち・ゆきこ)1953~

自分で書いておきながら、なんと無責任な川柳だと思う。「王」ともなれば、「民」の域を大きく超えて、重大な責務をかかえ、くよくよすることも多岐にわたっているはずである。若干の皮肉もあるが、「アフリカ」の広大さに、何ごとにもこだわらない大らかさを優先した。

今年は私にとってたいへんな一年だった。くよくよすることがいっぱいあった。人間だから、生きているのだからくよくよするのはあたりまえだが、それにしても人生が一変した。なんとか遣り過すことはできたが、来年はどうなるかは神のみぞ知るである。しかし、なるようにならないのなら、もう開き直って「アフリカの王」にシンパシーを抱くしかない。『容顔』(1999年刊 詩遊社)所収。

2025年12月17日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #87

 

西鶴ざんまい #87
 
浅沼璞
 

  其道を右が伏見と慟キける   打越
   朝食過の櫃川の橋      前句
  老の浪子ないものと立詫て   付句(通算69句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏5句目。  雑。  立詫て(たちわびて)=述懐。
波―川(類船集)。  乞食(コツジキ)―橋の辺(類船集)。

【句意】
「老いの波を受け、(世話になるべき)子どもすらないものを」と悲嘆に暮れて(物乞いをしている)。

【付け・転じ】
前句の旅の朝景色に、老いた乞食の述懐を描出した転じ。

【自註】
世間の「食過(めしすぎ)」を請けて、此の句は袖乞(そでごひ)に仕立てたる付けかたなり。櫃川の*よせに「老の波」と出し、年寄たる者に子ない身の行すゑをなげきし有様を一句に仕立つ。**世の人心、捨てかねたる命ぞつらし。

*よせ=付寄せ。  **世の人心(ひとごゝろ)=遺稿集『西鶴織留』(1694年)の副題。

【意訳】
世の「食事時を過ぎた頃」を受け、この句は(「食」つながりで)乞食に仕立てた付け方である。櫃川(という水辺)の付け寄せに「老の波」と出し、老いて子のない人の、身の行末を嘆いた有様を一句に仕立てた。世間の人の心(を思うに)、死なれぬ命ほどつらいものはない。

【三工程】
(前句)朝食過の櫃川の橋

  袖乞の身の行末を嘆いては  〔見込〕
     ↓
  袖乞の子なく老いしと立詫て  〔趣向〕
     ↓
  老の浪子ないものと立詫て  〔句作〕

朝食過ぎの橋のたもとに乞食の嘆きを見出し〔見込〕、〈どのような悲嘆か〉と問うて、「子もないままに老いて」と物乞いの科白とし〔趣向〕、水辺の付として「浪」の一字を加え、さらに「袖乞」の抜けとした〔句作〕。

〈捨てかねたる命ぞつらし〉は晩年の西鶴的表現かと思うんですが。胸算用にも〈貧にては死なれぬものぞかし〉とありましたよね。

「あるけどな、晩年になってからやないで。一代男でもな、北のサカタいう港のな、夜鷹を描いてな、〈死なれぬ命のつれなくて〉と筆をふるったオボエがあるで」

ちょっと待ってください、一代男、山形の酒田……巻三の六にありますね。ああ、ここだ、〈我が子を母親に抱かせ、姉は妹を先に立て、伯父・姪・伯母の分かちもなく、死なれぬ命のつれなくて、さりとは悲しくあさましき事ども、聞くになほ不憫なる世や〉。
「それそれ、夜鷹の家族を描いたんやで」

なるほど、一代男からのテーマだったんですね。

 

2025年12月12日金曜日

●金曜日の川柳〔松永千秋〕樋口由紀子



樋口由紀子





どうしても容器の口が広すぎる

松永千秋(まつなが・ちあき)1949~

容器の口が狭すぎて、モノが入らないので困ったというのはよくあることだが、ここでは「広すぎる」。容器自体が大きいのではなく、「容器の口が広すぎる」。大は小を兼ねるのはすべてもものに通じない。

すぐの思いつくのは壺や花瓶である。大きな壺のほとんどはその大きさに比例して口も広い。これほど花を活けるのに不都合なことはない。花を多く活けるか、あるいは叉木をしなければ、花は倒れてしまう。「あちらを立てればこちらが立たず」「とかくこの世は住みにくい」。「どうしても」を「どうにかして」、辻褄を合わせるのが、生活していくということだろう。『What's』第9号(2025年刊)収録。

2025年12月5日金曜日

●金曜日の川柳〔中内火星〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



唐突にアグネス・ラムと言われても  中内火星

このところ、というか、以前よりたびたび、人名の入った句を取り上げることが多い。性癖として甘受するべきことで、いまさら慎み深くなることはできないし、必要もないのだろうが、はたと周囲に考えをめぐらせば、俳句世間では、人名を含む句は、たいてい、外道とされ、忌み嫌われ、鼻で笑われ、「ああ、このひとは、こういう句をつくる、こういう人なんだ」という目で見られる。

川柳ではどうなのだろう?

同じであってほしい。おおぜいから歓迎される句なんて、ろくなものじゃないから。だから、この句も、川柳世間で、白い目で見られていることを切に望むわけですが、それよりもまず、というか、それとはべつに、アグネス・ラムを知らない(若い)人が多くなってしまったはず。

私もよくは知らない。いや、若いからではなく、当時、やたら目にした気はするが、彼女の何を知っているのか? と自問してみると、あまり知らない。それでも、アグネス・ラムを詠み込んだ新年の句をつくったことがあるので、まるっきり縁遠いこともない。

興味をもった若い人は、ネット検索してみるといい。ついでに画像検索すると、アグネス・ラムは夏の季語(七五)かと思うにちがいない。

さて、くだらない前置きが長くなったが、掲句。アグネス・ラムの唐突感・唐突性について語るべきなのかもしれないが、それに紙幅を使うこともない。誰かに、どこかで、「アグネス・ラム」と声に出された瞬間を想像してみるだけでいい。ある人は「え?」だけで終わってしまうし、ある人は底なしの虚無を感じるかもしれない。

それでいいと思う。話題が広がり、話が弾むのは、気持ち悪くマスキュリンな世界なので、「は? なにゆってるの?」くらいがいい。

で、川柳も俳句も同じで、「は? なにゆってるの?」としか言えないような句がいいと、私はつねづね思っています。

2025年12月3日水曜日

●西鶴ざんまい 番外篇30 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇30
 
浅沼璞
 
 
今年も押しつまってきましたが、在原業平の生誕1,200年ということで、根津美術館が特別展「伊勢物語――美術が映す王朝の恋とうた」を開催(11/1~12/7)。紅葉狩を兼ね、後期展示に足をはこびました。

中世以前、写本時代の古筆・古絵巻の展示も充実していましたが、愚生の興味はやはり近世以降にありました。


西鶴生誕の少し前、江戸時代の初めに挿絵入「伊勢物語」の版本(嵯峨本)が出版。それまでの写本による「知の専有化」の時代は、版本によって「知の共有化」の時代へと大きく転換したわけです。

結果、嵯峨本「伊勢物語」は多くの庶民に読まれただけではありません。多様な絵画作品の原典ともなったのです。

例えば本展の出品作でいうと、第50段「行く水に数かく」の挿絵が、岩佐又兵衛「鳥の子図」や土佐光起「伊勢物語図」に影響を残しているのがわかります。(絵として圧倒されたのは又兵衛筆でしたが)


むろん西鶴もまた嵯峨本によって「伊勢物語」を享受したに違いなく、あの『好色一代男』(1682年)にさまざまな影響を残しているのは有名ですが、そればかりではありません。浮世草子以前、俳諧においても次の発句が知られています。

  こと問はん阿蘭陀広き都鳥      『三鉄輪』(1678年以前)

いうまでもなく第九段「隅田川」の詠〈名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと〉(古今集)のサンプリングです。

当時、旧派・貞門から阿蘭陀流と揶揄された談林の、その急先鋒として、「広き都の都鳥さんよ、オランダ流の広大さを世間に教えてやってくれ」というような心意気を感じさせます。

さて晩年の『西鶴独吟百韻自註絵巻』にその気概、ありやなしや。