2025年4月2日水曜日

西鶴ざんまい #77 浅沼璞


西鶴ざんまい #77
 
浅沼璞
 
 
吉野帋さくら細工に栬させ   打越
 鹿に連泣きすかす抱守    前句
面影や位牌に残る夜半の月   付句(通算59句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表9句目。 月=ここまでの秋の付合を受け、月の定座(三オ13句目)が四句引き上げられる。 や=ここでは軽い間投助詞として扱う(ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞)。 位牌=無常(死葬に関する詞)。

【句意】亡き人の俤が位牌に浮かぶ(そんな)夜半の月。

【付け・転じ】前句で子どもが泣くのは亡くなった親を慕うためとして無常へ転じた。

【自註】さなきだに秋は物がなしきに、鹿の鳴く音より哀れなるは、世の*無常にぞ有ける。いまだ物のわきまへもなき少年の母に**おくれて、夕々にたづねなげきしに、なきあとの位牌ををしへて、「かゝさまはあれにまします」とおの/\袖の露ひる事なし。
*無常=俳諧では主に死葬をさす。  **おくれ=先立たれ。

【意訳】そうでなくても秋は物悲しい季節なのに、鹿の鳴く声より哀れなのは、人の死にほかならない。いまだ物心のつかない少年の、母に先立たれて、毎夕尋ね泣くのに、仏壇の位牌をさして、「お母さまはあそこにおいでになります」とみんな涙の乾く暇もない。

【三工程】
(前句)鹿に連泣きすかす抱守

少年の母におくるゝ世の無常  〔見込〕
 ↓
かの母の位牌ををしへ袖の露  〔趣向〕
 ↓
面影や位牌に残る夜半の月   〔句作〕

前句「連泣き」の所以を母の死とみて〔見込〕、〈尋ね泣く子に、周囲はどう対応したか〉と問うて、位牌を指さしてみんな涙したとして〔趣向〕、月の定座を引き上げ、具体化した〔句作〕。


鶴翁の年譜をたどると、亡妻の十七回忌の翌春、盲目の一女に先立たれ、その直後に紀州熊野への旅に出、それがキッカケでこの「百韻自註絵巻」が巻かれたってことになりますかね。
 
「そやな、熊野行脚は供養の旅と言ってもえゝし、百韻自註は追善の一巻と言ってもえゝな」
そうすると今回の付合と自註はこの巻のハイライトですね。
 
「なんやその俳諧糸いうんは」
 
いや、最近の横文字でして。

「はゝ、阿蘭陀の文字か横たふ天つ雁、梅翁先師の影響は後世まで続いとるんやな」

2025年3月31日月曜日

●月曜日の一句〔桐山太志〕相子智恵



相子智恵






山焼の匂ふ華厳の闇深し  桐山太志

句集『耳梨』(2023.12 ふらんす堂)所収

序文で師の小川軽舟は〈奈良仏教を代表する華厳宗の総本山が東大寺。ならば山焼は若草山か〉と読む。

もちろん〈華厳〉を、一瞬の中に永遠を含む「一即一切」の世界観で精神的に読んでもいいし、あるいは滝を思ってもよい。どのように読むかは読者に委ねられているのだが、句集名の『耳梨』は大和三山の「耳成山」の古代名であるというところからも、東大寺、若草山焼であると読むと、ひとつ世界が印象的になる。

一句単独ではなく、句集で俳句を読む醍醐味のひとつが、こうした読みができることかもしれない。まさしく「句集の顔」となる一句といえよう。それでいて、分かり過ぎない、漠として掴みがたい。そういうところもまた、美しい。

 

2025年3月21日金曜日

●金曜日の川柳〔水本石華〕樋口由紀子



樋口由紀子





今年から喉につかえぬ餅を売る

水本石華(みずもと・せっか)1949~

正月には雑煮の餅を喉につめるニュースが流れる。他人事とはもう言えなくなってしまった。「喉につかえぬ餅」はどんなものなのだろうか。

「今年から」と、本人にとっての一大決意表明みたいだ。いままでは自分の美学やこだわりで、他意はなかったが、どうも「喉につかえる餅」を売っていた。そのために立ち止まってしまい、ひっかかり、寄り道ばかりして、先に進めなくなって、コトがスムーズに運ばないことも多々あった。

独自の比喩を駆使して、気張って言うほどのものでもないことを自在な言葉運びで表現の形におさめ、おもしろさを醸し出している。思ってもいなかった方向からボールが飛んできたような、柔軟な考え方の一句である。「晴」(8号 2025年刊)収録。

2025年3月19日水曜日

西鶴ざんまい #76 浅沼璞


西鶴ざんまい #76
 
浅沼璞
 
 
 願ひに秋の氷取り行く    打越
吉野帋さくら細工に栬させ   前句
 鹿に連泣きすかす抱守    付句(通算58句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表8句目。 鹿=秋。 連泣き(つれなき)=ともに鳴く(泣く)謂。 すかす=宥めすかす。機嫌をとる。 抱守(だきもり)=子守をする抱き乳母。乳を与える乳乳母と区別。

【句意】鹿につられて泣く(乳児を)宥めすかす抱き乳母。

【付け・転じ】前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て、それで乳児をあやす抱き乳母を付けた。

【自註】「*紅葉に鹿」は正風の付合ながら、栬(もみぢ)に**付寄せのうとき物を付るよりは、是(これ)いつとてもよし。「花に蝶」「水に蛙」、***付よせ物也。前句の「作り花」を子どものもてあそびに付なし、「鹿とつれ泣き」と句作り、機嫌直しの花、紅葉にいたせし、抱き乳母が****才覚心なり。
*紅葉に鹿=〈付かたは梅に鶯、紅葉に鹿〉(本作・序)。  **付寄せのうとき物=縁語に寄らない付合。このへんの二律背反については今榮蔵氏の指摘あり(後述)。 ***付よせ物=付物と略す場合あり。 ****才覚心(さいかくしん)=9句目の自註に〈母親の才覚〉という用例あり。

【意訳】「紅葉に鹿」は連歌以来の伝統的な付合であって、わざわざ紅葉に縁の薄い言葉を付けるより、これは何時でもよく付く。「花に蝶」「水に蛙」、これらも縁語である。前句の「作り花」を子どもの玩具として見込み、「鹿とつれ泣き」と句作りし、機嫌直しの「作り花」を紅葉させたのは、抱き乳母の知恵・才覚である。

【三工程】
(前句)吉野帋さくら細工に栬させ

子どもらのもてあそびにぞよし 〔見込〕
 ↓
才覚心を見する抱き乳母    〔趣向〕
 ↓
鹿に連泣きすかす抱守     〔句作〕

前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て〔見込〕、〈誰の才覚か〉と問うて、抱き乳母の知恵・才覚と見なし〔趣向〕、「紅葉に鹿」の伝統的な縁語によって具体化した〔句作〕。


今榮蔵さんの*研究によると、この『百韻自註絵巻』の四割が詞付けによる親句で、残り六割が元禄疎句体らしいです。
 
「そりゃ塩梅よう巻けとるいうことやろ」
 
でも今さん、けっこう辛口で、旧派の大物として親句に固執した面と、現俳壇の宗匠として新しい疎句体に妥協した面と、晩年の鶴翁は二律背反をおかしていた、って。
 
「ずいぶん意地のわるい見かたやな。元禄の新しい句作りを得たから『世間胸算用』が書けたんやで」
 
なるほど。『胸算用』は縁語の少ない新しい文体で書かれているってのが通説ですけど、それって俳風ともつながってたんですね。
 
「おなじ人間が創ってるんやから当たり前の話や。それを俳諧では〈妥協〉いうて難じるんは御門違いも甚だしいわ」
 
*『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院(2002年)

2025年3月14日金曜日

●金曜日の川柳〔小野五郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





老人が持ち歩いている紙の束

小野五郎

「紙の束」はなにか。札束かもしれない。ただのゴミの、無駄な紙屑かもしれない。老人が懐に札束を入れて徘徊している姿、あるいは町中のゴミを集め回っている姿を想像した。誰もが等しく「老人」になる。「老人」の確かな存在感を伴って、鈍角に描写している。「持ち歩いている」に心の裡が見えて、哀しさと切なさが倍増する。

豊かな消費社会への警告だろう。消費社会であるがゆえの喪失感が際立つ。この姿は私たち自身である。この句の底には根源的寂しさがある。言葉の意味を立ち上げながら、リアリティのある景を想像させ、川柳に仕上げている。「おかじょうき」(2025年刊)収録。