2026年4月22日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #94

 

西鶴ざんまい #94
 
浅沼璞
 

  詩人時節の露を哀み    打越
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  前句
  山吹しぼむ岸の毒水    付句(通算76句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏12句目。  春(山吹)。  毒水(どくすい)=有毒の水。

【句意】
山吹をしぼませる、岸の有毒な水。

【付け・転じ】
猿の声を聞いて身を断つ詩人の伝統的哀感から、猿そのものが身を断つ状況へと転じた。

【自註】
湖の入江の流れを*毒鳥・毒魚のわたりて後、諸/\の**鱗も爰にすみかね、***うき波に沈めり。猿も子猿をつれて、不断、此の流れに口をそゝぎしに、毒水と成り、岸の草木までも枯れはつるを見てなげく有り様にしての付かた。

*毒鳥=〈異形異色の者、皆毒有り。恐らくは之を食ふ可からざるなり〉(『和漢三才図絵』44山禽類「諸鳥毒有る物」)。  **鱗(うろくづ)=魚類。いろくづ。  ***うき波=憂き波。

【意訳】
湖にそそぐ入江の流れを有毒の鳥や魚が渡った後は、諸々の魚類もここに生息できなくなり、汚染水に沈んでしまった。猿も子猿をつれて、いつもこの流れを口にしてきたが、有毒な水となり、岸の草木までも枯れはて、それを見て(猿も)なげく状況を想定した付け方(=元禄疎句体)である。

【三工程】
(前句)此の夕孤猿身を断つ峯の花

  口をそゝぐに憂き波となり 〔見込〕
     ↓
  毒魚わたれる入江の流れ  〔趣向〕
     ↓
  山吹しぼむ岸の毒水    〔句作〕

前句を猿自身がなげくほどの飲料水の汚染状況であるととらえ返し〔見込〕、〈なにが原因か〉と問うて、毒魚によるものとし〔趣向〕、結果として山吹まで枯れたことを素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『訳注西鶴全集2』では、前句の句意を〈一匹の猿がその身を断つが如き悲痛な聲で叫んでゐる〉とし、もともと身を断つのは猿自身であると解している。

しかし前回参照した〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉の芭蕉句のように、猿を聞く詩人の側が「猿の声に対して断腸の思いを詠んだ」という伝統がすでにあったことは明らかである(角川文庫版『芭蕉全句集』など)。

よって冒頭の「三句の渡り」における、打越の「詩人」を受けた前句にも同様の伝統がはたらいていたとみるのが自然だろう。『新編日本古典文学全集61』でも、前句は〈聞く人に断腸の思いをさせる、の意〉であり、付句は〈前句の「身を断」つ主体を、聞き手側でなく、猿自身とした付け〉としている。つまり「主体の転じ=三句の転じ」と解しているのである。

 

2026年4月17日金曜日

●金曜日の川柳〔北川絢一郎〕湊圭伍



湊圭伍





どの糸からもマリオネットは血を貰う  北川絢一郎

操り人形が活き活きと動いているとして、その活力は人形をぶら下げた糸を通じて操っている人物から来ている、というのは当たり前である。ただその活力を「血」と表現し、「血を貰う」として人形とそれを操るものの関係を示すと、急に状況が不穏に見えてくる。「どの糸からも」に示された人形の貪欲さも、この句の怖さを増幅している。

人形は生を持たないモノであり、操るひとは意志を持つ生き物である。この割り切りは分かりやすい。また、人形とそれを見事に操るひとは芸として一体で、共に私たちの視線に向けて生きてある。これも心地よい把握だ。ただ「マリオネット(操り人形)」が動くのを見るとき、上に張り詰めたり緩んだりして垂れている糸、人形に集中しているときは背景にぼんやりとしている操る人の影が見えている。この背後の影や、糸の捉えがたい動きが、私たちの無意識に働きかけている。

「マリオネットは血を貰」っているとしたら、その「血」は操り手のみから来ているものだろうか。人形に流れてゆく血はただその動きのみにきれいに置き換わるものだろうか。また、血を際限なく要求する「マリオネット」を、私たちは操り人形芸という気味の悪さはあるがあくまで優しい演芸以外にもあちこちで見る気がするのだが、どうだろうか。

北川絢一郎『泰山木』(私家版、1995年)より。

2026年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕まつりぺきん



まつりぺきん





マヨネーズ1本分の陽気です  藤井智史

さて、どうとらえましょうか。

マヨネーズ1本まるごと一気に使おうとするとなかなか難しいものですが、一生に使えるマヨネーズがたった1本とすれば、慎重にならざるをえません。

また、陽気も「春の陽気」のような気候・時候なら、限られた、貴重なあたたかさにも感じられますが、陰気に対する陽気のように性格を言い表すなら、それはそれで心中お察しいたしますという気分にもなります。

後者で読めば、場に水を差さないようにと、無理して陽気に振る舞っているようでなかなか辛いものがありますが、こう詠まれるとコミカルに感じられます。

「マヨネーズ1本分」というサイズ感で表すのが、絶妙ですよね(笑)

『十三月の追い風』(2024)より。

2026年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕湊圭伍



湊圭伍





春の夜の不思議なものに家族の眼  細川不凍

家族のまなざしはそのまま日常の関係だ。お互いによく知っていると思っているから、見ているつもりでも実はぜんぜん見ておらず、すでに観念になっていて、だからこそ、家族として平穏に暮らせているのかもしれない。

掲句では、「春の夜」という漠とした設定によって、一家は少しだけこうした関係から遊離し、即物的な「家族の眼」がすぐそこに浮かんでいる。それは同時に、語り手自身の身体がとりあえずは安定した日常的あり様からごろんと投げ出される体験であろうか。「不思議」とは元は仏教用語で、「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」という意味だそうだ(コトバンク)。家族の視線という日常が即「不思議」であるという体験が、この句の内容と言えるだろう。

というような読みをした上でこの句の読み味の核は何かと考え直すとそれは、唐突でかつ日常にはとり立てて影響もなく忘れられるだろうこの認識が、身体を欠いてぽかりと浮かぶ言葉として実現されている事態への驚きである。「不思議なもの」は実は珍しくもないのだろうが、私たちが剥き出しのそれに触れるのは稀である。『細川不凍集』邑書林、2005年。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。