2025年8月29日金曜日

●金曜日の川柳〔岸本水府〕樋口由紀子



樋口由紀子





還暦はよし友達が二千人

岸本水府(きしもと・すいふ)1892~1965

まどみちおの「いちねんせいになったら いちねんせいになったら、ともだちひゃくにんできるかな」を思い出す。「還暦」は干支が一巡し、赤ちゃんに還ると言われ、ここまで無事に生きられたと年祝いする。

現在よりも寿命が短く、還暦は老いの入り口だった時代に「還暦はよし」とはなかなか言いづらい。現実の諸々を素通りし、肩の力をすとんと抜いて、巧みに切り替える。「二千人」のオーバーな表現も功を奏し、突っ込みどころも用意しているポジティブ感が半端ではない。この余裕、この軽みが水府の持ち味で、一句を生き生きとさせる。一年生からどんどん増えて二千人になった。

2025年8月22日金曜日

●金曜日の川柳〔奥村丹路〕樋口由紀子



樋口由紀子





そもそもの噓の初めのゴム乳豆

奥村丹路

「ゴム乳豆」とはおしゃぶりのことである。赤ちゃんが泣きやまないときに、それを与えるとホンモノの乳首と間違えて、あっという間に、ぴたりと泣き止む。摩訶不思議と私も子育てのときにたいへん重宝させてもらった。あれがなければ、睡眠不足で育児ノイローゼになっていたかもしれない。我が子に最初に噓というものを教えたのは私だったのだ。噓は身体から覚えていく。

「ザ、川柳」だなと思う。川柳とはなにかとわからなくなるときに、伝統川柳を読む。「そもそも」「噓の初め」「ゴム乳豆」、それぞれ別種の、役割の違う言葉を無駄なく、抑揚をつけながら平面的に並べて、簡素に言い切る。それでいて、人間観察が優れ、まさしく人生を言い当てている。

2025年8月13日水曜日

西鶴ざんまい #82 浅沼璞


西鶴ざんまい #82
 
浅沼璞
 
 
 下馬より奥は玉の摺石    打越
初祖達广問へど答へぬ座禅堂  前句
 今胸の花ひらく唐蓮     付句(通算64句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表14句目。 折端。 夏=唐蓮(たうばす)。達磨大師が天竺から中国へ将来、それを慈覚大師が日本に持ち帰り、達磨寺に移植したという(定本全集)。

【句意】いま胸の花が(悟りを得て)開く、唐蓮の形のように。

【付け・転じ】前句の達磨大師の座像から、唐蓮が開くような悟りの形へと転じた。

【自註】「蓮」は釈教の付けよせに出し、「胸」の一字はさとりをひらけし句作りにいたせし。かやうの前句の時に、物がたき*句むすびにつかうまつれば、俳諧、次第につまりて、**古流の付けかたに成りければ、一句捨てて、さらりと***行きかたにて付けのべ侍る。
*句むすび=句の付け方。 **古流の=元禄疎句体以前の。 ***行きかた=遣句的な付け方。

【意訳】「蓮」は釈教の付合語として出し、「胸」の一字によって悟りを開いた(形を表すための)句作りに致しました。このような(厳格な)前句の時に、(詞付けばかりの)固い付け方をし申上げれば、俳諧は次第につまって、元禄以前の親句の付け方になってしまうので、一句言い捨ての、さらりとした遣句風に付けのべました。

【三工程】
(前句)初祖達广問へど答へぬ座禅堂

 大和の国に蓮のひらける 〔見込〕
   ↓
 大和の国にひらく唐蓮  〔趣向〕
     ↓
 今胸の花ひらく唐蓮   〔句作〕

前句・釈教の付合語として「蓮」を出し〔見込〕、〈どのような蓮か〉と問うて、慈覚大師が中国から持ち帰って達磨寺に移植した「唐蓮」とし〔趣向〕、「胸」の一字で悟りの開花を表した〔句作〕。
 
 
胸の花がひらくなんて、鶴翁にしてはメルヘンチックですね。
 
「なんや、また横文字かいな」
 
メルヘン、いや乙女チックというか、おとぎ話、つまり御伽草子というか。
 
「? これはな類船集にも載っとるけどな、胸や肺の臓器の形なんやで、蓮華は」
 
なるほど、もっと即物的なんですね。
 
「また人を俗物扱いしよって」
 
いや俗物ではなくて即物、つまりフィジカル、いやリアリズム、要は写実でして……。
 
「……」
 

2025年8月8日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井かがり〕樋口由紀子



樋口由紀子





本日はおひがらもよくキリン柄

酒井かがり(さかい・かがり)1958~

大阪のおばちゃんはアニマルプリントの服が好きで、亡母のクローゼットを整理していたら、アニマルプリントの服ばかりで、ここは動物園か、と弟が叫んだとどこかで読んだことがある。作者のクローゼットにもいろいろな動物が出番を待っているのかもしれない。

目覚めたら、なぜだか「本日はおひがらもよく」の気分だった。だから、キリン柄の服を着ようと何の理由も根拠もなく、直観的にそう思った。なぜ、キリン柄なのか。キリンのしおらしい顔や躍動感に意味や理由を後付けすることはできそうだが、どうもそうではなさそうである。なんとなくのワクワク感とキリン柄が自分のなかでマッチした。「おひがら(日柄)」と「キリン柄」の「柄」繋がりも気に入った。ただそれだけのことを書いているのに独自の空気感を出している。

2025年8月1日金曜日

●金曜日の川柳〔立花末美〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ことごとく傘の下にはひとがいる  立花末美

開いた傘の下には、すべて(基本的には)一人ずつ人間がいる。これはごく当たり前の事実。当たり前すぎて、考えたこともなかったが、考えたこともなかったことを、こうはっきり示されると、軽く驚くとともに、なんだか不安になってくる。不穏なはずのない景色が、がぜん不穏になってくる。

傘の下の人間は(基本的には)沈黙し、雨音しか聞こえないので、よけいに、不穏・不安になってくる。

掲句は『川柳木馬』第183号(2025年7月)より。