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2018年3月4日日曜日

〔週末俳句〕写真 近恵

〔週末俳句〕
写真

近恵


カメラ付きの携帯電話を持つようになってから、そっちこっちで写真を撮るようになりました。それまで私はカメラを持っていませんでした。必要なときには使い捨てのカメラを買って、でも結局現像に出し忘れたままだったりとかして。デジカメも持っていません。でもSNSに投稿するようになり、スマホに替えたら更に写真を撮る量が増えました。インスタ映えする写真を撮りたいという訳でもなく、まあ自分の記録の為にというところでしょうか。スマホのカメラの性能の素晴らしい事。もうデジカメとか買う必要もなくなりました。まあもっとも、立派な一眼レフのデジカメが以前懸賞で当たり、一台は家にカメラがあるのですが、使い方がよく解らず、しかも重たい。なので結局その一眼レフを持って出かけることはありません。


桜や梅など、いくら撮っても毎年変わり映えする訳ではないのに、なぜか毎年撮ってしまう。散歩の時も旅行の時も、とにかく目に付いて気になったら直ぐに撮る。なんでもかんでも。だから吟行の時も俳句を考えるより、面白いものや気になるものを見つけては写真を撮っている方が多い。俳句は後で席についてから短冊を目の前にすればなんとか出来るもんです。いや、私の場合ですが。記念写真や人物の写真はとても少なく、殆どが景色や物です。また、食べ物の写真も少ない。いつか使えそうだと思う食べ物の時しか運ばれてきた食事を写真には撮りません。食事はまず食べることが先なのです。

写真は俳句を作る時には時々役にたったりします。写真に写っている物で俳句を作るよりも、その時の気分を思い出してそこから俳句になる言葉を探していくので、被写体よりも被写体を見ていた自分の気持ちを思い出したくて写真を撮っているのかもしれません。だから腕も一向に上がりませんが、別にかまわない。写真家を目指しているわけでもないですし。


最近撮った写真で気に入っているのはこの写真。日曜日の作りかけの道路。そしてこの写真を見ているうちになぜか思い出した一句。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

梅を見に行った後に通った場所で出会った景色だったからかもしれません。亡くなったばかりだからかもしれません。人の頭の中は不思議です。写真を見ているうちに、その写真とは全然関係ないことを思い出したりしてしまうのです。

2016年12月1日木曜日

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】今年もあちらこちらで 近恵

【週俳500号余韻余滴:私の自薦記事】
今年もあちらこちらで

近 恵


私の俳句の歴史は週刊俳句準備号より2ヶ月ほど早い2007年2月から始まった。だから週刊俳句が何周年とか言ってくれると「ああ、私も何年目に突入したのね」と解りやすくてよろしい。

ま、そんな事とは全く関係ない自選記事。

初めての文章は2008年3月の第45号で「2月の週俳を読む」を書いている。俳句を始めてほぼ1年しかやっていない、どこの馬の骨かわからないような私によくぞ振ってくれましたという感じだが、週刊俳句も最初の頃は近場の人を頼って書き手を募っていたわけで、まあこれはラッキーなデビューだというべきか。

そもそも論文は読んだことも書いたこともなく、鑑賞ならまだなんとかなるけれど、俳句の知識も乏しいので批評もできない。かと言って何かほかに精通していることもない。けれども俗なことなら書けそう。総合俳句誌は真面目な記事ばっかりで、せいぜい年賀状に添えたい一句なんて特集くらいしかなかったから、ここは思い切って週刊誌的な見出しで書いてみようと思ったのである。それが2008年12月21日第87号の記事「クリスマスは俳句でキメる!」だった。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/blog-post_21.html

この記事を書くにあたり、句会でも協力をしていただいた。そこには現在若手俳人の中核として活躍中の週俳スタッフ、当時はまだ大学生で紅顔の美少年のようだった生駒大祐さんや今年句集『天使の涎』で田中裕明賞を受賞した北大路翼さん、第3回芝不器男俳句新人賞にて対馬康子奨励賞受賞を受賞した中村安伸さん、また翌年2009年12月に邑書林から発行された『新撰21』には北大路翼さん、中村安伸さん、谷雄介さんが入集されるなど、その後活躍を見せることとなる結構な顔ぶれが集ってくれていた。そしてアップされた記事は「業界初・袋綴じ」という、週刊俳句でも後にも先にもない異例の処置がなされた記事となった。

で、今年もあちらこちらでクリスマスイルミネーションの輝く季節がやってきたのです。
最近はテレビ番組を見て俳句を始める若い人も増えてきたらしいし、ちょうど良いタイミングではないかと思いこの記事を引っ張り出してきたという次第。

最期に余談だが、当時この記事を読んで実際に彼女に試してみたという強者がいた。目的を果たせたかという点から言えば結果は玉砕だったらしい(要するに他のスキルが足りていなかったということか)が、現在はその彼女と結婚して一児の父である。よかったよかった。



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2013年4月30日火曜日

●「石田郷子ライン」についてのメモ 近恵

「石田郷子ライン」についてのメモ

近 恵

≫上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?


んと、バブル期を謳歌し、かつその崩壊を目の当たりにし、お金で買えるしあわせから、お金では手に入らない精神的しあわせを望む方向に意識を転換せざるを得なかった世代か。

精神的しあわせの延長線上に、自然回帰願望、バブルの延長線上に生活感のなさがきている可能性は?

「お金=不浄のもの、人を狂わすもの」から、反動でお金に換算できない「自然っぽい」ものへ、「清浄っぽい」ものへ。

あるいは「自分探しの旅」をする人が増えてきた時期とは重ならないか。こうありたい自分、こうあるべき自分を何かで表現したいとか、実現したいとかという無意識の欲求。実際にバックパッカーとして自分を探す旅には出ないけれども、表現方法として俳句を得ているので、そこにそれが現れる。

季語にある自然を詠もうとするとき、実際に自然と対峙して生きている生活者とは違う、理想の自然を詠みあげる。それは「ありたい自分、あるべき自分」を実現するための表現として俳句が機能しているからで、当然土俗的だったりはしない。
小川軽舟さんが「彼女たち」の「代表」として石田郷子を挙げ、その俳句の特質を「素地のまま」「俳句形式だけを手がかりに」「世界を受容し、また世界から受容されながら」と評したこと。

"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります。
上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?〔後編〕
「彼女たち」というくらいだから、圧倒的に女性が多い。小川軽舟氏の評は、生命を宿し生むことのできる女性の特性そのもの。女性は多少人間の存在意義に悩みかけることがあっても深追いしない。なぜなら既に大きな役割を得ているから、そこで自身の根本的な存在意義に深く悩む必要がないのだ。ゆえに世界をありのままに受け入れ、逞しく生み、育てる。ただし全女性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

一方男性は種蒔きをするだけで他に役割がない。だから人間(自身)の存在意義を深く考えたりする。哲学者が男性ばかりなのはそのあたりが根源だろう。結果、他人と差別化を図り、競争し、自分の城を築こうとする。当然俳句においても「文学的自我」や「作家意識」が強くなる。あるいは「組織」で「天辺に行こうとする」とか。ただしこちらも全男性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

まあこのあたりの女性ならではの特性と、バブル崩壊により転換した価値観と、「こうありたい自分」の表面化が、より美しい自然が好きで、どろどろとせずに、深くこだわらずにライトで、感じも良くて……となるような言葉で実現されている俳句が「石田郷子ライン」的なものなのかなあ。

2012年1月17日火曜日

●書初 近恵

書初

近 恵


月島で書道教室。今年の書初。…ってことは、正月からこっち、正確には前回のお稽古から筆を握っていなかったということだね。

前日に買った20枚で150円の半紙は、やっぱり島忠の100枚で200円くらいの半紙に比べて書きやすい。紙が違うと筆の滑り方が全然違う。

そういや書道教室は小一からの6年間は週に3回、中学校の時は月に1度くらいだけどとりあえず3年間通った。小学校を卒業するとき先生がお祝いに仮名用の筆をくださって、中学生になってからは行書の仮名もお稽古した覚えがある。それまでは普通の筆で楷書をかいていたから、仮名は難しかった。文字も小さいし、バランスも取りにくい。小筆で書く自分の名前もなかなか上手く書けなかった。画数が多かったしなあ。

そう思えば、子供の頃に9年も筆を持っていた訳だから、ある程度は筆を体が覚えていたということもあるんだろう。スケートやスキーと同じだな。体で覚えたことは随分久しぶりでも出来る。体力的なことは別にして。

で、まあ書初めは漢字10文字くらい書いて、そこから好きな文字を4文字選んで清書した。流れるような躍るような書体だった。比較的太い線を書きがちなので、今回は少し力の抜けた細い線にチャレンジだ。

そんでもって、宿題を出されたよ。今回はやろう。宿題。

  冬の月文字にならない声で泣く  恵

2012年1月11日水曜日

●新年詠に見る《近恵》の変遷 近恵

新年詠に見る《近恵》の変遷

近 恵


週刊俳句に出した新年詠を年代順に、自虐的妄想で鑑賞しつつ、年を追うごとに作者がどのように変遷してゆくのかを読み解く。これは自句自解ではなく妄想を駆使した自句鑑賞であります。


獅子舞のビルの隙間に獅子を脱ぎ (2008年1月

俳句を始めて1年足らず。まだ初々しさが残る。街角スナップ俳句か。

作者はまだ初々しい目でいろんな事や物を観察しようとしている。メモ帳を片手に新年のネタを探して町をうろついている様子が伺われる。ビルの隙間の獅子を目 に留めたくらいだから、獲物を追う目はまだ確か。この後喫茶店に入り、珈琲でも飲みながらこの句を記憶が新鮮なうちに仕立てたりしたのでありましょう。


初富士や丈の短き体操着 (2009年1月

あれから1年、なにか少し怠惰な生活になってきた様子が伺われる。

元日の朝に家のベランダかどこかからみえた初富士を拝んだ、そのときの部屋着か寝巻き代わりかのジャージの袖が丈が短かったのである。ジャージの丈が詰まる とは、どれほど洗濯を繰り返したジャージだというのか。あるいはジャージのズボンの裾かも知れない。臙脂色で脇に二本線が入っていて、足の裏に引っ掛ける ゴムが付いていたりして、そんでそれがつんつるてんで脛が少し見えている。正月だというのになんとも寒々しい光景。そんな格好で新年を寿ぎ、日本人の心で もある初富士という目出度さをぶつけたことで、なんともおめでたい作者の姿が見えてきます。


簡単に済ませし御慶御神酒樽 (2010年1月

あれから更に1年。御神酒に並々ならぬ関心を寄せ始める。

御神酒樽ということは神社。初詣に行ったら知人にでも会ったのであろう。お参りも既に済んでいて、さて次は御神酒をいただきに向かおうかとしたところ、ばっ たりと出くわす知人。こちとら心はもう御神酒に向かっているというのになんというタイミングの悪さ。簡単に御慶を済ませて、じゃあまたねと御神酒をいただ きに向かいたいというのに、知人はどうでもいいような共通の知人の噂話を始めたりして。視界の隅にはちらちらと御神酒樽。もういっそのこと「よいお年を」 などと新年だというのに年の暮れまで会わなくてもいいです的な勢いで挨拶を切り上げてしまいたい。。。知人の噂話よりも御神酒をいただく方が大切なので す。


光るもの転がつてゐる御慶かな (2011年1月

更に経つこと1年。元日の日の光がまぶしいの的正月休み。

元日に起きだしたらもうお昼近く。ちょっと頭が痛い。初日の出を見つつ初詣に出かけ、御神酒をいただいた後に神社の屋台で引っ掛けた日本酒がまだ残っている のか。それとも年末にひいた風邪のせいか。年賀状が来てはいないかと集合ポストまで降りて行くと、隣近所の人がお参りを済ませたのか破魔矢なんぞを持っ て。あけましておめでとうございます、と軽く会釈をするとなにやら目に痛い光。そんでもってクラクラ。2時間くらい寝てもお酒は抜けません。さっきのなに やら光るものが転がっていると思ったのは、500円玉ではなく、タイヤでつぶれた瓶ビールの王冠。


初御空へと酒臭き息を吐く (2012年1月

5年もたつと初々しさのかけらもなく。

そろそろ二年参りの人達も引いたんじゃないかという頃合を見計らって暗いうちに初詣に。ピークの第一波が過ぎ、屋台の兄さんたちにもどっぷりとした疲れが見 えている。がたつく椅子に座り、樽酒、熱燗、それからウーロンハイなどを呑み始める。兄さん達と話が弾み、サービスだよと焼酎をたくさん入れてくれた。 こっちもご祝儀代わりにお釣は珈琲でものんどくれと500円のところ千円札を渡したりして。熨斗烏賊のおまけでもらった烏賊の足を出し、ちょいとストーブ で炙り、兄さんにもおすそ分け。もちろんおでんや煮込みも頼んでいる。調子よくやっていたら東の空が明るくなってきて、鎮守の杜の隙間から初日の光が。今 年1年いい年でありますように、などと酔った頭で思いつつ帰路に着く。ふらふらと歩いていると、風が気持ちいい。思わず空を見上げて深呼吸。。。ああ、自 分ではよくわかりませんが、まちがいなく今吐いた息は酒臭いです。。。


この調子だと来年の新年詠では、酔っ払って31日のうちに御慶を言い出すとか、大きな龍が神社からやってきて一斗樽を置いていってくれたなどと幻覚めいたことを言い始めるとか、そんな心配をせずにはいられません。

2011年11月9日水曜日

●「豆の木」合宿記 2/2 近恵

「豆の木」合宿記 2/2

近 恵

※同人「豆の木」の合宿(10月末)の様子を
近恵さんにレポートしていただきました。



部屋の窓からは海じゃなくて山が見える。新幹線の熱海駅も見える。だから朝から新幹線の始発なんかも見えた。ちょっと曇っている。

こしの組長の部屋からは海から昇る朝日が見えたらしい。

昨晩3時までネットラジヲに勝手に出演し、寝たのがおよそ3時半ちょっと前。

眠い。けど6時過ぎになんとか起き出す。金曜の夜も3時間くらいしか寝てないから眠い。
ぼーっとしつつ顔を洗い化粧をし、7時の朝食へ。

ちゃんと食べる。米は少なめ。鯵のぺらぺらの干物と納豆、味噌汁、生野菜など。牛乳を飲む。9時に出句。部屋に戻って考える。

同室のぽぽにゃんと、ちょっとした家庭のことなんかも話す。


集合し、句会。朝一はやっぱり頭が冴えない。どうにもつまらない句ばっかり。

それから海にいっておさかなフェスティバルというのに行ってみる。七厘で色々と焼いて食べられるらしいが、なにせまだお腹が減っていないので諦める。

ぶらぶらと露店を物色していたら、田島氏を囲んでなにやら交渉中。講談社版のカラー図版日本大歳時記が、新年の欠けた4冊で1000円!と、こしの組長の押しでもって露店のおじさんが粘り負け。おおー、ええ買物しましたなあ。

その露店は他にも分厚い画集やなんかが積んであって、かなり興味があったのだけれど、なにしろ分厚くて大きな画集なんか持って歩くのは大変なので買うのはやめた。

秘宝館のあたりをとおり、海沿いにずーっと歩く。ええーと、スコットという有名な老舗の洋食屋さんで昼食を食べるのだ。

天気は悪くない。程よく晴れていないので、汗ばむほどでもない。海で晩秋だというのにちっとも寒くない。オイラの実家の方のこの季節の海とは大違い。さすが熱海。

洋食屋さんへは開店の五分くらい前に着いたが、入れてもらえず店の前に並ぶ。すぐ傍にその店の本店があり、開店時間が30分遅いそうなのだが、そこには行列が出来始めている。私たちはこじんまりとした旧館の方に入るのだ。

店の中は古いけれども清潔にしてあって、テーブルクロスも刺繍をしたものにビニールが重なっている。お料理は美味しかった。ビーフシチュー、ミートコロッケ、牡蠣フライ、チキンステーキ、えーっと貝の入れ物に入ったチキングラタン。どれもちゃんと美味しい。

幸せな気分で店を出て、宿に戻り荷物を持ってバス乗り場のホテルに移動。

途中、試食品につかまるご婦人方多数。

ホテルについて、少し時間があったからぶらっと散歩に出る。ちょっと行くと川沿いに遊歩道が海の近くまで続いている。両脇にはスナックやら小料理屋やら、小さな店が軒を連ねる小路がいくつか。ああ、昔の繁華街なんだ。

泊まったホテルは駅の近くだったけど、昔は海に近い方がメインの温泉街だったのだなというのがよくわかる。昼の2時前だというのに、カラオケスナックみたいなところから歌が聞こえてきたりして。なんとも香ばしい感じ。

雨がぱらついてきた。ほどなくバスが到着し、一行は上野へ向かう。
…眠くて起きていられない。席題が出ているのだが、まったく考えられない。

小田原で鈴廣の巨大なかまぼこの館が風祭の駅から直通でいけるようなのが出来ていた。いつの間に。

いやあ、館内練物三昧。あれもこれも欲しくなる。これはまた来たい!素敵なところだ。

うとうとしつつ、俳句を作り、上野のカラオケボックスに入って最後の句会。

それから数曲歌って解散。

か、体を休めねば…。とか思いつつ、実は家に帰ったら、友人から大量の海産物が、ダンナの実家から大量の野菜が届いているのである。だからお土産は鈴廣の竹輪が一本だけ。

とりあえず疲れは残ってしまったけれど、合宿は楽しかった。

もう3時間とか2時間の睡眠ではもたないのだ。老化ちう現実…。

ま、いっか。もう47歳だもんね。20代のときと同じ様に遊ぼうと思ったって、そんなふうにはできないよね。お肌にも良くないし。

あ、でも温泉につかったので、とりあえずお肌はすべっとしていたのでありました。

2日目は30句。2日間で80句ばかり作ったけれど、目標の100句にはとどかなんだ。そりゃーあんなに眠くっちゃあしょうがないよね。

でも楽しかったし美味しかったからヨシ!とするのであります。

( 了 )

2011年11月8日火曜日

●「豆の木」合宿記 1/2 近恵

「豆の木」合宿記 1/2

近 恵

※同人「豆の木」の合宿(10月末)の様子を
近恵さんにレポートしていただきます。


総勢10名。はるばるNYから参加のぽぽにゃんもいる。お菓子係のイチローさんも初参加。

今年も集合場所をきちっと確認せずに行ってしまうが、駅で組長とうさぴょんに遭遇したので難なく集合場所にたどり着く。そうか、駅前集合じゃなかったんだ。どうりで誰もいないと思ったよ。

ことしはおおるりじゃなく伊東園グループ。バスが広々としてるよー。

豆の木賞の選評を読みつつバスは進む。ベイブリッジを渡り、川崎の工業地帯を通り、結構スムーズに行く。今年も矢羽野鬼軍曹が采配をふるい、ほどなく題詠スタート。基本とにかく駄句しかできないので、だばだばと作る。詠み捨てて詠み捨てて詠み捨てていく…とかいってきっちり短冊に書いて出句してるわけだが。それでもスタートしたばかりのは、自分で読んでもダメダメすぎる。

11時にドライブインで1時間の休憩。そう、高速道路じゃないからPAじゃないのねん。バスが止まったドライブインと道路を挟んで向かい側の海鮮料理屋へ入る。海が目の前にどばばーんと広がる座敷で、今朝捌いたばっかりなのでお勧めですという戻り鰹のたたき定食を食べる。おおおおー、この鰹は美味い!大きい鰹だったらしい。もう今回の旅はこれでいいや…とか思うほど。これには舌の肥えた朝様も満足の様子。カメラマンのヨン様はここで一発目の集合写真を撮る。

バスはだいたい予定通り熱海へ到着。熱海館ちうホテルのロビーのラウンジで清記する。ええーとA3で3枚。5時15分の夕食まで近所を酒屋探しがてら散歩。戻ってきて作句して食事。

食事はバイキングにもかかわらずビールも飲み放題。参加が叶わなかった今年の豆の木賞受賞者の宮本佳世乃ちゃんへカンパイを捧げつつ、などどいってもカニの足が出てきたとたんに目の色を変えてカニに突進するこしの組長。カニさえ与えておけばあとはどうでもいい的な勢い。どうやらお祝よりもカニの方が重要事項らしい。ひとしきり食べて落ち着いたようである。

温泉に入って背中の流し合いをし、7時に部屋に集合。更に1枚清記し、地酒を飲みながら句会スタート。終了は12時過ぎ。1日目は50句駄句を生産してしまった。

前日3時間しか寝ていなかったのだが、句会終了後がまだあった。田島氏がインターネットラジオをやるというのだ。トリオ・ザ・レモン(とっさに今命名。昨年の豆の木賞受賞者うさぴょんと、一昨年の豆の木賞受賞者ぽぽにゃんと、来年の豆の木賞受賞予定者が一人)と今年の豆の木賞一句賞の葉月さん、ヨン様と5人で田島氏を盛り上げる。どうやらあの人もこの人も聞いていたようであるが、そんなことお構いなしにオールナイトニッポンのオープニングソングを歌って盛り上げるトリオ・ザ・レモン。

なんだかんだと俳句や豆の木賞や角川賞の話など、酔った上に半分眠りつつもがやがやと話して3時に終了。おやすみなさい。明日の朝起きられる自信が全くありません…

てな感じで1日目が終ったのであります。

(明日に続く)

2011年5月15日日曜日

〔今週号の表紙〕第212号 近恵

今週号の表紙〕第212号 

近 恵


タンポポに彩られた浜の芝地に立つと、海からの風はいっそう強くなった。向こうに見えるタンネエサシ〔※の根本からは、北側へと砂浜が広がる。砂浜は程なく岩礁となり、陸は広大な芝地である。風を避け、芝地から海沿いのクロマツの林の小道へと足を向けた。

この冬は雪が多かった。春先に大っきな地震が来て、それから見たこともないような津浪が来た。浜は舟も小屋もぐれっともっていかれた。防波堤も崩れた。それでもいくつかの舟は残った。今、土は息を吹き返し、波を被ったところからも草の芽が出ている。小道は蛇行しつつやがて岩場まで降りる。しばし視界が開け、ウミネコの糞を浴びた真っ白な岩が見えた。そこからもう少し歩くと、ぽっかりと小さな入り江に出た。ふいに空が広がった。

古から変わらぬ風と波と草木の音、ウミネコと小鳥と、時々雉の鳴き声。天然の岩礁に守られるようにしてあるひっそりとした入り江の漁港は、かつてみちのくの民が「エミシ」と呼ばれ、大和朝廷から怖れられたそれよりも前から漁労が営まれていたのではなかろうか。

種差海岸の天然芝生地から北上し、淀の松原、深久保漁港、大須賀海岸を経て葦毛崎展望台まで約5.2kmに及ぶ種差海岸遊歩道は、5月から9月頃まで400種とも600種とも言われる山野草が花を咲かせる。


〔※タンネエサシ:たねさし。語源は「タンネ・エサシ」が縮まったものと考えられる。アイヌ語で「長い・岬」の意。アイヌ語地名研究家 故山田秀三氏の解釈による。

撮影日:2011年5月6日
撮影地:青森県八戸市 深久保漁港


2011年4月9日土曜日

●週刊俳句・第206号を読む 近恵

週刊俳句・第206号を読む

近 恵

205号の続きで、澤田和弥氏と上田信治氏の往復書簡の、信治さんの返信。

http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/04/blog-post_5038.html

これを読んでいて、信治さんは意外と難しく難しく考えたい人なんだなあとか思ったりして。


で、今更だけど、俳句を読む人の多くが「作者=作中主体」と思ってしまうのは、単にそれがその人にとって当然のことだからなのではないかとか思ったりする。私が俳句を始めたとき、別に誰に言われたわけでもないけれどやっぱりそういう風に読んでいた。もしこれが小説だったら「作者=作中主体」とは思わずに読むし、エッセイや私小説なら「作者=作中主体」だと思って読む。じゃあなんで俳句を「作者=作中主体」と思って読んでいたかというと、多分「読み手=書き手」だから。

俳句を作り始めた頃は、作るときに体験していない事、見ていないことは読むことができなかった。自分が自分の知っていることを詠むように、他の人もきっとそうだろうと無意識に思っている。だから最初の頃は特に「だって見たんだもん」的俳句や「だってそう思ったんだもん」的心情吐露句が多かったし、そういう句が解り易かった。解り易いということは安心して読めるということ。だから「海程」の人の作品とか、いったい何を言っているのかちっとも解らなかった。自分が事実を詠むことを前提にしているから、理解しようがないのだ。

けれど、だんだん詠んでいくうちに自分の吐露したい心情なんてさほど沢山はないし、必ずしも事実を詠まなくてもいいんだというふうに自分がシフトしてゆく。それから理解してもらうために詠むことを止める。そうなると、人様の句を読む時も「作者=作中主体」と必ずしも読んでいる訳ではなくなっていった。


とはいえ、自身は必ずしも事実を詠んでいるわけではないけれど、正直に詠んでいることは間違いない。言葉を組み立ててゆくとき、それは結局は自分の中から出てくる訳で、それは紛れもなく<真実>だ。<作者を信用できる>かどうかは、結局は読み手が<自分を信用できている>かどうか、なのではないかとか思ったりもするのだ。


そこで「フェイク俳句」なんだけど、そもそもそれって作者を知っているから「フェイク」って言えることで、作者を知らなければ「フェイク」とは言い切れないじゃん、とか思う。作者名があってこそというのは、ご本人を知っている人のほくそえむような楽しみであって、多くの読者が作者を知らなければ、フェイクだろうが偽フェイクだろうが関係ないわけだ。結局どんなことが詠まれていようが、作品としての質が高ければ面白いのだ。読み方は人それぞれでいいんだし。とかって、ちょっと乱暴かなあ。。。

私は西原天気さんの「にんじん 結婚生活の四季」は、まるでワイドショーで昔やっていた「女ののど自慢」に出てくる人の話でも読んでいるようで、結構楽しみました。いうなら「フェイク俳句」の上に「フェイク読み」を重ねた感じ。もっとも、その作品を「フェイク」と思うのは、私自身がご本人を知っているからだけれど、そういう楽しみもありかなあと。そういうふうに読ませてくれる作品こそ「芸術」じゃなくて「文芸」だと思う訳です。いい意味で。

2010年9月2日木曜日

●かんそうぶん? 近恵

かんそうぶん?

近 恵


先頃のウラハイで、橋本 直氏の文章のなかに興味深い部分を発見。
http://hw02.blogspot.com/2010/08/22.html
石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。
この石原千秋氏なる人がどのような方かは存じ上げないが、小学校の国語の授業、ことに「読書感想文」を書くにあたり、この“実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される”というのは実に不可解かつ違和感のあるものだ。

私が小学生の頃は道徳の授業があり、いわゆる“正しいこと”は道徳の教科書の中にある物語やなんかでもって学ぶ。「走れメロス」みたいな。更に就学前から読書好きだった私は親が購読していた“PHP”なんかも活字の一端として読み漁っており、教科書から学ぶ道徳は随分おりこうさんに頭に刷り込まれていた。

で、国語の時間である。いわゆる“作者が言わんとしていることの要約”や“「それ」とは何を指しているか”とか、そういうことはちゃんと読めば解ることで、道徳的判断とか全く関係なく明らかに正解があってしかるべきもの。だけれど、小説の読解や感想文となったときには全く別で、その書かれた文章からなにを読み解くか、どんな感想を持つかは、一人ひとり違って当たり前。ましてや自分自身だって、自分の置かれている状況によって同じ本でも感想が違うことがある、と、小学三・四年生の時には感じていた。

夏休みや冬休みの宿題の読書感想文は、文部省推薦図書を読んで書くのが一番無難。けれど自分がその本を読んで思ったことをそのまま書くことは、いわゆる“正解”ではない可能性が大。なにしろ心が引っかかるのは必ずしも道徳的に正しいことではなかったりもするのだ。私は読書の習慣のせいもあって国語の読解力は高かったが、作文や感想文は嫌いだった。なぜかというと“正解”を求められるから。だから五年生くらいからは、本のあとがきを読んでその筋にそって読書感想文を書いた。そうすれば絶対に花丸をもらえる。けれど私は醒めていた。それは実は私の感想ではない。先生が求める“正解”の感想だ。私が感じていることは本当は違う。けれどそれを書いても花丸はもらえない。花丸をもらえないと母親がうるさい。ただでさえ癇癪持ちのような母親に不必要に叱られるのはごめんだ。だから私は“正解”の感想文を書いた。そうやって私は中学生までは良い成績を維持した。文句を言われたくないから自主的にやる。文句を言われたくないから大人が正しいと思いそうな方を選んでおく。実に小賢しい。けれどまあ、どんな理由であれ自主的にやるということは重要でしょう。

しかし、まさか国語の授業が指導要綱からして規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求していたのであれば、それは作文や感想文は感じたことを表現するのが重要なのではなく、道徳的に正しいことを書くのが正解なので、不正解を書いた子は指導対象となるとか、そういうことだったのか。なんかそれって、うーん。。。おそらく自分もそういう教育方針のもと授業を受け指導されてきたわけだが、たかだか田舎のいち小学生が感想文や作文の“正解”について疑問を持っていたぐらいだから、さほどたいした指導要綱でもなかったんでないのか?むしろ小賢しい子供を増やすだけ、みたいな。それとも、みんな読書感想文や作文に、文章の出来の良し悪しではなく内容に関して点数をつけられるというようなことに疑問を感じなかったのかなあ。

文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。』という話もあり。

表現不足対策を補うのであれば、短詩の創作なんてまったく役に立たないような。そんなのはそれがやりたい人にやらせておけばいいんだ。はっきりとそう思う。私は読書は大好きだけど、物書きになりたいと思ったことは一度もない。せいぜい漫画家程度だ。更に作文よりも詩を書くという課題の方が、もっともっと嫌いで苦手だった。第一、詩を書く自分なんて気持ち悪い。人の詩を読んで解ったような気になっている自分も気持ち悪い。ましてや長い詩になればなるほど。

表現不足の問題は、人に伝えようと思うことを怖がらずに人に伝える、言葉は人を傷つけることもあるというリスクを負いつつ自分の考えをわかってもらおうとするとき、いろいろな表現の仕方で理解してもらおうと努めようとするコミュニケーションの問題から発していると思う。

なんとなく簡単で、なんとなく仲間同士で通じ合う言葉は、なんとなくわかったつもりでお互いに傷つくかもしれないリスクを避けることができる。けれどそれでは表現力は退化する一方に決まっている。だって相手にちゃんと伝えようとして言葉を選ぶ努力がいらないんだもの。それを受け取る方も同様だ。それってなんか国語で詩やなんかを書いて解決する問題じゃないような気がする。むしろいろんな言葉や表現の仕方があるということを学ぶ方が大事なんじゃないのかなあ。

“正しい”読書感想文を書くことを暗に要求しておきながら、一方で表現不足を嘆く。これってなんだか変じゃない?

それに、コミュニケーションの問題って国語の授業でやることとはまた違う気がする。

俳句についての評価はその道の人たちでもそれぞれまちまちで、ましてや教師がちゃんと評価や指導ができるのかとか、そういうこと以前の問題だと思うのだ。


2009年7月11日土曜日

●ほおづき 近恵

ほおづき

近 恵


子供の頃、庭のほおづきをよく食べた。

鳴らしたりはしない。赤い皮をぱりぱりと剥いて、中の宝石のようにぴかぴかつやつやした丸い実を口に放り込み、齧る。

中からすっぱ苦い汁がでてきて、種っぽい実をじゃりじゃりっと齧る。皮は少し厚いので、最後まで口の中に残る。それを奥歯で擂り潰すように砕き、飲み込む。ほおずきは大きくって、火のようなオレンジ色だった。

その大きなほおづきは、当時家で飼っていた犬のゴンが日々マーキングをしてくれていたおかげでスクスクと育っていた。人の家に行くとほおづきが仏壇に飾ってあったりしたけど、家には仏壇がなかったから、ほおづきは飾られることなく食べられた。

特に種をまいた覚えもないが、ほおずきは毎年同じところに生え、毎年ゴンのマーキングを受け、毎年スクスクと育ち大きな実を付けた。青い皮が少しずつオレンジ色になってゆくのが楽しみだった。

ほおづきは食べ物です。

 あかあかと四万六千日の舌  恵

2009年4月21日火曜日

●近恵/金子敦 中嶋憲武「愛の洋菓子」5句を読む

〔中嶋憲武まつり・第10日〕
中嶋憲武「愛の洋菓子」5句を読む その3


届いてほしい人に届かない

近 恵


亀鳴いて凡そその数五千とも
  中嶋憲武

五千ってどんだけだよ~というのが第一印象。その瞬間私は思い出した。真夏に行った六義園のことを。池に亀がいたのだ。しかもその数五千!かどうかはわからないが、とにかくうじゃうじゃとわらわらと恐ろしいほどの数の亀がいたのだ。

梅の頃に再び六義園を訪ねた時、私はまたあの亀たちに会えるのではと密かに期待していた。しかし亀は一匹もいなかった。あれだけいたのが全滅するはずもあるまい。亀はまだおそらく冬眠中だったのであろう。少し残念な気持ちになって池をあとにした覚えがある。

さて、この句の「亀鳴いて」。季語としての「亀鳴く」は、歳時記では実際には亀が鳴くことはないと書かれている。まあよく交わされる話だが、亀は危険を感じた時に「きゅーっ」とか音を出したりするものがいる。交尾の時期なんかも音を出すらしい。本当に亀が鳴いてるのなら「その数五千」は相当騒々しい感じであろうが「亀鳴く」の亀は鳴いていない。だから作者には亀の鳴く声は聞こえてはいない。となると「その数五千とも」も胡散臭く、実態はない。ただそうらしいと思った作者だけが実態としてあるという不思議な虚構の世界。

そこでこの句は作者の心象、いや、ひょっとしたら作者そのものが亀なのではないかと思い至る。

声にならない声で鳴く亀。亀は言葉をつむぎ、俳句を詠みに詠む。およそその数五千とも、ひょっとしたら一万とも。しかしその言葉は声にならないから詠んでも詠んでも本当に届いてほしい人にはなかなか届かない。けれど届いてほしいから亀は詠み続ける。いつか鳴ける日を夢見て……。

作者の憲武さんは結社の先輩で、よく同じ句座を共にする。俳句だけに留まらず才能豊かで尊敬する俳人だ。それだけに、自分の妄想で切ない気持ちになってしまった。ガンバレ、亀。ガンバレ、憲武さん。

 ●

そのこぼれ落ちた粉は

金子 敦


マカロンのぽろぽろこぼれ春ですよ
   憲武

マカロンとは、砂糖・卵白・ナッツを混ぜて焼いた、カリッとした歯ざわりが特徴のお菓子。いくら上品に食べようとしても、どうしても粉がぽろぽろこぼれ落ちてしまう。もしかしたら、そのこぼれ落ちた粉は、透明な虹色の花を咲かせてくれる「種」なのかもしれない。それは、大人には決して見ることが出来ない花。純粋な子どもの心を持った者だけが見ることが出来る花。数え切れないほどの虹色の花に囲まれて、作者はまたマカロンをひとつ口にする。

2009年3月11日水曜日

●近恵 しょーいぐんじん

しょーいぐんじん

近 恵


渋谷の歩道で、義足をガードレールに立てかけ、軍人のような作業着のような、なんかそんな格好をした60代ぐらいのおじさんが座っていた。なんか看板が掛かっていたが、見ないで通り過ぎた。「しょーいぐんじん」のようだと思った。

子供の頃、田舎の町中にときどきそういうふうなおじさんが座っていた。うすよごれた軍服を着て、いや、白い服だったか、ゲートルを巻いて、片足や片手がなかったりして、ハーモニカをふいてることもあった。座った前にはアルミの弁当箱とかが置いてあったりした。

看板が掛かっていて、戦争に行ったこと、怪我をして帰ってきたこと、その怪我のせいで片足や片腕を無くしたこと、そんなことが書いてあったように思う。

私はもっと看板をよく読みたかったし、その片足がなかったり、片手がなかったりして、でもハーモニカの悲しい音色を立てているそのおじさんがなんだか可哀想に思え、近づこうとしたのだが、母に止められた。あれは「しょーいぐんじん」だとそのとき知った。「しょーいぐんじん」は物乞いをしている人だった。そして「しょーいぐんじん」が傷痍軍人だと知ったのは、もうすこし後になってからのことだった。

そして、傷痍軍人でなくても、どこかで怪我とかをして働けなくなったりした人が「しょーいぐんじん」になったりすることや、やくざやさんでそういうことをする人がいるということは、さらにもう少し大人になって知った。

さて、今日渋谷で見かけた「しょーいぐんじん」。もし本当に傷痍軍人ならばたいがい恩給とか出てるし、もう80から90歳近くになる人たちであろうから、今更そんなことはしないだろうと思う。もっと若かった。60代ぐらいのように思えた。あれはただの物乞いだったんだろうか。

3月10日は東京大空襲のあった日。

2009年1月29日木曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔2〕(下)近恵

毛皮夫人プロファイリング〔2〕
43歳、外大卒、夫は大手製薬会社勤務 (下)

近 恵

承前

大学入学とともに上京した彼女は、フランス語を専攻し、いよいよフランス映画が好きになる。映画同好会のサークル活動で知り合った後に結婚することとなる早稲田の二歳年上の男性は、遊び仲間の一人であった。

当時はバブル真っ只中。田舎の慣習から逃れ開放的となった彼女は、バイトで稼いだ小遣いを持って六本木のディスコで朝まで踊ったりする普通の女子大生であった。離婚した父が白系ロシア人であったため、彼女は日本人離れをしたような容貌。スタイルも良かったため、流行の雑誌の読者モデルなどをしたりもする。

いくつかの映画のような恋をするが、それはどこか嘘めいていて、いつも孤独な気持ちになり破局する。理想は理想のまま現実を受け入れざるを得ないという忸怩たる思いで過ごす日々。いつしかそれも当たり前となった社会人2年目の時、友人の結婚式で現夫と再会。映画の話で盛り上がり、何度か会うようになるうちに恋に落ちる。映画の中のような恋ではなかったが、温かく包みむような夫に、やっと自分の居場所が出来たような思いを得、結婚を決める。

新婚気分も抜けきれぬ頃妊娠し、仕事をやめる。無事に第一子を出産、娘であった。育児に終れる日々。ほどなく第二子を妊娠し、出産。息子であった。

娘、息子とも中学受験をさせ、私立の中学へ進学を決める。これでこの後の受験の心配はさほどでなない。息子の中学進学と同時に夫がアメリカに単身赴任となる。子供の受験が終わり、肩の荷が下りたところに夫の単身赴任。彼女はふっと心に穴があいたような寂しさを覚える。

自分の時間が持てるようになった彼女は、週に三日間、近くのスーパーにレジ打ちのパートへ出かけるようになる。と同時に、すこしふくよかになってきたかと、テニス教室に通いはじめる。子供を置いて夜遊びも時々するようになる。

大学生の頃には入れなかった六本木の落ち着いたピアノのあるバー。そこで、売れないピアニストとまさにフランス映画のような恋に落ちてしまい、阿佐ヶ谷に住むその男の家へ時々通ってみたりもするが、所詮遊びの恋である。ほどなくその恋は終わり、新しく来たテニスのコーチへと乗り換えようとするも、なにしろテニスは初心者。小学生の頃にあこがれたお蝶夫人のようには行かず、筋肉痛となり、コーチに無様な醜態をさらし、その恋は実る前から諦める。

来週は夫が単身赴任先から久しぶりの休暇で帰ってくる。ふと現実に帰り、彼女はなぜか夜中にオカリナなんぞを吹いてみるのであった。

2009年1月28日水曜日

●毛皮夫人プロファイリング〔2〕(上)近恵

毛皮夫人プロファイリング〔2〕
43歳、外大卒、夫は大手製薬会社勤務 (上)

近 恵

昭和40年11月30日生まれの射手座。血液型B型。
住まいは都内板橋区の一戸建て。
趣味は映画鑑賞。
神奈川県茅ヶ崎市で生まれる。
ほどなく両親が離婚。
母親の実家である愛媛県松山市へ居を移し、以降高校三年生までをその町で過ごす。
小学校2年生の時、母親が再婚。弟が生まれる。
新田高等学校を卒業し、東京外国語大学へ進学、上京。
大学在籍中にサークル活動にて知り合った2歳年上の現夫と26歳で結婚。
大学卒業後中堅の商社に勤務するが、妊娠を機に退職。
夫は大手医薬品メーカー勤務、現在アメリカに単身赴任中。
子供は中学三年生の娘と中学一年生の息子。どちらも私立中学へ通っている。

 ●

両親の離婚は彼女の人生に大きな影を落とす。当時離婚の理由は両親の口から語られることはなかったが、習慣の違いでロシア人である父方の両親とどうにもうまくいかなかったということを後々聞かされる。

離婚後、母の実家へ戻った当初、世間では離婚はまだあまり多くはなかった。しかも国際結婚となると尚更のことである。実家の松山は大きいとは言え地方都市。隣近所に肩身の狭い思いをして過ごしている母親や、母親をなじる祖父母。彼女はそんな中、愛想を良くする事で大人に心配をかけまいと生きる健気な子供であった。

数年後に母親は地元の有力者の分家筋にあたる旧家の息子と結婚し、ほどなく10歳年下の弟が生まれる。新しい父親は弟と分け隔てなく彼女に目をかけてくれたが、自分の居場所がないような思いで過ごす日々。中学生の頃テレビで見たフランス映画がきっかけで、どこか気だるいようなフランス映画に嵌まってゆく。

愛想はよく、友人も多かったが、同年代の中ではどこか浮いたような存在。友人は多いが、一人で過ごすことを好むような性格。自分のいる場所はここにはないというような思いはどんどん強くなり、東京の大学への進学を決める。


(明日に続く)

2008年7月4日金曜日

はなぢ

はなぢ ● 近 恵


空は青く、いい天気。やっと夏っぽい晴れの朝。いつものように顔を美しくするべく鏡に向かって美容液などをぬりぬりしていたら…。

久しぶりにやっちゃいました。

爪の伸びた右手の人差し指がザックリと右鼻の穴に!

あ゛あ゛———っ い゛た゛い゛———っ!

はなぢ

最近、ペットが心肺停止状態の時には119番して救急車を呼んでもいい!などと国民の約12%ぐらいは思っているかもしれないということに驚いています。

ちょっと考えたらわかることでは? いろんなことが便利になると、ヒトはちょっとしたことも考えなくなってゆくのやも知れません。

ゴキブリが恐くって110番に電話した人がいたのにも驚きです。蛍狩りにゆけば懐中電灯で蛍を照らしてみようとする人がいるということにも驚いています。

  死蛍に照らしをかける蛍かな  永田耕衣




参考画像 A  B  C