2022年7月30日土曜日

◆週俳の記事募集

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小誌「週刊俳句がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

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これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載 刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2022年7月29日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕樋口由紀子



樋口由紀子






蝶を詰め込んで苦しむ夏銀河

倉本朝世 (くらもと・あさよ) 1958~

「夏銀河」に対するみごとな注釈であり、見解である。あのきらきらを苦しんでいると感じた。それは「蝶を詰め込んで」いるからであり、蝶を詰め込まなければ、あるいは蝶が集まってくることがなければ、夏銀河は苦しむことはなかった。「苦しむ」を置くことによって一気に現実に引き戻される。

この世からはきらきらと美しく見えるものが実はそうではなかった。苦しみもがいて、のたつちまわっているから、きらきらと輝いているように見える。「夏銀河」の実体を超えて、生々しく描写している。『硝子を運ぶ』(1997年刊 詩遊社)所収。

2022年7月26日火曜日

【俳誌拝読】『棒』第16号(2022年7月)

【俳誌拝読】
『棒』第16号(2022年7月)


A5判・本文50頁。発行:棒の会(代表:青山丈)。同人22氏の俳句作品・各16句を掲載。

持ち上げてまたそこへ置く水中花  青山 丈

用向きや経緯を感じさせず、ただ、水中花を上下させた句。

(西原天気・記)



2022年7月25日月曜日

●月曜日の一句〔堀本裕樹〕相子智恵



相子智恵







火蛾落ちて夜の濁音となりにけり  堀本裕樹

句集『一粟』(2022.4 駿河台出版社)所収

明るさに導かれ、火や電灯に集まってくる蛾たち。そのまま火に飛び込んだり、電球にぶつかったりして「ジジ、ジュッ」と音を立てて落ちては死んでいく。〈濁音〉は、このように蛾たちの命が絶えるリアルな音であり、それ自体は残酷で哀れなのだが、〈夜の濁音となりにけり〉と流麗に読み下されると、死が抽象化され、美しい詩のことばとなって美に転じる。そこが、残酷でありながらも美しい「火蛾」という季語がもつ本意に叶うのである。

火蛾といえば、速水御舟の「炎舞」を思い出す人も多いかもしれない。思えばこの画は幽玄すぎて、どこまでいっても無音の世界のように私には感じられてくる。掲句はそれに比べると、音のリアルさで現実を掬っている。だが、やはり「炎舞」に通じる美意識のもとで構成されていることは確かであり、それゆえに名句性を帯びていると言ってもよいだろう。「文芸上の真」を感じる句である。

2022年7月22日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






いま生まれ変わるなら三ツ矢サイダー

妹尾凛(せのお・りん)1958~

子どもの頃、夏休みに伯母の家に行くのが楽しみだった。土間には瓶ビールと三ツ矢サイダーがケースごと積まれていて、大人たちがビールを浴びるように飲むので、子どもたちもどれだけサイダーを飲んでも叱られなかった。これほどのしあわせはないと「そのとき」は思っていた。

暑い日が続き、冷えたサイダーを飲むと喉も心もスカッとする。もし生まれ変わるなら、こんなしあわせな気分にさせてくれる「三ツ矢サイダー」が最高だと思ったのだろう。シュワッと湧いて、すぐに消える。透明で潔い「三ツ矢サイダー」はカッコいい存在でもあった。しかし、すぐに気は変わるはずである。「いま」が効いている。「おかじょうき」(2022年刊)収録。

2022年7月20日水曜日

西鶴ざんまい #30 浅沼璞


西鶴ざんまい #30
 
浅沼璞
 

夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  打越(裏五句目)
 宮古の絵馬きのふ見残す   前句(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 付句(裏七句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味します。
 
要は、都の絵馬を眺め残した人物を、医者の言うこともきかない身勝手な病人と見定めた「其人」の転じでしょう。

これを「眼差し」の観点からみると――
 
鬼の夢を現存の絵馬に見立てるルポライターの「眼差し」から、その絵馬見たさに無断外出しようとする人物をあばく、暴露本作家の「眼差し」への転換とでもいえばよいでしょうか。
 
 
 
さて今回の若殿(若之氏)からのメールには愚説への賛意が述べられていました。
 
つまり、やや唐突に「髪剃りて」と付句で詠まれているのは、前句自註の「福禄寿が月代を剃る」という絵馬の描写を受けた結果ではないか、という例の愚説への賛意です。

曰く、〈福禄寿のことは、自註を抜きにはほぼ辿りえないですね。このテクストならではの面白みがよく出ているところかと思います〉

思えばこの付合は、独吟で、百韻で、自註という本作タイトルの特性をよく顕現しているといえそうです。

「そやな、『西鶴独吟百韻自註絵巻』いうのは後世の名付けやけど、この一巻の質(たち)をよう言い当てとる思うわ」
 
 
 
それにしても付句の自註だけでなく、前句の自註までが付句に影響しているとなると、いよいよ自註=「抜け」の散文化、と思えてくるのですが。

「そんなんワシが答えたら、この連載、終いやないかい」

……たしかに。

2022年7月18日月曜日

●月曜日の一句〔栗林浩〕相子智恵



相子智恵







ががんぼはとまつてはじめてががんぼ  栗林 浩

句集『SMALL ISSUE』(2022.6 本阿弥書店)所収

言われてみればその通りだな、と笑ってしまう。ががんぼは、飛んでいるところよりも壁に止まっているところを見ることが圧倒的に多い気がする。夜に家の内外で見かけることが多いのは、光に誘われる性質が強いからなのだろう。

ががんぼは壁にへばりついてみて初めて、あの足の長さが分かる。〈とまつてはじめて〉は、とぼけた味わいでありながら、鋭い真実なのだ。足はすぐにもげてしまうから、揃っていないことも多い。それもまた、〈とまつてはじめて〉分かることなのである。

2022年7月15日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子






長袖を手首でてくるまでが夢

なかはられいこ 1955~

これまで何度も詩歌で書かれてきた「夢」が、思いもつかないところから出てきた。日常性と身体性を与え、意表をつく。長袖のシャツかセーターに手を通していくとまもなく手首がでてくる。たったそれだけの時間が夢だという。もうそれだけで現実の虚ろさを感じさせて、切なくなる。陰影が繊細で、冷めた目がある。

「長袖を」の「を」が巧みで、長袖がまずクローズアップされる。「手首でてくるまで」の動きが映画のワンカットのように残りくまなく行き届いていく。「夢」は説明にならず映像になる。袖を通し終わったらどんな現実が待っているのだろうか。『くちびるにウエハース』(2022年刊 左右社)所収。

2022年7月11日月曜日

●月曜日の一句〔若杉朋哉〕相子智恵



相子智恵







蟻の穴一つばかりが忙しく  若杉朋哉

句集『朋哉句集 三』(2022.5 私家版)所収

ああ、確かに見たことのある風景だな、と思った。地面にいくつもの蟻の巣穴があいているのにもかかわらず、一つの巣穴しか蟻が出入りしていないのである。他は古い住処なのか、穴は土の中でつながっているのか、つながっていないのか。その分からなさが面白くて、飽きずに眺めていた子ども時代を思い出す。

豆飯の豆集まつてゐるところ

みつ豆や黒蜜のいとすばしこく

片方の足上げてゐる昼寝かな

夏の句からいくつか引いてみた。どれもあるある、と思うし、この「日常の何でもなさ」がなぜか郷愁を誘う。序で岸本尚毅氏が〈若杉さんの句集を読んでいると、心地よい散歩のような心持ちがする。目に映るものをただ眺めながら、たんたんとあるいてゆく、そんな感じだ〉と書いていて、その通りだと思う。するすると読んでいくうちに、一句一句の微光が重なり合って、いつしか懐かしい光の中を歩いている気分になるのである。

2022年7月8日金曜日

●金曜日の川柳〔嶋澤喜八郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






柿の木の下にリンゴが落ちている

嶋澤喜八郎 (しまざわ・きはちろう) 1937~

柿の実がたわわになっている。その木の下に柿に混ざってリンゴが落ちていたのだろうか。それとも新緑か紅葉か、裸木のときか。川柳はどの季節でもそれなりの対応ができる。

柿の木の下に落ちているものは柿の実とは限らない。空き缶だって携帯だって、いろんなものがある。それを「リンゴ」と限定したところがミソである。もちろん、柿の木からリンゴが落ちるなどとは誰も思わない。その思わないところを敢えて突いている。一瞬スキをつき、混乱させ、すぐに安心させる。ただ驚いてみせただけである。こういう景を見過ごさないところに川柳の見つけがあり、そこに川柳の軽みがある。

2022年7月6日水曜日

西鶴ざんまい #29 浅沼璞


西鶴ざんまい #29
 
浅沼璞
 

 宮古の絵馬きのふ見残す   前句(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 付句(裏七句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
付句は雑。回復期ながら病体の句のようです。

まず語句をみましょう。「心持ち」は心身の状態ひいては病状。「髪剃りて」は月代(さかやき)を剃って額髪を整えること。

よって句意は「病状について医者の指示を仰ぐこともなく、月代を剃って」といったところでしょう。

前句の自註に「福禄寿のあたまに階子(はしご)をかけ月代を剃る所もをかし」と清水寺の絵馬の描写がありましたが、それを間接的に受けているのでしょうか。
 
 
 
以下、付句の自註です。

「都のうちに借ㇼ座敷して、養生心に叶ひ、医者にたづねては今すこしといふを待ちかね、一昨日は嵯峨・御室の詠めに暮し、きのふは東山など歩行(かち)にてまはり、寺社残りなく、心静かに、此の病人、命ひとつは拾ひ物、是から行末五百八十までの仕合せ」

意訳すると「京都の市中に間借りして、養生意のままに軽快し、医者に尋ねると、今少し安静にというのを我慢ならず、一昨日は西の嵯峨や御室を眺め暮し、昨日は東山などを歩きまわり、寺社を隈なく、心穏やかに巡拝。この病人、一命をとりとめ、これから末永く、幸せに幸せに」といった感じです。

要は前句にふさわしい人物を見定めた「其人」の付け。月代は無断外出のために剃ったという趣向でしょう。で、初日は西をめぐり、見残した東を翌日めぐる。
 
 
 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

月代を剃る福禄寿うらやまし   〔第1形態〕
  ↓
月代を医者の許しも得ず剃りて  〔第2形態〕
  ↓
心持ち医者にも問はず髪剃りて  〔最終形態〕

〔第1形態〕は前述した前句自註からの発想。
〔第2形態〕は病体で「福禄寿」の抜け、そして無断外出の準備の暴露。

「どや、暴露本みたいやろ。せやかて福禄寿の抜け、よう気イ付きはったな」

はい、古くは藤村作氏、新しくは加藤定彦氏の評釈でも不問に付せられていました。

「自註は自註、付句は付句、分けてるんやろな、学者はんは」

でも、ここで「髪剃りて」はあまりに唐突かと。

「それが元禄正風体の疎句やねん」

たしかに……。

2022年7月4日月曜日

●月曜日の一句〔越智友亮〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




蜘蛛の囲や太陽はさびしいかたち  越智友亮

越智友亮句集『ふつうの未来』(2022年6月・左右社)所収

太陽に限らず星はおおむね球体だろうから、「かたち」をうんぬんする人は少ない。大きさや質量、軌道、地球からの距離などが星の性格の要素だろう。

けれども、この人は、「さびしいかたち」と言う。太陽という私たちに身近な恒星のことを「さびしいかたち」と。

ふだん聞かないことを言われると、そうなのか、とも思う。

どんな天体・どんな球体でもみなさびしい、というわけではなく、そのとき、太陽の「かたち」が「さびしい」と感じたのは、見てしまったからかもしれない。太陽を見つめてはいけないことはたいていの人は知っているので、よけい、「かたち」を意識することは少ない。けれども、おそらく「蜘蛛の囲」越しに、太陽の「かたち」を感じたのだろう。これはとても静かな一瞬のシーンである。「さびしさ」に最適の。

空を統べる、あるいは、私たちが生まれて暮らす仕組みを統べると言っていいかもしれない太陽とさびしさが結びついた人にとっては、すべての存在がさびしくなってしまうかもしれない。もちろんのこと、それは悪いことでも悲しむべきことでもなく、すべては、どだい、さみしいのだ。私などはとっくの昔から、そう思ってる。

2022年7月1日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




大雨のうしろはきっと乳児室

倉本朝世 (くらもと・あさよ)1958-

乳児室について詳しくはない。実際に見たことさえない。ドラマでなら見たことがあって、間違ったイメージ、記憶違いかもしれないが、アクリルガラスかなにかで囲われたベッド? いやそれは身体トラブルへの対処か? それくらいに頼りない知識なのだが、ひとつ言えるのは、そこには乳児がいるということ、などと馬鹿げて当たり前のことしか言えないなか、乳児は「守られるべき」であり、それはオトナ=人類の視線や感情によって、ということであり、その庇護や愛情は、形状としてはドーム状だ。庇護や愛情のバリアの中で、乳児はすやすや眠ったり泣いたりする。ドームの天空から舞い降りるように、母親が乳を振る舞う瞬間もあるだろう。

さて、そこがどこか? といえば、「大雨のうしろ」。大雨って、カジュアルな意味では「天気悪い」し「大変」なんだろう。「いやあね」かもしれない。けれども、大雨もまたその過度な雨量ゆえに、カジュアルな日常から離れ、いわば神話的に、ドーム状となり、世界を取り囲む。

ふたつのドーム。言い換えれば、ふたつの環境、が配置される。

一句のなかに劇的な時空を感じてしまったわけですが、このことにストーリー的な前後はない。脈絡はない。前も後ろも絶たれた状態でのドラマチック。これこそが、いわゆる短詩の為し得る最上の快感なんだよなあ、などと、ふだんから思っているのですよ。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。