浅沼璞
けれど西鶴独吟ならぬ横尾独描の鮮烈な印象はなかなか脳裡を去らず、今こうして病み上がりの筆を執らずにはおれない次第です。
さて連歌に見立てた連画という趣向は折にふれて見聞きしてきました。
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さて連歌に見立てた連画という趣向は折にふれて見聞きしてきました。
さしあたり手元にパンフのある『連画 十二人の詩と夢の交響楽』(1996年)について言えば、これは東京・大阪・京都・横浜の高島屋ギャラリーで開催されたもので、愚生は地元横浜の会場に足を運びました。タイトルのとおり、十二人の現代画家が歌仙の実作に取りくみ、その歌仙をネタに連画を描くという趣向の企画展でした。
その後この流れがどう展開したのか、門外漢の愚生には知る由もないのですが、いまパンフの作品群を見渡してみても各作家の個性が屹立して、水平的な連結が弱く、連画というより集団によるスタティックな連作という感が否めません。
いっぽう今回の横尾さんの独描連画(全64作)は、というと、たんなる連作ではなく、同一趣向の「見込み」を違えて、対付け・抜け・色立・逆付けなどが駆使され、独描の面白さの横溢するものでした。
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いっぽう今回の横尾さんの独描連画(全64作)は、というと、たんなる連作ではなく、同一趣向の「見込み」を違えて、対付け・抜け・色立・逆付けなどが駆使され、独描の面白さの横溢するものでした。
同級生との群像写真をネタとした絵を発句に、その群像が、筏の川下りからメキシカンや歌舞伎の六方へと変容し、機関車・壺・シンゾー・三途の川・大谷・ゴーギャン等へ転じられていくそのスピード感はまさに圧巻。
挙句の自画像は言うまでもなく「仮の終止符」といったところで、ふたたび発句ならぬ発画へと取って返したい衝動にかられました。
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ところでこの自己を他者へと転じるかのような横尾独描のスピード感は、あの西鶴独吟の矢数俳諧さながらの効果を生んでいるのは確かで、平野啓一郎さんもそのレポートで次のように指摘しています。
〈速く描くということは、絵画が絵画らしくあるための幾つかの利点を放棄することである。対象を深く存在論的に表象すること、細部の仕上げに拘ること、完成度を追求すること、主題を熟考すること、コンセプトに凝ること、……それらは確かに、美術作品としての説得力を増す。しかし、手放してみれば、芸術の創造的な自由は、遥かに明るく、伸びやかになる。〉(「大きな「絵画的なるもの」のうねり」『Numero TOKYO』7.8月号)
この放棄の思想、手放すメソッドの効用は、まさに自己を他者へと転じる独描・独吟のそれと表裏をなすものと言っていいでしょう。
放棄によって得られた〈創造的な自由は、明るく、伸びやか〉で、それを享受する者の心をも開放して止まないのです。
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