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2018年5月6日日曜日

〔週末俳句〕明るい廃墟へ 鴇田智哉

〔週末俳句〕
明るい廃墟へ

鴇田智哉


明方に覚めて思い立った。
奥多摩のそこへ行かなければ。
以前から気になっていた一角、そこへ。

青梅線のはじまり青梅鉄道は、
明治時代に石灰石の輸送が目的で開通した。
今日の目的地はそれと深く関係のある場所だ。

青梅線の終点、奥多摩駅からバスでさらに奥へ。
日原という集落がある。



鍾乳洞が有名だが、行かず、今日の目的地へ。




今は廃墟となった鉄筋のアパート。
社宅である。
ここは、戦後、石灰石の産出で大きく栄えた地。
二棟、三棟、いや四棟か。
青葉に埋もれていて、よくわからない建物もある。





こんなにもの奥地に鉄筋のアパート。
当時はとても新しくて、カッコよかったそうだ。

たくさんの人々、大人、年寄り、子供たちがここで暮らしていた。
スーパーマーケットや、ダンスホールまであり、賑わったという。

さっきから頭の近くを、熊蜂がついてくる。
よく藤棚にいる、鉄球のように硬質な蜂だ。
刺さないから心配はない。
草に坐っても、ずっと近くに浮いている。
私の影と、熊蜂と。

足元などよく見ると、蟻のほか、天道虫の幼虫、ハナムグリなど、
小さな昆虫が、次々目に入る。見れば見るほど。
一斉に活動し出した感じだ。

熊蜂を連れ、今は廃校となった日原小学校へ。
小学校隣の小さな神社で、ひこばえの公孫樹を発見。




青葉とカラっとした陽気のせいか、
廃墟の中で不思議と明るい気分になったのだった。


2014年7月12日土曜日

【リマスタリング】鴇田智哉「俳句における時間」

【リマスタリング】
鴇田智哉「俳句における時間」


鴇田智哉「俳句における時間」
http://hw02.blogspot.jp/2014/07/blog-post_198.html

※初出『雲』2007年1月号~同年12月号、転載『週刊俳句』第47号(2008年3月16日)~第59号(同年6月8日)の同論考をひと続きにしました。


付録

鴇田智哉インタビュー ボヤンの在り処:『週刊俳句』第327号(2013年7月28日)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_8467.html

乱父とユビュ親爺:西原天気(ブログ俳句的日常)
http://tenki00.exblog.jp/13413514

引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉:『ウラハイ』2011年2月14日
http://hw02.blogspot.jp/2011/02/blog-post_14.html

2014年7月5日土曜日

●俳句における時間 鴇田智哉

【リマスタリング】
俳句における時間

鴇田智哉


初出『雲』2007年1月号~同年12月号
転載(改稿)『週刊俳句』第47号(2008年3月16日)~第59号(同年6月8日)


1

「時間」とはどんなものだろうか。たとえばそれを、視覚的にイメージするとすれば。

まず考えられるのは、物差しとか川といった、直線のイメージである。物差しの目盛りの一つ一つが「秒」であり、ある一方向へその目盛りを辿っていく。或いは川を、下流に向かって辿っていく。そのように時間とは流れているものである、というイメージ。このイメージを一言でまとめるとしたら、次のようになるだろう。即ち、「時間とは、一方向へ向かって直線を辿ってゆく流れである」と。これを「流れる時間」のイメージと呼んでみよう。

「時間」について、これとは別のイメージはないだろうか。たとえば次のようなものはどうだろう。

途方もなく広い湖がある。地球よりも、銀河よりももっと、十分に広くて、とても深い湖が広がっている。湖の水は限りなく透明だ。そこへ空から、一滴のインクの粒が落ちてくる。インクは濃い。落ちてきたインクは水面に当たって、崩れて、水面のそのあたりを揺らす。そしてインクは、ぼやけながら広がり始める。そのあとは、いつまでも、いつまでも、インクは広がりながら果てしなく薄められていく。一滴のインクが落ちてからというもの、この湖の「今」は、この湖の「さっき」とは違うようになった。そして、この湖の「今」と「さっき」とは常に違っている。このイメージを一言でまとめるとしたら、次のようになるだろう。即ち、「時間とは、さっきと違う今がいつまでも続く現象である」と。このイメージを、先程の「流れる時間」のイメージに対置して、「滲む時間」のイメージと呼んでみる。

「時間」というものに対する感じ方として、ひとまずこの二つを挙げておきたい。この二つのイメージは、どちらが正しいということではなくて、一人の人の意識の中においても、その都度入れ替わるものと思う。

たとえば、何か目的があるとき、たとえば仕事とか旅行とかで、正しく電車に乗り、正しく目的地に到着するためには、「流れる時間」のイメージがなければならないだろう。一方、一枚の絵画の前に佇むとき、本を夢中になって読んでいるとき、横になって一日の疲れを休めているとき、自分の好きな場所にきてただ座っているとき、そんなときに感じているのは、「滲む時間」だろう。

「時間」というものを視覚的にイメージするとき、少なくとも二つのイメージを考えることができた。そもそも「時間」とは視覚ではとらえられないものなのだから、そこに複数のイメージが存在するというのは、当然のことである。

ところで、これは「視覚」に関してだけではなく「言葉」についても言えるのである。「時間」とか「時間性」という言葉を使うとき、そこに込められている意味は一定ではない。人によって違っているし、同じ人でも文脈によってその都度違っていることがある。

俳句について述べられた文章で、「時間」「時間性」という言葉が出てくることがあるのだが、筆者によって、そこに込めている意味が違うことに気がついたのである。そこで、「時間」という言葉に込められた意味を、一度考え直さなければならないように思ったのである。

きっかけになったのは、次の文章だ。
私は、俳句をすぐれて一つの時間詩、と思っている。

一には、「瞬間」――私の謂う現瞬間――という特殊な時間の直感的把握を作す、またそれを可能にする詩が俳句だと思うから。

(阿部完市『絶対本質の俳句論』)

俳句とは「時間詩」なのだという。阿部氏はここで「時間」というものについて、どんな意味を与えているのだろうか。次の言葉がヒントになる。

今・現在というだけ、それだけで人が自らの生あるいは死を考えようとするとき、当然にその前と後というものを考えた。すなわち現在とそれへの過去、未来――すなわち三世の思想。そして、とくに今というもの「現」瞬間を中心として、「時間」という一直線――線分という有限ではない。無限の――の上の、一瞬間・現瞬間の燃焼、その姿の具現を、私は俳句一句と考えている。

時間に対するこのイメージは、一見、先程の「流れる時間」に似ているし、共通する要素もある。が、違っているところもある。「今・現在」ということに重きがおかれている部分である。ともかく「今・現在」というものがあり、そこを中心に、「前」「後」が移り変わっていく、ということ。ここでいわれる「今・現在」は、むしろ「滲む時間」のイメージに近い。「今・現在」に重きをおく彼の時間の感じ方は、次の言葉にも表れている。

意識され――自覚されたとき、その「時間」は自己にまた他者に、要するに人間の間に存在するようになる。人人に意識されないとき「時間」は実は存在しない。

「意識」しなければ何もない。その「意識」によって、「時間」をよく、十全に観念する――その観念の一手段としても「俳句」一句一句は存在すると謂われてよい。

時間は、意識することによって時間となる。その意識の仕方の一つとして「俳句」がある、というのが阿部氏の考えである。こうした考えをもち、精神科医でもある彼は、ある実験を試みている。


2

時間を変える、つまり意識を変えると、俳句はどうなるだろうか。阿部氏は或る実験を行った。

LSD25(リゼルグ酸ディメチルアミド)は、麦角アルカロイドの一種で、それを注射あるいは内服することによって、人はその意識状態を変えることが出来る――実験精神病。
(阿部完市『絶対本質の俳句論』・以下引用同)

彼の実験は、このLSDを自らに投与して作句をするというものであった。LSDによってどのように「自己」が、「俳句」が変化するかを見ようとした、という。

内服してから約三十分後、一時間後と、その効果があらわれる。「気分が妙に浮き浮きして、そのくせ妙に重いわだかまりがその底の部分にあるような感じ。」という記述に始まり、意識の移り変わりが述べられる。

眼を閉じると、今までみたこともないものがみえてくる。中国の料理店の中らしい。黒紫色の空間にひらひらと人たちがいる。

前をみやると、立っている医師の顔、貌、姿がひどく大きくみえる。巨視。また自分の今いる部屋が一種のお芝居・舞台に見えてくる・思える。奥行がひどく短くなっていて、遠近法の図解をみているようだ。

私は「時間」が重くておもくて、いつもと違って「時間」の流れ――質量・重量等零のはずの『時間』が、変に零でなく質感・実感されていた。変な眠り、妙な意識の質感――それを私の心、脳ははっきりと自認していた。鉛筆もって一句書こうと紙に何かを記す。文字にならない。線、丸、くにゃくにゃ、ぎくしゃくした形だけが紙の上にあらわれるだけ。

こうした、日常とは違う状態の中で彼は、

萌えるから今ゆるされておかないと

眠りに入る重さ手にあり純金ぐさり

犀が月突き刺している明るさよ

陽市とあそんだ空の雲夫人

などの句を記述している。そして、この実験の中で体験した「時間」について、彼は次のように述べている。

いわゆる正常な時間ではない。あきらかに異常な時間であった。しかし、私にとってひどく「非意味」という有用・有意味な時間であった。

彼はこの実験によって、言葉の日常的な「意味」という縛りから抜け出すことを求めていたようであり、その目的は実際に達成できたように読み取れる。

そこで、ふと思うのであるが、実験の中で彼が作った句を読んでみると、日常的な思考と比べればかなり自由ではあると思う。だが、言葉というものがもつ意味のつながりは、存在しているのである。論中に載せられた三十句あまりの句は、どれも、割と「意味」のある言葉でできているように、私には見えるのである。この実験について読み始めたとき私は、もっと支離滅裂な言葉、意味がまったくつながらない出鱈目の言葉が連なった句が出来上がるのではないかと思ったのだが。これはどうしたことだろうか。

これは私の考えであるが、実験の中では、論中に載せられていない出鱈目な句も、たくさんできたのではないだろうか。そして、その中から彼は、彼が「俳句」とは見なさないものを削ったのであろう。彼が「俳句」と呼べるものだけを残したのであろう。私がそう考える理由は二つある。理由の一つ目は、LSD体験の記述の中で数か所出てくる、次のような言葉である。

正確な心が意識障害のわが心をはっきりと自覚している。不思議である。ダメになった心をダメになっていない心がみる――それがよくわかっているという不思議。

自分が非日常の時間(幻覚など)を体験しているのだということを、冷静な自分が意識している、といういわば二重の意識である。これはLSDの特徴でもあるらしいが、ここからわかること、それは、冷静な自分がいるからこそ、十七音の定型詩である俳句が書けた、ということではないだろうか。

二つ目の理由は、まさにこの「十七音」というものに対する彼の考え方にある。それは、次のようなものだ。

五七五定型・十七音――俳句は、このように一「ゲシュタルト」として存在する、と私は考えている。十七音より短い場合、あるいは五七五定型以外の――たとえば自由律の句――ものは、このゲシュタルトとしての読者の心への詩的機能にあるいは欠けてしまうと思う。

「ゲシュタルト」は、心理学の用語。人間はものを、個々のものの寄せ集めとしてではなく、何らかの連なりとか塊とかとして認識している、という考え方である。たとえば、時間というものを人は、秒の寄せ集めとしてではなく、ひと連なりのメロディーのように認識している、という考え方である。彼は、十七音というひと連なりの長さでしか、俳句は俳句たりえないと考えているのである。十七音の形を成さなかったものは、俳句ではないから、彼は論中には載せていないのだろう。

非日常の時間体験を背後から見つめる冷静な自分が書きとめた、十七音。十七音として何らかの意味の繋がりをもちながらも、精神において自由な句が、実験の中で書かれ、論中に載せられたということだろう。


3

実験による非日常の時間体験。それは、阿部氏にとって、いわば「今」という時間に浸りきる体験であったと言えよう。自分の意識の変化と、時間の移り変わりとが不可分にとけ合って一緒になっているという体験。意識がそのまま「今」という時間として、変化を続けているという体験である。この時間意識は、私が先(第一回)に挙げた、「滲む時間」のイメージと重なるだろう。

私は先に「滲む時間」と「流れる時間」の二つのイメージを挙げていた。「滲む時間」はいわば、途方もなく広い湖のイメージであり、「流れる時間」はいわば、直線とか川のイメージであったが、それを思い出した上で、ここでもう一度、阿部氏が抱いている「時間」に対する考えを振り返ってみたい。

今というもの「現」瞬間を中心として、「時間」という一直線――線分という有限ではない。無限の――の上の、一瞬間・現瞬間の燃焼、その姿の具現を、私は俳句一句と考えている。

「今というもの『現』瞬間」は、「滲む時間」と言い換えられるだろう。そして、「『時間』という一直線」は「流れる時間」と言い換えられるだろう。二つの時間のイメージが、ここで交錯している。一見、時間とは、過去から未来へ進む一本の直線のように見えている(=「流れる時間」)けれども、その中心である「今」を拡大して見ると、そこは途方もなく広くて、たえざる変化を続けている(=「滲む時間」)ということになろうか。阿部氏の時間論は、「今」「現在」に重きを置いている。

実験の中では「今というもの『現』瞬間」が、日常においてよりもずっと、強調されたものとして表れたに違いない。「今」が、LSDという薬物によってデフォルメされ、日常のときよりももっとグロテスクなものとして体感されただろう。「今」という「滲む時間」を、いわばLSDという特殊な虫眼鏡をもって拡大してみたのである。非日常の体験において彼は、時間と意識とが不可分であること、時間は意識とともにあるということを、改めて確認したのだと思う。

ところで、ここで気になるのは、時間と不可分になっている自分を背後から見つめていた、冷静な自分の存在である。実験中の記述が俳句の形をなしえたのは、冷静な彼の存在によるものであろう、と私は前回書いたのだったが、私の考えている湖のたとえでいくなら、冷静な彼はどこにいることになるのであろうか。湖そのものになっている「第一の彼」に対して、それを冷静に見ている「第二の彼」は、湖の一体どこにいるとすればよいだろうか……。

「第二の彼」は、いわば「漁師」であると、私は思うのである。漁師は網をもって、湖の水を大きく掬い取る。するとその網には、ひとかたまりの藻屑が掬い取られる。漁師はその藻屑を手に取って、こんなのが採れましたよといって、誰かに差し出す。その差し出された藻屑が、まさしく俳句作品なのである。

漁師が読者に差し出した藻屑。その藻屑は、湖のその瞬間にしか生まれ得なかったオリジナルなものである。二度とそれと同じ藻屑が採られることはない。なぜなら、湖の水の状態(=時間)は絶えず移り変わっていて、一度として同じ藻屑が掬われることはないのだから。

ここで、私が考えた、湖のたとえを整理してみよう。

・今を生きている湖全体としての自分。
・それを背後から冷静に見つめる、漁師としての自分。
・その漁師が湖から掬い取ったひとかたまりの藻屑。

この藻屑がまさに、阿部氏の考える俳句なのではないかと、私は思うのである。そしてこのたとえ話を続けるならば、漁師がもっていた「網」、この「網」こそが、言葉による定型十七音という、俳句の器ということになる。

前回の終わりに書いたが、阿部氏は俳句の十七音というものを、「ゲシュタルト」つまり、ひと連なりの全体であると考えている。彼は、俳句の「読者」を念頭に置いて、次のように述べる。

俳句は、一つのゲシュタルト・全として在り、読者にすぐさまに、いきなり把握され、直接にその心中に入りこみ安定し不動となる。そして、それが一種の詩的共感、快感を惹起せしめる。

これはどういうことか。もう少し具体的に、彼が自分を読者という視点から語った記述を見てみよう。

帚木に影といふものありにけり  虚 子

もし「わかる」「解釈する」ということを先にすれば、この一句「何ということはない。ただ帚木・帚草に影というものがありまする」という、ただそれだけのこと。しかし、この一句は私を「いきなり」うち、たたき、直感せしめ、よしと思わせてしまう。私は、「といふものありにけり」の音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さが、私にこの一句を直感させ「よし」の感を与えるのだと思いこんでいる。また諸諸の「帚木」歌伝説、諸説によって、さらに読めばさらに深く広く物思わされるけれども、それよりもさらに一歩も二歩もさきに「直感」が、一句からの「いきなり」のよろこびを私にもたらす。

ここから読み取れるのは、俳句とは何よりも、読者にいきなりの直感やよろこびをもたらすひと連なりの言葉(=ゲシュタルト)である、という彼の考えだ。俳句の「音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さ」即ち十七音が含む音韻や言葉遣いこそが、この直感やよろこびをもたらすのだという。


4

私はここまで、俳句における「時間」について考えようとして、阿部完市氏の言葉をそのとっかかりとして扱ったのだが、やや引用が多くなったこと、また、引用以外の部分では、どこまでが阿部氏の考えで、どこからが私の考えであるかが不明瞭なところがあったこと。それらが少し気になっている。

誤解の無いように、ここで改めて断っておくと、阿部氏自身が言っているのは、「俳句は時間詩である」「俳句はゲシュタルトである」という定義、この二つである。LSDの実験は、彼がこれらの考えを導く助けとなったものだ。一方、「滲む時間」と「流れる時間」の二つのイメージは、私の創作である。「滲む時間」をもとにした「湖と漁師のたとえ」も、私の創作である。

そして、今回からは、この文章「俳句とは何だろう」書き方を、少し変えてみたい。他人の文章や言葉の長い引用はなるべくせずに、私自身が考えていることを中心に書きたいと思う。現在、自分は俳句をこう考えているんだよ、ということを文章にしてみたいと思う。そして、読者からの感想、意見、反論などを、いろいろとたくさん聞いてみたいと思うのである。

まずはここまで書いてきた、「時間」についてである。なぜ、俳句における時間が私にとって気になったのか。それは、私がもともと、「時間」というものにとても興味があったから、また、多くの人も「時間」に興味があるに違いないと思っているからである。

例えば昼間、日向に浮かぶ埃を見ていたら、夜になっていたとか、夜ふとんに入って目を閉じてすぐ目を開いたら、もう朝になっていたとか、何時間かが一瞬のうちに過ぎてしまうという経験。そのような経験はいつも、「時間」というものの不可思議に興味をもつそもそものきっかけとなるように思う。

また、夜星を見る。宇宙の話を読んで気が遠くなる。「光年」とか「無限」とか「一瞬」とかについて考える。考えれば考えるほど、楽しくもあり、恐ろしくもあるだろう。「時間」とか「宇宙」のことについて真剣に考え始めると、だれでもぞっとするものだと思う。

人がものを考えるとき、「時間」はいつも問題の中心である。

そうしたなか、私自身にも、これまでの経験とか感覚をよりどころとしてなんとなくできている、「時間」に対するイメージがある。それをできるだけ人に伝わりやすい(?)形で言葉にしてみたのが、「滲む時間」と「流れる時間」の二つのイメージなのであった。

私は阿部完市氏の文章を読んだときに、とても親しみやすさを覚えた。時間に対する感じ方が、自分と似ていたからである。時間に対する感じ方のもとになっているのはもちろん、まず彼のもともとの感覚なのだと思うけれど。

そこで、俳句の話だが、俳句と時間とのかかわりは一つではない。私が現在考えている、俳句と時間とのかかわりの種類を、まず箇条書きにしてみよう。

1 俳句を作るもととなる時間…俳句のもととなる体験の時間。例えば「陽炎」の句であれば、作者が陽炎に佇んでいた時間。言い換えれば、風景とか心象風景とかが生まれる、生とか思いとかの時間。阿部氏のLSDの実験では、この時間が強調された。

2 俳句を言葉として組み立てるのに要する時間…俳句を実際に文字として書き留めるのにかかる時間。推敲にかかる時間など。

3 韻律としての時間…俳句の五・七・五、十七音を読むためには、黙読・音読にかかわらず、一定の時間を必要とする、という意味において。また、一句に独特のリズムがある、という意味において。

4 読者が体験する時間…例えば、「流れゆく大根の葉の早さかな 虚子」を読んで「流れ去る夢のような一瞬」を体感として感じ取る。或いは、「荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉」を読んで「壮大なる永遠」という恐ろしさに身震いする。といった、読者にもたらされる時間。

5 俳句の内容として描かれている物語の時間…例えば「遅き日のつもりて遠き昔かな 蕪村」「お手打の夫婦なりしを衣更 蕪村」などには、内容として長い物語の時間が描かれている。

6 十七音という形式の時間…俳句の十七音は言葉の形式として、人が一目で見通すことのできる絶妙の長さであるという意味において。

7 時計の時間…1~6とは別に存在する一般的な時間。人が時計から読み取る、いわゆる「時間」。

俳句と時間との関係は少なくともこの七つに分類できると思う。そして、この中で特に俳句の本質にかかわるのは、1・3・4・6である。

多くの俳論においては、このような分類が筆者の中で意識されていないため、また複数の筆者の間で、「時間」という言葉の意味するところが明確に定義されたり共有されたりしていないために、混乱が生じているように思う。


5

今年は早くから、うぐいすが鳴き出した。もう半月ほどになるだろうか。毎日、同じ一羽が鳴いている。朝と夕方、鳴くのである。この一羽は「ほーうお、ほけきょ」と、ややゆったりと鳴く。そのあと、五秒くらい置いてから、今度はさっきより少し高いキーで、同じように「ほーうお、ほけきょ」と鳴く。そしてまた五秒くらい置いてから、更に高いキーで「ほーうお、ほけきょ」というのである。このように三回くらい鳴く鳴き方を、毎日繰り返している。キーは違えど、同じ鳴き方が繰り返される。同じ「ほーうお、ほけきょ」が、転調されてコピーされてゆく感じである。

これを聞きながら、ふと思ったことがある。うぐいすの鳴き声の「ほーうお、ほけきょ」というひと連なりの音は、俳句一句の長さに似ている、ということである。

「ほーうお、ほけきょ」というメロディーを歌い終えるためには、何秒かの「時計の時間」がかかる。つまり、ある一定の時間がどうしてもかかる。だがその一方で、この鳴き声は、聞いている私の心において、一目で見通せる長さをもっているということに気づいたのである。

キーを変えて繰り返されるその一つ一つは、それぞれ間をおいて繰り返されているから、それだけの「時計の時間」は進んでいる。しかし、聞いていて私は、「時計の時間」とは別のところで、その一つ一つを、あたかも何枚かのカードを並べて見るように、或いは重ねて見るように、眺め、感じることができるのである。それは、聴覚というよりはむしろ、視覚に近い。

カードのたとえを使ったが、カードは、一枚一枚が一目で見渡せる広さである、というところに特徴がある。トランプなら一枚の中に「マーク」「文字(数字)」「絵」といったものが描かれているが、私たちはこの三つを一つ一つ順番に認識などしていない。?というマークと、Qという文字と、お姫様の絵とが同時に目に飛び込んでくる。一枚全体をいちどきに、一目で見渡しているのである。そうでなければ、スムーズなトランプゲームは成り立たないだろう。

また、さっきメロディーといったが、「ほーうお、ほけきょ」には、或る韻律があることにも気づく。もちろん、鳥の声なのだから、ある種の音の流れ、つまり音楽であることは当然なのだが、ほかの鳥の鳴き声と比べて、うぐいすの鳴き声には、どこか「切れ」があると思うである。つまり、言い切る感じ、不思議な完結感が感じられるのである。

まとめてみると、
・一目で見渡せる長さであること
・切れを伴った韻律が感じられること

この二つの点で、うぐいすの声は俳句に似ているのであった。そして、このうぐいすの声から逆に私は、俳句というものの特徴を再確認させられたのであった。

俳句の十七音という長さの特徴をいうとき、

帚木に影といふものありにけり  虚 子

この句はよく引き合いに出されるように思うが、この句は、十七音が持つ韻律と、完結感とを如実に表している句だと、私も思う。

これは帚木を写した写真というわけではない。だが、帚木というものの存在の具合が、写真とは違った形でここに表れているように思う。言葉を換えるなら、「帚木がある」という現象を認識する過程が、ここに凝縮されている、とも言えようか。ただ、そのような、いかにも大層なことが、いともたやすい言葉によって表されているところが、俳句という形式の特徴なのだと思う。「存在」がとか、「認識」がとかいうことは、作者はもちろん、読者もまた考えていない。更にいえば、「帚木」のことさえ考えていないといってよい。なぜなら、俳句が「韻律」であるとき、俳句は何も考えてはいないからである。俳句を作者が口ずさむとき、俳句を読者が口ずさむとき、皆、何も考えてはいない。「韻律」とは音であり、心地よさであって、そこには何の「意味」も存在しないからである。私がうぐいすの声を聞いていて思ったのは、「ほーうお、ほけきょ」の繰り返しは、俳句の或る一句を繰り返し口ずさんでいるときの感じに似ているな、ということでもあった。

ところで、「帚木に……」の句を考えるとき、韻律としては「意味」がないとしても、そこには「帚木」とか「影」「あり」とかいった言葉が載っている。それぞれの言葉には当然「意味」というものがあるから、読めば何らかの意味がかもし出されることになる。「言葉」には「音」という側面と、「意味」という側面がある。俳句を読むときには、音として口ずさむ心地よさを感じながら、意味として心には何らかの認識がかもし出されるということになる。

ただし、ここで注意したいのは、「音」と「意味」とがそのように、きっぱりと分け切れるものではないというところである。もちろん理論としては、きっぱり分けて考えることができる。しかし「俳句を読む」という行為に寄り添ってそのままに記述しようと思うとき、なかなかその二つをきっぱりと分けることは難しいのである。

韻律を感じながら、何らかの認識がかもし出されるという経験。何も考えていないところに、何かの認識が生まれてくるという感じ。この感じは、普段人がものを見るときの感じとよく似ているように思う。

そもそも、普段において、たとえば帚木を見るときに、「意味」として「これが帚木だ」と考えているだろうか。そうではないと思う。何も考えず、帚木というものを一目で、その名前も思わないままに把握していると思う。「帚木」という「意味」は考えないままに、いわば帚木の匂いをひと?みに感じ取っているときがあると思う。

心がそうした状態にあるとき、もし心が立ち止まってしまったら、そこに「意味」というものが紛れ込んでくる。「帚木だ」という思考も生じてくる。そして、そこにもっと長く立ち止まっているなら、「帚木という存在」に思い当たり、「帚木とは何か」という考察なども生まれてくる、ということになる。


6

前回、「ほーうお、ほけきょ」といううぐいすの鳴き声は、俳句一句の長さに似ていると言った。俳句一句は、一目で見通せる長さをもっている、ということであった。今回は、俳句が一目で見通せる長さである、ということについて、更に考えたい。

「会得の微笑」──俳句の理解はそこに始まる、と山本健吉氏はいう。例えば「古池や蛙飛込む水の音 芭蕉」を読むとき。まず一度終わりまで読んでみて、それからもう一度繰り返して低吟する。そして、頭の中でイメージの整理をし、やや時を置いてから、「なるほど」と頷き、にやりとする。この、にやりと洩らすのが「会得の微笑」であると。「なるほど」と頷く、ということで、この「会得の微笑」とは、感情よりも思惟の力に多く訴えるものであるという。そしてこの「思惟」という言葉は、山本氏の中では、ものを「認識」することと、ほとんど同意で使われている。

彼は、

鶏頭の十四五本もありぬべし   子規
帚木に影といふものありにけり  虚子

の二句を挙げ、次のように述べる。

これは体験による直観的な真実の把握ではあるが、とにかく感情よりも思惟の力に多く訴えるものであることに変りはない。俳句は宇宙の万象に対する的確な認識が含まれることを理想としている。鶏頭は「十四五本もありぬべし」といった具合に生えるものなのである。帚木は「影といふものありにけり」といった具合に立っているものなのである。
(山本健吉『挨拶と滑稽』)

帚木の句を読んで、「なるほど」と頷いたとき、つまり帚木について「的確な認識」を得たとき、読者は「会得の微笑」を漏らすということである。では、こうした認識はどのようにして生じるのか。それを山本氏は、「時間性の抹殺」という言葉で説明する。

彼によれば、俳句とは「十七音の言葉の連続が必然的に担わされた形式の時間性を抹殺して、おのおのの言葉を同時的に現前させようとする試み」である、という。おのおのの言葉が同時的に現前するというのは、例えば芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の句でいえば、「古池や」と「水の音」とが同時に存在するということである。つまり彼は、一句の中のすべての言葉が同時に存在するということを、「時間性の抹殺」と呼んだ。してみると、この時間性の抹殺とは、もう少し噛み砕いていうなら、「一句が一目で見通せる」ということと同じではないだろうか。

ところで、山本氏の言葉は、以前引用した阿部完市氏の言葉と内容がよく似ている。阿部氏は同じ虚子の「帚木の…」の句について、次のように述べていた。

この一句は私を「いきなり」うち、たたき、直感せしめ、よしと思わせてしまう。私は、「といふものありにけり」の音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さが、私にこの一句を直感させ「よし」の感を与えるのだと思いこんでいる。
(阿部完市『絶対本質の俳句論』)

こうした俳句の読み方を、阿部氏は「直感読み」と読んでいるのであるが、ここで出てくる「よし」とは、山本氏のいう「なるほど」とよく似ていると思う。この「よし」はやはり一種の「会得」に違いない。一句を一目で見通すとき、この会得は生じるのだと思うから。

ここで気づくことがある。

山本氏と阿部氏、二人が感じていることは、かなり近いと思う。少なくとも〝俳句を《読む》〟という体験のレベルにおいて二人が感じていることは、ほとんど同じであるだろう。

違っているのは、体験のあとの二人のものの考え方の癖、自分が得ている何らかの感触を言葉にするときのニュアンスである。山本氏はより論理的な言葉を好み、阿部氏はより感覚的な言葉を好んでいるように見える。だから山本氏は「思惟」と言い、阿部氏は「直感」と言うのだ。

もっと言えば、阿部氏は、彼の言う「近代俳句」の合理的、理知的なあり方から意識的に決別しようとしているというところが違う。また、山本氏が「十七音の言葉の連続が必然的に担わされた形式の時間性を抹殺して」のように、俳句の十七音がもつ韻律をともすれば否定するかのような言葉を吐くのに対して、阿部氏はあくまで韻律としての俳句にこだわる、という違いが見てとれる。

そして、二人の違いが最も顕著に表れているのは、山本氏が俳句を「時間性の抹殺」という言葉でとらえたのに対して、阿部氏は、俳句は「時間詩」であるととらえているところだろう。似た体験を二人は、「時間」をキーワードにして、正反対ともとれる言葉で表現することになったのである。

実際阿部氏は、山本氏の文章をかなり読んでいるようだ。例えば、〃俳句がねがうものは、一つの認識の刻印である〃(『純粋俳句』)という山本氏の考えについて、「認識の刻印」というものを理論的、理知的な把握としてではなくて、もっと直感的に感覚的にとらえようとしているくだりが、阿部氏の文章にある。解釈に幅が生じやすい山本氏の言葉を、より自分の心に近づけて解釈してみたいという阿部氏の思いの形跡が、その文章からはうかがえる。

阿部氏は、山本氏の文章が「合理」に陥ってしまうこと、つまり読者としてそれを合理的、理知的文脈において読んでしまうことを、避けたいと思っているのである。それだけ、山本氏の文章は、読み手いかんによって、解釈が違ってくる余地が大きいということでもある。

いずれにせよ、俳句というものが一目で見通せる長さをもっている、という考えは、二人のどちらからも引き出すことができると思う。


7

「俳句一句が、一目で見通せる長さをもっている。」ということを、今回は、ちょっと違う角度から見てみよう。

たとえば句会で、

水馬の水面の色の変はりたる

という句が出されたとしよう。だれかがこの句をいいと思って選んだとする。ところがその選句者がうっかりして、

水馬に水面の色の変はりたる

と選句用紙に書いてしまったとする。「うっかり」はもちろん、よくないことではあるけれど、仮にそういうことがあったとしよう。

そして、句会が「披講」に移る。すると、披講する人がそれなりに俳句の経験がある者であれば、選句用紙を見て、「の」が「に」に間違っていることに気づき、原句に直して披講するだろう。或いは、もしその人がまた「うっかり」そのまま披講してしまったとしたなら、聞いていた誰かが「あれ、どこかおかしいぞ。」と感じたり、「それは『に』でなく『の』だったよ。」と、披講した人に教えてあげたりもする。

また、今度は別の選句者が同じ句を選び、うっかり下五を、

水馬の水面の色の変はりけり

と書いてしまうという場合もあるかもしれない。この場合もまた、きちんとした披講者ならば、原句に直して披講してくれるだろう。

ここでわかるのは、俳句一句につき、だいたい二ヶ所くらい、そういったチェックすべきポイントがあるということである。まず上五の「てにをは」、そして下五の結び方の二ヶ所である。場合によっては中七の「てにをは」や切れを含めてせいぜい三ヶ所、といったところだろうか。そして十七音のひと連なりの中では、この二、三ヶ所のポイントは一目で見渡すことができるのである。

これをうぐいすの声にたとえるなら、原句が、

「ほーうお、ほけきょ」

だとすれば、書き間違えられた二句は、

「ほおお、ほけきょ」とか、
「ほーうお、ほけっきょ」

のような感じだろうか。大筋では近いけれども、細かいところが違っている鳴き声。それぞれの鳴き声は、一目で見渡せる長さであるから、違いはぱっと意識される。違いを認識することが簡単なのである。

実際のうぐいすにも、いろいろいて「ほーヨロヨロ、ほけきょ」とか、「ほーお、ホ・ケ・キ・ヨッ」のように、いろいろとバラエティーがある。うぐいすの鳴き声である、という大筋は合っているのだけれど、細かいところが違い、それがうぐいすの個性になっている。
個性ということでは、俳句でも、その二、三ヶ所のポイントこそが、その一句の重要な個性になっているということがいえるだろう。

そしてその個性は、一目でぱっと意識されているのである。

いい方を変えるなら、この二、三ヶ所のポイントさえ押さえていれば、或る俳句一句を「正確に」覚えてしまうことは割と簡単である、ということになる。

更にいうなら、或る一度の句会で出されたすべての句を、その句会が開かれている間、ノートを見なくても、ポイントにおいて把握しているということは可能なのである。だいたい百句から二百句の間くらいであれば、各句について、二ヶ所程度のポイントを押さえていることはできるだろう。

百句とか二百句の、全句の一字一句を暗記しているということではない。その中の或る一句が披講されたときに、または誰かの口に出されたときに、もし間違いがあれば、それに気づくことができる程度にポイントを押さえているということである。

披講する人は、選句用紙に書かれた各句をはじめから、いちいち原句と照らし合わせたりはしない。けれども、間違いがあったときに気づくことができるのは、そのポイントを押さえているからである。

同時に、披講する人だけではなく、句会に参加している人々がみな、そのポイントを押さえている。これは、「句会」という形式が成り立つための重要な要素である。

「句会」というものが成り立っているのは、俳句の「長さ」の性質によるところが大きい。

句会では、トランプのカードを回すように、句が回ってくる。一句一句は一目で眺められる長さ。それを眺めながら回していくのである。

一句一句のポイント、つまり個性は、さっきもいったように、その句会の開かれている間くらいだったら大抵覚えていることができる。俳句がそうした「長さ」であるからこそ、選句で自分が選んだ句、人が選んだ句について、会話がはずむことになるのである。

句会で誰かが、或る一句を挙げた上で、
「この句はね、……」
と話し始めるとき。「この句」といわれた瞬間に、聞いている人々の頭の中にはその一句の全体が正確に浮かんでいるはずだ。

これは、たとえば、
「この小説はね、……」とか、
「この映画はね、……」
といわれた場合とは、明らかに違う。

一つの小説や一つの映画の全体を或る印象として把握していることは可能であるが、全体を正確に覚えていることは無理である。ところが俳句の場合は、一句全体が、各自の頭の中に正確に見え、把握されているのである。これは、俳句というものだけがもつ特徴ではないだろうか。

それがゆえの面白さが、「句会」というものの面白さにつながっている、と思うのである。


8

前回までは、「俳句一句が、一目で見通せる長さをもっている。」ということを見てきた。これは、連載の第4回で箇条書きにした時間の、「6」にあたる。

6 十七音という形式の時間…俳句の十七音は言葉の形式として、人が一目で見通すことのできる絶妙の長さであるという意味において。

「6」を先にしたが、次に1の時間について考えたい。

1 俳句を作るもととなる時間…俳句のもととなる体験の時間。例えば「陽炎」の句であれば、作者が陽炎に佇んでいた時間。例えば、風景とか心象風景とかが生まれる、生とか思いとかの時間。阿部(完市)氏のLSDの実験では、この時間が強調された。

この「1」の時間について書く、ということは、俳句がどのように生まれるか、そのはじまりを記述する、ということになる。その方法として例えば、吟行に行ったときに俳句をどのように思いついたかについて、自分の体験を書くというのがある。「見たもの」からどんな言葉を思いついたのか、或いは「見て」いなくとも、その場でどんな言葉を思いついたのか、に注目するのである。

ところで、言葉には「意味」というものがあるけれど、言葉を思いつくとき、私たちは必ずしも「意味」を意識していないように思う。俳句には特にそういうところがあると思うのだが、あとからふり返ってみると、なんでこんな言葉を思いついたのだろうと思うことがあるはずだ。あのとき自分は何をしていたのだろう、という「?の時間」。それがこの「1」の時間である。

ただ、その「?の時間」そのものについて突っ込んで考えたり、記述したりは、普通はあまりやらない。阿部完市氏はそれをやったのであるが、彼の実験は、LSDという外的要因を加えたところが特殊である。できるだけ「意味」というものにしばられない状態に身をおくために、その一つの方法として外的要因を加えたということだ。

あの実験に似たことを私もできないか、と考えた。外的要因を加えずにすることも、もちろん可能である。吟行であれ何であれ、俳句はいつでも、意味にとらわれない「?の時間」から生まれてくるのだから。ただ、私はせっかくなら、阿部氏を真似て、何か外的要因を加えた実験をしてみたいと思ったのだった。いい方法はないか。

もちろん、薬物を使うわけにはいかない。となると、当然のことながら、まず思いつくのはアルコールの使用である。だが、飲み過ぎは身体が心配である。もっと健康的な方法はないか、実は私には思い当たることがあった。

私はふだん夕方か夜、いわゆるジョギングというものをしているのだが、あれは身体が乗ってくると、気持ちよくなってきて、意味というものにしばられていない、何も考えない状態のときがある。私は、そこに目をつけてみようと考えたのである。走っている途中で、頭が空っぽになる。そこでうかんだ言葉を覚えておく。そして家に帰ってそれをノートに書きとめる、という方法である。

ルールとして、必ず季語は入れる。もし五・七・五になるなら、ひと息で五・七・五にしておく。「ひと息で」というのは、考えずその場の呼吸とともに、ということである。推敲はしない。私はさっそく実験を始めた。

一日目。

走っている。右の耳の方に月の光を感じる。月の光が右耳を照らしたままについてくる。丁度真っ直ぐな道だったから、その状態がしばらく続いた。走りながら、これを何か言葉にしようと考える。走っているから、普通のときよりは、頭の働きが悪くなっている。季語を入れるのがルールだったな、と思い出す。そこで、

右耳と春満月がおんなじに

とできた。せっかく面白い状態を経験していながら、出て来た言葉はどうだろう。あまり面白くない。季語をどうしようかなどと頭を使うからだろうか。〈春満月〉という熟語からしても、理があるように思う。また〈おんなじに〉という言葉も、きわめて常識的な感じである。

その日の夜中、落ち着いてから、机で推敲してみた。この「推敲」という行為は、連載第4回での時間の分類では、「2」の時間にあたる。

2 俳句を言葉として組み立てるのに要する時間…俳句を実際に文字として書き留めるのにかかる時間。推敲の時間など。

机でもう一度、走っていたときのことを思い出してみる。心の中で、「1」の時間を再現してみる。句を推敲し書き換えていくという「2」の時間の中にあって、心は「1」の時間の再現を試みている。あのときどんな感じだったか。月がついてきたんだよな、と思い出す。

右耳に春満月がついてくる

なるほど、こんな感じではあったな、と思う。でも、「ついてくる」というのは、まだ理屈っぽい。

そこで、心身をさらに「あのとき」に持っていく。すると、走っていたときの、右耳に何かが「はりついている」という感覚が蘇ってきた。それが月だということよりも、耳の感覚の方が強い。耳にぼんやりとしたあたたかさも感じる。ここに焦点をあてようかと考える。すると耳がもっと大きくなり、風景が溶解しはじめ、私中心の景色となって広がってきた。

右耳に春の日がはりついてゐる

結果として、現実に自分が見た「月」の風景ではなく、「日」の風景として句になった。まだ、どこかに理がついているようにも思えるけれど、この句は、どのみちこのくらいにしか行けないような気がした。

或る句が潜在的にどれだけの力を持っているかということ、即ちその句のポテンシャルというものは、その句が生まれるもとになった「1」の時間にゆだねられている。私がその日体験した「1」の時間は、よきにせよ悪きにせよ。そのくらいのものだったということになる。

また、「1」の時間は、かならずしも実際に見た風景と正確に一致するわけではないということもわかった。この句が実際の「月」(夜)の風景から、最終的には「日」(昼)の風景に転換してしまったように、「1」の時間は、「何があったか」ということよりも、「何を感じたか」ということに支配されるものなのである。

ともかく、一日目はこれで終わった。


9

実験の二日目。

住宅の塀に沿って走っていると、塀の上に突然、長い耳の垂れた犬がぬっと顔を出して吠えてきた。揺れている耳が髪の毛のように見えて一瞬、人かと思い、どきんとしたが、しばらく走りながら、これを句にしてみようと思いついた。季語はどうしよう。さらに走りながら考える。さっきの家の塀に三椏の花が見えていたような気がする。そこで、

人の顔の犬が顔出すみつまた咲く

となった。

家に帰って見てみると、この句もちょっと、「意味」にしばられているようである。特に〈人の顔の犬が顔出す〉の部分が説明的で面白くない感じだ。
あとで、犬でなく三椏を主人公にして直してみた。

三椏の花が人間めいてくる

実験の二日目を終えて、私はちょっと方針を変えることにした。頭を使ってしまっている原因は何か。その原因の一つは、無理に季語を入れようとしていること。もう一つは、何かを「見」て、それを言葉にしようとしていることだと思った。さっき私が書いた文では、「しばらく走りながら、これを句にしてみようと思いついた」という部分と、「季語はどうしよう」という部分がそれにあたる。走っているのに、あたかも机にいるときのように考えてしまっているのである。頭をできるだけ空っぽにした状態でやりたい実験なのに、そこがうまくいっていないのである。
そこで私は、ひとまず、季語はなくてもよいことにした。
また、必ずしも何かを「見」てはいなくても、ふと思いついた言葉や、口をついて出た言葉を大事にしてみようと考えたのである。

それから、できるだけ五・七・五には近づけるのがよいけれども、そうなっていない断片的なものができた場合でも、それを残すことにした。

三日目。

走っていて、こんな断片が口をついて出た。

とんでみてくれザリガニなら

しばらく走っていると、もう一つ出た。

壜なんて澄ましてばかり

これら二つのフレーズは、走っていて、かなり頭が空っぽの状態で出てきたものであるが、どちらも何らかの意味は表している。言葉というものは、もともと意味があるものだし、その上で更に、普段使い続けているためか、やはり意味を伴って表れてくるものだと思う。言葉である以上、「意味」というものはどのようにであれ、必ず生じてくるということがわかる。ともあれこの言葉が浮かんだとき、走っている自分が置かれていた状態としては、「1」の時間、つまり「?の時間」にあったといえる。

ところで、〈ザリガニ〉の方は上五を付け、〈壜〉の方は、下五に何か季語を付ければ俳句になりそうである。

火星までとんでみてくれザリガニなら
壜なんて澄ましてばかり雲の峰

一句目は、理屈っぽい青年が作ったような句になり、二句目はすねた女性が作ったような句になった。口をついて出た言葉を生かそうとすると、意外と、作者の人格が固定されにくいことがわかる。

四日目。

走りながらふと、「自動車には顔がある」と思った。つまり、ヘッドライトが、人の顔の「目」に見え、バンパーやナンバーが口とか髭とかに見えるのである。車の後ろ、テールランプの方も顔に見えることがある。その日、一台の車が、私を追い越していった。テールランプが灯っており、それが顔に見えた。なんともいえない、塞いだ表情をしていた。そのとき、

けむしい。

という言葉が口をついて出た。そのテールランプの、塞いだ顔がそう言っているように感じたのである。「けむしい」などという言葉は存在しない。今考えると、「けむたい」と「さみしい」を組み合わせた造語のようでもあるけれど、そのときは、ほとんど何も考えずに「けむしい」と思ったのだった。いつものように、忘れぬようそれを唱えながら走り、家に戻ってから文字として書いておく。

けむしい
けむしいといふテールランプの車

と書いておいた。その日はそれで終わったのだが、翌日、机の上でちょっとした思いつきのアレンジをしてみた。

毛虫いいとか言つてゐる車かな

言葉の音から「けむしい→毛虫いい」「いふテール→言つてゐる」と連想して直してみた。言葉が言葉を生む、ということがある。そこには音感から来るいわゆる「聞き違い」なども含まれる。

前回、実験の一日目に行ったような、「1」の時間を追体験した「体験による推敲」とは別に、「言葉のつながりに沿った推敲」とか「聞き違いによる推敲」という方法があるのである。ただこの句、〈車かな〉では意味が分からなすぎるので、〈車〉を別の言葉に直してみる。

毛虫いいとか言つてゐる教師かな
毛虫いいとか言つてゐる女の子

この二つをもう少し直してみたくなった。さらに直してみよう。


10

先生は毛虫いいとか言つてゐる
女の子が毛虫いいとか言つてゐる

前回の句をさらに直した。とりあえず、ここで止めてみよう。一句目と二句目とで雰囲気が違う。一句目は青春の感じ。二句目はなんとなく意味ありそうな感じか。

一句目は、〈先生〉のことを詠んでいるというよりは、先生を見ている作者の気持ちが詠まれているようだ。「先生は毛虫がいいとか言っているけれど、そんなこと僕には関係ないさ」というどこか青臭い気持ちが読み取れる。言葉としては〈先生〉が主語になっているのだが、内容として、作者が主人公になっているのである。

二句目は「意味ありそうな感じ」と言ったが、意味には表の意味と裏の意味とがあり、その関係は時に「喩」とも呼ばれる。この句の場合、〈毛虫〉という言葉が何らかの隠喩となって働いていると考えるのである。毛虫の隠喩は、何かの物として即物的にも考えうるし、或いは女の子のもやもやとした暗い心の有り様とか、秘められた残酷性とかいった、抽象的なものにも考えうる。あくまで考えうる、ということなのだが、二句目の方をそう読んでしまいがちなのは、〈女の子〉という言葉がもたらす効果なのだろう。この句では作者の気持ちよりも、〈女の子〉そのもののことが強く詠まれているといえる。

一句目と二句目のこうした違いは、〈先生〉と〈女の子〉という言葉の違いがもたらしていると考えられるが、更に言えば、〈先生は〉〈女の子が〉という助詞の違いも微妙に影響している。この〈は〉と〈が〉の違いが割と重要なのだと思う。

さっき句を直したときに、二句それぞれに、別の助詞が使われたのはなぜか。それは、〈先生〉という言葉が必然的に〈は〉と引っ張ってきたのであり、〈女の子〉という言葉が必然的に〈が〉を引いてきたのだ言える。

これは、次のようなことによると思う。言葉として、〈先生〉というものは、そのものとしては詠まれにくい存在である。むしろ〈先生〉とは、それに対しているところの「自分」(ここでは作者)を照らし出すための言葉としてあるのである。この〈は〉は、「先生は毛虫がいいとか言っているけれど私は……」というように、先生以外の誰かを含意しているのである。一方〈女の子〉は、「女の子」そのものが詠まれるべき存在としてあるようである。

言葉には、いわゆる「意味」だけではなく、それを用いるときの話者の立ち位置とか、或る一定の匂いのする文脈への「導き」が、あらかじめ含まれていると思う。そうした「導き」をも含めた全体を、「言葉の意味」と呼んでしまってもいい。その「導き」が助詞をも引っ張ってくるのだと考えたい。ところで、一句目、

先生は毛虫いいとか言つてゐる      乱父

これはこれで、一句になったのではないだろうか。なので、ここで止めておこう。ちなみに、「乱父」(らんぷ、と読む)は走っていて頭に浮かんだ俳号である。

二句目〈女の子が毛虫いいとか言つてゐる〉の方は、もう少し変えてみたいと思う。この句の、なんとなくもやっとした雰囲気は残したい。どうすればよいか。少し理屈っぽく頭を使ってみよう。〈言つてゐる〉というのは、もちろん「口で言っている」のである。そこで、

女の子が毛虫いいとか口で言ふ

とする。句も少し理屈っぽくなった。しかし、〈毛虫〉と〈口〉の組み合わせは面白いと思う。そこで、〈毛虫〉と〈口〉は残すことにして、

口のある毛虫がいいといふ人も      乱父

となった。これで決定にしたいのだが、どうだろうか。人の意見が聞いてみたい。というのは、作者としてはこの句、ちょうどいい具合に意味がなく、ちょうどいい具合に意味がある、という辺りで止めたつもりなのである。そういう具合は人によって違うと思うので、第三者の読者の意見が聞きたいのである。

ただ、こういうことを考えていると、そもそもこの句のおおもとに戻って、

毛虫いいとか言つてゐる車かな

という形でも、句として成り立つのではないのか、と考えてみることもできる。この句に対して、〈車〉がものを「言う」というのはおかしい、と言われるだろうか。しかし、車がものを言わないとは言い切れないから、とりあえずこの句は成り立つだろう。

また、〈車〉が何か(たとえば「女性」)の隠喩になりうるのであれば、俳句として成立するだろう。「読む」という行為は、何らかの「補助線」(喩を読み解く鍵)をもって行われるものである。よって、この句は、その作者が、読者に対して、「俺の喩を読み解いてくれよ」という強い思いを込めて、〈車〉に或る「喩」をゆだねたのだとすれば、俳句として十分成立するのではないだろうか……。

それなのに作者は、最終的に〈車かな〉の句を残さず、〈口のある〉の句の方を残した。そう選択した理由は、実際に毛虫に口があるから、ということではない。また、〈口のある〉の句を何かの隠喩として作ったわけでもない。

作者は単に、〈車かな〉では、即物的な意味としても、或いは隠喩としても無理だと、主観的(或いは直観的)に判断したのである。〈車かな〉の句は「独りよがり」になると判断したということである。一方、〈口のある〉の句が「独りよがり」でないのかどうかといえば、現時点では作者にはわからない。作者は、「〈口のある〉の句は独りよがりではない」と、主観的(或いは直観的)に「信じている」に過ぎないのである。

ところで、さっきの推敲で、〈女の子〉という言葉は結局消えてしまったけれど、あの句は、可能性として、もっと別の方向でも直すことはできた。例えば〈女の子〉を〈女〉と変え、

毛虫いいといふ物知りな女かな

などというのもあっただろう。こういう方向で、さらに進めることもできたはずだ。ただ、そうしていくうちに、より面白い句にもなれば、より露骨な句にもなりうる。「隠喩」というものは、「たとえられるもの」が具体的な何かに特定されないほうが面白いのであるが、逆に、「たとえられるもの」が特定されてしまうような露骨な句、そんな句は時に、「ばれ句」と呼ばれる。

推敲をどこに持っていき、どこで止めるのかは、やはり作者の判断ということになる。


11

実験の五日目。

走っている。すると、見えている風景に関係なく、こんなフレーズが口をついて出た。

客席で歯ごたへのあるお味見を      乱父

五・七・五にぴたっとはまった、と思った。ただ、季語がない。

しばらくしたあと、もう一つ、二つ出た。

とらいちのだぶるねんどのどびんむし
ゆるしてよ水より暗いぼんやり坊や

〈とらいち〉とは何か、ふと見た看板だっただろうか、或いは以前どこかで見た店の名前だろうか。今ではわからない。〈だぶるねんど〉も、「ダブル粘土」なのだろうと思うけれど、それにしても、そういう粘土はないだろう。その点、〈ゆるしてよ〉の句の方は、言葉として、少し意味がわかる部分もあるようだ。ただ、どちらの句にも、季語がない。どちらの句も、意味よりも、音感が優先のフレーズであると言える。

五日目のこの三句には、今までにない奇妙な手応えがあった。この手応えは、五・七・五あるいはそれに相当する長さのフレーズが、一つらなりに、いちどきに、するするっと口から出てくる、という体験によるものである。どうしてそういうことが起きるのかといえば、それは、五・七・五が口や舌のいわば癖となっていたところに、その日のそのときの「息」が重なって、たまたま言葉として出てきた、ということになるだろう。

私は前(第3回)に、俳句の生まれる源泉となる時間、言い換えれば自分が生きている時間というものを「湖」にたとえ、俳句というものを、その湖から掬い取った「藻屑」にたとえたが、この日の三句は、この藻屑を掬い取る作業の、或る側面が表れていると思った。それは、俳句として一つらなりの言葉を掬い取るためには、そこに、「息」というものが必要だということである。

この「息」とは、いわゆる「五・七・五という器」とは、違ったものである。湖のたとえでいうなら、「五・七・五という器」は「網」である。それとは別に、ここでいうところの「息」とは、網をもって藻屑を掬い取るときの「タイミング」とか「合わせ方」「呼吸」といったものに当たると思う。「息」には、偶然に近いものから、かなり意識的なもの、理屈を通したものまで、いろいろな段階のものが存在すると思う。

私は今は、どちらかといえば、偶然に近いもの、空っぽに近いものを求めているので、この方法で、もう少し作ってみようと思った。意味があるかないか、「無季」でよいのか、といった考え方をとりあえず横に置いておき、しばらくこれを続けてみようと思ったのである。条件として、「走って作る」。それだけにする。

実験の六日目以降も、同じ方法で句を作っていった。

うまい蒸しパンがらんとした踏切     乱父
夕暮れの先がとがつて道となる
われてゐる一見ふつうの磯料理
後頭部だね盛り上がる部活動
あなくろや横並びにもほどがある
ある程度放つたままヤリイカのまま

ノートに書かれた句には、まず、走っている間に覚えてきて、そのまま書いた句がある。また、それをもとにできた句もある。後者は、できるだけ初めに思いついた味が残るように、できるだけ少ない推敲(無理に季語を入れ込んだりしない)を加えた。推敲といっても、基本的には一回だけ、それもなるべく走ってきた直後に行っている。走ってきた直後は、まだ頭が空っぽになりがちであり、体も同じ「息」を保っているような状態だから、そのまま行ったほうがよいと考えた。

吊るす糸いつもばつてん印だよ
吊るす神様ストレスとれる鼻とれる
C82イエローQ 箱になるなら東向き
石がしきりに下さいと吹いてくる
やつぱり組だとよ そら見たことよ

次のように、季語があるものもできた。

くすぶつてすすつと来たよ新てふてふ
おつくうな めくれめくれる障子かな
たるんでる次の晩からひなあられ
ここはここでも西瓜の水びたしだよ

こうした句がノートに増えていく中で、気づいたことも幾つかある。たとえば次の句。

野菜ねるのか夕焼かもなんばん

ここには、〈ねるのか〉の「寝るのか・練るのか」、〈かも〉の「かも(知れない)・鴨」、〈なんばん〉の「南蛮・何番」といった、二重の意味を、読もうとすれば読むことができる。この、二重の意味は、作者の意図とは関係なく偶然に発生したものである。また、次のような句にも、二重、三重の意味を読むことが可能である。

くしろ出現さあ屋上へ出てくれ
穴あつてんぼろう泡ぶくと共に消ゆ
紙粘土噛めるんです亀ないしセメダイン

もちろんこれらの句が、そうしたダブルミーニングの効果を狙って作り出された大した句なのだと言いたいのではない。単に、出てきたばかりの言葉であり、いわば舌足らずな表現であるが故に、意味が曖昧になっているというだけのことである。

ただ、ここで注目したいことが二つある。

一つ目は、これらがひと息で出てきた言葉の一つらなりであること。しかもそれが「五・七・五という器」に乗らんとして出てきたものであるということである。俳句とは、或る特有の長さをもった一つらなりの言葉であり、そういう意味でこれらの句は、よきにせよ悪きにせよ、俳句の原初の姿なのである。

二つ目は、俳句にはもともと、言葉の「いわゆる正しい意味のつながり」ということとは違った、「いわゆる正しい意味ではないところの意味の広がり」が存在している、ということである。俳句がいわば、湖から巧みに掬い取った藻屑であるということ、阿部完市氏の言葉でいうなら、俳句はゲシュタルトであるということ、の一つの側面がここにある。


12

鴇田 どうも、こんにちは。それにしても、走って作る俳句の実験、ご苦労さまでした。

乱父 とんでもないです。ただ、「実験」と言われても、私としてはこれが「実験」なのだと意識することはありませんでした。いつも走っているか、それに近い状態だったので。

鴇田 え、そうなんですか?

乱父 当たり前じゃないですか。「実験」だと名づけたのはあなたであって、私ではありません。

鴇田 すみません。

乱父 さっきあなたから教えられて初めて、あれが「実験」だったのだ、ということを知りました。いや、正確にいうと、あれが「実験」と名づけられ、「実験」と呼ばれるものであるということを知ったのです。私は言葉を知りませんから。

鴇田 え、それはおかしいですね。あなた、言葉を使っているじゃないですか。

乱父 あ、今は例外です。この対談のためにあえて言葉で話しています。でも、走っているときは言葉を知りません。

鴇田 それがおかしいと言っているんです。あなたは走っているときも、言葉を使って俳句を作っていたじゃありませんか。

乱父 ちゃんとには知りません。だいたい、あまり意味を踏まえていないんです。それに、あなたが言うように、「言葉を使っている」という意識はありません。あえていうなら「言葉を話している」という感じです。いや、むしろ「言葉が言っている」と言ったほうがいいかも知れません。つまり、「言葉が勝手に言っている」ということです。意味を考えずに言葉は、すらすら出てくるときがあるのです。そして、言葉が口から出た次の瞬間には、私はもうほとんどいなくなっていて、そのあとは鴇田さんが言葉を「使って」いました。

鴇田 そうですか。でも、あなたは今、「意味を踏まえていない」と言いましたが、実験の中でできた句には、まったく意味がないわけでもなかった。また、かなり意味のある句もあったのではないですか。

乱父 その理由は二つあります。一つは、そのそも言葉には意味があるということです。もう一つは、あなたの推敲が加わった時があるということです。あなたが推敲すればするほど、意味が出てきます。また、あなたはたまに、「意識的に」意味を無くそうとしていることもあるようですが、完全に意味を無くすことは無理ですよ。

鴇田 わかりました。では、今あなたが言っていることと「時間」とは、どのように関係があるのでしょう?
走っているとき、時間はどのように流れていましたか。

乱父 あまのじゃくなことを言うようですが、時間は決して「流れ」ません。流れているのではなく、ボヤンと広がっているのです。

鴇田 「広がっている」ということは、「時間」の話ではなく「空間」の話ではないですか?

乱父 違います。あなたは、時間は「流れ」であり、空間は「広がり」であると思っているでしょう。実は、そうではありません。流れでもなく広がりでもなく、ボヤンと開けているものこそが「時間」です。いや、もっと正確に言えば、開けているというより、「ボヤンとある」。いや、「ある」とも言いたくない。つまり、「ボヤン」そのものが「時間」です。

鴇田 時間は流れるものではないのですね。

乱父 形はないんです。それを、形ある言葉にして「時間」だと呼んでいるんです。名づけているんです。いくら私だって、名づけることをしなければ、言葉を語れないのですから。言葉を使ってあなたにつき合っているんですよ。ただ、「時間」と言った瞬間に、それは「流れる」ものとなってしまう。時間という「言葉」には、「流れる」という意味が含まれてしまっているからです。私はほかに言いようがないから仮に「時間」と呼んでいるのですが、そう呼ぶとき私は、「時間」という言葉から「流れる」という意味を抜き去ってしまいたい。そういうことです。

鴇田 わかりました。すると、乱父さんにとって「空間」とは、どこにいってしまうのでしょう。

乱父 思い切って言えば、「空間」はありません。空間は、あなたの頭の中で考え出されたものです。でも時間は、考える以前に「ボヤン」とあるのです。

鴇田 え、空間は無い? まあいいでしょう。でも、さっきあなたは、流れでもなく広がりでもないものが「ボヤン」だと言いました。その「ボヤン」を、「時間」と呼べるのなら、同じ理由で「空間」と呼んでも差し支えないのではないですか。

乱父 う、痛いところをついてきますね。そ、それは今言ったように、「時間」だと「仮に」呼んでいるに過ぎません。ただ、同じ「仮に」呼ぶにしてもですよ、私は「空間」とは呼びたくないのです。なぜなら、「空間」という言葉には、「形」という意味が含まれています。形無きものを、形ある「空間」という言葉では呼びたくないのです。

鴇田 乱父さん、それはちょっと屁理屈に聞こえます。ものの言い方がちょっと私に似てきましたね。さては、私の見ない隙に何か哲学書でも読みましたか。まあ、それはともかく、どちらにせよ「仮に」呼ぶだけならば、「時間」という言葉に拘らないで、「空間」と呼んだっていいはずじゃないですか。それに、あなたは普通の意味で言う「時間」つまり流れと、「空間」つまり広がりとを認識しているはずですよ。その証拠に、走っていて自動車にぶつかったこともないし、走りやすい地面を選んで走っていたじゃないですか。

乱父 いや、自動車を避けたり地面を選んでいたのはあなたです。走るという行為は百パーセント私の働きではないですよ。

鴇田 なるほど、確かに私の意志で物を除けたりしていることもあります。そんな時は、鴇田九〇パーセント、乱父一〇パーセントぐらい割合で、走るという行為が成立していたのかもしれません。しかし、私が意識せずとも自然にすいすい足が動いていることがありました。走っていて調子が出てくると、わたしは何か乗り物にでも乗っているかのように感じ初め、自分が「走るという動作」をしていると思っていない状態の時がありました。それでも木にぶつかったりはしなかった。その時に限っていえば、鴇田一〇パーセント、乱父九〇パーセントぐらいの割合で、走るという行為が成立していたのではないですか。

乱父 なるほど、言われてみればそうですね……。ああそうか! ありがとう鴇田さん、危うくあなたになるところでした。どうも言葉を使っていると、内容が論理へと、そして極端へと傾いてしまいます。わたしは「時間」という言葉に拘るあまり、「空間は無い」という極端な決めつけをしてしまいましたが、それが間違いでした! 私としたことが、言葉にとらわれてしまったのです。そうです、言葉をできるだけ取り払って思い返してみると、私が言う「ボヤン」は、確かに広がり(空間)らしきものを含んでいます。「ボヤン」の中には、流れ(時間)らしきものと広がり(空間)らしきものの両方が含まれているのです。でも、いつもは、流れや広がりをくっきりと認識する前に私はいなくなってしまい、くっきりと認識した瞬間にはあなたが現れるのです。そしてあなたが、言葉を言葉として使い始めるのです。ただ、今日の私はいつもと違って言葉を話していますから、流れや広がりをいつもより強く認識ができるようになってはいるのですが。

鴇田 なるほど、では、その「ボヤン」を「時間」と呼ばず、たとえば「時空」などと呼んでみたらいかがでしょう。

乱父 それは嫌です。「時空」という言葉には、一般に使われる言葉としては、胡散臭い手垢がつきすぎていますから。「時空」と言った瞬間に、何かわかったような気になってしまうところがいけません。私はせめて、「ボヤン」ぐらいで勘弁してほしい。もう「時間」とも呼びたくない。でも、あなたが使う言葉としては、「ボヤン」では恰好がつかないでしょうから、どうぞ「時間」とも「時空」とも呼んでください。

鴇田 そうですね、「ボヤン」はちょっと(笑)。しかし、私も「時空」は嫌なので、言葉としては「時間」と呼ぶ以外にないようです。もう分かっているとは思いますが、あなたがさっき私になりかけていたときに言ったように、私は「空間」という言葉ではなく、「時間」という言葉で、それを呼びたいのです。
ところで、ここでともかく言えることは、走るという行為は、その都度二人の働くパーセンテージは違えど、私とあなたの共同作業だったということですよね。

乱父 そう思います。そして、走りながら俳句を作るという行為も、これと同じ共同作業ですよ。「推敲」を後であなたがしてくれたという意味で共同作業なのではなく、そもそも走っていて、句が口から出た時点で共同作業だったということです。本当の私は言葉を知らないのですから、句が口をついて出たその瞬間に、既にあなたが関与しているのです。その都度、二人の働くパーセンテージは違いますがね。あなたは前に「ゲシュタルト」とか言っていましたね。実験で生まれた句がその「ゲシュタルト」であるとすれば、あれは、あなたと私との瞬間的な共同作業の中で紡がれたものです。

鴇田 すると、私が実験の中で出来た句に、「乱父」と署名したことは、厳密にいうと間違いですね。

乱父 そりゃそうです。作者名としての「乱父」と本来の乱父は違います。ただ、私は今ここでは、あなたとの対談をするために「例外的に」言葉をしゃべっていますから、作者名としての「乱父」にかなり近い存在にはなっております。

鴇田 乱父さん、あなたは本当は言葉を知らないのに、今日は言葉を使った話に付き合ってもらってありがとうございました。

乱父 こちらこそ、ありがとうございました。こういうのもたまには楽しいですね。では、私は消えることとします。(ボヤン)


この辺で、このたびの「時間」の話はひとまず終わりである。

2011年4月23日土曜日

●週刊俳句・第208号を読む 鴇田智哉

週刊俳句・第208号を読む

鴇田智哉

まずは、心に残った句を。

吊り橋へ躍り出でたる孕鹿    矢野玲奈
海市まで雲を連れゆく汽笛かな
(矢野玲奈「だらり」より)

一句目。一瞬の出来事の印象がそのまま物語に、やがては昔話に、そんな雰囲気がある。
二句目。和紙のちぎり絵のような手触りを感じる。ちぎり取られた紙のように、空に、ぼやっ、ぼやっと雲なのか、汽笛なのか、見えている。

さえずりさえずる揺れる大地に樹は根ざし  福田若之
むにーっと猫がほほえむシャボン玉
(福田若之「はるのあおぞら」より)

一句目。色のつるつるとした、漫画のアニメーションを思う。右へ左へ天へ地へ、大きな揺らきが表れている。句自体がきらきら揺れ続けている感じ。止まらない。
二句目。猫の顔が漫画のように印象的に、分かりやすく心に飛び込んでくる。すると思わず自分も笑ってしまう。


「傘Vol.2」を受けて、俳句におけるライト・ヴァースが話題となっており、それに関連した記事を、山田露結氏、生駒大祐氏が寄せている。二人の論の詳しくは、原文を読んでもらうこととして、ここでは、私の感想を少しだけ述べる。
私の考えとしては、「傘Vol.2」は、「ライト・ヴァース」を俳句読解のためのキーワードの一つに引き上げた、ということで意味があると思う。
ただし、キーワードはキーワードである。
生駒氏がまず、
ライトヴァースという言葉をまず定義してそれに見合う俳句を選び出すという行為に「踏絵」以上の意味があるのだろうか(極端な例を出すと「古池や蛙飛び込む水の音」という句に対して、「古池」という言葉を生かすために「蛙」が使われており、季語としての重心がおかれていないのでこの句はライトヴァース的である、などと僕が言ったとして何が生まれるのか)。
と断っていることからも分かるように、「ライト・ヴァース」というキーワードは、使う人の意図によってどうとでも使える。だから、一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かで決めていくことには、意味がない。生駒氏はそれを確認した上で、「ライト・ヴァース」という定義の有効性を論じている。

また、山田氏が、
「俳句」あるいは「俳諧」はそもそもの成り立ちからして「ライト・ヴァース」的な側面を備えた文芸だったのではないだろうか、ということである。さらにそこから芭蕉が晩年にたどり着いたのは「軽み」の境地だったよなあ、と。
と言っているように、俳句そのものが元々持っている「ライト・ヴァース性」に思い至ってしまうと、一つ一つの俳句作品を、100か0かに判定するのは、余計に意味がなくなってくる。俳句自体がそもそも「ライト・ヴァース」だということになると、「俳句におけるライト・ヴァース」の意味する範囲がとても広くなってしまい、「ライト・ヴァース」というキーワードが多様で多角的になってくるからだ。

「ライト・ヴァース」は俳句読解のためのキーワードだと言ったが、この場合キーワードとは、いわば眼鏡だ。俳句を見るための眼鏡の一つ。眼鏡はほかにもある。「伝統性」とか「写生」とかもそうだ。また、「物語性」とか「脱構築性」とか、(週俳で時々話題になっている)「フェイク性」とか、さらに「フシギちゃん度」とかもそうだ。つまり、俳句の形式にまつわるものから内容にまつわるものにわたって、さまざまな位相でたくさんの眼鏡が存在している。大切なのは、眼鏡を恣意的に一つにしぼって終わりにしてしまわないこと。一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かでやるのではなく、「この句は『ライト・ヴァース度60%+伝統度30%+フシギちゃん度10%』だね」のようにやる。そんな方向性でいいんじゃないかと、少なくとも私は思っている。
以上は、私が生駒氏、山田氏の文章を読み、「傘Vol.2」を読み返しながら考えたことである。

「傘Vol.2」にちょっとだけ触れておくと、私の感想も含め、「傘Vol.2」は既に多くの波紋を広げているということで、存在感のある本となっている。
「傘Vol.2」にある越智友亮氏の「俳句におけるライト・ヴァース」は、俳句の「ライト・ヴァース」をとても簡潔に定義づけしていてわかりやすい。その上で、複数作者の俳句作品をとり上げて、その一句一句が「ライト・ヴァース」であるかどうかを判定しており、それが、越智氏自身の「ライト・ヴァース」観を伝えるものとなっている。
私はさっき、「100か0ではなく」と言ったが、越智氏がこの文章の後半でやっている「ライト・ヴァース」か否か判定(=100か0か判定)は、「ライト・ヴァース」という新しいキーワードのプレゼンテーションとして、「ライト・ヴァース」を一義的にはっきり定義付けておくという意味では必要なものだと思う。判定に越智氏が苦心しているらしい、ということが何となく透けて見えるところも含めて。
そもそも、キーワードはキーワードに過ぎないのだから、一句一句の判定に苦しむのはしかたがない。そういう意味では、同じ「傘Vol.2」の「『私』の希釈度」の中で、藤田哲史氏が「ライト・ヴァース」という言葉をそのままには使わず(一回も使っていない!)、「ライト・ヴァース」「ライト・ヴァースらしさ」(色字鴇田)という言葉を使っていることが目を引いた。意識してそうしているのか、無意識にそうなったのか、あるいは扱った俳句作品が神野紗希氏のものだったことでそうなったのかはわからないが。

ともかくも、「傘Vol.2」により、「ライト・ヴァース」という言葉は、俳句解釈のための新しいキーワードとして、存在感をもつことになった。「週刊俳句 第208号」を読んで、改めてそう感じたのである。

2010年10月6日水曜日

●ソフトマシーン余波

ソフトマシーン余波

SST(sakae-seki-tokita)ソフトマシーンを語る
http://togetter.com/li/56762