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2018年6月24日日曜日

〔週末俳句〕写真 上田信治

〔週末俳句〕
写真

上田信治


鹿児島から入って、宮崎に泊まり、大分に泊まり、松山に泊まり、福山に泊まるという旅行をした。全部一泊ずつ。この動線のながーい旅行を計画したのは妻だ。

鹿児島で思ったこと。
西郷どんのペーパークラフトが、あちこちに飾られていて、それが、柳原良平のアンクルトリスとか赤福の旅びとを連想させる造形なんだけど、あのアメリカっぽい造形の原型はなんだろう。

宮崎で…
シーガイアに泊まったら、ラグビー日本代表が合宿をしていた。大浴場にそれらしき人たちが入ってきたのだけれど、ふつうに予想できる範囲の、いいガタイをしていた。

大分で…
漫研の後輩がオーナーシェフのレストランへ行く。彼女のダンナさん(彼も漫研)が大分出身で、こっちで店をはじめた。彼から、むかし、大分県人が宮崎県へ行く、ということが、どれほど考えられないことだったか、という話を聞く。

愛媛で…
夕日のきれいな駅で有名な予讃線下灘駅の下を、ちょうど日没のころに通りがかる。駅で夕日を眺める人たちを見ることが出来て、満足。

松山で、ご飯の店をさがして大街道へ。ここが、あの!と思う。

福山で…
かつて常石造船という会社の「迎賓館」だったというホテルに泊まった。そんなふうに、日本の会社にお金があった時代があったんだな、と思ったけれど、そのホテルはまだ常石の所有なのだという。翌日、そもそも目的地であったお寺(神勝寺)に行ったのだけれど、その寺も常石の寄進によって建ったのだそうで、はあ、もう領主だなと。

妻はどこへ行っても写真を撮る人で、自分は、手持ちぶさたなので、写真を撮っている妻をうしろから写真に撮る。

「写真を撮る妻のうしろ姿」が、写真フォルダに溜まっていって、だんだんライフワークのようになってきている。


2012年5月1日火曜日

〔今週号の表紙〕第262号 ゴング 上田信治

〔今週号の表紙〕
第262号 ゴング

上田信治
・文 佐藤文香・写真


今週号の表紙写真は、週刊俳句5周年記念オフ会で、お祝いの歌を歌ってくれた、中田一子さん・前田達彦さんご持参の楽器です。

ゴングという白文字が、タイトル文字と響き合って、チャーミングです。この文字が、なんのために必要なのかは聞き漏らしましたが。

前田さんの本業はイラストレーターで、しばらく前まで、本阿弥書店の「俳壇」で連載されていました。前田さんは、上田の漫研の後輩で、なぜか音楽家の中田さんと結婚しました。

今年のオフ会は、前回のように盛りだくさんにはならないけど、なんかできないかな、と思っていて、ふと、中田さんの歌を思い出したわけです。「あ、いけそう」と。

中田さんのレパートリーは、たいへん幅広いのですが、相談しているうちに、ガムラン+民謡を中心に、となりました。


「郡上踊り かわさき」(替え詞・上田)

週刊ナー 俳句は 
天気さんが 作った〜
穴もあけずに 五周年

五周年 アソンレンセー

人がナー 集まる
インターネット〜
またも会いましょ 日曜日

日曜日 アソンレンセー


「お立酒(おたちざけ)」

お前お立ちか
お名残 惜しい
なごり情けの
くくみ酒

またも来るから
身を大切に
流行り風邪など
ひかねよに

目出度嬉しや
思うこと 叶うた
末は鶴亀
五葉の松

「お立酒」は、就職を機に、今春で週刊俳句運営スタッフを卒業された生駒大祐さんへの、はなむけとして歌ってもらいました。「目出度嬉しや 思うこと 叶うた」のところで感極まり、歌のあと、生駒君と抱き合った上田でしたが、その場面を撮りそこなった佐藤さんが、あとで二人にもう一度ポーズさせたことは秘密です。

つづく「575歌」と仮に題した曲は「俳句はメロディに乗りませんかねえ」という、上田の無茶ぶりに、応じて下さった中田さんのオリジナルで、4848の繰り返しで進行するガムランのメロディに、俳句をのせて歌い上げるというものでした。ほんとに無茶ぶりだったけど、いい演奏でした。

「575歌」の動画はPHOTOアルバムでご覧になれます。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

2012年4月7日土曜日

〔俳誌拝読〕『静かな場所』No.8を読む 上田信治

〔俳誌拝読〕
『静かな場所』No.8(2012年3月)を読む

上田信治

発行人・対中いずみ。A5判。本文17頁。

田中裕明作品研究中心の1〜6号までとは体制が変わっての2冊め。目次と奥付を入れても19ページというささやかさが、ここちよくもあります。招待作品・岩田由美。連載第2回・青木亮一「はるかなる帰郷 田中裕明の「詩情」について」。

枯芝に影なく朝の来てをりぬ  岩田由美

下がりきし蔓に棘ある秋日かな  対中いずみ

左手がすこし小さし秋昼寝  満田春日

汗ながら静かな顔でありにけり  森賀まり

鉄は人小鉄は猫や秋の風  和田悠

まぶしくもさむくもありて落葉踏む  木村定生

薔薇園は薔薇いつも咲く今は冬  同

2011年2月24日木曜日

●週刊俳句200号記念座談

週刊俳句200号記念座談
上田信治×西原天気
いまだから話す創刊の頃のこと

今晩、2月24日22時頃から、この記事のコメント欄で、
上田信治・西原天気の座談やります。

それまでにお聞きになりたいことがあれば、質問として書き込んでください。
ご感想・ご感想、また雑談、ネタ振り等も、お気軽に、ご自由に。

なお、座談が始まってからも、自由に割り込んでいただいて結構です。
(まったく関係のない話wはいちおう、ご遠慮願います)
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(話題を拾う・拾わない、レスする・しないは、時間やタイミングの関係上、任意になってしまうこと、ご承知置きください)

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2011年2月10日木曜日

●真剣なぺらぺら 鳴戸奈菜句集『露景色』 上田信治

真剣なぺらぺら
鳴戸奈菜句集『露景色』  上田信治

関悦史さんが、豈weeklyで引いていた〈平目より鰈が好きでよい奥さん 鳴戸奈菜〉という句が、ずっと気になっていた。

これは、宇多喜代子さんが、小林恭二さんとの対談で挙げていた〈生協の車来てゐる山茶花垣 橋閒石〉という多分、句集に入っていない句と同じ「気になり方」で、要するに、なぜ、この「これ」でなければいけないのか、作者の、やりたいところ、見ているところが、パッとは分からない。

囲碁に喩えれば、盤上(あるいは碁盤の外か)の意外すぎる場所に、置かれた一手。しかも、その石を置いたのが、多くの人の尊敬を集める練達の棋士であるゆえに、控え室も、解説者も「うーーーーん」と言って、考え込んでしまうような。

それは、囲碁的にはどうにも意味をなさない一手であり、単なる「気まぐれ」に見える。しかし、ひょっとしてひょっとすると、指し手の意図は、その一手を内容に含む「新しいゲーム」を提案し、それを「囲碁」であると僭称することにあるのではないか。

そういうことを気にしつつ、鳴戸さんの新しい句集『露景色』を読んだ。

梨の実の腐りやすしよお姉さん

お兄さん花野に花のなかりけり

こんな句があった。中味はあからさまに人生訓で、通常の俳句的基準に照らせば、危きに遊ぶどころか、余裕でアウトかもしれないが、しかし「俳句は、中味ではない」。勝負所は「お姉さん」「お兄さん」という呼びかけの、通行人に向けられているかのようなぺらぺらな口調にあって、そのたよりない風情に、カジュアルな哀しみが託されている(言ってしまえば、それは話者の分身であり、過去の亡霊である)。

胡瓜揉みきのうはむかし遠い昔

降り止まぬ雨などなくてななかまど

「胡瓜揉み」のk音とm音が、「きのうはむかし」のフレーズを連れてきていること、「雨などなくて」の「な」(特にa音)が「ななかまど」を連れてきていることに注意しておきたい。口調が作品を律するということが、作者のたくらむ「新しいゲーム」の一つの属性であるようだ。

汽笛一声ヒヨコが咲いたよヒヨコが

「ヒヨコが咲いたよヒヨコが」というだめ押しのリフレインも、口調が作品を律していることの現れであり、そこには、汽笛が鳴くように鳴るから「ヒヨコ」が、そしてもくもくと出る蒸気から「咲いた」が、連れてこられるイメージの連鎖がある。

「胡瓜揉み」の句には耕衣の〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉が響いていようし、「汽笛一声」の句には、蒸気機関とヒヨコという質量から何からことごとく違うものが一つになるという法悦がある。「ななかまど」の句の止まない雨には、七生の輪廻のどこまで降り続くのかという裏筋があって、それぞれに内容と魅力があるのだが、「お姉さん」「お兄さん」「奥さん」の句と並べてみると、そこには、五七五を一見ぺらぺらに見えるほどに軽く使う、という、ひとつの態度が見えてくる。

態度と書いてエートス(≒倫理)と読む。

本句集で〈径子さんの微笑み渡る冬青空〉と追悼句を捧げられている清水径子は、ときに生硬と感じられるほど重たい内容と、それほどは重たくない文体による書き手であったが(〈野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる〉〈くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ〉〈慟哭のすべてを蛍草といふ〉)、最晩年〈ねころんでいても絹莢出来て出来て〉〈さびしいからこほろぎはまたはじめから〉〈ちらちら雪弟よもう寝ましたか〉のような、口調と内容が一体となった、自在さの印象を与える作品を遺した。

鳴戸さんの近作は、その地点から書き継がれている──と言ったら言いすぎだろうか(もともと〈形而上学二匹の蛇が錆はじむ〉と書きつつ〈牡丹見てそれからゴリラ見て帰る〉とも書く人ではある)。本句集において、「ヒヨコ」のリフレインには「出来て出来て」が響いているとも見え、その口調はますます軽く、加えて、内容も、標語や俗謡に近づくことをおそれず大胆である。

薄氷ときに厚しや世の情け

雲雀野の思い出に似てレモンケーキ

綿虫のその存在はピーヒャララ


まるで都々逸のようだし広告コピーのようだしピーヒャララなのだが、それら隣接領域の言葉よりも、ずっと無意味で非実用的であることによって、これらの言葉は俳句である──と、作者は主張しているように思える。

戦争がないなら死んでもいいですよ

これは明らかに碁盤の外に置かれた一句。倫理と自分が言うのは、この内容をこの軽さで書くという態度のことで、たとえば、党大会で発言を求めて壇状に駆け上がったヒラ党員が、興奮のあまり泣き出してしまったような、切迫と滑稽のないまぜになった口調が、その人の血を吐くような真剣さの表現としてある。

ぺらぺらであることが、なぜか誠実であることに直結している。どうして、と言われても、それはこの人のエートス(生活態度のようでも、出発点でもあるような倫理)なのだから、しかたがない。そのぺらぺらさが、一所懸命さや真面目さの結果であると、言葉面からなんとなく信じられるというだけだ。

しかし、態度が作品を成立させるということは、その文脈あるいは作者名を外した一句独立がむずかしい、ということでもあって、確かに、上に挙げた中にも、どう見ても名句ではないという句はふくまれる。しかし、それが試みだとしたら、その試み自体に対する評価抜きでは読めないということは、ぜんぜんOKではないか(あと、作者名抜きということなら、句会にこれらの句が出たら取りますよ、ぜったい)。

ちぎれ雲見ている寒い沼があり

やや片寄った句ばかり挙げてきましたが、こういうストレートな抒情もあり。この句は、沼と話者が一体となって、ただ、ちぎれ雲を映している、と取りたい。「寒い沼」という言い方は、そういうことだろうと思う。

秋のくれ堪忍袋の緒の赤し

渡辺白泉がしばしば書いてしまったような(〈松の花かくれて君と暮す夢〉〈われは恋ひ君は晩霞を告げわたる〉)俗謡っぽさがあり。五七五は、現代人にとって土俗のリズムなので、俗謡っぽさがはまると強い。

こうやって日が暮れてゆく冬の川


春の空おおきな雀が飛んでおり

叙景には、放下の感覚があり。この「雀」の中八は、きますねえ、音のずれが幻想領域にはみ出していく。

人生は一つ目小僧佐渡に雪

人生は野菜スープ」といえば、往年の10ccのヒット曲ですが、「野菜スープ」が何でもありの言い換えだとしたら、「一つ目小僧」は、曰く不可解ということになる。そこだけ取れば(「梨の実の」と同様)、はやり唄の文句のようなワンフレーズに過ぎないけれど、人生の不可解は観念ではなく、いま佐渡にふる雪と同じくらい確固とした目の前の現実であり、人が人生を直視しようとすると現れて、どいてくれない。

鳴戸奈菜さんの『露景色』は、面白い句集でした。

なにもかも天麩羅にする冬の暮

買いこんだもの、冷蔵庫に残ったものの、なにもかもを天麩羅にしていく、その「冬の暮」という季節には、人生の終盤ということが意識されているのだろう(晩年意識を持たれるには早いという気もするのだが)。なにもかもを揚げて空っぽになってしまったら、それは寂しいことだろうか。いや、揚げたらそれを盛大に食べるのだから、残っているその時間は、たいへんに豪華、ということになる。

2010年8月16日月曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕二の腕

〔俳句に似たもの〕
二の腕

上田信治



「ゲゲゲの女房」というNHKの朝のドラマの、漫画家夫婦の貧しい新婚時代。夏の場面が多かったように思うのだが、主役の女優さんが、二の腕に、いつもうっすら汗をかいていらっしゃる。

ほんとうの汗なわけはないので、カットのたびに、女優担当のメイクさんが、しゅっしゅと霧吹きで水をかけていたのだろう。

しかし、そうと知りつつ、その二の腕の汗は、がっつりと私の心に「夏」にともなう記憶と感情を惹起し──ことほど左様に、人の心は、記号と感情がオートマティックに結びついた「パブロフの犬」のようなものだ、と知れるのだ。

2010年3月13日土曜日

●3D眼鏡を掛けて読む 上田信治

【週俳第150号を読む】
3D眼鏡を掛けて読む

上田信治


ある俳人に、今回の川柳特集の、感想をかいてもらえないかと頼んだところ、自分は川柳はどうしても面白く思えないのだと、言って断られた(そういう人もいるでしょう)。

川柳になくて俳句にあるものといえば「句中の切れ」と「季語」ということになるので、その人は「切れ」と「季語」のない十七音を、物足りなく感じるのだろうと、勝手にそう思った(違うかもしれない)。

いや「切れ」的構造を持った川柳のあることは知っているので、「季語」や「切れ」を意識した複層的な読みを予定していない十七音、と言い換えよう。

逆から言えば、俳句は最初から「季語」「切れ」などのローカルルールの指示に従いつつ、複層化した十七音「として」読まれる、ということだ。今思いついたのだが、それは、3D眼鏡を掛けて3D映画を観ることに、とてもよく似ている。

  はっきりと思い出せない猿の足  樋口由紀子

俳句的3D感を感じない、徒手空拳のたたずまいを持つ一行詩(穂村弘のいわゆる「棒立ち」か)。

たとえば、この「猿」を、むりやり冬の「季語」であると仮定する。すると、このはっきりとしない猿の足の踏んでいるのは雪で、背後には、風に飛ぶ雪がある。また、例えばこれが〈はっきりと思い出せない目白の足〉であることを想像すると、季語「目白」の足をわざわざ言ったということが前景化して、句中の話者は存在感を弱める。川柳としての元句が、キッチンかどこかに一人でいる、主人公を思わせるのと対照的で、だから、ここはぜひ目白ではなく猿でなければいけない。

つまり「季語」の指示する読みには、語のもつ情報による複層化(この場合は背景をプラス)と、一句の構造の複層化(季語と季語でない部分は、読者にとって見え方が違う)の、二方向があるということになる。

  サフランを摘めば大きな物語  小池正博

歳時記的にはクロッカスは春、サフランは晩秋ですが、それはさておき、吉岡實の「サフラン摘み」の西洋古代的な海辺の光景を漂わせつつ、青い空の下、「サフランを摘めば」(すなわち)「大きな物語」(がそこにある)(を想う)(に包まれているようである)・・・と、この句には、ジャンル分けが、いらなそう。俳句的な切れを手法として取り込んで、複層的です。

  生者死者数の合わないカレー皿  石部明

一読〈潜る鳰浮く鳰数は合ってますか 池田澄子〉を思わせる。俳句ルールを外して(川柳的に)読めば「数は合ってますか」と可愛く疑問形でおさめた「潜る鳰」は、切っ先が甘いようだが、「潜る鳰浮く鳰」のあとに、俳句読者は「切れ」を感じてしまうので、これは実景として、鳰が潜りまた浮く、ポチャッ……ポチャッ……という時間経過の中で生じた、どうでもいい疑問と読める。観念が、現実の時間に、ぽかりと浮かぶさまに、妙があるとでもいいますか(それにしても、池田は、川柳的に単層的な句で勝負することが多く、「鳰」の句も例外ではない)。

「カレー皿」は、「鳰」の句よりもシッポがつかみにくく、複雑かもしれない。「カレー」が夏(の季語)だとしたら「広島」ということかもしれず、そのほうが、川柳的な読みかもしれないが、ちょっと単純になる。

ややこしいのは、「数の合わない」が「生者死者」にかかるのか「カレー皿」にかかるのか、作者が決めてくれていないことで、語法的には「カレー皿」にかかるというのが順当だが、この句は「生者死者」の「数が合わない」と読んだほうが、面白いので困ってしまう。

前述の俳人の川柳に対する不満は、川柳がしばしば単層的であることと、語構成に厳密を欠くように見えることにあるのかもしれないと、思い至りました。(「カレー」の句のように、中七がどっちにでもつく形を俳人は「山本山」と言って嫌います)

厳密を欠くと言っても、それは川柳の読みが、俳句的にルール化されていないというだけのことかもしれず、だとしたら、それはほとんど言いがかりですね。取り消し取り消し。

というか、どうなんだろう。川柳の人から見たら、俳句的3D眼鏡というのは。


週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

2009年2月1日日曜日

●上田信治 『俳句』2009年2月号を読む

〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年2月号を読む


上田信治




●特集「いま、注目する俳句と俳人」  p.59-

副題に「『俳句年鑑2009年版』の「諸家自選五句」(3475句)に見る」、惹句のような感じで「俳壇の新しいテーマや潮流はこれだ!」とあります。

実は、自分も、今年初め、年鑑の「自選五句」を通読しました。

『週刊俳句』で、天気さんと「年代別収穫」のページについてBBS対談をやらせてもらいまして、毎年のことですが「これで、全部じゃないだろー」「各年代担当者の選句眼に、そうとう左右されてるだろー」と思い、ほらほらちゃんとこっちも見ないと、と言いたいという、いわばリベンジのつもりで臨んだのですが、これが、大変こたえる作業で、一日では終わらないわけです。

約700人3500句といえば、ざっと句集10冊分。

作家の今年1年の成果としての5句は、たとえばその方々が句集を出されるとしたら、エッセンスの部分にあたるはず(7年に1冊だされるとして、5×7=35。だいたい収録作の10%強)・・・なんですが、じゃあ、それを読むことが、めくるめく経験かっていうと、だいたいご想像の通りです。

その労苦を共有された矢島渚男・池田澄子・中嶋鬼谷・出口善子・寺井谷子・遠藤若狭男・中西夕紀・仲 寒蝉・山西雅子・小川軽舟 の諸先生が、それぞれ、もらされた「感慨」が読みどころです(多くの方が、深くため息をついているように見えます)。

「俳句という文芸は発生の当初から、面白くなければならないという課題を背負ってきた。ほんとうは面白くなければ俳句ではないのだ。「面白さ」にはいろいろあるが、古来「新しさ」こそがもっとも重要な要素であった」矢島渚男

「一つの方向を決めて皆で走れば確実に俳句はやせる。新しさは方向も方法も前もって決められない。(…)気がついたらさまざまな新しい俳句が、さまざまなところに脈絡無く現れていた、というのが理想だ。佳い句は新しく、新しい句は佳い句なのである。」池田澄子

「句集などが送られてきて、これは、と思う若い俳人も二、三あるが、残念ながら『年鑑』の「諸家自選五句」欄には記載されていない。」出口善子

「二つのものが幅を利かせているように思った。一つは季語周辺のものを、技巧的に描いた(…)名付けるなら写生モダンと言いたいもの」「その一方で(…)現実の自分から離れて自分を詠っている感触の句で人事句の最近の詠い方のように思われる」中西夕紀

「確かに多くの人が同じ方向を目指していたような時代の力強さはないかもしれないが、逆にこれ程様々な傾向の俳句が存在する時代はかつてなかったのではなかろうか」仲寒蝉

「今俳句にとってなすべきことは個の場所を懸命に耕すこと。そして傾向が違うというだけで他者の仕事を切り捨てないことではないだろうか」山西雅子

「新しさ」「多様性」「寛容」そんなキーワードが浮かんでくる、2009年初頭でした。

せっかくなので、自分も選んだ句をあげます。…ちょっと勇気いりますね。

綿虫や突つ支ひ棒に日が当り   小笠原和男
いっぽんの苧環の景雨また雨   小宅容義
いつまでも日は西にある牡丹かな 大峯あきら
蟷螂の両眼のやや離れをり    長田等
数へ日や一人で帰る人の群    加藤かな文
青空に用あるごとく出初式    櫂未知子
晩年は下駄履きでくる鯰かな   柿本多映
なが\/と岬が春をひろげけり  倉田紘文
窓枠に久しき窓や鳥の恋     桑原三郎
鯨より小さかりけり捕鯨船    小林貴子
砂嘴ひとつ海より生るる初景色  佐藤郁良
生きてゐてよかつた柿の種たひら 鳥居真里子
降る雪に立喰ソバは鋭き香    中村堯子
流木に腰掛けてゐる帰省かな   古田紀一
白兎吊り提げられし長さかな   山田弘子
冬の雨鬱の字に似てマンドリル  山根真矢
烏賊およぐ神に吸はるるその泳ぎ 吉本伊智朗

○を打った句はもっとたくさんあります。いや、けっこう「面白い」んですよ。
たしかに、新しくはな・い・・・か。
でも、けっこう面白いけどなあ・・・と、俳句の将来に責任のない立場は、気楽です。

そうそう。自選五句中の「週俳」掲載句。(見落としあったら、すいません)

暮れ残る十一月のどんぐりも  加藤かな文
夕風のなかなか迅し夏桔梗   千葉皓史
蟻止まり有象無象を見上げたる 中田剛

これは、うれしかった。ありがとうございます。

●合評鼎談 p.151-

今年の合評鼎談は、本井英さんと今井聖さんのバトルが楽しみ。
互いの推薦句の鑑賞も、けっこうですなー、で終わらないので、熱が入ります。

●「17文字の冒険者」p.210-

ときどき「俳句を読む」をご執筆の、野口る理さんが寄稿。

  ふらここに恐ろしき音ありにけり  野口る理



『俳句』2009年2月号は、こちらでお買い求めいただけます。
仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22

2009年1月15日木曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕一瞬の「…」

〔俳句に似たもの〕
一瞬の「…」

上田信治



タレントの木村祐一が、言っていた。

尾崎豊の「15の夜」の、いちばんいいところは、「♪盗んだバイクで走り出す~」の「♪…ぬす」というところ。いっしゅん「…」となるところが、と。

深く納得して、記憶した。

2009年1月11日日曜日

●上田信治〔俳句に似たもの〕字で書いた…

〔俳句に似たもの
字で書いた…

上田信治


『がきデカ』で知られる、ギャグマンガの巨匠山上たつひこに、「半田溶助女狩り」という作品がある。

朝になっても店に出てこない電器店主・半田溶助を心配して、従業員たちが居室のほうへ行ってみると、溶助は、半紙に筆で書かれた「娘」という文字を見ながら、オナニーをしていた。

……。

いや、字で書いた「季語」を見て、興奮できるのってすごいな、と。

2008年12月17日水曜日

●上田信治 人名三句

上田信治 人名三句




K・ヴォネガット(1922-2007)は、アメリカのSF作家。武者小路実篤と太宰治をあわせたような、ナイーブネスが特徴。過去、現在、未来のすべての瞬間は、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのだから、いま何かが失われること(人が死ぬとか)は、悲しむにはあたらない……という「トラルファマドール星人」的人生観には、ずいぶん影響を受けた。考えたら、そう思わないと、スポーツ選手とか漫画家とか、やってられないですよ。


マリリン・モンロー ≫portrait ≫Wikipedia
アメデオ・モジリアニ ≫portrait ≫Wikipedia
カート・ヴォネガット ≫portrait ≫Wikipedia

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2008年7月29日火曜日

俳句に似たもの

俳句に似たもの ● 上田信治



野球で、外野に、いい当りが飛んだとする。
たとえばフェンスに当ったボールを、外野手がうまくさばいて返球。
打ったランナーは自重、一塁にとどまる。

このときプロ野球なら、外野から、二塁ベース上の内野手にぴたりとボールが返ってくる。

内野手は、ボールを受けたら、バッターランナーが走り込んできた場合のために、必ず「タッチ」の動作をする。

(すでに、野球を見ない方には、まったく何の話か分からないと思いますが)その「タッチ」の動作が、内野手にとって「自動化」されていることの「美」。その「美」には、「季語」に通じるものがある。

「ああ、あれあれ」という喜び。

そして、野球を見ているとき「あれ」を見られないかな、と楽しみにしているということが、ちょっと俳句に似ているような気がする。