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2013年4月9日火曜日

天の逆手を打ち成し 中原道夫「西下」を読む 猫髭

天の逆手を打ち成し
中原道夫「西下」を読む

猫髭


中原道夫「西下(さいか)」は旧字旧仮名で書いてあるので、こゝから舊字舊假名で讀んでみる。

タイトルの「西下」とは、首都を中心にした呼稱で、現代では首都東京を出て西方に下ることを言ふ。この作品の場合は東京都から滋賀縣は琵琶湖への遊山を指す。逆は「東上」と言ふ。京が都だつた平安京の昔は、唐の洛陽に因んで「上洛」と言つた。京から地方へは「下洛」で、『伊勢物語』の「東下り」の落魄を引くまでもなく、語の響きだけで下落を聯想させる。先祖代々京で暮らす人々は、天皇陛下を「天子樣」と慕ひ、「いつか歸つてきやはる」といまだに京都へ戾ることを信じてゐるので、天皇の東下りにのこのこ附いて行つた羊羹で有名な虎屋を「おのぼりさん御用達や」と蔑み、虎屋は東京の老舖だと勘違ひしてゐるおのぼりさんが、←ワタクシノコトダガ、土產に「夜の梅」などぶら下げて行かうものなら「京都では犬も食はへん」とにべもない。確かに虎屋がなくとも茶席に出る京の和菓子は口中に虹を立てる。したがつて、都びとであれば、東京へ行くのを「東上」とも「上京」とも言はないし、云はんや「西下」をや。

わたくしは常陸の國の東男で、夏目漱石が『坑夫』で「赤毛布(あかげつと)」←ヰナカモノノ意、と「芋」をエモと訓ずる、あんまり有難い音聲ではない茨城のエモ男だから、都びとに言はせると「重力が2Gくらゐ重いところや」といけずを言ははる。さういふ京都も國に圍はれた妾のやうな街だと吐き捨てた東都の作家もゐた。誰だつたか忘れたが、太宰治あたりが言ひさう。←ワタクシモ言ヒサウ。

歲時記も虛子が『新歲時記』で「季題の排列は大體東京を中心とし」とするまで京都中心だつたから、昔からの俳人は「時雨は京だけのもんや」と云ふことになるので(一應虛子も「時雨」の季題では「京都の北山の時雨など殊に趣が深い」とお愛想を打つてゐる)、作者もそこのところは心得てゐるので京都へ行くことを「西下」とは言はない。滋賀縣の琵琶湖だから使ふ。滋賀縣民が憮然とするかどうかは大津市にお住まひの対中いずみさんにでも聞かないとわからないが、彼女はおつとりした上品なひとで「雪兎おほきなこゑの人きらひ」と詠んでゐるくらゐだから、唇に手を當てゝ、ふゝゝと微笑むだけだらう。←「私ハ猫派デ鷹派デ秋ノ風」ト詠ンデイルノデ、目ガ笑ツテイルカダウカマデハ知ラナイ。


におの海蘆荻に水も溫むころ

「鳰の海」とは琵琶湖の古名。鳰はかいつぶりの古名で、留鳥だが、俳句では冬の季語。夏になると水面に浮巢を作るので「鳰の浮巢」は夏の季語。「にお」は舊假名では「にほ」なのでタイポ〔*〕。『萬葉集』には「にほ鳥の潛く池水心あらば君に我が戀ふる心示さね 大伴坂上郞女」といふ相聞歌があるから、今も昔もかいつぶりは身近な水鳥と言へるが、當時は琵琶湖は「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂」とあるやうに「淡海(あふみ)」であり「鳰の海」とは呼ばれてゐない。この呼稱が出てくるのは琵琶の形に似てゐるから琵琶湖と名づけた中世のあたりかららしいが、今でも夏になると、琵琶湖の蘆の繁るところにはかいつぶりが姿を見せて、浮巢の近くで頭を脚で搔いてゐる姿など實に愛らしく、夕日の金波銀波に搖られてゐるのを見ると確かに鳰の海だなあと、のほゝんとする。

「蘆荻(ろてき)」は蘆(よし。あしの讀みが良し惡しの惡しにつながるので忌み言葉としてよしと讀まれる)と荻(をぎ)のこと。「夕星を待つか蘆荻に吹かるるか 対中いずみ」といふやうに普通は秋の季語として詠まれる。

湖北菅浦の、白洲正子が「かくれ里」と呼んだ淳仁天皇を偲ぶ櫻、葛籠尾嵜(つゞらおざき)、陽炎に搖れる竹生島(ちくぶしま)の明媚に、北西の魞(えり)さしの光景、川嶋酒造の絕品「松の花」純米大吟釀の淸冽な味も懷かしいが、初夏の六條麥がゴッホの麥畑の繪のやうな恐ろしい色に染まり、一面の蘆のなかで大葦雀と小葦雀が大合唱し、夜は牛蛙の遠吠えがあたりを聾する琵琶湖の內湖である西の湖の圓山あたりの風情もおもむきが深い。この圓山は遊船でも有名だが、日本一葦雀がやかましいと思はれる濕原が廣がる。行々子とは能く言つたものである。

「水も溫むころ」と言へば、岸邊には燈臺草(菜の花のやうに綺麗なので茹でゝ食べたくなるが、毒草である)が咲き亂れ、土筆もばうばふと土手や道路に生えてゐるだらう。鳥と初春の季語「水溫む」の取り合はせは一茶の「鶯烏雀の水もぬるみけり」と云ふ樂しい一句を想起させる。

冬を越えて枯れた蘆荻の殘る琵琶湖の水も溫むころに東京からはるばる來たぜといふ一句で西下十三句は始まる。

分乘に見る春雨の右左

「分乘」とは一團の人々が二つ以上の乘り物に分かれて乘ること。琵琶湖は淡海・近海と、海に比されるくらゐだから、對岸は見えないほど廣い。遠海と呼ばれた濱名湖と同じで、海に出たと思つたら湖だつたと云ふので、海の字をあてるのはわかる。どこに行つたか詠まれてゐないので推測するしかないが、俳聖芭蕉の墓は大津市の義仲寺にあるので、湖西線に京都から山科經由で乘つたと見るのが妥當だらう。湖西線の驛からは場所にも寄るが岸邊まで歩けないことはないが、二月だとかなり寒いので、タクシーやバスを利用して湖畔まで行くのが常套となる。西湖の圓山から舟に分乘と云ふ繪も三句目に筌(うへ)といふ漁具が出るので捨てがたい。確か乘船場の事務所に漁の道具が飾つてあつたはず。

しかし、さうなら舟のそばに恐れることなく寄つてくる鳰を見る筈だから、春雨しか見えない野暮さはタクシーの中と云ふ仕儀になる。車中から詠まれた擦過の句は淺いと相場が決まつてゐるが、手の内を晒して、なほかつわざわざ「見る」と書く蛇足の「見る」。さう書く以上は「見る」に値するものが出てくるところである。

それが「春雨の右左」とはぐらかす。西下して何を見に來たかと問へば春雨を見に來たと言ふ、春雨に右と左の風情ありで、車中の野暮が窻の雨滴まで雅びに見えるやうな「右左」に開き直るところが面白く、實に粹筋。野暮と粹とは紙一重なのが能くわかる、座頭市ならぬ中原宗匠逆手切りの一句。

筌・竹瓮いつを最後に乾きたる

うへ・たつべは同じもので漁具である。細い竹を筒のやうに編み、一端を紐などで閉ぢ、他の一方の口から小魚が入り、外に出られないやうに返しを編んだもの。夕方沼や川に沈めて翌朝引き上げる。俳句では「冬」の季語。それが「いつを最後に乾きたる」と冬を離れて春近しともいふ風情。早春とは言へ肌寒い春雨の止む氣配の漂ふ一句。

茨城の水府川では夏になると、大きな筌に一升甁を入れ練團子を落として上流の淺瀨に沈め鰻を子どもの頃獲つたものだ。作者が見たものは公民館や川端(かばた)に置かれた筌・竹瓮の類かも知れない。子どもの頃にはまだ使はれてゐた漁具も、いつしか魚影が薄くなり使はれなくなつたと云ふ、昭和は遠くなりにけりの一景でもある。魞さしなども栅を湖に立てゝ魚を誘導して追ひ詰めて獲る漁法で、少しでも風が强いと舟は出ないが、觀光客も興じることが今は出來る。琵琶湖沿ひの店はどこでも魞や諸子や鮒などの佃煮を賣つてゐる。播磨灘の鮊子(いかなご)の穉魚の釘煮がいまは時節柄竝べて賣られる。この釘煮は明石名物で「魚棚(うおんたな)」では鮊子が揚つたと一報が入るや、主婦連が自轉車に入れ物を括り附けて買ひに馳せ參じる。一家ごとにその家の味があり、生姜を利かせたもの、山椒を利かせたもの、甘さを抑へて醤油を立てたものなど、その味はひの趣は格別で、どの家の釘煮もうまい。煮崩れないやうに箸を使はずに鍋ごと囘す煮方は共通。

おそろしく値の張る寒の根芹とふ

耳で聞くと「おそろしく根の張る寒の根芹とふ」と根芹好きは聞耳を立てるところ。宮城は名取の閖上(ゆりあげ)漁港(二年前の津浪で甚大な被害を受けた)に近い上餘田(かみよでん)・下餘田(しもよでん)の芹は、香も高く根も立派で日本一の芹の產地であり、根芹といふと、こゝの芹を思ひ出す。この餘田の芹のしやぶしやぶ鍋は今や仙臺の名物料理と化してゐる。牛タンと笹蒲と駄菓子だけが仙臺名物ではないのである。

だから「おそろしく根の張る」やつが上等と云ふことになる。それが「おそろしく値の張る」とすると白髮三千丈ほど長いのであらうか。
これは琵琶湖の西は芭蕉ゆかりの地で僧門の高弟内藤丈草も庵を構へ「我事と鯲(どぢやう)のにげし根芹哉」とおどけた句を詠んでゐるから、その流れの上での値と見た。丈草は芭蕉の臨終を看取つた一人で、その手鹽にかけた根芹の流れを汲むとしたらそれは由緖正しい野菜と言へるし、何と言つても『梁塵祕抄』に「聖の好むもの比良の山をこそ尋ぬなれ。弟子やりて、松茸、平茸、滑薄、さては池に宿る蓮の這根、芹根、蓴菜(ぬなは)、牛蒡、河骨、獨活、蕨、土筆」と歌はれてゐるため、俳句遊びをせんとや生まれけむ作者にとつては、西下して琵琶湖から臨む比良の山ゆかりの聖芹を食ひに參上と云ふ高値がつくのは是非ないといふところか。

摘草を料るにさつといふ手順

わたくしの知り合ひに野遊びにマヨネーズのチューブを持ち歩き、楤の芽や虎杖の若葉を見つけやうものなら、マヨネーズを絞り落してがぶりとやる山羊のやうな男がゐるが、すべての植物には毒が含まれるので(俳人なら一度は西武拜島線東大和市驛前の「東京都藥用植物園」に足を運び毒草案内人の說明を聞かれたし)、まあ、齧るとすれば虎杖ぐらゐが無難である。これは琵琶湖畔にはそこら中に生えてゐる。さきほど根芹が出て來たので「料(りよう)るにさつといふ手順」は芹しやぶと云ふことにすると、近江牛のしやぶしやぶもうまいが、芹しやぶの淸冽さは春を食ふ淸冽さである。根、莖、葉すべて「さつといふ手順」で食す。出汁は昆布・鰹節・干椎茸(どんこ)ベースの八方出汁の醤油味だが、隱し技としてヴィヨン・キューブを一個入れて鷄の脂(鴨肉があればさつと炙つて入れるのがベスト)を加へるとコクが出て芹の香りを引き立てる。和風鍋にヴィヨンかよと驚くなかれ、邪道だと目を剝くなかれ、八方出汁+ヴィヨン、和洋折衷の極みだヨン。「さつといふ手順」を忘るゝ勿れ。

ひたすらにも飽き何處ゆく風二月

何をひたすらにやつてゐて飽きたのかと云ふと、雨だし、寒いし、吟行にも飽きたし、早く暖かいところで二次會やらうよと、句會の前から、句會は參加することだけに意義がありメインは二次會と決めてゐるクーベルタン男爵のやうなやつらを能く見かけるが←ワタクシメモソノヒトリ、これは二月の風なので、「ひたすら(吹くこと)にも飽き」て「おうい風よ、どこまでゆくんだ三月の方までゆくんか」と作者が山村暮鳥よろしく呼びかけたものである。早春の琵琶湖に立てばわかるが、比叡颪がこゝまで吹きつけるかと思へるほどさぶい風が吹く。

立錐の餘地春雨の傘立に

「立錐の餘地もない」を逆手にとつて傘立に割り込ませたもの。意表を突く機智句だが、それだけの面白句かと云ふと、それが俳句かどうかと云ふ見立てでよく言はれる「季語が動くか」をチェックすると、この「春雨」は動かない。夕立でも秋雨でも時雨でも春雨の艷には敵わない。唯一「御降」と云ふ新年の目出度い雨があるが、聊か恐れ多いので、矢張り春雨に立錐の餘地だらう。遊んで、なほかつ季語が動かないのがプロの藝と言へる。

俳句は季語と云ふ白杖(はくぢやう)を突いて歩かないと轉んだりしたら骨折でもして命に關はるから、白杖にあたる季語がしつかり地面をとらへてゐないと歩くのもおぼつかないのである、とは坪內捻典氏の辯だつたか。かういふ逆手句は作者の獨擅場で、氏を尊敬する雪我狂流氏などは「傘立てに紫陽花山の水溜まる」(句集『冷奴』)と逆手句を詠んでゐるほどだ。

懷手湖岸は煙るものとして

琵琶湖に立つと思ひ出すのは「から崎のまつの綠も朧にて花よりつゞく春の曙 後鳥羽院」を飜案して「辛崎の松は花より朧にて」と芭蕉が剽竊した句。もろパクがゆゑに子規が「飜案の拙なるは却つて剽竊より甚だしき者あり、この句は芭蕉のために抹殺し去るを可とす」と、まるでインポッシブル・ミッションの「おはやう、フェルペス君」と云ふ挨拶に續いて出す暗殺指令のやうに、完膚なきまでに俳聖を扱き下ろしてゐる。

作者の眺める「煙るもの」には、後鳥羽院の花も松も隱れてゐるのだが、芭蕉も「我はたゞ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」などと氣取らずに「我はたゞ後鳥羽院の歌を盜みしのみ」と正直に笑ひ話にすればえがつたのに。えがねえか、こゝまで似でつと。

老殘のなぐさみ盆の梅ひらく

「慰め」は慰めるといふ行爲が中心で、「慰み」はその內容が中心となるので、こゝでは作者が手鹽にかけたわけではなく、どなたかが手鹽にかけた盆梅の開花を慰めに感じ入るほど、自分も老いさらばへたかといふ韜晦の一句。採りたてゝ見どころのある句ではないが、だいたい、盆栽といふのは凡才と耳で聞き違へるから、自尊心がぎんぎんぎらぎらのうちは手を出さない趣味で、この枝振りがまたいいのよね~と愛でゝゐる小學生を見かけるのは、皆無ではないとしても難しいものがあり、盆栽を慰めとするにはそれなりに足腰が立たなくなるといつた條件が必要になり、俳句も佛壇に入るのが近くなつてから俳壇に立ち寄るくらいがちやうど良くて、「生きのいゝ奴がやるものではない」から(詩人の吉本隆明が、むかし歌人の岡井隆と論爭した時に罵倒した言葉です)、この「盆の梅」は作者にとつては俳句の隱喩ともなつてゐるといふ味はひがある。

とはいへ、盆栽は傍で見るよりも過酷な趣味で、かなり木を虐めないと姿は良くならないから、ある意味サディスティックとも言へるし、試しに盆梅を預かつてみればその大變さはわかる。ちなみにわたくしはあつと言ふ間に枯らしてしまいました。金魚と似てゐて、構ひ過ぎても構ひ過ぎなくても死んでしまふ。俳句もさうですな。

つつがなく酒(ささ)が回れば諸子焦げ

「回れば」は舊字だと「囘れば」なのでタイポ〔*〕。もろこと云ふのは鯉科の十センチほどの魚で、琵琶湖の子持ち諸子が夙に名高い。この「夙に名高い」といふ言ひ種はわたくしは石川淳、隨筆雅號「夷齋(いさい)」先生の隨筆で知つたが、琵琶湖の子持ち諸子はこの言ひ種が相應しい琵琶湖の春の味である。殊に、近江富士と浮御堂を正面に臨む大津市本堅田の「魚淸樓」の諸子燒が究極とされる。炭火で兩面を炙つた後に諸子を頭から網に刺して脂を落すためである。醋醤油でいたゞく。「琵琶湖の姫」と呼ばれる佐保姫の味が口中に廣がる。

前菜として諸子をいたゞけば、あとに控へしは落雁發祥の地といふことで、靑首鴨の雄の鴨鍋。西は肉は砂糖を合はせる。近江牛も鋤燒は先づ砂糖で肉を炒めることから始めるが、出汁が薄味なのでさつぱりしてゐるやうに、こゝの出し汁もくどい砂糖味の鍋が增えてゐるのに抗ふやうに昔ながらのはんなりとした甘みの味で、〆の鴨雜炊がこりやまた絕品で、三十三間堂そばの「わらぢや」の鰻の筒切り鍋の〆の雜炊と竝んで京鍋の雜炊の華と言へる。

眼福滿腹のあとは目の前の「魚富商店」で魞の佃煮や鮒鮨を家苞(いへづと)にすれば、鳰の海の散財はこゝに極まる。

荒ち男の病むと聞きたり蜆汁

蜆は寒蜆といふぐらゐで冬の季語で、汽水に棲息するため宍道湖の蜆が有名だが、この連作は琵琶湖を背景にしてゐるので大津市瀨田の琵琶湖の純淡水の固有種、「瀨田蜆」を指す。我が鄕里も蜆の名產で、涸沼湖の蜆、那珂川の蜆漁は冬の風物詩。朝になると蜆賣りが「蜆はでつかいよお、父ちやん蜆だよお、榮養蜆だよお」と賣りに來たのは未だに耳に殘つてゐる。北上川や十和田湖の蜆も名高く、北上川の「鼈甲蜆」は色合ひも美しく大柄で紹興酒でさつと口が開くくらゐに煮て食べると蜆の槪念を覆す風味が絕品。瀨田蜆も黑色の色合ひではなく褐色の强い彩で、琵琶湖の滋養が口中に廣がる。古來より腎臟に效くといひ、元祿時代は侍の死亡率ナンバーワンが酒毒(アル中)で次いで腎虛(セックス過多)だと朝日重章『鸚鵡籠中記』に出て來るくらゐなので、この「荒ち男」もその英雄色を好む益荒男ぶりを彷彿とさせる一面を垣間見せるが、「聞きたり」といふ傳聞に「蜆汁」といふことから、腎を患ふと思しき友を憂ひ、滋養にと手向けた挨拶句といふことになる。

括淡と延べ春の湖國土なす

湖をうみと讀ませるのはわたくしは俳句では好まない。辭書にもさういふ讀みはないからといふこともあるが、俳句は詩ではないから、詩のやうに恣意的に言葉を括るのは外連が强過ぎるためである。俳諧では、「木枯の言水(ごんすい)」と呼ばれた、

凩の果はありけり海の音 池西言水

といふ有名な句があるが、この句には「湖上眺望」といふ前書きがあり、「海」は琵琶湖で、「木枯」は比叡颪を指す。琵琶湖を鳰の海とは呼びなすが、鳰の湖とは書かなかつたやうに。書けば相撲取の四股名になつてしまふ。

たゞ、この句は言水の逆手で琵琶湖連作の體を取つてゐる。言水が「湖」を「うみ」とは読めないので「海」と書いたやうに讀みだけを借りた體を取つてゐると言へなくもないので、固いこと言ふ勿れといふ仕儀
になる。琵琶湖だけは「鳰の海」と呼ばれてゐることを閱すれば、「國土なす」といふ雄渾の座五に納まる「春の湖(うみ)」とは琵琶湖以外にないだらうから。「括淡と延べ」にわたくしは葛籠尾崎の岬の伸びやかさを見る。

啐啄やきさらぎの殼まだ堅き

啐啄(そつたく)とは、雛が孵らうとするとき、雛が殻の内側からつゝくのを「啐」、母鳥が外からつゝくのを「啄」といふことから、逸すべからざるよい機會を指す。「啐啄同時」とは、「禪において、悟りを開かうとしてゐる弟子に、師匠が、うまく敎示を與へて悟りの境地に導くことを指す表現」(大辭林)なので、禪問答を想起することが多いが、わたくしは幸田文と父露伴との慈愛に滿ちた、しかし、娘から見れば父の「啄」にうまく啐啄同時とはいかなかつた「啐」から生まれた『ちぎれ雲』、『こんなこと』、『父-その死-』といつた數々の名隨筆を思ひ出す。『こんなこと』に含まれる「啐啄」といふ、父露伴と娘文、母文と娘玉の親子三代に亘る性敎育の「啐啄同時」の隨筆はなかんづく。

「颱風の目つついてをりぬ豫報官」と詠んだ作者のことだから、挙句の如月の殼をつゝいてゐる親鳥は作者といふことになるが、どうも『不思議な國のアリス』に出て來るやうな愛嬌たつぷりのドードーを聯想してしまふ。


花粉症の嚔連発からぎっくり腰を招聘し、加えて坐骨神経痛を併発、寝釈迦のように腰がびだまって寝込んでいた無聊を慰める琵琶湖吟遊十三句連作であった。宗匠の逆手詠みに感謝。旧字旧仮名変換には「「正(旧)仮名遣ひ⇔現代(新)仮名遣い」相互変換~まるやるま君」を主に活用させていただいた。感謝。



〔*〕【編集部・註】
記事中指摘されております「タイポ」は、編集部・西原天気による誤植です。訂正させていただくとともに、謹んでお詫び申し上げます。

2011年10月30日日曜日

〔今週号の表紙〕第236号 Jack-o'-lantern 猫髭

今週号の表紙〕第236号 Jack-o'-lantern

猫髭


「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern) 」は、10月31日のハロウィンに、大きな南瓜の蔕のある上部をカットして中の種を取り、顔を刻んで蝋燭を立てて魔除けにするランタンのことである。この猫のランタンは、5年前、ボストンの友人宅でわたくしが俳号にちなんで作ったもの。ジャックにちなんで、普通はランタンを持つ男の顔を刻むことが多いので、猫のランタンは珍しかったのか、玄関に飾ると小悪魔の仮装をした近所の子どもたちが「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 悪戯しちゃうよ、御馳走してくれないと)」と寄って来ては、このランタンが欲しいとねだった。

このランタンに使われる橙色の大きな南瓜は、中は空洞に近く、大きな種が一杯入っており、この種を洗って、フライパンで炒って塩を振りかけ、殻を歯で潰して中の実を食べると、香ばしくておいしかった。中華街へ行くと、塩味の向日葵の種や南瓜の種を売っているが、あれのばかでかい奴で、炒りたてはビールやワインのツマミによく合った。


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2011年2月3日木曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔42〕節分・下

ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・下

猫髭 (文・写真)


昨年の一月は元日と三十日に二回満月が見られた。三月も満月が一日と三十日に二回見られた。しかし、挟まれた二月は、閏年であれば閏日の二十九日が満月になるが、平年だったので、満月が無い珍しい月となった。だからどうというわけでもないが、なんとなく昨年の一月と三月は得をしたようで、二月は損をしたように感じたのは、新暦と陰暦の狭間をたゆたう俳句の徒の性だろうか。
今年は一月も三月も満月は一回で、二月も満月が戻ってくる。

二月の始めの主な節目はと言えば、三日の「節分」、四日の「立春」、八日の「初午」であり、この中で最も大きな節目になる季題が「節分」である。朔月にあたる。

「節分」とは字義通り季節を分ける日のことだが、東京の昔は「節分」は十二月三十日と、明けて一月の六日と十四日を「節分」として祝ったが、立春の前日のみが「節分」として残ったもので、京都では、元日の初詣は欠かしても節分の厄払だけは欠かさないほどの季の節目になっている。古来よりの神道と中国の陰陽五行説に基づく陰陽道が重なって「節分」が重んじられるようになったのだろう。このため、除夜の「追儺」はじめ、「柊挿す」「豆撒」「厄落」「厄払」「厄塚」など多くの「節分」ゆかりの季題が『虚子編新歳時記』には立てられている。すべて厄落しである。立春前ということで、二月ではなく一月に分類されているのが面白い。昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』然り。

また西鶴『好色一代男』巻三の「一夜の枕物ぐるひ、大はらざこ寝の事」には節分の夜「まことに今宵は大原のざこ寝とて、庄屋の内儀娘、又下女下人にかぎらず老若のわかちもなく、神前の拝殿に所ならひとてみだりがはしくうちふして、一夜は何事をもゆるすとかや。いざ是より」と乱交の様子を書いており、語り草となる「大原雑魚寝」も節分がらみの面白い季題である。

節分の夜と言えば、「こいつあ春から縁起がいいわえ」という河竹黙阿弥の名作歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちざともゑのしらなみ)のお嬢吉三のセリフも名高い。

月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔の心持ちよくうかうかと、
浮かれ烏のただ一羽ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手にいる百両 、
(呼び声)おん厄払ひませう、厄おとし厄おとし
ほんに今夜は節分か、西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし、豆だくさんに一文の銭と違つて金包み、こいつあ春から縁起がいいわえ。

このお嬢吉三のセリフは名調子なので意味も判らず聞き惚れてしまうが、よく味わうと春の季感に満ちた季語の生きた宝庫である。朧月に佃島の白魚漁の始まりと、酔い心地に春寒きの風、乞食が手拭を被り張りぼての籠を担いで年玉の扇子を持って「厄払いましょう」と練り歩けば、厄年に当る家々はこれを呼び、年の数の豆と一銭(あるいは十二銭)を紙やふんどし(厄落しを「ふぐり落し」とも)に包んで捨てて厄を落とす。乞食はそれらを拾って、お嬢吉三のように厄落しのセリフを「アララめでたいなめでたいな、めでたい事で祓うなら、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳、三浦の大助百六つ、いかなる悪魔が来たるともこの厄払がひっとらえ、西の海へさらり」というように唱えて去る、お江戸の習わしを踏まえているのである。ただし、この「節分」は二月ではなく、「月も朧に」なので満月に近い正月十四日の「節分」である。

乞食や厄拾ひ行く手いつぱい 川端茅舎 昭和2年

という茅舎の句は、そういう江戸の習いがまだ残っていた昭和初期の句である。

余談だが、この「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空」というのは、那珂湊では「月夜間(つきよま)」といって漁に出ない期間を言う。漁師の家には「月夜間こよみ」を掛ける。写真の毎月橙色の線が引かれた一週間が月夜間にあたる。月夜間とは、満月の前後、旧暦の十三日から十九日を指す。満月の前後は集魚灯の効果が月光で薄れるので巻網が不漁とされる時期なのだ。辞書には載っていない。暦には旧暦が併記され、月齢も載り、裏には全国の潮汐表が付いている。机上の情報と、板子一枚下は地獄で体を張るたつきとの違いがそこにはある。白魚獲りは江戸の春の風物詩だとしても、朧月とはいえ、篝火の効果が余り期待出来ない夜釣ではある。漁師達は祖父母に食べさせるための魚を、この月夜間だけは、今でも市場に購いに行くのである。




2011年2月2日水曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔42〕節分・上

ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・上

猫髭 (文・写真)


節分の高張立ちぬ大鳥居 原石鼎 大正3年

虚子が明治41年10月から大正4年3月までの「ホトトギス雑詠」を更に再選して『ホトトギス雑詠集』(四方堂)として一本にまとめ、初めて世に問うたのが大正4年10月であり、掲出句はその「節分」に一句だけ選ばれた石鼎の句である。初出には「大社」という前置が付いている。「大社」とは、「神宮」が伊勢神宮を指すように出雲大社を指す。石鼎は『出雲風土記』に出てくる「やんや」、現在の出雲市塩治(えんや)の生れである。「神宮」が天津神である天照大御神を祀るのに対して、「大社」は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した国津神である大国主神を祀る。

『古事記』の「大国主神の国譲り」に拠れば、天照大御神の使いである天の鳥船神と建御雷(たけみかづち)神は、出雲の伊耶佐(いざさ)、現在の簸川(ひかわ)郡大社町稲佐(いなさ)の浜に降臨する。大国主神は、天津神に対して国譲りをする条件として、出雲の多芸志(たぎし)、現在の出雲市武志(たけし)町に、壮大な「天の御舎(あめのみあらか)」すなわち「大社」を創建する談判をしたという縁起を持つ。

虚子は同じ年に、稲佐の浜に降臨した天孫のような鷲の句を選んでいる。

磯鷲はかならず巌にとまりけり 原石鼎 大正三年

虚子は磯鷲の句を『進むべき俳句の道』(大正七年)の中で、「鷲のやうな猛鳥が頑丈な岩の上にとまつてゐるといふ、棒を突き出したやうな粗大な叙景であつて、かならずといふ一字を捻出し得てその力強い光景と作者が表はさうと心掛けたところの心持とが適切に出てゐる」と評し、掲出句は「普通の言葉で穏やかに叙して、さうしてそれぞれの趣きを十分に出すことが出来てゐる」と石鼎の句幅を評している。

(明日につづく)

2011年1月11日火曜日

ホトトギス雑詠選抄〔41〕新年

ホトトギス雑詠選抄〔41〕
冬の部(一月) 新年

猫髭 (文・写真)


酒もすき餅もすきなり今朝の春 高浜虚子 明治26年 

那珂湊の我が家では、松の内が七日ではなく、小正月の十五日まで続き、小豆粥を食べて健康を祝して門松は鳥総松になるので、遅ればせながら新年の句を取り上げたい。新年を寿ぐ歌というと、古来より、『万葉集』二十巻の巻尾を飾る一首、

(あらた)しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと) 大伴家持 天平宝字3年

が、最もめでたいとされる。元旦と立春の重なる今日、しかも、めでたい雪も降り重なったように、今年一年良き事が続くようにと願う一首に匹敵する、俳句の一句は何だろうか。

虚子の『新歳時記』で「新年」の冒頭に置かれた句は、蕉門の宝井其角の、

鐘ひとつ賣れぬ日はなし江戸の春 宝井其角 元禄11年歳旦

である。江戸俳諧の粋と張りを表した豪儀な句だが、元禄の江戸限定とも言える。昭和59年に話題になった神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)を読めば朝日文左衛門『鸚鵡籠中記』の元禄は豪奢絢爛たる元禄とは違う逼迫の世情を映す。

そして、末尾に置かれたのが掲出句である。実に馬鹿馬鹿しいほど目出度い一句ではないか。この句は、正岡子規の新聞「日本」選に採られた句である。当時、選句者子規24歳、投句者虚子17歳。未成年者飲酒禁止法の制定は大正11年だから、「酒もすき」と堂々と飲んで詠めた良き時代の一句である。ぬけぬけと、あっけらかんと詠んでいて、わたくしは好きである。最初に『新歳時記』で読んだ時は虚子晩年の句だと思っていたので、『高浜虚子全句集』で年号を見て17歳の時の句だとは知ったが、下戸で生涯酒が全く飲めなかった子規のこういう選句眼は好きだし、また壮年の虚子が若書きの句を載せたのは、子規の選を多としたのだろう。子規が採らなければ虚子がこの句を『新歳時記』に残す事はなかった。虚子自選『五百句』は、その翌年の、

春雨の衣桁に重し恋衣 明治27年

から始まるからである。子規ありての虚子だった。

2010年12月5日日曜日

ホトトギス雑詠選抄〔40〕冬日〔下〕

ホトトギス雑詠選抄〔40〕
冬の部(十二月) 冬日 〔下〕

猫髭 (文・写真)


ここからは余談贅言となるが、言葉の意味そのものに関しては、言葉の専門学者である国語学者の辞書に歳時記は及ばない。例えば「水無月」は、国語学では「無(な)」は連体助詞「の」の意味で「水の月」という意味だが、歳時記では「水の無い月」として誤って流布されていることが多い。

虚子は西村睦子の『「正月」のない歳時記』を読めばわかるように、近代季語の枠組みを作ったが、中にはおかしなものもある。

例えば、「秋の燈」を虚子は『新歳時記』では「古人が灯火親しむべしといつた秋の夜のともしびである」と正しく韓愈の「符読書城南詩」の一節「灯火稍(ようや)く親しむ可く」を引いた上で、「灯下親し」という、古典を踏まえれば間違った傍題を立てている。しかし、虚子は知った上でパロディとして立てているので、蝋燭の時代とは違うという現代的な照明器具の下でと、強引に傍題を据えたということにもなるが、これは「ふゆひ」と違って、無理がある。「大辞林」は「補説」として、「灯下親しむべし」と書くのは誤り、とわざわざ断っている。

「ホトトギス」の句会では「灯火親し」と正しく書くと誰も採らないという噂がある。まさかと思うが、いかにもありそうなのが噂であり、句友が調べると、「ホトトギス」の俳人は99%が「灯下」で投句しているとの調査結果だったとか。わたくしは「ホトトギス」関連の俳人で面識があるのは五人ほどだが、佳句は採る見識の持主ばかりなので、所詮噂は噂に過ぎないとは思う。

蝋燭ではなく電球の時代は燈下に実感があり、句柄によって使い分けることは可という意見はあるだろう。

例えば、燈の下という意味での、

河豚の皿燈下に何も残らざる 橋本多佳子
野を焼いて帰れば燈下母やさし 高浜虚子
春燈下紙にいただく五色豆 清崎敏郎

といった使い方は全く問題ない。しかし、韓愈の「符読書城南詩」が出典である以上、「灯火親しむ」には電燈だからどうこうは論外となる。「引用は正しく」は俳句に限らず、すべてに共通な後世の歴史に対する誠実な姿勢というものである。

「ホトトギス雑詠」が一世を風靡したため、虚子も神格化され、虚子先生が使ったのだからという誤表記や文法の間違いが俳句的ということで継承される傾向があり、波多野爽波もまた「灯下親し」と使い、「灯火親し」が正しいと句座で指摘されたと云う。爽波の主宰する「青」には間違った使い方を許さない気骨ある弟子たちがいたということになる。

改めて「燈下親し」を調べると、

火虫さへ燈下親しむべくなりぬ 虚子 昭和17年

と、やっぱり虚子が元凶だったが、この句は明らかに韓愈の詩のパロディとして詠まれている。したがって、虚子は「燈火」ではなく「燈下」とおどけているわけである。虚子のジョー句は余り受けずに、真に受けられたらしい。

2010年12月4日土曜日

ホトトギス雑詠選抄〔40〕冬日〔上〕

ホトトギス雑詠選抄〔40〕
冬の部(十二月) 冬日 〔上〕

猫髭 (文・写真)


大仏の冬日は山に移りけり 星野立子 昭和3年

鎌倉の谷戸から那珂川のほとり那珂湊へ引っ越しのため、蔵書が段ボール箱の中で右往左往しているので、本連載も途切れているが、十一月だけ抜けるのも間抜けだし、いろいろ採りあげたい句もあった。例えば、波多野爽波が抜粋した「十一月の句」二十句を挙げれば、

矢大臣の顔修繕や神無月 泊雲 大正5年

水棹などあづけてあるや神の留守 宮地子鴨 昭和7年

高山と荒海の間炉を開く 未灰 明治42年

ちんちんと黄泉のそこより十夜鉦 河野静雲 昭和12年

茶の花に月より降りし時雨かな はじめ 大正6年

激論をして別る丘の落葉かな 水巴 大正1年

菜畠へ次第にうすき落葉かな 泊雲 大正3年

しぐるゝや灯待たるゝ能舞台 あふひ 大正8年

老僧の恋に華頂の時雨かな 耕雪 大正12年

道端の小便桶や報恩講 鬼城 大正4年

たまに来て熊野山社の留守詣 常紫郎 昭和4年

時雨忌や雫晴れして梅嫌(うめもどき) 静雲 昭和1年

小さうもならでありけり茎の石 鬼城 大正4年

梨棚や潰えんとして返り花 秋櫻子 昭和4年

乗れといふ舟に紅葉のちりつゞく 河村いさむ 昭和11年

木枯の森へゆく木戸押せば開く 池内友次郎 昭和11年

野々宮やさしわたりたる時雨月 花蓑 大正14年

しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹 茅舎 昭和5年

祇王寺は茶殻を干してしぐれけり 大森積翠 昭和6年

祝言のあり風除に子供達 家田小刀子 昭和12年

と並び、「時雨忌」は外せないし(梅嫌の写真も新宿御苑まで足を運んで撮ってきた)、未灰の「炉開き」の句柄も大きいし、河村いさむの「紅葉」の句も大好きだし、小刀子の「風除」に至っては目を細めて愛でたいが、クレージーキャッツの「五万節」ではないが、運んだ本が五万冊(サバ読むな、このやろ~)では、時機を逸して是非無し。

番外編として、小西昭夫虚子百句』(創風社出版、800円)と岸本尚毅高浜虚子 俳句の力』(三省堂、1600円)を取り上げたい。

虚子没後五十年を記念して昨年は神奈川近代文学館で「子規から虚子へ」の企画展に始まり、角川文庫からの虚子の俳句入門書『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』の再刊、西村睦子『「正月」のない歳時記』と、見ごたえ読みごたえのある催しと出版が相次いだ。今年も小西昭夫『虚子百句』、岸本尚毅『高浜虚子 俳句の力』と、その余波を受けて面白い本が出たが、今回は小西昭夫『虚子百句』を取り上げる。

著者は昭和29年生まれ。「船団」会員。四国松山から出ている月刊「子規新報」の編集長。愛媛新聞の俳句欄の選者でもあり、「無季俳句も新興俳句も口語俳句も俳句の財産である」と考える真っ当な選者である。句集に『花綵列島』『ペリカンと駱駝』『小西昭夫句集』、歌集に『煙草吸うとき』がある。わたくしは神戸の酒席で一度お会いしたことがある。

愛妻家小西昭夫氏蠅叩く 小西昭夫 平成11年

といった飄々とした句を詠む。また、NHK「俳句王国」(平成20年7月5日)でも、

悪人の往生したる涼しさよ 小西昭夫 平成20年

と、実に芸達者で小粋なところを見せた。

君に聞くトマトご飯の作り方 小西昭夫 平成20年

といったプリティな句も楽しい。いわゆる「俳句に無理をさせない」詠み方である。

この『虚子百句』は、「表現されているままに読む。虚子を知らなくても読める」という趣旨で、手軽に読めるように、文庫版俳句鑑賞百句シリーズの一環として、今年の1月に出されたものだ。一頁一句鑑賞で、前半は「表現されているままに読む」鑑賞、後半に句の時代考証が簡単に付く、読者に無理をさせない書き方である。間に「水の力」「虚子の推敲」「主宰の役割」「編む虚子」の四編のエッセイを含む。全編着眼が素晴らしいが、就中「編む虚子」は他のエッセイが二頁なのに八頁にわたる力作で、編集者、選者としての虚子の力量を余すところなく簡潔に伝えていて、わたくしがくどくどと余生をかけて書こうとしていることが全部書いてある。

違うのは、わたくしが虚子の句を余り高く評価していないということくらいだが、小西昭夫の読みを見ると、わたくしの俳句を読む力がヘタレなだけではないかという気がしてくる。例えば、

流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子 昭和3年

という虚子の代表作の一つがあるが、わたくしは大根の葉、殊に茎が好物で、これをざくざく切って胡麻油でジャコと炒めたものなど、酒の肴、飯の友として食卓に欠かせないほどだから、アフリカの環境活動家マータイさんのように「流れゆく大根の葉やもつたいない」と先ず読んでしまう。大根の葉は沢庵にするにしても葉を切らずに二本束ねて干して、漬ける時に間に葉を間に挟んで漬けるから、葉は洗っている時には切らない。したがって、大根の茎のうまさ、葉のうまさを知らない、大根の葉をちょん切って捨てて洗うというバカヤロウな景ということになる。つまり、この句は人間の暮しの中を通らない句であり、それでわたくしの中も通らない。

まあ、これはわたくしの実家が切干大根と納豆を混ぜる「そぼろ納豆」の名産地で、三浦大根の産地のそばに住んでいたことが大きいので、八百屋やスーパーで葉を切り落とした大根などを売っているとケッとなる育ちだから是非無い。

遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子 明治33年

という虚子の代表作が、雪国で育った人にはぴんと来ないようなものである。

小西昭夫は、この「大根の葉」の句に対して鑑賞されたさまざまな評言、「精神の空白状態に裏付けされている」(山本健吉)、「九十九パーセントまでの人生の痴呆、一パーセントの恐ろしく強靭な自然を凝視する心の強さ」(平畑静塔)、「近くの小川で大根の葉を洗うといった、近世以降の庶民の生活が典型として抱え込まれており、いま自分の目の前にある光景は、遠い昔から四季がめぐり来るたびに必ず繰り返されてきた光景であり、そして昔の人もまた、そこに自分と同じような感慨を味わったに違いないと、虚子はほとんど確信している、歴史的連想の時間」(仁平勝)を一蹴する。
大根の葉や近代庶民の生活などはどうでもいい。「水」という言葉こそ一語も使われていないが、この句に詠まれているのは「水の力」、「水の普遍性」なのだ。その鮮烈で活力のある生命の源としての「水の力」に魅かれるのである。
と述べている。これは固有性を越えた普遍性のある読み方と言えるだろう。大根の葉をちょん切ったとしても、沈むほどの重さのものが「早さかな」という最大の切字で詠み止められた以上、そこに「水の力」を見なければ読みが浅いと言われても仕方がない。
虚子は水に敏感な俳人である。
という小西昭夫の読みは、言われてみれば、

春の水流れ流れて又ここに 高浜虚子 昭和7年(「流れ」は「くの字点」表記)

にしても、

一つ根に離れ浮く葉や春の水 高浜虚子 大正2年

にしても、水の流れの早さやたゆたいを射止めている。殊に「一つ根」の句は『俳句の作りよう』の「じっと眺め入ること」の章で延々「自句自解」を試みていて、多分「自句自解」史上最長だと思うが、余り嫌味がないのは、自句を他人事のように語る虚子の語り口と、小西昭夫の言う「水の普遍性」に浮いている見事な俳句の力によるのかも知れない。

一点、表記の訓みで通常の俳人の訓みと異なる句があるので、そのことに触れたい。

地球一万余回転冬日にこにこ 高浜虚子 昭和29年

五十嵐播水夫妻の結婚三十周年祝句で、小西昭夫は「ふゆび」とルビを振っているが、『新歳時記』では「冬の日」の傍題として「ふゆひ」と濁らずに訓む。虚子編以外の歳時記も、「ふゆひ」と濁らずに訓む。例外はない。したがって、掲出句の立子句も「ふゆひ」と訓む。

逆に、国語辞書では「ふゆび」と訓む。新しい『広辞苑第六版』然り。『言海』には「冬日」すらない。国語辞書と歳時記が真っ向から異なるという珍しい訓みである。小西昭夫は俳人ではなく一般人として、虚子の句を読んでいることになるが、これは作者が「ふゆひ」と詠んでいるのだから、「ふゆひ」と訓んでやるのがよろしいかと思う。

子規も「冬日」という題を立てているが、わたくしがアルス版の全集で調べた限りでは、すべて「冬の日」で詠んでいる。ただし、蕉門の北枝に「稲干のもも手はたらく冬日かな」という句があるから、江戸時代に例句が無いわけではない。ただ「ふゆひ」と訓むか「ふゆび」と訓むかはわからない。

足に射す冬日たのしみをりにけり 立子

など、わたくしは茨城生まれなので、夏目漱石が茨城の赤毛布(田舎者)は芋をエモと妙な発音すると揶揄していたように、「し」と「ひ」も茨城県人には発音が難しいので「ふゆひ」で訓むと、掲出句もそうだが、非常に読みづらい。「ふゆび」という気象予報用語に耳が慣れているせいもあるだろうが、俳人以外は「ふゆび」と訓むと思う。「ふゆひ」の訓みは、俳句では、虚子が定着させた訓みだと思われる。

訓みは違っても意味は同じとはいえ、例えば掲出句は「ふゆひ」だと大仏から山へ移る日差しが「ふゆび」よりも心もち澄んで響く。「ふゆび」だと零℃以下のきっぱりとした日差しの印象が強く感じる。声に出した途端、言葉が意味を持つためだろう。

(明日に続く)


2010年10月23日土曜日

ホトトギス雑詠選抄〔39〕夜寒

ホトトギス雑詠選抄〔39〕
秋の部(十月)夜寒

猫髭 (文・写真)


あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 仙台 中村汀女 昭和12年

鎌倉の小町通り雪ノ下一丁目を横に入ったところにある小さな古本屋「藝林荘」は、虚子・立子・年尾・つる女をはじめとするホトトギス一族の墓が寿福寺にある鎌倉だけに、時々ホトトギス系の句集の出物があるので顔を出す。逗子にも「海風舎」という俳句や詩の専門の古本屋があるので重宝しているが、主がセドリで留守がちなので、近いのにインターネットで頼んで郵送してもらう事が多い。インターネットは便利だが、やはり本は手にとって愛でて買いたい。

電子図書は、例えば小説やエッセイは、クリックするだけで背景の説明や写真や動画や音楽が読めて楽しめるので、iPADとか大いに期待しているが、手作りの本の良さには格別なものがあり、例えば、歴代の「ホトトギス雑詠」が電子図書で手軽に読めれば、検索も引用も随分楽になるが、何度も手にとって繰り返し読む書物のもたらす余生の時間の「私有」感は、電子図書はあくまでもヴァーチャル・リアリティの世界なので望むべくも無い。アナログのLPの息づかいまで聴こえるようなジャケットを眺める喜びがCDには無いようなものか。海外へ能く行っていた時は、古いジャズのオリジナルLPが安く買えるのが楽しみで、聞く時はレコードの塵ひとつ拭かない。そのぱちぱち言う音もその時代の音であり、ファンにとってはノイズではないのだ。指痕も付かず紙魚も棲めない電子図書は、わたくしには書物ではなく、コピーの効く便利なツールのようなもので、それはそれで面白いが、書物は便利さとは無縁の世界である。「私有」出来ないものを愛することは、わたくしには難しい。

で、「藝林荘」の奥左手の俳句の棚を見ると、何と原石鼎の龍土町の家に下宿していた詩人北園克衛の句集『村』(瓦蘭堂、昭和55年)があった。石鼎は「などハモニカかくもかなしく梅雨の闇」と北園克衛の吹くハーモニカを詠んでいる。買おうと思ったら4500円だったので臆した。稀少本なのでファンには高くはないとは思うが、北園克衛の詩集『黒い火』の、垂直にではなく助詞ひとつすら水平に展開する短い詩篇は、石鼎句の影響があるかも知れないし、高柳重信の行分け表記にインスピレーションを与えたかも知れないとはいえ、母のケアラーとして暮す我が身にはそこまで連想に遊ぶ時間も金もない。

出物は昭和22年に文藝春秋新社から出た『互選句集 中村汀女・星野立子』。立子と汀女は、橋本多佳子と三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた。二人は「ホトトギス」同人だったこともあり、ライバルと目され、虚子は娘の立子を依怙贔屓して汀女には冷淡だったと俄には信じ難い噂も仄聞していたので、この二人が互選しあう句集があった驚きには手が出た。千円と安かったこともあるが。

戦後間もない出版なので、造本は質素だが、持主の署名は「五高文甲 中川葉子」という、熊本市江津生れの汀女ゆかりの旧制第五高等学校(現熊本大学)文科甲組の女学生の蔵書だった。御存命であれば八十を越えているが、売られたということは遺族が放出したのだろう。とても丁寧に読まれていて、わたくしの武骨な手で二読三読しているうちに表紙は剥落を始めた。潔癖な筆遣いで「抱雅(えうし)」と裏に俳号の記された、汀女に憧れた持主の初々しさを手に取るような心持ちだった。五高はわたくしが全作品を愛読する梅崎春夫と萩原朔太郎の母校でもある。わたくしの手に取られたのも縁だろう。

前半は立子が選ぶ汀女の句と汀女論である。立子は読み直して「何と私と一緒に作られた句が沢山あることか」と、印象に残った句を、

さみだれや船がおくるゝ電話など
曼珠沙華抱くほどとれど母戀し
麦の芽に艫の音おこり遠ざかる
おいて来し子ほどに遠き蝉のあり
中空にとまらんとする落花かな
春の海のかなたにつなぐ電話かな
秋雨の瓦斯がとびつく燐寸かな
枯蔓の太きところで切れてなし

と、思い出をまじえて引きながら、鎌倉山のロッヂに出かけた時の二人の句を掲げる。

肉皿に秋の蜂来るロッヂかな 汀女
娘等のうかうかあそびソーダ水 立子(「うかうか」は踊り字のくの字点表記)

ほれぼれする個性である。

中村汀女も立子の句を論じるに、先ず次の二句を引く。

いつの間にがらりと涼しチョコレート
よきみくじ四つに畳んで単帯

選句だけで見事な立子論になっている。

また、汀女も調布の池内友次郎宅で立子と二人で句を作った思い出を語る。「調布の夜空は広く美しくてちやうど後の月で白い霧が流れてゐた。」

霧深きことはなつかし十三夜 立子
一本の竹のみだれや十三夜  汀女

今年の十五夜は叢雲を縫って現われる名月をかろうじて見られたが、二十日の十三夜も、薄紅葉の木蔭から名残の月が拝めたので片月見にはならずに済んだ。

この互選句集にはびりびり痺れた。それにしても原石を見抜く虚子の目は凄い。双方の論には引き合わせてくれた虚子の話題が出て来るが、この二人はお互いの作品を高めあう真の意味でのライバルになることを虚子が見抜いていたのは、互選の句の素晴らしさと彼女達それぞれの謙虚で敬愛と友情に満ちた評が見事に表わしている。ライバルとは自分の世界を持って初めて出てくる者であることが手に取るようにわかる。

殊に、汀女の立子句の選は見事なものだった。立子の汀女句の選に遺漏は無論無いが、立子は汀女が熊本は江津の両親を詠んだ句、

たらちねの蚊帳の吊手のひくきまゝ 汀女

といった句が心から素晴らしいと(同感だが)、好きで好きでという選び方をしている分、思い出に片寄るところがある。汀女は逆で、自分に思い出がある句は捨てて捨てて、立子の純粋俳句を作るような心組みで選んでいる。「あなたが選んだのは文句はないわ」と立子も言ったほどである。

この内容で、当時の定価が280円だとしても、千円は安い。この古本屋は馬鹿である。勿論褒め言葉だが。これだから古本屋通いはやめられない。

掲出句の「夜寒」の句は、汀女の子を詠む句では、

咳の子のなぞなぞあそびきりもなや

と並んで人口に膾炙した句で、「引けば寄る」が「引けば」と母なる作者の動作に切り替わって、また子の「寄る」という動作に戻って結ぶ、母と子の温もりが際立つ座五として名高い。汀女は「きりもなや」もそうだが、座五の切れ味が際立つ作家である。

マスク同士向ひ合せてまじまじと(「まじまじ」は踊り字のくの字点表記)
河が呑む小石どぶんと蚊喰鳥

といった何でもないような句の「まじまじと」の可笑しさ、「蚊喰鳥」が波紋から飛び出してくるようなびっくり箱の面白さ。それが極まると至芸としか言い様が無い三句が来る。

とゞまればあたりにふゆる蜻蛉かな
ゆで玉子むけばかがやく花曇
外にも出よ触るるばかりに春の月

2010年10月16日土曜日

ホトトギス雑詠選抄〔38〕酒三題

ホトトギス雑詠選抄〔38〕
秋の部(十月)酒三題

猫髭 (文・写真)


くゝくゝとつぐ古伊部の新酒かな 大阪 皿井旭川 昭和9年

古酒の壺筵にとんと置き据ゑぬ 越後 佐藤念腹 大正15年

そくばくの利を得て父の濁酒 斎藤俳小星 大正4年

皿井旭川(註1)の句は「くゝくゝ」(表記は後の「くゝ」は踊り字のくの字点)が新酒を飲ませてくれるオノマトペである。普通酒を注ぐオノマトペは「とくとく」だが、新酒は「くゝくゝ」かと、思わず酒屋へ走ってしまった。と言っても、逗子も那珂湊も「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」という狂歌ほど山奥ではないから歩いて十分飛んでも八分である。生憎那珂湊の酒屋の亭主が留守で婆さんしか居らず、どれが新酒かわがんねと言うので、新酒だから新しく入荷した酒だっぺよと言うと、そんなら今朝入ったのがあると言うので、木箱を引き出すと果たして昨日の日付の生酒。これだっぺよと早速開ければ、火入れをしていないから、蓋を取れば、ぷしゅうっとフルーティな香りが鼻腔を「呑んでくれい」とくすぐる。冒頭の写真右側がその特製純米酒の水戸は吉久保酒造の「一品」である。生酒なので濾過しておらず、清酒の透明度はないから、やや黄色味がかっている。肴は雲丹を蛤の殻に盛って焼いた雲丹の貝殻焼である。ちょっと醤油を垂らしていただく。くくくくと注いで雲丹をちょっと嘗めて新酒を口に含むと、くくくくのくーっである。ただし、旭川先生と違い、我が家には古伊部(こいんべ)焼(備前焼)の徳利もぐい呑みもないから、湯呑で呑んでいる。

佐藤念腹(さとう・ねんぷく)(註2)の古酒の句もまた、古酒の壺を筵に置く「とん」が、古酒の熟成して酸味を増した琥珀の色がたぷたぷと、これまた「呑んでくれい」と誘う句で、古酒の壺を筵に車座に囲んで、丼に柄杓で注ぎ回るような野趣溢れる饗宴が見える。古酒は三年醸造酒が多く、わたくしの舌に記憶しているのは山形の「初孫」古酒と(岩牡蠣との相性抜群)、やはり山形の「出羽桜」(吟醸酒でこのアップル・フレバーを超える酒は知らない)の古酒「枯山水」で、「初孫」は氷の桶で冷やして呑み、「枯山水」は熱燗で呑むとおいしい。氷室で低温熟成させる古酒もあるが、糖分が増すようで、古酒というより貴腐ワインに近い。

冒頭の写真の左側の一升瓶が、石岡の誇る「白菊」の古酒、特選本醸造熟成酒である。肴には鯣(するめ)烏賊の塩辛黒作りを添えた。烏賊墨は蛸墨の十倍以上のアミノ酸が含まれるので、コクが増すのと、「ムコ多糖」という抗癌作用があるので、癌を患った友だちに食べさせたくて、行きつけの魚屋「魚徳」の親爺さんに頼んで墨袋を溜めておいてもらって作ったものである。

斎藤俳小星(さいとう・はいしょうせい)(註3)の濁酒の句は時代を感じさせる。濁酒というと、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の一節「濁り酒濁れる飮みて 草枕しばし慰む」が人口に膾炙しているが、いわゆる「どぶろく」で、醪(もろみ)を濾さない酒であり、家庭でも簡単に作れるので、わたくしの記憶では密造酒という意識は余りなく、家庭で作る分くらいはお咎めなしという雰囲気だったが、下賤な酒であることには変わりはなかった。というのは、どぶろくと言うと、小学校の仲の良い友だちの家へ初めて遊びに行くと、雨戸もない平家の畳が凹んだ上で、どぶろくを丼であおりながら、上がるんじゃねえと友だちの父に怒鳴られた記憶に今も立ち竦むからだ。この句は切ない。那珂湊には、赤貧洗うが如しという家は五十年前は至るところにあった。

どぶろくの概念が変わったのは、父が京土産に買ってきた「月の桂」の「大極上中汲にごり酒」(東京オリンピックの年に日本で市販された最初の濁酒)を呑んだ時で、はんなりとしたおいしさに、京都へ父が行くたびに土産にせがんだのを覚えている。勿論わたくしは未成年だったが、昔は子どもが酒を飲むとか酒席にいるとかには鷹揚だった。大人が酒を呑む姿を子どもが見て育つというのは、わたくしはいい文化だと思う方である。だから、「子連れお断り」と貼紙があるような店は、いくらネタが新鮮で安くて評判でも、足を向けない。わたくしは横浜の中華街や鎌倉の天麩羅屋に何十年と通っているが、一度も嫌な顔をされたことがない。子ども用のバルタン星人のお皿は、主の息子の食器だったりして、その息子も今では立派な若主人になっている。


註1:皿井旭川は「蠅」で採り上げたが、句集は『旭川句集』(昭和18年、天理事報社) と同名で昭和46年に私家版があり、インターネットで検索したら、昭和46年の私家版がヒットしたので注文したら、限定家蔵の刊行者用愛蔵版限定十部の内六番が届いて仰天した。天金どころではない布装帙入外函付総革装三方金装本で、総天然色の短冊や色紙が折り込まれた溜息が出るようなぴかぴかの句集で、遺族の痛いほどの愛惜を感じた。昭和55年の『虚子選年尾選 躑躅句集』も遺族の「父への追憶」という冊子を添付した非売品だが、見事な句集で、遺族や弟子たちの編んだ遺句集というのは本当に暖かい。

註2:佐藤念腹。本名・佐藤謙二郎。明治31年、新潟県生れ。高浜虚子に師事し、同門下の逸材として注目されたが昭和2年、渡伯し、第二アリアンサ移住地入植を経てバウルー市に移転。生涯、バウルー市に居を構えてブラジルにおける俳句の普及に多大な功績を残す。みずからも、開拓俳句などで虚子門下のホトトギス派の一流作家としての地位を築いた。戦前戦後の邦字紙の俳壇選者を務めながら句誌『木蔭』を主宰し、多数の弟子を育成した。また、渡伯前の虚子のはなむけの句、「畑打って俳諧国を拓くべし」を使命として写生俳句の興隆に全力を尽くし、『ブラジル俳句集』、『念腹句集』など多数の著作がある。聖市イビラプエラ公園日本館内には、「雷や四方の樹海の子雷」の句碑がみられる。昭和54年死去。(ニッケイ新聞。「20世紀-コロニアの20人」より引用)

註3:斉藤俳小星(明治16年~昭和39年)は本名、徳蔵。別号、夜鏡庵梅仙。埼玉県所沢生。明治44年、高浜虚子に師事し、大正9年に『ホトトギス』同人となる。農家で米屋のため、農事に関する秀句が多いことから「農俳人」「土の俳人」と称された。新光寺墓地にある斎藤家の墓前に立つ碑文は、亡くなる前日の絶句「枯寂裡に活を点じて石蕗咲けり」で、書は富安風生。風生ほか、鈴木花蓑、原石鼎らと親交。句集『徑草』(昭和26年)。

2010年10月3日日曜日

ホトトギス雑詠選抄〔37〕菌

ホトトギス雑詠選抄〔37〕
秋の部(十月)菌

猫髭 (文・写真)


菌汁大きな菌浮きにけり 高崎 村上鬼城 大正8年

毒茸のかさのうてなに溜水 在芦屋 山口誓子 大正8年

茸山やすこし登れば大文字 東京 池内たけし 昭和2年

茸山や少年の日のみちはあり 在東京 松山桜人 昭和6年

塗盆に千本しめぢにぎはしや 大森 島田的浦 昭和6年

舞茸をひつぱり出せば籠は空ら 新潟 中田みづほ 昭和7年

茸乏しぼんやり伊吹山を見る 京都 松尾いはほ 昭和12年

みちのくの果ての温泉宿(ゆやど)の菌汁 在東京 梅田真三 昭和16年

雷鳴に怯えそれより茸は出ず 丹波 西山泊雲 昭和16年

火となりし松毬(まつかさ)ならべ菌焼く 岩手 駒ヶ嶺不虚 昭和18年

街道に茸ぶちまけて糶(せ)つて居り 舞鶴 至宏 昭和19年

ぶちまけし栗より茸のをどり出ぬ 大阪 寒木 昭和20年

盃にとくとく鳴りて土瓶蒸 阿波野青畝 昭和55年

湊大橋入口のヨークベニマルの地産コーナーに様々な茸が並び始めたので、歴代の虚子選「ホトトギス雑詠選集」から、わたくしの好きな茸の句を列挙してみた(最後の青畝の句のみ句集『不勝簪』から)。

茸もトマトも一年中あるので無季のようだが、やはり旬は歴然と舌に踊る。トマトは夏でないと太陽の味がしない。土瓶蒸は秋でないと盃がとくとく鳴らない。いや、ほんとの話。

茸の句を並べたら、茸汁が食べたくなったので作ることにしたが、これはうまい!と舌鼓を打った茸汁の記憶は、京橋の路地裏にある「魚がし」という小さな店で、昼の定食に出されたものだった。茸の香りが際立ち、歯応えといい、秋を噛んでいるという感じだった。とろりとした秋野菜の甘みの中に酸味があり、八方出汁と醤油と茸や里芋、大根、人参のハーモニーが絶妙だったので、毎日通ったが、飽きなかった。聞けば、味醂も酢も入れていないし、葛でとろみをつけているわけでもないとのことで、不思議に思い、かすかに浮いている脂がコツかと、鶏肉を入れているのかと聞けば、隠し味に鶏の脂を少々とのこと。それだけでこの旨みが出せるのかと、首をひねって茸汁を啜っていると、茸は軽く炒めて香りを引き出しますと教えてくれた。それだ!

それを思い出して、早速、椎茸、舞茸、湿地をざっくりと手で割いて、菜種油で香りが立つほどに炒め、滑子は軽く水洗いしてから八方出汁に入れ、塩で味を締め、色づくほど醤油をかけ回して味を含ませると、果たして母はお替りを所望した。

勿論、「魚がし」のプロの味には適わないが、茸を炒めてから入れるというひと手間で驚くほど旨みと歯応えを増すことだけは確かだ。しかし、これは「魚がし」の味であって、我が家の味ではない。猫髭料理帳にはもうひと工夫要る。

9月14日のNHKの「あさ一」の<夢の3シェフNEO 安くて便利「キノコ料理」>という特集で(註1)、日本料理:橋本幹造板前の「Wきのこの炊き込みご飯」で、天日に数時間さらして半干しにした茸は、香りが増し、独特のシコシコとした食感になると紹介しているのを見たことを思い出して、これだ!と思った。

ここのところ、雨と晴と交互でなかなか乾物日和にならなかったが、昨日今日と秋晴が続いたので、軒先の乾物ネットに入れて、椎茸と舞茸と湿地を干してから炒めて八方出汁に入れると、水分が飛んだ分、旨みが凝縮され、かつ出汁を存分に吸って、母は終始恵比寿顔だった。いただきました、☆☆☆です♪

この茸汁は味噌仕立てで里芋を増やせば芋煮になるし(牛と豚とで米沢と仙台はそれぞれの芋煮を誇る。どちらも旨し)、茨城では久慈の軍鶏肉を奢ると軍鶏汁になる。牛蒡の笹掻きと豆腐を潰して炒めて入れると巻繊汁(けんちんじる)になる。

半干しにした茸を炒めるだけで、茸汁だけではなく、茸のスパゲッティや茸御飯にも、茸うどんにも、勿論茸吟行もおいしい句になるかも。

掲出句はすべて臨場感があり、食欲を誘う句が多い。毒茸の句もあるから中ると恐いが、俳句だから中らないので安心して食べられる句ばかりである。


(註1)http://www.nhk.or.jp/asaichi/2010/09/14/01.html

2010年9月23日木曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔36〕無月

ホトトギス雑詠選抄〔36〕
秋の部(九月)無月

猫髭 (文・写真)


かけてある芭蕉の文(ふみ)も無月かな 加藤霞村 昭和8年

女傘さして出でたる雨月かな 加藤霞村 昭和8年

那珂湊のわたくしの実家の風呂場は、中秋の名月を見るために建てられた、わけではないが、戸を開けると、湯舟に背を凭せながら、昨晩9月21日は、待宵(まちよい)の月と左下に木星が綺麗に見えて、月見風呂を楽しめた。

今日22日は十五夜だが、昨日のNHKの天気予報ではお天気お姉さんの半井小絵(なからい・さえ)が「関東地方も明日は夜から雨になるでしょう」と言っていたが、那珂湊は朝から雲ひとつない32℃の真夏日だった。午後2時過ぎから涼しい海風が吹き始めたので、乾物ネットに秋鯖と烏賊を開いて軒先に吊るすと、いい塩梅に日差しと風が交差して、3時間ほどでしっとりと干し上がった。夕方になると平磯の山の方から雲が低く走り出し、海鵜や海猫や鴉も翼を広げたまま横ざまに滑るように塒へ飛んでいった。西日避けの麻簾を吹き上げる風は、紛れも無い秋風の肌触りだったが、日没には野分のように強くなり、雲も厚くなって夜の色を刷いた。

満月は明日「彼岸中日」23日の「秋分の日」の18時17分だが、陰暦8月15日は今日9月22日に当る。『源氏物語』の「夕顔」に「八月十五日、隈なき月影」とあるのは古来よりの美意識で、清少納言は、それを踏まえて、「秋は夕暮」と新しい美意識を打ち出したが、それに対して「月はくまなきをのみ、見る物かは」と異を唱えたのは兼好法師で、『徒然草』の百三十七段に、
望月のくまなきを千里(ちさと)のほかまで眺めたるよりも、暁近く成りて待ち出でたるが、いと心ふかう青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、又なくあはれなり。椎柴、白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、宮恋しう覚ゆれ。すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。
と、源氏の「隈なき月影」を真っ向から批判している。この辺が清少納言の、腹の中では紫式部と張り合っても、面には出さない雅さとは異なる兼好法師の一言多いところで、本居宣長が「後の世のさかしら心のつくり風流(みやび)」と『玉勝間』で扱き下ろす所以だが、この大国学者も私生活は、懸想していた女が寡婦になるや、長年連れ添った女房を離縁して再婚するという下種野郎だから、どっちも性格は好いほうではないので、後世の我々は「月」に対する美意識を立体的に、それぞれの月齢の趣きを楽しめばいいということになる。

お天気お姉さんの言葉に違わず、那珂湊は深夜1:30から雨になった。冒頭の叢雲の月の写真は、21:00頃の、風の押し出す叢雲のつなぎ目に、一瞬垣間見えた名月で、後は無月だったので、掲出句は無月の句を挙げてみた。この辺がインターネットの臨機応変なところで、総合俳句誌だと二ヶ月も先に名月を詠むから、全国的な土砂降りでも皓々と隈なき月が出ていたりする。

加藤霞村(かとう・かそん)は名古屋の俳人で、弟の俳人加藤かけい(註1)と名古屋ホトトギスを結成した。『牡丹』主宰。句集に『游魚』 (昭和21年)がある。

『ホトトギス雑詠全集』を調べた限りでは、霞村は「隈なき月影」を詠んでおらず、「無月」と「雨月」の闇夜ばかり詠んでいる。名古屋俳壇の重鎮だが、面白い俳人である。掲出句の「無月」の句は、爽波も九月の秀句として抜萃しているが、「芭蕉の文」がわかりづらい。というのは、「無月」に関する文を芭蕉が残していて、それをかけてあると読めるが、「無月」は虚子以前に例句も和歌も見当たらず、虚子が流行らせた季題かもしれないと思えるからだ。

「雨月」の句は、「雨の月」として、芭蕉がまだ「伊賀松尾氏宗房」の作者名を名乗っていた頃の寛文9年(芭蕉26歳)に「かつら男すまずなりけり雨の月」があるが、「無月」という季題は見当たらない。虚子は「無月といへば雨月をも含んだ広い意味になる」と解説しているが、当時はそういう即物的な言葉ははばかられていたのではないかと思われる。紫式部の「隈なき月影」の美意識から言えば、「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな 紫式部」(『新古今和歌集』)というように、「雲がくれの月」と婉曲に言うはずであり「無月」という即物的な言い方は忌むと思われる。

芭蕉の文で、今年のように待宵が「月殊に晴たり」と言えて、十五夜が「雨降る」という記述は『おくのほそ道』の最後「名月は敦賀の湊にと旅立つ」に出て来る。「月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上」と詠んだ待宵の月に「あすの夜もかくあるべきにや」と宿の亭主に問えば「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と言われて、果たして雨が降る。

名月や北国日和(ほくこくびより)(さだめ)なき

と芭蕉は詠んで、婉曲に無月を表わしている。

かけてある芭蕉の文も無月かな

もまた、その伝で行けば、無月と詠んで名月を詠んでいるわけである。


(註1)冨田拓也『俳句九十九折』「俳人ファイルⅩⅩⅨ 加藤かけい」

2010年9月19日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔35〕子規忌

ホトトギス雑詠選抄〔35〕
秋の部(九月)子規忌

猫髭 (文・写真)


明治35年9月19日・未明子規歿す
子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子 明治35年

糸瓜忌や俳諧帰するところあり 村上鬼城 大正3年
正岡常規(つねのり)、又ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる)、又ノ名ハ子規、又ノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、又ノ名ハ竹(たけ)ノ里人(さとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太(はやた)、松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏(註1)ニ養ハル。日本新聞社員タリ(註2)。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円(註3)
(註1)子規の母方の祖父大原観山を指す。藩学の重鎮だった。
(註2)日本新聞社長は陸羯南(くが・かつなん)。『近時政論考』『原政及国際論』を著し、近代ジャーナリストの草分けとされる。子規の物心両面にわたる最大の庇護者。
(註3)【今ハ新聞社ノ四十円ト「ホトトギス」ノ十円トヲ合セテ一ヶ月五十円の収入アリ】(『仰臥漫録』明治34年9月30日)。
大正15年5月20日発行の初めての『子規全集』(アルス)、「第十三巻 俳論俳話・下」を開くと、巻頭に折り畳んだ和紙が添付されている。広げると、子規の自筆の墓誌銘が現れる。冒頭の写真と文がそうである。御覧のように原文は漢字カタカナ表記だが、ルビと句読点を補い、若干註を付して引用した。

柴田宵曲(しばた・しょうきょく)の『評伝 正岡子規』(岩波文庫)は、この墓誌銘から説き起こされる。この墓誌銘は、明治31年7月31日、河東碧悟桐の兄である河東銓(せん)への手紙に添えられたものである。宵曲曰く。
居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふう・のぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事(註4)にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。
(註4)李商隠 [813〜858]中国、晩唐期の詩人。字は義山。二十四節気・七十二候の雨水初候に獺祭魚(ダッサイギョ。たつうおをまつる・かわおそうおをまつる)に因む。【カワウソの習性として捕らえた魚を人間が先祖を祭るときの供物のように川岸に並べることから、書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ること、また好書家、考証癖、書癖などを言う言葉にもなった。唐の李商隠がこの名で呼ばれ、正岡子規がみずから獺祭書屋主人と称した。このことから子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。】(ウィキペディア)。この墓誌は、昭和9年の三十三回忌に、北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)の墓畔に建てられた。アルス版の『子規全集』内容見本では題字は違う字体だったのに、自筆墓誌銘の「子規」の字体に改めたのは、『子規全集』の企画者、寒川鼠骨(さむかわ・そこつ)である。以来、改造社、講談社とも踏襲している。

昔、この墓誌銘を初めて見た時、その簡潔さに驚いた。なかんずく、最後の「月給四十円」に驚いた。当時の企業物価指数や消費者物価指数と現在のそれとは単純に比較できないが、現在の40万円前後だろうか。自分の死の値段を平然と月給に換算しているような気がした。正岡子規については、それまで教科書に載っているほどの事しか知らなかったが、この墓碑銘は強烈な印象を残した。

昭和50年に講談社から『子規全集』が刊行され、その第一回配本が晩年の四大随筆『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』だった。読んで、更に驚嘆した。殊に『仰臥漫録』は発表を意識したものではないため赤裸々で、石川啄木の『ローマ字日記』や徳富蘆花の『蘆花日記』と同じく、読むとこれまで抱いていた作家の顔が全く違って見えるという驚くべき日記だった。『仰臥漫録』は、ここまで死を間近に見詰めてもがき苦しみ、そして楽しんだ人間を初めて見た驚きに打たれた。以来、この四大随筆は現在に至るまでわたくしの座右の書である。

柴田宵曲の『団扇の画』(岩波文庫)所収の「無始無終」という寒川鼠骨追悼文を読むと、このアルス版の『子規全集』を企画したのが鼠骨であり、彼を師と仰いだ宵曲が請われて、子規庵に日参して子規の原稿をほとんど独力で浄書し、鼠骨と二人で校正編纂した経緯が書いてある。宵曲は江戸学の三田村鴛魚(みたむら・えんぎょ)の口述筆記者でもある。宵曲は中学一年で、家業が傾き退学せざるを得なかったが、上野図書館に日参し、古典、現代を問わず博く渉猟し、森銑三と並ぶ稀代の碩学となった。鼠骨と宵曲の無私の営為に支えられているから、今わたくしたちは子規を読めるのである。前年、大正12年9月1日の関東大震災で、鼠骨は倒れた汽車の窓から這い出して一命を拾い、幸い上根岸にある子規庵も鼠骨宅も中根岸にある宵曲宅も無事で、鼠骨は震災で子規庵以外の一切の紙型が烏有に帰したことを知り、灰燼の底で、全集を推進し、宵曲は子規庵の病床六尺の机で、膨大な子規自筆の稿本を浄書し続けたのである。

子規を支えた陸羯南といい、子規を慕いその全集を企画した寒川鼠骨といい、鼠骨を師と仰いで、慫慂されて、膨大な子規稿本を浄書して、大正13年から昭和6年までアルス版『子規全集』(全十五巻)、アルス版『分類俳句全集』(全十二巻)、改造社版『子規全集』(全二十二巻)の編纂に従事した柴田宵曲といい、ほとんどおのれを語る事のなかった無私に徹した人たちであったと言っていい。殊に、宵曲柴田泰助をわたくしは理想の通人として敬愛する者である。

子規忌を修する時、わたくしの脳裏に浮かぶのは、この三氏である。虚子や碧悟桐も全集の編纂に名を連ねているが、実際は鼠骨と宵曲の仕事である。安政以来の大震から一年も経たずに上木されたアルス版『子規全集』第一巻を紐解けばわかる。天金に焦茶色の表紙の手触りの暖かさ、見返しの青梅とさくらんぼの子規の彩色画の美しさ、コットンペーパーの用紙の柔らかさ、木版印刷の冒頭の子規自筆短冊や鶏頭の写生画の素晴らしさ、すべて鼠骨の意見に基づくものだが、無署名の編纂後記の奥ゆかしい文体は紛れもなく宵曲その人のものであり(最終巻の「総後記」に至って編纂の経緯が語られる)、子規がこれほどの短歌や俳句の革新、驚くほどの好奇心と卓見、また晩年の「この人を見よ」と言うしかない四大随筆を遺せたのは、彼らの子規に対する敬愛の深さである。

子規亡き後の双璧と言われた虚子と碧悟桐には、その大いなる業績に見合う、『子規全集』に匹敵するような全集が無い。毎日新聞社の『高濱虚子全集』など、抜萃ばかりで、角川書店の『飯田龍太全集』もそうだが、胸糞が悪くなるほどの杜撰な糞全集としか言いようが無い。全集ではなく選集に過ぎない。

虚子の「子規忌」の『新歳時記』の解説を見てみよう。
九月十九日。正岡子規は松山の人。升と呼ばれた。明治三十五年、年僅に三十六を以て東京根岸に逝いたが、その業績は不滅のものである。歿する前日紙に認めた「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をとゝひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」の糸瓜三句が絶筆として残つてゐる。著書多く、悉く子規全集に収まつてゐる。墓は田端の大龍寺にある。忌は全国の俳句団体で盛んに修せられてゐる。糸瓜忌。獺祭忌。
悉く子規全集に収まつてゐる。」は、田中裕明が「悉く全集にあり衣被」で引いた一節だが、虚子の不滅の業績は、虚子没後五十年を経ても、未だに悉く全集にありとは言えない。子規が試みた『分類俳句全集』は最新の『子規全集』にあるが、それに倣った虚子畢生の『ホトトギス雑詠選集』は『高濱虚子全集』にはない。単行本もすべて絶版のままである。鼠骨・宵曲を継ぐ者おらずや。

掲出句の村上鬼城の一句は、まさにアルス版の『子規全集』あればこそ言える一句である。子規の原本を浄書して悉く残してくれたがゆえに、俳人には「子規」という帰る場所があるのだ。


2010年9月13日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔34〕二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

ホトトギス雑詠選抄〔34〕
秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

猫髭 (文・写真)


山川に高浪も見し野分かな 吉野 原石鼎 大正元年

吹かれ来し野分の蜂にさゝれたり 鎌倉 星野立子 昭和6年

秋出水家を榎につなぎけり 丹波 西山泊雲 大正5年

今回初めて日本に上陸した颱風9号は、静岡で熱帯性低気圧に変わったので、那珂湊では、颱風というよりも降ったり止んだりの断続的な暴風雨という感じで、翌日は風だけが残ったので、野分という「秋の疾風」という気配だった。野分は昔の颱風だが、昔から和歌に俳諧に多く詠まれてきたので、雅語という感じが強い。『ホトトギス雑詠選集』の颱風関連の季題では、「野分」は35句と例句も多い。石鼎の句は、その巻頭の句であり、これは石鼎の「ホトトギス」初投句中の一句で、大正元年12月号に掲載されている。

鹿垣(ししがき)の門鎖し居る男かな
空山(くうざん)へ板一枚を荻の橋
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
山川に高浪も見し野分かな
山の日に荻にしまりぬ便所の戸
鉞(まさかり)に裂く木ねばしや鵙の贄

「ホトトギス」の大正黄金時代の嚆矢となった石鼎の深吉野時代はここに始まる。掲出句は、わたくしが那珂湊の河口で見た防波堤の高浪を想起させた。

鎌倉の谷戸の野分を探りたくて、颱風一過の翌日の午後、逗子へ戻って、「秋草の野を吹き廻り、垣根等を倒した野分後(のわきあと)のありさまも哀れにもまた興趣が深い」(『新歳時記』)という「野分後」を歩いた。谷戸の入口には白萩が散り、芙蓉や槿(底紅)が蝶や蜂を蘂にからめて咲き乱れていたが、芙蓉と槿のトンネルを潜ると、その先は揺れる紅萩の道が続いていた。野分には萩が似合う。紋黄蝶や蜆蝶や蜂が飛び交い、見惚れていると、蜂の羽音が首筋に寄るので、掲出句の星野立子の句のようになっては堪らんと首を竦めながら、行ったり来たりしたが、残り蚊も野分で餓えていたのだろう、足首やジーパンの破れ目から膝小僧をだいぶ吸われた。

この萩の道をわたくしは「実朝の道」とひそかに呼んでいることは「実朝忌」を書いた時に触れたが、まさに今がその盛りであり、

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ

という実朝の歌を心に今宵も歩いたが、一昨日の颱風の日が朔月だったので、星の光しか見えなかった。それでも、この歌は昼の萩の哀れと夜の月光をまざまざと見せてくれる。23日秋分の日が満月だが、それまで萩は咲いていてくれるだろう。枯れる萩も紅の色あいが深い紫を帯びて趣が深いのである。

那珂湊も逗子も、秋出水には幸い遭わなかったが、昔、国分寺の恋ヶ窪に住んで、郵便配達や牛乳配達をしていた頃は、颱風の豪雨で郵便局の前の路地のマンホールが下水が逆流して溢れ出し、配達に往生した事があるから、都市型の下水出水は三十年以上前からあったわけだが、田舎では、能く水戸の桜川が氾濫して、川側の家の下を削って傾かせたり、橋の上まで川の水位が上がり、秋出水と言えば川の氾濫だった。掲出句は、家を榎につなぐというところが、悲喜劇である。泊雲は「ホトトギス」の高弟だが、その生業は丹波の銘酒「小鼓」の酒造主であり、この「小鼓」も虚子の命名で、石鼎も「ホトトギス」で「小鼓」の販売や掛取りの手伝いをしている。丹波は、用水のような川も多く、出水も頻繁にあったのだろう。

「でみづ」というと、わたくしは幸田文の自伝エッセイ『みそっかす』を思い出す。隅田川が氾濫して、叔母の家に預けられ、母を幼くして無くしたので文は幸田露伴の男手ひとつで育てられていたから野生児で、躾がなっていないと叔母に怒られたり、家へ帰ると、家中に泥水のあとが一線を引いている様や、父が大切にしていた本が水に漬かって膨れ上がり、それを細引きを張って干している父の姿や、夭折した姉のために父が大切にとっていたお雛様が流されて首のない骸となって散乱した無残さなど、人の形をしたものの恐さ、自然の暴威のおぞましさが、生き生きとした筆致で描かれていて、何度読んだかわからないほどのわたくしの座右の書のひとつである。余談だが、「あばあさん」という章には智永の「千字文(せんじもん)」の手習いの話が出て来るが、ここに出て来る「金出麗水」は「金生麗水(金は麗水に生じ)」の誤植である。昔は書の手習いと言えばこの「千字文」と王羲之の「十七帖」が手本だった。幸田文の新しい版や全集が出るたびに、この誤植はそのままになっている。わたくしだけが知っていると出版社の無知を笑っていたが、もう余生に入ったので、いつポックリ行くかわからないので、ここに記しておこう。

2010年9月11日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔34〕二百十日・颱風・野分・秋出水〔上〕

ホトトギス雑詠選抄〔34〕
秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔上〕

猫髭 (文・写真)


帆襖(ほぶすま)や二百十日の沖つ凪 佐世保 松永晩羊原 昭和2年

颱風に遭ひたる船のつきにけり 阿蘇丸 上ノ畑楠窓 昭和6年

颱風に吹きもまれつゝ橡は橡 東京 富安風生 昭和11年

『ホトトギス雑詠選集』『新歳時記』とも、九月は「二百十日」「颱風」「野分」「秋出水」と颱風に関わる季題が並ぶので、今回は関連して取り上げたい。

今週9月8日、颱風がこれほど待たれた年はないだろうというほど、颱風9号(アジア名マーロウ/Malouは、マカオ語で瑪瑙を意味する)は、一日だけとはいえ、本来の9月の涼しさを思い出させてくれるほど、「猛暑日」という下品な日本語の暑苦しさを見事に一掃してくれた。前日と同じTシャツと短パンの格好だと肌寒いほど、那珂湊は風が通った。都会と違い、漁村はすべての路地が海へ繋がっているので、風自体が涼しいし、わたくしの実家が、隙間風が縦横無尽に駆けずり回る古屋のためもあるが、日当りに出ると、皮膚をじりじりと音を立てて噛むような強烈な日差しは嘘のように消えた。降り始めの雨は傘も差さずに濡れたまま老犬と家の側の水神宮を散歩しても気持ちのいいものだった。

老犬は海まで散歩しようとすると、風に腰砕けになっていやいやをするので、ひとりで自転車で那珂川河口の海門橋まで行った。漕がなくても追い風が背中を押してくれるほどの、行きは良い良いの強風だった。那珂湊は、海へと下り来る那珂川の淡水と、川へと打ち寄せる常陸沖の海水がせめぎあい、颱風の余波で打ち寄せる波も、河口では打ち消しあって、いつもと変わらないうねりがあるだけだが、川を遡る風紋は、水を凹ませて、細かい影の漣を幾重にも広げた。支流のどぶ川は海から逆流する波がいつもより喫水線を上げており、颱風、というか熱帯性低気圧に変わった名残を残している。しかし、沖から寄せる波は、やはり颱風一過の後だろう、堤防から鎌首を持ち上げる恐竜のような不思議な波柱を立てていた。

「颱風」の語源は様々で、三つほど、いかにもという説がある。①台湾や中国福建省で「大風(タイフーン)」といい、それがヨーロッパ諸国で音写されてtyphoonとなり、それが逆輸入して「颱風」となったのが語源(台湾付近の風という意味で福建省あたりで颱風が使われていたという説あり)。②アラビア語で、ぐるぐる回る意味のtufanが語源。③ギリシャ神話の風の神「typhon(テュフォン)」が語源。

マイケル・オンダーチェの小説『イギリス人の患者』(土屋政雄訳)には、②に基づいた、詩的で美しいアラビアの風の名前が次々と現われる。
モロッコ南部の旋風はアージェジ。農夫はこれにナイフで立ち向かう。秋の風アルムはユーゴスラビアから吹く。アリフィは無数の舌を持ち、大地を焦がす。砂漠の謎の風「・・・」。ある王子がこの風の中で死に、以来、王がその名前を消し去った。
といったように、七色の旋風はアラビア海、エーゲ海を渡ってとどまることを知らないが、日本にも風の名前だけで一本が編めるから(高橋順子編『風の名前』)、番号に颱風の名前が変わったのは、世界共通というグローバリズムの流れとはいえ、大工の世界が未だに尺で無いと日本の家屋は作れないと言うように、漁師達もまた風が読めないと漁ばかりではなく生死に関わることがあるので、例えば「いなさ」(南東の風)は颱風の季節に吹くので嫌われる。逗子でも北風なら多少は荒れていても船は出すが、南風は出さない。沖に出ていても南が吹き始めると、すぐ寄港する。あっと言う間に暴風になるからだ。靄もそうである。ほわほわと靄が波紋にそって湧き出すと、一目散に船を返す。数分としないうちに、目の前に見える港が掻き消される冬の靄は本当に一気に視界を奪い、すぐ晴れるだろうと高を括ると遭難する。

掲出句の「二百十日」は「九月一・二日の前後は気候の変り目で、暴風雨が襲来することが多い。立春から二百十日目に当るのでかう呼ばれてゐる。丁度稲の花期で、農家では特に此日を警戒する。二百二十日は二百十日から十日目で、二百十日と同様、南洋方面からの颱風が恐れられる。農家ではこの両日を厄日としてゐる。」(『新歳時記』)とあるように、荒れるはずの二百十日が凪いで、漁の帆が襖のように並ぶ様が、安堵して詠まれている。「いなさ」もそうだが、風に関する言葉は、農事と漁にちなんだ名前がほとんどである。日本では風の名前を知る事は、暮しを知ることでもある。

作者の松永晩羊原は、まつなが・ばんようげんと訓むのだろうか、佐世保の俳人としかわからないが、句集『秋韻』を出しており、

東風の空紺きはまりて心飢う
土用浪紺青の夜を追ふごとし
臭木の実熟れて鳴瀬の水早し
鶫鳴く湖真つ青に照る日澄む
氷雨して野は竹馬の子に光る
おもふことつきず師走の雨に濡れ

といった句が、インターネットの検索で拾える。

颱風の掲出句は、昭和16年の『ホトトギス雑詠選集』ではこの二句のみが選ばれている。

阿蘇丸という投句地は船上句を意味し、上ノ畑楠窓(うえのはた・なんそう)は、虚子が昭和11年2月16日より6月11日まで渡欧した箱根丸の機関長であり、寄航先で虚子と同行している俳人である(註1)。「颱風に遭ひたる船」の「遭ひたる」は遭難の「遭」であるから、それだけで満身創痍の船と乗客が見える。

風生の句は、橡は臼になるほど大きくなる木なので、颱風にも幹はどっしりとし、その長く大きな葉がばさばさしている姿が見えるが、柄の長い葉なので、揉まれ撓いつつ、大木の羽ばたくような姿は「橡は橡」という断定に納得させられる。

颱風9号は、9月3日15時に発生し、9月8日11時過ぎに観測史上初めて北陸福井県に上陸し、15時に静岡県で熱帯性低気圧となって、関東地方を横断して消滅した。まさに「二百十日」(9月1日)と「二百二十日」(9月11日)の間に、発生した颱風と言える。


(註1)楠窓で思い出すのは、杉田久女が狂女であったという、虚子の流布の根拠のひとつとなった渡仏時の門司寄航の際の彼女の奇行のエピソードに、その名前が出て来ることだ。帰航時の門司寄港の際、久女が機関長の楠窓に面会し、何故虚子に逢わせてくれぬのかと泣き叫んで手のつけられぬ様子であったと言い、渡された色紙の字は乱暴な字で書きなぐってあって、虚子は一字も読めなかったと言う。だが、実際の運行記録は違う。船は帰りには門司に寄港していない。渡仏時の出航の際には門司に寄港するが、この時も久女は船を仕立てて先頭に立ち、箱根丸を沖まで追ってくるので気違いじみていて辟易したと虚子は言っているが、久女は虚子の出航を待たずに級友と電車で帰宅している(増田連『杉田久女ノート』)。杉田久女への虚子の狂女虚構への姿勢は謎が多い。虚子には『国子の手紙』という虚子宛の久女の手紙をパラフレーズした小説があるが、久女の仮名である国子の名前は、もうひとりの虚子を慕う愛弟子森田愛子の住む三国から取られたもので、虚子の森田愛子を書いた連作小説『虹』を読むと、その扱いに雲泥の差があるのに驚く。にも関わらず、虚子の作品の選の目は曇らない。依怙贔屓がないと言えば嘘になるが(森田愛子は巻頭が取れるほどの俳人では無いが、虚子は一度だけ採っているから)、作品の選は、小説の扱いとは違って久女と愛子では雲泥の差があるからだ。それは『ホトトギス雑詠選集』と『新歳時記』を読めば歴然としている。

(つづく)

2010年9月6日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔33〕芋

ホトトギス雑詠選抄〔33〕
秋の部(九月)

猫髭 (文・写真)


諭されて醜女娶りぬ芋の秋 武子 大正8年

茨城県の那珂湊は、那珂川の河口にあるので、海水と川の水の混じる汽水であり、ドックには牛蛙の馬鹿でかいお玉じゃくしが泳いでいたり、浅瀬では蜆が獲れるし、夕方も親戚の釣太公望がフッコを釣ったと言うので、自転車で見に行くと、これはもう鱸と呼んでいい60センチを越える大物だった。野締め(鰓と尾に包丁を入れて血抜きをする)をしてあったので、一匹もらって、半身を氷水で締めて洗いにし、腹の部分は塩焼き、頭と中骨は潮汁にして食べ、残りの半身は立て塩をして昆布締めにして冷蔵庫で寝かせた。釣り立ては、活け締めなので血の匂いも無くごりごりして美味だった。もともと鱸は血が少ない白身の美味な魚だが、旬は格別である。幸田露伴の『幻談』は、その語り口が神品ともいうべき鱸釣の名短編だが、一種の怪談なので、鱸は捨てるところがなく、内臓はソテーにするとうまいとはいえ、どうもこの小説を読んでしまうと、腸は新鮮でうまそうなのだが食指が動かない。しかし身は、泥臭さもなく、すっきりとした脂で、誰が考えたか、昆布締めの玄妙とも言える味わいは、思わず母と顔を見合わせて頷きあう旨さだった。

真鰯の稚魚、白子(しらす)もまだ獲れる。昨日などは船方がバケツに二杯も持ち込んだので、近所に配りまくるという大盤振る舞いである。生姜醤油でどんぶりに山盛りでぶっ掛ける、いわゆるシラス丼にするのが豪快だが、最近は白子のフリッターが流行である。実は母が生をそのまま食べるのは苦手だと言うので、わたくしが母のために考案した料理で、小麦粉に溶き卵を落して、そこに豪勢に白子をぶちこんで塩胡椒して粉チーズを挽き入れ、フライパンにオリーブオイルをたっぷり敷いて、お好み焼きのように焼くだけだが、ふわりと焼いてもカリカリに焼いても、ビールに良し飯に良しで、近所の評判になり、醤油を垂らしたり、マヨネーズを塗ったり、ソースをかけたりと各家庭、老若男女に合わして好評を博している。それはそうだ。獲れ立ての刺身で食える新鮮な白子をびっしりぶち込んで焼くのだから、具だけで出来ているようなもので、85歳の母もぱくぱくお替りをする。

かように、海のそばなので新鮮な魚介類には事欠かない。魚市場も目の前なのだ。まだぴんぴん跳ねているやつを捌くのだから、口中に常陸の海や那珂川の恵みが広がる。

だが、どういうわけか新鮮な野菜を売っている八百屋が少ない。自転車で遠出をすれば湊大橋の手前に地産地消の生産者の名前入りの野菜はあるのだが、歩いてすぐのところには少ない。半年ほど那珂湊に戻って母の介護をしてみてわかったのは、年寄りが多いので、彼らが老後の嗜みとして自分の家に皆家庭菜園を持っていて、野菜どころか西瓜や花まで栽培して、自給自足していることだ。母は父が死んでから6年ほど一人暮らしだったが、昔世話になったからと、三日に空けず、猛々しい野菜や果物が届く。今年は炎暑が続き、西瓜などは皮の際まで真赤に熟れて白いところがほとんど無く、驚くほどの甘さだったが、熟し過ぎて、毎日どこやらかから届くと、さすがに腹の中で飲み込んだ西瓜の種が芽を出すような気がしてくる。

九月になって毎日届けられるのは、赤紫の薩摩芋である。ヒネ芋から、育ち過ぎの芋から、焼芋屋でも開けというのかとばかりに届き、これに母を慕う元博徒系のやくざ上がりの古物屋も、姉貴が畑で作った芋を食べてくんちょと、ごろごろ置いてゆく。

わたくしは毎日母のおさんどんを担当しているが、芋は蒸かして食うぐらいしかやったことがないので、昼飯の代わりに蒸かしてバターを付けて食うぐらいしか思いつかず、子どものちんちんのようなヒネ芋や、農婦の尻のようなデカ芋を前にして、困り果てているところだ。

そこで掲出句である。いきなり醜女(しこめ)が出て来る。今で言うブスのことだが、これは母の周りにつどう老婆たちの井戸端会議を聞いていると、那珂湊はこの手の、言っては何だが、破れ鍋に綴じ蓋夫婦が多いようである。嫁さんは器量は悪いが、働きもんでしっかりしているといった話が頻繁に出て来る。水上瀧太郎が名作『大阪の宿』(大阪版「坊ちゃん」)で、ひっくり返してみんことには男か女かわからん蟹のような宿の女将といった言い方をしていたが、湊の荒くれに揉まれて男勝りの女性が多いのは事実で、シコメという言い方には、ブスという侮蔑の意味合いとは違う土地に根付いた逞しさがある。

思い出してみると、母のところには能く若い嫁が隣町の平磯からも訪れては愚痴をこぼして泣きに来ていた。土地柄、亭主は漁師が多い。遠洋漁業の船乗りもいる。留守を守るのは嫁であり、嫁姑の諍いは、いくら仕えても、何代にも亘って漁師町には続いている。母も大洗から嫁いで来て、姑にいびられて海門橋まで実家に帰ろうかと戻った時もあったと言う。そういう時、近所のお婆さんが仲立ちに入って慰めてくれた。そのお婆さんは、わたくしは婆っぱちゃんと呼んで懐いていたが、自分の孫のようにわたくしを可愛がってくれた。婆っぱちゃんが年をとってから、母は能く面倒を見ていた。自分が若い頃世話になったからだと言う。

漁師町の女たちは、何百年もそういう嫁の苦しみを他家の年寄りに助けられ、その年寄りたちが老いさらばえると、昔世話になったからと、自分の親のようにそれとなく面倒を見てくれるという、海へ繋がれた日々を繰り返している。親に言われた通りに嫁ぎ、情に篤く、素朴な人間関係だけを頼りに生き抜いている。わたくしの知る漁師の妻たちは本当に能く働く。チェーホフが妻のオ-リャに手紙で言った「ふさぎこんではいけない。働くことです。」という言葉を誰もが知っているように、赤銅色になって働く。舅や姑に仕え、亡くなると、人が変わったように明るくなって車の免許を取って、陸に上がって宿六になった亭主を盛り立てて、というか尻を叩いて、仲良く暮している夫婦が多い。

掲出句を読むと、わたくしは毎日出会う漁師町の女たちのひとりひとりの顔を思い出し、そのバイタリティと、ひとりひとりの若い頃の事も思い出し、いい夫婦になっているなあと思う。醜女と句では言っているが、わたくしは一度も彼女たちを醜女だと思った事は無い。彼女たちの笑顔が輝いているからだ。皆海の匂いのするいい顔をしている。多分、この作者もそうだろう。

作者の武子については、どこの人で、男か女かもわからない。たけこと訓むなら女性だが、もし自分の事を詠んでいるなら、恐れいった愛嬌の醜女さんである。亭主に同情していることになる。しかし、やってゆく自信はあるのだろう。

山畑や石芋掘つて立ちかゞみ 武子 大正8年

という句が同時に採られているから、山村の俳人だということぐらいしかわからないが、この「諭されて醜女娶りぬ」には、この嫁は見てくれはいい方ではないが、能く働くしっかり者で、舅や姑を大切にするといった、仲人の将来を見据える確かな目があると思える。

ヘルマン・ブロッホが手紙に書いていた「人類は認識に飽き飽きしているのではないでしょうか。本当に必要なものは、認識ではなく、素朴で誠実な人間関係といったものではないでしょうか」という言葉を思い出す。彼はその後『誘惑者』という素晴らしい小説を書き、ノーベル文学賞を受賞し、訳者古井由吉を作家に向かわせる。

ところで、薩摩芋だが、母が女学生時代、水戸の銀杏坂にあった大学芋がおいしかったと言うので、そう言えば那珂湊も、子どもの頃、四郎介神社の隣にあって、経木(菓子・料理の包装などに用いる杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの)を三角に折り、そこに大学芋を入れて売っていたなと、わたくしも懐かしく、谷中の大江戸屋台村の大学芋の垂れもうまかったが、どう作るのかわからないので、多分、澱粉から作る水飴を使うのは間違いないが、明治屋の水飴は那珂湊は売っていないので、猫髭式で作ることにした。

先ず、芋を蒸し器で十分ほど蒸かす。冷めたら皮を剥いて、乱切りにする。フライパンに胡麻油をたっぷり入れて、芋を入れ、表面がカリカリ狐色になるまで炒める。油で揚げるのは苦手なので、一種のズルだが、蒸かし過ぎた芋が大学芋に変身、という横着技である。

一度、狐色に炒めた芋を取り出し、油を切っておく。垂れは、カナダから帰国した句友がくれたメープルシロップがあるので、これを水飴代わりにフライパンに垂らし、砂糖黍の粗製糖を大匙四杯ほど、マスカットのスパークリング・ワインを水代わりに少々、母の健康のためとくっつき防止でリンゴ酢を大匙一杯、これに醤油を色付けにかけて、とろみが出るまで煮て、あまり粘りが出る前に、さきほどの芋を入れて、手早くからめ、黒胡麻を振って、猫髭式大学芋の完成で~す!。韃靼蕎麦の実を煮出して、冷めた奴を冷蔵庫に入れて冷茶として添えて、さあ、どうぞ。

さっぱりとした甘さで、お母ちゃんはぱくぱく晩御飯を食べられないほど食べて、うまかったと言い、盛大にげっぷをした。


2010年8月29日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔32〕踊

ホトトギス雑詠選抄〔32〕
秋の部(八月)

猫髭


づかづかと来て踊子にさゝやける 新潟 高野素十 昭和11年
(「づかづか」は繰り返しの「くの字点」表記)

俳句を始めた頃に初めてこの句を読んだとき、これは海外のレヴューで踊っている踊子の一人に、観客席から男が傍若無人にもいきなり舞台に上がって割り込み、何事か腕を取って耳打ちする、フランスのフィルム・ノワールの一シーンのような緊迫したイメージを持った。

連想したのは、1954年のフランス映画「フレンチ・カンカン」のジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールのコンビと(言わずと知れた哀愁を極める「ヘッド・ライト」のコンビである)、1960年のアメリカ映画「カンカン」のフランク・シナトラとシャーリー・マクレーンのコンビ(シナトラが劇中で歌う「It’s all right with me」のバラードはシナトラの最高傑作であると共にバラードの白眉)だった。黒澤明の『野良犬』の木村功と淡路恵子のコンビのイメージもあったかもしれない。

ずっと、そう思い込んでいた。

ところが、清水哲男の「増殖する俳句歳時記」の鑑賞を読んで驚いた。
俳句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。 女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)(註1)
しかし、どう考えても、掲出句は盆踊りの景とは合点が行かなかった。非常にバタ臭い句に思えたからだ。だが、『ホトトギス雑詠選集』には「新潟」と投句地が載っていたので、新潟の盆踊りを詠んだ句かという事実は動かしがたかった。

ところが、昭和58年の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)の机上版を見たら、山本健吉の解説に掲出句に触れて、
素十は、ヨーロッパ留学中の作品だから、盆踊であるはずはないが、句中に踊子の季語があり、擬制としての有季俳句と取り、盆踊の一情景と見なすことが許される。
と、またまた驚くことが書いてあった。「擬制としての有季俳句」というものがあったとは。

で、『素十全集 第一巻 俳句編』(明治書院)を見ると、昭和11年10月にホトトギス雑詠入選句としてこの句が載っているが、前詞はなく、「ヨーロッパ留学中の作品」とはわからない。本人が明かさなければ句の出自はわからない。多分、俳人協会からは『自註現代俳句シリーズ』が二百冊以上出ているし、『自選自解句集』というのも白凰社から出ているから、これらのどこかで作者が自解しているのだろう。わたくしは自句自解は自句自壊であると思うので、これ以上出自には立ち入らないが、おそらく掲出句は社交ダンスの場面だろう。ダンスのパートナーを素十は「踊子」と詠み替えたという気がする。その意味での「擬制としての海外咏俳句」というならわかる気がする。

だが、「づかづかと来て」という措辞には、やはり「盆踊」は似合わない。盆踊は普通は浴衣を着て下駄か草履か踊足袋で踊るものである。「づかづかと来て」には靴の響きがある。



(註1)『増殖する俳句歳時記』1999年8月14日掲載。

写真 前1点:猫髭/後2点:田村行穂 高円寺東京阿波おどり 2010年8月28日

2010年8月24日火曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕芭蕉・下

ホトトギス雑詠選抄〔31〕
秋の部(八月)芭蕉・下

猫髭 (文・写真)


川端茅舎には、茅舎の「如」と言われる比喩の修辞法がある。

比喩は古来より詩の主要な修辞法であり、『万葉集』の歌の分類にも雑歌・相聞歌・挽歌の他に譬喩歌があり、本意を歌の表面に表さず、物に託して述べた歌のことだが、これは中国の『詩経』の「比」に倣ったものだ。例えば、巻七の「草に寄する」の中の一首(1352)、

わが情(こころ)ゆたにたゆたに浮ぬなは辺(へ)にも沖にも依りかつましじ

は、ゆらゆらと岸辺と沖の間をどちらにも寄らずたゆたう蓴菜(じゅんさい)に、ままにならない揺れる恋心を託している。「浮ぬなは」の直喩がずば抜けている詠み人知らずの名歌と言える。

芭蕉の時代になっても『去来抄』の二十五節「いひおほせて何かある」には、当時の漢詩作法書『詩法俚諺抄』の「景情かねたる詩はただ含蓄不尽の体を好めり。含蓄とは外の句はすらりと聞こゆれども、内の情は多く籠るを云ふ。不尽とは言(こと)はよみて尽れども、余情はなを尽ぬを云ふ」を踏まえているから、直喩(シミリー)ばかりではなく、暗喩(メタファ)、諷喩(アレゴリー)、声喩(オノマトペ)、活喩(パーソニフィケーション)はじめ、擬態語(ミメティック)などの修辞法が発達した。

茅舎は、この比喩の修辞法が際立つ俳人と言われる。特に、掲出句の「舷のごとくに濡れし」という「ごとく」の直喩の卓抜さで知られる。わたくしが茅舎の比喩に目を澄ませる切っ掛けになったのは、野見山朱鳥の『忘れ得ぬ俳句』に、「螢火に象牙の如き杭ぜかな」を引いたあとで、「ここではじめて茅舎の「如」を知ることになった」と書いてあったからで、あらためて茅舎の「如」を見てみると、確かに多く、枚挙に暇が無いほどだ。

茅舎は中学生の時から句作を初め、大正4年に19歳で「ホトトギス」に初入選、大正13年11月号の「ホトトギス」で巻頭句を得る。

しぐるゝや僧も嗜む実母散

が初期秀句としてアンソロジーに残るが、この巻頭6句の内の2句が既にして「如」句である。

閻王や菎蒻(こんにゃく)そなふ山のごと

侍者恵信糞土の如く昼寝たり

「実母散(じつぼさん)」とは江戸中期の随筆『耳嚢(みみぶくろ)』にも出て来る悪阻などに効く婦人薬なので、冷え性の坊さんかという可笑しさがあるように、閻魔と蒟蒻の山の対比、仏に侍る侍者恵信の昼寝の樣を糞土に見立てる諧謔(「囀や拳固くひたき侍者恵信」という句もある)は、病弱で知られる茅舎の句柄とも思えないが、体調を崩すのは昭和3年頃からというから、当時は俳句に絵に精勤していた頃である。

直喩の茅舎句で、わたくしが好きな句を挙げると、

一枚の餅のごとくに雪残る 昭和6年

生身魂ちゝはゝいますごときかな 「ホトトギス」昭和8年9月巻頭句

良寛の手鞠の如く鶲(ひたき)来し

などだが、直喩ばかりではなく、暗喩も優れていて、例えば、

滝行者蓑のごとくに打ち震ひ

という直喩の句は、

滝打つて行者三面六臂なす 「ホトトギス」昭和11年1月巻頭句

と、暗喩で三つの顔と六つの腕を持つ興福寺の阿修羅雑のような行者のイメージを詠んだ句の方が、滝行者の印象は清冽である。

暗喩と言えば、茅舎の最も有名な暗喩の句には、

金剛の露ひとつぶや石の上 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

がある。儚いものの譬えの「露」を仏教用語である「金剛」(梵Vajraの訳。最剛、堅固の意)をメタファとする真逆の暗喩は強烈である。

また、直喩や暗喩ばかりではなく、

暖かや飴の中から桃太郎 「ホトトギス」昭和4年8月号巻頭句

と、諷喩で遠い昔の早春の日差しを引き寄せる柔かな詠みぶりも茅舎の特徴で、このしなやかさは、

明日は花立てますよ寒月の父よ

という諷喩と暗喩をないまぜにしたような独特の茅舎浄土の世界を形作ってゆく。

擬態語も、

ひらひらと月光降りぬ貝割菜 (註1)

など、貝割菜の小さな葉が見えるような見事な擬態語である。

一連の露りんりんと糸芒 (註2) 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

の「りんりん」という擬態語も、茅舎の句はまさしく「りんりんと」した姿で立っていると思わせる。

こうして見ると、茅舎の句は、豊饒な喩の世界に打ち立てられた浄土のように思えて来る。比喩の修辞法は、説明になりがちなところを比喩の飛躍によって新しいイメージにスパークさせるので、詩には欠かせないが、詩は構造的に「虚」の言葉なので俳句の「実」に根ざす構造とは根本的に異なるため、比喩に頼り過ぎる、一行詩になってしまうし、また比喩のイメージが陳腐だと月並句になってしまう。殊に活喩(擬人化がメイン)は成功が難しい修辞法とされ、初心の内は「写生」に徹することを教えられる。わたくしもそう「きっこのハイヒール」で横山希美子さんに教わった。確かに、

やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房 平成2年(『瀬頭』)

といった見事な直喩と活蝓の修辞法は誰にでも詠めるものではない。では、茅舎が初めからこれほど比喩を多用して優れているのは、なぜなのか。天才だから、と言えば身も蓋も無いが、比喩の対象が擬人法ではなく、物であることが具体的な印象を鮮明にさせていたのではないかと思われる。

一枚の餅のごとくに雪残る

などは実にシンプルに早春に残る雪を表している。

雪国の雪もちよぼちよぼ残りけり 小林一茶

という見渡すような江戸俳諧の諧謔味溢れる一句とはまた違うシャープな単純化が茅舎の魅力だが、「虚」から「実」に還る俳句の構造を見事に活かした、

良寛の手鞠の如く鶲来し

になると、実に自由闊達な茅舎の「如」句の世界だと言える。

やがて、病篤くなり、

咳き込めば我火の玉のごとくなり

龍の如く咳飛び去りて我悲し

と茅舎の「如」句は死に添うようになり、昭和16年8月号の「ホトトギス」巻頭三句の絶唱が現われる。茅舎はその年の7月17日に亡くなっているから、その号を見られたかどうか。

父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり

朴の花眺めて名菓淡雪たり

朴散華即ちしれぬ行方かな

翌、9月号の巻頭三句もまた茅舎だった。これが生前最後の投句となった。

洞然と雷聞きて未だ生きて

夏痩せて腕は鉄棒より重し

石枕してわれ蝉か泣き時雨

投句者の署名には「故川端茅舎」とある。


註1:「ひらひら」は繰り返しの「くの字点」表記。
註2:「りんりん」は繰り返しの「くの字点」表記。

2010年8月23日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕芭蕉・上

ホトトギス雑詠選抄〔31〕
秋の部(八月)芭蕉・上

猫髭 (文・写真)


(ふなべり)のごとくに濡れし芭蕉かな 川端茅舎 昭和7年

川端茅舎は昭和9年の『川端茅舎句集』の冒頭を、

金剛の露ひとつぶや石の上 「ホトトギス」昭和6年12月号巻頭句

を含む露の句26句を冒頭に飾ったので「露の茅舎」と呼ばれた。昭和16年と昭和37年の「ホトトギス雑詠選集」を通して、「露」では最終的に14句が選ばれているから断トツと言える。

ちなみに、掲出句の「芭蕉」の句でも有名で、7句選ばれている。他の6句は以下の通り。

ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな 「ホトトギス」昭和5年11月巻頭句

水霜にまつたき芭蕉広葉かな 「ホトトギス」昭和6年1月巻頭句

明暗を重ねて月の芭蕉かな 昭和7年

芭蕉葉や破船のごとく草の中 昭和9年

芭蕉葉に夕稲妻の火色かな 昭和11年

月光の露打のべし芭蕉かな 昭和12年

「芭蕉葉に夕稲妻の火色かな」は、波多野爽波抜萃「ホトトギス雑詠選集」中「八月の句」20句の一句である。

掲出句以外の「芭蕉」が出て来る句を『ホトトギス巻頭句集』(小学館)から選べば、

土砂降に一枚飛びし芭蕉かな 昭和6年1月

一張羅破れそめたる芭蕉かな 同上

破芭蕉猶数行をのこしけり 同上

老鶯の谺明るし芭蕉かげ 昭和9年10月

銀翼も芭蕉も露に輝きぬ 昭和14年11月

がある。虚子編『新歳時記』の「芭蕉巻葉」には、

真白な風に玉解く芭蕉かな

があり、稲畑汀子編著『ホトトギス 虚子と一〇〇人の名句集』(三省堂)には、

玉解いて芭蕉は天下たひらかに

を収める。「芭蕉の茅舎」と呼んでもいい詠みっぷりではある。

野見山朱鳥は『続忘れ得ぬ俳句』(朝日選書342)で、茅舎の「菜殻火(ながらび)」の句、

燎原の火か筑紫野の菜殻火か 「ホトトギス」昭和14年9月号巻頭句

筑紫野の菜殻の聖火見に来たり 同上

菜殻火は観世音寺を焼かざるや 同上

都府楼址菜殻焼く灰降ることよ 同上

を引いたあと、
茅舎以前にも菜殻火を詠った人たちはいたがその多くは景を詠ったに過ぎなかったのに、茅舎によってその荘厳な火の祭典のような感じのものが詠われたので、真の菜殻火の句は茅舎によって始まったと言ってよく、私の俳誌「菜殻火」もこれによって生れたものである。
と述べているから、「露の茅舎」「芭蕉の茅舎」「菜殻火の茅舎」というように、いや「土筆」を詠ませたら茅舎の右に出る者はいないとか、

約束の寒の土筆を煮て下さい 昭和16年

いや「河骨」を詠ませたら茅舎の右に出る者はいないとか、

河骨の金鈴ふるふ流れかな 「ホトトギス」昭和10年7月号巻頭句

いや、「月光」の茅舎だろうとか、

ひらひらと月光降りぬ貝割菜

枯木立月光棒のごときかな

いや、甘い物を詠ませたら、これがまたお茶が恐くなるとか、

暖かや飴の中から桃太郎 「ホトトギス」昭和4年8月号巻頭句

麗かや砂糖を掬くふ散蓮華 同上

春宵や光り輝く菓子の塔 同上

いや何と言っても「朴の花」の絶唱に止めを刺すとか、

朴散華(ほほさんげ)即ちしれぬ行方かな 「ホトトギス」昭和16年8月号巻頭句

茅舎浄土に立ち現れる数々の秀句が挙がり、昭和14年の茅舎の句集『華厳』の虚子のたった一行の序「花鳥諷詠真骨頂漢」が思い出されるである。

茅舎は、松本たかしと並んで、4S以後の「ホトトギス」の代表的な俳人として、昭和9年に創刊された改造社の「俳句研究」でも活躍したので、肺患のため昭和16年7月17日、44歳で亡くなると、多くの俳人から悼まれた。『俳句技法入門』(飯塚書店)には「挨拶句の作り方」の項目に、川端茅舎の追悼句の例句が挙げられているほどである。

元寂すといふ言葉あり朴散華 高浜虚子
正午の露消え行進曲鳴り響く 中村草田男
寂光の葎(むぐら)にかへる夏露一顆 加藤楸邨
蟹二つ食うて茅舎を哭しけり 松本たかし

虚子の句は茅舎の「朴散華」の句を踏まえている。「元寂(げんじゃく)」とは大きな死を意味する仏教用語と思われる。草田男と楸邨の句は、「露の茅舎」と戒名の「青露院」にちなみ、楸邨は更に茅舎の句、

ぜんまいののの字ばかりの寂光土

露の玉百千万も葎かな 「ホトトギス」昭和5年11月号巻頭句

を踏まえている。たかしの句は、茅舎の訃音が大森の旗亭で会食の席上到ったためである。

(つづく)

2010年8月8日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕立秋・下

ホトトギス雑詠選抄〔30〕
秋の部(八月)立秋・下

猫髭 (文・写真)


大正3年に石鼎の風土記的な一句以外にも、いかにも「立秋」という句があるので、おまけにもう一句。これは説明の必要はあるまい。

洟かんで耳鼻相通ず今朝の秋 飯田蛇笏 大正3年

ところで、暦の上では今日八月七日(土)が「二十四節気」の「立秋」であるが、お天気の上では各地で真夏日(30℃以上)、猛暑日(35℃以上)、熱帯夜(25℃以上)が続く。この落差はどうしてだろう、というのがこれからする余談である。

こう暑いと、母が飼っている老犬も、早く秋風が吹かないものかとわたくしを見上げては舌を出してあえぐ。ロバート・A・ハインラインのSF小説『夏への扉』には、護民官ペトロニウス(ピート)という猫が出て来て、冬ではなく夏へつながるドアがあると信じているのだが、さすがにここまで高温多湿の夏は望むまい。我が家のチイちゃんは、さしずめ「秋への扉」を探していることになる。おまえは猛暑日でも毛皮着て我慢大会してるようなもんだからねえ。暑かっぺよ。

虚子の『新歳時記』の「立秋」の解説には「大概八月八日に当る。土用の後をうけてまだ中々暑いけれども、夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」といふ歌などはよくその心持を現してゐる。秋立つ秋来る今朝の秋今日の秋」とあるが、「夏も漸く衰へて」どころではない、盛夏も盛夏真っ盛り、我が家の前から入道雲もくもくの那珂湊で、阿字ヶ浦の海浜公園では16万人が押し寄せるロック・イン・ジャパン・フェス2010だぜ、イェイ!水戸市では水戸黄門祭50回記念パレードで由美かおりが山車に乗って30万人の人出に御座候。八朔祭(天満宮御祭禮)も今日が神幸祭、明日が還幸祭と、各町の風流物(元町の「でぼ弥勒」と六丁目の「獅子(ささら)」が見もの)や屋台が「好きなら好きとおっしゃいなあ」と芸者衆を乗せて練り歩き、一年で一番暑い日と言えるのが今年の「立秋」である。

この暦の上と実際のお天気上のずれは、旧暦と新暦のずれによるものではない。立春・立夏・立秋・立冬の「四立(しりゅう)」は、太陽暦によるもので新暦である。したがって、虚子の解説にも辞書にも立秋は旧暦とはどこにも書いていない。つまり、テレビのアナウンサーが「暦の上では今日から秋ですが」というのは、文字通り新暦の上ではという意味である。太陽が黄道と呼ばれる太陽の天球上の通り道のある太陽視黄経 135°を通過する日のことを言い、今年は23:49に通過する。で、なぜかくもずれるのかというと・・・。

かわうそ@暦さんの「こよみのページ」(註1)によれば、暦上と気候上のずれは、【暑さの衰えは最も暑い時期、つまり暑さの極まったときの直後から始まると考えることが出来る。「立秋」はこの最も暑い時期の直後にあって条件を満たしている。正に秋の始めと呼ぶにふさわしい。】と考えるに至ったのではないかということだ。春分・夏至・秋分・冬至の「二至二分」も、気候ではなく、あくまでも太陽の位置(日差しの強さ、昼の長さ)で求められたもので、その「二至二分」から導き出された「四立」もまた気候を示すものではなく、準天文学的に生み出された後で季節を示す印として利用されるようになった、という論は説得力がある。

もうひとつ、かわうそ@暦さんの季節とのずれの考察で面白いと思ったのは、「二十四節気が遠く中国の殷の時代(完成はもっと後)に黄河の中流域で生まれたものだということにその原因が求められる」という目の付け所である。氏は、殷の都の跡である殷墟にほど近い中国の太原市と東京・京都の月別平均気温を比較する(CD-ROM版理科年表から、1961-1990年の30年間のデータを使用)。
すると、「太原市の気温変化は、日本の東京・京都の気温変化より一月ほど早い方向にずれている」ことがわかる。「立春・立秋などをみても、日本ではその後に最も寒い、あるいは最も暑い時期が来るのでおかしな感じがします。一方、太原市の気温を見ると立春・立秋に先立って暖かくなり始めるあるいは、涼しくなり始めることが判る」。これならば、立秋の日に「夏も漸く衰へて、雲の色にも風の音にも秋が来たといふ感じがする。」と感じるのもむべなるかな。
二十四節気は中国古代に生まれました。そのころの文化の中心は現在の太原市が位置する黄河中流域でしたから、二十四節気の「節気の名称」にその地の気候が反映されたのは当然のことです。そしてそれが遠く離れ、気象条件の異なる日本に伝えられてきても、そのままの形で使い続けられているのですから、我々の感じる季節と二十四節気の間にずれがあるように感じられるのは仕方のないことでしょう。(「なぜずれる?二十四節気と季節感」より)。
という氏の見解はとても説得力がある。日本人は、特に俳人は、四季の季感が日本固有のものだという固定観念を持っているが、実は中国から輸入したものなのだ。高橋睦郎が『私自身のための俳句入門』で言っていて面白いと記憶に残っているのも、日本のように季節のつながりがなだらかな国は季節を意識することに鈍感であり、むしろ、大陸性の中国のように季節の移り変わりが激しい風土の方が季節に敏感であるという説だった。言われてみると、『万葉集』も中国最古の詩集『詩経』の「六義(りくぎ)」の分類、風・雅・頌(しょう)・賦・比・興に影響を受けて、「正述心緒」と「寄物陳思」の歌ぶりが生まれ、俳句は「寄物陳思」や漢詩作法に影響を受けているから、こうなると日本独自の文芸とされている俳句も、中国の借り物を島国根性で練り上げた民芸品の一種のようなものである。

さしずめ、暦の上の秋とお天気の猛暑のずれを乗り切るのも島国根性のなせるわざで、芭蕉はそれを「風狂」と呼んだのかも知れない。虚子は『新歳時記』の「序」で「春夏秋冬は観念上のもの」と割り切っているが、それにしても、今年の「風狂」も「観念」も実に暑い。

(註1)http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0701.htm

2010年8月7日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔30〕立秋・上

ホトトギス雑詠選抄〔30〕
秋の部(八月)立秋・上

猫髭 (文・写真)


けさ秋の一帆(いつぱん)生みぬ中の海 原石鼎(はら・せきてい) 大正3年

貸し本漫画で育ったので、NHKの朝8:00の連続テレビ小説、『墓場の鬼太郎』の漫画家水木しげるの夫人を主人公にした『ゲゲゲの女房』を楽しみに見ている。「中の海」とは、島根県松江市、安来市、八束郡東出雲町と鳥取県境港市、米子市にまたがる汽水湖で、水木しげるは境港出身、夫人の武良布枝は安来出身である。テレビが面白いので武良布枝の自伝『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)を買って来て読んだのだが、その中に「中の海」が載っていた。「中の海」は「中海」と呼ばれ、日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた潟湖(せきこ)で、東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。面積86.2平方キロで、日本第5位の大きさの湖である。

秋の海に船が行く景を詠んだ句で名高い句には、

秋の航一大紺円盤の中 中村草田男 昭和9年

があり、阿波野青畝が『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(朝日文庫)の序で、「澄みきった秋の航海をしてみた実感が強い。一大紺円盤という新奇な熟語に読者はおどろいた。この句を頭に印しながら船旅をしていると、さすがに広い海原の中にポツンと甲板上の私の存在は孤独そのものであった。」という鑑賞を寄せているが、わたくしにはこの草田男の句は大袈裟過ぎて好きになれない。

掲出句の「一帆生みぬ」も、勢いのある断定だが、それほど新鮮な擬人化ではないし、どちらかというと陳腐な見立てだろう。しかし、「立秋の」ではなく「けさ秋の」とゆったりと出て、「一帆生みぬ」と破裂音で加速させ、「中の海」と中七の「生み」と下五の「海」をリフレインさせるリズムは、秋立つ日に風をはらんだ帆が海から生まれたような調べを生む。石鼎が数え歌を意識していたかどうか、ひい(日)、ふう(風)、みい(海)という天地創造の調べが隠されているような一句となっている。

そして「中の海」。『出雲風土記』にある「飫宇の入海(おうのいりうみ)」と名づけられているのがそうである。この入海がその帆を生んだのであれば、ここには石鼎がこの舟を神話の舟として詠んだのかもしれないとふと思う。『出雲風土記』には巨人神による雄大な国引きの神話があるからだ。新羅から北陸から土地を手繰り寄せて島根半島を作るという国引きの綱に使われたのが、稲佐の浜の南につながる長浜海岸と夜見ヶ浜であるといったスケールが大きい神話は、現存する五つの風土記の中でも比類が無い。「中の海」もこの国引きで出来た湖なのだろうか。

(つづく)