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2018年8月22日水曜日

〔ネット拾読〕トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること 西原天気

〔ネット拾読〕
トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること

西原天気



記事内容と無関係なタイトルを付けるのが、このシリーズの習わしなので、今回もそうしています。あしからず。

丸田洋渡:童話的な俳句について
https://note.mu/jellyfish1118/n/nc701474d9e64

金原まさ子と阿部完市の俳句を「童話」の視点で論じ、示唆深い。

前者については例えば、《ときどき叫びつくしんぼ摘む女》《うつむいて海鼠をわらう女かな》(金原まさ子)を「これを童話で──たとえば、ヘンゼルとグレーテルで二人が向かうお菓子の家の魔女のような女性が、ときどき叫んでつくしを取っていたり、うつむいて海鼠をわらっていたらどうだろう。ぴたっと映像がまとまるのではないだろうか。」といった具合。

なるほど、金原まさ子の俳句には、悪女、聖母、魔女(的)など、女性の虚構上のバリエーションが登場するが、そこに「幼女」を加えると、金原まさ子俳句の輪郭がいっそうはっきりする。

阿部完市については、「(…)童話の世界を描いているというよりは、童話の世界を一時的に措定し、それに関わる存在として、今ここを描いている(…)」とする。

フォークロア的な題材や感触への指摘はこれまで少なくないと思うが、「童話」という異界への通路が一瞬ひらくと捉えれば、阿部完市の俳句のもつ、いわば「常世的な透明感」や独特のなまめかしさの由縁に触れたような気がしてくる。

「「ことばのこてん」というアトラクション」問題反応まとめ
https://togetter.com/li/1258779

ツイートを追っていくと、問題視しているなかにも、引用と転載の区別がついいていない人も多い。この手の問題の根の深さ。

このイベントは作者名を明記していない様子で、それならば無断転載よりも剽窃に近づく。「展示」であることを示していても、作者名ナシの短歌や俳句は、本来の作者とは別の作者(この場合は企画者)との誤解を与えやすい。

一方、引用の要件を満たす合法クリアという点で、俳句作品は微妙な問題を抱えるが、多くは、慣習を重んじて処理される模様。例えば、歳時記の例句掲載は無許可でOK、入門書なのどの例句は(著作権のまだ切れていない)作者に掲載許可をもらう、といった具合。

ちなみに、このウラハイの、モチーフ別に数句を並べる記事(≫例)なども、法律上はアウトだろう。

穂村弘×枡野浩一対談
https://wezz-y.com/archives/57044

ことばvs現実という根源的なテーマが、プライベートなエピソード豊富に語られる。記事末尾の〈次ページへ〉〈次回へ〉をたどっていくと全6回。短歌界隈の出来事に疎くても、飽きずに楽しめるのは、両氏の(対照的な)語り口のおもしろさ?


2016年11月10日木曜日

〔ネット拾読・変則版〕これが世界の現実なのです 西原天気

〔ネット拾読・変則版〕
これが世界の現実なのです

西原天気



いわゆる「中八」の是非ということが言われます。つまり、忌避派か容認派か、みたいな、ね。

ところがじつはそんなことが問題なのではなかったのです。驚くべきことに、そもそも、「七五」と「八五」が区別されていない。

七五調の言葉は楽しい!記憶に残るあの言葉も「七五調」だった【声に出して読みたい日本語】
http://togetter.com/li/1046400

ここに挙げられている「七五調」のうち、相当数(ひょっとしたら半数近く!)が「八五」(およびそれにに類する字余り)。

これが世界の現実です。

これって俳句世間の外の事象なのか?

というと、そうでもなく、七五か八五かなんてことにまるで頓着しない、区別がない俳人が少なくないようです。


ところで、昨日は、米国大統領選で共和党候補トランプが勝利。

これが世界の現実です。

ちなみに、今回もっとも重要な論考のひとつ、マイケル・ムーアの予想記事は、こちら(↓)
http://www.huffingtonpost.jp/michael-moore/5-reasons-why-trump-will-win_b_11254142.html

私を含めた多くの人間が現実に目を向けていなかったようです。



〔オマケ〕
こんな記述も見つかりました。
短歌・俳句の世界しかり、それから「知らざあ言って、聞かせやしょう」「こいつは春から、縁起がいいわい」といった歌舞伎の名台詞しかり、日本語の本来もつリズムには七五調がしっくりくるんですね。
http://www.chacott-jp.com/magazine/dance-library/words/words2-58.html
前者(知らざあ~)は七六だし、後者(こいつは~)は八八だし。

ここまで来ると、「七五調」とは、呼吸4つくらいで言える文言、くらいの意味かもしれません。


2016年9月3日土曜日

〔ネット拾読〕昼の郵便・夜のベンチプレス 西原天気

〔ネット拾読〕
昼の郵便・夜のベンチプレス

西原天気



例によって、記事タイトルに意味はありません。さて、拾い読みます。


福田若之 利口であること、およびその哀愁についての試論 第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/19.html

《利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌 古田聡子》についての論考。

太宰治「桜桃」についてのやや詳しすぎる言及はさておき、〔睾丸桜桃忌サクランボ〕と、形状の相同を指摘、きちんと下品に読解した点、とてもナイス。

俳句甲子園の講評では、この点、どうだったのでしょうか。観ていた人、教えてください。


ただ、この句、私には意味(句意)がとれなくて、反応しにくい。かならずしも句意がわからなくてはいけないということではないのですが、こういう句で、句意が曖昧だと、なんだか無用にブンガク的な感じにも思え、それほど面白がれない。


如月和泉 川柳カード12号―筒井祥文と瀬戸夏子に触れて

『川柳カード』誌・最新号に、ふたつトピックを見出した記事。

ひとつは、《サバンナの象のうんこよ聞いてくれ 筒井祥文》という句。《サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘》の前半部分をそのまま引用(借用/盗用)した句。


私は、アウト、と思うけど〔*1〕


もうひとつは、瀬戸夏子「ヒエラルキーが存在するなら/としても」。

ヒエラルキーとは、

  小説―現代詩―短歌/俳句―川柳

というもの。

手元に『川柳カード』第12号があるので、そちらに直接あたりながら。

ほとんどの人はうすうすはそう思っていて(…)」(瀬戸)等、多くの当事者がこの「ヒエラルキー」を信じているという前提なのですが、困った、いや、ほとほと困った、私には、ぜんぜん思い当たるところがない。

この5つのジャンルが、同じひとつの社会/カテゴリーを形成しているのでもないのに「ヒエラルキー」と言われても困るし、じゃあ、マンガは? 「売上げ、認知度」(瀬戸)では最上位ですけど?

と、そんなことより、〔小説―現代詩―短歌/俳句―川柳〕といった序列・階層を、思ったこともないし、これを感じるような場面に遭遇したこともない。

だから、私としては、きょとんとするしかないのですが、記事中、根拠というかエピソードが示してあります。
(…)どうして作家や詩人は、あるいは小説や詩を研究している学者は、短歌や俳句の話をするときあんなにも偉そうなのか。知らなくても当然だという態度を平然ととるのか。なんであんなくだらない小説を書く作家やどうしようもない詩を書く詩人に上から目線で接されなければいけなんだ? (…)数えきれないくらいそんな場面に遭遇した。(瀬戸)
なるほど。これ、ひょっとして、「ヒエラルキー」は、しょうもない作家や詩人の中にだけにある、という話では?

あるいは、短歌、俳句、川柳の一部に、卑下があるだけでは?〔*2〕

実感のない私には、そうも思えるのですが?

なお、「数えきれないくらいそんな場面に遭遇した」瀬戸氏と違って、遭遇したことのない私は、単にラッキーなだけかもしれません。けれども、このさきも、その幸運に恵まれて暮らしていく自信があります。出かける場所/読むものは選べるし、もしも、そんな場面に遭遇しても、「しょうもないヒエラルキー信者」を無視できる/鼻で嗤えるくらいは歳をとってしまったので。


一方、川柳人である如月和泉は、この「ヒエラルキー」をさらになまなましく捉える。
それでは、上位のジャンルから軽視された表現者が下位のジャンルに接するときには、どのような態度をとるのだろうか。私の経験では、上位ジャンルから受けた屈辱を下位のジャンルに向かって晴らすような態度をとる人が多い。
ううむ、これはもうまるっきり一般社会の引き写しですね。

ここで思い当たるのは「上位」とか「下位」とかは、カテゴリーの話ではなくて、人それぞれの話、行動原理の話かもしれないということ。つまり、「上位」「下位」といった序列・ポジションの考え方に染まっているか(上を見たり下を見たり、忙しいことです)、染まっていないか、その差、その話ではないかと。


ちなみに、これを言ってはおしまいなのだけど、どのジャンルにも、わずかだけが放つ輝きと、凡百のつまらなさが併存する。どちらを見て暮らすがいいのか。言うまでもないでしょう。

 *

今回は、そんなところで。

またいつか、ここでお会いしましょう



〔*1〕ちなみに、寺山修司の翻案も、アウトという見解。

〔*2〕当該の場面に遭遇したことがないと言ったが、ひとつ、関連事項を思い出しました。俳句外部の人(学者や文学者)が俳句に言及するのを、ありがたがる傾向が、俳人にはあるようです。たいしたことを言っているわけではないのに、とてもありがたがる。ただ、これは卑下というより、ただ単に、うれしいのだと思います。ひとつには、かまってほしい。外国人による日本論・日本人論がよく読まれるのと似ています、もうひとつには、俳句関係者にはマイナー意識があるので、著名人に弱い。このあたりは、階層というより、勝手に卑屈なだけのようです


2016年8月13日土曜日

【ネット拾読】こちらの昼はリオデジャネイロの真夜中

〔ネット拾読〕
こちらの昼はリオデジャネイロの真夜中

西原天気


増殖する俳句歳時記」がこの8月8日をもって更新終了。

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/

最も有名、かつ、累計アクセス数おそらくダントツ最多の俳句関連サイトの「終わり」ですが、これからもアーイヴとして機能しつづける。ウェブサイトとして「なんらかに仕上げる/仕上がる」ことは、とても貴重。増殖してもしなくても、これからもこの「増俳」によって、誰かが句に出会うという出来事が起こりつづけるわけです。

サイト閉鎖etc、機会消失が今後もありませんように。せつに願います。


さて。

世の中はお盆休み、オリンピック佳境のなか、本日も拾い読みますね。


Kuru-Cole します。:曾呂利亭雑記
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2016/08/kuru-cole.html

アンソロジー企画。久留島元のセレクトで、
既存4冊のアンソロジーに入集していない作家を中心として、新たに「これから来る」若手の作家を紹介
とのこと。意欲的な試み。

個人が選ぶというスタイルはとてもいいと思う。収まりのいいメンツを適当に数人、編者として並べて、結果、収まりのいい俳人が並ぶよりも、しっかりと色が出るだろうし、熱意も伝わる。

アンソロジラれるとか、ジラれないとか、ちょっとモジリアニっちゃう〔*〕ところがあるけれど(とくに、ジラれなくてルサンチマンまるだしのケースは、げんなりするし、「おいおい、そんなに野暮でいいのか」と心配になってしまう)、いろいろややこしいことは抜きにして、誰かの句が読める機会が生まれる、ってのは、シンプルに良いことです。

それにこの手のものは、みんなすぐに忘れる。だから、一定頻度で新版・更新版が出たほうが、リオデジャネイんじゃないかと思うのです。


で、とつぜん1曲聴いたりします。サンバと思うでしょ? 違うんですよね。



それではこのへんで。

また、いつかお会いしましょう。


〔*〕 http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-151.html
ここでの「モジリアニる」(私用)は誤用っぽい。お詫び申し上げなければいけない。

2016年8月6日土曜日

〔ネット拾読〕昼のテレビでファームの試合(野球)を観る愉しみ 西原天気

〔ネット拾読〕
昼のテレビでファームの試合(野球)を観る愉しみ

西原天気



朝ごはんみたいに見えますが、昼でした。ひとり居の。

要は、お茶漬けが好きなのです。

(卵焼き? それくらいは自分で作れます)

さて。

八上桐子さん(週俳では柳俳合同誌上句会に参加いただきました)のブログにイベントのお知らせが。
http://kurageabuku.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0179.html

葉ね文庫という大阪の本屋さんで、壁を使ったイベントみたいです。

ここ(私の住んでるとこ)からは遠いのですが、一度は行ってみたい本屋さん。



福田若之 〔ためしがき〕語りかけと話しかけ
http://hw02.blogspot.jp/2016/08/blog-post_2.html
語りかけるという言葉と、話しかけるという言葉とには、微妙なニュアンスの違いがある。
微妙な違いとは例えば、街を歩いていて、「あなたは神を信じますか?」とくるのが〈語りかけ〉、「お茶でもいかがですか?」が〈話しかけ〉、みたいな違いでしょうか。

俳句において〈語りかけ〉と〈話しかけ〉を微妙に区別するかというと、私はしていないようです。「煮て下さい」の場合も同様(≫参照)。「ください」が他者に向けられているのであれば(語りかける文体ではない他の俳句も、他者に、という点、同様ですが)、自分も作者の他者には違いない。それは、俳句に反応するという程度のことなのですが。

文芸におけることばが〈作者→他者〉であることはシンプルに自明として、読者たる自分を〈他者〉のひとりとするか、〈作者→他者〉を眺めている別の人とするかの違いといえるかもしれません(福田若之は後者)。

でも、これ、そんなに単純ではなくて、例えば、フランク・シナトラがラヴソングを歌うのを聴いて、自分をどこに置くか、女性と男性で大きく違ってきそうです。

ややこしいですね。

《寂しいと言い私を蔦にせよ》(神野紗希)という句に、「了解!」(あるいは「遠慮しておきます」)と、誰もが反応するかというと、どうもそうではないようだから、福田若之の「僕は俳句によって話しかけられたと感じることはほとんどない」という無反応のほうがフツーなのかもしれないです。



リオ五輪開幕。ということで、サンバなどを聴きたくなる人も多いはず。

高橋芳朗 定番ブラジルソング『Tristeza』特集

TBSラジオのこの番組を聴かなかった人も、この記事に「書き起こし」、そして YouTube まで貼ってあるので、超便利。

『Tristeza』は英語タイトル『Goodbye Sadness』。この番組のラインナップに加えるとしたら、アストラッド・ジルベルト。


音楽は、ひとつの曲をいろいろなパフォーマンス(歌・演奏)で展開できる(カヴァーヴァージョンてやつですね)から、いいですね。愉しい。

俳句もそういうふうにできればいいのに、と、いつも思います。類想・類句だとか、独自性を競うだとか、なんだか窮屈な世界です(文芸一般、そうか)。

もっとも、岸本尚毅のように、季題というメロディー(テーマ)をおのおの演奏するのが俳句、という捉え方も、あるには、あります。風通しがいい考え方ですが、季題に限られるなら、別の窮屈も生じたりしますけれど。


西川火尖 俳句プラモデル説

俳句作者人口>読者読者人口な状況を喩えるに、趣味の園芸でも手芸でもなんでもいいんでしょうけれど。

まずは作者になった上で、その気があれば読者になったらいい」という点、これまでの俳句普及法と同じ。

俳句が「読まれない」状況が大きく変わることはなさそうです。

いちおう、『週刊俳句』は、「俳句を読みましょう」という趣旨でスタートし、更新をつづけているので、ちょっと残念な未来ではあります。

ところで、俳句がお金になる・ならないの話をする人は多いのですが(上記記事に限らず)、まず、自分が、この一年、どのくらい句集にお金を払ったか、総計してみるところから話を始めてはいかがでしょう?


今回はそんなところで、またいつかお会いしましょう。

2016年7月30日土曜日

〔ネット拾読〕昼休みは屋上でバレーボールという日本の原風景

〔ネット拾読〕
昼休みは屋上でバレーボールという日本の原風景

西原天気


今回も拾い読んでいきます。




以前から、聞こえてきてはいましたが、

ユネスコ無形文化遺産 俳句の登録へ発起人会

俳句業界のお年寄りたちは、よほど暇なのでしょう。暇なら暇で、ほかにすることがあるだろう、などと言ってはいけません。

なお、どんなものが登録されているのかを見ると、かなり雑多。俳句が登録されてもそれほど奇異な感じはない。実現するかも、ですね。

俳句世間にいれば、この手の通俗もしばしば目に入ってきてしまう。しかたのないこととあきらめて、長く視界にとどめないことです。





柳本々感想】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって・中澤系

http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1462.html

そういえば、駅は番号に満ちております。



同人誌『オルガン第6号がそろそろ出るようです。

目玉は金子兜太との座談会でしょうか。このところ俳句よりも、アベうんぬんやら「平和俳句」やら標語運動で知られる大御所。どんな座談会になっているのか、興味津々。第4号の「震災と俳句」座談会と読み比べても一興。

2016年7月23日土曜日

〔ネット拾読〕昼に「今日の天気」を聞いてももう遅いかというとそうでもない 西原天気

〔ネット拾読〕
昼に「今日の天気」を聞いてももう遅いかというとそうでもない

西原天気


ツイッターで、どんなツイートが並ぶかは(タイムライン=TLと呼ばれます)、ツイッターを使う人次第、かつ偶然。




スニーカーから西瓜の匂いのするかのように、あるいは、5つのスニーカーが変種の西瓜のように、一瞬見えました。

ツイッターは、こういう、並びの偶然を楽しめたりします。

て。

柳本々々 【希望の川柳 十一日目 】やむをえない希望-高瀬霜石-
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1451.html
「ビートルズ」という名詞を出したしゅんかん、すべてを語ることができてしまうような「ビートルズ」という名詞の強度。
なるほどです。その結果として、ここに掲げられた句となる。ちなみに、この句、圧倒的におもしろい。



で、また、ツイッターに話が戻るのですが、オードリー・ヘップバーンの二人羽織が見られたり、セーラー服姿が見られたり、あるいはお馬鹿なレコードジャケットを楽しんだり、読むよりむしろ「見る」もののようにも使えます。



インターネットは、断片化された情報が無数にころがっている場所です。乱雑。でも、それを嘆くことはありません。統合したり、整理したりは、自分のアタマのなかの作業。

きれいに設えられたものが提示されるなら、便利でしょうけれど、それって、ちょっと怖い。

それではまたいつかお会いしましょう。



2016年7月9日土曜日

〔ネット拾読〕 昼食を抜いてもその日は死なないというアフリカの諺 西原天気

〔ネット拾読〕
昼食を抜いてもその日は死なないというアフリカの諺

西原天気


もちろんウソです。そんな諺、ありません。

て。

佐藤文香 2016.7.4
http://satoayakatoboku.blogspot.jp/2016/07/201674.html

最後の数行で泣いた。


佐藤りえ 人外句境コンテンツまとめ
http://burai-ha.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

こういう一覧は、ほんと便利。リンク集=インターネット的便利の極み。



で、ですが、あまりにネタがないので、大昔のを掘り起こします。ツイッターをまとめるトゥギャッター。2010年7月。6年前です。

五七五定型=パンツ騒動
http://togetter.com/li/35781

定型=パンツ〕ならば、いわゆる自由律は、パンツさえかなぐり捨てる、といった対照が、話の流れの中にあって、その前提には、「表現」すること自体が恥ずかしい、ましてや、そこに「自己」がくっついて自己表現なんてことになったら恥ずかしくて死ぬ、といった心性があるわけですが、定型うんぬんで羞恥が緩和されるかどうかは、〔文化によります。

一般に、ネイキッドネス(nakedness)、すなわちおまわりさんが飛んでくるたぐいの裸と、ヌーディティ(nudity)、すなわち芸術写真の被写体的な裸、その線引き、言い換えれば、何をネイキッドネス=禁忌とするかは、文化によって異なる。例えば(あくまで机上の例)、ある文化では、足首の露出は、どの部位を露出するよりも恥ずべきこととされるなど。

俳句世間は、ひとつの文化ではありません。いわゆる有季定型の中にも、いくつもの文化がある。したがって、パンツでどこを隠すのかは一律ではありません。


ところで、このツイッターのやりとり、混沌のおもしろさがあります。ツイッターとは「囀り」という意味。ひとこと(ひと鳴き)は、論ではなく、論の断片。断片が集まっても、論になることはないけれど、そこに論の萠芽があるかもしれません。

酒席での俳句話に似ていなくてもないが、それよりあっさり、かつ誰が入ってくるかわからない点、開放的かもしれません。近頃、ツイッター上でのこうしたやりとりの展開、ほとんど見かけない気がします。いや、それは、私が井戸端に足を向けなくなったせいかもしれない。


今回はあっさりこのへんで。

またいつかお会いしましょう。

2016年7月2日土曜日

〔ネット拾読〕昼ひなかのラジオは素麺の茹で汁のよう 西原天気

〔ネット拾読〕
昼ひなかのラジオは素麺の茹で汁のよう

西原天気


ラブ・アンド・ピース!

(ちょっと導入を凝ってみました)

この時期、アタマやカラダがしゃきっとしないときは、昼寝してみるといいです。短時間でも。

さて。

福田若之 それは確かに「早計」というほかはない 筑紫磐井「関悦史の独自性――震災・社会性をめぐる若い世代」に対して
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/blog-post_48.html

これはつまり、「せめて読もうよ」という話かな?

こちらからは以上ですが、ちょっと一般的なことを。

「なぜ俳句を書くのか?」というと、「書きたいから」でしょう。それ以外にない。「震災俳句」も「原発俳句」も同様。そして、何を「社会性」というかは別にして、「社会性」のある句、「社会詠」(そんな用語、あるのか?)も同様。書きたい人が書きたい句を書くのだから、ぜんぶオッケー。私自身はそう思ってます。もちろん「みんなで、震災俳句を、原発俳句を、平和俳句をつくりましょう」となると、グロテスクな行進めいてきますが、きほん、書きたい句を書けばよろしいのです(あたりまえのこと)。

一方、震災俳句を、原発俳句を、「なぜ書かないのか?」の問いへの答えは、「書きたくないから」のひとつではありません。「書きたいと思わないから」もあれば、「書きたいけど、まだ書いてない」もある。「ない」理由はいろいろだし、説明しにくいんですよね。

だから、ある種の分野の句と距離をとろうとしているとき、「なぜ書かない?」という詰問を自分で設定して(あるいはどこからか突きつけられたような気になって)、答えてみようとする必要はない。というか、そういうのって、たいてい言い訳っぽくなって、うまく行かない。ほんとに言いたかったことが言えない。

「社会詠」について、福田若之さんは、誌上座談会の自分の発言をわざわざ引いています。
(…)社会のなかに生きていて、俳句を作っていれば、社会のことが自然と乗ってくる。それが社会詠だって言いたい」と、僕ははっきり言っています(前掲「座談会「震災と俳句」」、36頁)。
それはそうなんだけれど、俳句業界の言う「社会」と自分にとっての「社会」をむりやり繋ぐこともない(よりによってこの言い方はかなり陳腐に映る)

(というか、福田若之俳句は、リアル自分対リアル社会〕てなかんじで、かなりの度合いで「社会詠」だと、私は思ってるんですけどね)

さて。

書く理由は「書きたいから」なんですが、(ここから余談)いわゆる「社会詠」が社会の「ため」になるのかといえば、ならない。

「ため」を言うなら、税金をきちんと払う(自戒を込めて)、他人をいたわる(自戒を込めて)、既得権益に乗っかりのうのうと暮らすことで人の機会を奪わない(これは自戒の必要なし)、そのへんにゴミを捨てない、ゴミが目についたら拾う、など、つまり善き人として、善き社会人として、心健やかに、慎ましく暮らすほうが、「社会詠」を何百句何千句つくるよりも、よどほど社会の「ため」になります。

為念。「ため」にならないから書かなくていい、書かないほうがいい、という話ではありません。くりかえしますが、「書きたい」なら、何万句でも書けばいいのです)



ネット上の句会はたくさんあります。ふだん記事を掲載しているウェブマガジン的なサイトが催すこともあって、例えば、

第1回 川柳スープレックス前句附句会

附句一覧≫http://senryusuplex.seesaa.net/article/439222123.html
選句結果発表≫
http://senryusuplex.seesaa.net/article/439428353.html

「前句附」がわからない俳人が多いと思います(私も、そう)。上記「附句一覧」記事の末尾にある例示「前句 切りたくもあり切りたくもなし 附句 ぬす人をとらへてみればわが子なり」ならわかりますが、さて、実地に、となると、なかなか難しい。まあ、わからないものはわからないまま、句や合評を楽しむことはできます。

で、そういえばと思い出したのが、小誌『週刊俳句』で以前開催した、この句会。

柳俳合同誌上句会
投句一覧 ≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/blog-post_17.html
選句一覧 ≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/20148.html


句会をオープンにすることには(リアル・ネットを問わず)あまり積極的になれないのですが、企画性の高い誌上句会なら、またやりたい。






尼崎、奥深すぎます。


それでは、また、いつかお会いしましょう。


2016年6月25日土曜日

〔ネット拾読〕 昼頃めざめて「ここはどこ?」な所在なさ(が懐かしい) 西原天気

〔ネット拾読〕
昼頃めざめて「ここはどこ?」な所在なさ(が懐かしい)

西原天気


さて、先週に再開した〔ネット拾読(ひろいよみ)〕。ぼちぼち、ゆるゆる、行きます。

佐藤りえ:人外句境 32[鴇田智哉]
http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/02/32_11.html
特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。
川柳作家の句を、「読後感」の近縁から併置した点、新鮮。

鴇田智哉俳句における《主格の欠落》との指摘は、ある俳人から(酒席での)談話で聞いたことがあります。その人は、数学の問題が解けたとばかりに悪戯な眼をして、これ、《主格の欠落》を言っていました。散文的・説明的・明示的な設計からどんどんと離れていくという効果はまずあるとして、それ以上の意義もありそう。鴇田句を特徴づけるヒントが含まれているかもしれません。



週刊俳句・第478号でいったんお休みとなった小津夜景【みみず・ぶっくすBOOKS】シリーズ
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取り上げられたフランス(英語の本もありましたが)の俳句関連書は、うっとりするほど綺麗な本(日本の俳句関連書とはエディトリアルデザイン・編集の土台や発想が違いますね)やら、「なんやねん? あはは」なバカ本やら、本好きには愉しいことこのうえないシリーズでした。本好きは、中身・内容の前に、その本のもつ「たたずまい」にまず惚れるのです。

日本、もうちっとがんばれよ。

テンプレートにのっかったままの刊行物ぱっと見おんなじの句集を流れ作業で作るの、多すぎ。



この替え歌(↓)、よく出来ています。

西川火尖:三冊子ひらいても頭振らない
http://syuuu.blog63.fc2.com/blog-entry-1206.html
俺は俳人 有望な若手俳人 口語? 「高校生らしい」手口
ただ、記事タイトルにもなっている「三冊子ひらいても頭振らない」がよくわからない。私の読解力不足。

付け加えますに、このブログ、タイトル「そして俳句の振れ幅」 の下に記されたサブが秀逸。
仮に金で買えない愛があったとしても維持費はかかるよね
じつに、そのとおり。

でも、なんとかなっちゃたりする。維持費の嵩は、人/カップルによって大きな幅はあるにせよ。



で、この(↑)替え歌とすこし関連するのだけれど、俳句甲子園の話題がぼちぼちと。

例えばツイッター検索

そんななか、

外山一機終電を逃した後で ―俳句甲子園雑感
https://note.mu/t0yama_k/n/n0c2d82787f83
俳句を詠むということは多分に羞恥心を伴うようなみっともない行為の謂であり、だから、俳句甲子園に出場することや俳句を詠むことをまるで素晴らしいことであるかのように語る言葉を目にするたびに、その眩しさに対する違和感をどうしても拭えずにいた。
この違和感、思い当たる人がきっと少なくない。

俳句世間においてはイヴェントを超えて、一種の強制力を持ってしまってもいる(端的にいえば「すばらしいと評価しなければいけない」強制力)。たしかに存するはずの価値とは別に、どんよりとしたもの(上記の違和感も含め)が立ち込めた感じがしないでもない。物語的にいえば、ユートピアとディストピアの併存。

さて、記事に戻りましょう。この一文、最後は視界がひらけて終わる。救いのある結末。



それではまたいつかお会いしましょう。

2016年6月18日土曜日

〔ネット拾読〕昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮  西原天気

〔ネット拾読〕
昼に何を食べるか迷ったらカレーという風潮

西原天気


ずいぶんと久しぶりです。前回が2012年2月2日ですから、52か月ぶり。

(例によって、記事タイトルと内容は無関係です。あしからず)

間があいてしまった理由は、ひとつには、ネット上で俳句にまつわる記事をとんと見かけなくなったこと。当時は個人のブログに何かの記事があがることも多かったのですが、この数年、めっきり少なくなりました。

これにはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へと俳人が民族移動したことも一因。それなら、SNSも含めて拾い読めばいい。

SNSには、原稿の締め切りに追われていることをやたらと喧伝する「意識高い系俳人」や、句会後のレストラン・割烹の料理写真を並べる「生活レベル高い系俳人」も多い。そうした話題をかいくぐって、セリフや記事を拾うのは、ひょっとしたら骨が折れるかもしれませんが、とりあえず再開してみました。

あ、それと、『週刊俳句』『ウラハイ』からも拾ってみようと思います。過去のこのシリーズは、そこを避けていたのですが、拾う場所は広げておいたほうがよろしいです。



さて。

俳句関連の個人ブログが低調を続けるなか、質量ともに目を見張る展開を続けているのが、柳本々々「あとがき全集。」です。

例えば、2016年6月14日にアップされた記事。
実は世界のそこここに存在しているモノのひとつひとつ、加減のありかたや角度、壊れかたにわたしたちの加減や壊れかたが宿っている。それをみつけるひとつの〈しぐさ〉が短歌なのかなと思うことがあります。(柳本々々)
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1431.html
スタイリッシュな書きぶりで、ほぉと見惚れてしまいますが、ちょっと待て、この把握だと、「わたしたち」に内面があるみたいです。そりゃ「ある」だろうし、「ある」と思うほうが、何かを読むときラクでしょうけれど、さて、俳句は、というと、ちょっと保留がいる。このとき、「わたしたち」を作者に限定せずに、読者まで広げても、事情は同じ。

否、「ある」のはいいのだけれど、それと短歌なり俳句なりを結びつける作業/過程が入ってしまうとなると、乱暴に言えば「投影」ってことで、それが、いかに洗練されて、いかに複雑に、であるにせよ、ちょっと窮屈で暑苦しい関係(もっぱら作品と読者の関係)になってしまう気もします。

投影を、読みに含ませると、事物すべてが含意を持ってしまうことにならないか。読みで、それをやると、隠喩やら象徴作用の読み取り合戦になってしまわないか。杞憂かもしれませんが。



「ただごと」俳句って、よく耳にしますね。(話はどんどん飛びます。あしからず)




①なら、勘違いというだけになってしまいますから、②でしょう。

ただし、《「ただごと」だから面白い。》のではなく、「ただこと」をわざわざ句として書きとめることが面白い。作者にとっても読者にとっても。

それって、倒錯的かも。

分裂というより、偏執?







「消える」というのは、きっと良い意味。



さっきも言いましたが、話はどんどん飛びます。
いつも、これはあざといなあと感じている「採る句採らぬ句、選句の基準」がある。全部とは言わないが、自分の採る句の基準などを得々として述べている選者など見ると正直辟易してしまう。
角川の『俳句』はもう買わない:齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/a5aeb9bcbe01375392a55698199e82dc
句会や句会後の酒席で各自が「採る句採らぬ句」の基準を披瀝しあう、なんてことはありそうです(もっとも、句会では、「得々として述べ」てもらわなくても、実際の選句を見ていれば、その人の基準が伝わったりします)。でも、これを記事に書くとなると、なんらかの慎みや技術が要りそうです。でないと、「こいつ、なにさま?」と拒否反応を示す読者も出てきます。

「選別」にはおのずと、立場の優位性、いわゆる「上から目線」が付いてまわる。全員が選んだり選ばれたりする句会の互選では、そうした傲岸さが前面に出ないような注意、というか気遣いがあったりします、一般に。「いただきました」という謙譲語も、その一例。そんな人付き合いのマナーみたいなものはくだらない、と言ってしまえばそれまでなのですが。

なお、このブログ記事、2007年09月20日付け。『俳句』誌が現在に至るまで変わらないことも驚きです。「採る句採らぬ句」なんて最近の特集かと思って記事を読んでいましたよ。もっとも、実用ノウハウはメニューに限りがある。繰り返しになってしまうのは致し方のないところ。その点が、「批評」、テーマが広汎かつ無数、さらには新しい地平が現れて、新しい広さ・豊かさが生まれる批評と大きく異なる。



少々古い記事も取り上げます(2007年の記事も取り上げたくらいです)。

短歌がわからなくて泣いていた

「わからない」の語句どおり、なかなか解決しそうにない問題満載です。この記事が広範長大すぎるという人(私も、そう)は、「短歌の主体がわからない」の項だけでも。
もしかするとこの「自己同一性」というものについては、むしろ読み手の方に、揺るがされたくないという意識があるのではないかな。
読者心理としてその種の担保を求める。

俳句にも言えることですが、求められて応えられる作者と、そうでない作者がいる。それを含めて、作風で、作者としての「同一性」がある。「同一性」は、作中主体と作者と、二重、というか複数あるのが、ややこしいところで。

暑いし、家に帰ってきたときにアイスクリームがあるとうれしいですよね。:福田若之
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/477_12.html

そのとおりであります。

練乳の味わい白くま


今回は、こんなところで。

それでは、また、いつかお会いしましょう。

2012年2月2日木曜日

〔ネット拾読〕18 ヘケテペケ川の入り日を眺めつつ

〔ネット拾読〕18
ヘケテペケ川の入り日を眺めつつ
西原天気

例によって、表題と記事の内容には、何の関係もありません。

さて。

(続)『雑文集』抜き書き:僕が線を引いて読んだ所
http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/20120116

村上春樹『雑文集』の一節、レイモンド・カーヴァーを俳句に置き換える。これがなかなかの説得力をもってしまうのは、引用者(mf-fagottさん)のセンス。
僕はいわゆる「うまい俳句」を作ろうとしてはいない。僕が作るべきなのは、ただひとつ僕自身の物語である。僕にしか切り取れない世界の風景を、僕にしか語れない話法で、俳句として語ることである。(…)
で、「俳句は自分自身を「相対化」することで、自分を少しだけ救済することができると思う。」とはmf-fagottさんによるまとめ。



「自分」や「私」に関連して。

山田耕司 公、ウスくも濃くも:詩客
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2012-01-20-5285.html

全文は実際に読んでいただくとして、次の「まとめ」は、個と衆(筆者=私の把握です)、個別と一般の関係のなかで「作句」を捉えて、クリア。
◎ 私を探求していくことで、私のことしか言えないのは「芸がない」。私への踏み込みがないのもまた「芸がない」。
◎ 公として形式を牽引していくのは、形式を分析する力ではなく、形式を体現する力。
◎ 形式を体現をするのは、それを見届ける受け手あればこそ。どんな受け手を仮想するかで、送り手の芸の向きが変わる。


五十嵐秀彦 「中央」と「地方」について考える:週刊俳句・第249号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/01/57.html

五十嵐秀彦 始めてみないか:無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51691700.html
五十嵐秀彦氏による2本の記事。前者の続きが後者という関係。「地方」と「中央」、それぞれが何を指すのかは、すこし微妙な問題(だからカギ括弧付きになっているのでしょう)。にせよ、五十嵐氏の情況に対する「もどかしさ」のようなもの、そしてそれを打開しようとする意志が伝わります。

これらを受けて私は自分のブログで、ちょっと別の角度から、インターネットの地域性について書いた。(≫「地方」とインターネット)。

五十嵐氏がこれを受けて、

五十嵐秀彦 20分の1
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51692195.html

「20分の1」は、「少ない」のではなく、北海道に暮らす五十嵐さんにとっては意外に「多い」のですね。
でもネットから離れたところで俳句を作るひとたちと話していて、週刊俳句を知っているという人に出会ったことがない。/思い返してみても本当に一人もいない。/圧倒的に「なにそれ?」という反応が返ってくる。/ということはどういうことかと言うと、週刊俳句の存在は北海道の既存の結社や俳句団体には1%の影響も与えていないということだ。
影響を与える必要はないと思うのですが、知ってほしいですね、やはり。

なにがしか変化への働きかけが必要かもしれません。そこで週刊俳句としての対応策なのですが、この手のことでよく言われるのが、「いま、そこにいる人たちに変化を求めてもムダだ。彼らが消えていくのを待つほうが早い」。

最善策は、長く続けること、かもしれません。



2011年12月20日火曜日

〔ネット拾読〕17 スプーンのかたちに眠りたい

〔ネット拾読〕17
スプーンのかたちに眠りたい

西原天気





西村麒麟・モテキみたいにキョシキって言ったら虚子忌みたいだね 6:spica
http://spica819.main.jp/kirinnoheya/4686.html
週刊俳句(最近書いてませんが)やきりんのへやでボタンを連打しまくったせいか(…)
週刊俳句でも書いてください。
教授「西村君、プラトンの全集とかがでると、翌年ガクッと学生の学力が落ちるのです、自分の力で調べなくても簡単に答えが手に入るからです、人間は良かれ良かれと思い文明を進化させますが、悲しい事に大切なものを失ってしまうのです、悲劇ですねぇ西村君、ね、西村君、四年大学に居たって何にもできやしないのですから、ギリシア悲劇でも読んではどうですか?西村君、…入門書なんて、読まなくて良いです、西村君、狂気の無いものは信じなくて良いのです…」
そうそう。便利と幸せはまったく関連がないですね。

便利になってうれしい、というのは、一種の錯覚です。


結社/結婚 by @tajimaken
http://togetter.com/li/229222

「結社と結婚は似ている」と田島健一氏がツイート。私が「似てない」と応答したところ田島氏が解説。ツイッターも、たまにはいいことが起こります。
既に結婚している人は、結婚した方がいいか、そうでないか、とはあまり考えない。そういう選択肢自体が前景化してこないですね。結社もそうで、結社に入っているひとが、結社に入るべきか、そうでないか、とはあまり考えない。(田島健一)

(…)結婚も結社も、自分と対象との関係性だけだと捉えられがちですが、実はえらく面倒くさい第三者的なものを抱え込むことになるところも似ています。むしろ、その面倒くささを受け入れるために結婚したり結社に所属したりするようなところもある。(同)

(…)「快適な新婚ライフ」や、俳句上達のための「快適な俳句ライフ」っていうのは、ま、少し続けていると幻想だということがわかる。そういう意味では、「ご愁傷様」ですね。(同)


湊圭史・『俳コレ』など:詩客「俳句時評」第32回
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2011-12-16-4524.html

『俳コレ』についてのの記事もウェブ上にポツポツと出てきています(参照≫邑書林によるリンク集)。
全体の印象はリラックスした「個性」の展示というおもむき。「新撰」シリーズにあった、俳句史と対峙してやる、みたいなエッジはなさそうですが、これはこれで楽しめそうです。(湊圭史)
エッジの有無は置くとして、『新撰21』『超新撰21』にあった「世に問う」感は、『俳コレ』には薄い。湊圭史の言う「「個性」の展示というおもむき」はかなり的確な印象評と思います。

付言すれば、「世に問う」という側面で、「俳句のオトナ降臨」と帯に銘打たれた『超新撰21』は少し微妙な立ち位置を余儀なくされた。『俳コレ』のリラックス感は、先行2点との差別化という意味でも、心地がよい。

ただ、忘れてならないのは、『新撰21』『超新撰21』という先行が存在するからからこその『俳コレ』、ということ。

先行2点との差別化(そこにはリスペクトの意味合いもあるはず)という点では、装幀のテイストが大きく変わったことに加え、各作家が見開きスタートとなったこと。体裁上の差別化が、読み手にとっておそらく大きいと思います。


三物衝撃のテンプレート :みしみし 三島ゆかり俳句日記2.0
http://misimisi2.blogspot.com/2011/12/blog-post_16.html

「二物衝撃」という用語は「取り合わせ」くらいに解しておいたほうがよいと考えています。「衝撃」なんて言うと、作ってるほうがヒロイックに酔っちゃいますから。もちろんただ並べるわけではなく、そこになにがしかの効果があるから、そこに着目するわけですが、その効果が「衝撃」の効果とも限らない。エイゼンシュタインのモンタージュなわけですし、ね。

だから、2つとか3つとか数にこだわるのはあまり意味がないと考えています。

A【a1〔路地裏を〕-a2〔夜汽車と思ふ〕】-B【金魚かな】

a1とa2がモンタージュされ、そのセットであるAが、Bとモンタージュされる。「全体」を構成する「部分」の中にも取り合わせがあり、それが全体となってもう一つの部分と取り合わせの関係になる。部分と全体が固定されるわけではない(まあ、いわばホロン?)。

上に挙げた構造図も、これと決まったものではありません。A【a1〔路地裏を夜汽車と〕-a2〔思ふ〕】というモンタージュに解することもできます。

俳句は、意味と無意味の調べ、音の調べというふうに言えるわけで、音符が2つとか3つとかと単純化して読まれるわけがないのです。これに先行テクスト/他テクストをバックグラウンドとして響かせるという効果が加わることもあるわけですから、ますます「数」では済まなくなります。

ま、上記、三島ゆかり氏の記事では、あえて単純化という方法を採っているのでしょうが、単純化しすぎると、たちまち飽きてきちゃいますよ、俳句なんて。


今週の本棚・この人この3冊:塚本邦雄=穂村弘・選
http://mainichi.jp/enta/book/news/20111218ddm015070014000c.html

いまさらながら塚本邦雄『百句燦燦』(講談社文芸文庫)は必読。


で、そろそろ今年を振り返ることも多くなってきておりまして、

荒川洋治:『図書新聞』最新号からの引用
https://twitter.com/#!/deja_lu/status/147997004071575553
おおきな災害のあと、大量の、たれながしの詩や歌が書かれて、文学「特需」ともいうべき事態となった。[…]これは「詩の被災」であり、「ことばの被災」である。
被害者は「詩」であり「ことば」。ちょっと引っ掛かる把握ではあります。では、加害者は?



最後に、俳句から離れて。

ネットでこんなことを言うのもなんですが、手紙(snail mail)って、いいものですよね、という。

工藤公康さん。:古賀史健のBLOG
http://office-koga.com/2011/12/13/kudo/

めちゃくちゃええ話やん!