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2018年1月3日水曜日

●May 二〇一八 be ワンワンダフル! Robin_D_Gill

May 二〇一八 be ワンワンダフル!

#古狂歌は気の薬 Robin_D_Gill
#名歌にしたい無名歌 季節篇002
#古に比べて朝飯前の初日出

神の代の骨折り見えて天の戸を易くも明ける日の初め哉

Ye Gods of old had to work so hard, but now ‘tis easily done –
Heaven’s Door cracks & out she comes, our New Year’s Sun!

かの岩戸を開く為のストリップ踊りや手力雄のご苦労も無用で、今朝の春の長閑き朝の睦月の初日出がやすやすと「安産」する祝い。坂月米人が天明狂歌本にも出るから名前くらいはウェブに出るが、江戸狂歌本(4-1)の1793の書物から狩りた上の首は、拙著以外に出てこない。「神代の骨折」という綴りの検索でやっと当たり一本は、太田南畝がその頃に出版した也有の名著『鶉衣』の「餅辞」の「先づは一年の初空、松も竹もあらたまるあしたに、飯はもとより常住にして、奈良茶麺類もしどけなければ、雑煮と趣向を定めたるぞ神代の骨折の所なるべし」という一つ文章だけですが、その行間を読むに我も骨折るものの、米人(こめんど)の無名の狂歌は、てにをはずかしい日本語の米人ながら朝飯前のご馳走で、教科書に神代の話か元日の意味などを小・中学生に取り上げているところには必ず、この狂歌を紹介すべき。一方、下記の名歌は大人向けかと思いませんか。

通りますと岩戸の関のこなたより春へふみ出すけさの日の足

From the far side of ye Cave-door gate: “I’m coming through!”
And so we see our Sun’s bright legs stride into Spring anew.

両手で数える名狂歌とは言え、詠んだ天明狂歌師の知恵内子は江戸の粋を具現した偉い美人だったと云う彼女の評判を知らなければ、今一つの首でしょう。ともかく、鑑賞は、十分できるかどうかが疑問。『古今狂歌集』に彼女の肖像は有ります。それを一度見たら誰でもずっと覚える。目鼻立ち皆無。後ろからなる女の得意なインフォーマルな半正座ながら、真っ直ぐ伸ばす背中を真っ直ぐに下がる髪。真正面から眩し過ぎるからと思えば微笑ましい。「通ります」を心に聞けば、智恵内子とアマテラス大神は一体化になる。歩みながら堂々と声を出すところが子供にも通じる擬人化とは言え、歌の吟味は大人で無ければならない。

断っておくが、名歌の狂訳を日本語の知らない人に見せたら、「日の足」は、日の光線ray/sの事よ、と蛇足も言い付けた方が宜しい。旧暦の元日に日の足の名歌にしたい無名歌をご紹介します。雨の足も、そう言えば風の手も英語にないが、十九歳の其角の名句「日の春をさすがに鶴の歩みかな」よりはるかに面白い、名歌にしたい古狂歌の日の足を旧暦の日の出までお預けします。古の日の出の苦労と現在を比べた古狂歌は、俳句よりも抽象的な文学かと思えば、又も自然観測においても負けなかった事を、その首は証なる。

2018年1月1日月曜日

●年の尻を拭いで世話するか、蹴っちまうか: 諸君どうする? robin d. gill(敬愚)

年の尻を拭いで世話するか、蹴っちまうか: 諸君どうする?

robin d. gill(敬愚)


くそ世話も世の習いとて行年の尻ぬぐいにとおくる白紙

At this time when the whole world kisses ass, I send
toilet paper to serve what’s left of the Year, its end!

狂歌には四季の巻もよくあるが、季語はない。とは言え季語を重ねてはよくないという俳諧の馬鹿げたルールもないから、重ねても滑稽と感じず、ただその季節をよく描かれている事になる。古狂歌の数々ある「年の尻」を分け入て択んだ上記歌鼠の1815年の上方狂歌には、かの師走の多忙に行年の暮に年玉の三つもある。とは言え、糞世話が抽象上に行年に贈る=送るも、八年前の1807に詠まれた上方の素人の「肥やし取る得意へ米は渡しつゝ我が屋の餅をつく年の尻」を考慮すれば、かの下肥業の方への年玉に成りかねない。そして、敬愚よりも風刺を求む読者ならば、又遡って1784以前の上方狂歌、安藤犬丸の

河童のさらにひまなき仕舞事に人もすう/\云ふ年の尻

は、いかがですか。「すう」は、何か。尻子玉の新玉はまだが、掛取りに「すうまない」「すうみません」と言う事ならば、尻作だ。七年前の1777以前の省巴の上方狂歌に年の「尻毛」を詠む首は吸うよりきもいかどうかよう知らないが、四十三年の1734まで遡った宵眠の俳諧風の上方狂歌

年の尻おしつめれども心強う見返りもせずゆき女かな

とは、まるでイタリア人得意それとも悪癖のセクハラの仕草を思わせながら、冷たい雪の行年を描く。押し爪が詰めに掛けて年内立春と思えば秀歌なる(ああ東京にいる友のキットさんは雪が降ったと言うから、今年はこれだったか。残念ながら英訳まだない)。しかし、最初に紹介した歌鼠の糞の世話の尻ぬぐいと同様に名歌にしてもいいかと考えている首は、元禄の月洞軒という悪太郎のいかされた口語詠みである。

貧乏神まりけるように蹴ていなせ ありはどっこいよき年の暮れ

Just give Poverty a big kick in the arse, as if he were a ball –
send that god off w/ a bang: the year may end well after all!

素朴の志願ながら「あり」は鞠が空中でなんとなく節分が除夜になった年の雰囲気か。ただし、貧乏神⇒金鞠(かなまり)と紙子を合わせた新造語「紙鞠」か、その確認ができなかったら名歌にしがたい。同じ口語ながら、もう少し謙遜の自嘲調の句例もある。やはり、老一茶だ。

So just where
will the passing year
leave this old geezer?

行く年はどこで爺を置き去りに


畜生! まだマイアミだあああ。焼き秋刀魚定食も食わず、海鼠腸も吸わず、松酒を枡から漏らずように呑まんとすることもなく一年が終わる。俳友たちよ!古狂歌を他人あつかいせずに、遠慮なくコメント下さい! 俳界に棲む者は「名歌にしたい」狂歌の二首のどれが択ぶべき。百首に双方とも? いや、双方ともつまらないか? FBにも色々と投稿するが「ライク」ばかりでは判らない。ご感想を! ご意見を!


2010年3月3日水曜日

●雛の日 robin d. gill (敬愚)

雛の日

robin d. gill (敬愚)


可愛いも初心の内ぞ、雛祭り
可愛いで生きる権利を今日守る
キュットが悪口になる世にこの日
世の中のデカイモノ禁止、女子の日
桃酒飲む爺婆とちびっ子しかいない日
さんざんに言われて何時からキュット忌
アニメよりいいものあったを、ひなまつり

二、三十年前、クラシック音楽ばかり好きお鼻が高い米保守派コラムニスト George Will が、米カントリ・ミュージックを誉めこけたが。楽観主義一辺倒のアメリカで、絶滅寸前の人権、the right to be unhappy 不幸せに生きる権利を、みごとに守りきっているのは、失恋のみならず、日常の暮らしの辛さをしみじみと歌う涙頂戴カントリーばかりではないか、と。不景気の今では、この人権こそ米にも無事でしょうが、cute で生きる、cute を好き、cute を敬う、cute を崇めることは、ゲイばかりの専権となりがち。可愛いっくていいではないか、と堂々いう大人は少ない。ということを、数年前から、毎年の雛祭り、思う。

こっそりと押入れを出る女子の日

思えば、日本は世界のキュットの御都だ。そのために、日本は好き、又嫌い。大学と企業のウェブサイトを廻れば、線美まったくない無味乾燥の経理学向きなフローチャットか、二、三才の子供しか喜ばないアニメっぽいごちゃごちゃしかない。前者で吐け気になり、後者で悲しくなる。キュットが、あるべきした人形の棚から出歩いては、怪物になってしまった。必然的にそうなったではない。コンピューターのハードとソフト関係の大者に趣味よきの一人だけおられたら、CADは別なものになったはずです。遠くから三月三日を祝うが、同時に、さんざんとやられてきた日本の風味というか、審美眼というか、それを悲しみ、いたむ日である。

無目鼻棚下ば大目鼻なり  敬愚
ないめはな たなおりれば おおめはななり