2019年7月29日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕相子智恵



相子智恵







雲は雨後輝かされて冷し葛  生駒大祐

句集『水界園丁』(港の人 2019.7)所載

今年は梅雨の6月が長く続いたと思ったら、いきなり晩夏の8月になったような、7月が消えてしまったみたいな夏だ。掲句の美しさに、改めて雨の多いこの夏を思った。

雲は雨の後に〈輝かされて〉しまう。〈されて〉に感情が出ていて、雲自体は変わっていないのに、周囲の変化によって(雲はそれを望んでいないのにも関わらず)いきなり輝いてしまうような感じなのだろう。それまでは灰色の雨雲だったのに、雨後の光に洗われて白く輝く雲は眩しくて、自分との親しさから遠のいていく感じが、ふわっと切ない。

そこに〈冷し葛〉が、〈輝かされて冷し葛〉とつなげて読めるような形で置かれている。〈冷し葛〉という、輝きながらも芯が白く濁っているみずみずしい一皿の菓子に、雨後の輝く雲がすーっと着地していくさまは、抒情的で美しい。いわゆる「取り合わせ」よりも、もっと「世界が滲みあっている」感じがする。

雲は遠くに、冷し葛はすぐ近くにあって、違う世界のはずなのに滲みあいながら自然とそこにある。遠くて近い不思議な水と光に、世界はひたひたと、静かに満たされていく。
ただ、それを見ている自分はその世界からすっと引き離されていくような気がしてしまうのは、〈輝かされて〉と一つだけ現れた感情による。眩しさの中に寂しさが漂うのだ。

2019年7月27日土曜日

●土曜日の読書〔自分の名前〕小津夜景



小津夜景








自分の名前

昔住んでいたアパートのベランダは広い庭に面していて、大量の鳥がわっさわっさと大樹をゆらしていた。手すりから腕をのばすと触れられる距離で彼らはおしゃべりしていたのだけれど、何を言っているのかはわからなかった。

ベランダの向かい側は市の公団で、お互いの生活がよく見えた。公団の地階は児童館になっていて、子供たちが朝から夜まで叫びながら遊んでいる。だがどの子供もアラビア語まじりで何を言っているのかはわからなった。

「ねえ、言葉の意味がわからないまま生きていると、だんだん周囲の存在と風景との境目がぼんやりして、自分の輪郭ばかりがきわだってこない?」

あるとき電車の中で、たまたま隣に座った女性から突然そう話しかけられた。びっくりして相手の顔を見ると、特に変わったところのない女性である。もっとも世間話のテーマには国ごとに強い訛りがある。きっとこの女性はすこぶる思弁的な国から来たのだろう。

「いいえ、存在の一つ一つがぐんとリアルに粒立ってきて、むしろ自分の方こそ背景と一体化してしまいます。透明人間になったみたいに」
「透明人間? それは大変ね。なったあとはどうするの?」
「適当な頃合いを見計らって、普通の人間にもどるんです」
「どうやって」
「自分の名前を自分で呼ぶんですよ。初めは寝ている人を起こすように優しく、次第に大きな声で呼ぶようにするとうまくゆきます」

見知らぬ女性と別れ、アパートのドアをあける。誰もいない部屋。ふと思いついて、自分の名を呼んでみる。するといくぶん透明になっていたのか意識がはっきりする。そして意識がはっきりすると、心がからっぽなのにも気づいた。なんだか意味が恋しい。犬が飼い主を呼ぶように、私はくりかえし自分の名を呼んだ。

自分で聞く自分の名前はいつだって新鮮で、それでいて心のかたちにぴたっとはまる。誰しも一番よく意味をわかっている言葉、それは自分の名前だ。そしてそこから存在の哲学も始まる。
だから、哲学を「大人になってから、子供に帰ること」とも言えるだろう。たくさんの遊戯を経て、多くの博物誌に触れて、思想の果実がなる頃に、また、なにももたない子供に戻る。/そんな風にして、私たちはまた哲学を始められる。すでにある思想にがんじがらめになってゆく、知らぬ間に。そのなかで、はっとした気づきから、はじめの心に立ち返る。(木村洋平『遊戯哲学博物誌 なにもかも遊び戯れている』はるかぜ書房)

2019年7月26日金曜日

●金曜日の川柳〔未補〕樋口由紀子



樋口由紀子






煙突に交じって妻が立っている

未補 (みほ) 1989~

我が家から数キロのところの埋め立て地に大きな工場があり、煙突が並んでいる。何本ぐらいあるだろうか。遠くから見る煙突は煙が吹き出しいているときよりも、ただ立っているときの方に存在感があり、何かをしでかしそうで、不気味に立っている。

掲句の煙突は一本ではなく、数本のイメージが私にはある。前を行く妻が遠ざかったと感じたときに、あるいは遅れてくる妻をふと振り返ったときに、妻の姿は煙突の中の一つと見誤えてしまうほど、まるでその中のいるように溶けこんでいる。「交じって」の措辞で日常をはみだし、日常との差異を生み出している。妻は、一瞬、現実の時間からはずれて、過去か未来に移動したようにふわりと浮いているようでもある。妻とのとらえようのない隔たりを静かに見つめている。私は取り残される。「第一回毎週web句会誌上川柳大会」(2019年)収録。

2019年7月25日木曜日

●木曜日の談林〔松臼・一朝・一鉄〕浅沼璞



浅沼璞








 よだれをながすなみだ幾度(いくたび) 松臼(打越)

肉食(にくじき)に牛も命やをしからん    一朝(前句)
 はるかあつちの人の世中(よのなか)  一鉄(付句)
『談林十百韻』上(延宝3年・1675)

前句は打越の嘆きを牛サイドから「薬喰」として取り成したもの。

それを付句は肉食を常とする西洋人サイドへと見込んだ。

(前句の場面を新たな観点から特定するを「見込」という)



「はるかあつち」などと突っぱなすのが談林らしい。

「の」のリフレインも効いてる。

もう牛も観念するしかないだろう。



これは前にもふれた事だけれど、この連句集を機に、江戸の無名結社の呼称であった「談林」が、宗因流の汎称として世に知られるようになる。



ちなみに十百韻(とつぴやくゐん)とは百韻を十巻(とまき)かさねたもので、つまりは千句のこと。

「とつぴやく」も「あつち」も促音がここちよく、談林っぽい。

2019年7月24日水曜日

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2019年7月22日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵







押し通す愚策に力雲の峯  小川軽舟

句集『朝晩』(ふらんす堂 2019.7)所載

愚策であっても押し通せる人というのは、確かに力があるのだと思う。そして押し通してしまえば、愚策であってもその策は力をもち、粛々と進行されていってしまう。社会人になってみると、往々にしてこういう場面はある。

この句は愚策を押し通している会議のような場面での、エネルギッシュな「愚策を押し通す力のある人」を見て詠んだものなのか、押し通された愚策が力をもち、粛々と実施されていく「愚策そのものが力を発揮している状態」を詠んだのか。そのどちらも含むのだろう。

〈雲の峯〉は傍から見ると堂々と大きくそびえ立ち、力強いけれど、その実態はふわふわとした小さな水滴で、掴めないものだ。「まあ仕方がない、愚策であっても決まったことなんだし、決まったことには力があるよ」という見えない諦めの空気をまとうことによって、愚策の力は複利のようにもくもくと、大きな入道雲に育っていく。よく考えてみれば、ただ誰かが押し通した愚策にすぎないのに。

〈押し通す愚策に力〉はこの世の真理だな、と思う。あえて「付き過ぎ」のような〈雲の峯〉も深く読ませるところがある。

2019年7月20日土曜日

●土曜日の読書〔ワクチン接種〕小津夜景



小津夜景








ワクチン接種

家中の掃除を終えて、コーヒーを淹れていたとき、ちょうど訪問看護師のナタリーさんが、こんにちは、とやってきた。

「今日はワクチン接種だっけ?」とナタリーさん。
「そうです。破傷風の」と私。
「じゃあワクチンと、予防接種手帳を出して」

ナタリーさんの指示を受け、私は冷蔵庫から破傷風ワクチンの箱を出す。ワクチンは自分で薬局に行って購入する。保険が効くので、実際に払うのは0ユーロだ。ナタリーさんは箱をあけ、ラミネートをはがすと、注射器とワクチンと針をとり出す。そしてきんきんに冷えたワクチンをしばらく手の中で温めたのち、注射器にワクチンと針をくっつけた。

私はソファに寝そべり、短パンを下げてお尻を出した。注射は一瞬で終わった。そそくさと立ち上がり、台所に準備してあった2人分のコーヒーとドーナツをテーブルに並べると、ナタリーさんはスマホを出して、患者のケア用に用意しているリュートの曲をかけてくれた。

「あ。美術番組の曲」
「ふふ。シシリエンヌっていうのよ」
「不眠や躁病って、中世は音楽で治したって聞きましたよ」
「そうそう。この曲はルネサンスだけど」

ナタリーさんが音楽に詳しそうなので、私は本で齧ったうんちくを話す。中世のリュート弾きはハンセン氏病や酔っぱらいの治療もできて、病院や宮廷で演奏していたそうですよ。へえリュート弾きってすごいのね、他には何が治せたの? 他は知りませんが、ほんとリュート弾きはすごいです、もうね、お風呂屋さんでも演奏してたくらいで。
「中世の市民にとって、お風呂は特別なエンターテイメントだったんです。ほとんどの市民は自宅に風呂なんてありませんから、公共浴場へ行くわけですね。当時、大都市には十軒くらいの風呂屋があって、ウィーンに至っては二九軒もあったそうです。
それでその風呂屋ですが、おっしゃる通り混浴で、風呂桶に浸かりながら飲み食い、おしゃべり、カードやさいころ賭博を楽しむ習慣がありました。そんな雰囲気ですから、性の交わりに発展することもあり、いってみれば歓楽の施設だったんですね」
「なんかイヤですね……」
彼女が言った。僕は面白いと思うけど。
「いかにも放浪芸人が活躍しそうな場所ですよね」

(木村洋平『珈琲と吟遊詩人』社会評論社)
私の話にふんふんと耳を傾けていたナタリーさんは「楽器で酔わせて楽器で治す。儲かりそうな仕事ね」とうなずいた。窓の外から夏風が吹き込む。おいしそうなケバブの匂い。近所のレバノン・レストランが開店したのだ。




2019年7月19日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子






割り方が私とちがう生卵

米山明日歌(よねやま・あすか)1952~

この句をそのまま読むと何かの割り方が私と生卵とはちがうということになる。私も卵も生身であるという共通項で無理やりに括ることができるが、私と生卵の割り方のちがいをうんぬんするのはやはり奇想である。奇想が川柳にとってダメかと言うと一概にそうとは言えない。

しかし、生卵は主体的に割る方のものではなく、割られる方のものなので、どうしても、生卵の割り方がだれかとちがうということに落ち着いてしまう。けれども、それならば、〈生卵の割り方が私とちがう〉とするのがふつうだが、それではあまりにも散文すぎる。倒置法で「生卵」を下五に持ってきたのだろう。順序を変えるだけでもおやっという違和感が出る。個人個人の考えることのおもしろさを奇想な部分を暗に含ませながら表出している。その手の加え方、手加減さが巧みである。〈巻頭の鬼の話はふせておく〉〈ギリギリの話しする 第二関節〉〈別別の花の名前でしめくくる〉 「川柳ねじまき#5」(2019年刊)収録。

2019年7月17日水曜日

●ヨット

ヨット

遠景にヨット近景にもヨット  柴崎七重

対き替へてヨット白さを失へり  加倉井秋を

かの赤きヨットのけふも来る時刻  富安風生

ヨット出発女子大生のピストルに  西東三鬼

ヨットより出でゆく水を夜といふ  佐藤文香


2019年7月15日月曜日

●月曜日の一句〔安藤恭子〕相子智恵



相子智恵







シャツの裾だんだん重き水遊び  安藤恭子

句集『とびうを』(ふらんす堂 2019.7)所載

子どもが水鉄砲で水を掛け合ったりして遊んでいる。最初は水鉄砲を打ったり走って逃げたりするのが楽しくて、時間を忘れて、きらきらした水の束だけに集中している。シャツの裾であって、ズボンの裾などではないから、川やビニールプールなど足元から水に入る遊びではなく、水鉄砲のような遊びを想像した。

それが〈シャツの裾だんだん重き〉で、徐々に裾の重さに気づいてくる。シャツの重さの方が気になるようになってきたら、そのうちシャツの冷たさにも気がついて、水遊びだけに没頭していたひとときは過ぎてゆく。遊びは終わりに近づくのだろう。

掲句は大人になってから、子どもの頃の水遊びを思い出したのかもしれないなと思った。子ども時代を思い出す時、遊びそのものの記憶よりも、なぜかこのような触感などの感覚が残ることが多いように思う。懐かしくてちょっと切ない一句。

2019年7月13日土曜日

●土曜日の読書〔リハビリルームの雲〕小津夜景




小津夜景







リハビリルームの雲

ブレンダーに人差し指をつっこんだまま、間違ってスイッチを入れたら、人差し指が消えた。

あたりは血の海である。ひい、と唸ったがあとのまつりだ。血の海をほっといたまま急いでタクシーにのり、町で一番と噂される総合病院の救急にかけこんで診てもらうと、これはどうしようもありません、と真面目な顔で言われる。匙を投げられたのかと思いきや、

「さいわい近くに手足専門の外科医がいますから、そちらにお願いしましょう」
「手足専門なんているんですか」
「ええ。F1やモトクロスを専門とする手術チームです。このままそこへ行ってください。いいですか。先方に連絡しておきますからね」

翌日、人差し指を螺旋に縫い上げつつ形をととのえ、その数週間後にリハビリが始まった。が、3ヶ月経っても指が曲がるようにならない。こんなに時間がかかるんだなあと半ば飽き飽きしながら、ある日もリハビリルームで先生を待ちつつ指の縫い目を眺めていたら、

あれ。これなんだっけ?

と、とつぜん脳が混乱におちいった。

これは、どうしたら、どうなるものだったかしら。てゆーかなにをどうしたら、これが治ったことになるんだっけ。

わからない。ほんの軽い混乱だったはずのものが、考えるごとに深みにはまってゆき、またたくまに四方が闇になった。わ。なんで目まで見えないの。なにこれ怖い。怖いよう。

と、そこへ先生が来た。いま起こったことを急いで先生に伝える。あっはっは。頭の中がこんがらかったんだね。先生に笑われ、すうっと不安がほどけて、今日のリハビリを開始する。私たちのほかは誰もいないパステル色の室内。窓の外を夏の雲がながれてゆく。
おお、雲よ、美しい、ただよう休みなきものよ。私はまだ無知な子供だった。そして雲を愛し雲をながめた。そして私も また雲のようにさすらいながら、どこにもなじまず、現在と水逮とのあいだをただよいながら人生をわたって行くであろうことを知らなかった」(ヘッセ『郷愁 − ペーター・カーメンチント』岩波文庫ほか)
私もまた、雲が教えてくれた大きな物語を忘れていない。そしてこれからも忘れはしないだろう。ああ、今日は本当にいい天気だなあ。そう思いながら深呼吸したとき、先生のてのひらに包まれた人差し指から、まだ目には見えないうごめきが、ぴく、と萌したのがわかった。


2019年7月11日木曜日

●木曜日の談林〔柏雨軒一礼〕浅沼璞



浅沼璞








 此(この)池波の小便に月    一礼(前句)
うたかたの泡五六服霧たてゝ    同(付句)
『投盃』第三(延宝8年・1680)

立小便の泡を抹茶のそれに見立てた付合。

付句では「……服」「……たて」と茶道の縁語をつかいながら、「月」を受けて「霧」で秋のあしらいをしてる。



それにしても泡が五六服とは、ぷくぷくした感じで笑える。

結句に至っては、狭霧つまり水しぶきがたってるようで尚笑える。



ちなみに談林で小便の句といえば「しゝ/\し若子の寝覚の時雨かな」(両吟一日千句)の西鶴発句が知られてるが、付句でも「小便はちく/\出て物思ひ」(独吟一日千句)などと際どい恋を西鶴はしてる。


〔柏雨軒一礼(はくうけん・いちれい)は大坂商人で宗因門。『投盃』(なげさかづき)は独吟百韻十巻を収めた連句集。〕

2019年7月10日水曜日

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2019年7月8日月曜日

●月曜日の一句〔新谷壯夫〕相子智恵



相子智恵







心持傾きしまま水中花  新谷壯夫

句集『山懐』(俳句アトラス 2019.6)所載

安っぽい水中花の、安っぽさの極みのような句で面白い。水に入れると開く、昭和らしい紙製の水中花を想像する。土台が水の底で心持ち傾いていたのだろうか、あるいは紙のクセか、少し傾いて水の中に立っている。

〈傾きしまま〉なので、いつ見ても直されることもなく、少しだけ傾いたままなのだろう。なんとなくトイレの小窓の桟にでも置かれていそうだな、と想像する。置いてあることすら忘れ去られてしまっているような、気にも留められていない水中花。

行きつけのお店だろうか。あるいはよく行く誰かの家か。心持傾いていることに気づいてはいても、自分では直せない他者の水中花。でもいつ見ても〈心持傾きしまま〉で、その安っぽさに何だか心が和むのである。

2019年7月6日土曜日

●土曜日の読書〔砂漠の約束〕小津夜景




小津夜景







砂漠の約束

今度の土曜日、遊びにいらっしゃい、とマリーが言った。

さいきんマリーは90歳になった。武術を習ったり、油絵を描いたり、朗読をしたり、毎日いそがしい。じゃあ私、レモンケーキを焼いてゆきますので、そのつもりでいてください、と約束する。

土曜日の昼、マリーのアパートを訪れる。いま前菜を運ぶからテーブルで座っててね。ビズをして、マリーが言った。私はそれを無視してずかずかと台所に入り、前菜の皿をテーブルへ運ぶ。大きな砂漠の写真が居間に飾られている。

「きれい。これ、どこの砂漠?」
「アルジェリア。私の住んでたとこ」
「へえ!」
「大昔の話よ。結婚と同時に渡って、戦争で逃げ回って、あのときはさんざんだったけど、また行きたいの。若い娘だったころ暮らした風景の中に、もういちど身を置きたくて」

90歳の女性にこのようなことを言われた場合、いったいどう返すべきか。私は、たぶん正解ではないなと思いつつ、

「きっと変わってないわ。どんなに変わっても、かならず当時の面影があると思う」

と言ってみた。するとマリーは笑って、

「ごめん。私は思い出より憧れの方が好きなの。つまり、どのくらい都会になったかしらと想像して楽しんでるわけ」
「そっか。砂漠以外はきっとずいぶん変わっただろうね」
「砂漠だって毎日変わるわよ。海みたいに」
「うそ。そんなに?」
「変わる変わる。こんど一緒に行きましょう」

思い出より憧れの方が好き。これは登山家ガストン・レビュファの言葉で、昔のフランス人ならたいてい知っている。
山脈というものは、はっきりした輪郭を持ち、見る人を圧倒する緻密な物体である。これに反して、砂漠、ことにサハラ砂漠は広大で、いたる所で同じ景観を有するかと思うと、いたる所で別の姿を持つ。いわば海のように、移動性を持つ。(…)砂の壁は厚い、不透明の壁で、前進して来る。自然は好きなように行動し、地表を一変する。それは新しい雪が地表を一変するのと同じで、前日に見た地表の姿は、風がやんだとき、すっかり消えている。(ガストン・レビュファ『太陽を迎えに』新潮選書)
今日はお招きありがとう。こちらこそ楽しかったわ、また月曜に道場でね。マリーのアパートを出て市バスに乗り、車窓から海を眺めていて、とつぜん喉がつまる。憧れというのはなんと素晴らしいものだろう、と心が震えたのだ。


2019年7月4日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第32号

【俳誌拝読】
『鏡』第32号(2019年7月1日)


A5判、本文44ページ。発行人・編集人:寺澤一雄。

同人諸氏の俳句作品より。

夜は五月の差し交はす枝のつや  佐藤文香

蘭鋳と別れ人とも別れけり  大上朝美

古着屋に新たな古着夏きざす  井松悦子

火蛾の来て玄米パンを甘くする  倉田有希

母鹿のこゑ金の螺子巻くやうな  笹木くろえ

砂鉄立つ十連休の終ひの日  谷雅子

はつ夏のウクレレは木漏日のやうに  佐川盟子

草藤のそよぐ水辺をそよぐ人  羽多野令

欄干の深傷負ひたる春連夜  八田夕刈

そうめんの中のピンクや白い家  手嶋崖元

加工してあげる写真やチューリップ  東直子

翌朝のカレーのやうな春のひと  三島ゆかり

春陰のスーツノーネクタイ裸足  村井康司

蒲公英の絮のどれもがどこか欠け  森宮保子

金戻るコインロッカー百千鳥  寺澤一雄

(西原天気・記)

2019年7月3日水曜日

【俳誌拝読】『ぶるうまりん』第38号

【俳誌拝読】
『ぶるうまりん』第38号(2019年6月22日)



A5判、本文88ページ。編集発行人:山田千里。

特集「小説家と俳句」は20ページを割いて充実。以下、書き手と取り上げた作家を挙げる。

川村蘭太:多田裕計、及川木栄子:吉村昭、今泉康弘:田辺聖子、瀬戸正洋:尾崎一雄、茉杏子:川上弘美、井東泉:子規周辺、土江香子:又吉直樹、東儀光江:寺田寅彦、山田千里:瀬戸内寂聴、三堀登美子:藤沢周平、平佐和子:吉屋信子、生駒清治:久保田万太郎。

(西原天気・記)

2019年7月1日月曜日

●月曜日の一句〔乾佐伎〕相子智恵



相子智恵







永遠に開く花火を一人探す  乾 佐伎

句集『未来一滴』(コールサック社 2019.8)所載

〈永遠に開く花火〉など現実には存在しない、ということは分かっている。一瞬の儚さこそが花火だということは。だが〈一人探〉さずにはいられないのだ。〈一人探す〉がきっぱりとしていて、それは詩へ向かう決意のようにも読める。

〈ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火〉をふと思い出す。林火の、ひとりでに静かに溢れ出てきた抒情的な永遠の花火とは違い、掲句は自らそれをつかまえにいく強さがある。林火はそれに出会えていて心が温かくなるけれど、掲句には、今はそれが見つかっていないという泣きたくなるような寂しさがある。

一人は孤独だけれど、ひとりひとりの胸の中にしか〈永遠に開く花火〉はないことを、古今の二人の俳人は痛いほど分かっている。だからどちらの花火の句も切なくて、美しい。