〔暮らしの歳時記〕
熱燗
山田露結
熱燗を飲むとつい「嗚呼」と言ってしまう。
お猪口を啜るたびに「嗚呼」と言うオレの真似をして2歳の次男がジュースを飲んでは「嗚呼」とやる。
これは溜息ではない。
溜息でなければいったい、熱燗を飲むときに出るこの「嗚呼」は何なのか。
酒が体に染みていく感じを人は無意識に「嗚呼」と表現してしまうのだろうか。
熱燗を飲むときには、この「嗚呼」も酒の味わいの要素のひとつとして、かなりの割合を占めているような気もする。
試しに熱燗を飲んだ後、「嗚呼」を我慢してみる。
すると「嗚呼」の代わりに鼻から息が抜ける。
何度か試してみたがやはり同じことである。
鼻から抜ける息を仮に「鼻嗚呼」と名づけてみる。
で、今度はその「鼻嗚呼」も我慢してみる。
ところがどうだろう、苦しくてたまらない。
やはり、何度やってもおなじことである。
その度に息を止めた状態になって、そのまま我慢し続けると窒息してしまいそうだ。
なるほど、熱燗を飲んだときに出る「嗚呼」は酒の旨さを体が表現しているのではなく、人体の仕組みとして飲み物を飲んだ後には必ず洩れてしまうものなのだろう。
さて、人は一生にいったい何度「嗚呼」を洩らすのだろう。
きっと今夜も日本中で数え切れないほどの「嗚呼」が洩れていることだろう。
熱燗のいつ身につきし手酌かな 久保田万太郎
●
2010年12月3日金曜日
2010年11月28日日曜日
〔暮らしの歳時記〕初雪 山田露結
〔暮らしの歳時記〕
初雪
山田露結
名古屋から新幹線に乗り、東京駅で中央線に乗り換え、中野駅に到着。
さっそく、駅前の電話ボックスからYの家に電話をかけた。まだ携帯電話のない時代だ。
ところが、いくら電話をかけてみても何故かYの家にはつながらない。
番号の控えてあるメモを見直してもう一度かけ直してみる。
しかし、何度かけてもダメだった。
「Yさんのオタクですか?」
「いえ、違います。」
「そちらの番号は5×6×ですよね。間違いないですよね。」
「はい、間違いありません。」
「すみませんでした。」
「0」を「6」と書き間違えたかと思ってみたり、下一桁に違う数字を書いてしまったのかと思ってみたりして何件も何件も別の番号にかけてみたが、やはりYの家にはつながらなかった。
何時間くらい電話をかけ続けていただろうか。
せっかく東京まで出てきてこのまま帰るのか。
焦る気持ちを抑え、最後にもう一度だけメモにある番号にかけてみることにした。
「すみません、もう一度だけ確認させてください。そちらの番号は5×6×で間違いないですよね。」
「はい、間違いありません。」
「そうですか、すみませんでした。」
がっかりして受話器を降ろした。
テレフォンカードを吐き出して鳴る電話機のピーピーピーという音がむなしく響いた。
途方に暮れるとはこんな気分なんだろう。
あきらめて帰るか、それともどこかで一泊してYの電話番号を調べる方法を考えるか。
しかし、オレとYとの共通の友達はたぶん、今はもう東京にはいない。
いたとしても、やはり連絡先がわからない。
外はすでに暗くなりかけていた。
おまけに雪でも降り出しそうなどす黒い雲が空全体をおおっていた。
寒い。
オレは電話ボックスから出ようと回れ右をして、ガラスの扉を押し開けた。
すると、見覚えのある顔が電話ボックスの前を通り過ぎようとしていた。
「あれ?」
「おう!」
お互い、すぐに気が付いた。
Yだった。
「何だよー、連絡がないからもう来ないのかと思ったよー。おかしいなあと思ってさぁ、駅まで見に来たんだよ。」
Yはそう言いながら、ニコニコ笑ってオレの肩を抱き寄せた。
Yの煙草臭いダウンジャケットに抱き寄せられるとオレの目の奥から一気に熱いものが込み上げてきた。
「何だお前、泣いてるのか。しょーがねえなあ。」
Yはまだニコニコしている。
電話ボックスから何度も何度も電話をしていたことを話しながらYに番号の書いてあるメモを見せた。
どうやら、局番の最初の数字を書き間違えてしまっていたようだった。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。あいかわらずバカだなあ。さ、飲みに行こうぜ、飲みに。」
オレたちは駅近くの居酒屋へ入るとすぐに熱燗を頼んだ。
その冬一番の冷え込みだという東京の夜空にはチラチラと初雪が舞いはじめていた。
うしろより初雪降れり夜の町 前田普羅
●
初雪
山田露結
名古屋から新幹線に乗り、東京駅で中央線に乗り換え、中野駅に到着。
さっそく、駅前の電話ボックスからYの家に電話をかけた。まだ携帯電話のない時代だ。
ところが、いくら電話をかけてみても何故かYの家にはつながらない。
番号の控えてあるメモを見直してもう一度かけ直してみる。
しかし、何度かけてもダメだった。
「Yさんのオタクですか?」
「いえ、違います。」
「そちらの番号は5×6×ですよね。間違いないですよね。」
「はい、間違いありません。」
「すみませんでした。」
「0」を「6」と書き間違えたかと思ってみたり、下一桁に違う数字を書いてしまったのかと思ってみたりして何件も何件も別の番号にかけてみたが、やはりYの家にはつながらなかった。
何時間くらい電話をかけ続けていただろうか。
せっかく東京まで出てきてこのまま帰るのか。
焦る気持ちを抑え、最後にもう一度だけメモにある番号にかけてみることにした。
「すみません、もう一度だけ確認させてください。そちらの番号は5×6×で間違いないですよね。」
「はい、間違いありません。」
「そうですか、すみませんでした。」
がっかりして受話器を降ろした。
テレフォンカードを吐き出して鳴る電話機のピーピーピーという音がむなしく響いた。
途方に暮れるとはこんな気分なんだろう。
あきらめて帰るか、それともどこかで一泊してYの電話番号を調べる方法を考えるか。
しかし、オレとYとの共通の友達はたぶん、今はもう東京にはいない。
いたとしても、やはり連絡先がわからない。
外はすでに暗くなりかけていた。
おまけに雪でも降り出しそうなどす黒い雲が空全体をおおっていた。
寒い。
オレは電話ボックスから出ようと回れ右をして、ガラスの扉を押し開けた。
すると、見覚えのある顔が電話ボックスの前を通り過ぎようとしていた。
「あれ?」
「おう!」
お互い、すぐに気が付いた。
Yだった。
「何だよー、連絡がないからもう来ないのかと思ったよー。おかしいなあと思ってさぁ、駅まで見に来たんだよ。」
Yはそう言いながら、ニコニコ笑ってオレの肩を抱き寄せた。
Yの煙草臭いダウンジャケットに抱き寄せられるとオレの目の奥から一気に熱いものが込み上げてきた。
「何だお前、泣いてるのか。しょーがねえなあ。」
Yはまだニコニコしている。
電話ボックスから何度も何度も電話をしていたことを話しながらYに番号の書いてあるメモを見せた。
どうやら、局番の最初の数字を書き間違えてしまっていたようだった。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。あいかわらずバカだなあ。さ、飲みに行こうぜ、飲みに。」
オレたちは駅近くの居酒屋へ入るとすぐに熱燗を頼んだ。
その冬一番の冷え込みだという東京の夜空にはチラチラと初雪が舞いはじめていた。
うしろより初雪降れり夜の町 前田普羅
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2010年11月18日木曜日
〔暮らしの歳時記〕初しぐれ 山田露結
〔暮らしの歳時記〕
初しぐれ
山田露結
「ゴムしてるのにイク前に抜くの?」
ユカリが少し不思議そうな顔で言った。
「え?だって、万が一ってこともあるだろ。」
オレがそう答えるとユカリは
「ふーん、優しいんだ。」
そう言って、ティッシュペーパーを三枚ほど抜いてオレに渡した。
「何だよそれ。どういう意味?」
オレは苦笑いしながら言った。
「だって、私のこと人間扱いしてくれてるんだって思って。」
「だから、何だよそれ。」
ユカリは何も言わずに俺の腕にそっと抱きついてきた。
「どうしたの?」
「ううん、うれしいの。」
そのとき、ユカリは少し涙ぐんでいるようにも思えた。
外は雨らしく、かすかな雨音を窓越しに聞いていた。
初しぐれ今日菴のぬるゝほど 高井几董
●
初しぐれ
山田露結
「ゴムしてるのにイク前に抜くの?」
ユカリが少し不思議そうな顔で言った。
「え?だって、万が一ってこともあるだろ。」
オレがそう答えるとユカリは
「ふーん、優しいんだ。」
そう言って、ティッシュペーパーを三枚ほど抜いてオレに渡した。
「何だよそれ。どういう意味?」
オレは苦笑いしながら言った。
「だって、私のこと人間扱いしてくれてるんだって思って。」
「だから、何だよそれ。」
ユカリは何も言わずに俺の腕にそっと抱きついてきた。
「どうしたの?」
「ううん、うれしいの。」
そのとき、ユカリは少し涙ぐんでいるようにも思えた。
外は雨らしく、かすかな雨音を窓越しに聞いていた。
初しぐれ今日菴のぬるゝほど 高井几董
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2009年10月31日土曜日
〔暮らしの歳時記〕石蕗の花 山田露結
〔暮らしの歳時記〕
石蕗の花
山田露結
最近は何もイイ事がない。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。
「飲みに行く?」
オレはコンちゃんを誘って町のはずれにある『マデ』という行き付けの居酒屋へ向かった。音楽好きのマスターがやってるその店にはいつもフォークギターが置いてあって、時々常連客が弾き語りをすることがある。その日、店は忘年会のあと流れてきた連中なんかでけっこう賑わっていた。オレが生ビールをジョッキで立て続けに3杯飲むと、マスターが「今日は調子いいねえ。ちょっと何か歌ってよ。」と言うので、待ってましたとばかりにギターを弾いて歌いはじめた。
オレは調子に乗って2、3曲続けて歌った。オレのレパートリーはフォーク・ソングやら演歌やら滅茶苦茶だがこの店に来る客はだいたいオレと似たような世代だったので大いにウケた。どういうわけかオレが歌う度、喋る度に拍手喝采が起こり、店中を巻き込んでの大盛り上がりになった。「君、面白いねぇ。」と言っておひねりをくれる客まで現れた。こんな経験は初めてである。オレはまるでスターにでもなったかのような気になって上機嫌で歌いまくった。歌いながらビールのジョッキをいったい何杯空けただろうか。その間、コンちゃんは騒いでいるオレを尻目にカウンターの隅に座ってずっと一人で黙って飲んでいた。
目が覚めると自宅の玄関の前だった。何時まで店にいたのか、どうやって帰ってきたのかはまったく覚えがない。なぜか家の鍵を手に握り締めたまま、中へは入らずに靴を枕に寝ていたようである。こんな季節によく表で寝ていられたと思うが、不思議と体は温かかった。
起き上がって上着のポケットから携帯電話を取り出して開いて見ると、コンちゃんからの着信履歴が何回か残っていた。それからもう一人、誰だかわからない電話番号からも着信履歴が何回か残っていた。
「誰だろう。」
オレはその誰だかわからない電話番号へ掛け直してみた。
「あ、もしもし。スミマセン。あの、電話、もらいました?」
「・・・・・」
「あの、もしもし?」
確かに誰か電話に出ているのだが、どういうわけか相手は何もしゃべらない。
しばらくすると女の声で一言、
「あんた、サイテーだよね。」
そう言って電話はそのままプツっと切れてしまった。オレは急に不安になってコンちゃんに電話してみた。
「もしもし、コンちゃん?あのさー、ゆうべ何かあった?」
「え?何かあったって、覚えてないの?けっこうめちゃめちゃだったよ。店のトイレに客の女を引っ張り込むしさあ。『マデ』のマスターもかなり怒ってたよ。」
まさか、と思った。まったく何も覚えてない。コンちゃんはそれ以上詳しくは話さなかった。オレも聞きたいと思わなかった。聞くのが怖かった。オレはふと『マデ』の店内にマスターの字で書いてある張り紙を思い出していた。
「飲み潰れるマデ。夜が明けるマデ。」
店で盛り上がったときにいつもマスターが言う文句である。しかし、いくら飲み潰れるまでと言ったって限度がある。昨夜はちょっとやり過ぎたみいたいだ。
「何やってんだろうな、オレ。」
急に悲しいような、切ないような、何とも言えない気持ちで胸が一杯になった。表を見ると家の前をサラリーマンや高校生が足早に通り過ぎて行く。もう出勤時間なのだ。ふと向かいの家の庭にかたまって咲いている石蕗の花が目に飛び込んできた。朝の日差しに照らされたその無垢な黄色がやたらにまぶしく、何かオレを責めているようにも思えた。
数日後、再びコンちゃんに会った。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。今日は酒を飲まずに寝よう。
さびしさの眼の行く方や石蕗の花 蓼太
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石蕗の花
山田露結
最近は何もイイ事がない。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。
「飲みに行く?」
オレはコンちゃんを誘って町のはずれにある『マデ』という行き付けの居酒屋へ向かった。音楽好きのマスターがやってるその店にはいつもフォークギターが置いてあって、時々常連客が弾き語りをすることがある。その日、店は忘年会のあと流れてきた連中なんかでけっこう賑わっていた。オレが生ビールをジョッキで立て続けに3杯飲むと、マスターが「今日は調子いいねえ。ちょっと何か歌ってよ。」と言うので、待ってましたとばかりにギターを弾いて歌いはじめた。
オレは調子に乗って2、3曲続けて歌った。オレのレパートリーはフォーク・ソングやら演歌やら滅茶苦茶だがこの店に来る客はだいたいオレと似たような世代だったので大いにウケた。どういうわけかオレが歌う度、喋る度に拍手喝采が起こり、店中を巻き込んでの大盛り上がりになった。「君、面白いねぇ。」と言っておひねりをくれる客まで現れた。こんな経験は初めてである。オレはまるでスターにでもなったかのような気になって上機嫌で歌いまくった。歌いながらビールのジョッキをいったい何杯空けただろうか。その間、コンちゃんは騒いでいるオレを尻目にカウンターの隅に座ってずっと一人で黙って飲んでいた。
目が覚めると自宅の玄関の前だった。何時まで店にいたのか、どうやって帰ってきたのかはまったく覚えがない。なぜか家の鍵を手に握り締めたまま、中へは入らずに靴を枕に寝ていたようである。こんな季節によく表で寝ていられたと思うが、不思議と体は温かかった。
起き上がって上着のポケットから携帯電話を取り出して開いて見ると、コンちゃんからの着信履歴が何回か残っていた。それからもう一人、誰だかわからない電話番号からも着信履歴が何回か残っていた。
「誰だろう。」
オレはその誰だかわからない電話番号へ掛け直してみた。
「あ、もしもし。スミマセン。あの、電話、もらいました?」
「・・・・・」
「あの、もしもし?」
確かに誰か電話に出ているのだが、どういうわけか相手は何もしゃべらない。
しばらくすると女の声で一言、
「あんた、サイテーだよね。」
そう言って電話はそのままプツっと切れてしまった。オレは急に不安になってコンちゃんに電話してみた。
「もしもし、コンちゃん?あのさー、ゆうべ何かあった?」
「え?何かあったって、覚えてないの?けっこうめちゃめちゃだったよ。店のトイレに客の女を引っ張り込むしさあ。『マデ』のマスターもかなり怒ってたよ。」
まさか、と思った。まったく何も覚えてない。コンちゃんはそれ以上詳しくは話さなかった。オレも聞きたいと思わなかった。聞くのが怖かった。オレはふと『マデ』の店内にマスターの字で書いてある張り紙を思い出していた。
「飲み潰れるマデ。夜が明けるマデ。」
店で盛り上がったときにいつもマスターが言う文句である。しかし、いくら飲み潰れるまでと言ったって限度がある。昨夜はちょっとやり過ぎたみいたいだ。
「何やってんだろうな、オレ。」
急に悲しいような、切ないような、何とも言えない気持ちで胸が一杯になった。表を見ると家の前をサラリーマンや高校生が足早に通り過ぎて行く。もう出勤時間なのだ。ふと向かいの家の庭にかたまって咲いている石蕗の花が目に飛び込んできた。朝の日差しに照らされたその無垢な黄色がやたらにまぶしく、何かオレを責めているようにも思えた。
数日後、再びコンちゃんに会った。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。今日は酒を飲まずに寝よう。
さびしさの眼の行く方や石蕗の花 蓼太
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2009年10月19日月曜日
〔暮らしの歳時記〕きのこ さいばら天気
〔暮らしの歳時記〕
きのこ
さいばら天気
去年の12月に死んだ山本勝之が、あるとき、東京近郊の山の中で、きのこを買った。
吟行の途中、掘っ建て小屋があって、ヒッピーの生き残り、というか、「ずっとヒッピーやってます」てな感じだから、年の頃なら還暦ほどのオッサンが数人、昼間から暇そうに軒下に坐り、烏骨鶏の卵やら山草を棚に並べて売っていた。山本勝之が目を付けたのは、そうした商品ではなくて、そのへんに捨て置かれたきのこだった。
「それ、ダメだよ」とオッサン。
けれども、未練が残ったらしい。山本勝之は「どうしても」と頼み込み、手に入れた。ヒッピーが摘んできたのだから「魔法のきのこ」だと踏んだのだろう。たいせつに持って帰った。
後日、「あれ、どうだった?」と訊いてみると、激しい腹痛に襲われ、トイレに駆け込むと、真っ黒な便が出たという。
ふつうに、毒きのこでしょ? それ。
「エラい目に遭うたわ」
山本勝之は笑いながら答えたが、その笑顔は、苦痛に歪んでいるようにも見えた。その夜がよみがえったのか、笑うとき、苦しいとき、どちらも同じような顔になるのか、そのへんは不明。
ああ、しかし、勇敢にも喰ったのだ。彼は。素性の知れぬきのこを。
どこまでむちゃくちゃなんだ? と大いに感心したものだ。
これはいい茸だしかも二つある 鴇田智哉
三つほど悪い茸が出てゐたる 〃
きのこ
さいばら天気
去年の12月に死んだ山本勝之が、あるとき、東京近郊の山の中で、きのこを買った。
吟行の途中、掘っ建て小屋があって、ヒッピーの生き残り、というか、「ずっとヒッピーやってます」てな感じだから、年の頃なら還暦ほどのオッサンが数人、昼間から暇そうに軒下に坐り、烏骨鶏の卵やら山草を棚に並べて売っていた。山本勝之が目を付けたのは、そうした商品ではなくて、そのへんに捨て置かれたきのこだった。
「それ、ダメだよ」とオッサン。
けれども、未練が残ったらしい。山本勝之は「どうしても」と頼み込み、手に入れた。ヒッピーが摘んできたのだから「魔法のきのこ」だと踏んだのだろう。たいせつに持って帰った。
後日、「あれ、どうだった?」と訊いてみると、激しい腹痛に襲われ、トイレに駆け込むと、真っ黒な便が出たという。
ふつうに、毒きのこでしょ? それ。
「エラい目に遭うたわ」
山本勝之は笑いながら答えたが、その笑顔は、苦痛に歪んでいるようにも見えた。その夜がよみがえったのか、笑うとき、苦しいとき、どちらも同じような顔になるのか、そのへんは不明。
ああ、しかし、勇敢にも喰ったのだ。彼は。素性の知れぬきのこを。
どこまでむちゃくちゃなんだ? と大いに感心したものだ。
これはいい茸だしかも二つある 鴇田智哉
三つほど悪い茸が出てゐたる 〃
2009年9月13日日曜日
〔暮らしの歳時記〕秋の風 山田露結
〔暮らしの歳時記〕
秋の風
山田露結
5階建てのその雑居ビルは1階から5階までが全て風俗店になっていて、各階へはエレベーターを使って行くのだが、2階にある「W」というファッション・マッサージの店へは人目に付きにくい細い路地から裏階段を上がったところが店の入口と繋がっていて、そこからも入ることが出来た。
オレはその裏階段を使ってビルの中に入った。店の前まで来ると怪しいブルーのライトに照らされた看板にどういうわけか「ファッション・マッサー」と無意味に略して書いてあるのが笑えた。
「いらっしゃいませ。ご指名、ご予約はございますか。」
扉が開くと黒のスーツ姿に髪をオールバックに撫でつけ、眉を細く整えた小柄な男が立っていた。
「予約はないです。」
オレは答えながら男の顔を見て、おや?と思った。
「シンちゃん?だよね?」
男ははじめキョトンとしていた。
「ああ、やっぱりシンちゃん。オレだよ、オレ。」
ずいぶんと雰囲気が変わってしまっていたが男は間違いなく幼なじみのシンタロウだった。
「ああ、マー君か。」
向こうもすぐにオレだということがわかったようだった。
シンタロウと会うのは中学を卒業して以来だからほぼ20年ぶりだ。
「ここで働いてるの?」
「う、うん、まあ。」
シンタロウは少しばつが悪そうに笑った。
そういえば彼が高校を中退したあと職を転々とし、やがて風俗店で働き出したこと、一時は自分で店を持っていた事もあったが間もなく潰れてしまい、結構な額の借金を抱えているらしいということを他の同級生から聞いたことがある。しかしまあ、こんなところで会うとは。
「こちら、すぐに準備できる女の子です。」
待合室のソファーに座るとシンタロウが女の子の写真を数枚持って来た。
すると、そっと顔を近づけてきて囁くように教えてくれた。
「この子がいいよ。」
オレはシンタロウのすすめてくれた「カナ」という女の子を指名した。
「はい、カナちゃん入りまーす。」
部屋へ案内されると長身で目のパッチリした可愛らしい女の子が出てきた。
「はじめまして。カナでーす。」
女の子は八重歯を見せてにっこり笑うとオレを部屋へ招き入れた。どことなく、近頃ワイドショーで入籍を報じられていたナントカというタレントに似ていた。今日はアタリだ、と思った。
50分コースを終え、部屋を出てくると再び店の入口にシンタロウが立っていた。
「ありがとうございました。女の子いかがでしたか。」
シンタロウは従業員のマニュアルらしい決まり文句を言うとまたばつが悪そうに笑った。
「よかったよー、ありがとう。ねえ、シンちゃん。今度飲みに行かない?オレのケータイの番号教えとくよ。」
女の子に満足し、すっかり上機嫌になったオレはそう言いながら携帯電話を取り出し、シンタロウの肩に手をやって親し気にこちらへ引き寄せようとした。すると、突然シンタロウの顔付きが変わった。
「ふざけるなっ。」
シンタロウはオレの手を振り払うと顔を真っ赤にして睨みつけてきた。
「ちょっと来い。」
オレは胸ぐらを掴まれ表へ引っ張り出された。店を出て階段を下りたところの薄暗い路地のカドまで連れて行かれると、シンタロウはいきなりオレに殴りかかってきた。あまりに突然のことにオレはわけがわからず、ただされるがままにボコボコにやられてしまった。
「調子に乗るなコノヤロー!二度とここに来るんじゃねえぞ。わかったか。」
シンタロウは倒れているオレの腹にとどめの蹴りを入れると、スーツの衿を整え、すたすたと階段を上がって店の中に入って行ってしまった。
オレは何が起こったのか訳が分からずしばらくボーっとしていた。
立ち上がり、服についた砂を払いながら頭の中を整理してよく考えてみたが、どうしてシンタロウが急に怒り出したのか、いくら考えてもさっぱり分からなかった。
「何もこんなに殴らなくたっていいねえじゃねえか。くそっ。」
殴られたばかりの頬がジンジンと熱かった。
「明日、顔が腫れるかもなあ。」
オレは頬を手でさすりながらゆっくりと歩き出した。9月に入ったばかりだが、夜はもうすっかり秋の風だった。
≫秋風:Rocket Garden 露結の庭
●
秋の風
山田露結
5階建てのその雑居ビルは1階から5階までが全て風俗店になっていて、各階へはエレベーターを使って行くのだが、2階にある「W」というファッション・マッサージの店へは人目に付きにくい細い路地から裏階段を上がったところが店の入口と繋がっていて、そこからも入ることが出来た。
オレはその裏階段を使ってビルの中に入った。店の前まで来ると怪しいブルーのライトに照らされた看板にどういうわけか「ファッション・マッサー」と無意味に略して書いてあるのが笑えた。
「いらっしゃいませ。ご指名、ご予約はございますか。」
扉が開くと黒のスーツ姿に髪をオールバックに撫でつけ、眉を細く整えた小柄な男が立っていた。
「予約はないです。」
オレは答えながら男の顔を見て、おや?と思った。
「シンちゃん?だよね?」
男ははじめキョトンとしていた。
「ああ、やっぱりシンちゃん。オレだよ、オレ。」
ずいぶんと雰囲気が変わってしまっていたが男は間違いなく幼なじみのシンタロウだった。
「ああ、マー君か。」
向こうもすぐにオレだということがわかったようだった。
シンタロウと会うのは中学を卒業して以来だからほぼ20年ぶりだ。
「ここで働いてるの?」
「う、うん、まあ。」
シンタロウは少しばつが悪そうに笑った。
そういえば彼が高校を中退したあと職を転々とし、やがて風俗店で働き出したこと、一時は自分で店を持っていた事もあったが間もなく潰れてしまい、結構な額の借金を抱えているらしいということを他の同級生から聞いたことがある。しかしまあ、こんなところで会うとは。
「こちら、すぐに準備できる女の子です。」
待合室のソファーに座るとシンタロウが女の子の写真を数枚持って来た。
すると、そっと顔を近づけてきて囁くように教えてくれた。
「この子がいいよ。」
オレはシンタロウのすすめてくれた「カナ」という女の子を指名した。
「はい、カナちゃん入りまーす。」
部屋へ案内されると長身で目のパッチリした可愛らしい女の子が出てきた。
「はじめまして。カナでーす。」
女の子は八重歯を見せてにっこり笑うとオレを部屋へ招き入れた。どことなく、近頃ワイドショーで入籍を報じられていたナントカというタレントに似ていた。今日はアタリだ、と思った。
50分コースを終え、部屋を出てくると再び店の入口にシンタロウが立っていた。
「ありがとうございました。女の子いかがでしたか。」
シンタロウは従業員のマニュアルらしい決まり文句を言うとまたばつが悪そうに笑った。
「よかったよー、ありがとう。ねえ、シンちゃん。今度飲みに行かない?オレのケータイの番号教えとくよ。」
女の子に満足し、すっかり上機嫌になったオレはそう言いながら携帯電話を取り出し、シンタロウの肩に手をやって親し気にこちらへ引き寄せようとした。すると、突然シンタロウの顔付きが変わった。
「ふざけるなっ。」
シンタロウはオレの手を振り払うと顔を真っ赤にして睨みつけてきた。
「ちょっと来い。」
オレは胸ぐらを掴まれ表へ引っ張り出された。店を出て階段を下りたところの薄暗い路地のカドまで連れて行かれると、シンタロウはいきなりオレに殴りかかってきた。あまりに突然のことにオレはわけがわからず、ただされるがままにボコボコにやられてしまった。
「調子に乗るなコノヤロー!二度とここに来るんじゃねえぞ。わかったか。」
シンタロウは倒れているオレの腹にとどめの蹴りを入れると、スーツの衿を整え、すたすたと階段を上がって店の中に入って行ってしまった。
オレは何が起こったのか訳が分からずしばらくボーっとしていた。
立ち上がり、服についた砂を払いながら頭の中を整理してよく考えてみたが、どうしてシンタロウが急に怒り出したのか、いくら考えてもさっぱり分からなかった。
「何もこんなに殴らなくたっていいねえじゃねえか。くそっ。」
殴られたばかりの頬がジンジンと熱かった。
「明日、顔が腫れるかもなあ。」
オレは頬を手でさすりながらゆっくりと歩き出した。9月に入ったばかりだが、夜はもうすっかり秋の風だった。
≫秋風:Rocket Garden 露結の庭
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2008年7月24日木曜日
暮らしの歳時記「鯰」
暮らしの歳時記 「鯰」 ● 山本勝之
ヴェトナムの乳母・ヤエちゃんが、ナマズの干物を送ってくる。
産まれたばかりの僕に、乳首を含ませてくれた大切な人だ。ダンナさんは、いまだにそのことを根に持っていて、会うたびに、「アンタ、ワタシより先に乳首吸ったね!」と文句を言う。 もう80歳なのに。
熱帯の音楽が聴きたくなって、サリフ・ケイタ、フェラ・クティ等をでたらめに、次々とかける。ナマズを焼いて、缶ビールを開ける。ウマイ!
鯰【なまず/なまづ】晩夏
ナマズ科に属する淡水魚である。体長は50センチぐらいにまで成 長する。灰黒色で頭部と口が特に大きく、4本の口ヒゲを持つ。体の表面は粘液でおおわれているので、ぬらぬらしていて素手ではつかまえにくい。従って、語 源には「ナメラカ」(滑らか)あるいは「ハタウオ」(滑肌魚)などの説もある。5、6月頃、水草に卵を産みつけて繁殖するので夏の季に入れる。琵琶湖特産 のビワコオオナマズはよく知られている。食用にするが、「味はやや佳なりとするも、ただ膾(なます)および蒲鉾(かまぼこ)のみ、その余は食ふべからず」 (『本朝食鑑』)ともある。〔広瀬直人〕 講談社『日本大歳時記』より
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ヴェトナムの乳母・ヤエちゃんが、ナマズの干物を送ってくる。
産まれたばかりの僕に、乳首を含ませてくれた大切な人だ。ダンナさんは、いまだにそのことを根に持っていて、会うたびに、「アンタ、ワタシより先に乳首吸ったね!」と文句を言う。 もう80歳なのに。
熱帯の音楽が聴きたくなって、サリフ・ケイタ、フェラ・クティ等をでたらめに、次々とかける。ナマズを焼いて、缶ビールを開ける。ウマイ!
鯰【なまず/なまづ】晩夏
ナマズ科に属する淡水魚である。体長は50センチぐらいにまで成 長する。灰黒色で頭部と口が特に大きく、4本の口ヒゲを持つ。体の表面は粘液でおおわれているので、ぬらぬらしていて素手ではつかまえにくい。従って、語 源には「ナメラカ」(滑らか)あるいは「ハタウオ」(滑肌魚)などの説もある。5、6月頃、水草に卵を産みつけて繁殖するので夏の季に入れる。琵琶湖特産 のビワコオオナマズはよく知られている。食用にするが、「味はやや佳なりとするも、ただ膾(なます)および蒲鉾(かまぼこ)のみ、その余は食ふべからず」 (『本朝食鑑』)ともある。〔広瀬直人〕 講談社『日本大歳時記』より
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