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2019年1月24日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉
墨子は芹が焼かれて料理されるのをみていて悲しむのだろうか、あるいは食欲が湧いてくるのだろうか。

「墨子」の出てくる意味は、墨子が白い練絹(=練り上げたばかりの白い絹糸)が彩色される様を見て悲しんだという故事をさす。練絹は黄にも黒にもどんな色にも染められるが、一旦染まってしまえばずっとその色になってしまうというのが理由だそうだ。(ちなみに、蕪村の句にも「恋さまざま願の糸も白きより」があり、墨子の故事を踏まえている。)

「芹焼」は、肉の匂いを消すために芹の葉などを一緒に加えて醤油で味付けする当時の高級料理。焼かれた芹の色が変わって行くことを練絹とひっかけた。芭蕉この時37歳。

小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で、延宝八年の「枯枝に鴉のとまりたるや秋の暮」を「蕉風開眼の句として有名な作だが、それほどの名作ではあるまい。」と述べる。談林時代の芭蕉の句を挙げ続けたが、どうやらこの辺りが分岐点のようである。「とまりたるや」は元禄二年の『曠野』で「とまりけり」に修正しており、小西はこの比較をもってして「とまりたるや」を「談林臭」とする。掲句の「かなしまむや」も談林臭と言えるだろうか。 

2018年12月6日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








今朝の雪根深を薗の枝折哉  芭蕉

延宝七年作。「枝折」は目印・道標の意。真っ白な雪に葱の葉がちらちらと見える。見立ての句であるが、談林にしては少しこの句は大人しいのではないか、と思った。しかし、『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)によると、「和歌では雪の山路での枝折を詠むことが多く、それを菜園の雪景とした点に俳諧らしさがある。」とある。なるほど。世界が矮小化されていると思うよりも、ここにも枝折があったか、という気持ちを楽しんだ方が良さそうだ。加えて、この「〜を〜の〜哉」というつるつるとした言い回しも、とんとんと調子が良い。動詞がないことが句の立ち姿につながっている。

2018年11月8日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








霜を踏んでちんば引まで送りけり  芭蕉
 
延宝七年作。前書きに「土屋四友子を送りて、かまくらまでまかるとて」とある。霜を踏んで、不自由な足を引いて送ったよ、という。芭蕉と四友とは、「三吟百韻」を成している。(ちなみにそのときの発句は「見渡せば詠(ながむ)れば見れば須磨の秋」である)。霜を踏むところに名残惜しさが募り、「送りけり」まで継続する。動詞が三つもあって普通ならごちゃごちゃしそうだが、意外と読みやすい。この句には謡曲「鉢木」による趣向が凝らされている。「鉢木」のストーリーはwikipediaですぐにでてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E6%9C%A8

主人公の佐野源左衛門尉常世が落ちぶれた様から北条時頼に見定められて鉢の木にちなんだ領地を得るのだが、常世と鉢・領地がリンクしているところが面白く、よくまとまった話である。常世は幕府の危急のために鎌倉に馳せ参じたのだが、芭蕉は四友上洛を見送るためであり、物語のスケールには差がある。その差も愛おしく感じるのは「霜」だからだろうか。

2018年8月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








実や月間口千金の通り町  芭蕉

『江戸通町』より。延宝六年作。「実」は「げに」と読む。謡曲に頻出する語であった。ほんとうにまあ、ぐらいのニュアンスだろう。間口千金は間口一間(約1・8メートル)の地価が千両(1両=10万円とすると1億)にあたる繁盛した商業地のことを言う。通り町は今の江戸の神田から新橋辺りまでの商店街。現在の「中央通り」を指すと言われている。実や月、の打ち出し方はさすがは談林調といった派手さだ。きっとこの月は、通りのセンターに位置するのだろうと思う。江戸の繁栄を詠い上げた。

友人に聞いたところ、銀座高島屋は外国人向けの商法にシフトしているらしく、玄人客は日本橋高島屋に行くらしい。この句も、どちらかというと銀座よりも日本橋で月を見上げるときに思い返したい。

2018年7月26日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








わすれ草菜飯につまん年の暮 芭蕉
 

『江戸蛇之鮓』より。延宝六年作。「わすれ草」は甘草のことで、薬性が人の憂いを払うとされる。句意はなんてことはなくて、わすれ草を摘んで菜飯にして、年の憂さを忘れてしまおうということだ。「わすれ」の連想だけど句を捉えると、あまり面白さも見いだせない。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)には、京の千春・信徳を迎えた三吟歌仙の立句とある。気になるのは、角川ソフィア文庫には「菜飯」に「なめし」と振り仮名が振っているのに対し、桜風社のものには「なはん」とあり、注には、『芭蕉盥』に「ナハン」の振り仮名がある。とある。

ナハン、の方があっけらかんとして、一年を忘れられそうな気がする。

2018年7月5日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








秋きぬと妻こふ星や鹿の革 芭蕉
 

 『江戸通町』より。『芭蕉全句集』(桜風社)では延宝五年作とあるが、『江戸通町』が延宝六年跋なので、延宝六年の作の可能性もある。「秋きぬと」の出だしには、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる/藤原敏行朝臣」を嫌でも思い出す。「妻こふ星」は牽牛星で、妻は織女星のことである。この句は「妻こふ鹿」と思いきや先に「星」を出してきた。秋になると鹿の外側の毛に斑点が現れる。それを星に見立てた。星合のイメージから派生して、芭蕉が本当に出会わせたかったのは七夕と鹿なのである。この、妻→織女→牽牛→星→革→鹿のイメージの転化プロセスと、「や」の切れによる見立ての強調という2つの技の影響は今の俳句にどれほど残されているのだろうか。

2018年5月31日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








五月雨や龍燈揚る番太郎 芭蕉

前回同様、延宝五年(一六七七)の作である。


「番太郎」は江戸で各町に雇われ、木戸の番や町の警備をした人を指す。「龍燈」は海上で深夜に点々と現れる光の現象を、竜神が神仏に捧げる燈火だと見なした語である。

シンプルな句の形であるが、「番太郎」まで読まないと、見立ての句であるとはわからない。海の景かと思わせておいて、街中であったかという種明かしを楽しむことができる。

「龍燈」がそもそも比喩の語彙であり、それをさらに見立てる。機智だけに留まりそうなところを、江戸の町の風情に着地させているところが、句としての力強さを保っている所以かもしれない。本日、東京は雨だが、江戸の五月雨はいかようであっただろうか。

2018年4月26日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








龍宮もけふの塩路や土用干 芭蕉

これも前回同様、延宝五年(一六七七)の作。

「も」によって、目に見えない龍宮を土用干の日に思い描く。読者は、「濡れる」と「乾く」の二つのイメージを行き来することになる。(龍宮は濡れているのだろうか?)「塩路」については、今日の慣用では「潮路」と置き換えて読めばよいと思う。考えてみれば、芭蕉と共通のイメージを持たせてくれる昔話というものはありがたいものである。仮名の配置のバランスもリズムを作り出している。

この句をどこで読みたいか、ということを考えることは楽しい。私たちは何をどうしてもどのみち龍宮には行けないのである。海から龍宮を想像したのが芭蕉なら、我々は畳にべったりとうつ伏せになって句の世界へワープしたい。

2018年4月22日日曜日

〔週末俳句〕ありがたさ 黒岩徳将

〔週末俳句〕
ありがたさ

黒岩徳将


金曜日の夜、仕事から家に帰る途中にあるこの公園で植物を見るのを楽しみにしている。


(右から苺、蜜柑、林檎、檸檬。あなたはどれに座りたい?)

ナシの花はもう散ってしまい、今は桜桃の実がつきはじめた。


(風に吹かれて上手く撮れない)

「のんびりする」「リラックスする」ということがとても苦手な性格なので、公園の植物たちが「今はこんな感じです。見てね!」と言ってくれるのがありがたい。

スウェーデンの音楽プロデューサーの Avicii が亡くなった。私と同じ28歳だった。多くの友人達はこのことを嘆いている。

Avicii は私がスウェーデンに住んでいた2012年には流行り始めていた記憶がある。当時の私は、外国人の友達にクラブに連れて行かれて、どう踊ったり盛り上がったりすればいいかわからなかった(ナンパするなんてとんでもない)。ただ、音楽は好きだったので、あとで有名曲を友達に教えてもらったりしていた。Avicii の曲の歌詞は調べていないが、あとから考えれば「踊りたければ踊ればいいし、そうでないならただ聴いていればいい」という感じのメロディだと思い、ありがたかった。



生活をしていると、自分が何が苦手で、何を言ってほしいのか、ということを考える。腸が弱っているかも。ヨーグルト飲みます。

2018年3月29日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








大比叡やしの字を引て一霞 芭蕉

延宝五年(一六七七)の作。形も内容も、堂々としている。面白いのは、平仮名のなかの「し」の字を選んでいるところだろう。ぼやけた霞がかかっているので、「し」は横向きに倒した形だろう。曲線が山に似合う。

なぜわざわざ「し」なのか。これも元ネタがある。なんと、私たちがテレビアニメで親しんでいた「一休さん」だ。時代から推定すると、出典は「一休ばなし」(一六六八)。この中に、一休が比叡山の僧侶たち字を所望され、比叡山から麓の坂本まで紙を継いで「し」の字を書いたという逸話がある。芭蕉の頭はこれを踏まえている。

それにしても、なぜ「し」なのか。「一休 比叡 しの字」でインターネット検索をすると、松本健氏の「一休が『し』の字を書いたこと――〈本当の話〉という伝承」という論考が見つかった。詳しくは論を読んでいただきたいのだが、平成に入って作られた伝記やアニメーションが、『一休ばなし』の筋と乖離して読者・視聴者に届いていることが面白い。平成が終わろうとしている今、様々な意味が追加されたことを知った頭で読む芭蕉の句から受け取るものは、延宝時代と当然大きく変わってくるだろう。



また、『泊船集』『彼これ集』などに「大比枝やしを引きすてし一かすみ」の作もあるが、『泊船集』には「此句は翁の吟なるよし、ある人にきゝぬ。実否はしらずしるしぬ」とあるので、こちらの句については、「異形句は存疑とすべきか。」と『芭蕉全句集』(桜楓社)にある。PCやエクセルのない時代、自分で作った句の管理は大変だっただろう……。「しの字を引て」の方が句の立ち姿が美しい気がする。

2018年2月22日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







門松やおもへば一夜三十年 芭蕉

わかりやすい句である。門松を見て、年が明けたことを感じる。「一夜のうちに(あっというまに)三十年が過ぎたかのように感じることだ」ぐらいだろうか。

「一夜三十年」は元ネタがある。謡曲の「大江山」に「一夜に三十余丈の楠になつて奇瑞を見せし処に」という一節だ。(「大江山」は、源頼光が酒呑童子という鬼を退治するために山伏に変装して四天王などの家来と大江山に分け入る物語である)「一夜」「三十」を借りて、「年」はオリジナル。この年(延宝5年)、芭蕉は34歳で、この俳諧宗匠として立机した。自分の人生をしみじみと振り返っている。

インターネットでこの句を検索すると、個人のブログで引用しているものがいくつか見られる。社会人には染みるものがあるのだろう。ただ、そのときに感動しているのは「おもへば一夜三十年」であり、季語「門松」の効果に対して言及しているものは見られなかった。(俳句愛好家でないなら当たり前かもしれないが)。この句は、人間の人生に哀愁を持たせる為の装置としては機能しているのだろうが、時空を越えた俳句的価値は、それほどないのかもしれない。私は来年の正月に、門松を見てこの句を思い出すだろうか……。

2018年1月25日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







成にけりなりにけり迄年の暮 芭蕉

『六百番誹諧発句合』(内藤風虎編)によると、判者の北村季吟の奥書に「延宝五年𨳝十二月五日」と記すので、延宝四年歳末以前の作と考えられる。「重詞新しく珍重に候なり」と季吟は判ずる。

軽みの強い俳句である。「(年の暮)になった、なったと言っているあいだに年の暮になった」と、年末の空気感だけで一句に仕立て上げ、他にはなにもない。

比べる意味などないかもしれないが、この「迄」の使い方は現代の句会ではなかなかお目にかかれない。

西山宗因にも「年たけてなりにけりなりにけり春に又」がある。

2017年12月21日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







命なりわづかの笠の下涼み 芭蕉

『芭蕉全句集』(桜風社)によると、『竹人本全伝』貞享元年の条に「其十三年前初下りさ夜の中山にて」と端書されているから、前回の「山のすがた蚤が茶臼の覆かな」と同じく、延宝四年の作と推定される。

前書きに「佐夜中山にて」とある。静岡県掛川市に位置する峠のことである。旅吟、いや、江戸から帰郷する際の句である。東京・静岡・三重の距離を考えると、旅程の半分も到達していない。「命なり」は、西行法師がこの地で歌った「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(『新古今和歌集』)をふまえている。「命なりけり」は「命あってのことだ」という意味。

「佐夜」といっても、掲句は「笠の下涼み」なので、昼の景である。「命なり」は自分の命のことを言っており、木陰も何もないまま、笠の下のみの影で自分を癒し、黙々と歩んでいる。前書きと合わせると、自身の身の回りの空間しか描いていないのにも関わらず、芭蕉の目線の奥の風景を楽しむことができる。

お笑い芸人が人文字で漢字を表現することもなく、命の炎は、詠み続けることで旅の間も煌めき続けるのである。

2017年11月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将







山の姿蚤が茶臼の覆ひかな 芭蕉

『蕉翁全伝』所収。

談林の全盛期は延宝時代(1673〜1681)と言われている。これと芭蕉の年表を重ね合わせると、直前の寛文十二年に俳諧発句合『貝おほひ』を上野天満宮に奉納してから、江戸に下っている。延宝3年に初めて「桃青」の号を使う。掲句は延宝4年の句。

茶臼は、茶の葉をひいて抹茶とするのに使う石臼のことである。上部が円柱形で下部が台の形になっているので山に似ている。富士の形はその茶臼に覆いをかぶせた様に見立てたことはたやすく確定できるが、問題は「蚤」である。「蚤が茶臼」とは、「蚤が茶臼を背負うことで、不可能で分不相応の望みを持つ」という意味の諺。当時の俗謡に「蚤が茶臼を背たら負うて、背たら負うて、富士のお山をちょいと越えた」とあるものを踏まえたものでもある。背負っている蚤までを芭蕉は見せたかったのか、それとも諺や謡曲を踏まえているということだけを念頭に置いてほしかったのか。

富士の山蚤が茶臼の覆かな

また、『銭龍賦』(1705、高野百里編)には、このように記されている。内容はそれほど変わらないが、「山の姿」で字余りにするのと「富士の山」でおさめるのとでは富士の迫り方が違ってくるように思われる。