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2018年12月11日火曜日

〔ためしがき〕 坂口安吾の小林秀雄論について、勝手なことを書く。 福田若之

〔ためしがき〕
坂口安吾の小林秀雄論について、勝手なことを書く。

福田若之


文芸批評が陥るある種の宗教性に対する批判としては、坂口安吾の「教祖の文学――小林秀雄論」が名高い。いや、名高いかどうかなんてことはこの際どうだっていい。とにかく、そうした批判としては安吾の「教祖の文学」がある。

この論のなかで、安吾は、「當麻󠄁」と題された小林の文章から「美しい「花󠄁」がある、「花󠄁」の美しさといふ樣なものはない」という一節を取り上げて、次のとおり批判している。
 私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」といふ文章の解釈をだされて癪にさはつたことがあつたが、こんな気のきいたやうな軽口みたいなことを言つてムダな苦労をさせなくつても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言へばいゝぢやないか。かういふ風に明確に表現する態度を尊重すべきであつて日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するやうに心掛けることが大切だ。
 美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つて、これはこれで意味に即してもゐるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思ひこんで取り澄してゐる態度が根柢にある。
ところで、こう批判する当の安吾は、この論をどういう表現で締めくくっていたか。こうだ。
落下する小林は地獄を見たかも知れぬ。然し落下する久米の仙人はたゞ花を見ただけだ。その花はそのまゝ地獄の火かも知れぬ。そして小林の見た地獄は紙に書かれた餅のやうな地獄であつた。彼はもう何をしでかすか分らない人間といふ奴ではなくて教祖なのだから。人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。
しかし、「人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない」とは、これ自体、小林秀雄的な、すなわち、意味に即してはいるが曖昧な、気の利いたような表現ではないか。「人間だけが地獄を見る。しかし、当の人間はそれが地獄だとは思ひもしない」とでも書けば、すくなくともより明確にはなるだろう。

こんなふうに書くと、まるで安吾の揚げ足を取ろうとしているように読まれるかもしれないが、そうではない。むしろ、このあからさまな齟齬こそ、まさしく安吾の論の核心に触れるものだということが言いたいのだ。小林が、「歴史の必然」ということを言い、さらにまた、「無常といふこと」という文章のうちに、あるとき彼自身が川端康成に言ったこととして「生きてゐる人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出來すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた例しがあつたのか。鑑賞にも觀察にも堪へない」と記しているのに対して、安吾は次のとおり応じる。
生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などといふものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。ただ歴史はすでに終つてをり、歴史の中の人間はもはや何事を行ふこともできないだけで、然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫つてゐたのは、彼らが人間であった限り、まちがいはない。
だから、「気の利いたやうな言ひ方は好きでない」という安吾が、あたかも足をすべらしてプラットフォームから落っこちてしまうかのように、当の文章をそうした気の利いたような言い方で締めくくってしまっているからと言って、目くじらを立てるような真似をするのは、まったくもって野暮なことだ。むしろ、安吾の小林批判の核は次の一節に書かれていることだったはずだ。
 人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。
 だから小林はその魂の根本に於て、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である。
歴史を必然と見て崇拝する小林の傾向に、安吾は生と偶然との肯定を通じて否を突きつける。このことに比べれば、表現の曖昧さなどはまったく皮相的なことにすぎない。安吾が「小林秀雄も教祖になつた」と書くとき、その直前に書かれているのは「あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまつたから、人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまふともう剣などは握らなくなり、道のまんなかに荒れ馬がつながれてゐると別の道を廻つて君子危きに近よらず、これが武芸の奥義だといふ、悟道に達して、何々教の教祖の如きものとなる」ということだ。安吾が「私が彼を教祖といふのは思ひつきの言葉ではない」と書くとき、その直前に書かれているのは「生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ」ということだ。人生を軽視し、生きた人間を文学から締め出すとき、ひとはそのことによって小林秀雄のように文学の「教祖」になってしまう――安吾が書いているのは要するにそういうことだ。

安吾は「人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである」と書く。ならば、安吾の「人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない」という表現は、小林秀雄的か。断じて否だ。安吾は、きっと、こう書かないことだってできただろう。けれど、こう書いた。書いてしまった。たぶん、書かずにはいられなかった。「恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分つてゐても、だから恋をするなとは言へないものだ」と安吾は書く。言葉遊びの欲求もまた、抹殺を心掛けたからといって殺しきれるものではない。そのとき、安吾は生きていたのだ。

 ●

これで、「ためしがき」の連載をいったん終わる。理由? そもそも理由もなくはじまったものが終わるのに、ただそうしたくなったという以上の理由が必要だろうか。まあ、いずれにせよ、僕は今のところためしがきということそのものをやめるつもりはない。ただ、それをノートのうえでなされるより内密ないとなみへと還すというだけのことだ。

2018/12/4

2018年12月4日火曜日

〔ためしがき〕 岸本尚毅と語彙についての覚え書き 福田若之

〔ためしがき〕
岸本尚毅と語彙についての覚え書き

福田若之

風味絶佳だが、見た目は少しキモい。
(『岸本尚毅集』、俳人協会、2018年、47頁)
これは《つくづくと見る鮒鮨や秋の風》(岸本尚毅)に付された自註の一節である。 おもしろいのは、「風味絶佳」という言葉から「キモい」という言葉へと下るその落差だ。すとんと落ちる。「キモい」みたいな言葉は、語彙の貧しさを象徴する言葉のように扱われがちだが、ここでは、むしろ、語彙の豊かさのなかで「キモい」という一語が救われている。

岸本尚毅という俳人を考えるうえで、語彙というのは、きわめて重要な観点のひとつとなりうるだろう。たとえば、《しぐるるやをかしき文字のトイザらス》や《WOW WOWと歌あほらしや海は春》、あるいは《テキサスは石油を掘つて長閑なり》といった句は、まさしくこの点からこそ光が当てられるはずのものではないだろうか。そういえば、こんなことも書かれているではないか――「森澄雄の〈妻がゐて夜長を言へりさう思ふ〉の「さう」をいつか真似てみたいと思っていた」(同前、124頁)。これは、《さういへば吉良の茶会の日なりけり》という一句に付された自註の一節である。このように、ひとつの言葉を自らの語彙に加えるために句を書くということがある。その姿勢には、もしかすると、子規や漱石に通じるところがあるのかもしれない。すなわち、そこで試みられているのは、次のような意味での「写生」かもしれないのである。
要するに、子規にとって「写生」において大切なのは、ものよりも言葉、すなわち、言葉の多様性であり、その一層の多様化であった。そのことを理解していたのは、多種多様な言葉をふんだんに使った漱石だけである。
(柄谷行人『定本日本近代文学の起源』、岩波書店、2008年、84頁)

しかし、一方で、尚毅は、柄谷が「一般に、写生文は、平板な言葉による「写生」という方向に受けとられた。それを促進したのが、もともと小説家を目指していた高浜虚子なのである」と図式化してみせるような歴史的な文脈のうえにも身を置いているには違いない(同前、84頁)。ここをどう考えるかが、岸本尚毅と語彙という主題を考えるうえで、ひとつのポイントになるはずだ。
2018/12/1

2018年11月27日火曜日

〔ためしがき〕 あけびの色 福田若之

〔ためしがき〕
あけびの色

福田若之


少年はあけびの色を科学する  橋本七尾子

この句とはじめて出会ったのは、夏石番矢『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、1990年)を介してのことで、そのころ、僕はまだたしかに少年だった。その時期にこの句に出会えたことは、僕にとって、間違いなくしあわせなことだった。

うまく語ることができないのだけれど、それ以来、この句は、句を書く僕のいとなみにとって、ひとつの勇気そのものでありつづけている。いわゆる「口語俳句」の可能性も、俳句によるいわゆる「児童文学」の可能性も、この句が僕に教えてくれたものだ。かつてこの句から受けた震えが、僕の句には、表向きには見えないかたちで、けれどはっきりと、震えのままにありつづけている。

いま、勇気と書いた。それは思うに、この一句が、ある意志についての句でもあるからなのだろう。あけびの色を前にして、科学することは少年の意志にほかならない。僕は、この句に、系統としての科学することのはじまりとは別に、個体としての科学することのはじまりを読みとる。熟れたあけびの実の表皮の色について、僕はまだうまく語りうる言葉を持ち合わせていない。けれど、あけびの色は美しい。幼いころ、むらさきのクレヨンと、ふじいろと、あかむらさきと、それらをぐりぐりと重ねて塗った空を思い出す。あの色が大好きだった。あけびの実を知るより前に、僕はあの色を知っていた、そんな気がする。

極私的な、とりとめもない、一句との出会いの話だ。
2018/11/22

2018年11月20日火曜日

〔ためしがき〕 期待 福田若之

〔ためしがき〕
期待

福田若之

上田信治『リボン』の「あとがき」に次のとおりある。
さいきん、俳句は「待ち合わせ」だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ。

つまり、俳句は、どう見ても、とても短いので。

せっかくなので、すこし遠くで会いたい。
これは、おそらく、阿部完市の「私記・現代俳句」に見られる次の記述を念頭に置いている。
五七五定型には思想はない。内容はない。ただ期待という、待つという――準備性というひとつのエネルギーとしてのみそれはある。共幻覚性という、作者ひとりひとりの中の共通項として煙のごとくにあり、同じようにその香の中で、その香に励起されながら、待ち、望み、準備し、潜勢力として、その存在態を保っている。このように五七五定型は無色であり、直感であり、期待である。共幻覚的直感であり、共幻覚的準備性である。
ところで、この記述は、つづけて完市自身の《あおあおと何月何日あつまるか》という一句を呼び寄せずにはおかない。
  あおあおと何月何日あつまるか    阿部 完市
と、非意味を書く――音を連ね、文字とする作業が終ったとき、この非意味一行は、何かの存在を主張しはじめる、と思う。意味を消して、消しつづけてみて、そこにのこるもの、それは五七五という何か一行、である。意味は、ただ、何月何日にあつまるのか、色あおあおと音のない音を立てて、という単純である。もしこの一句が、一句として成立するとすれば、これは明らかに定型の内包する一念による一句成立以外の何ものでもない。
「何月何日にあつまるのか」。ということは、「待ち合わせ」の約束をしているのだ。「定型の内包する一念」、すなわち、完市が五七五に見出すところの「期待」とは、いつか、ある日付において、「あおあおと」「あつまる」ことだというのである。『リボン』の「あとがき」の言葉は、おそらく、こうした記述を踏まえたものなのだろう。

要するに、『リボン』の「あとがき」は、あの「ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論」の、つづきでもあるということなのだろう。ただし、この「あとがき」は、小論とは違って、ほとんど完市の言葉では書かれていない。完市の文章の底に感じられるどこか劇薬じみた危なっかしさ――僕の感じるところでは、それは「共幻覚性」や「香」といった語において表面に噴出している――は、良くも悪くも、信治の文章にはほとんど感じられない。あえてまったくもって図式的なことを書くなら、「待ち合わせ」という語彙は、「共幻覚的準備性」という語彙から「幻覚的」という部分を抜いたうえでさらにやんわりさせたもののように見える。信治は、完市のいう「幻覚」ということをどう引き受けていく(いる)のか、あるいは、引き受けていかない(いない)のか。
2018/11/14

2018年11月13日火曜日

〔ためしがき〕 モードとしての「連作」 福田若之

〔ためしがき〕
モードとしての「連作」

福田若之

「連作」という語については、おそらく、山口誓子や水原秋櫻子よりも、むしろ前田普羅や島村元の議論に立ち返ったほうが実相をうまくつかむことができる。彼らの議論の根本には、「連作」ということを、作品の形態というよりは、むしろ、句を読むことや作ることのモードとして捉える発想がある。すなわち、連作というものがそれとして固まって立つということではなしに、いくつかの句のまとまりを連作と読むということやそれらを連作するということがあったのだ。

2018/11/12

2018年11月8日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








霜を踏んでちんば引まで送りけり  芭蕉
 
延宝七年作。前書きに「土屋四友子を送りて、かまくらまでまかるとて」とある。霜を踏んで、不自由な足を引いて送ったよ、という。芭蕉と四友とは、「三吟百韻」を成している。(ちなみにそのときの発句は「見渡せば詠(ながむ)れば見れば須磨の秋」である)。霜を踏むところに名残惜しさが募り、「送りけり」まで継続する。動詞が三つもあって普通ならごちゃごちゃしそうだが、意外と読みやすい。この句には謡曲「鉢木」による趣向が凝らされている。「鉢木」のストーリーはwikipediaですぐにでてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E6%9C%A8

主人公の佐野源左衛門尉常世が落ちぶれた様から北条時頼に見定められて鉢の木にちなんだ領地を得るのだが、常世と鉢・領地がリンクしているところが面白く、よくまとまった話である。常世は幕府の危急のために鎌倉に馳せ参じたのだが、芭蕉は四友上洛を見送るためであり、物語のスケールには差がある。その差も愛おしく感じるのは「霜」だからだろうか。

2018年11月6日火曜日

〔ためしがき〕 俳句は誰にとって長く、あるいは短いのか 福田若之

〔ためしがき〕
俳句は誰にとって長く、あるいは短いのか

福田若之

いくつかのことがらを漠然と思い起こしながら、ふと、腑に落ちたことがある。

俳句は、言葉から発想する傾向があるひとにとっては、しばしば長いと感じられるはずだ。なぜなら、すでにある言葉がひとつだけでは、俳句にならないから。俳句は、たとえば季題から発想される場合には、ふつうはかならずその季題よりも長いものとして考えられる。このとき、俳句を書くことは、もとの言葉に対する足し算として経験される。

これに対して、イメージから発想する傾向があるひとにとっては、俳句はしばしばあまりにも短いと感じられるだろう。ひとつのイメージは、根本的に、言葉では言い尽くしようがない。だから、俳句に書き込むことのできるイメージは、作者の見た、ないしは思い描いたイメージよりは必ず少ないものになる。このとき、俳句を書くことは、もとのイメージからの引き算として経験される。

だから、この意味で、たとえば高柳重信にとって俳句は長く、金子兜太にとって俳句は短かったということはないだろうか。もちろん、結論を出すには慎重になる必要があるけれども、考えてみれば、これはなかなかおもしろい問いかもしれない。実際、この観点からすれば、たとえば重信の句は兜太のそれよりもはるかに今井杏太郎のそれに近いと言えるのではないかという気がする。理由はどうあれ、僕にとって、それはたしかに実感としてそのとおりだ。それも、このことは、『山川蟬夫句集』の重信よりも、むしろ『山海集』や『日本海軍』の重信についてよりよく当てはまることのように思われる。

ところで、読み手にとっては? ——それはもちろん、また別の話だ。

2018/10/31

2018年10月30日火曜日

〔ためしがき〕 むささびしい 福田若之

〔ためしがき〕
むささびしい

福田若之

むささびしい――そんな形容詞が、たぶん、あってもよいような気がした。思いつきだ。

2018/10/29

2018年10月23日火曜日

〔ためしがき〕 ゆうれい草、ユウレイソウか? ユウレイグサか? 福田若之

〔ためしがき〕
ゆうれい草、ユウレイソウか? ユウレイグサか?

福田若之

このあいだ、麒麟さんと《又の名のゆうれい草と遊びけり》(後藤夜半)の話をした(「多摩川」3/8)。「ゆうれい草」の読みの話になった。

ユウレイソウか、ユウレイグサか。あとになってから、やっぱり気になったので調べてみた。

すると、ユウレイソウは麒麟さんの言うように銀竜草の別称だが、ユウレイグサは紫陽花の別称だそうだ。音だけでなく、花そのものが違ってしまう。

銀竜草は、その姿かたちから茸の仲間と勘違いされて幽霊茸という別称もあるけれど、実際にはツツジ科に分類される多年草で、腐生植物の一種として知られている。腐生植物というのは、光合成をせず、菌類と共生することで養分を得て生きている植物のこと。葉緑体を持たず、半透明の白い茎がひょろひょろのびているそのうえに茸の笠にみえなくもない花を咲かせるので、きのこと勘違いされたのだろう。花の重みにうなだれたその立ち姿は、たしかに幽霊のようでもある。

銀竜草の花期は6月から7月ごろであるから、紫陽花とおおよそ重なる。夜半がどの時季に句を作ったかを調べても、それだけではユウレイソウかユウレイグサかを断定することはできない。

けれど、この句は、『底紅』のなかでは《腰曲げしゆうれい草のふとかなし》という一句の隣に置かれている。この句の詠みぶりは、紫陽花よりははるかに銀竜草の花のありようを思わせる。

おそらくユウレイソウで間違いないのだろう。そうであってほしいと思う。もしも、これがユウレイグサすなわち紫陽花だったとすると、こちらはこちらで七変化というまた別の名もあって、何やら浮気心のようなことが連想されてしまい、「遊びけり」という言葉が色恋沙汰のほうに寄っていってしまう。要するに、言葉が意味ありげになりすぎる。さらっとした佇まいの句であるから、さらっと読みたい。

2018/10/21

2018年10月16日火曜日

〔ためしがき〕 てんげり 福田若之

〔ためしがき〕
てんげり

福田若之

助動詞の「つ」+「けり」には二通りある。よく知られている「てけり」がひとつ。それとは別に「てんげり」というかたちがある。

俳句では、尾崎紅葉の《いと惜しむ手鞠縁より落ちてんげり》 や本井英の《墓主は切られてんげり法師蝉》といった句があるが、いまのところ、あまり見ないように思う。

まだまだ、開拓する余地があるかもしれない。

2018/10/10

2018年10月9日火曜日

〔ためしがき〕 音韻論の西へ 福田若之

〔ためしがき〕
音韻論の西へ

福田若之


詩における反復の重視がいかに効果的であるとはいえ、音の織物はたんに数量面での工夫に尽きるわけではけっしてない。一回だけ、ただし主要な語や適切な位置に、対照的な背景をもってあらわれる音素が、きわだって重要になることもある。
(ロマン・ヤコブソン「言語学と詩学」、桑野隆訳、ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』、桑野隆、朝妻恵理子編訳、平凡社、2015年、225頁。)

個別の句についての音韻論的な分析はいまや巷にあふれかえっているが(それらはかならずしも文献ではなく、むしろ句会などにおいてなされている)、それらは、しばしば、こうした視点を欠いているように思われることがある。

たとえば、《みづうみのみなとのなつのみじかけれ》の音韻について語る者は、おそらく誰でも「み」の頭韻のことを言う。続けようとすれば、さらにn音やt音に話題を移すことになるだろう。そのとき興味深く思われてくるのは、数のことだけで言えば、印象的なm音よりもn音のほうがずっと多いということだろう。なにしろ、「の」だけでも「み」に肩を並べるのだ。しかし、さらにその先には、一句を断つために表れたかに思えるr音と、それを導入するためのものとも思えるk音の唐突な出現といったことを、やはり念頭に置く必要があるはずだ。そこには、裕明自身の意図がはたらいたというよりも、むしろ、そもそも彼の書く日本語がそのようにできていた、とでもいうような趣がある。

俳句における反復に対して音韻論的な観点から捉えることが充分に浸透している今日となっては、もはや、誰にでも分かる頭韻や脚韻を指摘することはたんなる前提の確認にすぎなくなってしまっている。喩えるなら、それは音韻論の東海岸にすぎない。もっとも厳密な意味での音韻論に徹しようとすれば、おそらく、最終的にはいっさいの統計的な測定を捨てて、また、文字による助けを捨てて、鍛えあげられた耳だけを頼りにするような立場に身を置かざるをえないだろう。だが、俳句についてそのように語ることは、すくなくとも今日、ほとんど不可能なことに思われる。だが、それゆえに、そこには夢があるのかもしれない。

2018/9/25

2018年10月2日火曜日

〔ためしがき〕 洗面台に置かれた「俳句」 福田若之

〔ためしがき〕
洗面台に置かれた「俳句」

福田若之


たとえば、いま、たとえば、もしたまたま俳句に興味をもった中学生がGoogleに頼ったときにどんな情報に出会うことになるのか、と思って、ときたま、ただ「俳句」の一語だけで検索をかけてみたりすることがある(いま仮に中学生と書いたのは、ちょうどそのくらいの年齢のころに初めてのパソコンを与えられた僕自身の体験によることで、それ以上の意味はない)。

Wikipediaの記事をはじめ、現代俳句協会や伝統俳句協会の公式サイトや、お~いお茶新俳句大賞の結果、『プレバト!!』の宣伝記事、角川の『俳句』の公式サイト、青空文庫に収められた高浜虚子「俳句の作りよう」などなどが並ぶ(余談だが、俳人協会の公式サイトは上の二協会に比べるとずいぶん下のほうに出てくる。協会名に「俳句」が入っていないせいだろうか)。そのなかに、今朝、おもしろいものを見つけた。

LUSHというイギリス発のコスメブランドが発売している「俳句」"Ultrabland"というクレンジングの商品紹介ページである。だが、「古代ギリシャで愛用されていたコールドクリームのフォーミュラを再現した、とてもシンプルなクリームタイプのクレンジングです」と紹介されるこのメイク落としは、「アーモンドオイル、ローズウォーター、ミツロウ、ハチミツは、古来より世界中で愛され続けている自然由来の原材料。強い洗浄成分に頼るのではなく、必要な潤いを補いながらお肌をいたわります。メイクや毛穴の汚れをしっかり落とすクレンジングなのに、スキンケアまでできてしまう、一石二鳥のクリームです」というふうに続く説明を読んでみても、なぜ「俳句」と呼ばれることになったのか、まったく見当がつかない。

そこで、今度は「俳句Ultrabland 名前の由来」で検索をしてみる。すると、「ネーミングにもハマってしまう『LUSH』のコスメ」と題されたexcite.ニュースの記事が出てきた。LUSHの商品のネーミングについて、ラッシュジャパンの広報担当者への取材をもとに記したもののようだ。こんなことが書いてある。
広報の関本さんによると、ネーミングは、本国イギリスでつけられている、英語の響きの面白さを活かしてそのままカタカナ表記にしているものと、直訳したもの、またイメージから、日本語にふさわしい表現に意訳したものがあるそうだ。

そう、特に意訳がすごい。
中でも一番面白いのが、「俳句」という名の洗顔料。実は英語では「Ultrabrand(ウルトラブランド)」というのだそうで、なぜかというと、この商品は、ラッシュを10年前に立ち上げたスペシャリストたちが、そこからさらに15年も前に既に開発していたという、いわば代表的商品なのだった。だからこそ“ウルトラ”=“超”なのだ。そこで、日本ではその意味を重視して、昔から長く親しまれ続けている日本文化のひとつからとり、「俳句」と名付けたのだとか。
もちろん、日本において「昔から長く親しまれ続けている」「文化」にもいろいろなものがあるわけで、そのなかでとりわけ「俳句」の名が選ばれたことにどれほどの理由があるかはわからない。いずれにせよ、この国に暮らしている少なからぬ人々が、名前だけであれ「俳句」と呼ばれるものを家庭の洗面台に定期的に補充し、それによってメイクを落としているのだと想像することは、何か不思議な感情をかきたてることではある。LUSHの公式サイトには「メイクおとし『俳句』で健やかなお肌へ――美肌への近道」というページもある。そこでは、このクレンジングの使用法が次のとおり説明されている。
  1. 適量を手に取り、お肌になじませながら、顔の中心から外側に向けてクルクルとマッサージをして行きます。
  2. マッサージが終わったら、しっかり濡らしたコットンで優しく『俳句』をふき取っていきます。ホットタオルを使って、顔全体をスチームで包みながらふき取るのもおすすめです。気持ちまで心地良く温まるのを感じます。
  3. 次は、洗顔となりますが、しっかりメイクしていない日も「メイクおとし&洗顔」のステップはお忘れなく。お肌の大敵である、ほこりや余分な皮脂をその日のうちにしっかり落とすのが美肌作りのカギです。
  4. その後は、化粧水で潤いを与え、お気に入りの保湿クリームでお肌をお手入れしてください。
<時間がある時は> 小鼻を優しくじっくりマッサージして、ディープクレンジング。『俳句』が毛穴につまった黒ずみを徐々に溶かし出していきます。
適量の「俳句」を手に取ったり、それを肌になじませたりすること。しっかり濡らしたコットンで、顔の「俳句」を優しくふき取ること。「俳句」が毛穴につまった黒ずみを徐々に溶かし出していくということ。文芸としての俳句だけが「俳句」の名に値すると疑わないひとびとのほとんどは、おそらく、そんな日常を想像だにすることはない。たしかに、文芸としての俳句にとっては、そんな日常を想像してみることになど、ほとんど何の価値もないかもしれない。それでも、こうした想像は、僕にとって、しばしば大きな喜びを感じさせてくれるものなのだ。

たとえば、学校から帰ってきた子どもの手のひらの、どうやら油性ペンで書いたらしいほんの俳句ほどのメモ書き――いや、もしかするとそれは誰かにとっての「俳句」そのものだったかもしれない――を、ふつうの石鹸では落とすことができずに、母親が普段メイク落としに使っている「俳句」でもって拭い去るといったことが、もしかしたら、あるかもしれない。「俳句」が「俳句」によって心地よく消し去られるということ、「俳句」が「俳句」に溶けだしていくということ――もちろん、こうした想像は、いくつかのゆくりない輝きのほかに、いかなる根拠も持ち合わせてはいない。

それにしても、洗面台に置かれた「俳句」というイメージは、僕にとっては、何よりもまず次の句を思い起こさせるものだった。

初雪を見てから顔を洗ひけり 越智越人

一句は、越人の意図とは無関係に、いまに至るまで繰り返される何事かを指し示しつづけている。この句を知らずにいるひとたちさえもが、思いがけず、その出来事をなぞりうるだろう。そして、今日では、もしかすると、その洗面台に「俳句」が置かれているかもしれないのだ。それは、ほんとうにささやかなことではあるけれども、何かしら運命的なものを感じさせずにはいない偶然ではないだろうか。

2018/9/7

2018年9月25日火曜日

〔ためしがき〕 浮世絵、そのつや消しの美 福田若之

〔ためしがき〕
浮世絵、そのつや消しの美

福田若之


永井荷風が「浮世絵の鑑賞」という文章にこんなことを書いている。
浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹たる行燈の火影を見るの思ひあり。
「その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」。その質感を「暗澹たる行燈の火影」に喩える荷風の言葉には、『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎と通じ合うところがあり、そしてそれゆえに「夜の形式」の田中裕明とも通じ合うところがあろうと言わねばなるまいが、まずはその「光沢なし」という質感の直接な把握の言葉に着目したい。それは、ロラン・バルトの「つや消しmat」という言葉に通じているように思われる。この語は、たとえば、こんなふうに記される。
これらいくつかのアナムネーズは多かれ少なかれつや消しである(いたずらなもの――意味を免除されているものだ)。それらをつや消しにすることに成功すればするほど、それらは想像界から逃れることになる。
これは『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の一節だ。ここでいうアナムネーズとはどのようなものだろうか。まずは、そこに示されたわかりやすい一例を挙げておく。
帰りは路面電車で、日曜日の夜、祖父母のところから。部屋で夕食をとる、炉辺で、スープとトーストを。
バルトの説明はこうだ。
私がアナムネーズと呼ぶ行動――悦楽と努力のまぜこぜ――は、それを大きくみせることもなければそれをうちふるえさせることもなしに、ある思い出の微妙を主体にとりもどさせようとする、つまり、それは俳句そのものなのである。
だから、バルトにとっては俳句もまたつや消しであるだろう。すでに『記号の国』において、バルトは俳句に意味の免除を見出していた。

さて、すでに引用したとおり、バルトは、意味が免除されている状態としてのつや消しを、想像界からの逃走と結び付けていた。ところで、想像界とはどのようなものか。
想像界、イメージの包括的な想定は、動物たちにも存在する(だが象徴界はすこしもない)、というのは彼らがおとりのほうへと真っすぐに向かっていくからだ、性的なおとりであれ敵のおとりであれ、彼らに対して差し出されたおとりへと。
そして、イメージはバルトにとってはある品詞と本質的に結びついている。
彼は人間関係の極みはイメージの不在によってもたらされるものだと考えている――親しいあいだで、一方から他方への、形容詞を廃することだ、自らを形容詞化する関係はイメージの側に、支配の、死の側にある。
したがって、想像界は形容詞とかかわりがある。エクリチュールの想像界は、形容詞とともに再来するものとして語られる。
昼のうちに書いたばかりのものに、彼は夜な夜なおそれを抱く。夜は、信じがたいほどに、エクリチュールの想像界――生産物のイメージ、批判的な(ないしは友好的な)うわさ話――をまるごと連れ戻すのだ――こんなのはいきすぎだ、あんなのはいきすぎだ、それは不充分だ……。夜は、形容詞が再来するのだ、群れをなして。
荷風が浮世絵のつや消しの美に夜の行燈の火を思っているのに対してバルトが夜をつや消しの美の損なわれる時間とみなしているように思われることは、ひとまず置いておこう。バルトが俳句について言う意味の免除、すなわち、つや消しを、荷風をともに読むことを通じて、浮世絵の質感として把握してみること――それは、バルトにとっての俳句と荷風にとっての浮世絵の双方を、同時に肌で感じることを可能にするのでないか。何にせよ、両者の擦りあわせには、何かめくるめくものがあるように感じられる。

やがては、昼と夜の区別自体がもはや意味をなさなくなるだろう。黄昏は、もはや昼の終わりではなく、昼と夜の区別そのものを終わらせるものとして捉えかえされるに違いない。とすれば、もしかすると、この擦りあわせの果てには裕明のいう「夜の形式」もまた今一度捉えかえされることになるかもしれない。とりあえずここまでにしておこう。このことは、別の機会に考えてみる価値がありそうだ。

2018/8/26

2018年9月18日火曜日

〔ためしがき〕 おっしゃることの意味が、むなしい。 福田若之

〔ためしがき〕
おっしゃることの意味が、むなしい。

福田若之


おっしゃることの意味が、むなしい。という七七がふいに浮かぶ。

わかりません、ではなく、むなしい。おっしゃるというのだから本来尊敬するべきはずの他者の言葉について、その意味があからさまにうつろだと指摘する言葉。これは、何がしかの発言に宛てられたぶしつけな批判なのだろうか。けれど、この言葉は、何か特定の個別的な他者の言葉に対して思い浮かんだわけではない。だから、この言葉は、無意識の底のほうから、なにか一般的なことを言わんとして意識のうえに浮かんできたのだろう。

この句に言われているのは、まずもって、他者に対する敬意やそれにともなう他者の言葉に対する敬意と、他者の言葉を無意味なものと感じることとは、決して背反しないということだ。 おっしゃることの意味が、むなしい。思えば、そんなふうに感じたことは、生きてきて、これまでにさえすでに百や二百ではおさまらないのではないか。そして、そうしたむなしさは、必ずしも不愉快なものではなかったのではないか。

あるいは、むなしいのはむしろ自分の言葉のほうではなかったか。誰かの言葉に、おっしゃることの意味がわかりません、と言いかけて、そのように言うことのむなしさを感じたことはなかったか。そんなとき、おっしゃることの意味がわかりません、という言葉を、(そんなふうに相手に伝えること自体が)むなしい、という感情が中断したことがなかったか。

そして、そもそも、意味などというものは、突きつめれば、そのつど、むなしいものにすぎないのではないか。俗に意味といわれているものが、たとえば、切れた言葉の傷口の疼きでしかないのだとしたら。

おっしゃることの意味が、むなしい。この句はおそらく絶望の言葉だけれど、同時に、おそらく希望の言葉でもありうる。

2018/8/22

2018年9月11日火曜日

〔ためしがき〕 たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。 福田若之

〔ためしがき〕
たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。

福田若之


たとえば、これまで仮に僕と呼び、また、書き慣わしてきたそれを、ためしに彼女と呼び、書いたとき、何が起こるのだろう。たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、といったふうに。

彼女は、一方では、これがたんなる文法上の置き換えの試みとして理解されることを望んでいるけれど、他方では、それがたんなる文法上の置き換えの試みでは済まないことを予感してもいる。

彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぶことは、彼女にとって、彼女以外の誰かが彼女のことをそう呼ぶこととはまるで違っている。けれど、彼女自身には、いまのところ、その理由がうまく説明できない。それは、彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぼうと試みるうえで最初に思い浮かんだのが、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということだったことの理由を、うまく説明できないのと同じことだ。

たしかに、彼女は、いまや、彼女自身について、たとえば、彼女はゴーヤを口にしない、とか、彼女は考えごとをするときに両手で顔を覆うことがある、とか、彼女はきのう飛行機で松山から東京に帰ってきた、とか、彼女はその機内で飲み物を勧められ、キウイジュースを頼んだ、とか、じつは彼女は黄色の服を着ていたことがあるし、いまでもそれを何着か持っている、とか、それにもかかわらず、彼女はもう長らくそれらの服を着ていなかったし、それらを持っていることさえ失念していたのだ、とか、書くことができる。けれど、そうしたことのすべては、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということのあとにしか書くことができなかったように思う。それだから、彼女はそこになんらかの必然を感じずにはいられない。なぜ黄色なのか、なぜ服のことなのか。ただし、精神分析的な回答を与えられたとしても、彼女はおそらくそれに満足しないだろう。たぶんこのあと、彼女は両手で顔を覆う。

2018/8/22

2018年9月4日火曜日

〔ためしがき〕 『概念』についての覚え書き 福田若之

〔ためしがき〕
『概念』についての覚え書き

福田若之


さんかくやまの『概念』は、《書きたい》を前へと傾かせる。

ごく大雑把に言えば、メタ的な要素が特徴的な4コマ漫画だ。KADOKAWAから単行本も出ているけれど、ひとまず、ニコニコ静画版(『概念』および『概念Ⅱ』)からいくつかの例を挙げることにする。たとえば、隣り合うふたつの4コマ漫画のうち、左のほうに登場する人物が、枠線に紙コップをあてて右のほうの漫画の人物の声を盗聴する。あるいは、オノマトペがうるさいのでスイッチを押してその漫画自体をミュートにするのだが、そのせいで吹き出しのなかまで真っ白になり、人物のコミュニケーションが成立しなくなる。あるいは、4コマ漫画をきりんと一緒にやることの困難――きりんのほうは胴体しかコマに入らないので、顔を並べることができない――を、 遠近法によって解消しようとする(その結果、「くそ遠いな」ということになる)。

作られてある、ということのおもしろみに、《書きたい》がおのずから前へと傾くのだろうか。そういえば、これはとりわけ単行本にまとめられた作品群により顕著だと感じるのだけれど、『概念』の作品群はしばしば、こうしたい、こうなりたい、という望みからはじまる。たとえば、「気持ち良く/なりたい」、「パウダーに/なりたい」、「こんにゃくに/乗りたい」、「ラスボスに/なりたい!」、「暗殺したくて/たまらない…」、あるいは、「仙人の/主食として/知られる/霞を食べたい」といった具合だ。《書きたい》もまた、こうした言葉に引っ張られて生じるのかもしれない。けれど、『概念』を前にしたときに《書きたい》がおのずから前へと傾くことには、ほかにも理由があるように思う。

『概念』は、ときに、漫画としてはあまりにも言語的なおもしろみに傾くことがある。「今まで/やった事がない事に/一緒に挑戦しようぜ」「やった事がない事/何かある?」、「死んだことない」、「それは/やめとこうぜ」。 あるいは、猫「人間って大変だね…」「服を着ないと/いけないなんて…」、花「動物って大変だね…」「動かないと/いけないなんて…」、石「植物って大変だね…」「光合成しないと/いけないなんて…」、無「みんな大変だね…」「存在しないと/いけないなんて…」。最初の印象としては、これらの4コマにおいて、それが絵であることはほとんどおもしろみに奉仕していないように思える。けれど、その場合にも、絵の細部によって、それならではの何かがもたらされている。たとえば、「死んだことない」の4コマでは、2コマ目と4コマ目の構図がほとんど同じなのだけれど、2コマ目では閉じられていた登場人物のひとりの口元が、4コマ目ではわずかに開かれている――違いは極めて微細なものにすぎないけれど、それゆえにこそぐっと惹かれるものがある。「みんな大変だね…」の4コマでは、黒で粗く塗りつぶされた猫の目が、その塗りつぶしの粗さゆえに目を惹きつける。無論、こうした細部は、それぞれの作品の本筋――あきらかに、4コマ漫画においても本筋というものがある――とはさしあたり関係がない。それらは、ロラン・バルトがエイゼンシュテイン映画のフォトグラムを分析しながら語ったあの第三の意味としての「鈍い意味」を思わせるものだ。

ところで、本筋と違うところにあるこうした魅力は、いかにして生じているのだろうか。言語的なおもしろみにせよ、絵画的なおもしろみにせよ、また、それらとは別の漫画的なおもしろみにせよ、『概念』の個々の4コマがその本筋において花開かせているのは、個別に絞り出されたいくつかの形式的な特質にすぎない。たとえば、『概念』においても、枠線がつねに形式的な特質として強く意識されるわけではない(そもそも、『概念』において、つねにメタ的なおもしろみが狙われているというわけではない)。ひとつの4コマで形式の無限の可能性のすべてを汲みつくそうとすれば、おそらく、そのとき作品は失敗するしかないだろう。けれど一方で、本筋によって掬いあげられている以外の形式的な特質もまた、すくなくともいくらかは、個々の4コマにおいてはっきりと表れざるをえない。たとえば、枠線は、それとして意識されない場合にも、むしろあらためて意識されないようにするために、そのつどしっかりと引かれる(枠線が引かれない場合には、かえって枠線の不在が意識されることになる)。『概念』を読むと、そうした余った特質が、本筋とは違うところで働いているのが感じられる。

したがって、『概念』が思い出させてくれることのひとつは、ジャンルによって与えられている形式の特質の全面をあらかじめ意識化しておくことができないとしても、書くことそれ自体が、そのつど、いわばあとからその余剰を救い出すことの可能性だ。近代的な前衛芸術の理論と実践がしばしば形式に対する徹底した意識と引き換えにひとびとの《書きたい》を萎縮させずにはいないのに対し、『概念』は暗闇を動き回るサーチライトのような身ぶりで形式に対する個別的な気づきを誘発し、その結果として、《書きたい》を気楽にする。もちろん、それは決して『概念』がたやすい作品であるということではない。誰かの荷を軽くすることは、その責任感に訴えることよりもはるかにむずかしい。その実践は稀有でさえある。

2018/8/12

2018年8月28日火曜日

〔ためしがき〕 不純 福田若之

〔ためしがき〕
不純

福田若之


山田耕司『不純』(左右社、2018年)に手をつける。

なるほど、これはたしかに「不純」だ。赤と白。僕としては、3対5で白の勝ち。この遊びが、ひとりでじゃんけんするひとのむなしさを感じさせないのは、やっぱりふたりいるからなのだろう。書き手と読み手と。

2018/8/3

2018年8月21日火曜日

〔ためしがき〕 原形質 福田若之

〔ためしがき〕
原形質

福田若之


夢のなかで、俳句にも構造はあるのか、と問われ、例となる句――そして、仮に俳句に「構造」のあることを肯定するとして、それはどういう意味での「構造」なのか――を考えているうちに、目が覚めてしまう。眠りに落ちてから、まだ四時間ほどしか経っていない。ほとんど、まちがって悪夢を見たに等しい目覚めだ。

起きてみて、俳句にも構造がある、と語るよりも、むしろ、俳句には構造の原型がある、あるいは、いっそ、俳句には構造の原形質がある、とでも語ってみせたほうがそれらしいのではないか、と思い至る。 しかし、俳句には……の原形質がある――これは俳句について語るときのある種の紋切り型にすぎないのかもしれない。

2018/7/31

2018年8月14日火曜日

〔ためしがき〕 興の運転見合わせ 福田若之

〔ためしがき〕
興の運転見合わせ

福田若之


ときどき、ものを読んだり、観たり、聴いたり、味わったり、抱きしめたりしても、もはやまったく満たされないときがある。それらが、おもしろかったり、あたたかかったり、やわらかかったり、きらきらしていたりするのがわからないわけではない。だが、まるですべてが薄膜越しに感じられているにすぎないかのようになる。つまり、それらがいつもどおりおもしろいことはわかるが、そのおもしろみに浸ることができないという状態に陥る。そういうときは、ものを変えても、なにひとつ変わらない。興の運転見合わせは、部分的なものではなく、全面的なものだ。故障は僕自身の身体に起こっている。経験的には、必要なのは眠ることだ。というよりも、それよりほかにしたいことがなくなるのだが。

2017/7/30

2018年8月7日火曜日

〔ためしがき〕 うかつ 福田若之

〔ためしがき〕
うかつ

福田若之


ひとりごとを言うひとは、周りの目を気にし忘れて、うかつなことを言ってしまう。

ふたりで話をするひとは、重たげな沈黙をふりはらおうとして、うかつなことを言ってしまう。

三人かそれよりたくさんで話をするひとは、話題が移る前に言いたいことを言おうとして、うかつなことを言ってしまう。

このなかで、僕が自分のものとして許すことのできるうかつさは、ひとりごとのそれだけだ。対話のうかつさや談話のうかつさ――それらはいずれも、会話を音楽的にしようとすることから来るうかつさ、すなわち、すこし大げさに書くなら、生を美しくやりすごそうとすることから来るうかつさだ――は自分にはどうしても避けがたく、しかしながら同時に、自分のものとしてはどうしても許しがたい。

自分を許せないというところから、ひとつの夢が生じる。すなわち、もはや何ひとつ会話をすることなしに、ただともに生きてあること――ミンナニデクノボートヨバレ。しかし、宮澤賢治の言葉を借りてきたのも、ほんの思いつきにすぎない。あるいは、これもまたうかつなのだろう。気がつくと、書かれる句が思ってもいなかった道に出る。うかつにも無責任に、ふわ、風を依り代にした草の種のように。いつもどおり、ここに文はない。

2017/7/26