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2010年3月17日水曜日

●名前がふたつ 田島健一

【週俳第150号を読む】
名前がふたつ

田島健一


うしろ頭のうつろの中にお賽銭  広瀬ちえみ

この句、すき。うつろな空間把握のなかに、ひゅーんとお賽銭がとんでゆく。なにか感覚をつーんと引っ張られるような感じがある。

ところで、こんなことを書くと怒られるかも知れないけれど、実は、俳句と川柳は同じものなのではないか、と思っている。

同じものを違う名前で呼んでいる、というのはよくあることで。

だから私たちにとって、俳句が俳句であることや、川柳が川柳であることは、じつは「結果」ではなくて「始まり」なのではないか、と。

名前の違うものがふたつあるから、それがそこにあるのは何か理由があるのではないか、と多くの人が俳句と川柳の違いについて説明しようとするけれど、実は、違いがあるから違う名前があるのではなく、違う名前で読んでしまったために、その違いを説明せずにはいられない、ということなのではないかな、と。

ミモフタモナイ、と言われてしまうかも。

でも、大事なことは、俳句とは何か、川柳とは何か、俳句と川柳は何が違うか、と問うことではなく、私たちが川柳のなかに俳句の姿を見ており、俳句のなかに川柳の姿を見ている、という事実にあるのではないだろうか。

俳句とか、川柳とかになるまえの、混沌としたことばの世界があって、そこに「主体」が立ち上がることでその混沌が「俳句」になったり「川柳」になったりする。でも実は「主体」にとって、それが「俳句」であるか「川柳」であるか、ということはあまり問題ではないのかも。

そのことばの混沌が常にかかえている困難な核があって、それを人々は経験的な「俳句」の言語セットで捉えてみたり、「川柳」の言語セットで捉えてみたりしている。

そう考えてみると、いわゆる「いい俳句」と「いい川柳」のパフォーマンスは変わらない。

それが「俳句」と呼ばれていても、「川柳」と呼ばれていても、その作品のなかにはその作品以上のものが含まれていて、それが「俳句」であることや、「川柳」であることを常に脅かしているのではないだろうか。


週刊俳句・第 150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

2010年3月13日土曜日

●3D眼鏡を掛けて読む 上田信治

【週俳第150号を読む】
3D眼鏡を掛けて読む

上田信治


ある俳人に、今回の川柳特集の、感想をかいてもらえないかと頼んだところ、自分は川柳はどうしても面白く思えないのだと、言って断られた(そういう人もいるでしょう)。

川柳になくて俳句にあるものといえば「句中の切れ」と「季語」ということになるので、その人は「切れ」と「季語」のない十七音を、物足りなく感じるのだろうと、勝手にそう思った(違うかもしれない)。

いや「切れ」的構造を持った川柳のあることは知っているので、「季語」や「切れ」を意識した複層的な読みを予定していない十七音、と言い換えよう。

逆から言えば、俳句は最初から「季語」「切れ」などのローカルルールの指示に従いつつ、複層化した十七音「として」読まれる、ということだ。今思いついたのだが、それは、3D眼鏡を掛けて3D映画を観ることに、とてもよく似ている。

  はっきりと思い出せない猿の足  樋口由紀子

俳句的3D感を感じない、徒手空拳のたたずまいを持つ一行詩(穂村弘のいわゆる「棒立ち」か)。

たとえば、この「猿」を、むりやり冬の「季語」であると仮定する。すると、このはっきりとしない猿の足の踏んでいるのは雪で、背後には、風に飛ぶ雪がある。また、例えばこれが〈はっきりと思い出せない目白の足〉であることを想像すると、季語「目白」の足をわざわざ言ったということが前景化して、句中の話者は存在感を弱める。川柳としての元句が、キッチンかどこかに一人でいる、主人公を思わせるのと対照的で、だから、ここはぜひ目白ではなく猿でなければいけない。

つまり「季語」の指示する読みには、語のもつ情報による複層化(この場合は背景をプラス)と、一句の構造の複層化(季語と季語でない部分は、読者にとって見え方が違う)の、二方向があるということになる。

  サフランを摘めば大きな物語  小池正博

歳時記的にはクロッカスは春、サフランは晩秋ですが、それはさておき、吉岡實の「サフラン摘み」の西洋古代的な海辺の光景を漂わせつつ、青い空の下、「サフランを摘めば」(すなわち)「大きな物語」(がそこにある)(を想う)(に包まれているようである)・・・と、この句には、ジャンル分けが、いらなそう。俳句的な切れを手法として取り込んで、複層的です。

  生者死者数の合わないカレー皿  石部明

一読〈潜る鳰浮く鳰数は合ってますか 池田澄子〉を思わせる。俳句ルールを外して(川柳的に)読めば「数は合ってますか」と可愛く疑問形でおさめた「潜る鳰」は、切っ先が甘いようだが、「潜る鳰浮く鳰」のあとに、俳句読者は「切れ」を感じてしまうので、これは実景として、鳰が潜りまた浮く、ポチャッ……ポチャッ……という時間経過の中で生じた、どうでもいい疑問と読める。観念が、現実の時間に、ぽかりと浮かぶさまに、妙があるとでもいいますか(それにしても、池田は、川柳的に単層的な句で勝負することが多く、「鳰」の句も例外ではない)。

「カレー皿」は、「鳰」の句よりもシッポがつかみにくく、複雑かもしれない。「カレー」が夏(の季語)だとしたら「広島」ということかもしれず、そのほうが、川柳的な読みかもしれないが、ちょっと単純になる。

ややこしいのは、「数の合わない」が「生者死者」にかかるのか「カレー皿」にかかるのか、作者が決めてくれていないことで、語法的には「カレー皿」にかかるというのが順当だが、この句は「生者死者」の「数が合わない」と読んだほうが、面白いので困ってしまう。

前述の俳人の川柳に対する不満は、川柳がしばしば単層的であることと、語構成に厳密を欠くように見えることにあるのかもしれないと、思い至りました。(「カレー」の句のように、中七がどっちにでもつく形を俳人は「山本山」と言って嫌います)

厳密を欠くと言っても、それは川柳の読みが、俳句的にルール化されていないというだけのことかもしれず、だとしたら、それはほとんど言いがかりですね。取り消し取り消し。

というか、どうなんだろう。川柳の人から見たら、俳句的3D眼鏡というのは。


週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

2010年3月12日金曜日

●ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2 山口優夢

【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 2/2


山口優夢


「ないないづくし」  樋口由紀子

縄梯子だらりと垂れて泣いている  樋口由紀子

並べられた七句のほとんどは、彼女を取り囲む現実ではなく、彼女がそれに対してどのような意識を向けているか、ということを忠実に写し取ることに努力がはらわれている。「思い出せない」「牛じゃない」「なかったことにする」「気づかぬままに」「違いない」「無関係」そして、それらが全て否定語を伴っていることは、注目に値する。

否定、とは、他の全ての可能性を取り置きにしておくこと、である。だから、彼女の句の世界はひどくあいまいになる。台所に立っているのは牛じゃないんなら、一体なんなんですか?しかし、彼女は「牛じゃない」ということを力を込めて句にする。

ありきたりな言葉で言えば、それらが志向するのはもちろん存在の不確定さ。不安定さ。どんなにはっきり認識しても最後まで残ってしまうあいまいさ。それは、棘のように体の内部に残る不安。

しかし、そんな「ないないづくし」の中で掲出句だけは、そのような否定の言葉が入っていない。「泣いている」に「ない」をひっかけているのだろうか。おそらくはそうではないであろう。この七句を通して、否、ひょっとしたら、彼女の認識のあいまいな世界全てを通して、全体を閲していったときに唯一最後まではっきりとした存在として残るものが、この泣いている縄梯子、なのではないだろうか。

そう考えると、この縄梯子の戦慄が思われてくる。



「起動力」  小池正博

満身に抹茶をまぶし武装する  小池正博

ナンセンスな取り合わせによって形成された句群、という印象を受ける。「梅」と「胎内」、「抹茶」と「武装」、「サフラン」と「大きな物語」など。

彼の句は、取り合わせ自体がナンセンス、というよりも、二つの関連のない要素が登場するとき、俳句と違って「切れ」という構造が用いられず、あたかも意味的なつながりがあるかのように書かれるために、そのつながり方をナンセンスと思うのだ。二つの要素が組み合わされることで詩が生まれるのではなく、どこまでもナンセンスな印象になるのは、組み合わされる二つの要素の間に何か新たな詩的関連性を構築する意図がおそらく存在しないからではないだろうか。

つまり、現実世界に還元されない、言葉の世界の中で閉じた取り合わせ、という印象があるのだ。その最も顕著な例として掲出句を挙げた。



「鹿肉を食べた」  広瀬ちえみ

鹿肉を食べた体を出ることば  広瀬ちえみ

何と言ってもこの句が彼女の中では一番面白いであろう。鹿肉がまるでことばに変化してしまったような印象、否、もっと言えば、自分の体というものが、鹿肉をことばに変換するための機械のように捉えられている。

彼女の句にある肉体感覚は、石部のものと比べて、全体として非常に有機的で、安心する。しかし、そうであっても、掲出句では感覚的な単純化が生の実感を希薄化している印象がある。そこに興味を覚える。



川柳と俳句の違い、彼らの句と我々の句の違い、それは、僕にははっきりとは分からない。なんとなく違うような気もするけれども、明文化できない、ひょっとしたら大して違わないのではないかと言う気もしないではない。

しかし、そのような差異よりももっと気にかかるのが、彼らの抱えている現実感の希薄さなのだった。これは、川柳だから、なのか。それとも、俳句は、季語がある分、現実を実感していると錯覚しているだけなのだろうか。

(了)

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2010年3月11日木曜日

●ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2 山口優夢

【週俳第150号を読む】
ゲ・ン・ジ・ツ・カ・ン 1/2


山口優夢


「格子戸の奥」 石部明

格子戸の奥男根をぶら下げる  石部明

彼の句における肉体は、常に他の部分と切り離されて存在している。「瘤」「胸」「男根」「孔雀の喉の」「青」。これら本体から切り離された肉体の一部は、「蝶番」「カレー皿」「ポリバケツ」などの断片的な物象と同様に生と死の間の中有のような空間をさまよわされている。

だから、彼の句では、肉体的なあるいは生理的な感覚というものは生まれず、全ての肉体は徹底的に無機物と同様に感じ取られている。掲出句で言えば、「男根がぶら下がる」「男根をぶら下げて」などのように、単に裸の男の男根がぶらーんとしているような景を想起させる表現と、「男根をぶら下げる」という表現とは確実に異なっている。後者の表現では、男根はもともとぶら下がっているものではあり得ず、男根をぶら下げる行為を行なった人物がいるのであり、その人物の手によって男根は完全にモノとして扱われている。

つまり、生や死という言葉を入れた句が多いのとはうらはらに、彼の句から立ち上がってくるのは生や死といったものではなくて、逆に生や死が無化された、のっぺらぼうみたいな世界なのだ。なぜ彼はそのような世界を詠むのか。僕に思いつく答えは、彼自身がそういう世界にいるから、ということしか、あり得ない。



「キャラ」 石田柊馬

一般的に言えばかわいいくそじじい  石田柊馬

彼の句中に出てくるキャラ「卵焼き的キャラ」「スイカのキャラ」「水菜的キャラ」「蕪的キャラ」どれも具体的に思い浮かべることが容易ではないものばかりだ。このような句群の嵐に出会ったとき、我々のほとんどが、それぞれのキャラはどんなものか想像することを放棄してしまうのではないか。

それぞれのキャラを具体的に想像することとは異なる方向に読みを伸ばすことができる。それは、作者によるキャラの扱い方に言及することだ。「キャラ創れ」「体温で分ける」「キャラの違い」「分化せよ」。キャラとは、もともと人に付随しているものではなく、意図して創られるものなのである。しかし、なんのために?「分ける」ため、「違い」を出すため、「分化」するため、だ。

僕たちは、「卵焼き的キャラ」や「水菜的キャラ」といったまるで意味不明なキャラを無理して創りださなければ、互いの見分けがつかないくらい均質化されている、そういうことだろうか?これらの句群に読みとれる、高度に演出された「イタイ」感じは、均質な我々を無理に差別化しようとしたひずみとも言えるものではないか。

どうせみんな、かわいいくそじじいに過ぎないのに。



「ゴテゴテ川柳」 渡辺隆夫

カミのお告げで自爆するヒト  渡辺隆夫

彼の句は、どれも社会に対する悪意のある洒落で成り立っている。

「ANA糞だらけ」とか「全国一律」とか「くたびれ万年」とかいうあたりのフレーズにその悪意が遺憾なく発揮されているが、特に掲出句の「カミ」「ヒト」のカタカナ表記はそれぞれぐっとくるものがある。というか、それぞれのカタカナ表記の意味合いは、僕には少し違っているように思える。

「カミ」は、もちろん「神」を表しているが、「神」と書かないことによって「神」の意味性を剥奪している。それに対して、人のことを「ヒト」とカタカナ表記しても、人の意味性は剥奪されない。なぜなら、我々はこの表記をある場所では見慣れているからだ。それは、生物種としての「ヒト」に言及する際にはカタカナ表記をする、という慣習だ。つまり、「ヒト」のカタカナ表記は、自爆するのは個人としての「人」ではなく、生物種としての「ヒト」であることを示しており、もっと大胆な読みが許されるのならば、その行きつく先にあるものは、自爆するのは特殊な個人ではなく、あなたでもありわたしでもあり他の誰でもあり得る、ということだ。翻ってカタカナ表記された「カミ」を見ると、実は「神」のことを一種の生物種として見ているとも言える。日本語表記を利用した、大変高度な技巧だ。

しかし、それは技巧である。彼は言葉の技巧を磨き、それを誰もが共有できるフィールドの中で皮肉として流通させる。サラリーマン川柳の類の川柳が超絶技巧を施されているような印象を受ける。彼自身の感覚や感情は、おそらくわざと、縮退させられている。それが、彼が社会に対峙する方法論なのだろうか?

(つづく)

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2010年3月10日水曜日

●あっぱれな投げ技 三宅やよい

【週俳第150号を読む】
あっぱれな投げ技


三宅やよい

広瀬ちえみの場合「週刊俳句」の読者が俳人であることを十分意識して作品をくりだしているように思う。

俳 人は大仰なことばや身振りは初手から拒否しがちである。ちえみの句は俳句の場ということで、あいさつの意味も込めて季感を揃え、想定される読み手との無用 な軋轢をはずしているのだろう。

が、その内実はしたたかである。言葉の違和や力みを感じさせることなく自分の懐へ相手を巻き込んでしま う。組んだ相手の力をうまく利用して投げをくらわすように、或る時は言葉の思い込みを逆手にとる。

とは言ってもどの句もさっぱりと明るい ので、投げられたことにもしばらくは気づかない。すっかり忘れたと思っていた日常のある瞬間、甘酸っぱい感覚とともに思い出すそんな川柳なのだ。

   新玉やボールが飛んできたら打つ

「新玉」は、あらたまの「年」「月」「日」にかかる枕言葉で「あらたまの年」は新年の意。それを十分ふ まえながら、新玉という表記を選んだのは続くボールを引き出すためだろうが、言葉やイメージが「飛んできたら」すかさず「打つ」とも考えられる。言葉を ジャストミートする前に季語にこだわってしまう俳人の窮屈さをかっとばしているようだ。

  鹿肉を食べた体を出ることば

鹿 は山間部などでは貴重な農作物を食い荒らす害獣でもある。年に何頭かは狩猟が許され、皮を剥がれた鹿肉が配られる。この肉を「人肉」と置き換えれば意味性 が重くなるし、「牛肉」であればただごとに近づきすぎる。それに比べて幾時か前まで野山を駆け回っていた鹿肉は日常との違和を醸し出す発酵度数が高い。銃 で仕留められた赤い肉を食べた身体から吐き出す言葉は生臭くなりそうだ。

  うしろ頭のうつろの中にお賽銭

ちゃりーんと 貯金箱のうしろの細い穴から硬貨を入れた音が聞こえそう。後頭部は自分で見ることは出来ないし、前のめりになった身体の後ろ頭は欠落していてぽっかり空白 かも。うしろから投げられるお賽銭の音が頭の中をちゃりーん、ちゃりーんとこだまして怖い。

  三が日過ぎて煙を出している

俳 人なら三が日を過ぎてああ、正月気分もうすれ日常がもどってきたのね。と一直線な解釈になだれ込みそうだけど、この煙は厨房の煙から人を焼く煙まで非常な 幅がありそうだ。インディアンの狼煙みたいに三が日過ぎた、襲撃開始だなんて煙をあげて合図しているのかもしれない。

  満月の顔をさ さっと整える

「満月の」で一回切れてささっと顔を整えるのか、満月そのものの顔を整えるのか、いずれにしても「ささっと」呼吸を整えて次 へ流してゆく句のようにも思えるが、どうなのだろう。

  雪山をところかまわずくすぐりぬ

白い雪山の下には俳人が想像す る「山笑う」「山眠る」の連想が仕込まれているのだろう。分厚い白い雪に覆われている無表情な山をところかまわずくすぐって笑わすのだ。そうしたら次々呑 みこんだ登山人を吐き出すかもしれない。うっかり笑ったあと、急いでもとの無表情に戻る様子を想像するとつんと取り澄ました雪山も近しくなる。

   ポケットに見知らぬ人の手がありぬ

ポケットに恋人の手があるのなら、あったかく嬉しいけど見知らぬ手がポケットの中にあったら痴漢かス リか。冷たくなった自分の手がモノのようにポケットにあるのも怖い。それでもそんな状況をさらっと言ってのけるこの作者ならどんな手でも握り返しそう。こ うやってちえみの川柳はにっこりと見知らぬ人のふところにしのびこんでいくのだ。


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2010年3月8日月曜日

●俳句キャラ 佐藤文香

【週俳第150号を読む】
俳句キャラ


佐藤文香

  体温で分ける猫キャラうさぎキャラ  石田柊馬

猫キャラとうさぎキャラは同一人物が演じわけられそう。「体温で分ける」というのがその道のプロっぽくて好き。

あるキャラを演じなきゃってときに、「カワイイ系全部担当可能」とか、いっそ「オレはライオンだ」ならわかりやすいけど、似ていてもどうしてもできない役っていうのがある。

「キモカワ(気持ち悪い×かわいい)」と「エロカワ(エロい×かわいい)」、「カッコカワ(カッコいい×かわいい)」はできても、単なる「カワイイ」は無理、とか。本人は結構こだわりを持って、演じ分けたり、演じない表明をしたりする。まわりから見てどうであるかは別として。
  
  一般的に言えばかわいいくそじじい
  石田柊馬

「なぜ川柳ではなく俳句か」と問われたとき、自分に関してだけ簡潔に答えるなら「私、キャラ的に俳句だからです」というのが、必要十分である気がする。俳句は自分っぽいと思う。

何かを見ていいと思ったそれがすでに、「俳句な自分」の判断で、俳句以外の何かをやっているのも「俳句な自分」。しかもその「俳句な」の部分は、「自分の思う<俳句>な」だから、何が自分で何が俳句かもうわからない。この句の「くそじじい」が可愛くて好きなんだけど、こうは「くそじじい」を使えない、それって「俳句な自分」だと思う、ぼんやり。

で、でも、その自分が思ってた「(川柳でなくて)俳句な」ってのが、「川柳に関する20のアフォリズム(樋口由紀子)」を読んで、クリアになった。やっぱ私、かなり俳句だ。季語の捉え方だけは、俳句っぽくないかもしれないけれど。あれ、この「(みんなにとっての)俳句っぽい」って、どんなんだっけ。くそー、私、評論は無理なんだよなぁ、キャラ的に……(ってことに)。


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2010年3月7日日曜日

●俳句に関する20のエッセイ さいばら天気

俳句に関する20のエッセイ
樋口由紀子「川柳に関する20のアフォリズム」へのオード

さいばら天気


1 俳句はことばで作る文芸かもしれない。(すべての前提として)私的には。

2 言葉をできるだけ遠くにいきおいよくとばして、意味を希薄化・無化したとき、天国的な俳句が生まれる。

3 他のなにものも書き得ない、例えば、生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが、俳句へとかかたちを結ぶこと。それは俳句の野望である。

4 俳人の多くは、意味されたもの(シニフィエ)のおもしろさには敏感に反応するけれど、言葉そのもの(シニフィアン)のおもしろさには無関心で、それをおもしろがることに(ある種倫理的な抑制から来る)ためらいがある。

5 俳句はしばしば、書き手と読み手の関係をうまく取り扱えない。書き手が単一のイメージを動員した句が、読み手に多様なイメージを喚起する、あるいは逆に、書き手が多様なイメージを動員した句が、読み手に向かって単層のイメージを明示するといった〝すれ違い〟は、放置されたままだ(その良し悪しはともかくとして)。俳句において批評の貧しさがあるとしたら、その一因は、書き手と読み手が、しばしば直面する意志疎通の事故に対して臆病なこと。結果として〝すれ違い〟の起こりそうにない句(意味伝達性の高い句・共感性の高い句)とその「鑑賞」とが、互酬的に、つまり贈答のように流通し、批評とは遠い儀礼的な空間が広がる。

6 俳句的に読むとは、なにごとをも自分との関係の「外部」に置き換えること。モノやコトが在ることを、そのままに吸い込むこと。言い換えれば、自分が存在する以前にモノやコトが在るのと同様に、自分や人間が消滅して以降もなお価値の損なわれない言葉(俳句)があることに、〔自分〕を超えた希望を見出すことが、俳句を読むこと。付記すれば、偶々「人」「自分」がモノやコトであっても、いっこうにさしつかえない。

7 俳人の多く(あるいは一部)は、それ以前の俳人が築き上げた財産だけで食べていける気がしている。俳人の多く(あるいは一部)は、その逆である。翻って、俳人個人という狭隘な器(貧しい辞書、低性能の言語生成器械)にも、それ以前に築き上げた財産がある。多くの(あるいは一部の)書き手は、それだけ食べていける気がしている。あるいは、その逆。

8 風船にたとえるならば、ある俳句は、中身の空気ばかりを伝えようとする。別の俳句は、つややかなゴムの表面ばかりを伝えようとする。さて、どちらを採るか。

9 俳句は、言葉から意味のネジを一本抜く文芸である。inspired by ogawa keishu≫参照

10 季語に関する樋口由紀子の把握=「俳人の季語の使い方はメンタル」を卑近に展開すれば、「星月夜」といった見たこともないほど美しい季語に、多大な負荷をかける例がいかに多いことか。言い換えれば、季語にメタフィジカルな作用、ポリフォニックな効果を期待することのいかに多いことか。

11 俳句において「私性」は厄介な問題である。

12 女性俳句人口の増大が俳句の抒情性を開拓していく一方、「私性」をいかに書くかが技術課題となった。男性をも巻き込んだ俳句の大衆化は、「私性」というより「私事」を優先させる傾向におちいり、過度な感傷を生み、「私はこう思った」「私はこういう体験をした」などの現実を報告する句が主流を占め、自分の個人的事情を書くことが「個性」であり自己表現であるといったふるまいを生み出した。
※樋口由紀子のオリジナルにある「川柳」を「俳句」に置換ののち改変。この項とりわけ。

13 何人かの自分を見つけることは楽しいことである。しかし、彼等が残らず自分の理解者・反発者なら、それは「自分」を確固たるものと信じるための使用人に過ぎない。自己という錯覚、自己という物語を、覚醒的に眺め、読むために、何人もの自分が必要なのだ。

14 吊りかごの中から春の足を出す  佐藤みさ子『呼びにゆく』
吊ったのは誰か。足を出しのは誰か。句の行為者のデフォルトについて「それは作者」という慣用に従うなら、この句には齟齬が生まれる(私が吊った籠から私が足を出す)。私はもっぱらもうひとつのデフォルト解釈を用いる。「それは誰でもない」。

15 肉体は片付けられた紅葉狩り  樋口由紀子
肉をもつ獲物から、肉を持たない(しかし血の色をした)紅葉への変換が、句のごく一部(2文字)で起きた。「狩り」という隠喩を端緒とする一点突破。

16 近年になっても「思い」という俳句にとって厄介な成分を盛り込んだ作品が多く生み出される。あなた(書き手)の「思い」に、わたし(読者)は、まったく関心がないのに。

17 言葉を扱う俳人や川柳人が「消費社会」を否定的に扱うのは、とても不思議だ。記号として消費されることは文芸の(消費社会出現の遙か以前からの)宿命であり、「そう読まれてしまうこと」をいかにくぐり抜けるかは、作り手の専任事項。一方、それより歴史の古い大量消費社会という20世紀的枠組においても、俳人や川柳人は、印刷=複写という、きわめて大量消費社会的手段によってしか「作家」たり得ようとしない、この点をどう説明するのだろうか。

18 俳句の一句全体が、比喩としてでなく、つまり言葉そのものとして新たなイコンであるような俳句。

19 俳句の諧謔という問題。バナナの皮で滑って転んでも笑えないが、バナナとの邂逅を、おなじみの笑いの「伝統」を梃子にして、ニッチな諧謔を生み出すことはできる。

20 それはこういうことだ。〔凡庸さ〕と〔それを逃れること=非凡〕とが、遠く離れて対照を成すのではなく、このふたつが紙一重の場所にあること、私たちを貧しくするものと豊かにするものとが相互に干渉し合う近距離にあることを、よく知ること。これこそが「俳句をする」ことなのだ。

週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース