2021年10月18日月曜日

●月曜日の一句〔上田睦子〕相子智恵



相子智恵







老い母のもたぬくらがり実の芙蓉  上田睦子

句文集『時がうねる』(2021.5 ふらんす堂)所載

老いた母は、暗がりをもたない。なんと、美しく哀しい明るさであろうか。

おそらく老いた母は認知症なのだろう。〈もたぬくらがり〉と書けるまでには、介護する側にも、様々な葛藤や苛立ちもあったのではないか。その上澄みの〈もたぬくらがり〉を掬い取るまでの、「暗がり」の時間を思う。

季語〈実の芙蓉〉によって、掲句は神々しいまでの光の中にある。芙蓉の美しく大きな花が咲いたあとの実は、ぽわぽわと白い毛が生えた雪洞のようで、それが〈老い母のもたぬくらがり〉と美しく響きあうのだ。芙蓉の実は目の前の自然であり母の象徴のようでもあり、これほどまでの取り合わせにはなかなか出あえない。Mの音とFの音の繰り返しからも、淡い光に包まれるようだ。

「芙蓉の実」ではなく「実の芙蓉」としたところに、実を見ていながら花へと心が向かう時間の遡りがある。同様に若き頃の母をどうしても思ってしまう、逡巡のようなものも見えてこようか。

掲句は1981年の「寒雷」に載った、第五回寒雷集賞受賞作の一句。散文を中心にまとめられた本書より引いた。

2021年10月15日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






鮎二ひきしばらく焼かず皿の上

前田雀郎(まえだ・じゃくろう)1897~1960

今年の秋刀魚は高騰でなかなか手がでなかった。しかし、一度は食べたい。やっと買ってきて、まな板の上に乗せたとき、ふとこの句を思い出した。まな板であり、二ひきではなく、舞台設定は異なるが、「しばらく焼かず」にいたく納得し、じっと眺めていた。

「敢えて、『二ひき』と数を限ったのは、その美しいという印象を強めるため、余計なものを捨てたのであり、『皿の上』もまた、注意をここに染めるために設けた一つのワナであって、必ずしも眼前のそれをいったものでない。」と雀郎は自句自注でわざわざ書いている。「鮎」であったどうかもあやしい。「鮎」は「秋刀魚」より確かに絵になり、サマになる。しかし、秋刀魚も食べてしまうのはもったいないくらい青く光って、映えている。

2021年10月13日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#2 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#2
 
浅沼璞
 

オモテ序段が終わったところで番外篇の続きを。


番外篇1で「西鶴晩年の連句を老人文学として」読み直したい旨、記しました。
 
その直後、老いに関する文献を漁ろうとしていたところ、Eテレ「100分de名著」でボーヴォワールの『老い』(1970年)が取りあげられるという幸運に出くわしました。

ゲストの上野千鶴子氏はボーヴォワールの『老い』をダシに、説得力ある自説をたんたんと語っていきます。さっそく入手したNHKテキストも平易で、目から鱗。
 
わけても老化を生理的、社会的、文化的、心理的という四つの次元にわけるエリクソン説への言及に蒙を啓かれました。以下、要約します。

まず生理的老いとは、肉体的な衰え。つぎに社会的老いとは、定年退職に代表される社会的な死といっていいようなもの。文化的老いとは、家族カテゴリー上の変化で、江戸時代なら隠居などがそれに該当します。そして最も遅れてあらわれるのが心理的老い。老化した自分を受けいれられないという自己否定感が他の次元とのアンバランスをうみます。で自己同一性の喪失であるアイデンティティの危機が起きる、といった寸法です。


以上を西鶴にあてはめながら考えてみましょう。
 
まず生理的老い――西鶴没(1693年、享年52歳)の前年の春、つまり『独吟自註絵巻』成立の頃、目の不調、筆の衰えを知人あての書簡にしたためています。実はすでにその前年、『俳諧団袋』序では弟子・団水との両吟歌仙二巻について「中々老の浪のよつてもつかぬぞ」と自らの老化による歌仙中断を嘆いてもいました。【注】

社会的老い――やはり『独吟自註絵巻』成立の年、傑作『世間胸算用』をものしていますし、没後続々と刊行された遺稿集を鑑みるに、浮世草子作家としては生涯現役だったかと(俳諧師としての社会的老化に関しては【注】参照)。

文化的老い――自らの眼病を書簡に記した直後(51歳)、盲目の娘を亡くし、独居老人の身となりました。『世間胸算用』で活写した楽隠居とはほど遠い境涯でした。

心理的老い――発句「難波ぶり」前書において「行年五十、口八十、心は十八」と書いています。実年齢は50歳、軽口は80倍、精神年齢は18歳、といったアンバラはまさに「アイデンティティの危機」を感じさせます。老化を自認できない鶴翁の姿がここにあります。

されば最晩年の西鶴が『独吟自註絵巻』において新風の元禄疎句体にトライしたのは、まさにこの「アイデンティティの危機」を克服せんがためだったのではないでしょうか。

「うーん、えらい理詰めやけど、自分のことは自分でもようわからんて」
 
 
【注】
厳密に言いますと、歌仙二巻の中断については、生理的老化つまり体力的劣化だけでなく、社会的な老いをも考慮する必要がありそうです。というのも浮世草子作家としては生涯現役であった西鶴ですが、俳諧師としてはほぼ引退の状態が長く続いていたからです。その間、団水が転居した京では俳風が大きく変化。中断した歌仙は久々の一座だったわけで、すでに元禄疎句体を身につけていた団水に合わせようと「あとより泳ぎつけども、とかく足のおもたく、やうやう歌仙の中ほど、瀬を越す所にして止みぬ」(『団袋』序)といった体たらくでした。このように社会的老化も歌仙中断には少なからず作用していたわけです。これを巨視的にみれば、二万翁西鶴の「アイデンティティの危機」は生理的かつ社会的な、未分化で複合的な老化現象によってもたらされていたと概括できます。よって歌仙中断は重要なターニングポイントで、たとえば野間光辰氏も、「西鶴晩年の俳風の変化推移は、恐らくこの辺(団水との両吟――浅沼註)から始まつてゐるといつてよいであらう」(『補刪西鶴年譜考證』1983年)としています。ふり返れば西鶴の俳壇復帰は、引退という社会的老化を克服するための然るべき一歩だったと思われます。
 

2021年10月11日月曜日

●月曜日の一句〔茅根知子〕相子智恵



相子智恵







本棚の匂ひのしたる茸山  茅根知子

句集『赤い金魚』(2021.9 本阿弥書店)所載

たくさんの本棚がある図書館や古本屋さんのような場所は、独特な匂いがする。日向のような、日陰のような、少しモワッとした甘い匂いだ。

こう言われてみれば確かに、草や枯葉が入り混じり、さらに日向と日陰も混在している茸山もまた、そんな匂いであるような気がしてくる。本棚と茸山とは驚きのあるつながりなのだけれど、同時にすとんと納得できる比喩でもある。どちらも懐かしさを誘う匂いだ。

最初は本棚を思い、そこから茸山へと広がっていく。包み込んでいる世界が大きくて、一読
で不思議な世界に連れて行ってくれる一句である。

2021年10月8日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






しかしもう歯が一本も無いのです

きゅういち1959~

急にこんなことを言われても困ってしまう。作者の哀歓はいっさい書かれていない。さほど気にしていないのかもしれないが、これから歯が一本も無い状態で世界と向き合っていかねばならないのは確かである。

異なった文脈から突然あらわれたような「しかしもう」の間の取り方が巧みで、不意をつかれる。生きている情けなさや逞しさをあっけらかんと極単純なかたちでひょうひょうと表現している。突き抜けてしまった天然性、楽天性があり、シャープでスコンと抜ける。きゅういちの川柳はおもしろくてかなしく、それでいてかわいく、そしてこわい。自己の現在性を鮮やかに浮かび上がらせる。『ほぼむほん』所収。