2026年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕湊圭伍



湊圭伍





春の夜の不思議なものに家族の眼  細川不凍

家族のまなざしはそのまま日常の関係だ。お互いによく知っていると思っているから、見ているつもりでも実はぜんぜん見ておらず、すでに観念になっていて、だからこそ、家族として平穏に暮らせているのかもしれない。

掲句では、「春の夜」という漠とした設定によって、一家は少しだけこうした関係から遊離し、即物的な「家族の眼」がすぐそこに浮かんでいる。それは同時に、語り手自身の身体がとりあえずは安定した日常的あり様からごろんと投げ出される体験であろうか。「不思議」とは元は仏教用語で、「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」という意味だそうだ(コトバンク)。家族の視線という日常が即「不思議」であるという体験が、この句の内容と言えるだろう。

というような読みをした上でこの句の読み味の核は何かと考え直すとそれは、唐突でかつ日常にはとり立てて影響もなく忘れられるだろうこの認識が、身体を欠いてぽかりと浮かぶ言葉として実現されている事態への驚きである。「不思議なもの」は実は珍しくもないのだろうが、私たちが剥き出しのそれに触れるのは稀である。『細川不凍集』邑書林、2005年。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。

2026年3月25日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #93

 

西鶴ざんまい #93
 
浅沼璞
 

 平調の笙の息つぎ静にて   打越
  詩人時節の露を哀み    前句
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  付句(通算75句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏11句目。  春(峰の花)=13句目・花の座の二句引き上げ。  季移り(前句の秋の「露」を春の「露」と見替える常套手段)。  孤猿=群れを逸れた猿。

【句意】
この夕べ、孤独な猿の声を聞く人は身を断つような気分だ(と伝え聞く)が、峰の桜は咲いている。
・参考〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉(芭蕉・野ざらし紀行)

【付け・転じ】
前句の詩人の露への哀感を、猿の声を聞く人のそれへと響かせ、山猿の取合せとして「峯の花」へと転じた。

【自註】
此の付けかたは、前句に、詩人、其の時節に消え行く露までもあはれみたるありさまを請けて、*詩の言葉を以て、「孤猿身を断つ」と一句に仕立てし。されば**巴峡の猿の鳴声、すぐれて物がなしく、哀れなる事、聞き伝へし。則ち***花所なれば「猿」の****取合せに「峯の花」也。
*詩の言葉=〈孤猿更ニ叫ブ秋風ノ裏、是レ愁人ニアラザルモ亦腸ヲ断タン〉(唐詩選・載叔倫・七絶)
**巴峡(はかふ)=揚子江の急流地帯における三峡のひとつ。
***花所(はなどころ)=花の定座。前述のとおり二句引き上げ。
****取合せ=「峯― 猿の声」(類船集)

【意訳】
この付け方は、前句の詩人がその時節に消えていく露までも哀れむ、そのありさまを受けて、漢詩の言葉を以て「孤猿身を断つ」と一句に作りあげた。そういえば揚子江の巴峡の猿の鳴声はとても物悲しく、哀れであることは既に聞き伝えていた。それに花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せたのである。

【三工程】
(前句)詩人時節の露を哀み

  聞き伝ふ孤猿身を断つほどにして 〔見込〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つほどにして  〔趣向〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つ峯の花    〔句作〕

前句の詩人の露への哀感をうけ、猿の声への断腸の思いを詠んだ詩を引き〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、「此の夕」と時分を定め〔趣向〕、花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せた〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』では〈「露」は秋季に限られないというので「花」を付けたのであろうが、秋から春への季移りもやや気になるところ〉とある。しかしこの面のように月の座と花の座が近い場合、秋から春へと季移りになるケースは珍しくない。『新版・連句への招待』(泉書院)では歌仙(=百韻の略式)でも似たケースのあるのに言及し、「月」「露」「雁」などが春季に見替えやすい言葉として「季移り」に多用される由、解説がある。

 

2026年3月20日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕暮田真名



暮田真名





強い女になろうと蛸の足洗う  樋口由紀子

「強い女」を、ひとまず「自立した女」と言い換えてみる。「自ら立つ」と書いて「自立」である。他のもの、たとえば男性や、家族に頼ることなく、自分の二本の足で地面を踏みしめて立つのだ。

でも、立っているそばから、地面がずぶずぶと沈んでいったらどうしよう。もはや立っていられないほど、ぐらぐらと揺れたらどうしよう。みしみしと音をたてて、まっぷたつに割れたらどうしよう?

人生にはしばしばそういうことが起こりうる。それならば、砂の隙間に潜り込めるような軟らかい足がいい。それも二本では不安だが、八本もあれば十分だ。いざというときのために、強力にくっつく吸盤があればなおいいだろう。

「蛸の足洗う」のはひとまず食べるためだろう。しかし、足を洗うという動作には、相手を敬う、奉仕するという意味もある。どこか蛸への憧憬や、一体化願望のようなものも感じられるのである。

掲句は『樋口由紀子集』(邑書林)所収。抄出を読むかぎり、『ゆうるりと』は「足」の句集です。

2026年3月13日金曜日

●金曜日の川柳〔本間美千子〕湊圭伍



湊圭伍





遠い国のあかい血を見たうたにした  本間美千子

戦争や非業の死をメディアで見て、強い感情を喚起されるのはありふれたことだ。詩的技巧に習熟した人間であれば、情報と感情からたちまち「うた」が成るかもしれない。ただし、出来事を「うた」にしてしまうことについてのためらいを持たない表現は危うくもある。

掲句は、上五での字余りにある溜めから、「遠い」「あかい」「血」「見た」「した」の i 音の連鎖、「見たうたにした」の3連の「た」による締めまで、あまりに見事すぎるリズムで整えられている。「遠い国」とぼやかした設定、「あかい」と「うた」のひらがな、「見た」「した」の過去形も合わさって、くりかえし読むうちに「あかい血」の印象は、まずはメルヘンチックな領域へと回収されていく。しかし、さらに読んでいくと、「うた」へと回収された出来事が、「うた」ってしまった人間にとって取り消しがたい認識、くり返し訪れる疼痛として浮き上がってくる。

ためらいながらであっても、出来事を「うた」にしてしまうことを、分かりやすく称揚することはできない。同時に、ためらいを乗り越えてゆくリズムによって、受け入れがたい事実と共にあることを自らと読者へと突きつける、これこそが詩という体験だろうという気もする。『本間美千子川柳集』(私家版、2005年)所収。