2026年6月23日火曜日

〔ネット拾読〕Tomorrow Never Knows 縁暈・自虐・岡田一実・細村星一郎 西原天気

〔ネット拾読〕
Tomorrow Never Knows
縁暈・自虐・岡田一実・細村星一郎

西原天気


おひさしぶりです。2018年8月22日以来の〔ネット拾読〕です(≫labels)。わけのわからないタイトルを習わしとしていましたが、それは体力を使うので、曲名にすることにします。ひきつづき、記事内容とは無関係です。

それでは行きます。

岡田一実:季語の縁暈(えんうん)――私は本当に蛍を観ているのだろうか 2026年6月14日
リンクはこちら https://note.com/suisei13/n/n709fb3d302c1

米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の概念を話のとばぐちに、季語について根源的に考察。
私たちは季語を経験しているようでいて、実は季語だけを経験していない。/このことを考えていて、ウィリアム・ジェイムズの「縁暈(えんうん fringe)」という概念に出会った。(岡田一実)
俳人としての(と言っていいのかどうか)感受性や洞察が、アカデミックな成果の一端と出会って、論を明確化・深化させていく例。
もし本意を季語の中心にある核だとするなら、「縁暈」はその周囲に広がる経験の層と言えるかもしれない。/(略)/そして、その「縁暈」は人によって異なる。同じ人のなかでも変化する。/(略)/季語は本意によって共同体と結びつく。/しかし同時に、「縁暈」によって個人とも結びつく。(岡田一実)

季語の動態的な働きをシンプルに把握。

本意だけなら歳時記になる。
「縁暈」だけなら日記になる。

俳句はその両者のあいだに成立しているのではないだろうか。

細村星一郎:巨大俳句時評─2026/2

リンクはこちら https://haiku.monster/contents/commentary-h5

前半(=はじめに:自滅する俳人)と後半(=あらためて角川「俳句」の作品欄を読んでみる)で別のふたつの論考が合わさったような記事(つなぎの工夫はあるものの)。前半は、ざっくり言うと、俳句ジャンルへのネガティヴな思いばかり募らせるのってよくないよね、といった把握(ざっくり過ぎるわ)。
問題は俳句と向き合う上での必要悪ともいえる自虐が、自分でも気づかないうちに「自滅行為」へとすり替わってしまうことの恐ろしさである。(細村星一郎)
ただ、この部分はどうも本旨ではなく、前半の後半にある《「伝統を敵視する」ことにかんする病的な傾向》に関する事柄が、ほんとうに言いたいことのようだ。

俳句における伝統敵視について、実体なく人々の心に広がっている社会不安になぞらえる。このあたりは腑に落ちないこともない。伝統というより、有季定型派(はんぶん造語)かな? 非=有季定型派の、俳句エスタブリッシュメントを形成しているかに見える有季定型派への恨みつらみ。

こうした心情的な部分(論理に回収できない気持ちの部分)の複雑さは、細村自身に深く関わっていることも軽く吐露されている。曰く、《これらの言葉の行き先がどれも、かつての自分自身であるということだ》。

ここまで読むと、最初に提示された《自虐》《自滅》が、俳句世間全体をいうものではなく、伝統的な有季定型(の厚遇)を恨む人たちにもっぱら属する、という、細村氏の把握がはっきり見えてくる。

そうした、いわばルサンチマン的な言説を目にしないわけではないが、それもまた仮想敵ではないのか。お互いがお互いの仮想敵。

で、後半です。

いやいや、こんなことに拘泥して部屋にこもりっきりのような心持ちではいけないというわけで(それでかまわないと私は思うけどね)、
では、どうすれば僕らは妄想に取り憑かれることなくこの弱味と向き合っていけるのだろうか。それはきっと、いま目の前に提示されているものを誠実に読んでいくことのほかにないのだろう。僕のようなものがこうしてウジウジしている間にも俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから当たり前だ。(細村星一郎)
むりやりつないだなあ、とは思うけれど、「定期」リリースを優先させた時評なので、事情はわかる。

ここでは、《俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから》という進行上の定型文に、ちょっと引っかかっておきたい。《俳句は無数に作られ、世に出され》に異論はない。これでもかというくらいに《無数》に作られまくっている。昨今のSNSを含めれば《世に出され》る量もかつてよりもはるかに多い。しかし、《論じられている》か?

それよりまえに、読まれているか? 俳句って。
高山れおな 俳句など誰も読んではいない
2008年8月9日、ウェブサイト「俳句空間 豈weekly」創刊のことば
この状況は18年経った現在も変わってはいないと思う。俳句は読まれない。俳人諸氏がもっぱら読むのは自分の句でありせいぜい近所の句。

俳句など誰も読んではいない。読まれないものは論じらない。よしんば論じられとしても、誰もそれを読まない。

まあ、それでも、読み、論じる以外、ない。その覚悟は必要とばかりに、この論考も、後半、そこに向かって突き進む。角川『俳句』2026年2月号に掲載された俳句作品(しばしばハード極まりない荒野)を、細村氏はどんどん読んでいく。

ていねいな読み方。示唆に富む箇所もある。

仁平勝の箇所では、
坪内稔典もそうだが、あれほどクリティカルな論考を飛ばしていた彼らが揃いも揃ってこうした平易性や通俗性といった方向に向かっていくのはどうしてなんだろう、としばしば考える。(細村星一郎)
とある。論考と作句は切り分けるべき、といった一般論よりも、俳句作品上の「通俗性」ってなかなかに手強い概念ですよね。「ただごと」や俳句的脱力とも関わるし。といった私の軽い懸念はさておき。

ともあれ、丹念な読みが展開されている。読者諸氏におかれましては、ぜひとも原文(リンク先)をお読みくださいませ。


それではまた。次はいつになるかわかりませんが。


2026年6月19日金曜日

●金曜日の川柳〔ヒロハシサギ〕暮田真名



暮田真名





まな板の裏を見せ合う恋人たち  ヒロハシサギ

見せ合っている、ということは、一人一枚まな板を持ち、まな板は最低でも二枚以上あるということだ。所有するまな板の枚数には個人差があるだろうが、わたしは一枚である。だからだろうか、この句の「恋人たち」はまだ同棲はしておらず、それぞれの家にあるまな板を持ち寄っているような気がする。

両面使うことにしているというのでなければ、まな板の裏をまじまじと見る機会はなかなかない。伏せられているものを持ち上げて見るという動作は、石の裏のダンゴムシを観察する行為をも想起させる。とくべつ美しくもない、秘められた領域を見せ合うという意味では、まさしく恋人たちにふさわしい行いと言えるかもしれない。

おもしろいのは、立てられたまな板は、恋人たちを隔てる壁にもなっているところだ。さながら、盾のように。近づきつつ遠ざかる、遠ざかつつ近づく。平熱の恋の句である。

2026年6月16日火曜日

【新刊】鴇田智哉『高屋窓秋の百句』

【新刊】
鴇田智哉『高屋窓秋の百句』



版元ウェブサイト



2026年6月12日金曜日

●金曜日の川柳〔天谷由紀子〕八上桐子



八上桐子





櫛の歯は等間隔で逃げられぬ 天谷由紀子

手に取った櫛の歯の等間隔を意識したとき、まるで檻のようなその内側に閉じ込められている自分を発見したのだろう。

この句は、誰(なに)が、どこから逃げられないのか書かれていない。窮屈な社会や組織、家庭のことかもしれないし、櫛の歯自身としても読める。

作者本人のことと読んだのは、句集のなかに、どこか危うい状況を冷静に書きとめた作品が多いせいだ。

おはじきと鍋の間にある扉

満月になるまで鉛筆を削る

ひなげしが折れないように受話器おく

目に映るこの世界の歪みと、そこにいる私を淡々と見つめている。

石には石の力があって、ぎゅっと握りしめると安心するように、折々にひらいてしまう句集なのだ。

『白いみしん』 (2001年/私家版)

2026年6月8日月曜日

★週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【転載に関して】 

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くいていただくのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。