2026年9月15日火曜日

【評判録】光陽子句集 『ふ、は鳥に』

【評判録】
依光陽子句集 『ふ、は鳥に』


杉山久子 

細村星一郎 巨大俳句時評─2026/8 

岩田奎

岡田由季【近刊句集ゆる語り】27

西原天気 Around Edo River 依光陽子『ふ、は鳥に』を片手に」



2026年9月13日日曜日

【BOOKS】 『音数で引く俳句歳時記・秋』『俳句講座 季語と定型を極める』

【BOOKS】
『音数で引く俳句歳時記・秋』『俳句講座 季語と定型を極める』


岸本尚毅監修・西原天気編『音数で引く俳句歳時記・秋』

岸本尚毅『俳句講座 季語と定型を極める』


2026年9月11日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕西原天気



西原天気





花瓶から足をゆっくり抜いて秋 湊圭伍

花瓶に足の入った状態は、現実の日常生活ではなかなか経験も見聞きもできないが、1960年代に隆盛をきわめた米国アニメ、例えば、ハンナ・バーベラ・プロダクションのドタバタ・アニメでは馴染みのある出来事。ただし、その場合、スピード感たっぷりに引き抜くので、「スポン」と軽快な音響効果を伴ったりしていて、この句の《ゆっくり》とは趣が違う。

私たちはもうオトナだし、それになんといっても《秋》なので、猫のトムが鼠のジェリーの眼の前でダイナミックこのうえなく足を抜くのとは、わけがちがう。

まあ、《ゆっくり》のほうがよほど異常、というのは現実を離れてファニー、スペシャルで不可解な瞬間という意味なのだけれど、それはやっぱり、川柳のひとつの側面なのだろうなあ、と。

掲句は湊圭伍川柳句集『サントメ・プリンシペの蓋』(2026年4月28日/マルコボ.コム)より。

2026年9月4日金曜日

●金曜日の川柳〔小原由佳〕まつりぺきん



まつりぺきん





大丈夫かと昔の空を持ってくる  小原由佳

「大丈夫か」という気遣いの言葉とともに、その人が持ってくるのは「昔の空」。
かたちのない空を、まるで腕に抱えて運べるもののように扱うところに、この句の不思議な手触りがあります。

その空は、相手の記憶の中に残っている、昔の主体の姿なのでしょう。
あるいは、いまを生きる主体を慰めようと運んできた、二人がかつて見上げた空なのかもしれません。
過去に主体を支えていた何かが、今も変わらず力になると信じて、その人は、わざわざ持ってきてくれるのです。

時は流れ、主体も当時のままではありません。
「大丈夫か」という気遣いはまっすぐ温かいのに、その宛先は、目の前にいる現在の主体からわずかにずれている。
そのずれには戸惑いや切なさも滲み、だからこそ、時を越えて届く優しさがよりいっそう愛おしく感じられます。

「昔の空」を受け取ることは、かつての自分を相手の記憶ごと受け取ることでもあるのでしょう。
少しずれた気遣いの中に、失われた時間と、なお残り続ける親愛を感じさせる一句です。

「反対側の窓」(2022)より。

2026年9月2日水曜日

●西鶴ざんまい #102 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #102
 
浅沼璞
 

  七の社の砂ぬすみぬる   打越
 同じ京の水に替りの水さびて 前句
  河骨慈姑迄もちりの世   付句(通算84句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・表6句目=夏=河骨(かうほね)、慈姑(おもだか)。
ちりの世=塵に「散り」を掛ける。

【句意】
(水錆によって)河骨・慈姑までも散る、塵のような世の中。

【付け・転じ】
前句「水さびて」から、見る人もない水草が無駄に散ってしまう(ような)塵の世へと転じた。

【自註】
此の句は、*行(ゆき)かたの俳諧也。水草の付よせは、前句の「水さびて」に河骨・おもだかなども清水に生出(おひいで)しとは格別に見ぐるしう、あだに咲きて見る人もなき**心行いはんがために「ちりの世」とはつかうまつる。***当流とて、かゝるかるき句がら計(ばかり)ならべては、意味浅くして、おもしろからず。

*行(ゆき)かたの俳諧=後述の「かるき句がら」に同じか。
**心行(こゝろゆき)=乾裕幸『俳諧師西鶴』では「ちりの世」に見込まれた「心持」「風情」とする。
***当流=元禄疎句体。

【意訳】
この句は軽く付けた俳諧である。水草によって付寄せたのは、前句の「水さびて」に、河骨・沢潟なども、清水に生えたものと(比べると)格段に見苦しく、無駄に咲いて、見る人もない心持を言うために「ちりの世」と結びます。(むろん)元禄のトレンドとはいえ、このような軽い句柄ばかり付け並べては、意味も浅く、おもしろみもない。

【三工程】
(前句)同じ京の水に替りの水さびて

  あだに咲きては見る人もなく 〔見込〕
     ↓
     河骨慈姑見る人もなく    〔趣向〕
     ↓
  河骨慈姑迄もちりの世     〔句作〕

前句「水さびて」から見る人もない水草を想定し〔見込〕、〈なにが咲くのか〉と問うて、「河骨慈姑」とし〔趣向〕、「見る人もない」心持を言うために「ちりの世」と結んだ〔句作〕。

【テキスト考察】
自註での元禄風「かるき句がら」については、今榮藏『初期俳諧から芭蕉時代へ』に詳しいので、以下にママ引用しておく。

〈宗因風においてもかるい句、かるい付けようはたしかにしばしば叫ばれたが、元禄風ではまた、句体においては「やすらか」、付け方においてはぴったりと付けずに「ほのかにうつす事」が理想とされた。これはかるいと同義であり(中略)西鶴の自注は当流のこの傾向をふまえているといえるのである。〉

文中〈宗因風〉とはかつての談林風であり、〈元禄風〉とは当流の疎句体をさす。〈元禄風〉は〈宗因風〉を否定的媒体としつつ、詞付を離れ、より内容主義的な心行へと変化したことは、これまでみたとおりである。西鶴はその狭間で(ブレてはいないけれど)ゆれている。