2026年5月8日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗〕湊圭伍



湊圭伍





いやな世が来て新聞がおもしろい  柴田午朗

『柴田午朗句集―伯太川』(日本現代川柳叢書題18集)芸風書院、1990年。

今まさに「いやな世」が来ているが、べつに新聞は面白くならない。

という意味でこの句は嘘だなあ。

川柳は社会性や政治性から評価されることも多いけれども、その社会性や政治性は各時代のもろもろの状況にもたれ過ぎていて、時間が経つと雲散霧消する程度のものだ。同時代の、だいたい同じイデオロギーの人間の儚い共感を呼ぶために、社会や政治が使われてきたのだ。

掲句はしかし、そうしたベタな川柳の社会性、政治性からは辛うじて距離をとって、したがって、少なくとも今の時代でも興味をもって読み得る句になっている。「いやな世が来」たなあ、それと、「新聞がおもしろい」なあと、二つの印象がそれなりの納得をもってつなげられた時代があったのだという、現在からの発見が、現在にこの句を読むことにはある。

その発見の感覚が生じるのは、「いやな世が来て」まで7音、「新聞がおもしろい」の10音での2句の切れになっていて、2つの認識にそれぞれ一つのまとまりが充てられているからだ(それとは別に575音でも切れる安心感もあるが)。この2つの言葉=認識のまとまりに飛躍があることが句構造で明示されているのである。

 そこから、「いやな世が来」たのに、「新聞がおもしろ」くはないという、私たちの実感が、句の内容へのいささかの反発とともに立ち上がってくる。じゃあ、今、何が面白いのか。代わりになる面白いものがないように感じるとして、それがどうしたのか。

 そもそも、掲句で「おもしろい」と言っている主体は、本当に「おもしろい」と感じているようには思えない。多重に屈折したイロニーがそこにはあり、私たちの読みも最後には「おもしろい」という感情の社会性や政治性へと至る。この句と同じ視点に立てなくとも、私たち自身のメディアや言説の環境において、私たちは何を面白がらされているのか、について考えるのである。

2026年5月6日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #95

 

西鶴ざんまい #95
 
浅沼璞
 

 此の夕孤猿身を断つ峯の花  打越
  山吹しぼむ岸の毒水    前句
 神軍春の丸雪におどろかせ  付句(通算77句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏13句目。花の定座だが前述のとおり二句引き上げられている。  春(春の丸雪・あられ)。  神祇(神軍・かみいくさ)=神々の戦い、または神の軍勢。

【句意】
神々の軍勢は(時ならぬ)春の霰を降らせ(敵を)おどろかせる。

【付け・転じ】
毒魚による水の有毒化を、神軍によるものと見替えての転じ。

【自註】
*古代もろこしより**嶋人の数かぎりもなく海船に乗りつゞきて日本(に)渡りしを、***住吉明神をはじめとして、風の神、****番袋の口をあけて、俄に大風を吹かせ、雨の宮は時ならぬあられをうら/\にふらせ給へば、是(これ)皆毒液となつて、是はならぬとにげて行くとぞ。

*古代もろこしより……=奈良絵本「八幡本地」、謡曲「白楽天」などによる。 
**嶋人(しまびと)=外国人。ここでは唐土人。
***住吉明神=海の神として信仰された。〈住吉の神、近き境をしづめ守りたまふ〉(源氏・明石)。〈すみよしも力一ぱい神軍〉(大矢数・第二十一)。
****番袋(ばんぶくろ)=雑多なものを入れる大きな袋。ここでは風神の持つ風袋。

【意訳】
むかし唐土から唐土人が数限りなく船に乗ってつぎつぎ日本にやってきたのを、住吉明神をはじめとして(神々が集まり)、風神が風袋の口をあけて突然強風を吹かせ、雨の宮の神が季節外れの霰を浦々に降らせなさると、それによって海水はみな有毒化されて、これはいかんと(唐土人は皆)逃げ帰ったとか。

【三工程】
(前句)山吹しぼむ岸の毒水

  あらたかな住吉の神なし給ふ 〔見込〕
     ↓
  もろこしの海船つゞく神軍  〔趣向〕
     ↓
  神軍春の丸雪におどろかせ  〔句作〕

海水の有毒化を、住吉の神によるものと見替え〔見込〕、〈なにが目的か〉と問うて、唐土との海戦で相手の船を追い払うためとし〔趣向〕、春の霰による撃退法を素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】
神風の元ネタとして、前述のとおり「八幡本地」や「白楽天」を諸注はあげている。くわえて元寇に言及しているものもある(『訳注西鶴全集2』、『新編日本古典文学全集61』等)。しかし自註にある「あられ→毒液」の出どころは判然としない。元寇で毒矢が使われたのは知られているけれど、使ったのは敵側だし、霰とは関係がない。「あられ→毒液」は前句の「毒魚→毒水」を転じた西鶴の創作であろうか。元ネタの有無についてはもう少し調べてみる必要がありそうだ。

 

2026年5月1日金曜日

●金曜日の川柳〔西沢葉火〕まつりぺきん



まつりぺきん





ライターの音を一切消した窓  西沢葉火

静謐です。

ライターの点火音のような小さな音さえも聞こえない、密閉された空間。

それを成し遂げる「窓」の存在感。

「一切」には、内と外とが完全に切り離された、隔絶の風景を殊更に強調するニュアンスがあり、内面的世界の象徴のようにも感じます。

しかし「窓」である以上、音は聞こえなくても、外からライターの炎が見えてしまいます。

むしろ、聴覚を遮断することで、わざと注目させようとしているのかもしれません。

火はまだ消えていませんよ、と。

『クラドフレビス・レインボー』(2022)より。

2026年4月24日金曜日

●金曜日の川柳〔宮井いずみ〕暮田真名



暮田真名





ボヨンボヨン大王お見舞いにざぼん  宮井いずみ

「ボヨンボヨン大王」なる人物が、お見舞い品に果物の「ざぼん」を提げてやってきた。あるいは、「ボヨンボヨン大王」へのお見舞い品として「ざぼん」を持参した。おおむね、そのように読める句である。

この句の骨子を抜き出すならば、やはり「ボヨンボヨンざぼん」になるだろう。三拍の繰り返しが作る、ゴムまりのような弾み。「ボヨンボヨン大王」のビジュアルは、きっと「ハクション大魔王」のようではないだろうか。顔の輪郭も、お腹も、豊かに張り出ているだろう。

では残りの「大王お見舞いに」は蛇足かといえば、そうではない。全十八音のうち七音を占めるO音の二音を抑えつつ、「大王」の「大」という文字によって、世界最大級の柑橘類である「ざぼん」の大きさをも予感させているのだ。

さらに、「ざぼん」の「ぼん」は、「ボヨン」をコンパクトに収納したようでもある。「ざぼん」は、あるいは「ボヨンボヨン大王」の身代わりかもしれない。

2026年4月22日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #94

 

西鶴ざんまい #94
 
浅沼璞
 

  詩人時節の露を哀み    打越
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  前句
  山吹しぼむ岸の毒水    付句(通算76句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏12句目。  春(山吹)。  毒水(どくすい)=有毒の水。

【句意】
山吹をしぼませる、岸の有毒な水。

【付け・転じ】
猿の声を聞いて身を断つ詩人の伝統的哀感から、猿そのものが身を断つ状況へと転じた。

【自註】
湖の入江の流れを*毒鳥・毒魚のわたりて後、諸/\の**鱗も爰にすみかね、***うき波に沈めり。猿も子猿をつれて、不断、此の流れに口をそゝぎしに、毒水と成り、岸の草木までも枯れはつるを見てなげく有り様にしての付かた。

*毒鳥=〈異形異色の者、皆毒有り。恐らくは之を食ふ可からざるなり〉(『和漢三才図絵』44山禽類「諸鳥毒有る物」)。  **鱗(うろくづ)=魚類。いろくづ。  ***うき波=憂き波。

【意訳】
湖にそそぐ入江の流れを有毒の鳥や魚が渡った後は、諸々の魚類もここに生息できなくなり、汚染水に沈んでしまった。猿も子猿をつれて、いつもこの流れを口にしてきたが、有毒な水となり、岸の草木までも枯れはて、それを見て(猿も)なげく状況を想定した付け方(=元禄疎句体)である。

【三工程】
(前句)此の夕孤猿身を断つ峯の花

  口をそゝぐに憂き波となり 〔見込〕
     ↓
  毒魚わたれる入江の流れ  〔趣向〕
     ↓
  山吹しぼむ岸の毒水    〔句作〕

前句を猿自身がなげくほどの飲料水の汚染状況であるととらえ返し〔見込〕、〈なにが原因か〉と問うて、毒魚によるものとし〔趣向〕、結果として山吹まで枯れたことを素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『訳注西鶴全集2』では、前句の句意を〈一匹の猿がその身を断つが如き悲痛な聲で叫んでゐる〉とし、もともと身を断つのは猿自身であると解している。

しかし前回参照した〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉の芭蕉句のように、猿を聞く詩人の側が「猿の声に対して断腸の思いを詠んだ」という伝統がすでにあったことは明らかである(角川文庫版『芭蕉全句集』など)。

よって冒頭の「三句の渡り」における、打越の「詩人」を受けた前句にも同様の伝統がはたらいていたとみるのが自然だろう。『新編日本古典文学全集61』でも、前句は〈聞く人に断腸の思いをさせる、の意〉であり、付句は〈前句の「身を断」つ主体を、聞き手側でなく、猿自身とした付け〉としている。つまり「主体の転じ=三句の転じ」と解しているのである。