2022年7月1日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




大雨のうしろはきっと乳児室

倉本朝世 (くらもと・あさよ)1958-

乳児室について詳しくはない。実際に見たことさえない。ドラマでなら見たことがあって、間違ったイメージ、記憶違いかもしれないが、アクリルガラスかなにかで囲われたベッド? いやそれは身体トラブルへの対処か? それくらいに頼りない知識なのだが、ひとつ言えるのは、そこには乳児がいるということ、などと馬鹿げて当たり前のことしか言えないなか、乳児は「守られるべき」であり、それはオトナ=人類の視線や感情によって、ということであり、その庇護や愛情は、形状としてはドーム状だ。庇護や愛情のバリアの中で、乳児はすやすや眠ったり泣いたりする。ドームの天空から舞い降りるように、母親が乳を振る舞う瞬間もあるだろう。

さて、そこがどこか? といえば、「大雨のうしろ」。大雨って、カジュアルな意味では「天気悪い」し「大変」なんだろう。「いやあね」かもしれない。けれども、大雨もまたその過度な雨量ゆえに、カジュアルな日常から離れ、いわば神話的に、ドーム状となり、世界を取り囲む。

ふたつのドーム。言い換えれば、ふたつの環境、が配置される。

一句のなかに劇的な時空を感じてしまったわけですが、このことにストーリー的な前後はない。脈絡はない。前も後ろも絶たれた状態でのドラマチック。これこそが、いわゆる短詩の為し得る最上の快感なんだよなあ、などと、ふだんから思っているのですよ。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2022年6月29日水曜日

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2022年6月27日月曜日

●月曜日の一句〔小川楓子〕相子智恵



相子智恵







かるく相づちプール帰りの愛玉子  小川楓子

句集『ことり』(2022.5 港の人)所収

〈愛玉子〉は「オーギョーチ」。台湾北部に自生するイチジク科の植物で、果実からゼリーのようなデザートができる。台湾のスイーツだ。

プール帰り独特のふわふわと疲れた体を、台湾のスイーツを出すカフェで休ませているのだろう。〈相づち〉だから二人あるいは数人で食べている。〈かるく相づち〉のアンニュイな感じ、そして愛玉子のゼリーの透明感が、プール帰りのまったりした浮遊感のある疲れに響いている。

小川楓子氏の第一句集『ことり』は音韻やオノマトペの身体性など、語りたい魅力がたくさんある句集だ。句材としてはこのような食べ物が多く描かれていることも、ひとつのトーンをつくっていると言っていいだろう。

眠たげなこゑに生まれて鱈スープ

朝寒のエッグタルトを割る真剣

にんじんサラダわたし奥様ぢやないぞ

寒いなあコロッケパンのキャベツの力

朝暁のおかへりホールトマトの缶

霜のこゑときどきチーズのこゑもするとか

鯛焼や雨の端から晴れてゆく

〈鱈のスープ〉をすすりながら自分の声に思い至り、香港やマカオのスイーツ〈エッグタルト〉を割ることに真剣になる。〈にんじんサラダ〉はフレンチの「キャロット・ラペ」だろう。「奥様」と呼ばれていることから、デパ地下のお惣菜売り場ではないかと想像される。キャベツがシャキシャキの〈コロッケパン〉に、家に常備している〈ホールトマトの缶〉、〈チーズ〉〈鯛焼〉……カフェやテイクアウト、輸入食品も含めて、食べ物の句の中に日本の今の空気感がある。

そういえば、昨年刊行された小川楓子と同世代の佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』(左右社)にもこのような食べ物の句が多かった。そして世代が近い私も、この「家カフェ」的な気分には共感する。これらの食べ物は、気分は上がるけれど手が出ないほど高級ではなく、日常の範疇を越えない。これらを「日常の中の小さな幸せ」として味わうのは楽しい。

テレビではグルメリポート番組があふれているし(しかも食べ歩きやカフェ、ラーメンなど手の届くものが多い)それは小さな幸せを求める人々を容易にいざなう。しかし、それがひたひたと虚しくもあるのは、ロストジェネレーションの大きな疲弊の穴を、このような「日常の中の小さな幸せ」によって、小さな絆創膏でつなぎ止めながら生きているという思いが、自分の中のどこかにあるからなのかもしれない。

2022年6月24日金曜日

●金曜日の川柳〔小梶忠雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






うれしそうでしたうれしくなってくる

小梶忠雄 (こかじ・ただお)

「うれし」をキャッチして、絶妙の間を作り、「うれし」を交差している。どちらも主語は異なり、省略されている。前者は他者で後者は作者だろう。「うれしそうでした」とその様子を見て、あるいは、「うれしそうでした」と伝え聞いて、自分の気持ちを「うれしくなってくる」と素直に書いている。

「うれしそうでした」「うれしくなってくる」、たったこれだけの語彙で人の心の機微を拡大し、ほのぼのとした心情を浸透させていく。川柳が得意とする穿ちや皮肉などはここには一切ない。「川柳びわこ」(2022年刊)収録。

2022年6月22日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇7 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇7
 
浅沼璞
 

先ごろ神奈川県立金沢文庫の特別展「兼好法師と徒然草――いま解き明かす兼好法師の実像」を観てきました。
 
 
 
中世の隠者である兼好と近世の俳諧師西鶴――リンクしづらい感は否めないのですが、実は西鶴は『徒然草』の愛読者で、さまざまな引用を自作で試みています。

当然それは西鶴の生き方にも影響していたようで、先師・廣末保氏は〈西鶴については、兼好のなかに萌芽的にみられる市井の隠者の、町人的な展開を予想することができる〉としています(『芭蕉と西鶴』1963年)。
 
 
 
その兼好については、鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷に仕えた後、出家して『徒然草』を著した、というのが通説です。
 
ところがこの出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものであることが、小川剛生氏の『兼好法師――徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017年)により明らかとなりました。

本展でも国宝 称名寺聖教・金沢文庫文書を繙いて、若き兼好が金沢北条氏に仕え、朝廷と鎌倉を行き来していたことなど、知られざる実像を解明しています。
 
 
 
一方で本展では、「吉田兼好」と通称されるようになった近世期の版本も多く展示。

わけても『徒然草』ブームを牽引した絵入りの注釈書は、西鶴も享受したと思われますが、皮肉なことにそれらを著したのは貞徳や季吟など、貞門俳諧のリーダーたちでした。
 
 
 
そういえば西鶴は、『世間胸算用』のルーツとなる代表句、
  大晦日定めなき世のさだめ哉
の前書に、〈よし田の法師が書出しも、今もつて同じ年のくれぞかし〉としたためています(「画賛新十二ヶ月」)。
 
これは『徒然草』十九段で描かれた大晦日の、人の門(かど)をたたく魂祭りの風習を、借金取りのアクションに見立てた(?)俳文です。
 
つまり『世間胸算用』のルーツのルーツとして『徒然草』は捉えられるわけですが、更にここで改めて注視したいのは〈よし田の法師〉という呼称です。
 
通説に従って「吉田兼好」と教科書で習った私たち同様に、西鶴もまた〈よし田の法師〉と手習いで学んだのでしょう。

(最近の中高の教科書では、小川説の影響か「兼好法師」で統一されているようです。)
 
 
 
会期は7月24日(日)まで。

大晦日はまだまだ先ですが、門をたたいてみては如何でしょうか。