2026年8月22日土曜日

●金曜日の川柳〔海堀酔月〕八上桐子



八上桐子





向日葵の背中も見てやって下さい  海堀酔月

花の中でも向日葵は、大きさ、姿かたちから擬人化されやすい。顔に見立てられる花の正面から見ると、明るく生命力に満ちあふれている。「背中も見てやって下さい」は、後ろから見ても輝かしいではない。大きな頭を支える首は折れかかり、背中は心細げにも見える。太陽に向かって堂々と咲く向日葵の、あの背中もふくめた「生」を感じ取ってほしいと言うのだろうか。

正解だと思う 蒟蒻の固さ

足に合わない靴が一ばん美しい

骨は拾うな 煙の方がぼくなんだ

世間的な常識や正しさをずらしたところに、作者が発見する美や真実。一句、一句につい立ち止まってしまう。

『両忘』(2003年/現代川柳点鐘の会)

2026年8月19日水曜日

●西鶴ざんまい #101 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #101
 
浅沼璞
 

 外枕憶えなき身を祈りつめ  打越
  七の社の砂ぬすみぬる   前句
 同じ京の水に替りの水さびて 付句(通算83句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・表5句目=雑  七の社→京
水さびて=「訳註西鶴全集」では「水錆(みさび)」の意とする。
広辞苑「水錆」の項には〈溜り水などの水面に浮かぶ錆のようなもの。みしぶ〉とあり、「水の水錆にとぢられて」(千載和歌集・夏)を引く。
また「定本西鶴全集」では「澁びて」とあり、〈水の流停滞し水面に赤黒き濁りを生ずること〉とする。

【句意】
同じ京都でも水脈が変わり、水が錆びていて。

【付け・転じ】
前句「砂ぬすみぬる」原因について、水錆を砂で漉すためとした逆付。

【自註】
*水の水上なれば、京中に水のあしき所なし。自然と水筋悪敷(あしく)さびけるを、砂ごしにいたせる**心行にして付寄せ侍る。

*水の水上=「日本古典読本・西鶴」では〈水上は物の根源であるから、水の中での最上の水、の意であらう〉とし、「曲水の水の水上や鴻の池」(西鶴五百韵)を引く。ただし「曲水の水の水上」は「曲水の水源」という意。
**心行(こゝろゆき)=乾裕幸『俳諧師西鶴』では「砂→水さびて」の〈付心〉とする。
なお元禄期の付合集『俳諧小傘』に「砂―水越 ミヅコシ」とある。

【意訳】
最も水の良い地であるから、京都に水質のわるいところはない。(けれど)偶然にも水脈がわるく、錆びたその水を、砂漉しに致す所存で前句に付けたのです。

【三工程】
(前句)七の社の砂ぬすみぬる

  水を漉すことを皆々思いひつき 〔見込〕
     ↓
  自然にや水筋悪敷くさびけるを  〔趣向〕
     ↓
  同じ京の水に替りの水さびて  〔句作〕

前句「砂ぬすみぬる」原因について、水を砂で漉すためとし〔見込〕、〈なぜ砂で漉すのか〉と問うて、水錆が出たからとし〔趣向〕、「七の社→京」の縁から場所を設定した〔句作〕。

【テキスト考察】
文意に矛盾をきたしつつ、意表をつくのは西鶴散文(捩れ文)の特徴だが、今回の自註は短文とあって殊さら矛盾があらわで、意訳では「けれど」と補わざるをえなかった。これは三工程で想定したように「水を砂で漉す」という逆付を見込みつつ、「七の社→京」の縁から場所を京に設定するという工程で捩れが生じたためであろう。自註のとおり京が名水の地であるのは自明なのだから。

【若之氏メール】
これまた解釈の難儀な自註ですね。ひとつ思ったのですが、「水筋」を(地下の)「水脈」の意ではなく(地上の)「水の流れ」の意と捉えると、あるいは矛盾なく解釈しうるかもしれません。京の湧き水は水質が良すぎるから、川になって地上を流れると、おのずとすぐに水質が(もとに比べて)悪くなってしまう、というようにとることも、できないことはないのではないかと(やや苦しい気もしますが)。

2026年8月14日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕まつりぺきん



まつりぺきん





きゅうり揉み 船はもう出たのでしょうね  飯島章友

「きゅうり揉み」には、台所で手を動かす暮らしの感触があります。
一字あけによって一呼吸置かれ、続くのは「船はもう出たのでしょうね」という、つぶやくような言葉。
身近な台所から、句の空間が不意に水辺へと開かれていきます。

きゅうりからは、盆に故人の霊を迎える精霊馬が、船からは、盆に帰った霊を送る精霊流しが呼び起こされます。
迎えの支度で台所に立っているうちに、送りの船はもう出てしまったのでしょうか。
「もう出た」には、間に合わなかった悔いとも、見送るほかない諦めともつかない気配があります。

「でしょうね」は問いかけながら、すでに答えを受け入れている言い方でもあり、去りゆく者との確かめようのない距離を感じさせます。

故人の霊を迎えようとする思いと、見送りに間に合わなかった思い。
その二つが静かに重なり、やや苦みを帯びた寂寥を残す一句です。

「成長痛の月」(2021)より。

2026年8月9日日曜日

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2026年8月7日金曜日

●金曜日の川柳〔中山奈々〕まつりぺきん



まつりぺきん





死後ごめん海まで戻る自信ない  中山奈々

海をモチーフとした連作の最後の一句。

死ぬと自然に返るのなら、海は生命が生まれた場所であり、帰る場所でもあります。
それなのに、そこ「まで」、戻ることを確約できないというのです。

本当は戻りたいけれど戻っていいものかということへの躊躇いのようでもあり、戻る資格などないという自嘲のようでもあり、いずれにせよ、誰か(何か)への負い目のようなものを伴っているようです。

助詞を省いた「自信ない」には、頼りなさげに弱音を吐露するようなニュアンスがあり、死後のことまで先回りして心配する主体の優しさや寂寥感が滲みます。

また、上五で「死後」と「ごめん」が切れ目なく続くことは、「死んでから謝る」のか、「死後そのものへの詫び」なのか、その境界も曖昧です。

「ごめん」は現在の時制とも未来の時制とも読め、それは心の深いところにある、いつかの、誰かへの謝罪なのかもしれませんし、自分自身への謝罪なのかもしれません。

「しい」(『川柳EXPO2024』2024)より。