2026年6月5日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕西原天気



西原天気





どうしよう赤信号が幻に 千春

《赤信号が幻に》なった瞬間からの、この人のこの状態から推測するに、信号機のサインは、なんらかの標/導(しるべ)であったにちがいない(信号機側からすると、それは本懐だ)。

ここで、読者たる私が、この人に向かって告げることは、もう決まっている。

赤が幻になった以上、そこには青しかない。否、青も黄色もない。どうしようもないくりあ、どうにでもしていい、何をしようがかまわない、ということだと思いますよ、はい。

世界ぜんぶが、この人の意のままになる。この人のものになる。その一瞬手前の「どうしよう」。一歩手前の不安や逡巡。それは、歩き出す、駆け出す前の足踏みなのだと思います。

掲句は千春句集『こころ』(2024年4月15日/港の人)より。

2026年6月3日水曜日

●西鶴ざんまい#97 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #97
 
浅沼璞
 

 神軍春の丸雪におどろかせ  打越
  小車の錦八重の幕串    前句
 伽羅割の捺忘れ行く野は暮て 付句(通算79句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・裏1句目=折立。雑。
伽羅割の捺(きやらわりのなた)=香木を割る鉈。

【句意】
香木を割る鉈を忘れた(野遊びの後の)野原は暮れていく。

【付け・転じ】
神軍の錦や幕串を、女官たちの野遊びのそれと取成した転じ。

【自註】
*見わたせば都はにしきの幕うちて御所の女中の野あそび、**萩も薄も手折りて***捨草となれり。万のむしを追ひまはし、しどもなく日を暮し、今朝とは替り、道いそぐ風情、姿まばらになつて足音高く爰を立ちて、かへさの跡を、其の里の子、千種わけ行くに、つかひ捨てし楊枝に伽羅割の道具を取りおとされし。

*見わたせば都は=〈見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける〉(素性法師・古今集)
**萩も薄も=自註では秋の設定だが、付句では雑。
***捨草(すてぐさ)=抜き捨てた草。無用物のたとえでもある。

【意訳】
「見渡せば……」の古歌のとおり錦の幕を張り、禁中の女官たちの野遊び、萩も薄も手折って無用のものとなる。さまざまな秋の虫を追い回し、わけもなく一日過ごし、(往路の)今朝とは違い、帰路は急ぐ様子で、姿もまとまりなくばらけて足音を高く響かせ、ここを出て、その帰った跡を、村里の子供らが雑草を踏みわけて行くと、使い捨てた楊枝に、伽羅割の道具まで取り落とされたようで。

【三工程】
(前句)小車の錦八重の幕串

  見わたせば御所の女中の野あそびか 〔見込〕
     ↓
  しどもなく野あそびしては道いそぎ 〔趣向〕
     ↓
  伽羅割の捺忘れ行く野は暮て    〔句作〕

前句の錦や幕串を女官たちの野遊びのそれと取成し〔見込〕、〈どんな一日か〉と問うて、わけもなく乱雑な様子を描き〔趣向〕、挙句の果てに「伽羅割の捺」を忘れた、その夕景をクローズアップした〔句作〕。

【テキスト考察】
1686年刊『好色五人女』巻一ノ三には当世(江戸時代)の野遊びが描かれており、ここでも里の子が出てくる。時代設定は違っても、「野遊び→里の子」の流れは西鶴の好みであったのだろう。
原文を引いておこう。

「但馬屋の一家(=姫路のとある商家の女たち)、春の野遊びとて、女中籠つらせて、(中略)松も若緑立ちて、砂浜の気色、またあるまじき詠めぞかし。里の童子、さらへ手毎に落葉かきのけ、松露(しようろ)の春子を取るなど、菫・茅花を抜きしや……」

松露とは、海辺の松林に生える食用キノコ。

そういえば本作・独吟百韻33句目〈色うつる初茸つなぐ諸蔓(もろかづら)〉の自註にも地元の子供たちがキノコ採りをする描写があった。

2026年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔宇佐美眞一〕まつりぺきん



まつりぺきん





柔らかな拒絶の上に建てる塔  宇佐美眞一

「塔」と聞いて、何を思い浮かべるでしょう。五重塔、エッフェル塔、今なら東京スカイツリーでしょうか。
ただこの「塔」は、もっとプリミティブなもの――たとえばバベルの塔を連想させます。

単一の言語を奪われ、言葉を分かたれた人々が、相互の理解を断たれ、その共同性を失った物語。
そう考えると、「拒絶」という言葉にも納得がいきますが、この句はそこに「柔らかな」という形容を添えています。
拒絶という本来は硬い印象の行為が、なぜか柔らかい。断ち切りたいのに断ち切れない、人間の曖昧さが垣間見えます。

そして、その「柔らかな拒絶」の上に、また「塔」を建てるというのです。人間とは懲りないものですね(笑)
分断し、距離を取り、それでもまた新しい何かを築こうとする。まるで「今度こそ」と言いながら、結局は何度も同じ場所を歩いているように。

私たちは前進しているつもりで、実はメビウスの輪の上を歩いているだけなのかもしれない――そんな静かな問いを、この一句は投げかけているように思えます。

「フードコートへ放牧」(『ときどき放課後、ときどきパラソル』2025)より

2026年5月24日日曜日

【BOOK】 『音数で引く俳句歳時記・夏』『俳句講座 季語と定型を極める』

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岸本尚毅監修・西原天気編『音数で引く俳句歳時記・夏』

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2026年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔青砥和子〕まつりぺきん



まつりぺきん





副作用かもしれないプリン食べたい  青砥和子

「副作用」という言葉は、歩んできた人生経験や過ごした時間によって捉え方が変わりやすい、デリケートな言葉のひとつだと思います。

そういった少し重い語を頭に置いておきながら、軽やかにパロール味たっぷりな「プリン食べたい」。

重さをほんの少しやわらげています。何となくホッとしませんか?

前後の落差を考えると、破調でありながら口語的リズムがむしろ奏功しているように思います。

もし今後、「副作用」という言葉に多くの方がナーバスになる時代があったとしても、この句を思い出せば、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。

『雲に乗る』(2023)より。