西鶴ざんまい #102
浅沼璞
七の社の砂ぬすみぬる 打越
同じ京の水に替りの水さびて 前句
河骨慈姑迄もちりの世 付句(通算84句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
【付句】
名残ノ折・表6句目=夏=河骨(かうほね)、慈姑(おもだか)。
ちりの世=塵に「散り」を掛ける。
【句意】
(水錆によって)河骨・慈姑までも散る、塵のような世の中。
【付け・転じ】
前句「水さびて」から、見る人もない水草が無駄に散ってしまう(ような)塵の世へと転じた。
【自註】
此の句は、*行(ゆき)かたの俳諧也。水草の付よせは、前句の「水さびて」に河骨・おもだかなども清水に生出(おひいで)しとは格別に見ぐるしう、あだに咲きて見る人もなき**心行いはんがために「ちりの世」とはつかうまつる。***当流とて、かゝるかるき句がら計(ばかり)ならべては、意味浅くして、おもしろからず。
*行(ゆき)かたの俳諧=後述の「かるき句がら」に同じか。
**心行(こゝろゆき)=乾裕幸『俳諧師西鶴』では「ちりの世」に見込まれた「心持」「風情」とする。
***当流=元禄疎句体。
【意訳】
この句は軽く付けた俳諧である。水草によって付寄せたのは、前句の「水さびて」に、河骨・沢潟なども、清水に生えたものと(比べると)格段に見苦しく、無駄に咲いて、見る人もない心持を言うために「ちりの世」と結びます。(むろん)元禄のトレンドとはいえ、このような軽い句柄ばかり付け並べては、意味も浅く、おもしろみもない。
【三工程】
(前句)同じ京の水に替りの水さびて
あだに咲きては見る人もなく 〔見込〕
↓
河骨慈姑見る人もなく 〔趣向〕
↓
河骨慈姑迄もちりの世 〔句作〕
前句「水さびて」から見る人もない水草を想定し〔見込〕、〈なにが咲くのか〉と問うて、「河骨慈姑」とし〔趣向〕、「見る人もない」心持を言うために「ちりの世」と結んだ〔句作〕。
【テキスト考察】
自註での元禄風「かるき句がら」については、今榮藏『初期俳諧から芭蕉時代へ』に詳しいので、以下にママ引用しておく。
〈宗因風においてもかるい句、かるい付けようはたしかにしばしば叫ばれたが、元禄風ではまた、句体においては「やすらか」、付け方においてはぴったりと付けずに「ほのかにうつす事」が理想とされた。これはかるいと同義であり(中略)西鶴の自注は当流のこの傾向をふまえているといえるのである。〉
文中〈宗因風〉とはかつての談林風であり、〈元禄風〉とは当流の疎句体をさす。〈元禄風〉は〈宗因風〉を否定的媒体としつつ、詞付を離れ、より内容主義的な心行へと変化したことは、これまでみたとおりである。西鶴はその狭間で(ブレてはいないけれど)ゆれている。
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