2022年9月23日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






犬が来て笠置シヅ子の真似をする

楢崎進弘 (ならざき・のぶひろ) 1942~

「笠置シヅ子」と言えば、すぐに「東京ブギブギ」や「買物ブギー」、当時としては派手な衣装や振り付けを思い浮かぶ。犬が作者のところに来て、ブギブギの踊りを披露してくれたのだろうか。作者が笠置シヅ子の真似と見えただけで、犬はたぶんそんなつもりはない。人を追っ払うために怖がらせようとしたのだ。ただその姿がなんともおかしく、なつかしく思い出したのだろう。

それとも、作者が犬が来たので、笠置シヅ子の真似をして、見せたのだろうか。理由は犬と同様に追っ払うために、怖がらせるためか。それとも犬を笑わせようとしたのか。その姿を想像するだけでおかしい。犬も人も時には思いもよらないチグハグな行動をする。「浮遊機械Ⅲ」(2022年刊)収録。

2022年9月22日木曜日

〔俳誌拝読〕『静かな場所』第29号

〔俳誌拝読〕
『静かな場所』第29号(2022年9月15日)



A5判・本文30頁。発行人:対中いずみ、編集・デザイン:藤本夕衣。招待作品、同人諸氏作品がそれぞれ15句。特集、森賀まり『しみづあたたかくふくむ』鑑賞に同人3氏のほか、依光陽子、西村麒麟が寄稿。特別寄稿に四ツ谷龍「田中裕明俳句における正字の使用について」。シリーズ/連載に、若林哲哉、柳元祐太が寄稿。

山吹に溜る夕日となりにけり  千葉皓史(招待作品)

くちなはを水に放てばほぐれけり  森賀まり

水底の岩揺らしゐる春の波  対中いずみ

水抜かれ池しろじろと花石榴  藤本夕衣

雪催むかしの本の匂ひして  満田春日

(西原天気・記)



2022年9月21日水曜日

〔俳誌拝読〕『なんぢや』第58号

〔俳誌拝読〕
『なんぢや』第58号(2022年9月10日)


A5判・本文24頁。招待席に俳句5句、同人諸氏の10句作品と短文を掲載。

うたたねのさざなみが来る酔芙蓉  三宅やよい(招待席)

金魚売る店どぢやうのひつそりと  榎本亨

今日も湖見てをられるか生身魂  えのもとゆみ

太宰忌の高くて小さきバーの椅子  遠藤千鶴羽

かはほりや一粒逃ぐる百草丸  太田うさぎ

あめんぼう風に戻されつつ進む  金山桜子

かぎりなく水の色なる扇風機  川嶋一美

雨粒に長き葉しなふ秋ついり  のの季林

(西原天気・記)



2022年9月20日火曜日

〔俳誌拝読〕『ASYL(アジール)』第2号

〔俳誌拝読〕
『ASYL(アジール)』第2号(2022年8月)



A5判・本文28頁。同人諸氏の10句作品と短文。

桑の実のひとつ恋しき午後の五時  五十嵐秀彦

サンダルの片方犬が掻つ払ひ  田島ハル

六月の半透明の広辞苑  Fよしと

ケサランパサラン夢まで雷の匂ひ  土井探花

寄居虫見失ふ六度目の転校  近藤由香子

チューリングテスト終へたり冷奴  彼方ひらく

峰雲や汽笛はベタ塗りの午後へ  村上海斗

ことだまを吐ききり水中花展く  青山酔鳴

どのベンチにも炎帝が坐りをり  安藤由起

(西原天気・記)



2022年9月19日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐由紀子〕相子智恵



相子智恵







秋夕焼最晩年の父と見し  甲斐由紀子

句集『耳澄ます』(2022.7 ふらんす堂)所収

本句集は編年体で編まれており、後半は父の介護と看取りの句が大きな山場となっている。

  永眠の前の熟睡や水温む

  木の芽どき湯灌の膝のよく撓ふ

など、静かながら迫力に満ちた看取りの句は、掲句の次に巡り来る春の句の中にあった。つまり掲句は、父の最晩年を後から思い出して詠んだ回想の句ではない。「今が最晩年である」ということを、まさに今、父は生きながら、子は認識しながら、二人で見ている秋の夕焼なのである。そのことに私は凄味を感じた。

「最晩年」という言葉は、評伝のような書物に出てくる言葉である。ある人の死後、故人の人生を誰かが遡って語る時の言葉だ。しかし、介護をしていると明らかに「ただの晩年」ではなく、「最晩年だ」と感じるほどの衰弱に一定期間、向き合うことになる。その人の息に、食事に、排泄に、苦しみに神経をとがらせ、生きるための世話をしながらも、同時に死は近いのだという俯瞰した諦めと寂しさがある世界。

俳句というごく短い詩型によって引き出されたであろう「最晩年」という直截的な言葉は、そのすべてを物語っているのではなかろうか。背景を知らずに読めば回想の句として読めるが、私が感じたのは、そういう今を生きつつ詠んだ句としての凄味なのである。

それだけではない。父の死後にこの句を読めば、あの日父と見た秋夕焼を静かに、心安らかに思い出すことができる。この句はいわば「美しき回想の先取り」でもあり、未来の自分を慰撫してほしいという祈りをもまた、作者は込めたのではないだろうか。そしてそれはきっと一緒に夕焼を見ている父もまた、子のことを思えば同じ祈りをもったことであろう。

一句を取り出してみてもしみじみとするが、句集の中で読むことで、句の中に流れる時間性の不思議さや祈りが感じられてくる一句である。