2025年3月19日水曜日

西鶴ざんまい #76 浅沼璞


西鶴ざんまい #76
 
浅沼璞
 
 
 願ひに秋の氷取り行く    打越
吉野帋さくら細工に栬させ   前句
 鹿に連泣きすかす抱守    付句(通算58句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表8句目。 鹿=秋。 連泣き(つれなき)=ともに鳴く(泣く)謂。 すかす=宥めすかす。機嫌をとる。 抱守(だきもり)=子守をする抱き乳母。乳を与える乳乳母と区別。

【句意】鹿につられて泣く(乳児を)宥めすかす抱き乳母。

【付け・転じ】前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て、それで乳児をあやす抱き乳母を付けた。

【自註】「*紅葉に鹿」は正風の付合ながら、栬(もみぢ)に**付寄せのうとき物を付るよりは、是(これ)いつとてもよし。「花に蝶」「水に蛙」、***付よせ物也。前句の「作り花」を子どものもてあそびに付なし、「鹿とつれ泣き」と句作り、機嫌直しの花、紅葉にいたせし、抱き乳母が****才覚心なり。
*紅葉に鹿=〈付かたは梅に鶯、紅葉に鹿〉(本作・序)。  **付寄せのうとき物=縁語に寄らない付合。このへんの二律背反については今榮蔵氏の指摘あり(後述)。 ***付よせ物=付物と略す場合あり。 ****才覚心(さいかくしん)=9句目の自註に〈母親の才覚〉という用例あり。

【意訳】「紅葉に鹿」は連歌以来の伝統的な付合であって、わざわざ紅葉に縁の薄い言葉を付けるより、これは何時でもよく付く。「花に蝶」「水に蛙」、これらも縁語である。前句の「作り花」を子どもの玩具として見込み、「鹿とつれ泣き」と句作りし、機嫌直しの「作り花」を紅葉させたのは、抱き乳母の知恵・才覚である。

【三工程】
(前句)吉野帋さくら細工に栬させ

子どもらのもてあそびにぞよし 〔見込〕
 ↓
才覚心を見する抱き乳母    〔趣向〕
 ↓
鹿に連泣きすかす抱守     〔句作〕

前句の桜細工を乳児用の玩具に見立て〔見込〕、〈誰の才覚か〉と問うて、抱き乳母の知恵・才覚と見なし〔趣向〕、「紅葉に鹿」の伝統的な縁語によって具体化した〔句作〕。


今榮蔵さんの*研究によると、この『百韻自註絵巻』の四割が詞付けによる親句で、残り六割が元禄疎句体らしいです。
 
「そりゃ塩梅よう巻けとるいうことやろ」
 
でも今さん、けっこう辛口で、旧派の大物として親句に固執した面と、現俳壇の宗匠として新しい疎句体に妥協した面と、晩年の鶴翁は二律背反をおかしていた、って。
 
「ずいぶん意地のわるい見かたやな。元禄の新しい句作りを得たから『世間胸算用』が書けたんやで」
 
なるほど。『胸算用』は縁語の少ない新しい文体で書かれているってのが通説ですけど、それって俳風ともつながってたんですね。
 
「おなじ人間が創ってるんやから当たり前の話や。それを俳諧では〈妥協〉いうて難じるんは御門違いも甚だしいわ」
 
*『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院(2002年)

2025年3月14日金曜日

●金曜日の川柳〔小野五郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





老人が持ち歩いている紙の束

小野五郎

「紙の束」はなにか。札束かもしれない。ただのゴミの、無駄な紙屑かもしれない。老人が懐に札束を入れて徘徊している姿、あるいは町中のゴミを集め回っている姿を想像した。誰もが等しく「老人」になる。「老人」の確かな存在感を伴って、鈍角に描写している。「持ち歩いている」に心の裡が見えて、哀しさと切なさが倍増する。

豊かな消費社会への警告だろう。消費社会であるがゆえの喪失感が際立つ。この姿は私たち自身である。この句の底には根源的寂しさがある。言葉の意味を立ち上げながら、リアリティのある景を想像させ、川柳に仕上げている。「おかじょうき」(2025年刊)収録。

2025年3月10日月曜日

●月曜日の一句〔橋本小たか〕相子智恵



相子智恵






涅槃図の下半分を廊下より  橋本小たか

句集『鋏』(2024.8 青磁社)所収

想像力がうまく活かされた句である。

涅槃図の下半分が、廊下から見えている……ということは、上半分が見えていないということだから、廊下と部屋を隔てているのは雪見障子なのではないかと想像されてくる。そこから、寺院の様子が目に浮かんでくるのである。

下半分ということは、きっと泣いている人々や動物たちは見えているものの、お釈迦さまは見えてはいないだろう。そこにどこか俳味も感じられてくる。

桃の日のふつくら閉まる海苔の缶

春の句からもう一句。この句も好きな句だ。円筒形の海苔の缶を想像した。茶筒もそうだが、海苔の缶は湿気を防ぐためにきっちりふたが閉まるように作られているから、締める時、中の空気の抵抗を感じる。確かに〈ふつくら閉まる〉だなあ、と思う。

取り合わせの〈桃の日〉がめでたくて、春の息吹が〈ふっくら〉感じられてくる季節でもあり、よく響き合う。雛祭りにお寿司を作ったのかな、という想像もされてくる。こちらも想像力をよく活かした句だ。

 

2025年3月7日金曜日

●金曜日の川柳〔芳賀博子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ハイヒールマラソン ライバルは何処へ  芳賀博子

走りにくくて、記録も出ないし、転倒する選手も続出するだろう。と思うそれ以前に、ずいぶんとうるさいはず。何十足かのハイヒールがものすごい音とともに大通りを通り過ぎるのは、壮観であると同時に騒音だ(しょうもなく音韻を揃えてみました)。

この《ライバル》は競技上のみならず、広く生き方の好敵手っぽい。なにせ《ハイヒールマラソン》などというケッタイなものに参加するほどの人なのだから。

と、ここまで妄想を綴ったところで、ひょっとして実際に存在するのではないか、と思い立ち、インターネット検索(安易)してみると、2024年10月13日のシカゴマラソンにハイヒールを履いて走った男性(35歳)の記事が見つかった。ただし、これは、ハイヒールマラソン、ハイヒールマラソンとは違う。

ハイヒールが象徴するジェンダーその他の社会的概念、はたまたフェティシズムにはあえて触れないが、なんだか、強烈に20世紀的な事物だとは思っているのです。

 銀座明るし針の踵で歩かねば 八木三日女(1963年)

2025年3月3日月曜日

●月曜日の一句〔中村和弘〕相子智恵



相子智恵






パイプ椅子耀く下に蝶死せり  中村和弘

句集『荊棘』(2024.11 ふらんす堂)所収

〈耀く〉とあるので、一脚というよりは複数のパイプ椅子の脚が重ねられているところを想像した。体育館の倉庫などにパイプ椅子が畳まれ、重ねられているような場面だ。高い窓から差し込む光。輝く椅子。その下には死んだ蝶。蝶はパイプ椅子を片づける時に圧されて死んだのか、それともパイプ椅子の陰に紛れ込んで、その命を終えたのかもしれない。

蝶を美しい季語、耀くものとして描くのではなく、美しいのは人工物のパイプ椅子が跳ね返す光であって、蝶は無残にも死んでいる。羽も粉々になっているかもしれない。その対比が何とも切なくぞっとする。

『荊棘』は、生物の生死が濃く描かれた句集だ。特に魚類の句が多いように思った。そのどれもが力強く、悲しい。

ごみ鯰濡らしておけば生きておる

鱶吊られどどと夏潮垂らしけり

海底に白き蟹群れ良夜かな

人間もまた、生物として。

人間の影こそ荊棘夜の秋

大寒のモダンバレエの肋かな

汚さ、寒々しさ、悲しみを、まっすぐに描き切る。