2020年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔中尾藻介〕樋口由紀子



樋口由紀子






好きだからする結婚はもう古い

中尾藻介 (なかお・もすけ) 1917~1998

子どものころ、自分たちの親は恋愛結婚なのかお見合い結婚なのか話題になったことがある。そういうことが気になる年頃であった。たぶん、半々だったような気がする。私の両親はお見合い結婚で、遠距離だったせいか、母などは結婚式の日に父に初めて会ったと聞いて、びっくりした。さすがに父は事前にこっそり見に行ったそうだが。

時代を反映した川柳である。「恋愛」というのがもてはやされていた時代だったのだろう。今だったら、「結婚」自体が「もう古い」と思われている節もある。恋愛結婚に憧れている人たちをチクリと皮肉り、先を見通している。風潮に流されない見つけをするのも川柳眼である。当時の私は恋愛結婚の両親を持つ友をなんとなく羨ましいと思っていたのだから、思い切り世相のど真ん中にいて、川柳眼などはまったくなかった。

2020年1月23日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








俳言で申すや慮外御代の春   西鶴
『歳旦発句集』(延宝二年・1674)

「御代の春」で徳川の世を寿いだ歳旦吟。



俳言(はいごん)というと俗語をすぐに思い浮かべるが、ここでは漢語をさす。雅語・歌語ではない俳言。

具体的には慮外(りよぐわい)という漢語をさしている。「慮外」は無礼という意味。



「や」は「は」「も」等に代替可能な助詞的用法であろう。だから句は中七で軽く切れる。

ご無礼ながら俳言でお祝い申す、というのである。


生玉万句興行ののち、西山宗因の「西」を頂き、鶴永を「西鶴」と改号したころの作。

「慮外」と憚りながら、新町あたりを闊歩する若き談林の雄姿を髣髴とさせよう。

2020年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔宮田應孝〕相子智恵



相子智恵







名古屋晴関ヶ原雪京都晴   宮田應孝

句集『空の涯』(ふらんす堂 2019.11)所載

地名と天候だけでできていて、面白い。東海道新幹線の車窓の景色を思った。名古屋駅付近では晴れていたが、関ヶ原、米原のあたりでは雪が降っており、そして京都に着けば、また晴れているのである。自動車の旅でもよいのだろうが、このスピード感のある調子のよい味わいは、やはり新幹線の速さだろう。確かに関ヶ原のあたりは雪のことが多い。

〈関ヶ原〉の地名が効いている。土地の雪深さはもちろんのこと、戦国時代最後の戦い「関ヶ原の戦い」が思われ、雪の荒々しさ、激しさを想像させるのだ。

そして、この雪の匂いと湿り気を保ったまま〈京都晴〉まで読み進むと、今度はしんしんと底冷えのする、雪晴れの京都が心に浮かぶ。〈名古屋晴〉と〈京都晴〉では、その晴れ方も空の色も違う。私には、名古屋には雪がなく、京都では雪が積もっているように感じられた。

単純な仕立ての中に、深みと大きさ、スピード感があり、これも五七五の短い俳句ならではの表現だな、と思う。

2020年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






それぞれに死者青葱をぶらさげて

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

年末に堺利彦監修の『石部明の川柳と挑発』(新葉館出版)が出版された。満面の笑みの石部の写真が懐かしい。亡くなってもう七年が過ぎた。

彼はつねづね「川柳で大嘘を書いてみたい」と言っていた。掲句もその極みだろう。まずこの世で死者に会うことはない。まして、死者なんだから、青葱をぶらさげることもないはずである。しかし、この大嘘にまんまとのっかかってみようと思うものがある。彼の創りあげる死者たちは不気味でもなく、恐ろしくもない。ユーモアさえ漂わせ、どこかなつかしく親近感を覚える。彼らはどんな顔をして、青葱を持って、どこに行こうとしているのか。青葱は何を物語っているのか。そんな死者がすぐ近くにいるような気がする。『遊魔系』(2002年刊 詩遊社)所収。

2020年1月11日土曜日

●土曜日の読書〔抽象の下地〕小津夜景



小津夜景








抽象の下地

あなたは美術作品を見るとき、感動を理屈で説明したくなりますか?

わたしはいつも「すごーい」か「かわいい」ですんでしまう。わざわざ感動に理屈をかぶせる必要はないし、そもそも「すごい」という言葉で言い足りなさを感じたことがない。

とはいえ義理のある相手に求められれば、ある作品のおもしろさを、あえて理屈で説明することもある。わたしにとって義理のある相手といえばまずもって夫だが、この人はわりとむずかしい、わたしがじぶんの頭でかんがえたことのないような質問をたまにする。ヴァンスという村へバスで出かけ、マティスの最高傑作といわれるロザリオ礼拝堂を見学したときも、礼拝堂に入ってしばらくすると、

「この部屋って、なんか隠された意図とかあるの?」

とたずねてきた。ぜったいにそう来るだろうなと確信していたわたしは、アパートを出る前に目を通しておいた岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』のマティス論をぺろっとそのまま夫に喋った。

「かくかくしかじか、ということなの」
「へえ」
「でもね、いつも言うけど、いまわたしが喋ったことは話半分に聞いてね。とくに岡崎さんの書くものは知的興奮度が高い分、読者の頭を盲従的に、薄っぺらくしちゃう力も強い」
「うん。わかるよ」

で、いきなり話はとんで、今年の読み初めは、そんな岡崎乾二郎の「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館)だった。これはキュビスム以降の芸術の展開を追いつつ、近代日本美術における抽象の起源と条件を同時にかんがえてゆく論考なのだけれど、おもしろいのは抽象の表現の下地にフレーベル、モンテッソーリ、シュタイナーといった近代教育家たちの考案した教育遊戯を置くところである。たとえば1876年にはすでに日本に導入されていたフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲みつつ到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを解説する下り。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。「ぐるぐるまわる、うれしいな/ぐるっと向きをかえて うれしいな/赤ちゃん あなたもうれしいな(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)」(岡崎乾二郎「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」)
こうした世界把握の訓練方法を近代の抽象美術論につなげることで、著者は抽象の意味を視覚表現や静止表現に限定されないようにうまく工夫する。

で、その結果、すごく風通しがいい。

わたしは個人的に、影絵、風車、花火、噴水、あやとり、シャボン玉などモビール(動く彫刻)的要素のあるかたちに美しさや、かけがえのなさや、原初的な知的興奮を感じるたちなので、書かれていることがたいへん肌に合った。あ、あともういっこ、ゾフィー・トイベル=アルプのかわいい作品がいっぱい引用されているのもうれしかったな。