2026年4月17日金曜日

●金曜日の川柳〔北川絢一郎〕湊圭伍



湊圭伍





どの糸からもマリオネットは血を貰う  北川絢一郎

操り人形が活き活きと動いているとして、その活力は人形をぶら下げた糸を通じて操っている人物から来ている、というのは当たり前である。ただその活力を「血」と表現し、「血を貰う」として人形とそれを操るものの関係を示すと、急に状況が不穏に見えてくる。「どの糸からも」に示された人形の貪欲さも、この句の怖さを増幅している。

人形は生を持たないモノであり、操るひとは意志を持つ生き物である。この割り切りは分かりやすい。また、人形とそれを見事に操るひとは芸として一体で、共に私たちの視線に向けて生きてある。これも心地よい把握だ。ただ「マリオネット(操り人形)」が動くのを見るとき、上に張り詰めたり緩んだりして垂れている糸、人形に集中しているときは背景にぼんやりとしている操る人の影が見えている。この背後の影や、糸の捉えがたい動きが、私たちの無意識に働きかけている。

「マリオネットは血を貰」っているとしたら、その「血」は操り手のみから来ているものだろうか。人形に流れてゆく血はただその動きのみにきれいに置き換わるものだろうか。また、血を際限なく要求する「マリオネット」を、私たちは操り人形芸という気味の悪さはあるがあくまで優しい演芸以外にもあちこちで見る気がするのだが、どうだろうか。

北川絢一郎『泰山木』(私家版、1995年)より。

2026年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕まつりぺきん



まつりぺきん





マヨネーズ1本分の陽気です  藤井智史

さて、どうとらえましょうか。

マヨネーズ1本まるごと一気に使おうとするとなかなか難しいものですが、一生に使えるマヨネーズがたった1本とすれば、慎重にならざるをえません。

また、陽気も「春の陽気」のような気候・時候なら、限られた、貴重なあたたかさにも感じられますが、陰気に対する陽気のように性格を言い表すなら、それはそれで心中お察しいたしますという気分にもなります。

後者で読めば、場に水を差さないようにと、無理して陽気に振る舞っているようでなかなか辛いものがありますが、こう詠まれるとコミカルに感じられます。

「マヨネーズ1本分」というサイズ感で表すのが、絶妙ですよね(笑)

『十三月の追い風』(2024)より。

2026年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕湊圭伍



湊圭伍





春の夜の不思議なものに家族の眼  細川不凍

家族のまなざしはそのまま日常の関係だ。お互いによく知っていると思っているから、見ているつもりでも実はぜんぜん見ておらず、すでに観念になっていて、だからこそ、家族として平穏に暮らせているのかもしれない。

掲句では、「春の夜」という漠とした設定によって、一家は少しだけこうした関係から遊離し、即物的な「家族の眼」がすぐそこに浮かんでいる。それは同時に、語り手自身の身体がとりあえずは安定した日常的あり様からごろんと投げ出される体験であろうか。「不思議」とは元は仏教用語で、「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」という意味だそうだ(コトバンク)。家族の視線という日常が即「不思議」であるという体験が、この句の内容と言えるだろう。

というような読みをした上でこの句の読み味の核は何かと考え直すとそれは、唐突でかつ日常にはとり立てて影響もなく忘れられるだろうこの認識が、身体を欠いてぽかりと浮かぶ言葉として実現されている事態への驚きである。「不思議なもの」は実は珍しくもないのだろうが、私たちが剥き出しのそれに触れるのは稀である。『細川不凍集』邑書林、2005年。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。

2026年3月25日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #93

 

西鶴ざんまい #93
 
浅沼璞
 

 平調の笙の息つぎ静にて   打越
  詩人時節の露を哀み    前句
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  付句(通算75句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏11句目。  春(峰の花)=13句目・花の座の二句引き上げ。  季移り(前句の秋の「露」を春の「露」と見替える常套手段)。  孤猿=群れを逸れた猿。

【句意】
この夕べ、孤独な猿の声を聞く人は身を断つような気分だ(と伝え聞く)が、峰の桜は咲いている。
・参考〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉(芭蕉・野ざらし紀行)

【付け・転じ】
前句の詩人の露への哀感を、猿の声を聞く人のそれへと響かせ、山猿の取合せとして「峯の花」へと転じた。

【自註】
此の付けかたは、前句に、詩人、其の時節に消え行く露までもあはれみたるありさまを請けて、*詩の言葉を以て、「孤猿身を断つ」と一句に仕立てし。されば**巴峡の猿の鳴声、すぐれて物がなしく、哀れなる事、聞き伝へし。則ち***花所なれば「猿」の****取合せに「峯の花」也。
*詩の言葉=〈孤猿更ニ叫ブ秋風ノ裏、是レ愁人ニアラザルモ亦腸ヲ断タン〉(唐詩選・載叔倫・七絶)
**巴峡(はかふ)=揚子江の急流地帯における三峡のひとつ。
***花所(はなどころ)=花の定座。前述のとおり二句引き上げ。
****取合せ=「峯― 猿の声」(類船集)

【意訳】
この付け方は、前句の詩人がその時節に消えていく露までも哀れむ、そのありさまを受けて、漢詩の言葉を以て「孤猿身を断つ」と一句に作りあげた。そういえば揚子江の巴峡の猿の鳴声はとても物悲しく、哀れであることは既に聞き伝えていた。それに花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せたのである。

【三工程】
(前句)詩人時節の露を哀み

  聞き伝ふ孤猿身を断つほどにして 〔見込〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つほどにして  〔趣向〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つ峯の花    〔句作〕

前句の詩人の露への哀感をうけ、猿の声への断腸の思いを詠んだ詩を引き〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、「此の夕」と時分を定め〔趣向〕、花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せた〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』では〈「露」は秋季に限られないというので「花」を付けたのであろうが、秋から春への季移りもやや気になるところ〉とある。しかしこの面のように月の座と花の座が近い場合、秋から春へと季移りになるケースは珍しくない。『新版・連句への招待』(泉書院)では歌仙(=百韻の略式)でも似たケースのあるのに言及し、「月」「露」「雁」などが春季に見替えやすい言葉として「季移り」に多用される由、解説がある。