2024年7月26日金曜日

●金曜日の川柳〔野口裕〕樋口由紀子



樋口由紀子





綿棒を入道雲に突っ込んだ

野口裕(のぐち・ゆたか)1952~

今日も猛暑で入道雲がむくむくと張り出している。いつまでこの暑さが続くのだろう。うんざりする。風船に針を刺して、風船をしぼませるように、入道雲に綿棒を突っ込んで、入道雲を退散させたい、そう思ったのだろうか。それとも綿棒を突っ込んだら、耳掃除してもらうように気持ちよくて、入道雲はムクムクと動き出すと思ったのだろうか。どちらにしても子どものいたずらのような、遊び心満載の一句である。

実際にはありえない景を言葉で立ち上がらせている。愉快な発想で、想像を超えた臨場感がある。無為の行為への注目に人をくったようなユーモアがあり、独自の生命力と描写力にあふれている。

2024年7月24日水曜日

●西鶴ざんまい #64 浅沼璞


西鶴ざんまい #64
 
浅沼璞
 

 浅草しのぶをとこ傾城   打越
なづみぶし飛立つばかり都鳥 前句
 花夜となる月昼となる
   付句(通算46句目
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折、裏10句目。恋離れ。月の定座ながら13句目の花を引き上げて*春。
*月花=発句では風雅を表し、雑の扱い。連句では花をメインにして春に扱うが、一座一句が原則。なお芭蕉の〈月と花比良の高ねを北にして〉〈此島の餓鬼も手を摺る月と花〉〈有明におくるゝ花のたてあひて〉等はいずれも歌仙・初裏の月をこぼし、花の座で花と結んでいる。

【句意】やがて*花見は夜となり、月見は昼となる。
*〈花も散るに歎き、月は限りありて入佐山〉『好色一代男』冒頭

【付け・転じ】打越・前句=男娼に遊女の恋情を向かいあわせた付け。前句・付句=「なづみぶし」を舟遊びの余興と見立て、浅草(隅田川)との打越を避け、遊興の有限性をもって転じた。

【自註】*三筋の色糸程、人の気をうごかせる、又なし。殊更(ことさら)夏川の舟あそび、むかしは*九間市丸を*三つまた・*両国ばしのほとりにさしよせ、簾ほのかに遠音の撥(ばち)に波の声立て、士農工商のわけなく、思ひ/\の夕涼み、夜とも昼とも酒にわすれて現(うつゝ)にうかれたるありさま、此の川水に*命のせんたくと、身の養生しれる人のいへり。
*三筋(みすぢ)=三味線  *九間市丸(くまいちまる)=大型の屋形船。
*三つまた(三俣)=隅田川の分流点にして月見の名所。 *両国ばし=納涼の名所。
*命のせんたく(洗濯)=諺。日頃の苦労を忘れるための保養や気晴らし。

【意訳】三味線の音色ほど、人の気持ちを動かすものはほかにない。とりわけ夏の舟遊びに、昔は九間市丸を三俣や両国橋の辺に寄せ、簾を掛け、ほのかに遠音の撥の音に波の声をたてて、士農工商の身分の隔てなく、思い思いの夕涼み、夜も昼も酒に忘れて夢うつつに浮かれたありさま、(それは)この隅田川の水で「命の洗濯」をするのだと、心身の健康を心得た人が言った。

【三工程】
(前句)なづみぶし飛立つばかり都鳥

 両国ばしのほとりに遊び  〔見込〕
   ↓
 夜とも昼とも酒にわするゝ 〔趣向〕
   ↓
 花夜となる月昼となる    〔句作〕

「なづみぶし」を舟遊びの余興と見立て〔見込〕、どのような様子かと問いながら、昼夜を分かたぬ有りさまに着目し〔趣向〕、月の座に花を引き上げ、月花の有限性を詠んだ〔句作〕。

 
月の座に花を引き上げるなんて鶴翁もやりますね。
 
「そやで、蕉翁はなんやら出なかった月を花の座で拾うてるだけやけどな」(ドヤ顔)
 
でも鶴翁も〈*云ひぶんを分けておかるゝ月と花〉とか〈*月に花ちらする銀を当座借リ〉とか、花の座で月を拾ってますけど。
 
「……そやったか。……昔のことは忘れたがな」(渋面)
 
*云ひぶんを=「独吟一日千句(第九)」1675年。
*月に花=「大矢数(第十六)」1681年。

2024年7月22日月曜日

●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵



相子智恵






ぼうたんに昼を退(の)きゆく日影かな  岡田一実

句集『醒睡』(2024.5 青磁社)所収

「花の王」とされる大輪の牡丹の花。ややクシャっとした花弁の重なりは、遠目で見れば、幾重にも重なったフリルのように花の豪華さを印象づけ、近づいてみれば一枚一枚の花びらは、繊細な薄さをもっている。

そんな牡丹の花に、日の影ができている。〈昼を退きゆく日影〉というのは、昼が過ぎて夕方となった淡い日影、ということなのだろう。花の輪郭がうっすらと出る日影だ。

〈昼を退きゆく〉によって、逆にその前の時間、つまり昼真っ盛りの時間の、くっきりとした日影も想像させる。真昼の光に照らされた牡丹の花は豪華さを増し、その影も輪郭がくっきりして力強いことだろう。しかし、〈昼を退きゆく〉という今は、花も影も繊細さのほうが増してくるのである。

豪華さと繊細さが同居する牡丹の花に、昼と夕方という光の対比を重ね、時間と空間にふくらみと陰影をもたせた、味わい豊かな写生句である。
 

2024年7月19日金曜日

●金曜日の川柳〔木下愛日〕樋口由紀子



樋口由紀子





人はみな若き日をもつ角砂糖

木下愛日(きのした・あいじつ)1900~1984

喫茶店でコーヒーカップの皿に角砂糖が二個ついていた時代の川柳だろう。珈琲に入れるとみるみる砂糖が角から溶けて、跡形のなく消えて、珈琲が一気に甘くなった。人は誰でも角砂糖のように甘くて角がある若い日があった。

先日の句会で参加者の中で最高齢であった。若い人たちは眩しく、もうそういう年齢になったのかと軽いショックを受けた。あっという間に歳をとる。そんな心情を「角砂糖」に添わせている。甘さ、大きさ、形状を受けとめて、「角砂糖」の体言止めが効果的に使われている。『愛日』所収。

2024年7月15日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木しげを〕相子智恵



相子智恵






ペン抛げてさて冷麦にいたさむや  鈴木しげを

句集『普段』(2024.5 ふらんす堂)所収

〈ペン抛げて〉の勢いが楽しい。根を詰めて書いていた仕事を何とか終わらせた解放感、あるいは終わっていないけれど「ええい、今日はここまででいいや!」と勢いで決め、きっぱりと食事に切り替えた感じが生き生きと伝わってくる。

素麺よりも太い冷麦の野趣のある感じが、この豪快さとよく合っている。これが素麺では〈ペン抛げて〉に対して、ちょっと頼りないのである。同じ句集の中に

  筆に腰さうめんに腰秋はじめ

という句があって、こちらも筆と麺を並べて見せたところに、そこはかとない諧謔はあるのだが、それでもこの句は素麺の繊細さが、〈秋はじめ〉の微妙な季節の移り変わりを感じる心と相まって、やや上品な感じがする。

冷麦と素麺の微妙な素材の違い。それを的確に扱うという、何でもないようなことなのだが、そんなところからも、六十年、俳句と向き合ってきた人の、力を抜きつつも季語の急所を外さない、匙加減のよさを感じる。