2024年10月4日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



かなでは切れぬ樋口可南子かな  渡辺隆夫

たしかに。「ひぐちかなこ」は「ひぐちかな/こ」とはならない。

〈切れ〉の有無が問題になるのは、俳句だけではなく川柳も、なのかどうか、浅学にして存じ上げないけれど、〈切字〉が川柳で話題になるのをとんと聞いたことがない。きっと、〈切れ〉や〈切字〉は、川柳から見れば、俳句という向こう岸の出来事なのだろうと、勝手に思う。だから、この句、批評的に、対岸を眺めている句なのだと思う。

俳句にも俳人にも、とてもいいかげんなところがあるので、顰めっ面で〈切れ〉や〈切字〉を語るそばで、「かな?」と首をかしげるポーズが似合う〈かな〉や、「関西弁の語尾にしか聞こえない〈や〉に出会ったりして、いいかげんが別に悪いことではないのであるから、憤るほどのことでもない。古池やん蛙とびこむ水の音、と、一文字付け足すだけで関西弁にしたり、木犀の香にあけたての障子かな? は元の「?」がないかたちと、あんがい同様・同等の興趣があるような気もする。あるいは、下五をすべて「西野カナ」にして、「さあ、ぜんぶ切れてるぞ」と顰蹙を買う日々であっても、誰にも迷惑はかけない。おそらく。

掲句は、『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2024年10月2日水曜日

西鶴ざんまい #68 浅沼璞


西鶴ざんまい #68
 
浅沼璞
 

 弥生の鰒をにくや又売る    打越
山藤の覚束なきは楽出家     前句
 松に入日ををしむ碁の負(け) 付句(通算50句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折・裏14句目(綴目)。 碁(雑)=勝負事、闘争の範疇。  藤→松(類船集)。

【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。

【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。

【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。  *一大事=悟りを開くきっかけ。

【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。

【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家

  当座慰みなれど碁の負  〔見込〕
    ↓
  仏の道は外に碁の負   〔趣向〕
    ↓
  松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕

楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。

 
やっと五十韻にたどりつきました。

「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
 
わからないから、面白いんですよ。
 
「また禅問答みたようなこと言いよる。当世・政治屋のS構文かいな」
 
私は政治家ではないので政治屋のようなことは申しません。
 
「その言いようがSや言うとるんやで」
 
はい、その誤解は誤解のまま受け取っておきます。
 
「は?  これはあかんがな」

2024年9月30日月曜日

●月曜日の一句〔澤田和弥〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




台風の余韻の風の網戸かな  澤田和弥

台風が去ったあとも風は残る。《余韻》という表現は、空気の動きとしての風よりも、もっと、その湿度や、あるいは気分をも伝える。

《網戸》は、例えば雨戸を開けて現れた、つまり台風一過を示す事物であるとともに、夏の《余韻》でもあるだろう。

外(気象)と内(我=作者)の間に立つ《網戸》へと句が収斂し、《かな》と締めるこのかたちは、現象と時間、そして心持ちを、抑制的に伝えて、心地よい。姿かたちの良い句の醍醐味だ。

掲句は、初出『天為』平成26年(2014年)11月号。『澤田和弥句文集』(2024年10月/東京四季出版)より引いた。

澤田和弥(1980-2015)は、小誌『週刊俳句』にも多くの句文を残してくれた。遺句文集の発行を機に、あらためて氏とのわずかな交遊・かすかな交情に思いをはせたい。

2024年9月27日金曜日

●金曜日の川柳〔竹井紫乙〕樋口由紀子



樋口由紀子





袋いっぱいにかくかくの屍

竹井紫乙(たけい・しおと)

鶴彬に〈屍のゐないニュース映画で勇ましい〉という戦時中を詠んだ川柳がある。都合の悪いことは報道しないのは今も昔も変わらない。掲句はガザやウクライナの現在だろう。戦争は人間や生き物を殺し、必然的に屍を生む。私たちは今どんな世界に住んでいるのだろうか。

私には受けつけない、拒否感の強い言葉がある。その言葉が一句の中にあるというだけで見なかったことにしてしまう。「屍」もその一つであった。「屍」に「かくかくの」が付く。「各各」「赫赫」「斯く斯く」「核拡散」などのいろいろな漢字を当てはまり、その不気味さに立ち止まる。言葉にも、現実にも逃げないで、向き合わなければならないことがこの世の中にいっぱい存在している。

2024年9月24日火曜日

●月曜日の一句〔宮坂静生〕相子智恵



相子智恵






冷まじや家の中まで千曲川  宮坂静生

句集『鑑真』(2024.8 本阿弥書店)所収

このたびの能登の、地震の後の水害という理不尽さに心が痛む。

掲句は〈長野市長沼 四句〉と題されたうちの一句で、同地は2019年、台風19号に伴う千曲川の堤防の決壊で大水害に襲われた。淡々と描かれた恐ろしさがある。

〈月天心家のなかまで真葛原 河原枇杷男〉や〈五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村〉といった句も思い出される。これらの句は「千曲川」のように地域を特定しないからこそ、誰の心にも情景が思い浮かびやすい。普遍的な心細さがある句だ。

けれども、掲句のように地名(ここでは川の名だが)があることの、生傷のようにリアルな恐ろしさというのもまたあって、あの千曲川の川幅や蛇行、速さ、光や音や匂いなどが思い出されてきて、本能的な畏怖が湧いてくるのである。

そういえば最近では自然災害と関連して、先人が名づけた古い地名(水にまつわる地名や、土砂崩れの多い地の「蛇崩れ」という地名など)も見直されている。科学技術が発達していなかった時代、いつしかそう呼ばれていた名前に宿るメッセージ。

本句集の帯の、作者の言葉〈俳句は自己表現を超えた風土・地貌という自然のちからの僥倖(ぎょうこう)に恵まれないとなにも残らない〉というのは、作者の一貫した志である。「なにも残らない」は思い切った啖呵だが、地名や季語(という自然と切り離せない名前が多いもの)の中に「自分以外の力が宿っている」と微塵も信じることができないならば、自己の俳句表現にそれらを使うことは、確かに虚しいであろう。