2026年10月21日水曜日

●西鶴ざんまい 番外篇31 浅沼璞

 
西鶴ざんまい 番外篇31
 
浅沼璞
 

久々の番外篇です。というか、もう年の瀬も近いというのに今年初の番外篇。

昨年の暮に根津美術館の特別展「伊勢物語――美術が映す王朝の恋とうた」の見聞録を書いて以来となります。

こうなってしまったについては遠因があり、じつはこの「伊勢物語」展が発端でした。その見聞録でも書いたように、西鶴生誕の少し前、江戸時代の初めに挿絵入「伊勢物語」の版本(嵯峨本)が出版。それまでの写本による「知の専有化」の時代は、版本によって「知の共有化」の時代へと大きく転換したわけです。

これと似たことが「源氏物語」にもあって、それをこの番外篇で書いておこうかと軽く思ったのがそもそもの誤りでした。

くり返しますが江戸前期、「伊勢」の版本(嵯峨本)にあたるものが「源氏」にもありました。あの芭蕉の師・北村季吟による『湖月抄』(延宝3年刊)がそれです。延宝3年(1675年)といえば西鶴は34歳、他の俳諧師たちとともに版本『湖月抄』を介し「源氏」を共有化していたことでしょう。

で愚生も積読の一冊、講談社学術文庫版『湖月抄』を繙いたのはいいのですが、古註を網羅した注釈は次元を超える難解さで、難破を避けるため、けっきょく谷崎源氏や新潮日本古典集成などの櫂にも手をつけるハメとなり、遅々として進まず、ほぼ10ヶ月たった現在、54帖のうち漸う30帖を超えたあたりに接岸した次第。

このまま読了してから筆を漕ぐのであれば、年を越してしまうのは必至。さすがにこのあたりで一時トモヅナを解こうかと。

さて言い訳はともかく、じっさい読み進めていくと、『好色一代男』を「俗源氏」として捉えるような内容的な類似よりも、記述されたテキスト、つまり書かれたエクリチュールそのものに「西鶴」を発見することが多々ありました。詳細は次回にゆずるとして、一つだけ例をあげておきます。

  大晦日定めなき世のさだめかな  西鶴

〈なんの定めもない無常な浮き世にあって、大晦日だけは年間の貸借を総決算する定めの日である〉という発句。大晦日の経済生活を描いた『世間胸算用』のルーツのような句ですが、その更なるルーツは「源氏」にあるようです。

  命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき
   世のつねならぬ中のちぎりを (若菜 上)

女三宮を正妻に迎えた源氏に絶望した紫の上。その紫の上を慰めるかのように(取り繕うかのように?)源氏がおくった一首です。谷崎源氏(中公文庫)の頭注訳には〈命こそ限りがあるから、ついには絶えもしましょうが、私たち二人の間柄ばかりは、定めなき世の掟には似ず、永久に変わらないと誓った仲ですものを〉とあります。この定めなき世の常なる恋歌をルーツとして、定めなき世の常なる経済生活を詠んだのが西鶴ではなかったでしょうか。

次回は「源氏」(若菜 上)のより散文的な影響を『世間胸算用』に探ってみたいと思います。

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2026年10月20日火曜日

【イベントのお知らせ】たぶららさ、と言ってみたかった  わたしの俳句のつくりかた 小津夜景

【イベントのお知らせ】
たぶららさ、と言ってみたかった
――わたしの俳句のつくりかた

小津夜景


京都芸術大学で話をすることになった。アートライティング学科というところで、九十分。「小津さん、いろんなジャンルをまたいで創作をしてますよね。それについて話してください」とのことである。

創作について。

しばらくそのことばを眺めていた。眺めていても何も出てこないので、とりあえず原稿を書きはじめた。書いては消し、書いては消しているうちに、だんだんわかってきた。

わたしには、創作について話せることがない。話せるのは、自分の俳句をどうやってつくっているか、それだけなのだった。

しょうがない、俳句のことだけ話すか、と思った。思ったら少し楽になった。

それで自分の句集をひらいて、一句ずつ、これはどうしてできたのだっけ、と思い出してみた。この句は、たぶららさ、と言ってみたかった。この句は、一茶の句の形がうらやましかった。この句は、ぷるんぷるん、が先にあった。漢字三文字で十七音、というのもやった。忍者の句ばかりつくっていた秋もあった。とにかく退屈しないようにいろいろやった。

思い出しているうちに、なんだか楽しくなってきて、ノートに「〜したい!系」と書いて、句を分類してみた。わたしの句は、見たものや感じたもの、考えたものからではなく、たいてい「〜してみたいな!」からはじまっているらしい。知らなかった。

当日は、その欲望をいくつかの系統に分けて、実際の句を見ながらお話しするつもりです。句集の楽屋裏の公開にもなっています。会場に来られなくても、オンラインで聴いていただけます。無料ですので、どうぞ気軽に覗いてみてください。

【アートライティングコース特別講義】日本語を書く、日本語で書く。
●日時|2026年10月25日(日)15:00–16:30
●会場|京都芸術大学 瓜生山キャンパス 敬天館 KT13教室
    ZOOMとのハイブリッド開催
●参加|一般の方も聴講できます
    対面は要申込/ZOOMは申込不要
    申込フォームとZOOMのURLは画像のQRコードから




2026年10月19日月曜日

〔新刊〕 細村星一郎編『現代俳句フロンティア U-30俳句アンソロジー』

〔新刊〕
細村星一郎編『現代俳句フロンティア U-30俳句アンソロジー』


2026年10月/暁光堂

2026年10月16日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山進〕まつりぺきん



まつりぺきん





つまらない物を分母に持ってくる  丸山進

「何かを分母に持ってくる」は、数や式を分数線の下へ置く計算上の言い方です。
頭の中に一本の分数線が引かれ、その下へ「つまらない物」が運び込まれます。
ところが、線の上、分子が何なのかわかりません。それで何を割ろうとしているのでしょう。

さらに、「つまらない/物を」と、音数上の切れ目が形容詞と名詞のあいだに入ります。
上五の「つまらない」は、何をそう評しているのかをいったん宙に浮かせますが、「つまらない物」となると、贈り物を差し出すときの定型句を呼び寄せます。
「つまらない物ですが」は本当につまらない物を渡しているわけではなく、最初から小さな嘘を含んだ謙遜の決まり文句。
言葉の額面と本心とのずれまで、分母に置かれているようです。

答えの大きさを決めてしまう分母はあっても、線の上は最後まで空白のまま、割り切れるのかも分からない。
計算不能の式だけが、整った五七五のなかに残るのです。

『アルバトロス』(2005)より

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2026年10月9日金曜日

●金曜日の川柳〔城水めぐみ〕まつりぺきん



まつりぺきん





月へ行く たぶんあなたじゃないひとと  城水めぐみ

「月へ行く」――遠く、浮世離れした旅だからこそ、その隣には特別な誰かがいるものと思ってしまいます。
しかし、宣言のあと、一字空けの間を挟んで付け足されるのは、相手が「あなた」である可能性は低いという見通しです。

「たぶん」は、ここでは感情の迷いというより、未来の見積もりに聞こえます。
何かを知っている人だけが、そう言えます。何を知っているのかは書かれていません。
書かれているのは、否定が遅れて届くことだけ。

五七五の音数に沿って読めば、中七は「たぶんあなたじゃ」で終わり、否定の「ない」は下五まで持ち越されます。
一字空けで見せた切れ目の裏で、見えない切れ目が「あなたじゃ/ない」を割っています。
見通しはついている、それでも言い切るまでに、これだけの間を要するのです。

月へ行く。たぶん、あなたではない人と。
それなのに、月へ向かう未来には、誰よりも濃く「あなた」の影が残っています。

『甘藍の芽』(2023)より

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