2026年9月2日水曜日

●西鶴ざんまい #102 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #102
 
浅沼璞
 

  七の社の砂ぬすみぬる   打越
 同じ京の水に替りの水さびて 前句
  河骨慈姑迄もちりの世   付句(通算84句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・表6句目=夏=河骨(かうほね)、慈姑(おもだか)。
ちりの世=塵に「散り」を掛ける。

【句意】
(水錆によって)河骨・慈姑までも散る、塵のような世の中。

【付け・転じ】
前句「水さびて」から、見る人もない水草が無駄に散ってしまう(ような)塵の世へと転じた。

【自註】
此の句は、*行(ゆき)かたの俳諧也。水草の付よせは、前句の「水さびて」に河骨・おもだかなども清水に生出(おひいで)しとは格別に見ぐるしう、あだに咲きて見る人もなき**心行いはんがために「ちりの世」とはつかうまつる。***当流とて、かゝるかるき句がら計(ばかり)ならべては、意味浅くして、おもしろからず。

*行(ゆき)かたの俳諧=後述の「かるき句がら」に同じか。
**心行(こゝろゆき)=乾裕幸『俳諧師西鶴』では「ちりの世」に見込まれた「心持」「風情」とする。
***当流=元禄疎句体。

【意訳】
この句は軽く付けた俳諧である。水草によって付寄せたのは、前句の「水さびて」に、河骨・沢潟なども、清水に生えたものと(比べると)格段に見苦しく、無駄に咲いて、見る人もない心持を言うために「ちりの世」と結びます。(むろん)元禄のトレンドとはいえ、このような軽い句柄ばかり付け並べては、意味も浅く、おもしろみもない。

【三工程】
(前句)同じ京の水に替りの水さびて

  あだに咲きては見る人もなく 〔見込〕
     ↓
     河骨慈姑見る人もなく    〔趣向〕
     ↓
  河骨慈姑迄もちりの世     〔句作〕

前句「水さびて」から見る人もない水草を想定し〔見込〕、〈なにが咲くのか〉と問うて、「河骨慈姑」とし〔趣向〕、「見る人もない」心持を言うために「ちりの世」と結んだ〔句作〕。

【テキスト考察】
自註での元禄風「かるき句がら」については、今榮藏『初期俳諧から芭蕉時代へ』に詳しいので、以下にママ引用しておく。

〈宗因風においてもかるい句、かるい付けようはたしかにしばしば叫ばれたが、元禄風ではまた、句体においては「やすらか」、付け方においてはぴったりと付けずに「ほのかにうつす事」が理想とされた。これはかるいと同義であり(中略)西鶴の自注は当流のこの傾向をふまえているといえるのである。〉

文中〈宗因風〉とはかつての談林風であり、〈元禄風〉とは当流の疎句体をさす。〈元禄風〉は〈宗因風〉を否定的媒体としつつ、詞付を離れ、より内容主義的な心行へと変化したことは、これまでみたとおりである。西鶴はその狭間で(ブレてはいないけれど)ゆれている。

2026年8月28日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕暮田真名



暮田真名





未確認飛行物体(F・カフカ)  川合大祐

『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』に収録された溢れんばかりの固有名詞句の中でも、「極めつけ」とでも言うべき一句。たった二つのパーツを組み合わせて川柳ができるということを、われわれは「おはようございます ※個人の感想です」(兵藤全郎)によって知っているが、それにしても、だ。兵藤句は「※個人の感想です」によって「おはようございます」が既知のものではなくなるような感覚があるが、川合句は、「(F・カフカ)」によって「未確認飛行物体」が変化することはほとんどない。前者の性質を〈掛け算的〉と表現するならば、後者は〈足し算的〉だ。丸括弧の中に名前が入っているのを見れば、修飾する名詞の製作者か、それに付けられた名前か、と推測できることも、言葉の輪郭を確かにしている。

そして、わたしは川合川柳の〈足し算的〉な性格を、〈ぬい撮り的〉〈シール帳的〉だと思っている。〈ジオラマ的〉とも言えるだろう。カフカのフィギュアの隣に置かれた、UFOのミニチュア。

9月21日(月祝)の「ここザブ祭り」では、ここから発展した内容をお話しできればと思っています。ぜひご視聴ください。 

2026年8月27日木曜日

【新刊】定本 篠原鳳作全集

【新刊】
定本 篠原鳳作全集


前田霧人〔編〕 2025年6月10日/コールサック社



2026年8月22日土曜日

●金曜日の川柳〔海堀酔月〕八上桐子



八上桐子





向日葵の背中も見てやって下さい  海堀酔月

花の中でも向日葵は、大きさ、姿かたちから擬人化されやすい。顔に見立てられる花の正面から見ると、明るく生命力に満ちあふれている。「背中も見てやって下さい」は、後ろから見ても輝かしいではない。大きな頭を支える首は折れかかり、背中は心細げにも見える。太陽に向かって堂々と咲く向日葵の、あの背中もふくめた「生」を感じ取ってほしいと言うのだろうか。

正解だと思う 蒟蒻の固さ

足に合わない靴が一ばん美しい

骨は拾うな 煙の方がぼくなんだ

世間的な常識や正しさをずらしたところに、作者が発見する美や真実。一句、一句につい立ち止まってしまう。

『両忘』(2003年/現代川柳点鐘の会)

2026年8月19日水曜日

●西鶴ざんまい #101 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #101
 
浅沼璞
 

 外枕憶えなき身を祈りつめ  打越
  七の社の砂ぬすみぬる   前句
 同じ京の水に替りの水さびて 付句(通算83句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・表5句目=雑  七の社→京
水さびて=「訳註西鶴全集」では「水錆(みさび)」の意とする。
広辞苑「水錆」の項には〈溜り水などの水面に浮かぶ錆のようなもの。みしぶ〉とあり、「水の水錆にとぢられて」(千載和歌集・夏)を引く。
また「定本西鶴全集」では「澁びて」とあり、〈水の流停滞し水面に赤黒き濁りを生ずること〉とする。

【句意】
同じ京都でも水脈が変わり、水が錆びていて。

【付け・転じ】
前句「砂ぬすみぬる」原因について、水錆を砂で漉すためとした逆付。

【自註】
*水の水上なれば、京中に水のあしき所なし。自然と水筋悪敷(あしく)さびけるを、砂ごしにいたせる**心行にして付寄せ侍る。

*水の水上=「日本古典読本・西鶴」では〈水上は物の根源であるから、水の中での最上の水、の意であらう〉とし、「曲水の水の水上や鴻の池」(西鶴五百韵)を引く。ただし「曲水の水の水上」は「曲水の水源」という意。
**心行(こゝろゆき)=乾裕幸『俳諧師西鶴』では「砂→水さびて」の〈付心〉とする。
なお元禄期の付合集『俳諧小傘』に「砂―水越 ミヅコシ」とある。

【意訳】
最も水の良い地であるから、京都に水質のわるいところはない。(けれど)偶然にも水脈がわるく、錆びたその水を、砂漉しに致す所存で前句に付けたのです。

【三工程】
(前句)七の社の砂ぬすみぬる

  水を漉すことを皆々思いひつき 〔見込〕
     ↓
  自然にや水筋悪敷くさびけるを  〔趣向〕
     ↓
  同じ京の水に替りの水さびて  〔句作〕

前句「砂ぬすみぬる」原因について、水を砂で漉すためとし〔見込〕、〈なぜ砂で漉すのか〉と問うて、水錆が出たからとし〔趣向〕、「七の社→京」の縁から場所を設定した〔句作〕。

【テキスト考察】
文意に矛盾をきたしつつ、意表をつくのは西鶴散文(捩れ文)の特徴だが、今回の自註は短文とあって殊さら矛盾があらわで、意訳では「けれど」と補わざるをえなかった。これは三工程で想定したように「水を砂で漉す」という逆付を見込みつつ、「七の社→京」の縁から場所を京に設定するという工程で捩れが生じたためであろう。自註のとおり京が名水の地であるのは自明なのだから。

【若之氏メール】
これまた解釈の難儀な自註ですね。ひとつ思ったのですが、「水筋」を(地下の)「水脈」の意ではなく(地上の)「水の流れ」の意と捉えると、あるいは矛盾なく解釈しうるかもしれません。京の湧き水は水質が良すぎるから、川になって地上を流れると、おのずとすぐに水質が(もとに比べて)悪くなってしまう、というようにとることも、できないことはないのではないかと(やや苦しい気もしますが)。