2025年7月4日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



初恋の顔をしている将棋盤  樋口由紀子

四角くて、硬くて、平べったくて、おまけに縦横に直線が入っていて、おおよそ「初恋」の雰囲気とは程遠い、その顔、といっていいのだろうか、その顔を、じっと上から、いくら眺めても、やはり「初恋」には思えない。

といいつつも、初恋のなんたるかを、いつのどれが初恋だったのかを、知らない・わからない。のであれば、遠いも近いもないのであった。

さらには、はさみ将棋しかできない、となれば、理解のおよぶ景色ではない。

でも、それにしても、すごい顔だと思う。将棋盤が? 初恋が? どっちも。

掲句は『トイ』第15号(2025年6月1日)より。

2025年7月2日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇27 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇26
 
浅沼璞
 
 
じつは「横尾忠則――連画の河」展(世田谷美術館・4月26日~6月22日)のレポートを会期中に書くつもりでいたのですが、この猛暑の最中、体調不良にみまわれ、しばらく筆を執れずにいました。
 
けれど西鶴独吟ならぬ横尾独描の鮮烈な印象はなかなか脳裡を去らず、今こうして病み上がりの筆を執らずにはおれない次第です。


さて連歌に見立てた連画という趣向は折にふれて見聞きしてきました。
 
さしあたり手元にパンフのある『連画 十二人の詩と夢の交響楽』(1996年)について言えば、これは東京・大阪・京都・横浜の高島屋ギャラリーで開催されたもので、愚生は地元横浜の会場に足を運びました。タイトルのとおり、十二人の現代画家が歌仙の実作に取りくみ、その歌仙をネタに連画を描くという趣向の企画展でした。
 
その後この流れがどう展開したのか、門外漢の愚生には知る由もないのですが、いまパンフの作品群を見渡してみても各作家の個性が屹立して、水平的な連結が弱く、連画というより集団によるスタティックな連作という感が否めません。


いっぽう今回の横尾さんの独描連画(全64作)は、というと、たんなる連作ではなく、同一趣向の「見込み」を違えて、対付け・抜け・色立・逆付けなどが駆使され、独描の面白さの横溢するものでした。
 
同級生との群像写真をネタとした絵を発句に、その群像が、筏の川下りからメキシカンや歌舞伎の六方へと変容し、機関車・壺・シンゾー・三途の川・大谷・ゴーギャン等へ転じられていくそのスピード感はまさに圧巻。

挙句の自画像は言うまでもなく「仮の終止符」といったところで、ふたたび発句ならぬ発画へと取って返したい衝動にかられました。


ところでこの自己を他者へと転じるかのような横尾独描のスピード感は、あの西鶴独吟の矢数俳諧さながらの効果を生んでいるのは確かで、平野啓一郎さんもそのレポートで次のように指摘しています。

〈速く描くということは、絵画が絵画らしくあるための幾つかの利点を放棄することである。対象を深く存在論的に表象すること、細部の仕上げに拘ること、完成度を追求すること、主題を熟考すること、コンセプトに凝ること、……それらは確かに、美術作品としての説得力を増す。しかし、手放してみれば、芸術の創造的な自由は、遥かに明るく、伸びやかになる。〉(「大きな「絵画的なるもの」のうねり」『Numero TOKYO』7.8月号)

この放棄の思想、手放すメソッドの効用は、まさに自己を他者へと転じる独描・独吟のそれと表裏をなすものと言っていいでしょう。

放棄によって得られた〈創造的な自由は、明るく、伸びやか〉で、それを享受する者の心をも開放して止まないのです。

2025年6月30日月曜日

●月曜日の一句〔村上佳乃〕相子智恵



相子智恵






刺身二種盛り蛸とあとどないしよ  村上佳乃

句集『空へ』(2025.6 邑書林)所収

刺身の二種盛りを頼んだときの料理人(かつ店主であろう)の言葉を想像した。客自身がお品書きから二種を選べるシステムなのかもしれない(つまり、この言葉は客自身の言葉なのかもしれない)が、私は料理人の言葉と取るのが、面白いように思う。

チェーン店では決してありえない一瞬の会話、というか独り言である。店は一人で切り盛りしているか、せいぜい家族経営くらいのこぢんまりとした、常連客に愛される親しみのある居酒屋や寿司屋。〈どないしよ〉の関西弁の語り口がそんな場所であるような想像をさせてくれる。

蛸は今が一番おいしい季節なのだ。だからこれは決まり。あともう一品は、さて、何を盛り付けようか。これは何もなくて困っている〈どないしよ〉ではなく、おすすめが色々あって迷っている〈どないしよ〉だろう。蛸の隣に並べるなら……と思案する、料理人にとっても、客にとっても幸せな時間だ。他の料理も酒も、きっとおいしいだろうな。この店に行ってみたいと思わせる、生き生きとした一句である。

 

2025年6月27日金曜日

●金曜日の川柳〔郡司和斗〕樋口由紀子



樋口由紀子





耳が耳2になるのを止めましょう

郡司和斗(ぐんじ・かずと)1998~

「耳2」はただ「耳」をバージョンアップしただけで、耳には変わりがなく、それほどの差異はないと思っていた。しかし、「止めましょう」と言われて、はっとした。「耳」と「耳2」は似て非なるものなのかもしれない。「止めましょう」と自分の意見をダイレクトに持ち込んでいるが、作者はすっと引っ込み、姿はみせない。実にアナーキーで悪意に満ちている。

「耳2」は本来の「耳」から遠く離れて、変貌していて、別物になっている可能性だってある。この世とはそういうところだと世界を把握しているのか。「耳」と「耳2」が実在感を持って立ち上がってくる。決して感傷にふけないで、言葉を意識的に操作している。『川柳EXPO2025―柳―』(2025年刊)所収。

2025年6月20日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕樋口由紀子



樋口由紀子





えんとつそうじーえんとつそうじー

湊圭伍(みなと・けいご)1973~

えんとつそうじは絵本によく出てくる。えんとつはきれいになったが、えんとつそうじをした人は煤だらけで真っ黒、最後に手で鼻をぬぐって、鼻が黒くなるというのが定番であった。煙突掃除をしている人を描写しているのだろうか。あるいはサンタクロースを迎えるために、今から煙突掃除をするのだろうか。復唱していて、なにやら楽しげである。

ただそれだけのことを一句にするのはどこかヘンである。まして、川柳のセオリーからことごとく外れすぎている。「川柳はなんでもありの五七五」と渡辺隆夫が提唱したが、五七五でもなく、十七文字でもない。しかし、ここまで来るとあきれて読むしかない。ふざけているのか、ふざけたかったのか。作品を作るという気負いを感じさせない。『川柳EXPO 2025―川―』(2025年刊)所収。