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2025年6月30日月曜日

●月曜日の一句〔村上佳乃〕相子智恵



相子智恵






刺身二種盛り蛸とあとどないしよ  村上佳乃

句集『空へ』(2025.6 邑書林)所収

刺身の二種盛りを頼んだときの料理人(かつ店主であろう)の言葉を想像した。客自身がお品書きから二種を選べるシステムなのかもしれない(つまり、この言葉は客自身の言葉なのかもしれない)が、私は料理人の言葉と取るのが、面白いように思う。

チェーン店では決してありえない一瞬の会話、というか独り言である。店は一人で切り盛りしているか、せいぜい家族経営くらいのこぢんまりとした、常連客に愛される親しみのある居酒屋や寿司屋。〈どないしよ〉の関西弁の語り口がそんな場所であるような想像をさせてくれる。

蛸は今が一番おいしい季節なのだ。だからこれは決まり。あともう一品は、さて、何を盛り付けようか。これは何もなくて困っている〈どないしよ〉ではなく、おすすめが色々あって迷っている〈どないしよ〉だろう。蛸の隣に並べるなら……と思案する、料理人にとっても、客にとっても幸せな時間だ。他の料理も酒も、きっとおいしいだろうな。この店に行ってみたいと思わせる、生き生きとした一句である。

 

2025年6月9日月曜日

●月曜日の一句〔金子敦〕相子智恵



相子智恵






疾走の猫に抜かるる大神輿  金子敦

句集『ポケットの底』(2025.5 ふらんす堂)所収

印象鮮やかな一句だ。神輿は担ぐ人に注目されて詠まれる句が多いが、この視点は新鮮である。

神輿は大勢で「わっしょい」「せいや」などの掛け声で、小刻みに足を動かしながら練り歩くので、あまり早く進むものではない。大神輿であればなおさらだろう。担ぎ手は御旅所の神酒で酔っぱらったりしながら、大勢で賑やかに進んでゆく。

その脇をすり抜けていく〈疾走の猫〉。猫同士の喧嘩か、何かから逃げているようだ。祭の熱狂にお構いなしに、一気にしなやかに疾走してゆく。

普段はゆっくり眠ることが多い猫の疾走と、神輿を担ぎ、掛け声のリズムにトランス状態になっていく祭りの人々。疾走する猫によって、不思議と「祭りらしさ」「熱狂」がさらに強調されてくるようだ。

また、猫と神輿の組み合わせによって、下町の風情が感じられてくるところもいい。

 

2025年5月26日月曜日

●月曜日の一句〔竹岡佐緒理〕相子智恵



相子智恵






炎暑のフェス推しの登場まで五秒  竹岡佐緒理

句集『帰る場所』(2025.1 ふらんす堂)所収

〈フェス〉〈推し〉など、現代の風景や俗語を大胆に俳句に取り入れた、ライブ感のある一句だ。

夏の、野外の音楽フェスであろう。“推し”(現代の俗語で、人にすすめたいほど気に入っている人や物のこと)のアーティスト(歌手)が登場する前に、観客たちを巻き込み、5秒間のカウントダウンが始まる。「5、4、3、2、1」と会場が一体となって叫び、ボルテージは一気に高まり、その瞬間に推しのアーティストが歌いながら登場するのだ。耳をつんざくような音楽と、舞台の映像演出もきっと華やかであろう。

〈炎暑〉という季語はその厳しさから、〈つよき火を炊きて炎暑の道なほす 桂信子〉といった過酷な労働や、〈下北の首のあたりの炎暑かな 佐藤鬼房〉〈馬を見よ炎暑の馬の影を見よ 柿本多映〉など、どちらかというとやや内省的な暗さをもつイメージで使われることが多いように思う。

掲句は観客の熱気と〈炎暑〉が重なり、明るく健康的なパワーがみなぎっている。ワクワクする炎暑の句というのもめずらしい。

 

2025年5月12日月曜日

●月曜日の一句〔涼野海音〕相子智恵



相子智恵






金魚田の隅の波立つ夜明けかな  涼野海音

句集『虹』(2025.1 ふらんす堂)所収

印象鮮やかな句である。金魚田は、金魚の養殖に使われる池や田だが、現在のそれは、専用の養殖池であろう。

金魚も夜は静かに休息する。まぶたはないが、眠っているのである。掲句からは、隅の方に固まって休んでいたことが想像されてくる。そんな金魚たちは、夏の早い夜明けに起きだし、金魚田は隅の方から静かに波立ってくるのだ。

〈隅の波立つ〉の描写が、金魚の集まる習性をよく捉えていて見事である。そして、金魚の赤色(赤い金魚が想像される)と、夏の夜明けの茜色の対比が想像されてきて、繊細な美しい色の情景が、まぶたの裏に静かに浮かんでくるのである。

 

2025年4月21日月曜日

●月曜日の一句〔彌榮浩樹〕相子智恵



相子智恵






舌の上に黄金週間の飴が  彌榮浩樹

句集『銃爪蜂蜜 トリガー・ハニー』(2025.3 ふらんす堂)所収

気づいたら、来週からもうゴールデンウィークであった。
掲句、「舌の上に飴が」は些事中の些事であり、「舌の上に飴があるのは当たり前じゃん」の一言で鑑賞が終わってしまうくらい、ある意味、清々しいほどの「驚きのなさ」である。

そこに唐突に割り込んだ〈黄金週間の〉。この季語が、一句にぬけぬけとした面白味を与えている。何でもない飴が、光り輝く宝物のように思えるではないか。しかも「黄金週間」という張りぼてのような薄っぺらなネーミングが、妙に「舌の上の飴」という庶民的な些事と合っているのだ。

〈飴が〉の言いさしも効果的だ。気づいたら黄金週間に突入していて、でも自分は変わらず飴を舐めるような日常。

そんな時、わざと恭しい感じで「(おお、我が)舌の上に黄金週間の飴が」と言ってみた…その輝かしい虚しさ。自嘲的な雰囲気があるところが面白い。

 

2025年4月14日月曜日

●月曜日の一句〔河内文雄〕相子智恵



相子智恵






花莚立つも座るもこゑ出して  河内文雄

句集『加計比幾』(2025.2 ふらんす堂)所収

〈立つも座るもこゑ出して〉は、「よいしょ」「どっこらしょ」のような掛け声なのだろう。無言でスマートにスッと立ったり座ったりすることが少しずつ億劫になってきた、老いを感じる掛け声である。きっと〈花莚〉だけに限らず、いつも床に腰を下ろしたり立ち上がったりする時には、そのような声が出ているのだと思う。

しかし〈花莚〉の場面であるのが明るくていい。仲間と楽しく酒を酌み交わし、酔っぱらって足元が少しおぼつかなくなってきた様子も想像されてくるし、花見だからこそ、老いを感じる掛け声の中に、長寿へと向かう「めでたさ」が滲むのである。季語が違えば、老いの寂しさに焦点が当たる内容が、明るい俳味に転換された。

 

2025年3月31日月曜日

●月曜日の一句〔桐山太志〕相子智恵



相子智恵






山焼の匂ふ華厳の闇深し  桐山太志

句集『耳梨』(2023.12 ふらんす堂)所収

序文で師の小川軽舟は〈奈良仏教を代表する華厳宗の総本山が東大寺。ならば山焼は若草山か〉と読む。

もちろん〈華厳〉を、一瞬の中に永遠を含む「一即一切」の世界観で精神的に読んでもいいし、あるいは滝を思ってもよい。どのように読むかは読者に委ねられているのだが、句集名の『耳梨』は大和三山の「耳成山」の古代名であるというところからも、東大寺、若草山焼であると読むと、ひとつ世界が印象的になる。

一句単独ではなく、句集で俳句を読む醍醐味のひとつが、こうした読みができることかもしれない。まさしく「句集の顔」となる一句といえよう。それでいて、分かり過ぎない、漠として掴みがたい。そういうところもまた、美しい。

 

2025年3月10日月曜日

●月曜日の一句〔橋本小たか〕相子智恵



相子智恵






涅槃図の下半分を廊下より  橋本小たか

句集『鋏』(2024.8 青磁社)所収

想像力がうまく活かされた句である。

涅槃図の下半分が、廊下から見えている……ということは、上半分が見えていないということだから、廊下と部屋を隔てているのは雪見障子なのではないかと想像されてくる。そこから、寺院の様子が目に浮かんでくるのである。

下半分ということは、きっと泣いている人々や動物たちは見えているものの、お釈迦さまは見えてはいないだろう。そこにどこか俳味も感じられてくる。

桃の日のふつくら閉まる海苔の缶

春の句からもう一句。この句も好きな句だ。円筒形の海苔の缶を想像した。茶筒もそうだが、海苔の缶は湿気を防ぐためにきっちりふたが閉まるように作られているから、締める時、中の空気の抵抗を感じる。確かに〈ふつくら閉まる〉だなあ、と思う。

取り合わせの〈桃の日〉がめでたくて、春の息吹が〈ふっくら〉感じられてくる季節でもあり、よく響き合う。雛祭りにお寿司を作ったのかな、という想像もされてくる。こちらも想像力をよく活かした句だ。

 

2025年3月3日月曜日

●月曜日の一句〔中村和弘〕相子智恵



相子智恵






パイプ椅子耀く下に蝶死せり  中村和弘

句集『荊棘』(2024.11 ふらんす堂)所収

〈耀く〉とあるので、一脚というよりは複数のパイプ椅子の脚が重ねられているところを想像した。体育館の倉庫などにパイプ椅子が畳まれ、重ねられているような場面だ。高い窓から差し込む光。輝く椅子。その下には死んだ蝶。蝶はパイプ椅子を片づける時に圧されて死んだのか、それともパイプ椅子の陰に紛れ込んで、その命を終えたのかもしれない。

蝶を美しい季語、耀くものとして描くのではなく、美しいのは人工物のパイプ椅子が跳ね返す光であって、蝶は無残にも死んでいる。羽も粉々になっているかもしれない。その対比が何とも切なくぞっとする。

『荊棘』は、生物の生死が濃く描かれた句集だ。特に魚類の句が多いように思った。そのどれもが力強く、悲しい。

ごみ鯰濡らしておけば生きておる

鱶吊られどどと夏潮垂らしけり

海底に白き蟹群れ良夜かな

人間もまた、生物として。

人間の影こそ荊棘夜の秋

大寒のモダンバレエの肋かな

汚さ、寒々しさ、悲しみを、まっすぐに描き切る。

 

2025年2月17日月曜日

●月曜日の一句〔青木ともじ〕相子智恵



相子智恵






一応は在る花貝の蝶番  青木ともじ

句集『南のうを座』(2024.11 東京四季出版)所収

〈花貝〉は桜貝のこと。小さく薄い桜貝に、これまたちぎれそうに儚い蝶番がある。そう、〈一応は在る〉のだ。桜貝の貝殻を拾う時、蝶番が残っているもののほうが少ない。

掲句、〈蝶番〉を見つけたのが発見である。もちろん写生的な〈一応は在る〉という発見が優れているというだけではない。「花」と「蝶」という言葉のつながりの発見でもあるのだ。そう考えてみると掲句は「桜」ではなく、やはり「花」であるべきなのだな、と思う。

掲句の前の句は、次の一句だ。

 干す漁具の中に花貝残りけり

この句の実直さがあるから、掲句の発見が上滑りしない、という句集の妙味もあった。

 

2025年2月3日月曜日

●月曜日の一句〔草子洗〕相子智恵



相子智恵






うにやうにやとしやべりだす猫明日は春  草子洗

句集『由布久住』(2024.5 飯塚書店)所収

今年は昨日の2月2日が節分、3日の今日が立春となった。

掲句、節分である。明日は立春だな……と思っていたところに猫が〈うにやうにや〉と、まるで喋り出したかのように鳴いた。

〈しやべりだす〉は擬人化で、俳句の技法としてはあまり好まれないところだが、猫の鳴き声が人間のように聞こえるというのはよく経験することで、実感があった。猫の鳴き声が、赤ちゃんの泣き声に似ていてドキッとしたことが、筆者にも何度もある。

〈うにやうにやとしやべりだす猫〉の語呂や平仮名表記もよく考えられており、〈明日は春〉の下五も相まって「ア」の母音が多くて全体が明るい。猫も浮かれているように感じられてくる。そういえば、春は猫の恋の季節でもあるのだ。

 

2025年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔五島高資〕相子智恵



相子智恵






冬の星また埋め戻す遺跡かな  五島高資

句集『星辰』(2024.5 角川文化振興財団)所収

遺跡の発掘調査では、全ての記録作業が終わると、掘った遺跡は埋め戻されることが多い。その上に道路が敷かれたり、建物が立ったりすることもあるだろう。

かつてあった暮らしの痕跡。縄文時代から近代まで、そこに暮らした人たちも見上げていたであろう冬の星空。埋め戻しによって、また星空が見えない地中に戻るのだ。そして、埋め戻された同じ場所から星空を見上げている私たち。その遥かな巡り合わせに思いを馳せる。

日本の遺跡数は約46万箇所を越えるというから、今日もどこかで遺跡の埋め戻しが行われているかもしれない。決してめずらしくはない作業を描きながらも、〈冬の星〉によって非常にスケールの大きな一句となっている。

 

2025年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔佐々木紺〕相子智恵



相子智恵






寒禽のとほき光点窓に頬  佐々木紺

句集『平面と立体』(2024.1 文學の森)所収

冬の鳥が1羽、空高く飛んでいる。その姿は発光する1つの小さな点のように見えている。抜けるような冬青空なのだろう。

下五で場面は突如、〈窓に頬〉と切り替わる。これで、作中主体は窓に頬をくっつけて、室内から空高く飛ぶ鳥を眺めているのだということが分かる。作中主体が室内にいると規定されたことで、何か空や自由への憧れのような気持ちまで立ち現れてくるようだ。

窓からも入ってくる冬の日差しの眩しさ。しかし頬をくっつけた窓ガラスはひやりと冷たく、それが、暖房で火照った頬に気持ちよく感じられてくることだろう。

過不足ない言葉で、句の中に描かれていない冬の空の様子や頬の温度、そこから伝わる気持ちの機微など、句の背景をたっぷりと想像させる。

花冷やフルーツサンドやすませて

ブラウスのボタン薄くて蓬摘む

をさなごの白目の青く冬に入る

押し花のさいごの呼吸しぐれゆく

掲句を始めとして、書かれた言葉の外側(書かれていない想像の部分)に、光や湿度や温度などをしっかりイメージさせる句が多く、繊細で透明感のある句集であった。

 

2024年12月30日月曜日

●月曜日の一句〔福永法弘〕相子智恵



相子智恵






忘るるべきことも記せり古日記  福永法弘

句集『永』(2024.12 KADOKAWA)所収

新しい日記を買ったから、あるいはこれから買うから、今年あった「本当は忘れるべきだ」と思っていることまで、古いほうの日記の最後に書き記してみた。悔やんでも悔やみきれないことなのかもしれない。その思いを昇華させるために書く。

あるいは別の解釈もある。〈古日記〉を年末の感慨の中で読み返してみたら、過去の自分が書き残していたある日の日記が、今となっては「忘れるべきことだな」と気づいたのかもしれない。

いずれにせよ日記とは、その日の中で印象的な出来事を「忘れないために」書くものだ。そんな常識を、「忘れるべきものも書く」と真逆に転換させたところが面白い。

「忘れるべきだ」と思ったことほど、人間はいつまでも忘れずにくよくよするものである。〈忘るるべき〉の強さが、本当は忘れられないということを、反対に強く印象づけている。

 

2024年12月9日月曜日

●月曜日の一句〔西村麒麟〕相子智恵



相子智恵






綿虫の吹き飛んで行く浮御堂  西村麒麟

句集『鷗』(2024.7 港の人)所収

下五の〈浮御堂〉への展開に唸る。綿虫の頼りなさと、少しの風にあおられて吹き飛んでいってしまう様子はよくわかるなあ、と思って読み進めていくと、そこは浮御堂であり、琵琶湖の風だというのである。極小の綿虫と、湖上の堂との寄る辺なさのつながり。その向こうに見えてくる琵琶湖の波の光の中に消えていく綿虫の光。

〈さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝〉は音の名句だが、掲句も同様に「虫」「吹き」「行」「浮」あたりの音の運びも考えられているように思う。青畝の句が浮御堂の雨の名句であるのに対して、こちらは風だ。芭蕉も青畝も詠んだ浮御堂という拝枕に、また一句が加わったように思った。

 

2024年11月25日月曜日

●月曜日の一句〔三村純也〕相子智恵



相子智恵






大晦日一円玉を拾ひけり  三村純也

句集『高天』(2024.12 朔出版)所収

11月の終わりに少し先の句を……と思いつつ、あっという間に大晦日が来てしまうのだろうなと、ちょっとため息が出たりする。

さて、掲句。大晦日という一年の締めくくりの日に、道端かどこかで一円玉を拾った。落ちていても、一円玉ぽっちを交番に届けるのも憚られる気がするし(警察もきっと忙しい年末だ)、喜んで拾いたいというものでもない。きっと誰もが一瞥して素通りする一円玉。そのアルミの軽さ、傷だらけの白さ、拾った時の手ごたえのなさ……。

なんだか、年末の慌ただしさと感慨の中で、一円玉に立ち止まって拾う自分は、可笑しいような気もするし、ちょっと泣きたいような気もしてくる。俳味というのは案外難しいものだが、きっとこういう、一色ではない複雑な滑稽味のことを言うのだろう。

元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介〉という句もふと思ったりする。この一年を振り返る、大きな一日のような気がしている大晦日も、一円玉を拾うという何でもない一日でもあって、その落差が、よく考えてみると不思議な気がしてくる。

 

2024年11月11日月曜日

●月曜日の一句〔藤井あかり〕相子智恵



相子智恵






約束を交はすには息白すぎる  藤井あかり

句集『メゾティント』(2024.9 ふらんす堂)所収

冬が立った。すでに吐く息が白く見える地域もあることだろう。

掲句、息の白さを神聖なものとして受け止めている。約束は、もしかしたら守れないこともあるかもしれない。違えてしまう日がくるかもしれない。そんな約束を交わすには、この息は白すぎ、潔白すぎるというのだ。実際に目に見える息の白さから、その息を吐く人物の心の中の潔癖さにまで、「息白し」という季語を深めていく。
句集の後ろのほうにこんな句が出てくる。

  息白く我より長く生きろと言ふ

〈約束を交はすには〉の句を読んできた読者としては、この〈我より長く生きろと言ふ〉の祈りの重さ、言葉でまっすぐに約束することの重さが「息白し」の季語でつながり、先の句と相まって、さらに強く印象づけられる。

本句集はこのように繰り返し出てくる季語、モチーフというのが、わりと多いほうだが、そのたびに前に出てきた句に心が立ち戻ったりする。流れで読める句集というよりは、ページが進むごとに暗さの深まりも、息白しのような眩しさも折り重なっていく。陰影が深まりながら、流れずに積み重なっていくような読後感であった。
 

2024年10月21日月曜日

●月曜日の一句〔矢野玲奈〕相子智恵



相子智恵






虫籠を虫籠らしく土と枝  矢野玲奈

句集『薔薇園を出て』(2024.8 ティ・エム・ケイ出版部)所収

これは昔ながらの風情ある竹細工の虫籠ではなく、現代のプラスチックの透明な虫籠、いわゆる「飼育ケース」だろう。買ってきたばかりの状態は、いかにも無味乾燥だ。そこにふかふかの腐葉土と、どこかから拾ってきた枝を入れて、ようやく虫籠らしくなるのである。現代の都会の虫籠のリアルな姿が面白い。

この虫籠で飼うのは鈴虫だろうか。胡瓜などもエサとして入れているかもしれない。本句集には、

  保育園へは鈴虫に会ひに行く

という句もあって、この句も何気ないけれど現代らしい一コマである。都会では自然に鈴虫の声を聴くことは、もはや、なかなかかなわないものだから、保育園で飼育ケースに入れて飼っているのだ。子どもにとって珍しい鈴虫は、友達同様に〈会ひに行く〉存在。送り迎えをする親にとっても、もはや鈴虫は〈会ひに行く〉だったりするのだ。

 

2024年10月14日月曜日

●月曜日の一句〔広渡敬雄〕相子智恵



相子智恵






献杯は眉の高さに小鳥来る  広渡敬雄

句集『風紋』(2024.7 角川文化振興財団)所収

葬儀や法要のあとの会食の際に、故人を偲んで杯を上げる献杯。言われてみれば、献杯の高さは確かに眉のあたりだ。場面はシリアスであるのに悲しみを全面に打ち出さず、自分たちを俯瞰してみることで生まれるかすかな俳味がある。

小さな渡り鳥たちがやってきている。声だけではなくその姿が見えていることを思うと、都会の斎場ではなく、秋の山に近い場所なのだろう。あるいは斎場などではなく、自宅での法事の場面を想像してみてもよいかもしれない。

親戚や友人らが集まり、きっと空は秋晴れで、山は紅葉している。小鳥たちの声も姿も賑やかだ。この取り合わせによって、故人が愛される人柄だったことや、皆がこの後、賑やかに故人との思い出を語るのだろうな、ということまでもが想像されてくる。悲しみの中に、ふっと救われるような気持ちがしてくる一句である。

 

2024年9月24日火曜日

●月曜日の一句〔宮坂静生〕相子智恵



相子智恵






冷まじや家の中まで千曲川  宮坂静生

句集『鑑真』(2024.8 本阿弥書店)所収

このたびの能登の、地震の後の水害という理不尽さに心が痛む。

掲句は〈長野市長沼 四句〉と題されたうちの一句で、同地は2019年、台風19号に伴う千曲川の堤防の決壊で大水害に襲われた。淡々と描かれた恐ろしさがある。

〈月天心家のなかまで真葛原 河原枇杷男〉や〈五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村〉といった句も思い出される。これらの句は「千曲川」のように地域を特定しないからこそ、誰の心にも情景が思い浮かびやすい。普遍的な心細さがある句だ。

けれども、掲句のように地名(ここでは川の名だが)があることの、生傷のようにリアルな恐ろしさというのもまたあって、あの千曲川の川幅や蛇行、速さ、光や音や匂いなどが思い出されてきて、本能的な畏怖が湧いてくるのである。

そういえば最近では自然災害と関連して、先人が名づけた古い地名(水にまつわる地名や、土砂崩れの多い地の「蛇崩れ」という地名など)も見直されている。科学技術が発達していなかった時代、いつしかそう呼ばれていた名前に宿るメッセージ。

本句集の帯の、作者の言葉〈俳句は自己表現を超えた風土・地貌という自然のちからの僥倖(ぎょうこう)に恵まれないとなにも残らない〉というのは、作者の一貫した志である。「なにも残らない」は思い切った啖呵だが、地名や季語(という自然と切り離せない名前が多いもの)の中に「自分以外の力が宿っている」と微塵も信じることができないならば、自己の俳句表現にそれらを使うことは、確かに虚しいであろう。