2022年12月31日土曜日

◆2023年 新年詠 大募集

2023年 新年詠 大募集


新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールを添えてください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2023年11日(日)0:00~17日(土)0:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2022年12月30日金曜日

●金曜日の川柳〔久保田紺〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



アフロでもポニーテールでもこわい  久保田紺

「こわい」が多義的、つまり、どんな意味で「こわい」かに幅があることをまず前提として、この句で言っているのは、どんな人なのだろう、と、思いを巡らせてみる。

例えば私。ポニーテールだと、きっと絶対に、こわい。だが、アフロは意外に似合ったりすると思う。あるいは、さっきまでNetflixで観ていたドラマのヒロイン。どちらも似合いそう。かつ、こわくない。サッカーワールドカップでMVPの栄誉に輝いたメッシ選手も同様。一方、このあいだYouTubeで観たサックス奏者は、ポニーテールだと、こわい。アヴァンギャルドでフリーダムな旋律と相まって、すいぶんとこわい。けれども、アフロはきっちりとサマになる。こわくない。

こう考えていくと、この句にあてはまる人物像は、わりあい希少かもしれない。だが、半面、ごそっと大量に例が見つかる気もする。

みなさんもどうぞ、いろんな人を思い浮かべて、ポニーテールとアフロを載せてみてください。恋人に、夫に妻に、ご両親に、俳人なら主宰に。などなど。

こわいかこわくないかは別としても、彼らが闊歩する街角は、なかなかにファンキーじゃないですか。老若男女、ポニーテールとアフロしかいない街角。想像するだけで愉快に暮らせそうです。

なお、作者の久保田紺は2016年逝去。

掲句は久保田紺句集『大阪のかたち』(2015年5月/川柳カード)より。

2022年12月26日月曜日

●月曜日の一句〔恩田侑布子〕相子智恵



相子智恵






淡交をあの世この世に年暮るゝ  恩田侑布子

句集『はだかむし』(2022.11 角川書店)所収

各メディアでは今年のニュースを総集編で振り返る時期になってきて、せわしない年末に雪崩れ込みつつある。そんな今年最後の更新に、静かな年の暮の句を。

掲句、あっさりとした交際を、あの世の人とも、この世の人とも交わしている……そんな年の暮であるという。〈淡交〉の語は、荘子の「君子之交淡若水」による。君子の友との交わりは、水のように淡く、しかし友情はいつまでも変わることはない、といった意味だ。

ドロドロした煩わしさのない、一人ひとりの友との淡白なつながりは、細い絹糸のように静かな微光を放っている。読むと心が穏やかになるような句だ。

いいなあと思うのは、〈この世〉よりも先に〈あの世〉が出てくることである。〈あの世〉の人とは、かつてうっすらと交わった故人でもあるだろうし、また、会ったこともない歴史上の人物でもあるのかもしれない。書物の中で出あえば、それも自分にとっては淡交の友のひとりになろう。あるいは淡交の相手は人間ですら、なくてもいい。

そんな淡い交わりの微かな糸がキラキラと、自分の中に満ちてきて、今年も暮れていくのである。

2022年12月25日日曜日

〔人名さん〕永六輔

〔人名さん〕
永六輔


永六輔的セーターのみどり色  津田このみ


句集『木星酒場』(2018年8月/邑書林)より

2022年12月24日土曜日

●Driving Home For Christmas

Driving Home For Christmas

2022年12月23日金曜日

●金曜日の川柳〔木村半文銭〕樋口由紀子



樋口由紀子






運命と一緒に下駄をぬいで行き

木村半文銭 (きむら・はんもんせん) 1889~1953

古い映画や少し以前のテレビドラマでは柳の下とか橋の上とかに下駄が揃えて置いてあって、自ら死を選んだことを意味するワンパターンの映像があった。下駄が揃えて置いてあるのはもうこの世を歩かないから必要ないということであり、自分がこの世を歩いてきたという証でもある。

古川柳以来の川柳の特質に客観性があった。下駄を通して社会への懐疑の視線と命を見据えている作者がいる。自殺者を生み出す社会を批判しつつ、そこには社会不安ととともに作者が抱えている孤独や苦痛や絶望もにじんでいる。今年も自ら命を絶った人が二万人以上もいる。私たちは今どんな社会に生きているのだろうか。来年こそは心穏やかに暮らせる年であってほしい。

2022年12月21日水曜日

西鶴ざんまい #36 浅沼璞


西鶴ざんまい #36
 
浅沼璞
 
 
大晦日其暁に成にけり     前句(裏九句目)
 姫に四つ身の似よふ染衣
   付句
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】月の座だが、裏五句目に引きあげられているので、ここは雑。
姫(ひめ)=女の子。四つ身(よつみ)=子供着。自註にあるように小児の着物は「一つ身」なので、その四倍の布で裁つ。似よふ=現在も残る「似合ふ」の訛り。染衣(そめぎぬ)=染めた着物。自註によると正月小袖。


【句意】娘にも四つ身の染め色の晴れ着が似合うようになったなぁ。

【付け・転じ】掛払いをすませる「大晦日」を、人々が数え年を重ねる、その直前の晩と取り成した。

【自註】人の親の子に迷はざるはなし。それぞれそれ程の正月小袖、色を好みてことしまでは壱つ身なりしが、はや四つ身仕立(したて)にして、大年(おほどし)の夜きせそめて、春を見る心の嬉しくはやり、我と帯をせし事、年が薬ぞかし。
参考1〈人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな〉(『後撰集』十五・雑一)。参考2〈帯も手づから前に結びて、うしろにまはし〉(『好色一代男』巻一ノ一)。

【意訳】人の親として子に翻弄されない者はいない。それぞれ分相応の正月小袖を好みの色に染め、今年までは一つ身の小児用であったが、早くも四つ身の子供着を仕立て、大晦日の夜に初の試着。娘は新春を控えて興奮状態で、みずから帯をするほど。「年が薬」という諺どおり、年月が成長を促してくれる。

【三工程】
大晦日其暁に成にけり(前句)

みなみな齢重ねゆくなり  〔見込〕
  ↓
育ちゆく子は親の楽しみ  〔趣向〕
  ↓
姫に四つ身の似よふ染衣  〔句作〕

前句を、みんなが数え年を重ねる直前の大晦日とみて〔見込〕、〈どのような楽しみがあるのか〉と問いかけながら、愛娘の成長と思い定め〔趣向〕、「四つ身の晴れ着が似合うほど育った」という題材・表現を選んだ〔句作〕。

【先行研究】「定本西鶴全集」「新編日本古典文学全集」いずれも雑の句としている。
 

前句が「大晦日」で冬なら、ここも冬になるんじゃないですか。
 
「そない言うたかて季語がないやろ」
 
また確信犯というわけですか。
 
「冬は一句で捨ててもええし、花の座までちと間もあるし……」
 
なるほど、句意よりもエクリチュールで季をコントロールしてるんですね。
 
「ヱンドロール? まだまだ揚句は先やで」
 

2022年12月19日月曜日

●月曜日の一句〔小山玄紀〕相子智恵



相子智恵






旅せむと胸の柱をばらしておく  小山玄紀

句集『ぼうぶら』(2022.11 ふらんす堂)所収

一読で、心に広々とした風が吹くような気がした。
〈胸の柱〉--それは例えば「胸のつかえ」のような煩わしいものなのかもしれない。しかし同時に柱とは、それがなければ建物を立てることはできない重要なものだから、普段は自分の心をしっかりと立てておくために必要な、まさに「心の支え」のことでもあるのだろう。

そういえば神を数えるのにも「柱」という語が用いられるし、現代でいえば、チームのまとめ役のことを「精神的支柱」と言ったり、漫画の『鬼滅の刃』の鬼滅隊を支える人たちが「柱」と呼ばれていたりもする。「柱」とは、神聖さと引き換えに、なんという重苦さを背負わされているのだろう。

そうした〈胸の柱〉をばらして取っ払ってしまって、広々とした心で、これから旅に出るのである。心の中に軽やかな風が吹きわたる。

気持ちのよい句ではあるが、〈胸の柱〉を前提にしているところに作者の憂いや責任感の強さを感じなくもない。それは私たち社会人が少なからず感じている憂いや責任だ。だからこそ〈ばらしておく〉にも深く共感するのである。

これから旅支度をする時には思い出す句になりそうだ。連なるように「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という芭蕉の病中吟をふと思い出したのは、今が冬だからだろう。掲句は無季。春の旅、夏の旅、秋の旅の前に思い出したら、私の心の中に吹きわたる風の匂いもきっと変わる。それもまた楽しみである。

2022年12月16日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕樋口由紀子



樋口由紀子






反米で反共で反あいすくりん

湊圭伍 (みなと・けいご) 1973~

「反米」「反共」とはよく聞く政治的な用語である。しかし、「反あいすくりん」は聞いたことがない。「アイスクリン」とはアイスクリームの過去の呼称で、牛乳の代用品として、鶏卵や脱脂粉乳の使った、アイスクリーム風の安価な冷菓のことである。それを「あいすくりん」とわざわざひらがな表記にしているところにわざとらしさがあり、なんらかの意図が含まれている。

「反米」「反共」の流れで、あるいはふしまわしで、綾で飾って、「反あいすくりん」を持ち出してくる。悪意のある、おちょくりを感じる。「反米」「反共」をしらじらしく浮き上がらせている「反あいすくりん」に芸がある。

2022年12月12日月曜日

●月曜日の一句〔斉藤志歩〕相子智恵



相子智恵






再会や着ぶくれの背を打てば音  斉藤志歩

句集『水と茶』(2022.11 左右社)所収

〈着ぶくれ〉の質感が確かだなあ、と思う。薄着の時の、肩甲骨を感じるような硬い音ではなくて、ダウンコートのような服の厚みがもたらす、厚みのあるボフボフとした音。もしかしたらハグをして背を打ったのかもしれない。すると体全体の触覚と聴覚で〈着ぶくれ〉が感じられてくるのだ。斉藤氏の句はどれも一見すっと分かるのだが、実はその奥に、質感の多重性が感じられてくる句が多くて面白いと思った。他の冬の句を挙げてみよう。

足の間に鞄は厚し年の暮

置き場所がなくて足の間に置いた鞄。電車やカフェなどで、こういうことはよくある。ふくらはぎで改めて感じている厚みだ。これも触覚と視覚の両方で厚みを感じている。慌ただしい年の瀬がよく合う。

この宿のシャンプーよろし雪あかるし

冬雲や焼肉を締めくくるガム

どちらの句も些細なことを詠んでいるのだけれど、「ただごと」と読み飛ばしてしまってはもったいないよさがある。それが一瞬の中にある質感の多重性による「五感に訴える豊かさ」だ。

シャンプーの香りの嗅覚と髪の手触りの触覚に、雪明りの視覚。焼肉の最後のミントガムで口中はすっきりしつつも、体には焼肉の匂いが染みついていて油臭い。この味覚と嗅覚の奇妙な統一感のなさ。それを象徴するような、どんよりとした冬雲。これも味覚と嗅覚と視覚が一気に甦る。

解説で岸本尚毅氏が「手の甲にカーテン支ふ冬の月」の句に対して、〈この作品が読者にもたらす作用は、「伝達」というより、「再生」に近い〉と喝破したのは、この作者の句がもつよさを見事に言い当てている。句を頭の中に再生した時に、のっぺりしていなくて(それならば報告の域を出ないだろう)、VRの世界のように全身で体験できるのである。

2022年12月9日金曜日

●金曜日の川柳〔後藤閑人〕樋口由紀子



樋口由紀子






身の程は五尺十三貫五百

後藤閑人 (ごとう・かんじん) 1913~1980

「身の程」というのは自分の身分、地位、能力などをいうのであって、身体の大きさをいうのではない。五尺は151.5センチ、十三貫五百は50.6キロ。現代ではもちろん、この当時の男の人にしてもかなり小柄である。作者のことだろう。

自分はこれぐらいの人間だと自嘲ではなく自恃だろう。自分というものをよく知っている。私の父も男性としては小柄な方だった。だからというわけではないが、勤勉家で負けず嫌いだった。無理をしているなあと子ども心に思っていたこともあった。この句を見つけて、久しぶりに父を思い出した。

2022年12月7日水曜日

西鶴ざんまい #35 浅沼璞


西鶴ざんまい #35
 
浅沼璞
 
 
高野へあげる銀は先づ待て  前句(裏八句目)
 大晦日其暁に成にけり
    付句(裏九句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】大晦日(おほつごもり)で冬。其暁(そのあかつき)で釈教(弥勒が出世する暁)。其暁―高野山(類船集)。前句との折合を配慮しての「けり留め」(番外編11、参照)。

【句意】無事に大晦日も過ぎ、弥勒の其暁ならぬ元旦の暁になったなぁ。
参考〈一夜明れば、豊かなる春とぞ成ける〉(『世間胸算用』巻一ノ一)。

【付け・転じ】寄進の「銀は先づ待て」という前句の諫言を、大晦日の掛払い(大払い)を控えてのものと見なした。

【自註】商人の渡世いそがはしく、町人の家々は天秤・十露盤の音高く、大帳に付込(つけこみ)、一年中の算用づめとてかしかまし。殊更、夜の明る迄かけまはる事あり。其暁と句作せしは、高野山への付寄(つけよせ)也。

【意訳】商人の大晦日は忙しく、町の家々は天秤・算盤の音も高く、大福帳に収入を記し、一年の総決算とてやかましい。殊に夜の明けるまで集金(掛乞い)に駆け回るケースも多い。「其暁」と句作したのは、「高野山」の縁語として付けたのである。

【三工程】
高野へあげる銀は先づ待て(前句)

大晦日勘定済ますのが先ぞ    〔見込〕
  ↓
大晦日みそ屋こめ屋も済ませたり 〔趣向〕
  ↓
大晦日其暁に成にけり      〔句作〕

前句を、大節季の支払いを控えての諫言とみて〔見込〕、〈どのような借金があるのか〉と問いかけながら、味噌屋・米屋の支払いを済ませたと思い定め〔趣向〕、「弥勒の其暁よろしく無事一夜が明けた」という題材・表現を選んだ〔句作〕。

【先行研究】「新編日本古典文学全集」では〈遣句ふうの付け〉と評されている。
 

「なに言うてんねん。遣句ふう、と見せかけての〈抜け〉やで」
 
確信犯というわけですね。
 
「わしは犯人ちがうで」
 
えーと、犯人と見せかけての〈抜け〉ですか。
 
知らんがな。
 

[註]
この付句と自註には『徒然草』の影響がみらる。詳細は佐伯友紀子氏の「「西鶴独吟百韻自註絵巻」における『徒然草』享受の再検討」(「表現技術研究」四号、二〇〇八年三月、広島大学)に譲る。


2022年12月5日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






便箋はインクに目覚め冬の山  小川軽舟

句集『無辺』(2022.10 ふらんす堂)所収

まっさらな便箋に万年筆がインクを落としていく……つまり、文字が書かれていく。一枚の白い紙だった便箋は、万年筆のインクの滲みや掠れによって、一文字ずつ、文字が書かれたところから静かに眠りから覚めていく。何と美しい想像だろうか。便箋とインクの色は何色だろう。私は便箋は白、インクは藍色を思った。

取り合わせは〈冬の山〉。うっすらと雪が積もっているのかもしれない。山の静謐さが便箋と響きあう。今は静かな冬山はしかし、「山眠る」という季語の通りに、山に棲む生き物たちを静かに眠らせ、自らも眠りながら「生きて」いる。

便箋がインクに目覚めていったように、この冬山も春が来ればひとつずつ、木々や草花、虫や動物たちの命を目覚めさせていくのだ。

静謐な冬を、そしてその後には春の息吹が確かに巡ってくることを、無生物である紙とペン、冬山という生命を感じさせつつ眠るもの。このふたつの景のあわいで表現した、美しい一句である。

2022年12月2日金曜日

●金曜日の川柳〔中内火星〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ボクがダメになるまでの短い歴史  中内火星

たまに耳にする「人に歴史あり」というフレーズはテレビ番組名が発祥だそうで、この言い方にむず痒くなるのは、その歴史の「結果」として、りっぱな人間像が大仰に提示されることが前提となっているからだろう。たしかに人にはみなその人の歴史があるのだが(歴史皆無なら、むしろ神話的で凄い、のだけれど)、誰もが他人様に誇れるような歴史と現在というわけにはいかない。

その点、この句は、〈ダメになる〉というのだから節操がある(ダメになる前はダメじゃなかったわけか、という意地悪はさておき)。

だいたいにして、〈ボク〉とカタカナ書きの自称の時点で、この人、かなりダメだし。

(念のために言っておくと、私が言っている「ダメ」には、かなりの愛情と好感がこもっている)

でもって、〈短い歴史〉だ。それなりに長い、というのではない。またたくまにダメになっちゃったわけで、この人、作中主体だか作者だか、まあ、なんというか、もう、かなりダメです。

『What's』第3号(2022年10月25日)より。

2022年12月1日木曜日

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