2021年11月29日月曜日

●月曜日の一句〔加藤又三郎〕相子智恵



相子智恵







まんぼうを見て外套の軽くなる  加藤又三郎

句集『森』(2021.8 邑書林)所載

水族館で見た帰りなのだろう。不思議な形をしているまんぼうは、上下の鰭をくねらせながら、空を飛ぶようにゆっくりと進み、じっと見ていると不思議な浮遊感がある。まんぼうの入っている水槽は、たいていガランと殺風景で(いろんなものにぶつかってケガをしないようにしているらしい)寄る辺ない寒々しさがあって、個人的には冬に見たい水槽だ。

掲句〈外套の軽くなる〉には驚きつつ、実感があった。まんぼうの浮遊感が乗り移ったかのように、厚くて重かった外套が軽くなったような気がしたのだろう。それだけではなく、心の中に抱えていた重い鬱屈も、もはやどうでもよくなって、軽くなっているのだ。掲句を読んで、久々に私もまんぼうを見にいきたくなった。

2021年11月28日日曜日

【俳誌拝読】『ユプシロン』第4号(2022年11月1日)

【俳誌拝読】
『ユプシロン』第4号(2022年11月1日)


A5判、本文28ページ。同人4氏の俳句作品を各50句とたっぷり見せ、散文記事は「あとがき」のみ。

衛星に蝕の一日薔薇開く  中田美子

お降りをさつとワイパー拭ひけり  岡田由季

体からぼおと夜汽車が出ていく秋  小林かんな

どちらかを選べと迫る黒葡萄  仲田陽子

(西原天気・記)





2021年11月27日土曜日

●ジミ・ヘンドリックス降誕祭

ジミ・ヘンドリックス降誕祭

本日は藤田嗣治の誕生日であり松下幸之助の誕生日でありブルース・リーの誕生日でありジミ・ヘンドリックスの誕生日であり村田兆治の誕生日であり初代タイガーマスクの誕生日であり小室哲哉の誕生日であり浅野忠信の誕生日なのですね。

2021年11月26日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子






王様になりたい人はハンコください

なかはられいこ(1955~)

王様になりたい人はたくさんいるだろう。しかし、ハンコを持っていけばなれるものではないことは誰でもわかっている。「ハンコください」で王様になれるとは言っていないが、なにかヘン?書いている意味はわかるけど、すんなりと意味が通らない。のびのびと自由で軽妙をよそおいながら、「王様」と「ハンコ」は滑稽なイメージへと横すべりしていく。

「王様」も「ハンコ」もそれなりの威厳があるのに、意外なかたちで茶化されている。どこか人を食っていて、軽いタッチでいけしゃあしゃあと、現実とのズレを生じさせている。そこにはほのかな毒とアイロニカルなまなざしが潜んでいる。言葉の意味の段差を仕掛けている。

2021年11月24日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#3 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#3
 
浅沼璞
 

今年も押しつまってきましたが、平日に仕事の合間をぬい、西鶴に関連する企画展を二つほど訪ねてみました。

いずれも会期終了間近なので、番外編としてお知らせします。


まずは話題の永青文庫「柿衞文庫名品にみる芭蕉―不易と流行―」、後期展は11/3~12/5。

現在、兵庫県伊丹市の柿衞文庫は改修工事のため休館中ですが、西鶴関連の所蔵品も多く、ちょうど10年前には西鶴展があり、愚生もパネリストとして一座した思い出があります。
 
その折も公開されたお宝が芭蕉に紛れて東京でも見られるのですからラッキーです。
 
で、後期・出品リストに目をとめると――

・版本『西鶴織留』(北条団水編)2冊
・「皺箱や」句短冊 1幅
・自画賛「十二ヵ月」より八月(伊丹市指定文化財)1葉

自画賛「十二ヵ月」の横には岡田柿衞翁のノート「俳人遺墨帳1」(1948年)もあり、
西鶴画賛に関する貴重なメモを読むことができました。
 
また西鶴に影響を与えた先達の荒木田守武・句短冊や、先師梅翁・西山宗因の懐紙など貴重な展示もあり、思わず身をのり出してしまいました。

ちなみに隣接する「肥後細川庭園」は雪吊や紅葉がみられ、独り吟行にはよい頃合いかと。


さてお次は愚生の地元・横浜――神奈川近代文学館「樋口一葉展―わが詩は人のいのちとなりぬべき」、会期は11/28まで。もうギリギリです。

一葉は『日本永代蔵』の一章をまるまる暗唱するほどの西鶴フリークで、代表作『大つごもり』はタイトルからして『世間胸算用』の影響大。

その『大つごもり』をはじめ『にごりえ』『たけくらべ』等のナマ原稿が展示されており、流麗な筆致に我知らず見入った次第です。

ちなみにこちらも隣接する「港の見える丘公園」で冬薔薇がみられ、独り吟行も可。


「なんや独り吟行って、令和のご時世も独吟ばやりかいな」
 
はい、ソーシャル・ディスタンスとやらで、吟行もお独り様がトレンドです。
 
「連句の独吟ははやらんのかい」
 
コロナ禍、連句はZoomというので興行してまして……。
 
「……ずーむ? なんや、むーずかしそうやな」
 
はい、では、次回も番外編を続けます。

2021年11月22日月曜日

●月曜日の一句〔堀田季何〕相子智恵



相子智恵







息白く唄ふガス室までの距離  堀田季何

句集『人類の午後』(2021.8 邑書林)所載

この記事を書くにあたって奥付を見て気づいたが、発行日は2021年8月6日であった。あとがきで著者は、〈境涯や私性は、本集が目指すところではない〉と念を押しつつも、堀田家のほとんどが広島の原爆に殺されていることを明かしている。

この奥付にも象徴されるように、本句集は、俳句という詩で、人間の愚かで非道な歴史を、今を生きる我が事として引き受け、粘り強く思考し、痛みを刻み続ける冷静な一書である。と同時に、現代に生きる一人の作家の熱く縦横無尽な俳句に圧倒され、こちらの熱も純粋に反応して、はらわたが冷たくなったり熱くなったりする、稀有な読書体験をくれる句集であった。

各篇には前書きとして先人の言葉や諺が置かれている。掲句の篇に置かれているのは
〈リアリティとは、「ナチは私たち自身のやうに人間である」といふことだ。(ハンナ・アーレント)〉

すべてを奪われ、殺されるまでの身動きの取れない短い距離の中で、最後にできることは、息をすること、話すこと、唄うこと、祈ること。殺されるまでは、生きていること。

この、腹ががねじ切られるような圧倒的な悲しみと悔しさはなんだろう。しかも、殺す方も「ナチは私たち自身のように人間」なのだ。私達はどちらの側にもなりうるのだ。こんなに哀しくて悔しくてしょうがない「白息」の句を、私は初めて読んだ。

冬の句でもう一つ気になった一篇を。

雪女郞冷凍されて保管さる

毆られし痕よりとけて雪女郞

雪女郞融けよ爐心の代(しろ)として

雪女郞融けたる水や犬舐むる

の四句に作者が付した前書きは〈雪女郞、人權なき者。四句〉

『日本国語大辞典』によると、八朔の日に吉原遊郭で白無垢を着た遊女を「雪女郎」と詠んだ例が『柳多留』にはあるが、『図説 俳句大歳時記』の考証(宮本常一)と例句を読むと、意外にも俳諧には「雪女」はあっても「雪女郎」の句はない。「雪女郎」として詠まれたのは近代に入ってからなのだろう。〈人權なき者〉の境遇に置かれているのは女性ばかりではないが、冷凍保管も、〈毆られし〉も〈爐心の代〉も〈犬舐むる〉も、やはり哀しくて、悔しい。

※「雪」は異体字

2021年11月19日金曜日

●金曜日の川柳〔延原句沙弥〕樋口由紀子



樋口由紀子






香典を入れたかいなと透かして見

延原句沙弥(のぶはら・くしゃみ)1897~1959

香典袋にお金を入れたかどうか自信がないことは誰だって一度や二度は経験している。封をしているので、開けるわけにはいかず、明るいところで確かめている。典型的なあるある川柳である。「入れた」「透かし」「見」の具体性で時間と動作を決まり、人物が作り出される。生活の輪郭を色濃くし、人を滑稽に抽出する。

〈知ってゐる名前が喉でひっかかり〉など句沙弥は些細な、見過ごしてしまいそうな行為をうまく川柳のカタチにする。遊び心を以て、人を愉快に映し出している。『延原句沙弥川柳句集』所収。

2021年11月15日月曜日

●月曜日の一句〔櫨木優子〕相子智恵



相子智恵







かいつぶり眼くもれば潜りけり  櫨木優子

句集『忘れ水』(2021.6 ふらんす堂)所載

個人的な感じ方かもしれないが、私はかいつぶりの眼が怖い。丸いのに鋭くて、どこを見ているのか分からない感じが怖い。全身は鴨より小さくてかわいいのに、近づいてみると白目の部分の金色がピカッと光る。一点の曇りもないロボットみたいな眼光がどうも苦手である。黒目の小ささもあるのだろう。鷹や海猫の眼も怖いが、彼らの目にはもっと陰影がある。かいつぶりの眼には陰影がなく、ペタッと光っているので怖い。

さて、掲句。かいつぶりは眼が曇ったら潜るのだという。なるほど、あの鋭い眼光が曇ることもあるのだ。おなかがすいて眼がぼんやりすることもあるのかもしれない。そんな時には潜って魚を獲り、食べてまた眼光を鋭くするのだ。そう思えばかいつぶりも少しは親しみやすく思える。

アメリカ先住民の神話の中のかいつぶりは、水中に潜って陸地を作る材料を探し出す任務に挑み、他の動物や水鳥達が次々と失敗していく中、彼が最後に咥えてきた一握りの泥で、アメリカ大陸が作られたという。勇敢な鳥なのだ。やっぱりちょっと超人(超鳥?)的だ。ロボットみたいに。

2021年11月12日金曜日

●金曜日の川柳〔兵頭全郎〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




バックしますご注意くださいって泣くな

兵頭全郎 (ひょうどう・ぜんろう) 1969~

自動音声のほとんどは、おねえさんの声のようなが気がして(私が利用する自転車置き場では毎回、やはりおねえさんが「料金は100円です」とちょっと訛ったイントネーションで宣う)、これはジェンダー的に非対称の世界に私たちが暮らしているこの証左なのだろうが、その話は置いておこう。よく聴くのはゴミ収集車だろうか。警告音とともに、この「バックしますご注意ください」という声が流れる。バックにギアを入れたら(リバース・ギア)自動的に流れる仕組みらしい。

(これ、欲しい人は、アマゾンでも買えるみたい。簡易版だろうから、きっとギアとの連動はない。知らないけど)

で、なんの話かというと、日頃よく耳にする注意喚起の声を、末尾、《泣くな》の3音で受けたこの句。〈なんだか事情がわからないもの〉好きの私には垂涎の一句。どうわからないかを説明する無粋をあえてやるなら、「泣くな」は、まあまあのっぴきならない局面でここぞとばかりに出てくるものであって、よく泣く子どもに言っているならともかく(ゴミ収集車の隣で、子どもの手を引くオトナのセリフ、という現実へのむりくり引っ張り込むような読みも可能だけど、それでは涎は垂れない)、やはり、まあ、例えば、映画なら後半4分の3以降のだいじな場面。「泣くな」のセリフに俳優のキャリアがにじみ出るような重要なくだりです。映画じゃなくて生身の人間が現実世界においてこの3音を口にするときも、そう迂闊ではいけない。いつもより、なるたけ渋く、低音成分を多めに発したいところです(男性が発する前提で言ってる)。

句の中盤に置かれた《って》が肝で、この用法は近頃日常会話で頻繁ではないが耳にするような気がする。単なる引用(例:もうコメがない《って》、おかあさんが言ってる)ではなく、それ以前の流れをひと括りに参照しつつ発話の層を転換する働き。例えば、この、いま書いている記事のここまでをぜんぶ受けて、「って、なにやってるんだ? ガサゴソと台所で、ウチの猫は」みたいな感じ。

この句の《って》は後者の用法と読みたい。なぜって、前者の単なる引用だと、自動音声のおねえさんに「泣くな」と言っていることになり、それはそれでヘンな人だから、句の価値があるという見方もできるけれど、最初のほうで言った〈事情がわからない度〉は低下する。それに、あの声、泣いていないもの(それはそれで、「泣いてないよ」という返しまで込みで読めば、おもしろいかもしれない)。

とすれば、やはり、《って》の直前は、俳句でいう切れが生じている(層の転換)と読むべきで、最初からの14音(じつに句全体の8割近くが世界の一部をそのまま引用。レディメイド)と《泣くな》とは、同一場面ではあっても、別の層にある。おまけに、片っぽうは機械の声だから、それぞれが、ちがう色のちがう抽斗の中って感じ。

これでこの句の全部品について書いた。なんだかんだと書いてみて、やっぱり、〈なんだか事情がわからない〉句はいいなあ、と。

掲句は『What's』vol 1(202年10月28日)より。

2021年11月10日水曜日

西鶴ざんまい #18 浅沼璞


西鶴ざんまい #18
 
浅沼璞
 

肝心の軍の指南に利をせめて   七句目(打越)
 子どもに懲らす窓の雪の夜   八句目(前句)
化物の声聞け梅を誰折ると   裏一句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
いつもどおり「三句目のはなれ」の吟味にかかります。

まず前句が付いたことにより、「指南」の対象が我が子に限定され、武士の眼差しに親の目線が重なります。
 
なので、この段階での「懲らす」はスパルタ教育をする親の目線からのもので、「艱難辛苦を与える」といったニュアンスです。
 
しかし付句が付いたことによって「懲らす」はいたずらっ子に「罰を与える」といったニュアンスに転じられます。
 
つまり、貴重な雪中梅を折ってしまった坊ちゃまを、化物の声色で懲らしめる下女の眼差しへと変貌しているわけです。
 
自註によると下女にそうさせているのは母親という設定ですが、付句の眼差しそのものは下女のものといっていいでしょう。

(げんに絵巻を繙くと、ハロウィンよろしく鬼に扮した下女の眼差しは真っすぐ坊ちゃまに向けられています。こわ)

また季語に注目すると、冬(雪)から春(梅)への転じ、つまり季移りも難なくなされています。

 
ところで、いつも本稿を読みやすく編集してくれている若殿(=福田若之氏)は、編者というだけでなく、鋭い第一読者でもあって、今回も――

「冬から春への季移りに鬼の扮装となると、追儺の行事のことなども思われますね。もちろん、句の言葉としてはたんに〈化物の声〉なので、西鶴よりもむしろ絵師の趣向なのでしょうけれども」

との仰せ。

「呵々。さすが若殿や。筆者と編者、入れ変えた方がええんちゃうかい」

いや、やはり政治屋をマネて自分の座にはしがみつきます。

2021年11月8日月曜日

●月曜日の一句〔抜井諒一〕相子智恵



相子智恵







立冬や耳の奥底まで乾く  抜井諒一

句集『金色』(2021.8 角川文化振興財団)所載

昨日は立冬だった。掲句、冬の冷たく乾いた空気の中に佇んでいるのだろうか。耳の奥底にまで乾きを感じている。

湿気が少ない乾燥した空気というのは、手足や顔、唇などの肌、あるいは鼻や口の粘膜では感じることはできるが、耳の奥底で分かるものでもないだろう。耳奥の触覚など、普通は耳かきをする時くらいにしか感じられないものだ。だから、これはもちろん「聴覚の乾き」を鋭敏な感覚で捉えている句なのである。

〈耳の奥底まで乾く〉によって、単に乾燥した空気だけではなく、空を渡る北風の音まで感じられてくる。それも強めの風が吹いていることが分かる。音を言わずに「乾き」とずらしたことによって、想像が広がるのだ。読者の入り込む余地がうまく残された一句である。

2021年11月5日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




さてそこのざっくばらんな化石たち

筒井祥文(つつい・しょうぶん)1952~2018

《ざっくばらん》は、オノマトペ「ざくり」「ばらり」が語源だそうで(諸説あり)、胸をざくりと割って、心の中をばらりと露出する。化石は、石をざくりと割ったら、ばらりとかたちが現れたってなものだから、《ざっくばらんな化石》はとてもよく筋が通る。

この句の不思議さは、この箇所よりもむしろ、《さてそこの》という呼び掛けが醸す擬人法に類する効果、すなわち化石が耳をもっているかのような思いを読者に現ぜしめ、なおかつ《たち》によってその感興が増幅される点。この句の行為、居並ぶ化石を前にしてのこの行為は、かなり可笑しい。このセリフに続いて、いったいなにを言おうというのだろう。という連想の契機を強く与えてくれつつも、連想そのものの内容は見当がつかず(そろそろ昼ごはんにする? だとか、ちょっとだけ話聞いてね、だとか?)、例によって〈世界〉のかすかな、けれども鮮烈な亀裂たる一句、でありながら、当該の〈世界〉は茫としてつかめない。

あ、そうそう、《ざっくばらん》。〔私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。〕。これは谷崎潤一郎「痴人の愛」(1924年)の冒頭。「ざっくばらん」などと言われると、どんなにものすごい夫婦の話が始まるのかと身を乗り出してしまう(のは恥ずかしいけど、乗り出しちゃう)。一方、《化石》の《ざっくばらん》には古生物学者が「どんなすごいことが?」と身を乗り出すかもしれない(こちらは恥ずかしくない)。

なお、掲句を収載する『筒井祥文川柳句集 座る祥文・立つ祥文』(2019年12月)は作者の没後に、樋口由紀子を編者に、富山やよい、くんじろう両氏を発行人に発行された。

2021年11月1日月曜日

●月曜日の一句〔奥坂まや〕相子智恵



相子智恵







冬来たるごとりと嵌めて乾電池  奥坂まや

句集『うつろふ』(2021.7 ふらんす堂)所載

電化製品に電池を入れている。切れた電池を入れ替えているのかもしれない。〈ごとりと嵌めて〉で、この乾電池は単1形の、大きくて重い乾電池だと想像されてくる。「ごとり」のオノマトペが見事だ。そういえば最近では電池の性能がよくなったのか、単3形や単4形の乾電池を使用する電化製品が多くて、単1形の出番は少ない。私がパッと思いつくのは懐中電灯やガスレンジくらいである。

これ以上ないというほどの些末な景なのに、乾電池の重さと冷たさの中に〈冬来たる〉季節感が確かに感じられてくるのだから、俳句というのは面白いものだ。
〈ごとりと嵌めて乾電池〉にはオノマトペと濁音の効果で、腹にくる重さがあって、冬の寒さへ向かう厳しさとよく響きあっている。