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2019年4月18日木曜日

●虚と実 橋本 直

虚と実

橋本 直

鴇田は、単純な現実を、複雑に書いている。そのために、中心的な価値観の見えない今という時代の気分に、肉迫している。一方、万太郎は、複雑な現実を、単純に書いている。そのために、普遍的な詩情を持ちえている。鴇田の句は「実」から出発して「虚」に至っている。対照的に、万太郎の言葉は、「虚」から始まって「実」に着地している。そのように言い換えることも出来るだろう。
髙柳克弘『どれがほんと? 万太郎俳句の虚と実』慶應義塾大学出版会/2018年4月
非常に面白く、かつ実作者の為になる万太郎論と思う。

引用は同書168頁から。現代の若手の代表作家として鴇田智哉の句を挙げ、万太郎の句と比較しているくだりの一部。そんなに分量かけているわけではないが、面白い指摘。

2018年11月7日水曜日

●見せるクジラ 橋本直

見せるクジラ

橋本直

1970~80年代に、消費地の販促で「クジラ解体ショー」なるものが行われていたという。いまならマグロでやっているあれだ。田舎の出であるわたしは見たことがないけれど、子供の頃、クジラはスーパーに行けばいつもパック入りで売っている手に入りやすいものだったし、竜田揚げが給食のメニューで出てくるものだった。今や時勢は移り、捕鯨を悪魔の所業のごとく見る向きさえある。そう遠くない未来に、マグロもそうなるのかもしれない、なんて思う。

「クジラ解体ショー情報求む 「昭和の風俗」、難航」産経ニュース 2018.10.19
≫こちら:将来リンク切れ)

2018年4月15日日曜日

〔週末俳句〕雨の日曜日 橋本直

〔週末俳句〕
雨の日曜日

橋本 直


雨の日曜日。外出は止め、部屋の片付けをする。もう読まない雑誌とか、着なくなっていた服などを処分することに。今の家に引っ越して七年ほど経つのだけれど、いまだに開封されない段ボールが積みっぱなしだったので、思い切ってそれも片付けはじめると、カセットテープがケースごとでてくる。越す前にほとんど処分したんだけど、1ケースだけ残していたものだ。中身はすっかり忘れていたので、何があったっけ?と開けてみると、自分で録ったものの他に、熱心なフリッパーズ・ギター推しだった後輩が聴けってダビング(久しぶりに打ったなこの語)してくれたテープが出てきた。ぜひ聴けともらって以来一度も聴いてなかったから、なんとなく悪くて捨てなかったんだろう、たぶん。そういえば、昔はこんなふうに、気に入ったアーティストのカセットテープのやりとりがよくあったんだけど、ダウンロードが主流になった今って、その辺どうなっているんだろう。


捨てる前に聴いておこうかと思ってケースを開けてみると、「FM横浜 84.7」のメモが入っていた。「84.7」は局の音声周波数で、再生してみると、「エフエムヨコハマ・エイトフォーポイントセヴン」って「ハ」にアクセントがくる良い声が番組の合間に入るのがおしゃれだ。そういえば、フリッパーズ・ギターもおしゃれなイメージで、彼らは渋谷系などと呼ばれていたんだった。自分はどうも、そのような〈おしゃれさ〉には昔から縁がない。そろそろ片付けにもどろう。午後は雨が止むらしい。うまく片付いたら、どこかに出かけるとしよう。



2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

2013年2月26日火曜日

●季語としての「熊」 03 橋本直

季語としての「熊」 03

橋本 直

≫承前 02 01 


子規の短歌に「足たゝば」という題の連作があります。

    徒然坊箱根より写真数葉を送りこしける返事に
  足たゝば箱根の七湯七夜寝て水海の月に舟うけましを
  足たゝば不尽の高嶺のいたゝきをいかつちなして踏み鳴らさましを
  足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
  足たゝば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
  足たゝば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを
  足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを
  足たゝば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
  足たゝば黄河の水をかち渉り華山の蓮の花剪らましを
  (「竹乃里歌」明治31年 『子規全集』第6巻)

「徒然坊」とは阪井久良伎のこと。送られた絵はがき?に触発され、もし自分が寝たきりでなければ、という思いのもとに連作の歌を詠んでいます。この連作自体とても興味深いものですが、そちらは俵万智『短歌をよむ』(岩波新書)その他を参照していただくとして、本稿において焦点化されるべきは五首目です。ここで子規は、季節ははっきりとしないものの、アイヌの友人とともに一緒に熊を殺すことを夢見て詠んでいます。第一回で引いた「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」を併せて考えれば、子規はアイヌの装束や、熊を祭ることも殺すことも知っているわけで、この明治31年までのどこかでアイヌの風俗を知っていたことがわかります。現存の子規の所蔵目録を見る限りはそれらしきものがなく、どこで知ったのかは未詳ですが、ひとまず新聞雑誌、単行本などによってそれなりに一般に知られていた可能性を考えることができます。

子規と熊について追えるのは、手近の手段ではここまでなので、あらためて「熊祭」という季語に焦点を当ててゆきたいと思います。歳時記の引用は長くなるので略しますが、小学館の『日本国語大辞典』によれば、
〈アイヌの儀式、祭の一つ。熊の子を二、三年養ったのち、儀式としてその肉を共食、宴遊した行事。アイヌは動物を神の化身と考え、特に、熊を最も偉大な神とし、これをその祖国である神の世界に送り返すために、この儀式を盛大荘重に行わなければならないとした。熊送り。《季・冬》〉
と説明されています。その用例として、『休明光記』の説明部分の他、誓子の句「削り木を神とかしづき熊祭」、武田泰淳「ひかりごけ」の一節などが出てきます。『休明光記』は羽太正養著、文化4 (1807)年(詳しくは北海道大学北方関係資料総合目録参照)刊ですから、既に江戸後期には一応、熊祭という言葉とその内容が紹介されていたことになります。

また、「熊送り」についても同辞典では熊祭と同様の説明があり、用例で
〈随筆・百草(1844頃か)一「熊送り 実報 往昔亜伊能人種に於て行ふ祭例あり。之を熊送りと称ふ」〉
とあって、「百草」は『日本随筆大成』所収のものと同じかと思われますが、現物にあたってないのでいまのところ未詳。ともあれ、これも江戸後期に紹介があったことがわかります。さらに言うなら、蝦夷と呼ばれた人々の風俗については既に平安時代に詠まれた歌があります。長承元(1132)年に崇徳院の内裏歌会で藤原顕輔が詠んだ和歌、

あさましや千島のえぞの作るなるとくきの矢こそひまはもるなれ
(「顕輔集」、「夫木和歌抄」http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/menu.html

ここでいう「千島のえぞ」は津軽以北の異民族、すなわちアイヌのこと。「とくきの矢」は毒矢。アイヌが毒矢を使うことを歌に詠んでいます。そこで思い当たるのは、連載二回目で引いた句

熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ   靑眼子(ホトトギス)

です。もしかするとこの句は、先の歌(またはその派生歌)を下地にして詠まれたのではないでしょうか。

このように、近代以前にもある程度アイヌの風俗の情報はあったことが分かるのですが、それが俳句の季語になったのはいつか、ということになると、西村睦子氏の『「正月」のない歳時記』(本阿弥書店)には、
「熊祭」
 明42無涯編[新脩歳時記]「熊祭」例句1
   判官は蝦夷の神なり熊祭   一転
 [ホ雑詠]大15=5句、誓子の句が並ぶ。
   飾太刀倭めくなる熊祭    誓子
   雪の上に魂なき熊や神事すむ 誓子
  改造社版「熊祭」誓子の句を含む例句6。
  虚子編「熊祭」誓子の句を含む例句3
   これは北海道開拓による北方季語。誓子と両歳時記により題になった。
  ※引用者注「無涯」は中谷無涯。「ホ雑詠」は「ホトトギス雑詠覧」。

と解説されています。明治末期から昭和初期に季語になったということになるのですが、季語になる下準備は子規の頃から既にあったと言っていいかもしれません。決定的な仕事をしたのが改造社と虚子の歳時記。俳人では誓子だったということでしょう。蛇足ながら付け加えるならば、今井柏浦編「詳解例句纂集歳事記」(大正15初版、昭和二年の5版で確認)にも「熊祭」が出ています(例句は2)。無涯の歳時記は手近にないので未確認ですが、改造社のも柏浦編歳時記も虚子編歳時記も、祭の内容について丁寧な説明をしているものの、先に引いた『日本国語大事典』にあった江戸の文献についてはまったく触れていません。角川『図説大歳時記』も同様です。また、改造社の歳時記には「熊」の項の末尾に関連語として、「熊祭」を「熊突」と同じく「人事」に出ているとしてあるのですが、実際には「宗教」に分類されています。おそらく編集の過程で「宗教」に修正されたのが、「熊」の項目の方は記述を治し損ねたのでしょう。大和中心の文化である歳時記に異民族の祭礼である「熊祭」を収めるに当たっての、ちょっとした混乱をみることができます。

ここまでをまとめます。アイヌの「熊祭」についての文献は、江戸時代に既に刊行されていたが、近代の歳時記にその反映はされていない。子規の頃何らかの文献でアイヌの生活の紹介がなされてはいたが、「熊祭」が季語になるにはいたらなかった。大正末から昭和初期に刊行された歳時記には相次いで立項されており、代表句は山口誓子のものである。

さて、あらためて最初の問にもどるのですが、「熊突」も「熊祭」も冬に行われるので、季語として冬になるのは至極当然と思われます。しかし、「熊」そのものが近代になって冬の季語になった理由はなんなのでしょう?まず単純に、その二つの季語から派生的に冬季に収められたと考えられましょう。狩られた熊の肉を「薬喰」の対象に含む発想もあったかもしれません。そこで、これまで紹介したように例句に北海道の句が少なからずある、という所には注目してもよさそうです。北海道を開拓するにあたっては、明治20年代から右肩上がりに人口が流入しており、人の生活圏が猛獣であるヒグマと衝突しないわけにはいかない。例えば明治11年1月におきた札幌丘珠事件では、熊によって5名の死傷者が出ています。仕留められた熊は剥製にされ、それを明治天皇が見学したことで報道されて広く知られることになったそうです。本州以西の各地でも、それまで原野であった場所の開拓が進んでいたはずで、江戸期までの「狩猟」とは内実が変わって、実質的に開拓に邪魔なものとして熊を排除していく行為であったということが考えられます。

近代においては、日本では狼が最も典型であったように、結果的に人の生活を脅かすものを滅びるまで排除してしまったものもある訳で、開拓の敵としての猛獣「熊」が狩猟しやすい季節、あるいは籠もる場所を追われて人里に迷い出ることが多くなった季節として、熊が冬に目立つということから、冬の季語におさまるということは、近代的な風景というにふさわしいことかもしれません。

同様に、北海道の開拓によって他者としてのアイヌ文化を一部季語には取り入れつつ、実際の所、同化政策によって彼等の文化を滅ぼしていったことも、同様の文脈ではないかと思われます。改造社の歳時記の解説の末尾に「この神事はアイヌの迷信によるものである」と一言添えてあったり、角川『図説大歳時記』で熊祭の生け贄の熊の写真に「悲しき贄熊」とキャプションが付けられ、解説に「現在ではよほど簡略になって、クマを殺さないで形だけする観光的熊祭のほうが多い」とあるのは、レヴィ=ストロースを持ち出すまでも無く、いまからみれば前世紀の「文明」から「野蛮」への一方的な視座といわれても仕方ない文言と思われます。

さて、冬の季語「熊」をめぐる考察はここでいったんおしまいにします。今のところはっきりしないことで、ちゃんと調べれば分かりそうなこともあるので、いずれまた書くことがあるかもしれません。ここまでお読みいただきありがとうございました。

( 了 )

2013年2月19日火曜日

●季語としての「熊」 02 橋本直

季語としての「熊」 02

橋本 直

承前 01

引き続き、季語の「熊」そのもの、「熊」の猟、「熊」の祭りの三系統について追いかけてみたいと思います。まずは文献的に追いかけやすいところで、猟から。

そもそも、初冬に栄養を蓄え穴で寝ている熊を狙うことは、相手が猛獣であることへの対処や、毛皮や熊の胆を主目的にする猟として非常に合理的と考えられます。その意味で熊猟は冬季にふさわしい季語と言えるでしょう。

子規の『分類俳句全集』第9巻冬の部「時雨」の項の、下位分類「猪、熊、猿、狐、鹿」中に、

穴熊の出てはひつこむしくれ哉  為有

があります。作者は山城嵯峨の人。『続猿蓑』元禄11(1698)年刊の冬の部所収。子規はこれを「熊」として分類していますが、幸田露伴は『評釈芭蕉七部集』(岩波)で冬籠もりの熊ではなく、いわゆるアナグマ(貛)だとしています。要するに、知識でつくった句と思われ、本当のところはよくわからない。したがって、同じく『分類俳句全集』第10巻冬の部「動物」の項にある「穴熊」三句、

はち巻や穴熊打ちの九寸五分  史邦
穴熊の寝首かいても手柄哉  山店
丹波路や穴熊打ちも悪衛門  嵐竹

も、熊猟の「穴にこもった熊」のことではなく、アナグマの可能性があります。この三句はいずれも史邦編『芭蕉庵小文庫』元禄9(1696)年刊。みな蕉門の俳人達です。

子規のあの膨大な分類作業のなかで筆者が四句しか見つけてないだけかもしれませんが、少なくとも冬季の「熊」ではこの三句のみ分類されています。つまり、子規が近世の俳諧の発句から見つけ出していた冬の季語としての「熊」は、「穴熊」のみであり、しかも元禄年間に出たもののみであると、とりあえずみておきます。そして、その何れもが狩猟の様子を詠んでいることも共通します。そういえば、前回引用した柏浦の『明治一万句』の二句も「熊突」を詠んだものでした。

「熊突」については角川『図説大歳時記』「考証」に「穴熊打」が近世の季寄せ「『忘貝』(弘化四)に十一月として所出」とあります。『忘貝』とは淡水亭伸也編の『合類俳諧忘貝』のこと。弘化(1847)年といえばもう江戸末期です。他に『北越雪譜』の記事の長い引用もあるのですが、しかし例句はすべて明治以降のものです。

熊突や爪かけられし古布子  松根東洋城(渋柿)
熊突の夫婦帰らず夜の雪  名倉梧月(明治新題句集)
熊突の石狩川を渡りけり  深見桜山(青嵐)

一句目は「古布子」も冬の季語です。作者が目の前で熊に爪を引っかけられた猟師をみていた可能性より、狩猟後に熊のひっかき傷のある綿入れを目にして詠んだとみるほうが妥当とすれば、これを熊突きの句とみて良いかは疑いがのこります。また、二句目は柏浦の『明治一万句』の二句目と同句で、三句目も『明治一万句』の一句目となんだか似たような句で、また北海道が舞台です。

ところで、『図説大歳時記』の熊突き解説ページには『日本山海名産図絵』からとった「熊捕り」「熊穴捕り」「熊撃つ斧」という三つの挿絵があります。この書物のことはまだよくしらべていませんが、この挿絵によって「熊」猟の説得力が増すことは確かです。しかし、九州大学デジタルアーカイブ所蔵の資料によると、『日本山海名産図絵』は平瀬徹斉著、長谷川光信挿画で、宝暦4(1754)年刊行ですがこれらの挿絵の画像は無く、同アーカイブに併載されている、平瀬補世著、蔀関月挿画の『山海名産図会』寛政11(1799)年刊行の第二巻にでています。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meisan/m2/catalog.html

現物を確認しないことにはどっちが正しいのかわかりませんが、ひとまず「熊突」には熊猟とアナグマ猟の両方ありうることは、改造社『俳諧歳時記』に出てきます。またまたところが、なのですが、この歳時記にもその挿絵の一枚「熊撃つ斧」が入れてあるのに、例句は近代の、しかも北海道の風景なのです。

熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ  靑眼子(ホトトギス)

はたしてこれは、実景の写実だったのでしょうか?

ここまでを整理します。「熊突」は「穴熊打ち」として近世からわずかながら句に詠まれているが、子規が分類していた「熊」は「熊」ではなく「アナグマ」である可能性もある。近代の歳時記には「熊突」が立項されているが、挿絵は江戸のものであるものの、句は近代以降の例句しかない。①で引いた子規の句と、これまで引いた近代の歳時記の例句七句中の四句は、あきらかに北海道の句であり、うち二句はアイヌを詠んでいる。

そこで次回は、季語「熊祭」やアイヌと熊について考察してゆきたいと思います。

(つづく)

2013年2月16日土曜日

●季語としての「熊」 01 橋本直

季語としての「熊」 01

橋本 直


ツイッターで、なんで「熊」は冬の季語なんだろう?という疑問が話題に。




よく知られているように、熊は冬に一応「冬眠」するわけで、動物園にでもいかないと目にしない生物です。なぜ冬の季語になっていったのでしょうか。たしかに、なんでだろう、と思って調べてみました。

戦前までの季語大観といえる改造社『俳諧歳時記』も、高度成長期のそれたる角川書店『図説大歳時記』も、「熊」の項で生態についてや古文献の記述は解説しているものの、なんで冬なのかの理由の説明はありません。また、滝沢馬琴編、藍亭青藍補『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫版)には立項がないので、近代以降に季語として認められるようになった語と考えていいようです。なお、『―栞草』で「熊」がでてくるのは秋之部で、「熊栗架を搔く(くまくりだなをかく)」。
〈時珍曰、熊、石巌枯木(せきがんこぼく)に在を、山中の人、これを熊舘(くまたち)といふ。性よく木に上り、好で栗を食ふ。故に攀縁(よじのぼり)て梢に至て、枝を折て並べ鋪て居所を設く。是を熊の架(たな)といふ。熊館(くまたち)の類也。〉
と解説がでています。

いわゆる「くまだな」を熊が設けている様子を季語にしたもので、山中では実際に熊に出会わないとしても、それを目にする機会は少なくないはずですから、いかにも秋の山らしい風物といえるでしょう。それにしても、「熊」はなぜ近代以降になって冬の季語に?

齋藤愼爾他編『必携季語秀句用字用例辞典』(柏書房)では、熊に関する冬の季語に「熊」(三冬・動物、類語に黒熊・月輪熊・羆)、「熊穴に入る」「穴熊」(初冬・時候)、「熊穴に蟄る」(仲冬・時候、「本朝七十二侯」の十一月節「大雪」の次侯)、「熊狩」「熊突」「熊猟」「穴熊打/突」(三冬・生活、)、「熊の子」(三冬・動物、類語に贄の熊・神の熊)、熊祭(仲冬・晩冬・行事)が掲載されています。だいたいこれで冬の季語である熊の類語のラインナップが勢揃いしていると考えていいでしょう。

ここで季語として冬と熊との関係の由来が一応はっきりしていると思われるのは「熊穴に入る」(熊蟄穴)です。これは二十四節気と同じく、もともと古代中国が由来の七十二侯を、日本にあわせて江戸時代に改訂された「本朝七十二侯」に由来します。しかし、同じく「本朝七十二侯」に由来する「魚氷に上る」は『―栞草』にありますが、「熊穴に入る」は入集していません。更に言えば、改造社『俳諧歳時記』も、角川書店『図説大歳時記』も、「熊穴に入る」は立項され「穴熊」と同義とし、熊の冬籠もりの生態に触れてあるものの、この「本朝七十二侯」は一言も触れていないのです。なぜでしょう? 生活実感は「魚氷に―」もないわけで、もしかすると季語としては俳人にぜんぜんウケなかったのかもしれません。そうすると、この語の暦由来の成分は熊が冬の季語である根拠にはしにくいでしょう。

整理すると、熊が冬の季語である根拠は、暦由来ではなく経験的または科学的知識としての「冬眠」や「冬籠もり」と同義としての「熊穴に入る」か、「熊突」等の猟にかかわる季語群か、「熊祭」の三系統となるかと思われます。

そこで句を探してみました。いまのところ手近にある資料で調べた範囲なのですが、最も古い記録は、明治31年1月30日『ほとゝぎす』に題詠「熊(冬季)」があり、選者吟で子規が

草枯や狼の糞熊の糞
冬枯や熊祭る子の蝦夷錦

の二句を詠んでいることです。この段階で少なくとも新派(日本派)では、冬季の季語として「熊」を認めていたということができそうです。しかしながら、明治34年3月から38年4月の間の日本派同人の雑誌新聞発表5万句のなかから1万を選んだという今井柏浦編『明治一万句』(博文館 明治38年、参照したのは明治41年の第八版)には、「熊」での立項はありませんでした。ただ「冬の部」人事の項に「熊突」での立項があり、

熊突や氷を渡る天鹽川  桐一葉
熊突の夫婦帰り来ず夜の雪  梧月

が載っています。柏浦は博文館の社員であった意外のことはよくわからない人なのですが、よく日本派の句の収集に努め、この後も数年ごとにアンソロジィを出しています。一方、明治43年にでた星野麥人編『類題百家俳句全集』冬之部には、立項がありません。星野は尾崎紅葉門で秋声会に参加。柏浦より広汎に句を集めていると思われますが、冬季に熊の句はありません。

そうすると、明治31年の題詠募集は、実験的な試みどまりであったのかもしれません。子規は「熊」を冬季とみなしていたか、みなそうとしていたわけですが、先の引用をみればわかるように、選者吟のうちは少なくとも後者「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」は、明らかに行ったこともない北海道を舞台に詠んでいると読めます。子規はいわば、蝦夷地想望句を詠んでいるわけですが、さらに柏浦選の句の一つ「熊突や氷を渡る天鹽川」も北海道が舞台になっています。これと「熊祭」を併せ考えると、明治に北海道を開発した際、ぶつからざるを得なかった猛獣としての「熊」の影がほの見えてくる気がするのです。

(つづく)

2012年12月9日日曜日

〔今週号の表紙〕第294号 イングランドの鴉 橋本直

今週号の表紙〕第294号 イングランドの鴉

橋本 直




イングランドは湖水地方のカラスたち。大きさは新宿とかにいるのよりずっと小さくてかわいらしい。鵲に近い感じです。船着き場の近くで撮影。餌を狙っているのだろうけれど、なんだかふしぎな距離感で集まっていました。


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2012年11月25日日曜日

〔今週号の表紙〕第292号 囲炉裏端 橋本 直

今週号の表紙〕第292号 囲炉裏端

橋本 直



仲間と戸隠の冬の森で遊ぶのが恒例になっていて、これは宿の囲炉裏です。句会をやっている最中。和っぽい感じですけど、炭火は薪ストーブの薪の欠片をはこんでいて、焼いてるのはマシュマロ。焼くとトロトロになっておいしいです。


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2012年10月7日日曜日

〔今週号の表紙〕 第285号 大英博物館のモザイク壁画 橋本直

今週号の表紙〕 
第285号 大英博物館のモザイク壁画

橋本 直




たしかポンペイからもってきたものだったと書いてあったような気がするが、なにせ広すぎる大英博物館のことなので記憶に自信はない。このモザイク、随分緻密できれいだけど、なんとも不思議な画。二隻の舟にそれぞれ裸の男がふたり乗っていて、網を引いている。しかしその網にかこまれて捕まりそうなのは、魚じゃなくてみんな陸の動物ばかり。ヒョウやダチョウやオオトカゲなんかがいるところをみると、どうもアフリカのようだけれども、どういったわけでこんなモティーフなのかは謎です。他にもワニに乗る大道芸人の像とか、こんな(下写真)素敵なおじさんのモザイク画もあり、このコーナーは楽しかった。しかしあのロゼッタストーンの前では何者かにリュックのポケットのファスナーいきなり引っぱられて吃驚。用心して何も入れてなかったけど、そういう所です。ご用心あれ。


 
 
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2012年3月25日日曜日

〔今週号の表紙〕第257号 ドック 橋本直

〔今週号の表紙〕
第257号 ドック

橋本 直



実家から数分のドックで春の新造船がでていたので、撮ってみました。

鉄の塊から船がだんだんできて、やがて沖に出て消えてゆくのは、いいものです。この船も今ごろはどこかを航行中でしょう。

このドックは川の河口にあり、対岸から撮影しています。造船所はいろいろ危険なところなので、当然公的には入っちゃいけないんだけど、それって子どもにはいけって言われているようなもの。本当に死ぬかもしれないんだけど、子どもなりにそれを自覚しつつ、鉄格子なんかを越えてよく侵入していました。鉄屑の大山にのぼってあそんだり、そこで得物を拾って闘ったり、溶接のスパークがめっちゃかっこよかったり。

今思えば、グラウンドでキャッチボールするのと同じような感じでそんなところで遊んでいたのは、贅沢なことだったのかもしれません。


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2011年9月17日土曜日

●ひとりじゃさみしい雑草 橋本直

ひとりじゃさみしい雑草

橋本 直


ゼクシィのCMで、樹木希林さんが

  やっぱり一人がよろしい雑草、やっぱり一人じゃさみしい雑草

とつぶやいている。これは山頭火の句のアレンジで、元の句は、
やつぱり一人がよろしい雑草 (第四句集『雑草風景』昭和十一年所収)
やつぱり一人はさみしい枯草 (第五句集『柿の葉』昭和十二年所収)。
さすがに独り身を「さみしい枯草」とすると反感買うと思ったか、二句目を変えている。なんだかアンサーソングのようだがこういう大衆的な作りかつ口語調なのが山頭火がCMコピーに使える理由なのかな。深い孤独感をうたう人なら他にもいるけれども五七五はCMで使いにくい。山頭火自身は『柿の葉』巻末で二句を並記して、
「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて、敢て採録した。私のかうした心境は解つてもらへると信じてゐる。」
とやや言い訳めいた文言。

山頭火句は自我の分裂の自覚と葛藤と甘えが作品のテーマにあたると思うけれども、この二句もおそらくとても内輪の、私信のような意識が背後にあって詠まれ、句集に採録されていると思われる。当然自己模倣も甘えの関係の中にゆるされてある。

結局その生き様と作品がセットになって高度成長後に彼の味となって世間にウケてきた。こういうウケ方をすると嫌な人はいやだろう。

実はきちんと理論的に句を考えていた山頭火の意識の中での不易流行と、実際に彼に起こった不易流行がかみ合わないのは、志もプライドも高かった御本人には悲劇なのかもしれないけども、世間を読み過ぎて失敗する作家より幸福かもしれん。

現在俳句外の人に最も読まれる明治以降の作家であることはもうちっと俳句の内側の人に評価されていいとも思う。


2011年3月26日土曜日

●ためふん 橋本直

ためふん

橋本 直


蕪村の俳句に、

  公達に狐化けたり宵の春

という、わりと知られた句がある。もう一つ、

  戸を叩く狸と秋を惜みけり

という句もある。前者は一目して全くの知的操作だとわかる句だが、後者の方はどうだろう。同様に空想のようではある。野生の狸は人里近くにいても気づかれないくらい警戒心が強いから、実際に半野良の猫みたく人家に近づいて鳴いたり、窓やドアにすりよるなんてことはありえないだろう。しかし狐の方とは違って、空想というよりは、お腹の出たお友達がやってきたのを喩えたようにも見えるし、そのほうが滑稽。

ところで、この句を調べるついでに狸が気になって調べると、タヌキの習性に「ためふん」なるものが。

もう何年も前、雪が解けたばかりの戸隠の森の道をあるいていたときに、人間なら十人分ぐらいありそうなのが木の根元に積み上げられていた(あ、あきらかに人のではないですよ)。なんのふんだろう、まさか寝起きの熊じゃねえべ、とか思っていたのだが、その時は地元の人に聞いても分からずじまい。ため糞はニホンカモシカもやるらしいが、場所柄どうやら狸だった模様。ただ、形状が違うので、雪でふやけたとみるべきか。あるいは、やはり熊だったかなあ。



ところで、狸汁。

「狸汁は普通皮を剥ぎ採った後、腹を割き料理し、蒟蒻、牛蒡、里芋、大根、葱などの野菜を添えて、味噌汁、または醤油汁としたものである。人を誑かすという小賢い狸、腹鼓を打つ狸を思うとユーモラスである」(編集代表富安風生「俳句歳事記」冬の部は山口青邨編 昭和三四年初版)

この解説すごい。たんたんとした描写で、皮をはぎ取り腹を割き汁にしたものが人を誑かし腹鼓をうつ狸だと思えばユーモラスだと言い切っている。なんちゅうか、シュールな。

狸はふつうまずいが、冬になるとうまくなって汁で食うのだとか。いまでも食うのかな。これまで熊と猪と鹿と雉子と鴨(ついでに言えばトドにアザラシにハトにカエル)は食したことがあるが、狸はまだない。主に「ホトトギス」の作家でまとめたみたいだけど、だれだろこれ書いたの。狸汁好きそうだな、その人。

ところで狸は近代になって季語になったもの。子規は季語として使っていませんね。

2010年8月28日土曜日

●主体は変容するのか 2/2 橋本直

主体は変容するのか 2/2

橋本 直

ところで以前、高柳克弘さんも週ハイで触れていた(→参照)けれども、文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。つまり、いままでなんとなく指導書通りにすましたり、時間数がきつくなってささっととばすこともあったような俳句の授業を、読むだけでなく作る教科としてとりあげないわけにはいかなくなろうとしている。

ちょっと大上段な物言いの仕方になるのだが、学校社会において教員は、生徒にとって絶大な権限を持つし、生徒のためのあらゆるお手本を示せる立派な大人の代表(よき統率者)としてちゃんとつとめなければならないものだ。教科ならば何を問われても頭の中に正解があって、見解をだせることが日々要求される。しかし、俳句はそれがなかなか困難な表現分野であるだろう。

今回の俳句甲子園ムックに紹介されている優れた指導者達はかなり例外の側で、多くの国語教師は詠み方も読み方も確固たる自信を持って提示することができないと推定する(そのふりはできるだろうが)。もちろん指導書通りにやるのなら何も難しくはないし、作句そのものは五七五にするだけならお手軽ではあるので授業で詠ませることはできるだろう。が、新しく生まれたその作品群の「正しい」評価のモノサシはどこにあるだろう?今、ほとんどの場合教員自身の判断はなされないまま大量の「俳句」が伊藤園や神奈川大などの学生俳句賞に投稿されているのが現状であろう。しかし、教員が判断を丸投げするなどということは、制度にそれをとりこむ立場からすれば、あってはならないことだ。石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。歴史的に「国文学」と「国語」はそのような経緯をもつしろものだったりするけれども、その中にあって俳句は、これまで例外的な位相にあったと思う。モノサシがないゆえに。

俳句甲子園が俳句にディベートの形式をもちこみ、詠み方/読み方を提示していくことや、その出身者が大活躍して詠み方/読み方を自信を持って書いていくことは、実は当の本人達には無関係に、世の教員や文科省にとっては非常なる福音なのである。それをふまえた俳句のディベート法とか読み方の本が今後企画されるかもしれない。先の関氏の時評を併せて考えてみると、結果的にそれはまさに権力側の引いた補助線の上でその意図にかなう動きが展開しているという視点が提示される。善悪の判断はその主体に任されないままに状況はどんどん俳人の外で動いている、とでもいえようか。

冒頭の話にもどる。俳句甲子園が今ほど世に知られてなかった頃、あれは松山のある商店会が中心になって立ち上げたもので、地元の俳人は基本的に非協力的だったと噂に聞いたことがあった。今回商売の神様を祀った神社に句碑が建ったというのは、そういう中で長く頑張って盛り上げてきたけれども自分たちは何か遺すわけでもない商人たちの、裏方としての「生きた証」としての象徴的交換価値としてではないだろうか。

これは「新しくて古い」作家と「パトロン」とサロンの関係の話とも考えられる。俳句実作に関わらない商人から見れば今も俳句は一種の「芸」ということ。そうだとすればこの立場からみれば明治の宗匠俳諧と平成の俳句甲子園はある種イーブンである。明治の宗匠俳諧のころは大旦那がいて、さまざまな芸達者が周りに集まった例があるが、もはやかつてのような趣味人の「大旦那」は出てこないだろう。今はどのような価値が俳句に求められているのか。今回の句碑建立が悪趣味としても、それ以上の交換価値のあるものを俳句の主体にいる者が外に対して生み出してこなかったのは、果たしていけないことなのか、素敵なことなのか。

(了)

2010年8月27日金曜日

●主体は変容するのか 1/2 橋本直

主体は変容するのか 1/2

橋本 直


俳句甲子園の句碑ができたそうで。 →参照

なんというか、終わりの始まり?神社仏閣にある碑といえばだいたい戦没者慰霊碑とか歌碑句碑の類であるが、前者は文字通り流された血の浄化のためでわかりやすい。後者は調べると本当に色々経緯があって、場合によってはちょっとあやしいものもある。件の場合はどうなんだろうかと思いつつ俳句甲子園ググっていたら、実行委員長が地元の同期と同姓同名だ。あれ、本人かもしれん。世間は狭い。

それはそうと、「俳句生活 一冊まるごと俳句甲子園」(角川学芸出版)も出た。こういう本を出すことをどうこういう立場にはないが、このやり方をするのなら、まだまだ俳句甲子園を良く知らないであろう多くの読者層を考慮し、岩波新書『琵琶法師―〈異界〉を語る人びと」みたいにミニDVDとかで実際の映像つけて出すべきだったと思うのだがどうだろうか。傍目で見ていて、俳句甲子園には活字では絶対に伝わらない熱さがあると感じるのだが。

俳句甲子園については、先の句碑もそうだが、大人の思惑や反応はいろいろあるもよう。が、そのいろいろはあるにせよ、平成の俳句史において良い俳人を生み出したことはもはや動かないと信じたい。ただ、世の認識がそうなったときにできあがる序列階層化を、元祖の甲子園のように時折は意外性が打ち消して行けるかどうか。そしてかの本に載ることのなかった無名の高校生たちがもつ負け組意識を、まったくかえりみないで勝ち残った優れた若者やイベントの成功にのみ飛びついてわあわあはしゃいでいるだけの大人がいるのなら、状況として相当に気持ちが悪い。教育の一環として参加する高校生がそれ故に真剣に取り組むことになった俳句でリアルにおちこぼれ意識を持つのみで終わるのってまことに卦体な話である。これを少し考えてみたい。

ここのところ週ハイでも俳句甲子園に関わる記事がでている。

山口優夢さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

関悦史さん
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/6-21.html

俳句甲子園特集
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/08/174-2010822.html

山口氏のはきれいに纏めすぎで、学問的にはだいたい自己神話化を疑われる体のものだが、非常に貴重で面白い証言である。関氏の時評はさすがの切れ味。最後のはいろいろバラエティに富む内容。

さて、関氏が例の角川のムックの夏井いつき氏の記事を引用し「俳句甲子園というプラットフォームの設計がうまく行ったからこそ参加者はそれを楽しみ、イベントが公共性を持つことにもなり得たのだ。権力といえば即ち悪と発想が短絡しかねないのだが権力装置自体は科学技術と同じで使いようによるという面もあるのかもしれない。」と書かれている部分と、先の記事で山口氏が如何に「俳人」になっていったのかをあわせて読むと、なかなか味わい深い。

例によって、この手の権力装置の問題は、フーコーのパノプティコンを引用しいろいろ論じられるが、俳句甲子園と高校生の間をつなぐ学校教育の諸制度内部にももちろんこれと同様の問題は指摘できるのであり、俳句甲子園に参加する「高校生」をひとくくりにしてできあがった一作家の習作期レベルのようにあつかって、物語(神話)化した語りの視点で見てはいけないだろう。例えば振る舞いとしてプラットフォームの内部にいることを楽しみはじめたものの、はみ出た/出された者は、ゲーム会場から退場するしかないのか。あるいは、その周縁に潜み権力の反転の機会を伺うことになる運命なのか。

立ち読みですませてしまった(関係者の方ごめんなさい)ので、関氏の記事中引用された夏井いつき氏の記事そのものは読んでいないから、どのくらい書いてあるのかしらないけれども、夏井氏は俳句甲子園のはるか以前にそのころ流行っていた「詩のボクシング」をまねて学校で俳句の実践授業を行っており(『夏井いつきの俳句の授業・子供たちはいかにして俳句と出会ったか』参照)、夏井氏のこの実践のフィードバックが今の俳句甲子園に行き着いたものと私は理解している。俳句甲子園の胎動が氏が俳句で食う決意を持って教職を離れたことと、もともと授業の方法の模索の中からはじまったことは気にしておく必要があるだろう。

(明日につづく)

2010年7月12日月曜日

●星野しずるは電気鰻の蒲焼きを詠むのか 橋本直

星野しずるは電気鰻の蒲焼きを詠むのか

橋本 直


某日。貧乏な私たちとしては珍しく渋谷のホテルのラウンジなぞに集結。シンポシオンⅡの打ち合わせと称し、ゲストの佐々木あららさん藤原安紀子さんをお迎えする。詳細はここでは言えないけど、3時間にわたり様々なことをお話しする。おもしろい話も伺えて、当日が楽しみ。

ちょうど良い具合に週ハイで三島ゆかり氏が「ロボットという愉しみ」 を掲載しているし、最新号「豈」でも倉阪鬼一郎氏が「21世紀末の『芭蕉くん』」を書き、「豈ウイークリー」で富田さんに「割合冷やりとさせられるものがあった」と言わせている

俳句に限らず様々な動きがはかったようにリンクするタイミングがこの数年の動きらしい。

ところで以前、週俳に書いたのだが、昭和6年に「俳句表現辞典」なる本がでている。 この辞典、用は俳句の気の利いたフレーズ集なのであり、ローテクだが辞典中の数ページ内の語を組み合わせるだけで一句できてしまう。すでに人間性を集め人間性を打ち消すような発想の母体は、自動生成プログラムの登場前に人間の中に存在していたことがわかる。ただ技術的に不可能だったものが可能になったに過ぎない。

打ち合わせでは、いろいろな話を聞きながら、創造することの根本について考えることがけっこうあった。期待の地平の此岸と彼岸についても。


〔参考〕 星野しずるの犬猿短歌